「岩亀稲荷」をお守りして三代目。高級注文シャツ「松本屋」店主 相澤義一さん
戸部4丁目界隈には岩亀横丁と呼ばれる通りがあります。「岩亀」と書いて「がんき」と読みます。かつて港崎町(みよざきちょう)にあった遊郭「岩亀楼」の名がなぜ戸部町に残っているのでしょうか? 6軒の家族が大切に守っている「岩亀稲荷」のお話しを高級注文シャツ「松本屋」の相澤義一さんに伺いました。
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横丁の中程、花屋「花七」とワイシャツ店「松本屋」の間の門を入っていくと小さな鳥居と祠があります。
徳川幕府が日米修好条約に調印したのは安政5年(1859年)、翌年1860年に横浜は開港し、運上所(税関)を作りました。また、外国船で入港する人々の慰安の為に、ほぼ同じ頃に吉原を真似た花街を港崎町(みよざきちょう)に作ったと聞いております。
埼玉の岩槻(いわつき)から出て来た佐藤佐吉は、「岩槻」が「がんき」と読めることからその花街に「岩亀楼」を作ります。当時、三層櫓式の楼閣は豪儀で夜目にも美しく話題になりました。
岩亀楼の遊女たちが病に倒れた時に静養する寮が当地にあり、その寮内にあったと言われている「お稲荷さん」が「岩亀稲荷」なのです。有吉佐和子さんの作品「ふるあめりかに袖はぬらさじ」の舞台は岩亀楼の亀遊(喜遊)大夫がモデルです。「露をだに いとふ倭の女郎花 ふるあめりかに 袖はぬらさじ」という亀遊(喜遊)の辞世が残っています。
詳しい由来は岩亀稲荷の門の脇のしおりに説明されております。ご自由にお取り下さい。
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足袋からワイシャツへ。
6軒で「岩亀稲荷」を大切に守っています。
岩亀稲荷を伝えていきたい。
岩亀楼は慶応2年10月20日の「「豚屋火事」という大火で焼失しました。遊郭は各楼を一カ所にまとめ、四方に堀をめぐらし、出入りは橋一つという構造のため多くの人達が逃げ 遅れ、400人近い遊女が焼け死にました。沢山の遺体をまとめて納めるお寺が無く、あちらこちらのお寺に引き取られて行きました。大きく重たい岩亀楼の石灯篭がどういう所以で山の上の妙音寺に運び上げられられたのか、今では知るよしもありませんが、私には、港崎町で亡くなった方々の、後世の私共に「忘れないで欲しい」という一念が伝わってくるのです。
岩亀楼の名を残すものは、岩亀楼跡(横浜球場となりの横浜公園内)に妙音寺から移された「石灯篭」と「岩亀横丁」の名と「岩亀稲荷」の3つだけとなりました。横浜の歴史を表から支えた横浜商人と裏から支えた遊女たち。岩亀稲荷を伝えることは、歴史のはざまに追いやられた彼女たちが国のため町のため横浜で生きていた証を伝えていくことだと思っています。
好きで遊女になる人はいません、供養したくとも名乗れないご遺族の方もいるでしょう。
その方達のためにも私は岩亀稲荷さんを通して妙音寺さんと共にご供養を続けていきたいと 思います。
相澤さんにとっての横浜とは。寒村だった横浜はあらゆる内外からの人々を受け入れ、開港と共に来た「文明開化」の波も広く受け入れて、現在360万都市にまで発展したことを「浜っこ」として本当に誇りに 思っています。 横浜は「私の全て」です。 |
(画像をクリックして拡大写真をご覧ください) 横浜は「私の全て」です。 |
(文:高野慈子)
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