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セカンドライフ列伝 第11回 大田垣蓮月(おおたがき れんげつ)

by staff on 2013/4/10, 水曜日

榎本技術士オフィス/榎本博康

第11回 大田垣蓮月(おおたがき れんげつ)

心を歌わぬ無私の尼僧

 大田垣蓮月(1791年(寛政3年)~1875年(明治8年))という心優しい尼がいました。私が属している関東圏では、かつて日常会話の中で耳にしたことが無いのですが、京都時代祭では毎年紫式部、静御前や出雲阿国達とパレードをしていますので、関西圏ではとてもポピュラーな人です。知ってましたか。

 その人生は多難でした。庶子として誕生し、生後10日で養女になりました。名は誠(のぶ)。父となったのは大田垣常右衛門です。2度の結婚で夫はいずれも短い結婚生活で病没し、さらに子供5人が全て幼い頃に死んでしまいます。父と共に出家して法名蓮月とするのですが、父が亡くなると、女性が独りで寺に住む理由が無くなり路頭に迷うことに、それは42歳の時でした。

 そのどん底から蓮月は歌人として名をなすのですが、生活費は土を手捏ねした焼き物で得ながら、質素な生活を信条とします。そんな所が人気を得て、いろいろな文化人が訪ねてくるようになりました。60歳から富岡鉄斎(最後の文人画家と呼ばれている)を侍童として育てます。85歳で没し、あらかじめ自分で用意した棺に収まりました。

 彼女にはいくつも逸話が残っていて、どこまで本当かと疑ってしまいますが、それも彼女の人間性故のことと思います。例によって好ましい逸話は勝手に拡大し、時には逸脱しながらも、蓮月尼を通じて人生を考えてみたいと思います。史実はそこそこで、創作が混ざっています、くれぐれも誤解の無いように。

その出自と生い立ち

 天明8年の京都の大火が誠(のぶ)を産んだと言われています。この応仁の乱以来とも言われる焼け野原の復興事業に、多くの人々が派遣されてきます。御所の造営や諸藩の京屋敷の再建であり、その中に彼女の父が居ました。ここでは藤堂某としておきますが、身分の高い武士でありました。一方実母ですが、のぶが遊郭である三本木で誕生したことから、そのような女性とも思われがちですが、どうも様子が違います。生母は後に、亀岡藩士に嫁ぐのです。これは藤堂家が背後にあってのことらしいのですが、本人にもそれだけの武家の教養があるわけです。さらにのぶが8歳の時から約10年間、御殿奉公に行くのも亀岡城(本来は丹波亀山城だが、現在の地名の亀岡に合わせて、本稿では亀岡で通す。)でした。本人達が名乗りあったかは知りませんが、少なくとも母は娘が近くにいることを認識する以上の位置に居たと想像します。実父は産ませっぱなしのちゃらちゃら男ではなくて、藤堂家のネットワークの中で、のぶと実母を保護したのでした。でも国元に新妻がいて、しかもほぼ本妻との連続妊娠のようですから、ちゃらかった面も否定できません。

 そしてのぶにとって最高のプレゼントは養父でした。普請に際して、藤堂某が宿舎にしていたのが知恩院であり、その寺侍の山崎常右衛門(後に大田垣姓)です。彼は貧しい農家の出身で、苦労を重ねてやっと知恩院の家来になったのですが、赤貧の状態だったのです。しかし碁を良く打つとの評判で藤堂某と対局をし、彼の打つ石の品格が優れていることから、人物が見込まれたのです。しかし皆さん、見込まれるというのは、怖いことですよね。ちょっとできちゃたんで、何とかしてくれない?とやんごとなき某に軽く頼まれてしまいました。

 常右衛門は腹をくくったのです。門の松飾を忘れかけた頃、生後10日でもらいうけた嬰児のもらい乳に奔走しましたが、貧乏な彼にはお礼の方法もありません。彼は養育料を請求しなかったのでした。当時常右衛門は35歳くらいですが、実は彼には故郷から呼び寄せた妻と息子がありました。さらに姉もついてきたので、大所帯が薄給にのしかかっていたのでした。家に帰ると馬鹿(注:京都では何と言うのでしょうか。)亭主よばわりされて針のむしろ、二本差しながら着たきり雀の男が月代(さかやき)を剃ることもできず、赤ん坊をかかえての乳さがし、京都の夏は格別に暑かった……とは凡人の想像力であって、実際は彼の妻もわが子のように育てたのです。

 すると秋風を感じる頃に、知恩院本坊から呼び出しがありました。何か悪いことをしたかなあと案じながら、出頭するような気持ちで参上すると、何と御請代を仰せつかったのです。これは寺侍の地位を世襲できるという意味です。本物の武家になったのです。これは某の手配かと喜びをかみしめました。夫婦仲が益々良くなったことはもちろんです。

第一の人生~亀岡城御奉公の頃

 所が実父某は早世してしまいました。おのぶの後ろだてが無くなったのです。そうなっては本人に価値をつけさせるしかありません、御殿奉公に出すことにしました。その奉公先に選んだのが、実母に近い亀岡城でした。おのぶ8歳の時です。

 おのぶは聡明で活発であったようです。しかも15歳もすぎればどんどんと美人になっていきました。これではお殿様の手がつくのも時間の問題と噂される一方で、彼女には大きな欠点がありました。活発過ぎて、男勝りだったのです。女性が身につけるべき和歌、舞、裁縫などは当たり前に習得した上で、女性の武芸は薙刀と決まっているのですが、それに飽き足らず木刀を振り回し、鎖鎌をマスターし、馬を乗り回し、果ては竹竿を使って高さ一間(1.8m)の塀を乗り越えるというすさまじさ。暴漢を投げ飛ばしたと言う伝説も残っていますが、柔術もできました。話を半値八掛けで評価しても、スゴイ。

第一の人生~最初の結婚

 常右衛門は大田垣姓になりました。山崎は知恩院に最初に勤務する時にもらった名前で、元々は大田垣を名乗るつもりでした。息子も成長し元服して、父と共に知恩院に出仕し、常右衛門の最も嬉しい日々が訪れました。次はおのぶと所帯を持たせるばかりです。しかし息子は21歳で病没してしまいます。それを追って妻も他界してしまいました。

 常右衛門は家名の維持に心がけ、養子を迎え、元服して望古(もちひき)と名乗らせました。やがておのぶが城勤めを辞して、二人は夫婦になりました。しかし彼らの3人の子供は次々と幼いうちに死に、夫もそのような中で荒んできて放蕩を尽くし、病を得て知恩院の勤めができなくなり、離縁の上実家で病没してしまいました。おのぶが未だ25歳のことです。

第一の人生~2回目の結婚

 常右衛門は後継ぎがないまま、64歳でも出仕を続けていました。父の願いをかなえたいと思ったのでしょうか、おのぶは29歳で再婚します。しかし案ずるよりも何とかで、婿の重二郎は優しい理想的な夫であったそうです。常右衛門は喜んで家督を譲って隠居しました。そして女児を、さらに男児を得たのです。常右衛門の心労はすべて報われました。しかし労咳でしょうか、重二郎は急速に病み衰えました。のぶは臨終の床で、黒髪を自ら切り落として、薙下げ(なぎさげ)の姿となりました。死後しばらくは人事不省の状態であったといいます。33歳になっていました。

第一の人生~新米尼僧

 常右衛門は自分も出家することを決め、その前に家督を継ぐための養子を迎え、のぶの幼児が成長すれば家督を戻すという約束をしました。出家剃髪を知恩院に願い出た常右衛門は真葛庵(まくずあん)住持となり、西心という法名を授かりました。おのぶの法名は蓮月です。二人の子供をつれて、親子はこの庵で平穏に暮らしました。庭の池の、深い泥から咲く蓮の花は、彼女に安らぎを与えました。父から囲碁を教わり、父と歌の推敲をし、子供達を育てて満ち足りた日々でした。

 しかしそのような日々は長くは続きませんでした。蓮月35歳で女児が逝き、37歳で男児が逝ったのです。そして傷心のまま父、西心が78歳で亡くなりました。蓮月は42歳でした。知恩院は尼寺ではありませんので、父を失ったあとまで置いてはもらえません。行き場の無くなった彼女は父の墓所で泣き暮らしました。墓は人の暮らす場所ではないと、強く叱責されて我に返ったのです。

第二の人生~孤独の本質

 「つねならぬ世はうきものとみつぐりの ひとり残りてものをこそおもへ」

 栗のイガの中に栗の実が仲良く3つ入っていたように、ひっそりと仲良く暮らしていたのに。これは彼女には少ない心情を吐露した歌です。泣けば泣く程に腹が減る、蓮月は極めて健康体でした。粟田口という場所にあばら家を借りましたが、収入の道を得なければいけません。でもまともに仏教の修業をしていませんから、その道では無理があります。何かを教えて糊口をしのぐことを選びます。しかし尼さんが薙刀や柔術、舞踊というわけにも行かないので、和歌教授と看板を出しました。手持ち金が無くなるまでに、ビジネスを軌道に乗せなければなりません。

 所が後家で美貌の尼さんです。そっちを目当ての男たちがやってきました。そういう目的で開業したものと勝手に解釈して、むきだしの性欲をぶつけてきたのです。中には真剣に結婚を、絶対に幸せにするからと、これまた自分勝手な誠実さで迫る男もあって、却ってこっちの方が手を焼いて、ほとほと参りました。自分がどれだけ、父から守られて来たかも、世間を知らないことも思い知ったのです。ついに切なくも自らの食欲は総ての蓄えを消費してしまいました。

第二の人生~泥から咲く蓮のように

 ちょっと話を極端にしてしまいましたが、実際は養子の嫁がわずかばかりの米を運んでくれたらしいのです。しかし貧しい養子の暮らしによりかかるのは、彼女の気性に合いません。途方に暮れて彷徨するうちに、運命の出会いがありました。粟田口の埴細工(陶土を手捏ねで器を製作すること)の老婆です。この場所は京都の東のはずれで、江戸方面に下る旅人が土産物を買う場所でもありました。そこで老婆は粟田焼という器を製造・販売していたのですが、声をかけてくれました。よほど見かねたのでしょうか、普通ならば競争相手をあえて増やすようなことはしないはずです。老婆の手ほどきで埴細工を始めました。しかし運動系は達者な連月が、作品系の芸術は弱かったのです。どれもへたくそで不細工。これには本当に弱りました。

 老婆は窯を持っていないので、清水坂の窯元に持っていって、金を払って一緒に焼いてもらいます。しかし作品が余りに下手なので、どこの商店も扱ってくれません。彼女が作っていたのは、きびしょでした。当時は煎茶を飲むのが文化人としてのたしなみであり、京都の町人文化として浸透していました。煎茶用の急須を中国の発音で「きゅうしゃ」、それが京風に転訛して「きびしょ」でした。マーケティングは完璧なのに、クオリティが伴わないので売れない、万事急須でした。

 蓮月は逃げませんでした。他に道もありませんでした。陶土をこねながら、土の不思議な魅力にのめり込んで行ったのです。一見無価値な土から、人が清らかに煎茶を飲む器ができる、それは泥から咲く蓮の花と通じるものがあると気付いたのです。それなら蓋を蓮の葉の形にしてみようか。だったら取っ手は蓮の茎がいいだろう。こつこつと丁寧に造形に工夫をしました。さらに自作の歌を釘彫りにしたのです。杉本秀太郎氏がいみじくも名づけた、新たな三つ栗(土、歌、書)という作品ができました。コンセプトは具体化され、蓮月焼きとネーミングされたのです。

第二の人生~屋越し蓮月

 最初の独居先には6年いましたが、その後「屋越し蓮月」とのあだ名をもらう、引っ越し摩になりました。流行というのは恐ろしいもので、ひとたび売れ始めると、蓮月の庵を訪ねてくる人が増えたのです。ほとんどは面白半分の物見遊山です。新潟では、当時のお土産は蓮月焼き、土産話は蓮月と会ってきたことと言い伝えられているそうです。まるでバス旅行で土産物屋に立ち寄るような具合です。これは蓮月の好む所ではなかったので、さっさと引っ越します。やがて新しい住まいが知られてしまいます。また移動します。その時に必ず呼び出されるのが、大工の松平(まつべい)でした。彼は34回までは覚えていたそうです。松平が良くやってくれるので、新たな住まいの居心地が悪いだけで引っ越すようになりました。年に13回が自己ベストと言われています。このように奔放なお嬢さまに戻ってしまいました。質素だがやりたい放題、我慢強いが妥協しない、だから益々人気が出てきたのです。

 そこへ深刻な顔の数名の訪問者がありました。70歳頃のことです。よほどの事情と見えたので話を聞くことにしましたが、もじもじとしてなかなか言い出しません。実は彼らは蓮月焼きの贋作者達だったのです。何とか形はまねることができるのですが、歌と書はうまくいきません。そこで相談して、思い切って教えを乞いに来たのでした。

 そこで蓮月は快諾しました。(贋作を)持ってらっしゃい、(私が歌を)書いて差し上げましょう。私の拙い作品で雇用が促進されるのであれば、結構なことではありませんか。かくて本物が量産されることになったのですが、彼女は彼らから料金を受け取らなかったといいます。ひとつの試算では蓮月焼きの総生産数は5万点、当時の所帯数が700万軒、人口が3500万人なので、相当な比率で普及したのでした。

 60歳頃から少年を預かりました。46歳違いの彼が後の富岡鉄斎です。鉄斎はほとんど耳が聞こえないものの、良く書を読みました。彼の父が子の行く末を案じて預けたものです。蓮月の下で研鑽し、また諸先生について修業をしましたが、最初は鉄斎でも作品がなかなか売れません。既に有名になっていた蓮月が合作の形で応援していた時代もありました。

第二の人生~新日本のサロン

 時代は幕末です。いろいろな人達とのネットワークができてくると、蓮月の庵は討幕派の秘密情報拠点になっているのではないかと、疑われもしたらしいのです。しかし彼女はどちらにも偏らずに自然体で対応したのが事実に近いようです。丁度その頃、銭形平次の八五郎のように、若き鉄斎が大変だあっー、黒船が来たあ、と駆け込んで来ましたが、蓮月は動じません。どうして脅威と決めつけるのですか、却って良いこともあるでしょう。

 「ふりくとも 春のあめりかのどかにて 世のうるほいにならんとすらん」

 春雨の下の梨花の風情に例えてはいますが、彼女の本音として、西洋医学があれば、夫も子供も死なずに済んだのではないでしょうか。私の不幸を繰り返さないために、もっと時代は進んでほしいという解釈があります。彼女は決して本心を歌でストレートに表現するタイプではありませんでした。

 そんな蓮月が動きました。

 「聞くままに 袖こそぬるれ 道のべに さらす屍(かばね)は 誰にかあるれん」

 鳥羽伏見の戦いのニュースが届いたのです。徳川慶喜は前年に大政奉還をして薩長の出鼻をくじき、新しい政治的な均衡を図る中で、大阪城に下がっていました。一方薩摩藩は江戸で挑発的な破壊工作を演じて、部分的な戦闘状態に入ったのです。この報告を受けて、旧幕府軍が伏見街道を上京、京都市南の鳥羽、伏見で薩摩軍との本格的な戦闘状態に入りました。しかし装備の新旧の差で、旧幕府軍は敗北、累々たる死体は放置されたのです。

 連月は怒りました、西郷をつれて来なさい。

 「あだ味方 勝つも負くるも 哀れなり 同じ御国の 人と思えば」

 さすがに連れては来られないので、短冊にしたためて、直訴状を人に託しました。技巧ゼロの思ったままの歌です。彼女には西郷隆盛につながる人脈はいくらでもあり、薩摩藩士達も彼女の庵に出入りしていたのでした。

 西郷は読みました。そして江戸に向かう船旅には冷静に考えるだけの十分な時間がありました。百万都市の江戸を焼き尽くして日本を変える、その主張の西郷が変わりました。薩摩藩江戸藩邸で、勝海舟と対面した時、西郷は既に腹を決めていて、江戸無血開城を受け入れたのです。そのために江戸の高度な都市機能がそのまま維持され、東京として新時代を容易に築くことができたのです。勝海舟は戦争になれば、江戸市民の手で自ら江戸を焼き払い、ゲリラ戦で徹底抗戦する準備をしていました。

 (余計なコメントですが、もちろんこの短冊1枚で西郷の意思が決まったわけではありません。でも今回は蓮月に花を持たせましょう。)

蓮月という生き方、連月と言う作品

 蓮月は70歳を過ぎてから死に支度をして、棺桶まで用意していましたが、さらに長命を得ました。村で誰かが死ぬと、尼さんの所から棺桶を借りてこいという具合で、でも棺桶は返してもらうわけにいかないので、いくつも作ったそうです。そんな蓮月もそれを使う時がついに来ました。85歳でした。棺を蓋う白木綿には鉄斎が描いた蓮と月がありました。さらにそこに辞世の歌が。

 「願わくは のちの蓮の花の上に 曇らぬ月をみるよしもがな」

 所で、今日的な視点でみると、蓮月の歌はさほど面白いものでは無いとの説があります。私にはその評価ができませんが、私なりに考えてみました。要するに彼女は自分を出した歌を作っていないのではないかということです。その原因は、ひとつは彼女の芸術に対する態度であり、もうひとつは彼女の人生にあるのではないでしょうか。今回は採用していませんが、歌の先生が悪かったという説もあります。

 まず態度ですが、蓮月焼きの贋物を許容し、短冊には謝金を求めませんでした。つまり今日的に言えば、連月焼きという有体物には値段をつけたのですが、その意匠や著作と言う無体物には無頓着でした。当時は知財法こそ無いものの、著作物等で生活している人たちも当然ありましたので、無償は彼女に固有のことです。(注:窮民救済の時は短冊を書き続けて喜捨を得ています。)それだけに、気が利いてはいるが、そこまでという歌が多いのでしょうか。さらに器に深刻な歌は似合いません。清廉な尼さんの作品なので、恋をはじめとする感情表現は希薄であり、風景画の手慣れたデッサンのようです。

 「うを(魚)すくふ あみ(網)よりもれて 早川に ながれる月の 影のすずしさ」

 「軒ちかく ほたるとびきて うたたねの いめ(夢)もすずしき 川づらのやど」

 もうひとつの原因の人生については、少々創作も交えて概観してきましたが、要するに尼僧として生きたことに尽きると思われます。誕生の経緯や夫・子供達との死別という不幸はありましたが、それを乗り越える生きかたとして尼僧を選択したのです。俗世のことを直接にも婉曲にも表現することから遠ざかりました。だから彼女の歌は、歌っていない所まで掘り下げないと分からないのかもしれない。しかしそれでは、囲碁の対局で1手目から長考して参りましたと投了するようなもので、本人以外は盤面からは何も知ることができません。芸術の鑑賞者側の共有性が希薄になります。蓮月はむしろその生き方自体が作品になったのでした。

 杉本秀太郎氏は彼が所有している蓮月作のへちま型の花生けをこのように評しています。この花生けには次の歌が彫られています。

 「露とやどり 蝶とむつれてをりをりの 花のいろかにあくよしもかな」

 つまり「夜は露とともに野にあり、昼は蝶と親しんで、四季折々の花々に飽きることもなくこの世を過ごせるものであれば、どれほど幸せであろうか」と、手折った花を生ける器にあるということは、花瓶が花瓶の用途を否定しているということです。手折った花を生けるより、自然の中に遊びに行ってはいかがですか、と呼びかけている花瓶に花を挿すことはできません。

 この花生けを毎日見て暮らしたらどうでしょうか。たとえ外界と完全に遮断された牢獄の中であっても、風や光や草花のかぐわしさを感じることができるのではないでしょうか。ここから先の解釈は、もう言葉の外です。心と心の対話、しかもひとつは自分の心として、もうひとつがどの心であるかは融通無碍、あなた次第でしょう。

 京都時代祭のパレードで、毎年10月に蓮月が歩きます。それは若き日の姿、人生の長さの4分の1も行かない頃の初々しい姿です。しかしその真っ直ぐな姿勢は、生涯の姿でもあるようです。

(2013.4.2 榎本博康)

主な参考文献

  1. 杉本秀太郎:大田垣蓮月、淡交社 (1976.5) (1988年中公文庫として復刊)
  2. 成瀬慶子:大田垣蓮月、同文館 (1943.2) (1994年大空社より復刊)
  3. 寺井美奈子:蓮月、社会評論社 (2005.5) (注:小説)
  4. 磯田道史:無私の日本人、文藝春秋 (2012.10)
  5. 相馬御風:貞心と千代と蓮月、春秋社 (1930.2)
  6. http://kyoto-design.jp/special/jidaimatsuri (京都時代まつり)

 

大田垣蓮月想像図
大田垣蓮月想像図

 

江戸開城会見之地碑
JR田町駅近く。この碑の背後が薩摩屋敷跡であり、そのすぐ裏手が海で、他の道を使わずに直接出入りができたと言う。またJR田町駅構内には、西郷・勝会見のレリーフがある。
江戸開城会見之地碑

榎本博康(えのもとひろやす) プロフィール

榎本博康(えのもとひろやす)  

榎本技術士オフィス所長、日本技術士会会員、NPO法人ITプロ技術者機構副会長

日立の電力事業本部系企業に設計、研究として30年少々勤務し、2002年から技術士事務所を横浜に開設して今日に至る。技術系では事故解析や技術評価等に従事する一方で、長年の東京都中小企業振興公社での業務経験を活かした企業支援を実施。著作は「あの会社はどうして伸びた、今から始めるIT経営」(経済産業調査会)等がある。趣味の一つはマラソンであり、その知見を活かした「走り読み文学探訪」という小説類をランニングの視点から描いたエッセイ集を上梓。所属学協会多数。

 

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