横浜シールドのオーナーで声優の高橋圭一さん
『YOKOHAMA S.H.I.E.L.D. (横浜シールド)』は東横線の反町駅から徒歩2分の浅井ビル2Fにあるカフェバーです。ドアを開けて中に入るとメタリックなレッドとブルーの壁、真っ赤なカウンターチェア、漆黒のテーブルとイス。そしてこの店のオーナー高橋圭一さんがコレクションしたアメコミヒーローフィギュアたちが出迎えてくれます。オーナーの趣味が溢れているこの店は、令和元年の正に5月1日にOPENしました。今回は高橋圭一さんに声優の話、カワイイパークの話、横浜18区構想のことなど、じっくりとお話を伺いました。
高橋圭一さん |
|
女神を創造しています
私の本業は声優です。そして、声優や歌手を育成する仕事もしています。声優はスタジオでマイクの前に立って映像に合わせてセリフを入れる仕事ですが、最近では『顔出し』と言ってステージの上でトークをしたり、歌ったりする仕事もごく当たり前になりました。男女ともに個性のある若い声優たちが注目され、ファンが付き、スターになる人もいます。
そういった仕事に憧れてプロを目指す子たちに、きっかけやチャンスを作ってあげたいと思い起ち上げたチームが「セラサスボーカリストワークス」でした。ステージで歌ったりパフォーマンスをしたり。僕も歌うんですよ激しく。他にも動画チャンネルを運営したり。気がついたらメンバーが入れ替わりながら10年以上活動してまして。大手企業さんとのやりとりなども増えるにしたがって、個人事業だと受注できないものなども出てくるんです。やはりそこには限界があるんだなと。それで、長くお世話になっていた関係者さんたちからの勧めもあって法人化しました。それが「株式会社アルテマイズ」です。「アルテマイズ」は造語で、アルテミス(女神)をカスタマイズ(改造/創造)するという意味をもたせました。
法人化したのが3年前になるのですが、その頃から “夢” というか “野望” があったんです。そういった声優や歌手を目指す子たちが「働きつつ活躍もできる場所=ミニステージのある飲食店」をいつか作りたいなと。そこを拠点として、元々の活動内容である「イベントプロデュース」や「地域活性化プロデュース」にも繋げていけることなので、ずーっと飲食店開業の機会をうかがっていました。このカフェバー『YOKOHAMA S.H.I.E.L.D. (横浜シールド)』のOPENは下手すると5年越しくらいの悲願ですね。
ナレーション収録です
小学生時代はひ弱で引っ込み思案
当時とても珍しく有名だった円形校舎の仏向小学校出身です。教室がバームクーヘン状になっていて、自分はそれが当たり前のことだと思っていました。老朽化でもうとっくに普通の校舎に新築されちゃったんですけどね。当時は本当にガリガリの痩せっぽっちで、目ばっかりギョロギョロしてノッポのひ弱な少年でした。小学生の頃は、とにかく勉強が面白くて。学研の教材とか大好きでしたね。勉強が好きって言うより知識が増えることがゾクゾクするというか。それを誰かに聞いてほしくて自慢したりするじゃないですか。それが生意気だったんでしょうね。小学校のあいだはずーーーっといじめっ子の標的でしたよ。そういう気だけ強いもやしっ子を心配した親は私を地域の少年野球部に入部させました。イヤでしたよー! だっていじめっ子たちみんなその野球部でも一緒だったんですもん。当時も陰湿ないじめはありました。「シカト」なんですよね。今みたいにLINEとかはないのでまたちょっと違いますけど、目に見えるところでコソコソ悪口言うわ、こっち見てニタニタ笑うわ、グローブに落書きされるわ、噛んだガムくっつけられるわ。で、話しかけに行くと離れていくんですよ。わたしガリガリのノッポでホント貧弱体型なくせに気だけは強いわけです。自分が攻撃されたと気づくとケンカ売りに行くわけです。でもひ弱なので当然勝てるわけがない。殴り合いになるまえにオズオズと尻込みしちゃうんです。それがまた恰好のイジメネタだったんでしょうね。小学校卒業するまでほぼそんな感じでした。そんな訳で、大勢で何かをするのは嫌い、負けん気だけは強い引っ込み思案でした。
音楽に目覚めたきっかけも小学校にあります。母がとても歌が好きな人で。小さい頃から母親が鼻歌を歌っているのを聴いて育ちました。小学校3年生くらいだったと思うのですけど、音楽の授業で「シオマネキ」(しおまねきのサンバ)というカニの歌を習ったんです。そのメロディーとかリズムとかになんだか衝撃を受けて。担任の先生にお願いしてカセットレコーダーに録音してもらって家に持って帰り、毎日聴いてた覚えがあります。それでは気がおさまらず、生まれて始めて母にその歌のレコードを買ってもらいました。その後も音楽の授業は本当に大好きでしたね! 有名なクラッシックを聴くのもたまらなく楽しかったです。
もうひとつエピソードがありまして。小学校5年生か6年生の時、当時ヘッドホンステレオを肌身離さず持っていて、自宅の居間でも曲を聴きながら無意識に歌っていることがありました。それをたまたま遊びに来ていた叔母に聴かれてしまい。「今、歌っていたのは圭ちゃん??」 「ち・・ちがうよ」 「圭ちゃんでしょ?? 上手でびっくりしたわー」 「違うってば! イヤホンから音が漏れたんだよ!」 「・・・? なんでそんなにイヤなの?? 褒めてるのに」 「違う! 僕じゃない!!」 ・・・と、明らかに嘘だとバレてるのにひたすら否定し続けました。それくらい、人に歌を聞かれるなんてめちゃくちゃ恥ずかしいことで、絶対に気づかれたくないと思っていたんです。褒められたいなんて全く考えてない。この当時の僕は自分が人前で歌を歌うなんて気絶しちゃうくらい無理なことだったと思います。
中学時代に夢中だったこと
小学生の頃から足が速かったので県大会などにも出場していました。走ることは本当に楽しくて、横浜市立橘中学校では野球部ではなく陸上部に入りました。短距離の100mがやりたかったのです。ところが、陸上の顧問に「お前は長距離をやれ」と言われ、1500mに回されてしまいました。
今なら顧問の考えも理解できます。多分、好きな短距離ばかりで視野を狭めず、広く「陸上」を体験させようとしたんじゃないかと。しかし、短距離と長距離では呼吸の仕方も筋肉の使い方もまったく違い、自分は長距離がとても苦手でした。学校のマラソン大会も順位が後ろから5人目とかそれくらい短距離の成績と雲泥の差があったんです。もう走っててもツライしかなくて楽しかった気持ちが何もなくなってしまって。1年生のうちに退部してしまいました。
中学2年生の時に音楽の授業でドラムスを演奏する実技授業があって。ここでドラムスをかじったことが、高校でバンドを組むきっかけになるんです。その話はまたあとで。。。
部活がなくなって、暇で暇で毎日カラダを鍛えてました。 筋トレバカになってましたね。ほんとにガリガリノッポだったのでそれがコンプレックスでもあって。イジメられないような体格になろう! と、ホントに凄まじい勢いで毎日筋トレした結果、ムキムキ細マッチョになってました。 それが見事に面白がられて、友達がたくさん増えてみんなで一緒にいるのが楽しめるようになりました。
高校時代は勉強よりもドラムスに夢中
市立桜丘高校に入学しました。小中は優等生で勉強が好きだった筈なのに、1学期からもう数学がまっっったくわからなくなったんです! 授業についていけず、ミニテストも0点ばっかり! 0点ですよ! 最初に見たときは高熱出して寝込みましたからね。 1学期の通信簿で数学にばっちり赤い線が引いてあって「1」。あー自分の勉強はここまでなんだなあって。わからないと楽しくないですよね。もう勉強なんてだいっきらいだー! な時期でした。
高校時代の忘れられない思い出の一つが、それまで桜高になかった硬式テニス部を創設したことです。自分はもちろんまったく未経験だったのですが、たまたま中学から一緒の友人たちが軟式テニス部あがりで。先輩がいない一期生ってなんか楽しそうじゃん? と自分も便乗し、1年生ばかり50人くらいが集まって大テニス部ができたんですよ。ものめずらしさから帰宅部がみんな入っちゃったみたいな。 まあでも予想通り経験者は見事に一握りしかいなかったのでスーパー激弱部でした。 でも男子も女子も一緒に練習する大学のサークルみたいな部だったし、集まった仲間がとても馬が合う奴らだったので最高に楽しい部活でした。青春してました。
1980年代から1990年にかけてロックバンドの一大ブームが起こりました。ちょうど高校1年生の時です。桜高でもバンドを組むのが大ブームで、一つの学年に10バンドくらいあったんじゃないかなあ。バンド経験者はわかると思うのですが、ドラムスが不足するんですよ。あとベース。みんなボーカルかギターかキーボードがやりたい。目立つので。 自分もバンドは組んでみたいと思いつつ、小学校編で語ったとおり人前で歌うとかありえなかったので。不思議なことに、ドラムスの授業があった中学校がそんなになかったみたいなんですよ当時。なので、ドラムスやったことあるよーと言うと他のクラスからもスカウトが来るくらいドラムスが不足してました。この流れで私はドラムスとしてバンド人生をスタートするわけです。 曲はその頃大人気だったTHE BLUE HEARTS、ユニコーン、BOØ WYなどのコピー。硬式テニス部とバンド。と勉強。忙しかったですけどホントに楽しかったですね。学校に行くのが毎日楽しかった。バンドを組むとモテましたよ! 自分以外。 ドラムスって縁の下なんですよやっぱり。目立とう精神の高いヤツでもなかったのでとても渋いドラマーでした。
大学時代は歌に目覚める
大学は一浪して帝京大学経済学部へ。勉強はもうまったくどうでもよくなっていて、バンドサークルとテニスサークルに夢中でした。
大学のバンドサークルでもまだドラムスなんですよ。ただ、影のメインボーカルと呼ばれてました。だってボーカルが下手くそなんですもん。 「音違うだろ! こうだよ!」と正しいメロディーを歌ってやると、「おまえが歌ったほうがレベルたけえよ! 圭一ボーカルやれよ!」と全バンドメンバーにお願いされまして。でもドラムスがいなくなっちゃうんです。なので大学のサークルでは結局ずーっとドラムス続けてました。歌うことにもそんなに執着なかったんですよねきっと。
声優への長い道のり
父はI自動車メーカーのエンジニアで、父から機械いじりの楽しさを学んでいました。壁掛け時計や機械じかけのおもちゃなど、一緒に分解して仕組みを教えてくれたのも父でした。就職はH自動車ディーラーに決まり父も大喜びでした。
社会人となりH社に通勤するも、毎日がモヤモヤでした。やはり音楽が好きでそちらの道に飛び込みたくて、どうしてもその夢を諦めきれず、両親の静止も聞かずに1年で会社を辞めてしまいました。母はその後応援してくれましたが、父には本当にがっかりされ、口を聞いてくれない日が続き、まるで勘当されたようでした。
当然すぐにうまくいくはずもなく長い長い下積みが始まりました。オーディションを受けても受けても不合格。基本ができていないのだから当然です。ある時、審査員だったプロダクション社長から「身長高いし個性的なカオだし。俳優やってみたら? ウチ来るか?」と言われ。でも歌を歌いたいだけで俳優なんてやったことないしできる気もしないですと伝えると「自分を表現するってところで歌手も俳優も同じじゃないかな?」と。今でも一言一句覚えてるくらい衝撃でした。歌と同じくらいワクワクする世界があるのなら是非やってみたい。この社長についていってみたい! とそのプロダクションの養成所に入れてもらい、そこで4年間演技の勉強をしました。
その事務所からいただいたお仕事で、埼玉TVのカラオケ歌合戦番組に出演したことがあるんです。その番組の審査員をされていた作曲家の方が名刺をくださり、弟子入りのような感じでボイストレーニングを受けることになりました。ボイトレは8年間続けました。演技の勉強と並行だったので金銭的にもなかなかハードでしたがすべてバイトで賄いました。カラオケBOX店員、喫茶店、清掃、警備員、引越し、配達、日雇いなどなど。まだこの頃は声優の「せ」の字もアタマにありませんでした。ただひたすらアルバイトでお金を稼いで習い事をしていた時期です。エキストラのお仕事はたくさんいただいてましたよ。
28歳のとき。新人俳優を集めてプロモーションを兼ねた大きめの舞台にキャスティングしてもらえて、約1年かけてその公演準備をし、無事公演を成功させました。舞台で1年拘束って長いんですよ! 普通長くても3ヶ月位なのでなかなか大変でしたよ。役者同士の人間関係なども含め。 その最終稽古くらいの時期だったと思うのですが、その舞台の演出の方が声優の仕事をされていた女性で。その方が「声いいのに声優には興味ないの?」と言ってくださいました。
声優という仕事にまるで知識がなくて、俳優も声優も同じ職種なのだと思っていました。もちろん両方されている方もいるんですけどね。『声優』という仕事があることを始めて知りました。演出家さんに教えていただいたまま声優事務所宛てに片っ端からプロフィールとボイスサンプル(セリフやナレーションなどを録音したもの)を送りつけました。本当に運良く私のような無名の役者を拾ってくれたのが声優事務所「ぷろだくしょんバオバブ」でした。
入所し半年ほどして、勉強する立場でありながら呼んでいただいた初現場は本当に緊張しました。マイク前の立ち回りもつまづくし、台本を持つ手は震えるし、声も震えてたんじゃないですかね。 初めての作品はもちろん覚えてますが本当に下手くそで自分で聴いてもアタマを抱えるレベルなので教えません。
2年ほどの見習い期間を経て、レギュラー役としても使っていただけることが増えていきました。多い時はほぼ毎日お仕事をいただいてました。さすがに出演させていただいた作品全てを覚えているわけではありませんし、メインのキャラを任せていただいた作品は数えるほどなのですが、ネットで私の名前を検索すると出演作品が分かります。興味を持っていただけたら是非作品も観てもらえたら嬉しいです。
一番思い入れのある作品は海外ドラマ「レバレッジ~詐欺師たちの流儀~」です。シーズン5まで続き、5年にわたってメインキャラの一人「エリオット・スペンサー」を演じさせていただきました。1話完結でとても見やすく、主人公たちは全員詐欺師なのですが正義のために悪を懲らしめるという日本人の好きな勧善懲悪「水戸黄門」 「必殺仕事人」スタイルなので観終わったあとはとてもスカっとしますよ。私も未だに繰り返し観てしまう大好きな作品です。
起業と創造
事務所を離れ、フリーとして活動をしてみようと思いました。時代は流れて、テレビだけでなくインターネットからの動画番組なども物凄く増えて、声の仕事の幅も広くなったと思います。
声に関するお仕事もイベントなどのお仕事も、関わってくださる人たちが増えるほど「いち個人事業主」では対応しきれず「法人化」を勧められました。数年悩んだのですが、最初の方でお話したように「飲食店開業」の夢があったので。法人の方がいろいろやりやすいのは間違いなくて、思い切って「株式会社アルテマイズ」を設立しました。
この自分のシゴト軸と並行して、横浜で地域活性化サークルの一員としても活動していました。もう15年くらいやってるんですかね。こちらのサイトでもご紹介いただいた アイ・ラブ・ヨコハマ代表佐藤勇 をてっぺんに、私ともう1名の計3名が運営となり活動しています。地域清掃ボランティアや交流イベントなどが主なものですが、オープンしたカフェバー「YOKOHAMA S.H.I.E.L.D. (横浜シールド)」には、そういった企画の「基地」や「活動拠点」としての役割も持たせることができます。ですので今は「YOKOHAMA S.H.I.E.L.D. (横浜シールド)」を真ん中に置いて、新しい展開を作ろうと模索している最中です。
ヨコハマカワイイパーク2019@山下公園
横浜キャンドルカフェ2019@みなとみらい
カフェバー「YOKOHAMA S.H.I.E.L.D. (横浜シールド)」は令和元年5月1日に反町駅から徒歩2分のビルにOPENしました。声優・俳優や、歌手といった活動をする子たちに「働く場所やPRできる場所を提供できたら」という思いと、地域交流の場を作りたかった思いと。それを形にしました。
ボイストレーニングの勧め
コミュニュティツールがtwitterやFacebook、LINE、社内SNSやチャットトークなどになり、リアルで人とコミュニケーションを取ることが苦手になったと言われます。ボイストレーニングを通じてそういったものへの対策を考えることができるので、ぜひ体験してみてほしいですね。個人はもとより企業からのオファーもいただくことがあります。
はっきりと話せるようになるとか、相手に聞きやすい声が出せるようになるとか。声とか話し方が与える影響、印象ってすごくすごく大切なんですよ。なので一般の方にこそ効果は絶大だと思います。例えば、「お疲れさま」という言葉ひとつにしても、本人が意図せず威圧的なトーンで声に出してるかもしれない。あるいは悲しいトーンで小さく言っていて相手にまったく気持ちが届いていないかもしれない。こういった内容を実践してみることで見事に相手への印象を変えることができます。
私達声優という仕事はそれを操るプロフェッショナルだと思って下さい。新入社員の研修会とか営業マンの講習会、部下を持つ中間職の講習などに、ご興味のある方はご連絡ください。目からウロコがポロポロ落ちてとても楽しいですよ!
あなたにとっての横浜は?
黒船が来て日本全土を驚かせ横浜が開港しましたね。ところがその開港を祝う『横浜開港祭』は日本全国に周知されているイベントだとは言えません。開港祭イベントの中で花火が上がったのを見て、「花火上がってるね。今日花火大会あったっけ??」と訊くような、横浜市民でも知らない人がいるイベントです。(あくまで個人の見解です)
日本を訪れる外国人の内、男女問わず多くが日本のアニメ(マンガ)文化に触れるために来ることをご存知ですか? 東京や川崎にはそういったクールジャパンへの受け皿があるのに、横浜にはほとんどありません。
『横浜』ってどこか胡坐をかいてるんですよね。そんなことしなくたって観光客どんどん来るからねーみたいな、、、、。ブランドはもちろん成立してると思います。きれいな街並み、魅力的な観光スポット。おしゃれな音楽文化。そんな横浜ももちろん大好きです。誇りを持っています。でもそういうことじゃなくて。アニメ文化だってキャラクターだって横浜にもたくさんあって、それをもっと盛り上げる方法があるんじゃないかと。そんな気持ちから『横浜18区バーチャルアンバサダープロジェクト』を企画しました。横浜にある18の区のそれぞれにアンバサダー(大使)をバーチャルキャラクターで作っています。各区担当のバーチャルアンバサダーがそれぞれの区をPRできたらと考えています。
18区バーチャルアンバサダープロジェクト
例えば、貴方の会社やお店にその区のバーチャルキャラクターのアンバサダーが訪問し、会社やお店をPRします。それを商店街で再生できる動画にしたり、WEB上で発信していったりという企画です。もちろん、イベントやライブ・コンサート・展示会、お祭りなどをPRしたり、区民向けの広報を行ったりもできます。
地域の活性化とクールジャパンをマッチングさせ、オリンピックイヤーに向けて横浜を盛り上げていこうと考えています。是非、この『横浜18区バーチャルアンバサダープロジェクト』が実現できますように応援を宜しくお願いします。
(文:高野慈子)
ヨコハマNOW 動画
新横浜公園ランニングパークの紹介動画 | ||
ランニングが大好きで、月に150kmほど走っているというヨコハマNOW編集長の辰巳隆昭が、お気に入りの新横浜公園のランニングコースを紹介します。 |
横浜中華街 市場通りの夕景 | ||
横浜中華街は碁盤の目のように大小の路地がある。その中でも代表的な市場通りをビデオスナップ。中華街の雰囲気を味わって下さい。 |
Comments are closed.