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横浜グローバルビジネスコミュニケーション会長 笠原光子さん

by staff on 2020/12/10, 木曜日

人生は波乱万丈、決して平坦な道ではありません。辛くて悔しくて諦めかけた時「大丈夫、諦めないで道はあるのだから」と声を掛けてくれた人がいました。今回ご紹介する笠原光子さんです。その優しさに、私は「救われた」と思いました。あれから10数年を経てインタビューをいう形で再会できました。初めて知った笠原さんの人生もまた波乱万丈の人生でした。

笠原光子さん
笠原光子さん
 
お名前 笠原(赤嶺)光子
お生まれ 昭和26年8月8日
沖縄県うるま市津堅島生まれ
お住まい 横浜市西区
ご家族 息子
お仕事 (有)横浜グローバルビジネスコミュニケーション 会長
活動 大通り公園水の広場愛護会(花ボランティアK)
沖縄県人会
愛の一族ガーデン(津堅島)
人と人を繋ぐお世話

 

2020年 『東京オリンピック』は大輪のお花で来日客をおもてなしの筈でした

今年(2020年)の夏、大通り公園水の広場の花壇はバラやタチアオイ・タイタンビカスの大輪の花が咲き誇り、それはそれは美しかったです。実は、東京オリンピックに合わせて7月~8月にたくさんの花が満開になるように育てていたのです。準備は大変でしたが、花たちは本当に正直で、手間ひまを掛けた分が形なって返って来てくれました。近くのホテルの窓からも満開の花は見ることができて、来日客の最高の『おもてなし』になったことでしょう・・・残念ながらオリンピックは来年に延期になりました。それでもコロナ禍の中で公園を訪れた多くの方が花を楽しみカメラを向けていました。

タチアオイの大輪の花々(大通り公園水の広場)

大通り公園を散歩して見たこと

私がボランティアで大通り公園水の広場の花壇に花を植えるようになって12年が経ちました。始めたのは2009年です。2004年に弟を2007年に妹を続けて亡くしました。その悲しみで意気消沈し、気力や意欲を無くし、ビジネスの第一線からも退きました。何もしたくない、外へも出たくない、そんな憂鬱な日々が一年以上続きました。これでは自分の健康を壊してしまうと散歩に出かけるようになりました。そして『大通り公園』を散歩のルートにしようとした時に、知人から「大通り公園? 汚いし、一人で歩くのは危険かも」と言われて確認しに行ったのが「始まり」になりました。

「どうしたら公園がきれいになるのか?」と自問自答しました。水の広場には花らしきものはなく木の根がはり、ゴミ捨て場のようでした。犬のお散歩でも飼い主は後始末せずに行ってしまうのでフンやオシッコの臭いがしていました。 ホームレスの溜まり場となっている場所もお酒の臭いや立小便の臭いがしていました。花壇とおぼしき所は雑草だらけでした。

「花を植えよう! 花を植えたらよくなるかも」と思い、水の広場のワシントンホテル側の樹木の回りから花を植え始めたのが2009年のことでした。

『大通り公園水の広場愛護会(花ボランティアK)の設立

実際に花を植えてみて、これは大変なことだと実感しました。必要な道具はないし、樹木の下は根がはり、土は踏み固められていて、掘れば小石がゴロゴロと出てきました。やりかけた以上は「あきらめない」という私なりの信念で、自力で苦戦しているところへ、知人から『横浜市には「公園愛護会」というのがあるらしい・・』という情報が入り、発起メンバー約30名が集まり「大通公園水の広場愛護会(花ボランティアK)」を2011年8月に設立しました。

横浜市からは年間の活動費として3万円が支給されることになりましたが、ホース、鍬、スコップ、ゴム手袋など作業に必要な経費や水分補給のためのお茶など、全てをカバーするには到底足りるのもではありません。30名登録していたメンバーも「笠原さん、これは無理だわ」と水の広場に出てこなくなりました。残った数名でのボランティア活動は苦しく厳しいものでした。

2015年に愛護活動が5年続いた証と活動メンバーを勇気づける意味も込めて『横浜市環境活動賞』に応募しました。2016年の最終選考の場で「これからの将来の展望」を聞かれ「僅かばかりの人数で活動していくのは厳しいです。行政と共に環境美化に取り組まなければ、地域の皆さんも動かないのでは・・・」と正直にコメントしました。結果は「将来性がない」と評価されてしまい、再審査となりましたが、第23回横浜市環境活動賞では『市民の部 実践賞』を受賞することができました。そして公園の片隅に念願の「倉庫」を設置していただきました。それまで花壇整備に必要な道具を自転車や時にはタクシーを使って運び入れていました。増えていく道具置き場に困っていたので「倉庫」は本当にありがたかったです。とは言え、賞を受賞したからメンバーが増える訳でもありませんでした。

大通り公園水の広場愛護会(花ボランティアK)

設立から10年を経て、facebookやブログなどで活動を紹介したものを見て、ボランティアに参加してくださる方が増えてきました。50~70代の方たちです。公園の美化活動を根付かせる為には近隣の住民や企業からのボランティアや若者達をどう取り込めるかが課題となりました。今後は有償ボランティアの必要性を感じます。また、私自身の個人的な役割は終わったと思っています。あとはどう行政と市民の活動に繋げていくのか、関係各位のご尽力をよろしくお願いいたします。

津堅島で生まれました

私が生まれた津堅島(つけんじま)は沖縄県うるま市のへしきや港から高速艇で15分くらいの所にある小さな島です。当時はポンポン船でしたので50分はかかりました。波が高い時は「なかなか着けん」島なので津堅島と呼ばれるようになったそうです。

当時の人口は2000人くらい、現在は1/8になってしまいました。半農半漁で生業を立て、自家消費用に豚、やぎ、鶏などを飼っていました。戦前は津堅大根が有名で、他の島から移住してくる農民で島は栄えておりました。土地が根野菜に適しているのでしょうか、現在は「キャロットアイランド」と呼ばれるぐらい「にんじん」が有名です。また、「棒術の発祥の地」と言われるように琉球王朝時代には戦乱で逃げ延びた貴族や警護人によって棒術が島民にも伝授され発展した歴史を持つ島です。

第二次世界大戦の1945年に激戦地となり村全体が焼失しました。焼野原となった地に島民は借金をして家屋を建てました。その家屋も台風シーズンになると傷んだり壊れたりして修復の費用が嵩みました。

兄弟姉妹が6人(1人は亡くなったので実際は5人)で私は上から2番目の長女。雑貨店を営んでいた大家族の我が家も借金をして家を建てていました。けっして裕福ではありませんでしたが、青い海と緑の大地、輝く太陽、豊な自然に恵まれ幸せに暮らしていました。

借金の返済は小さな島に住む島民にとっては重く、父は仕事を求めて沖縄本島に引っ越すことにしました。本島では、父の仕事の関係で転校ばかりしていて親友ができませんでした。そこでも私は男勝りのガキ大将でした(笑)弱いものイジメが大嫌いで正義感に燃えていました(笑)。分からない科目があると「教え方が悪い」と先生に抗議に行きました。今の私の原点はここにあると思います。

沖縄タイムズ2019年5月22日記事

定時制の高校へ・・・培われた「あきらめない」という精神

当時、沖縄は日本に返還されていなかったため、本土に行くことは外国に行くような感じでした。パスポートが必要だったのですよ。通貨も沖縄はドルでしたから。

高度成長期に入った本土では「中卒・高卒」は金の卵と呼ばれていました。そんな「金の卵」を求めていろいろな企業が沖縄にやって来ました。「定時制の高校に通わせる」ことを条件に、私は大阪の紡績工場に就職しました。当時は珍しい女性の社長だったので安心感がありました。

15才で一人船に乗り大阪に着きました。迎えに来てくれた人と煤けた機関車に乗りました。初めて見る大阪は、これから始まる生活への不安と重なって薄黒く見えました。

紡績工場では糸取りの仕事でした。寮では朝の4時に起きて、食事と片付け、工場の仕事は5時に始まりました。紡織機に送り込む糸が切れていないかチェックし、切れた糸を結ぶ仕事です。糸で手は切れ、冷たい水が凍みました。辛い仕事が終わるや否や休憩も取らず定時制の高校へ通いました。学校で落とした単位は通信教育で取得しました。脱落していく子が多い中、「決してあきらめない」精神が培われていきました。

兄も大阪に出て来て働いていました。両親は兄よりも私を頼りにしていて、紡績工場の給料の中から仕送りをしました。弟や妹がいて「この仕送り」で家計が助かっていたと思います。

閉ざされた大学への道、でも学問への情熱はあきらめなかった

定時制高校は4年制で、仕事をしながら4年で卒業するのは難しいのですが「決してあきらめない」頑張りでやりとげることができました。得意だったのは英語、沖縄本島では英語表記の看板など英語で書かれたものを常に目にしていたので、本土の人よりも慣れ親しんでいたからなのでしょうか?

大学受験に向けて準備をしている時に父が病に倒れて亡くなりました。沖縄で葬式を行うために、兄の交通費や葬儀費用の殆どを私が捻出しました。大学、せめて短大に行きたかったという夢はここで閉ざされました。

高校卒業を機に転職を考えました。女の子で一人暮らし、実家は遠く離れた沖縄にあるということで再就職先はなかなか見つかりませんでした。高校の推薦もあり「ぎょうせい」という法令出版社に再就職できました。出版社に勤めながら英語学校にも通いました。学問への情熱はあきらめませんでした。

英語教育との出会い

その英語学校で夫と出会いました。7才年上で商社勤務の夫とは大阪で結婚式を挙げました。その後夫は東京へ転勤になり、私も神楽坂にある「ぎょうせい本社」に勤務することになりました。横浜の鴨居にマンションを借り、その後足立区の公団住宅、そして公団住宅の分譲型の100坪の土地が当たって横浜市に引っ越してきました。私は妊娠を機に「ぎょうせい」を退職し、家庭に入ることになりました。

息子は聴覚に軽い障がいを持って生まれました。そのせいか小学校でイジメに合うようになりました。子供同士、遊びの中から学んでいくものがあります。地域の子供とどうしたら仲良くできるのか考えた結果、自宅で子供の英語教室を開くことにしました。

教え方が上手だったせいか(笑)小学生の生徒の中に英検4級に受かる子がいて、教えていくのに自分の勉強不足を感じるようになり、山手にあった横浜外国語ビジネスカレッジ(YGBC)でプライベートレッスンを受けるようになりました。

そのYGBCが移転になることになり、その関係者と桜木町駅近くで英語学校を開校することになりました。その頃、ビジネス英語のニーズが高まっていて、通勤前の早朝英会話レッスンはNHKニュースの取材を受けるほど話題になりました。英語教育のブームに乗って事業は順風満帆に見えました。

マネージメントを学び起業家への道を歩む

「横浜外国語ビジネスカレッジ」の運営が軌道に乗っていた最中に、経営権を巡ってバトルが起きました。会社の立ち上げから関わっていた古株の私は邪魔ものになりました。やがてこの会社を去らなければならないと思った時、「退職すること」を条件に2年の猶予をもらいました。

この2年間に私は産業能率短期大学に入りました。ゼネラルマネージメントのクラスでした。経営のことを学ぶ必要性を身をもって感じていました。経営権を掛けたバトルは勉強しないと太刀打ちできないと感じました。このくやしくて辛い気持ちを勉強にぶつけました。勉学は広範囲に及びます、読まなければならない本や宿題・・・家庭と仕事そして勉学との両立に疲れてくじけそうになった時、年下の同級生から励まされ助けられました。ここで私は仲間の大切さを学びました。

2年後、短大を卒業した私は、個別指導中心の英語教室「ジョージKニノミヤ英語クリニック」をビジネスカレッジのパートナーと共に作りました。スクール名に「クリニック」を使ったのは私のアイディアで、日本で最初でなかったかと思います。会社経営するにあたっては、ビジネスとして敗したパートナーが再び代表に就任するよりも、私が代表となって新しいやり方で進めようと決意しました。

個別指導でビジネスマンのスキルアップにも繋がり、「英語クリニック」は官公庁や企業の研修に講師を派遣する仕事も増えました。

アトランタオリンピックで学んだこと

短大で学んだ知識を生かすべく、ビジネスのアドバイザーの仕事が入るようになりました。有限会社横浜グローバルビジネスコミュニケーションはこうして生まれました。英語学校の乗っ取り事件で、悔しい思いをしたことも、再建に関与したこともアドバイザーとしての貴重な体験になりました。

有限会社グローバルビジネスコミュニケーションの仕事は、不利な条件下にある「人」「物」を「どうしたら良くなるのか」と考え、弱点を強みに替える仕事です。ビジネスはもとより選挙活動のアドバイスまで手がけました。利益を度外視しても「考えること」が面白くて多くの時間を費やしたものです。

有限会社の代表取締役となり、代表だからできる人脈作りに力を注ぎました。商工会議所、日経懇話会やライオンズクラブなど時間の許す限り顔を出しました。そんな土台作りをしている時に「アトランタ オリンピック」の応援に行く話が来ました。開会式から閉会式まで各競技を応援します。会社をスタートしたばかりで経費も時間も掛かることなので躊躇しましたが、「笠原光子壮行会」が開かれカンパや寄付を募ってくれたりと支えてくれる人達がいて実現できました。「今ある機会を逃したら次に機会は来てくれない」「今できることは今やろう」「出来ると信じて天は今チャンスをくれるのだ」と思いました。

オリンピックおじさん故山田直稔氏と

アトランタでは、「オリンピックおじさん」と呼ばれた山田 直稔さんのとなりで「オリンピックおばさん」に扮して応援しました。オリンピックの祭典の裏側も見ることができました。ボランティアが祭典の裏側を支え、選手や外国からのお客様が快く過ごせるように気配りする様子を目の当たりにし、勉強になりました。

2019年から2020年にかけて、アトランタで経験した「おもてなし」を東京オリンピックで倍返しするべく大通り公園の水の広場の美化に力を尽くした1年でもありました。

2000年、九州/沖縄サミットで沖縄ブーム到来

アイディアを持つ人とそれを使う人、人と人を繋ぐ場所としてコミュニティサロン「ハイビスカス」を開くことにしました。沖縄から上京して来た妹と一緒に始めたサロンでしたが、15才から本土で暮らす私と、沖縄の豊かな自然の中で育った妹とでは流れる時間の速さまでが違いました。妹は1年でこの仕事を辞めてしまいました。

九州/沖縄サミットが開かれた年は「沖縄ブーム」が起こり、沖縄民謡の節回しで、沖縄の方言で、歌が流行し、民族楽器を使った音楽が街角から聞こえてきました。沖縄で撮影された映画「ガマ月桃の花」が話題になりました。

琉球王朝の使節団を再現しました

「もっと沖縄の文化や芸能を知ってもらいたい」と考え、毎年5月3日に開催される「横浜国際仮装行列に出るのはどうだろう」と思い至りました。琉球王朝の使節団が江戸幕府に行く途中に横浜を通ったということにして、琉球花笠を被り紅型の民族衣装を着た女性、エイサーを踊りながら歩く若者、三線(蛇三味線)と太鼓の奏者、その髪結いや着付けを手伝う人も含めた一行を沖縄から呼んでくるといった企画を「ハイビスカス」で賛同者や支援者を集めて練り上げました。

企画の実現には「首里城」の協力が必要でした。「決してあきらめない」私は協力を得るために、元沖縄開発庁長官ご夫婦に国王と王妃に扮していただき、パレードの先頭に立ってもらうことにしました。立つと言っても実際は車に乗っていましたけれど(笑)・・・結果、首里城の協力が得られ、スタッフや国王と王妃や出場者の衣装及び機材一式を首里城から借りることができました。

次は資金集めです。 一生に一度のこと二度とはできないと思い、背水の陣で資金集めを行いました。それにあたっては、「ハイビスカス」のお客様からもいろいろとお知恵をお借りすることができました。募金活動で寄付金が集まりました。それでも全額をカバーするには及ばず、私個人の負担は大きかったです。

パレード本番では、4.4kmを素晴らしいパーフォマンスで歩ききりました。苦しい時もありましたが、それに勝る達成感で体が震えました。関係者の方々への感謝の気持ちでいっぱいになりました。

手に持っているのはパレードの写真です

残念なことに沖縄を代表する観光名所『首里城』は1年前に焼失してしまいました。皆様のお力をお借りして再建できることを願っています。

愛の一族ガーデンのこと

私の名刺には笠原という苗字に続いて旧姓の「赤嶺」と入っています。「赤嶺」は沖縄由来の苗字なので、沖縄県人が見れば同じ出身地だと分かります。沖縄県うるま市津堅島の故郷にある家は、住む人も無く朽ちてゆくのを待つばかりになっていました。ここは私達一家が暮らしていた証です。この土地を売らずに公園にして残していこうと思いました。

左が笠原光子さん

地元の皆さんや観光で島を訪れた人たちが公園で休息できれば、こんなに嬉しいことはありません。公園を「愛の一族ガーデン」と名付けました。オープニングに妹も出席してくれました。この後、弟に続き妹にも先立たれることになりました。ショックで私はしばらく外にも出ることが出来なくなり、仕事からも退くことになりました。この私を救ってくれたのが「大通公園の水の広場」でした。荒れ果てた公園を花で満たしていくことが生きることに繋がりました。草花は手を掛けた分、美しい花でお返しをしてくれます。公園に縁があるのでしょうね。

帰郷した時には知友人等で交流を兼ねて公園整備していますが、コロナ禍で津堅島には行けず気になっていましたが、地元うるま市会議員の宮城一寿議員が公園の手入れをしてくれています。本当に感謝しています。

あなたにとっての横浜とは

40年以上横浜に住んでいますと横浜が第二の故郷になりました。故郷にはたくさんの思いがあります。その一つが、いつまでも花の咲く緑のある町でいて欲しいことです。横浜は住み良い町のランキングでも上位になり、新築マンションが次々に建てられています。大空は切り取られ、人々はビルの谷間を行き来しています。ちょっと足を止めて四季の移り行く景色を楽しみましょう。花に季節の便りを感じたら、花に癒されたなら、身近なところで「花ボランティア」はいかがでしょうか?

(インタビュー:渡邊桃伯子/文:高野慈子

 

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