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セカンドライフ列伝 第16回 浦上玉堂(うらがみぎょくどう)

by staff on 2015/12/10, 木曜日

榎本技術士オフィス/榎本博康

第16回 浦上玉堂(うらがみぎょくどう)

大目付まで務めた男が50歳で脱藩、漂泊の文人への転生

 いささか前回から時間が経ってしまった。改めておさらいをすると、このセカンドライフ列伝とは、様々な先人たちの第二の人生を私の誤解と偏見をおそれずに紹介し、翻って現代に生きる自らの人生を省察することで、次のステップへの勇気づけにしたいという企画である。

 今回は浦上玉堂(1745~1820)、岡山藩の支藩鴨方藩(現在の浅口市で、倉敷市と広島県福山市との中間)で大目付まで務める上級藩士であったが、若いころから琴詩書画にふけることが多かった。しかし43歳で大目付役を罷免されて閑職に。そして48歳で妻安女が亡くなった2年後に、二人の息子春琴と秋琴(当時16歳と10歳)を伴い、琴を背負って出奔した。玉堂はその旅先から脱藩の届書を提出して、きっぱりと武家社会との縁を切ったのである。

 翌年、江戸を経由して会津藩に至り、藩の御神楽役として秋琴の出仕を決める。まず次男の就職が決まった。その後は春琴に京都で絵画の修行をさせ、自分は九州から奥州までの旅をし、有力者の家に寄宿しては琴を奏で、書画を制作する生活を続けた。

 やがて春琴は画家としての売れっ子になって行き、その分玉堂は疎外感を味わう。彼は自分の画風に変化を求め、65歳頃からそれが顕れる。そして68歳の時に描いた「東雲篩雪図(とううんしせつず)」は現代で国宝となった。他に重要文化財12点。(春琴に国宝、重文は無い。)

 晩年は京都に落ち着き、さらに文人としての日々を送る。そして76歳で天寿を全うした。(なお年齢は当時の習慣に倣って数えである。)

序章~奇跡の大叔母

 もちろん玉堂は幼名も武士の名前もあるが、名前だけでもややこしくなるので、本稿では玉堂で通すことにしたい。誕生は1745(延享2)年、父宗純(54)、母茂(40)の第4子という、遅い年齢の子であった。長男が早逝し、次は女・女と続いたため、あくまでも男子を得ようとの努力の結晶である。

 ところで浦上家は元々そう大役を務める家系では無かったが、玉堂の大叔母である於常(おつね)が鴨方藩の第二代当主池田政倚(まさより)の生母となったことで、藩内で軽からぬ位置を占めるようになっていた。その政倚が79歳で天寿を全うしたのが、玉堂3歳の時である。子が無かったため、三代は養子の政方となった。一方彼が7歳の時に父が60歳で没する。於常の努力もあって、すぐに玉堂は家督を継いだ。名ばかりであろうが役職も与えられている。この姿を見届けて於常は、玉堂9歳の時に大往生を果たした。正確には分からないが、100歳を超えていたと推定されている。この大叔母の奇跡のような長命が、玉堂の運命の大きな基盤を造ったことは確かのようである。

武士として、その1~家臣としての安定

 彼の姉も既に没していたため、母ひとり子ひとりの境遇になったこともあり、母茂は玉堂の教育に専念する。家運興隆の期待を一身に集めたが、玉堂も良くこれに応えた。茂女は時代を読み、既に武力の時代では無いとして、玉堂に武芸をさせなかった。学問を叩き込んだのである。10歳で岡山藩本藩の藩校に入学するが、その前に小学(学問の入門書)を読み始めていた。

 16歳で四代藩主池田政香に初御目見し、御側詰となる。この政香であるが、三代政方の側室の子であり、政方の隠居に伴い藩主となった。その頃鴨方藩は赤字経営が続いていて、岡山藩本藩のお荷物であったが、四代政香は一味違った人物であったらしく、本藩からの期待も大きかった。この政香が玉堂を江戸屋敷に呼び寄せたのである。末席のものをわざわざ江戸へとは異例である。時に政香は20歳であった。

 ということで、江戸で政香の側近としての生活を始め、また御国入りにもお供した。政香は学問を好み、岡山でも藩校で聴講した。玉堂が軍備増強を進言したことがあったが、政香は「その通りだ。しかしものには順序がある、まずは経済基盤の安定だ(意訳)」と答えたという。政香が得た正室はほどなく急逝し、周りが薦める侍妾は拒絶した。そして玉堂24歳の時に、政香は国元で急逝してしまう。政香の葬儀で玉堂はそのとりまとめという大役を与えられた。重臣を差し置いての、これも異例であった。

 第五代には弟の政直(まさなお)がなった。玉堂の1歳年下である。政直は新たな自分の側近を作らず、玉堂を従前通りに用いた。安定を得た玉堂は、28歳で妻帯した。やがて女児、そして二人の男児を得る。男児は後の春琴と秋琴である。

武士として、その2~エンジョイ江戸ライフ

 玉堂がどうして安定な武士の身分に安住せずに、趣味の世界を広げていったのかは、彼の本来の資質による所も大きいと思われるが、江戸屋敷という環境の影響も大きい。そもそも参勤交代制度は幕府が諸大名を統治する手段としてのみ理解されがちであるが、300以上の藩邸が江戸に密集しているということは、大変な情報交流の場でもあり、江戸文化吸収の場でもある。藩主はそうそう出歩けないので、側近達の活躍の場ともなる。経済政策や産業興隆という話題もあろうが、遊びのサークルにもなる。前者として、玉堂は玉田黙翁(もくおう)に学んだ。朱子学者であり、医学に通じ、殖産経済にも優れていたという。この方面でのネットワークが構築できた。

 しかし黙翁の人脈は、文雅の道にも続いていた。ネットワークに連なる医家の藍渓(あいけい)に、玉堂は30歳で弾琴を学んだ。すっかりこれに嵌ってしまい、凝り性の玉堂は35歳の時に大金をはたいて名琴を得たが、明の顧元章(こげんしょう)製作の古琴「霊和」である。そしてひとり弾琴をしながら楽しんだという。名を「玉堂琴」と変えた。

 そして36歳では谷文晁と結社して南画の方西園の「富岳図」を模写するなど画技の研鑽に励んだ。参考文献1では、30歳台の玉堂が、どこか「田園に帰した陶淵明」のような風情を伴ったまま、江戸で洗練された文人達の集まりの末席で、田舎者であることを恥じながらも、その才能を一歩ずつ磨き、また認められていった様子を想像している。

 また岡山でも、豪商の河本家の助けがあった。そこには膨大な古今の書物が蒐集されており、閲覧が可能なので、知識人達のサロンとなっていた。河本家は屋号を「灰屋」と言い、諸国物産卸問屋を営み、莫大な利益を得る一方で書画骨董・書籍を買い集めたという。三代一居(いっきょ)、四代巣居、五代一阿(いちあ)の三代に亘って蒐集した和漢書は710巻32,000冊であったという。同じく集められていた当代第一級の書画骨董もあった。ここで玉堂がどれほどの影響を受けたかは計り知れない。彼の著作の引用からは膨大な読書量が窺えるという。

 さらに参勤交代や公務を利用して、大阪でもネットワークを広げる。特に兼霞堂木村巽斎(そんさい)である。酒造家であったが酒は嗜まず、狩野派の画法を習得し、漢画詩文に長じていたという。玉堂より9歳年長であった。

 玉堂はこの交流の中で、後に自立して生きることができる、文人としての彼の価値と、それを活かすしたたかさとネットワークを身に着けて行くのであった。

<コラム1:琴と箏>

 日本で通常見かける「こと」は箏であり、日本で独自の発展を遂げたものであり、一般に13弦で本体の長さは6尺(1.8m)と大きい。

 一方本稿での琴は中国の古琴であり、7弦で本体長さは1.3m程度である。図1として示した、春琴による玉堂寿像でどんなものかをご確認願う。これであれば背負って旅ができる。(参考にクラシックギターは6弦で本体が1m弱である。)

武士として、その3~栄光と挫折

 玉堂は37歳で大目付役に昇進したが、後に43歳でその役を罷免された。さて地方の小藩の大目付がどのような職であるかは私には不明だが、家老職に次ぐような重職であろう。そこまで昇りながら、罷免、つまりくびである。その事情は伝わっていないが、本人は相当にショックであろう。

 役職を利用しての趣味三昧が理由のような説を見かけるが、どうだろうか。文献1の久保氏はその頃の史実からも、また玉堂が忠勤実直を看板に出世してきたという背景からも、ここに至って趣味優先で業務怠慢を指摘されるような脇の甘さは考えられないとのことである。記録に残るような権力争いがあったわけでもなく、何らかの業務上の過失があったわけではない。謎とする他にないが、罷免降格以上の御咎めが無かったことも、その謎を深める。

 この前年に母茂女が病没したが、罷免を知ることがなかったことは、せめてもの救いである。

 そして大取次御小姓支配に降格された。大いに失意ではあったが、さらに時間のゆとりができたか、45歳で「玉堂琴譜」を出版している。これは10年ほど前に既に私家本として簡易に出版していたもの、(ただし現在に伝わっていない、)を増補して公刊本としたものである。

 さて、異変は追い打ちをかける。46歳の時に「異学の禁」により河本家のサロンが閉鎖された。この異学の禁は、幕府が寛政の改革の一環として、朱子学以外の学問の講義を禁止したものである。

 さらに48歳の時に妻の安女が没した。この配偶者の死が、このセカンドライフのシリーズの中でも良く見かける転機である。

脱藩という転生

 玉堂は49歳で致仕、つまり引退届を提出した。長男の春琴は15歳であり、家督相続が可能なのに手続きをしないのである。だったら降格された7年前に辞めればとも思えるが、何に耐えていたのだろうか。妻の存在が大きいと思える。

 さて致仕ということで、表向きの活動を封印し、生活は大阪の巽斎の厚志に支えられたという。そして翌年、玉堂50歳の3月下旬に、春琴16歳、秋琴10歳を伴って、岡山城下から姿を消した。そして但馬国城ノ崎から藩庁に向けて脱藩届を提出し、大阪の巽斎のもとに転がり込んだ。

 異常な行動であるが、岡山本藩の記録によると、江戸時代を通じて藩籍離脱者は2千人に迫るということで、結構そこまで追い込まれるケースが多かったことが分かる。しかもサラリーマンの辞職とは全く異なる。武家は家が基本的な事業単位なので、その影響は家族・親戚や雇人等に及ぶ一方で、その特権的な地位を再び得ることは極めて困難なのだから。

自由人として~秋琴の会津藩就職活動

 玉堂はひどい親である。くどいようだが、男子の居ない家に養子に出すこともできたであろう。自分はともかく、子供までも武家にはしたくなかった、この覚悟の裏にはどれほどのことがあったのだろうか。

 さてしかし、なぜか玉堂は生活力が旺盛であった。次に彼は江戸に現れ、ここで琴教授所を開設するが、あっという間に評判が立ち、そこへ会津藩士の入門があった。時の会津藩主は五代松平容頌(かたのぶ)であったが、常々藩祖を祀る御神楽の伝承が廃れつつあることに心を痛めていた。この時、玉堂が音楽全般に詳しいことを聞き及び、藩の神楽師範である藩士を入門させたのであった。

 しかし雅楽は楽器の数も多く、一方藩士は本来の業務もあって、そうは技量を習得できるものでもなく、さらに帰藩して楽人にそれを伝えることもおぼつかないことは明らかであった。そこで玉堂を会津に招くように進言し、採用となった。

 玉堂は次男の秋琴のみを伴って、51歳の5月に会津に向かった。さっそく楽士の訓練にとりかかり、8月には3曲の試奏により、成果があがりつつあることを示した。そして翌年までの滞在を願い出で許可される。玉堂は会津藩の家風を好ましいと評価し、子の秋琴を会津藩の卑役にでも登用をと願いでたが、それは好意を持って受け容れられた。まずは若殿の近習という立場での江戸詰めである。会津藩は鴨方藩の本藩である岡山藩に、脱藩した者の子を採用することの了解を取り付けていた。

 玉堂は52歳の3月に、江戸勤務となった秋琴や他の家臣と共に江戸に戻り、春琴と再会した。玉堂にとって、会津はすばらしい所であった一方で、話のできる文人が居ない寂寞とした土地でもあった。

自由人として~エンジョイ京都生活

 玉堂の50歳台の残りは、京都での風雅な交流を通じた理想的な生活であった。京都の嵯峨野を拠点として、京都や大阪の文人達との交わりを能くしていた。ただし、資金提供者(パトロン)が居ての生活では無い。玉堂は琴の他にも新たな収入源を得ていた。書画骨董の鑑定業である。彼は美術品に対する真贋の目を持っていたので、彼に依頼するものが現れた。そのようなことで、珍奇な美術品に触れる機会が増え、収入も増えるという一石二鳥であり、この鑑定料は結構な収入になったという。

 53歳で「自識玉堂壁」なる文章を書き下ろす。曰く、弾琴(琴の演奏)や染筆(絵画の制作)は生活の道具ではなくて、自分だけの楽しみとすることが真の境地だ。しかし真の理解者は居ない。自分の大切な琴や、蒐集した中国の絵画などが私の理解者である。こんな己を自ら愚者と嗤い、客も私を愚者と笑って去る。私は自らこれを壁に書く。(以上、超意訳)(注:壁書とは命令などを役所の壁に書いたものであり、翻って彼自信の宣言文と理解する。)

 とか何とか常套的な文言を重ねながら、この老人(このあたりから適宜、玉堂を老人と呼ぶ)は生臭く、名声への執着がはなはだしい面が窺える。彼は武士として挫折し、一方文人としてうまく生きていく術を巧みに身につけて、昼はさわやかな文人を装いながらも、夕べには激しくも絶望的に遠大な自己実現への思いに、この隠居するべき年齢でありながら悶々としていた。

 その傍ら、長男春琴は着実の絵画の腕をあげ、花鳥風月をとり入れた分かりやすい図柄でファンを獲得しつつあった。

<コラム2:玉堂の琴の腕前>

 玉堂は国宝となる絵画があることから、現在では画家として理解されることが多い。しかし本人は琴士を名乗って、琴の演奏を本業としている。当時の多くの文人・学者等が彼を音楽家として記述しているということからも、裏付けられる。

 ではどの程度の技量であったのか、録音が無いので確認のしようがない。当時の記録の中には、酷評したものもあるという。しかし彼の音楽は古典を尊びながらも独創的なものであり、形式的な評価からは逸脱していたのかもしれない。残された楽譜からの分析では、拍にとらわれない自由な旋律と、各フレーズの終わり方が同音の繰り返しという特徴があるという。 >

 また出版された楽譜は比較的演奏しやすいものが主体とのことで、彼の超絶技巧がどれほどのものであったかを知ることはできない。ただ確実に言えることは、彼が琴の演奏と琴の製作で主な収入を得ていたことであり、また自分の世界に浸って忘我の境地で弾琴していたことが、多くの文人によって書き残されていることである。つまり琴は玉堂の一部であり、他人が上手下手を論じることを超えたものである。

自由人として~自己再発見の長崎の旅

 60歳で長崎を目指した。なぜ?きっと行きたかったのだろう。京都を中心とした生活では、彼の沸々たる思いを発散しきれなかったのだろうか。ほとんど青春の病と同じと理解したい。熊本での消息は伝わっているが、情報の無い長崎も行ったことにしよう。九州には半年程度滞在した。

 老人の旅行は我々とは大いに異なる。各地のお金持ちディレッタント人脈を辿って数日、時にはもっと長期に逗留し、琴を弾いて、絵を描いて、時に教授して、京大阪の世間話をして、路金と次の家への紹介状を得て腰を上げる。娯楽の少ない時代だから、旅芸人と似ているが、そこは文化人・教養人としての矜持を保ったものだ。しかし琴を背負った老人の旅姿は、さぞかし人々の興味を惹いたであろう。

自由人として~白水帖の奥州の旅

 さて、玉堂が九州の旅から京都に戻ってくると、会津から藩命による雅楽の修行で京都に滞在していた秋琴と再会する。結婚もして、生活は安定しているということで、安堵する。そして親子合作の絵を描いた。

 さらにこの62歳で李楚白「山水帖」を手にいれた。これは池大雅(1723~1776、江戸時代の文人画家、書家)が愛蔵したもので、玉堂は大金を用いて購入した。老人はしっかりと儲けていたので、自分に投資ができた。この帖は十一の山水画が収められているが、その絵の余りの確かさに、老人は打ちのめされる。これにはとうてい敵うものではない。

 そこへ、江戸から春琴が戻ってきた。次第に頭角を現し始めた息子に、良い手本としてこれを与えようとも思ったが、既に息子も絵画の領域では自分のライバルというか、春琴の方が既に世間の評価が高い。玉堂の前には具体的に春琴という小山と、山水帖というエベレスト山が立ちはだかっているのを感じた。62歳の老人だからと言って、そう感じることに何の不思議があろうか。そうこしている中に、春琴は西方へ修行の旅に立ってしまった。

 とうとう玉堂の内部でフツフツとしていたマグマのようなエネルギーを発散する導火線に火がついてしまった。64歳で奥州への旅に出る。今度は琴を背負っただけでなく、油紙に包んだ李楚白「山水帖」も携行して、だ。かつて会津で垣間見た奥州に山水帖の原風景を求め、登り得ないと絶望した絵画の高山への挑戦であった。

 この時の足跡は、水戸、足利、高山と残っており、同年の秋には加賀(金沢)に到着している。おそらく翌春であろうが、会津に秋琴を訪ねている。この頃は、太平の世が続いたこともあって、玉堂のように旅するものも多かったと見えて、「物売り、画家、俳諧師お断り」との貼り紙が少なからずあったとか。そのような旅をすることでしか、生活できない者達もあった中で、この老人はエリートであった。

 そして還りは京都を通り越して、六甲山下を経由して伊丹に至る。64歳だった。この支援者宅に投宿し、十二図から成る「煙霞帖」(現在の重文)を描く。66歳にして、ついに老人は独自の画風を確立することに成功した。山水帖の影響からは、ほぼ脱していたという。(本稿は絵を語るものではなく、また私が言葉でそれを語れる分けもないので、この点は回避する。)

自己表現を極める

 玉堂が京都に戻ったのは、67歳の春になっていた。そこに西遊していた春琴が戻ってきたので二条城の北に親子で定住し、老人は山水帖を春琴に贈与した。また春琴は結婚をして、益々安定した。

 ついに翌年、玉堂は68歳で後の国宝となる「東雲篩雪(とううんしせつ)」図を描く。以下は久保氏(文献1)の受け売りに無謀な付け足しを試みたものである。

 自己表現の手段として、玉堂は主に琴と絵を持っていた。琴の音色は残るものではなく、いくらでも弾きようがあり、また第一人者としての自負もあった。しかし絵画はそうではなかった。描かれたものに、その技量の程度と共に、余りにも自分がさらけだされてしまうのである。形式や様式に関心の薄い玉堂にとって、絵画表現とは逃げ場のない世界である。煙霞帖はひとつの到達点ではあるが、そこまででしかない。

 あの、秋琴を伴って過ごした17年前の会津での一冬、あの時の懊悩こそが、真に自分が在った時ではないか。老人は画布を前に、やっと17年前の自分に向かい合うことができた。玉堂は大胆に構図を定め、そして墨を塗り重ねた。これは水墨画ではタブーの画法であるが、そんなことは関係無い。ただ老人は画布の上で玉堂をぎゅうぎゅうと絞ってその体液を塗り込めた。

玉堂の日常

 さて、ここで彼の友人らが描いた玉堂の日常を紹介しよう。要点を図3にまとめた。はっきり言ってカッコ良すぎて、私はそのまま信じていはいない。以下は全て私の意訳であり、いろいろとご容赦を。

<証言1> 皆川淇園(きえん)、10歳年長の儒学者。玉堂50歳、脱藩の年のコメント
「彼の詩は、彼の画から生まれる。その画は、彼の琴から生まれる。それらは彼の中で一体で循環している。」

<証言2> 田能村竹田(たぬむらちくでん)、春琴の友人。玉堂63歳、奥州旅行の前年
「毎朝早起きする。部屋を掃除して香を焚く。そしていよいよ琴を弾き、朝酒を2、3杯やる。」

<証言3> 田能村竹田、さらに後に評する
「玉堂も古人と同じに、酒の勢いを借りて画を作る。酔うと天啓を得て、人の作為は消える。飲むと筆使いが滑らかであるが、醒めてくると止まる。だから一幅の画を描くに十数回酔う。連作に至っては神の領域からインスピレーションをいくらでも掬ってくる。でも酔っ払いすぎると、これはだめだ。」

<証言4> 頼山陽、玉堂より35歳年下。玉堂の碑文
「画を請われると、酒で筆を潤した。うっとりとして筆を下すと、そこに描きだされる世界は気韻が高く、あたかも彼が弾く琴のようであった。」

<コラム3:陶淵明との違い>

  陶淵明は官職を辞して故郷に帰り、晴耕雨読の隠遁生活を送りながら詩作した。玉堂と似ていないこともないが、ずいぶんと違う。

  1. 官職を、陶淵明は自ら辞し、玉堂は降格の果てに脱藩した。
  2. 生活基盤は、陶淵明は安定した荘園主、玉堂はたくみに自分の才覚で稼いだ。
  3. 作品は、陶淵明はいわゆるファッション隠遁者であったと思われ、その詩もそのような視点でみると、文学性は高いものの、何とも嘘くさい。玉堂も<証言>にあげたような、カッコをつけているが、これは営業の一環と理解する。彼は人の評価を気にし、息子にすら嫉妬する。そんな中で東雲篩雪図に至る過程は、正に現代的な芸術家像と何ら変わる所がない。

(浦上玉堂の回なので、持ち上げております。)

最晩年

 その後も玉堂らしい生活を続けたが、旅行はめっきりと減り、72歳では近隣の小旅行に留めた。それでも74歳で描いた「秋色半分」図は、後に重文となる。

1820年(文政3年) 9月4日に京都で没する。76歳。

(2015.12.1)

(異例の)あとがき

 前回第15回「范蠡(はんれい)」を書いてから、何と1年以上を経過してしまいました。その時点で浦上玉堂の資料調査も構想もできていたのですが、どうしても書く時間がとれませんでした。今年になって、自由題で講演する機会があったので、6月に浦上玉堂「武士を捨てた漂泊の文人」としてパワポを作って登壇しました。すぐに文章化できると思っていたのですが、さらにここまで時間が掛かってしまったのは、何とも不甲斐ない思いです。

 さてセカンドライフの題材は多くあり、そのどれもが深い。ヨコハマNOWでは、ヨコハマ・ドリームを目指す自由で独創的な生き方を応援していますが、そのための多様なテンプレートを提供できればと願い、今しばらく連載を続けることに致します。

主な参考文献

  1. 久保三千雄:浦上玉堂伝、新潮社(1996.5)
  2. 下定雅弘:浦上玉堂の詩-その陶淵明への敬慕-、書法漢學研究(2007,7)
  3. 小林忠:音楽と詩を絵にした山水画家浦上玉堂、UP35巻11号(2006.11)
  4. 高橋博巳解説:玉堂-琴・詩・画・友-、玉堂琴士集、太平書店(2008.4)
  5. 森銑三、浦上玉堂傳の研究、美術研究別冊(1939)

お詫び:資料収集から執筆までの時間経過の中で、出典が不明となってしまったものがあります。ここに掲載できませんことを、お詫び申し上げます。


図1 玉堂寿像 浦上春琴筆(wikiパブリックドメイン画像)


図2 浦上玉堂足跡略図(資料より作成)


図3 玉堂の日常(資料より作成)


図4 浦上玉堂画 東雲篩雪図(wikiパブリックドメイン画像)

榎本博康(えのもとひろやす) プロフィール

榎本博康(えのもとひろやす)  

榎本技術士オフィス所長、日本技術士会会員

日立の電力事業本部系企業に設計、研究として30年少々勤務し、2002年から技術士事務所を横浜に開設して今日に至る。技術系では事故解析や技術評価等を専門と一方で、長年の東京都中小企業振興公社での業務経験を活かした企業支援を実施。著作は「あの会社はどうして伸びた、今から始めるIT経営」(経済産業調査会)等がある。趣味の一つはマラソンであり、その知見を活かした「走り読み文学探訪」という小説類をランニングの視点から描いたエッセイ集を上梓。所属学協会多数。エレキギターのレッスンを始める。

 

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