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いつも次を考えています。会社経営とNPO経営を両立するCEO 山口良介さん

by staff on 2022/5/10, 火曜日

 

山口良介さん
 
山口良介さん
 
お名前 山口 良介(やまぐち りょうすけ)
お生まれ 1970年生まれ 50代
お住まい 緑区在住
趣味 野鳥観察,ジョギング

 

20歳まで藤沢で過ごされたそうですね・・

創業100年の藤沢橋近くにある米屋「山口米店」の若旦那として生まれました。のんびりした性格で、小さいときから絵や漫画を自己流で描くのが好きでした。水泳教室にも通っていました。気ままにのほほんと暮らす「やんちゃ坊主」でしたね。

中学・高校時代は、インディーズバンドに熱中していました。バンドではシンセサイザーを担当していました。影響を受けたバンドはYMOです。小さいときから、なんとなく家業を継ぐのだと思っていました。

米店の仕事も手伝っていましたよ。中学生のときは、精米したコメの袋詰めなどやっていましたし、高校生のときは配達もやっていました。その一方で、高校に入った頃から、米屋の家業を続けるのは難しいかも、別の商売をしないといかないかもと漠然と考えていました。食生活の変化などで米屋の将来は明るくないと感じていたからです。

高校を卒業する頃に、父親から米店を閉じると言われ、山口米店は1億8千万円の負債を抱え倒産してしまいました。

居場所がなくなり、途方に暮れた私は、わずかなお金を持って横浜に出て一人暮らしを始めました。それからずっと横浜住まいです。

バンド仲間との写真

Mac(Apple Macintosh Computer)との出会いがあったとか・・

20歳にして独り立ちを決心して、新橋のオーディオ関連の会社に就職を決めて、横浜に出てきました。もう藤沢には戻らないぞ・・という固い決意をしていました。1990年でした。

就職したAV機器メーカーの新橋にあったショールームでパソコン(Macintosh)で作曲していた人たちと出会いました。衝撃的でしたね。これからパソコンの時代が始まると確信しました。自分もやってみたいとお金をためて、Mac LCを購入しました。雑誌「Mac Fan」や英語のリファレンスを読んで、まさに自己流でパソコンでの曲づくりを始めました。パソコンとシンセサイザーをつないで楽しんでいました。

「PhotoShop」や「Illustrator」というグラフィックソフトに触れて、これからのグラフィック作品は、パソコンによって創造されるようになるのだ。と独学でグラフィックソフトでの創作に没頭するようになりました。グラフィックで食べていきたいと考えて、広告制作会社に転職しました。

広告制作会社での仕事は、グラフィックソフトでポスターや映像などを作っていました。仕事をしながら学びながら、スキルを磨いていくという日々でした。わたくしの修業時代です。1997年から自分のホームページを作り始め、様々な企業のWebサイトを制作していました。

1998年と1999年にパルコ主催アートコンペティションCG映像部門に入選したり、日本デジタルアートコンテスト、イメージング部門などで入選しました。自信になりましたね。同時期に、「Adobe Premiere でつくるデジタルムービーテクニック」(ソーテック社)より出版しました。映像ソフトに関するムック本がほとんどなかったからでしょうか、3刷までいきました。その後も、 動画編集のソフトが発売されるたびに、解説本を書いていました。

2000年、30歳のときに独立して、「Lyric Graphic Co., Ltd.」というデザインプロダクションを設立しました。恵比寿と広尾の間に事務所を構えました。何となくですが、独立してやっていけそうな何の裏付けもない自信がありました。今思えば米屋の若旦那の血がそうさせたのかも知れません。当時はすでに結婚していましたが、奥さんは起業に反対しませんでしたね。彼女は旭区出身のハマっ子です。
起業当初は飛び込み営業などもやったし、広告業界の会社を調べて電話営業も経験しました。
自己主張するよりも職人としてお客様のニーズに応える・・ことに徹し、クオリティーはしっかりしていくというやり方で、広告業界はデジタル時代の幕開けの時期だったこともあり、経営は順調でした。起業して5年間ほどたったときに、また転機が訪れました。

Lyric Graphic 時代の写真
某携帯電話会社の広告をパロった自社広告

2005年、大手CM制作会社のグループ会社から提携の話が持ち込まれたのです。
時代は、インターネットの時代になっていました。CM とWebサイトやイベントを連携させる「クロスメディア」という言葉がでてきたときです。リアルとWebとの連動に魅力を感じて、吸収合併の道を選び、Aoi Pro(当時)のグループ会社のイベント会社の取締役に就任しました。

WebサイトとTwitterを駆使して、イベント情報を拡散させるなど、面白い仕事をたくさんさせてもらいました。今から思うと、超ブラックの働き方でしたね。勤務時間はめちゃくちゃで、子どもの顔を何日も見ることができませんでした。渋谷から出ている「深夜バス」に何度もお世話になりました。

その当時は仕事が楽しかったし、子どもとあまり話もできない生活でしたが、それが当たり前だ・・という感覚でしかなかったです
横浜市緑区に居を構えていましたが、近隣の風景など見る余裕もなかったですね。

東日本大震災が大きな転機になったのですね・・

そんな私が変わったきっかけが、2011年3月11日の東日本大震災です。

この時CMがすべて「ACジャパン」の広告になったのを覚えていますか。自分たちが一生懸命作ったCMが一切流れない。社会から望まれていないものだったのか・・自分たちがやっていることは役に立たないのでは?・・と痛切に感じました。

東日本大震災の当日、交通機関が動かなくて職場から歩いて帰った人たちの姿を見て、災害に備えて、数時間は歩ける体にしないと、と思い近所の恩田川でジョギングを始めました。走ってみると、これまで寝に帰るだけの場所だった、緑区が自然豊かないいところなんだと気付かされました。

四季の移り変わりを感じながら仕事がしたいな。とその頃から漠然と広告業界はやめたいな。と考えるようになってきて、2013年に会社を辞めました。

会社を辞めて何をやろう・・と考えたときに、これまで培ってきたWebの知識と経験を生かした仕事をやりたいと思いました。そして、社会に役立つ仕事をしていきたいと、起業支援のサービスをやっていこうと決めたのです。

2013年にホントノ株式会社を設立しました。これからは本物の仕事をしていくぞ・・社会課題に取り組むぞという想いを込めた社名です。地域に関心を持ち始めて、これからは横浜で活動しよう!と本社は自宅にしました。

設立当初、エンジニア・デザイナーとプロデューサーの私との三人体制でのスタートでした。そして「世の中から履歴書をなくす」というミッションのもと、履歴書シエアサービス「Relekino(リレキノ)」を始めました。しかしながら、サービスは収益化の目処が立たず、4年で頓挫しました。

自宅を仕事場にして、河原などで仕事をしていたときに、気持ちいいな・・開放感があるな・・これを推進したいと、アウトドアでITワークを推進する「野良IT」を立ち上げました。「野良IT」とは1日の長い労働時間のうち、一部を野良でするというライフスタイルです。コロナ禍で賛同者が増えていますよ。

野良IT
https://norait.com/about

また、横浜市の緑区を中心とした北部一帯、青葉区、都筑区、港北区の野鳥情報サイト「みどりの鳥」も立ち上げました。横浜北部は野鳥がとても多くて、ジョッギングしていると多種多様な野鳥に出会うので、自分たちの身の回りの自然を感じてもらおうと考えたのです。
みどりの鳥
https://midorinotori.com/

自分が撮影した写真だけでなく、皆様からの写真や動画も掲載しています。著作権は「クリエイティブ・コモンズの継承 4.0 国際 ライセンス」に準拠しているので自由に利用できます。

野良ITの写真

特定非営利活動法人「まちづくりエージェントSIDE BEACH CITY.」との出会いは・・

ホントノ株式会社を設立して、横浜での市民活動に参加したいと思い、2014年頃から緑区にある市民活動支援センター「みどりーむ」に通い始めました。まず、市民活動で自分に出来ることは何だろう?と。

緑区市民活動支援センター「みどりーむ」
https://www.city.yokohama.lg.jp/midori…

特定非営利活動法人「横浜コミュニティデザイン・ラボ」が「ローカルグッド」というWebサイトを開設して、地域活動のためのクラウドファンディングを始めたのも2014年です。「地域をよくしていこう」という熱い想い・・自分がこれまで触れることのない世界がここにありました。ラボのイベントに積極的に参加して、ラボの代表理事の杉浦裕樹さんや、まちづくりエージェントSIDE BEACH CITY.創立者の志田健一さんや、高見知英さんと出会いました。様々なイベントに参加していくうちに、自分なりの横浜人脈もできてきました。

「SIDE BEACH CITY」とは、横浜市を英語でSIDE(横)+BEACH(浜)+CITY(市)と表現している造語です。志田さんが創立者で、「ITを使って地域を良くしていこう」という活動を2009年ごろから仲間たちと始めていました。紆余曲折もありましたが、特定非営利活動法人「まちづくりエージェント SIDE BEACH CITY.」を2017年12月に設立しました。そして、経営者で自由に動ける私が理事長を務めることになりました。

自分の会社とNPO法人の経営、「2足のわらじ」生活が始まりました。「まちづくりエージェント SIDE BEACH CITY.」は、中間支援・地域活性化支援・情報技術支援の3つの事業を中心に活動を行っています。IT活用支援講座や、こども向け(大人向けも含む)プログラミング教室を地道に行ってきたところ、行政から徐々に声がかかるようになってきて、認知度があがってきました。

コロナ禍がブレイクポイントになったようで、自治会のIT支援で横浜市のガイドブックに掲載されたこともあり、「高齢者にスマホを教えて」「オンラインイベントの配信支援」などの依頼が急激に増えてきています。

また、私たちの「SDGsへの取り組み」も注目されてきていて、ヨコハマこの人に登場した遠藤望さんも当NPO法人のメンバーで、「Yocco18」とのSDGsコラボにも関わっています。

『地理学』×『横浜愛』×『イラスト』 でまちづくり。 Yocco18代表の遠藤 望さん
https://yokohama-now.jp/home/?p=20698

若い人たちに市民活動に参加してもらいたい、NPO法人でも稼いでいいわけですから、若いメンバーの活躍の場を増やして収益をあげていきたいですね。

ホントノ株式会社は2013年設立ですから、来年10期目になります。これまで一つのところに10年いたことがなかったので、自分でもびっくりしています。結局自分がやっている会社に一番長くいる、みたいな。

市民活動をしていても、食い扶持はきちんと稼がないと続いていきません。「複業の時代」と言われますが、ここ10年間はずっと「複業」してきました。「いつも次を考えています」というのが私のキャッチフレーズですが、これからも時代を先取りしていきたいですね。

SBC総会での写真

SBCの仲間たちとの写真

あなたにとって横浜とは・・

一言でいうと「第2の故郷」です。
横浜に興味を持ち始めてから、日本最大の人口と経済をどうやって維持していくのかどうしたら良くなっていくのか、次の世代にどういう横浜を残せるのかを考えるようになりました。

市民活動をしていく中で、自分たちにできることは何かを常に模索しています。
日本のさきがけとなる「新しい街」の歴史をみんなで創っていければいいですね。

自分が住んでいる「街」が大好きですね。「みどりーむ」の今後を考える「ネクスト」の代表もやっています。「みどりーむ」は横浜市18区の中では珍しく、行政と運営委員会の共同運営をしている施設です。実は自分の住む地区の自治会(580世帯)青年部の部長もやっています。課題は少子高齢化とどこも同じような感じです。

私にとっての横浜は、
「第2の故郷」です

<取材を終えて>

「いつも次を考えています」 というタイトルの通り、山口さんは常に時代を先取りしてきた方です。ご自身の性格をのんびりしている・・と仰っていますが、コンピュータやグラフィックソフトなど新しいものに独学で積極的に取り組まれてきた姿勢には頭が下がります。その一方で物事を客観的に俯瞰する目がおありになるので、本物かどうかの見極めができる方ですね。山口さんはここ10年にわたって「複業」(会社とNPO法人の経営)を実践されています。会社だけなく、自分の能力を生かす場所を求めていく若者が今後は増えてくるでしょう。山口さんが時代の先駆者として今後どのうような活動をされていくのを注目していきたいです。

 

 

(取材・文責 渡邊桃伯子)

 

 

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