Skip to content

ヨコハマ・ディスコグラフィティー 第5回 フォークと日本語のロック

by staff on 2012/10/10, 水曜日

 

HEART&SOUL代表 原 正行

1958(昭和33)年9月7日横浜生まれ、12歳よりギターをはじめ17歳からミュージシャンとして活動。39歳の時に念願だったライブハウスを開業、現在は関内駅北口駅前に60年代から80年代の洋楽ヒット曲を演奏するライブハウス、ハート&ソウルの経営者。他にもミュージシャンとして演奏活動、作曲、プロデュース等、幅広く活動している。

第2章 横浜、街と風(1)

 小学校高学年の頃、5才年上の兄は夜になると深夜遅くまで勉強していてその傍らにいつもラジオの深夜放送が流れていました、私は眠れない夜断片的にそれを聞いていましたが小学5,6年の子供には触れてはいけない様な大人の世界、ちょっとエッチな話や流れる音楽に不思議な気持ちがしていました。 兄がよく聞いていたのはオールナイトニッポン亀淵昭信、斉藤安弘(カメ&アンコー)糸井五郎、等、しかしまだ自分にはまったく違う世界と思っていました。

 小6の時母が脳溢血で倒れ、寝たきりになり、又父は多額のお金を貸していた人に逃げられ一家は未曾有の危機に見舞われました。 父は母の看病やら何やでてんてこ舞い、兄は大学受験を控えていたりで家の中は掃除をするものもなく荒れ放題、一家4人水入らずの生活もわずか2,3年の間でした。 そうこうしているうちに自分は中学入学。 入学してすぐ学校の横にあった産経新聞で配達のアルバイトを始めました。 お給料最初は夕刊だけ確か一ヶ月8千だったような、、このお給料で最初に買ったのが確かポータブルラジカセ。 部活は水泳部に入部したので部活が終わってから自転車で配達、終わるとぐったりして寝る毎日、夜中になんとなくラジオをつけると深夜放送が流れていて、はまってしまったのがTBSのパックインミュージック! 初めて聞いたのがフォーククルセダーズの北山修。 でも数回の後すぐ新しいDJに変わりました。 吉田拓郎。 まったく聞いたことない人で誰だこれ?って感じ。 ある時拓郎がいきなりラジオでしゃべりながら自作の “マークⅡ” をその場で生ギター一本でひき始めました、その衝撃たるや、、同級生で河西君という、ませたのがいてギターが上手でした。 自分のギターを売ってくれるというので2千円で購入。 マークⅡが弾きたくてひたすら練習しました。 ここらが自分の人生のターニングポイントでした、しかしこのギター、ピックギターと呼ばれていましたが普通はナイロン弦を張るガットギターに鉄弦を張っていたので異常に弦高が高く、硬くて押さえるのが容易ではありません。 気がつけばいつも指先は紫色でしょっちゅう皮がむけ、風呂に入ると白くブヨブヨになっていました。 当時はこんなものかと当たり前に思っていましたけどB7というコードがどうしても押さえられず友達のギターを借りた時こんなに柔らかいの! とびっくりしました、巨人の星に出てくる大リーグボール養成ギプスの様なギターでこれのおかげで指力が鍛えられました。

 パックインミュージックはその後もはまり、大好きだったDJは小島一慶、何度かはがきを出しましたが読まれたことは一度もありません、他にも愛川欣也(テレビなどで売れる前のキンキン、ポール、テトラ、ジンジロゲなどのエロ造語が話題に!)。 金曜の “なっチャコ” (野沢那智と白石冬美、チャコチャンはあしたのジョーの葉子などの声優として活躍この人のカマトトぶった高音が大好きでした) 一度パックのイベントで開かれたコンサートに行ったことがあり、小島一慶が司会で南沙織とかが歌っていて、ここで変なフォークグループがやけに印象深く、後で考えたら南こうせつとかぐや姫で歌っていたのは “酔いどれかぐや姫” 。生まれて初めて行ったコンサートがこれでした。

フォークと日本語のロック

 前回の「グループサウンズその4」から続く。

 ’68年夏ごろピークだったGSも1969年になると急激に勢いをなくしヒット曲も出なくなります。

 その原因としてはタイガースなど人気グループのメンバーの脱退、オックスの失神パフォーマンスなどで失神者が出るなどの社会問題から学校などコンサートに行ったら停学、退学になるなどの社会的圧力が生まれたこと、色々な原因はあると思われますが、やはりその内容の薄さ、作られた外見が時代の流れについていけなかったということでしょう。

 欧米では東西の緊張、ベトナム戦争などの真っ只中、ビートルズがレボリューションなどで音楽に社会的メッセージを盛り込んでから若者たちを中心に音楽で世界を変えていこうと機運が高まり、ボブ・ディランなどフォークなどの台頭、西海岸のヒッピームーブメントなどからウッドストックフェスティバルまで刻一刻と時代が変化していきました。 日本にもオールナイトニッポンなどの深夜放送が開始されてから若者たちが独自の文化を形成してゆきます。

 ’68年フォーククルセダーズの “帰ってきた酔っぱらい” ラジオを媒体に大ヒット。 フォーククルセダーズは大学生だった加藤和彦、北山修を中心のアマチュアバンドで解散記念に作った “酔っぱらい” が突然ヒットしたのを一番驚いたのは本人たちでしょう。 そこでデビューの話が持ち上がり、就職を控えていた彼らは1年限定ではしだのりひこを加えてデビュー、フォークブームの先駆けとなります。

 酔っぱらいは良くできた作品で加藤の一人多重録音をベースにテープの早回しを使うといったサウンドが視聴者の耳を掴み、エンディングにはお経(北山の声、実はビートルズのハードデイズナイト!)にエリーゼのためにがかぶるなど正に奇想天外、曲としても良くできていて加藤のメロディーメーカーとしての才能が光っています。 ’68年に出来たオリコンでオリコンチャート史上初のミリオンヒットを記録しました。 そして2段目シングルとして彼らが選んだのは「イムジン河」。 朝鮮半島が二つに分けられたことをテーマに歌われた民謡で、帰れない故郷を想う歌詞と物悲しいメロディが胸を打つ素晴らしい曲です。 しかしレコード会社はこれを各方面を刺激したくないという理由で拒否。 悲しみにくれた加藤はこのイムジン河のテープを逆回転させて譜面をおこし、若干手を加えたメロディに北山が彼らの心情を綴った詩を乗せ、2弾目のシングルとして「悲しくてやりきれない」を発表しました。

 やがてフォークルは解散、北山は医者に、はしだはシューベルツなどのグループをいくつか結成し「花嫁」などの大ヒット曲で大成功。 加藤にいたっては日本ロックの歴史に残るサディスティックミカバンドを結成。 黒船などの名盤を幾つか残して海外でも高く評価されました。 メンバーは、ギターは高中正義、ドラムは初期つのだひろ、後に高橋幸宏(YMO)、ベースは小原礼後に後藤次利、今見ればそうそうたる顔ぶれでした。

 加藤・北山名義で出されたのが「あの素晴らしい愛をもう一度」。 北山のやさしい詩に加藤の曲が乗ると胸をうつ曲が生まれます。 今聞くと少し照れくさい感じがしますが純真な心で聞いていた頃を思い出します。 彼らは反戦をテーマにした曲も幾つかあり「戦争はしらない」「青年は荒野をめざす」「何のために」など知られざる名曲が沢山ありました。

 以下次号につづく

HEART&SOUL代表 原 正行)

 

フォーククルセダーズ 「帰ってきた酔っぱらい」
  フォーククルセダーズ 「イムジン河」
フォーククルセダーズ 「悲しくてやりきれない」
  フォーククルセダーズ 「あの素晴らしい愛をもう一度」

 

HEART&SOUL
〒231-0014 横浜市中区真砂町3-33 CERTE11階
営業時間
平日:OPEN 19:00 CLOSE 4:00 LIVE START 19:50~
休・祝日:OPEN 18:00 CLOSE 24:00 LIVE START 18:40~
TEL:045-664-5569
JR関内駅徒歩より1分
地下鉄関内駅より徒歩1分
Websie http://www.heartandsoul-live.com/

バックナンバー

 

Comments are closed.

ヨコハマNOW 動画

新横浜公園ランニングパークの紹介動画

 

ランニングが大好きで、月に150kmほど走っているというヨコハマNOW編集長の辰巳隆昭が、お気に入りの新横浜公園のランニングコースを紹介します。
(動画をみる)

横浜中華街 市場通りの夕景

 

横浜中華街は碁盤の目のように大小の路地がある。その中でも代表的な市場通りをビデオスナップ。中華街の雰囲気を味わって下さい。
(動画をみる)

Page Top