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高野慈子の「四季・色・贅・食」 第10話 ホットケーキ

by staff on 2016/6/10, 金曜日

 

午後7時、仕事を終え店を閉め、それから片づけをして店を出るのはいつも午後7時30分を回った頃となります。それから夕食のお買いものに行くのですが、近所の商店も終わっていますから、夕食のお買いものは横浜駅東口デパートの地下食品売り場になります。

午後7時30分を過ぎる頃からデパ地下は値引き合戦が始まり、まるで戦場のようになります。
魚や野菜売り場のケース前では、店員が「xx%OFF」とか「半額」と書かれたシールを値札に貼りかえるのを待つ人だかりができています。
ほぼ日参している私は慣れたもので、3つ1,000円がもう少し待てば4つ1,000円で売り出すことや、30%引きのものが何時頃から半額になるのかを知っているので、お買いものルートを決めて店内を右へ左へ、行ったり来たり速足で歩いております。

 
そんなデパ地下で値引きをしない売り場があります。デパ地下入口付近を占める和洋菓子のコーナーです。6月の季節のフルーツ「いちぢく」や「さくらんぼ」をふんだんに使った洋菓子がケースの中狭しと並べられています。
2口か3口でペロリと食べられそうな大きさのケーキが1個500円以上しています。会社帰りのOLさんでしょうか? ケーキ売り場は若い女性で賑わっています。生鮮食品売り場がもと若い女性で賑わっているのとは違って、こちらはいつも華やかです。

ケーキの話

私は昭和29年生まれです。私の年代の人にとってケーキと言えば『不二家』の苺のショートケーキ。お誕生日とかクリスマスなど特別の日にしか食べられなかったのが『不二家』のデコレーションケーキです。
戦後、『不二家』は日本全国の子供達に美味しい洋菓子通して感動を伝えたいと『不二家』をフランチャイズ化して行きます。駅前のケーキ屋さんが『不二家』だったとご記憶の方も多いのではないでしょうか?


クリスマス:弟と私とデコレーションケーキ

私が小学校低学年の頃に暮らしていたのが、東京都中野区の橋場町というところで、近くにケーキ工場がありました(不二家の工場ではなかったと記憶していますが???)
 学校から帰るともっぱらケーキ工場の前の道路で近所の子供達と遊びました。なぜ工場の前なのでしょう? ケーキ工場の職人さんがケーキ(カステラ)の切れ端をくれたからです。「駐車場には危ないから入らないでね。道で遊ぶと車が来るから、これを持ってお家に帰りなさいよ」とビニール袋にちょっと焦げたカステラや成型時に切り取った端っこ、崩れたケーキを詰めてくれるのです。マーマレードが付いていたり、チョコレートが付いているときはラッキーでした。

小学校4年生の2学期に埼玉県の入間郡(今のふじみ野市)に引っ越しました。引っ越したばかりのある日、外で遊んでいると近所のおじさんに呼び止められました。「君のこと、知っているよ」・・・3軒となりに住んでいる「おじさん」は橋場町のケーキ工場の職人さんでした。

ホットケーキの話

還暦を迎えて中学校の同窓会があり、久しぶりで埼玉県ふじみ野市に帰りました。

埼玉県ふじみ野市上福岡は、私が引っ越した頃は入間郡大字福岡町で、その後上福岡市となりますが、今は市町村合併でふじみ野市になっています。当時の福岡町は駅前商店街から中央通りにかけては商店があり、通りを一歩入ると畑が続き、雑木林も残っていました。

小学校は2つあり、福岡町立第二小学校は団地の近くで、都内で働くサラリーマンの子供が多く、都内からの転入生が多い小学校でした。私が通った第一小学校はどちらかと言えば地元の農業従事者の子供が多い小学校でした。2つの小学校の生徒は中学校で1つになります。都会っ子と地元っ子、それぞれのプライドを掛けた3年間のバトルが、懐かしい思い出になっています。

さて、同窓会の会場で昔話に花を咲かせていると、どの人も「お母さんが作ってくれたホットケーキの味が忘れられない」と言います。ある親友など「ホットケーキが食べたくて友達になった」と言い出すありさま。。。当時、『ホットケーキミックス』なるインスタントホットケーキの素は既に発売されていましたが、まだまだ高嶺の花、地方の食料品店では売っていませんでした。
農家の忙しいお母さんにとって、小麦粉と膨らし粉、バター、牛乳、卵、お砂糖で作るホットケーキは『作るのが面倒くさいおやつ』という訳で、ホットケーキを食べたことがない子がおりました。「友達になってあげる」「仲間に入れてあげる」と言って、おやつ目当てに私の家に遊びに来ていたようです。

母にその話をすると「知っていたわよ」とあっさりと言われました。お友達が遊びにくると「おやつは?」と聞かれたことがあり、ホットケーキでない時はとてもガッカリされたと言います。ホットケーキばかりだと私が嫌な顔をするので、同じ生地からドーナツを作ったり、蒸しパンやカップケーキ作ったりして「お友達が来ない時は、用意していた材料を使って工夫しておやつを作ったのよ」とも言われました。

不二家の話

『不二家』は横浜発祥の洋菓子店です。戦後、甘いお菓子に飢えていた日本の子供達に「美味しくて安全なお菓子を食べさせたい」と言っていた藤井社長(何代目?)は夫の父(亮三)の戦友でした。義父の戦友会のお土産は、いつも甲府ぶどうと不二家のパウンドケーキの詰め合わせでした。

嫁ぎ先の(株)高野商店から近い『不二家』は藤棚商店街と日の出町駅前、そして伊勢佐木町にありました(今も営業中の店があります)。伊勢佐木町の『不二家』が本店で、1階が売店、2階がレストランでした。

『不二家』のレストランは私が子供の頃は「憧れ」のお店で、ソフトクリームを注文すると紙のエプロンがもらえました。私はこのエプロンが欲しくてたまりませんでした。

子供が生まれてから、伊勢佐木町の『不二家』に食事に行くことが増えました。こんなにファミレスがある今と違って、子連れでゆっくりできるレストランが少ない時代でしたから、伊勢佐木町の不二家レストランはいつも家族連れで混んでいました。

時代は移り、洋菓子店も増え、高級洋菓子店がデパ地下に並ぶようになり、全国の子供達に夢を届けるのが『不二家』でなくても良い時代になり、『不二家』は不祥事を起こしました。結局、山崎パンの傘下に入り現在に至っています。

私は時々『不二家』のケーキが食べたくなります。美味しいものが溢れているこの時代ですが、不二家のケーキには子供の頃の『幸せ』な思い出が加味されていて、無性に食べたくなるのでしょうか?

不二家: http://www.fujiya-peko.co.jp/


藤棚商店街の不二家/グーグルマップから

 

高野慈子プロフィール

 

2014年10月に還暦を迎え、ますます元気なおばちゃんです。
実家はレコードの小さな町工場でした。
音楽家の多いファミリーツリーの中では、異色の人生を送っています。
アリゾナに1年間英語の勉強に行きましたが、素晴らしいインディアンに出会い、自然体で生きることを学びます。いろいろなボランティア活動・反戦活動を始めたのもこの頃かしら?

学生時代、弁論部だったことがあり、多くの政治家の選挙運動のお手伝いをしたことから、政治・経済にも強い関心がある「おばちゃん」。
アメリカから帰国し、OL時代は会社に内緒で訳詩・作詞のアルバイトをしたこともありました。また、OL時代は某会の映画モニターになり、某映画評論家の会にも入っていました。

横浜で一番古い冷凍・冷蔵・空調・エアコン部材店の高野商店に嫁ぎ(店と結婚したわけではないけど。。。)「冷たくしてごめんなさい」をキャッチコピーにして日々頑張っています。

2001年から2010年まで、中小企業の集まる会に所属し、そこで知り合ったIT業界の人からツイッターやfacebookを知り、facebookでは「高野家夫婦の会話から」が笑いを取っています。
その人の娘さんが作曲家で、「青虫もんじろちょう」が子ども向けの曲となり、ユーチューブにアップされています。(安希子はペンネーム)

2015年現在、本業の他に、NPO横浜カーフリーデーの副理事、ヨコハマNOWのプロデューサー、神奈川ドイツワイン協会のメンバー。

映画とオペラとミュージカルが大好き、ジャンルを問わず、JAZZやロック、シャンソン、ラテン音楽のコンサートやライブに顔を出し、頑張っている音楽家を応援しています。京都人の父と新潟人の母のDNAを受け、東京生まれ、埼玉育ち、横浜暮らしの「おばちゃん」です。

facebook:https://www.facebook.com/go.yasuko.gogo

あおむしもんじろちょう:

 

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ランニングが大好きで、月に150kmほど走っているというヨコハマNOW編集長の辰巳隆昭が、お気に入りの新横浜公園のランニングコースを紹介します。
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