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「岩亀稲荷」をお守りして三代目。高級注文シャツ「松本屋」店主 相澤義一さん

by staff on 2011/11/10, 木曜日

 戸部4丁目界隈には岩亀横丁と呼ばれる通りがあります。「岩亀」と書いて「がんき」と読みます。かつて港崎町(みよざきちょう)にあった遊郭「岩亀楼」の名がなぜ戸部町に残っているのでしょうか? 6軒の家族が大切に守っている「岩亀稲荷」のお話しを高級注文シャツ「松本屋」の相澤義一さんに伺いました。

相澤義一さん  
お名前 相澤 義一(あいざわ ぎいち)
ご出身 横浜市
年令 78歳
現住所 戸部町4丁目152
TEL/FAX:045-231-2326
ご職業 SF印各種高級注文シャツの仕立て
趣味 スポーツ観戦
ご性格 頑固で呑気

横丁の中程、花屋「花七」とワイシャツ店「松本屋」の間の門を入っていくと小さな鳥居と祠があります。

 徳川幕府が日米修好条約に調印したのは安政5年(1859年)、翌年1860年に横浜は開港し、運上所(税関)を作りました。また、外国船で入港する人々の慰安の為に、ほぼ同じ頃に吉原を真似た花街を港崎町(みよざきちょう)に作ったと聞いております。

 埼玉の岩槻(いわつき)から出て来た佐藤佐吉は、「岩槻」が「がんき」と読めることからその花街に「岩亀楼」を作ります。当時、三層櫓式の楼閣は豪儀で夜目にも美しく話題になりました。

 岩亀楼の遊女たちが病に倒れた時に静養する寮が当地にあり、その寮内にあったと言われている「お稲荷さん」が「岩亀稲荷」なのです。有吉佐和子さんの作品「ふるあめりかに袖はぬらさじ」の舞台は岩亀楼の亀遊(喜遊)大夫がモデルです。「露をだに いとふ倭の女郎花 ふるあめりかに 袖はぬらさじ」という亀遊(喜遊)の辞世が残っています。

 詳しい由来は岩亀稲荷の門の脇のしおりに説明されております。ご自由にお取り下さい。

(画像をクリックして拡大写真をご覧ください)

     

足袋からワイシャツへ。

 「松本屋」という屋号は本家が東海道戸塚宿で営んでいた酒屋の屋号です。祖父が戸塚から戸部に来て私で3代目、もともとは「足袋屋」でした。 花街が近いとあって多勢の芸者さんが足袋を履く、舞を舞っても裾が美しく見えるようにとコハゼの多い足袋を特注する、という景気の良い時代でした。横丁には鬼子母神のお縁日もあり、生糸を積んだ馬車や材木を積んだ馬車が行き交ってそれは賑やかでした。当時、新横浜通りは堀川でハシケが行き交い、その頃の様子が雪見橋、紅葉橋の地名に残されています。

 松本屋はシンガーの輸入ミシンを買い入れて下着も作りました。足袋は手縫いだけれど、蹴出し(腰巻)やももひき、パッチ、腹がけなどを足袋屋がミシンで作ったものです。その後のテーラー、Yシャツ店は殆んど足袋屋が元となります。

 今、私が使っているのはTOYOTA織機のミシン、ウィンドウに飾ってあるのがシンガーミシンです。どちらもアンティークになりましたね。空襲で大火事になった時は、私の父が毛布にくるんで下水口に隠しました。戦後の混乱期、焼け残ったミシンが家族を養ってくれました。ミシンは我が家の家宝です。

 終戦後は時代が変わっていきました。まず、着物を着る人が少なくなってきました。そこで、私は東京の両国にワイシャツの仕立ての勉強にいきました。生地選びから始まって、採寸、裁断、糊付け、地縫い、縫製、ボタンつけ、穴かがり、イニシャルの刺繍、仕上げアイロン・・・いくつもの過程を経てワイシャツが仕上がります。

 一張羅と言うように、背広やワイシャツを当時の職人達は技術を競い合って作ったものだから形が崩れない・・・「よそ行き」は生涯1つあれば良かった時代でした。

 やがて、安くて良い製品が出てきました。お洒落を楽しむ余裕ができて、質よりも数が求められるようになりました。お得意様は年々お年を召していかれ、若い方はオーダーのワイシャツを知らずにきました。

 しかし、最近は昔のように物を大切にするという流れがあり、手作りシャツが見直されています。

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「松本屋」の看板

「松本屋」のドアー

「松本屋」の店内

相澤さん愛用のTOYOTA織機
のミシン

初代が購入したシンガーミシン

6軒で「岩亀稲荷」を大切に守っています。

 横浜開港150年と言われています。実際人が集まって町らしくなってきた歴史は約140年くらいでしょう。人々が地方から職を求めて出てきて暮らし始めた時、歴史ある岩亀稲荷を講を作って守っていく事が心のより所になったのではないかと思います。そして、その心を現在の私共が引き継いできたのです。稲荷の門前の灯篭は遊女の立ち姿を模したもので、町内の棟梁が作ったものです。

 この岩亀稲荷は遊女たちが病気平癒を願ってお参りしたことから、女性の病気が治ると云い伝えられています。

 毎年5月25日には講中で例祭が営まれます。また、毎月25日には三春台の妙音寺さんがご祈祷に来て下さいます。

  (画像をクリックして拡大写真をご覧ください)

稲荷の門前の灯篭

岩亀稲荷を伝えていきたい。

 岩亀楼は慶応2年10月20日の「「豚屋火事」という大火で焼失しました。遊郭は各楼を一カ所にまとめ、四方に堀をめぐらし、出入りは橋一つという構造のため多くの人達が逃げ 遅れ、400人近い遊女が焼け死にました。沢山の遺体をまとめて納めるお寺が無く、あちらこちらのお寺に引き取られて行きました。大きく重たい岩亀楼の石灯篭がどういう所以で山の上の妙音寺に運び上げられられたのか、今では知るよしもありませんが、私には、港崎町で亡くなった方々の、後世の私共に「忘れないで欲しい」という一念が伝わってくるのです。

 岩亀楼の名を残すものは、岩亀楼跡(横浜球場となりの横浜公園内)に妙音寺から移された「石灯篭」と「岩亀横丁」の名と「岩亀稲荷」の3つだけとなりました。横浜の歴史を表から支えた横浜商人と裏から支えた遊女たち。岩亀稲荷を伝えることは、歴史のはざまに追いやられた彼女たちが国のため町のため横浜で生きていた証を伝えていくことだと思っています。

 好きで遊女になる人はいません、供養したくとも名乗れないご遺族の方もいるでしょう。

 その方達のためにも私は岩亀稲荷さんを通して妙音寺さんと共にご供養を続けていきたいと 思います。

相澤さんにとっての横浜とは。

 寒村だった横浜はあらゆる内外からの人々を受け入れ、開港と共に来た「文明開化」の波も広く受け入れて、現在360万都市にまで発展したことを「浜っこ」として本当に誇りに 思っています。

 横浜は「私の全て」です。

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横浜は「私の全て」です。

(文:高野慈子

 

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