書評 「ほかならぬ人へ」 祥伝社文庫 白石一文 著
出会いは偶然なのか、必然なのか、なんていうのではない。あまりにも必然であったように思うことが、実はことの勘違いのはじめなのかと思う。勘違いをしないとことには運ばないものなのである。著者は最後の所で次のように書いている。「決して泣くまいと心にきめていたのだが、あまりに深い悲しみに涙があとからあとから溢れてくるのを止めようがなかった。」 小説だからというより、真からかなしみに泣けるというのはある意味、充実を味わったからだと思うのだ。それまでのあいだは徒労のように繰り返し繰り返し恋愛が繰り返される。実っているようで実りのないゲームが繰り返されていく。 |
「前にも言ったけど、うちはお父ちゃんがあんなだったから、私は、ちゃんとお付き合いするなら絶対に浮気をしない人ってきめていたの。ああいうお店で働いていたら、男の人の生態ってほんとよくわかるの。明生ちゃんを一目見たとき、あみっけ、ってぴんと来たの」「まさか、そんななずなが結婚からたった二年足らずで自分を裏切るだなんて、あのときの明生には思いもつかぬことだったのだ。」
明生は上司の東海さんになにかとお世話になり、相談もするようになっている。そんななかでの出来事。「“東海さん、肺がん詳しいんですね。”近い身内をきっと同じ病気で亡くしたのだろう、と二人のやりとりを黙って聞きながら明生は思っていた。“私がそうだから。”人の波に目をやったまま東海さんがいった。“えっ”思わず聞き返す。彼女の言葉の意味がよく分からなかった。」
「誰かと暮らすことは確かに楽しい。そこには一人暮らしでは到底想定できない華やぎがある。だがこうして一人に戻って見ると、一人にはひとりきりの貴重な静寂というものがあることをおもいだした。“結婚は一度はして見るものだと思う。でも、長く続けるかどうかは人それぞれでいいんじゃないかと私はおもうよ。”昨日、別れ際に東海さんがいってくれた言葉を思い出す。あの人は自分は食べもしないのにあんな高い肉を買って、落ち込んでいる俺を励ましてくれた。帰りの電車の中で、今は東海さんのためにも仕事に打ち込もうと明生はおもったのだった。」
人と人の出会いは思うようにいってるようで、思うようにいっていない。
著者は主人公明生に次のような言葉を吐かせる。
「この世界の問題の多くは、何が必要で何が不必要かでなく、単なる組み合わせや配分の誤りによって生れているだけではないだろうか。これが必要な人にはあれが、あれが必要なひとにはそれが、それが必要な人にはこれが渡されて、そのせいで世界はいつまでたってもガチャガチャで不均衡なままなのではないか。どうやったらそれぞれが、ちゃんとした組み合わせになれるのだろう。」
出会いには打算やいきがかりがないとはいえない。その出会いが上手くいく場合だってあるに決まっている。同情が本ものになったりもする。その本ものが、またいつまで続くのかといったゲームになったりする。だれもが今も信じて生きているはずだった。
「みんなそれぞれに重い荷物を背負っている。一人一人別々の苦労を抱えて必死で生きている。僕だってきみだってそうだ。あいつ一人がたいへんなわけじゃない。明生は喋りながらあの日聞かされた東海さんの話を思い出していた。そして、だれでもが現実から目をそむけているだけで、しかし、いつかは必ず自分自身がそうした死に直面する状態に追い込まれる。そして人は死ぬ。生きているからこその辛さなど、辛いと感じられるだけまだましに違いない。なずなはあの暗い部屋をトンネル代わりにして、新世界へ旅立って行くつもりなのだろうか。そのトンネルの先に広がっているのは、ひからびた過去にがんじがらみになった寒々しい未来でしかないというのに。」
「 “宇津木、生きていたらいろいろあるよ。でもね、何年か経ったらどんなことでも大したことじゃなかったってわかるから。人間はさ、そうやって毎回自分に裏切られながら生きていくしかないんだよ“ 東海さんは言うと、”じゃあ、まだ仕事がのこっているから“と付けたして自分から電話を切った。自分に裏切られながら生きて行くとはどういう意味なのだろうか。今苦しくて仕方ないことでも、やがてはどうしてあんなことで悩んだのだろうとか、何であんなことにこだわったのだろうとか、なぜああいうことが可能だなんて馬鹿げた錯覚をしたのだろうかとか、冷静に振り返ることができるようになる。それが自分に裏切られるということなのだろうか。将来の自分が今の自分を裏切る?そういう意味なのだろうか。それだったら少しわかるようなきがする。」
明生はベッドのへりに東海さんの骨壷を抱いて座り込むのだった。
(文:横須賀 健治)
「笑顔経営」ワークショップの7月は「総集編」です
(横浜売れるモノづくり研究会の分科会です)
「笑顔経営」とは、企業の業績をアップして、経営者だけでなくスタッフも取引先も皆、笑顔になるような経営のことです。
このセミナーは、参加者同士でディスカッションしながら、自らの問題点を「気づき」「改善」して経営に生かしてもらおうというセミナーです。「売ること」を科学的に分析して、理論だけでなく売るための行動も学習・実践していきます。自社の「価値ある最終成果物」を把握して、売上をあげていくノウハウを学ぶことができます。
今回はこれまで5回の「総集編」として、「笑顔経営」の真髄を学びます。初めての方もご参加いただけます。自社を「笑いがあふれる」会社にしたい皆様、是非ご参加ください。
セミナーはビデオでもご覧になれます。
笑顔経営ワークショップの様子は下記をご覧ください。
http://www.monoken.net/egao-keiei/
~あなたの会社の「価値ある最終生産物」を創り出そう~
講師:木下一真 氏(株式会社バイオクロマト)
日時:7月23日(火) 18時30分~21時
場所:横浜 関内 さくらWorks 会議室
お申込みは下記でお願いいたします。
https://www.supportyou.jp/monoken/form/11/
7月24日のセミナーは「ものづくりの新しい潮流~3Dプリンタの展望~」です
「モノづくりの世界を変える」と言われている「3Dプリンタ」。「3Dプリンタ」の登場が、製造業にとってどのような変革をもたらすのか、専門家として著名な経済産業省製造産業局 素形材産業室の大胡田稔氏に基調講演をしていただきます。
また事例発表は、いずれも新横浜で「3Dプリンタ」関連事業を展開されているシーメット株式会社様と株式会社ジェイ・エム・シー様に「3Dプリンタ」の現状と今後の展望についてお話しいただきます。 今回の会場は、新横浜にある株式会社ジェイ・エム・シー様の会議室です。時間は午前10時30分から午後2時までの予定です。
セミナー終了後は、懇親会(昼食会)を行います。多くの方々に参加していただいて、講師・参加者との交流を深めていただきたいと思いますので、皆様奮ってご参加ください!!
横浜売れるモノづくり研究会 http://www.monoken.net/
日 時:7月24日(水)研究会セミナー(10時30分~12時30分) 交流懇親会(12時30分~14時)
会 場:株式会社ジェイ・エム・シー会議室
新横浜駅 徒歩2分
横浜市港北区新横浜2丁目5-5 住友不動産新横浜ビル
TEL 045-477-5757
会 費:3,000円(昼食代含む)
申 込:申込フォームに入力してください
「売れるモノづくり」についてのご相談を承ります
いいモノを作ってもなかなか売れない・・・
製造業の方々からそんな悩みをよく耳にします。
どんなに良い製品でも、市場に受け入れられなければ「モノ」で終わってしまいます。
「横浜売れるモノづくり研究会」は、神奈川県在住の企業支援の専門家やITの専門家など多種多彩なメンバーで構成されています。
「横浜売れるモノづくり研究会」では、「製品の売り方をどうしたらいいか」
という企業のご相談を随時受け付けています。
毎月一回第二木曜日には、ご相談される企業と専門家が面談を行っています。
売れるモノづくりについてのご相談はこちらにご入力下さい。
https://www.supportyou.jp/monoken/form/2/
<問合先>
横浜売れるモノづくり研究会 事務局
(株式会社ともクリエーションズ内)
〒231-0004
横浜市中区元浜町3-21-2 ヘリオス関内ビル4階
TEL 045-226-3475 FAX 045-226-3476
メディア掲載情報
- 2012年2月20日 神奈川新聞 横浜売れるモノづくり研究会代表・猪狩惇夫の記事が掲載されました
- 2011年11月11日 日本経済新聞 「この企業ここがポイント」内に横浜売れるモノづくり研究会についての記事が掲載されました
- 2011年11月9日 日刊工業新聞 「横浜売れるモノづくり研究会」活動の輪広がり100人規模目指す
- 2011年6月6日 「売れるものづくり」をどう実現するのか―「横浜売れるモノづくり研究会」の取り組み
- 2011年1月21日 ヨコハマ経済新聞
横浜で「売れるモノづくり研究会」が発足-中小企業を支援 - 2011年1月19日 カナロコ — 神奈川新聞社
売れるモノづくり研究会発足へ、中小製造業をコンサルらが支援
8月4日開催! 横濱音楽波止場 in 象の鼻
横浜から熱い音楽を全国に届けよう!
横浜には昔から、日本で最初に海外の音楽が入ってくる街でした。
横浜は、本物のジャズやR&Bが聴ける街でした。
それを求めて様々なミュージシャンたちが集まってきました。
そして、多くのミュージシャンがここで育ち、大きく羽ばたいていきました。
横浜は、まさに音楽の波止場です。
そんな横浜の街で育った音楽を全国に広め、新しいミュージシャンたちを生み出す、それが今年で3回目となる「横濱音楽波止場 in 象の鼻」です。
今年は8月4日(日) 、横浜港発祥の地である象の鼻に次世代を担う初々しいミュージシャンと、日々横浜で活躍するミュージシャンが集います。
今年はさらに最高のロケーションでの心地よい時間をご用意します。
そして、ここ横浜から 熱い音楽で、パワーあふれる元気を全国に届けていきたいと思います。
東日本に届け!横浜サウンド
音楽の力で、横浜から東日本へ元気を届けよう!
東日本大震災の被災地への支援は、まだまだ風化させてはいけません。支援の段階や内容も多様化し、横浜でも様々な支援の活動が行われています。 被災された方たちのことを思い、できることを、まず実行する。それが一番大事なことだと考えます。
そこで、私たちは、音楽の力、イベントの力、横浜の街の思いを結集して、東北へ元気を届けたいと考え、8月4日(日)に象の鼻パークにてチャリティ・ライブを実施することとしました。多様な方の参加による、パワーあふれるライブにしたいと考えています。
今回は、宮城県山元町の子ども達の育成のために、皆さまの善意を活用して頂くことで、宮城県山元町役場のご担当者とお話ができました。
そのためには、多くの方々の力が必要です。
ご協力、ご協賛のほど、ぜひよろしくお願いいたします。
2013年6月
横濱音楽波止場 in 象の鼻実行委員会
実行委員長 中山 一彦
横濱音楽波止場in象の鼻 公式ホームページ
http://ongakuhatoba.com/
実行委員会事務局
横濱音楽波止場 in 象の鼻実行委員会
(NPO法人横浜ひと・まち・くらし研究会 内 担当:辰巳)
TEL 045-264-4939 FAX 045-264-4940
URL http://npo-ycl.com/
Email contact(@)npo-ycl.com info(@)ongakuhatoba.com
<(@)を@に変更して送信してください>
〒231-0012 横浜市中区相生町1-26-2 小島屋ビル402号
職人の手づくりという希少価値
第1回「ごうどいち」を開催しました!
6月2日(日)、保土ヶ谷区帷子町の北川製粉・中庭で第1回目の「ごうどいち」が開催されました。このイベントは、保土ヶ谷区内の市民活動団体や商店主・企業で構成される「ほどがや 人・まち 文化振興会」というまちづくり団体が主催する朝市イベントで、保土ヶ谷産の野菜や名品が数多く出品されました。もちろん、保土ヶ谷宿名物会も、歴史を活かした宿場名物として出店させていただきました。 「ごうどいち」とは、かつて保土ヶ谷で年末に行われていた「市」の名称です。遡ること江戸時代、始まりは正月の品物を揃え |
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るための物々交換だったという話も聞きましたが、やがて規模が大きくなり、毎年暮れの28日には現在の神戸(ごうど)町から帷子町までの旧東海道沿いで賑やかに行われていたそうです。それは戦後まで続いていたそうで、実際に今回のごうどいちの来場者の中に、当時を語る方もいらっしゃいました。
イベント当日は主催者・出店者の想いが届いたかのように、前日までの雨の予報を裏切り曇り。しかも、時間と共に雲が減り、一時は照りつけるような快晴にまでなりました。お蔭さまで来場者のたくさんの笑顔に出会え、保土ヶ谷宿名物会のブースも賑わい、とても気持ちの良い、幸先の良いスタートとなりました。
尚、次回のごうどいちは7月7日(日)(残念ながら、この記事が掲載になる前ですね)。その後、8月はお休みさせていただき、9月からは毎月第1日曜日の開催を予定しています。是非、皆さまのご来場をお待ちしております。
季節の風物詩「鮎の塩焼き」
名物会の栗山さんは、保土ヶ谷宿の名所旧跡を和菓子で表現する名人なのはご存知の通りですが、季節ごとの上生菓子もまた、たくさんのお客様に長く支持され続ける銘品揃いです。 この季節の栗山さんの上生菓子と言えば「鮎の塩焼き」。その名の通り、鮎の塩焼きを模した和菓子ですが、これが中々、見事なまでに「リアル」。 先日、お客様がこれを買い、自宅で皿に移して仏壇にあげておいたところ、和菓子とは知らないご主人が「鮎が腐る」と思い |
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冷蔵庫にしまってしまったほど、だとか。そもそもは、栗山さんが手間暇を考えずに面白がって作り始めたものの、評判が良く、結果的に「風物詩の一つ」として何年も作り続けることになったそうです。
ただし、一度作るのに何日も費やすため、それほど数多くは作れないので「割に合わない」と栗山さんは笑顔で話しますが、このように、時には採算度外視でお客様を喜ばせる遊び心と裏切らない品質が、今の「栗山ブランド」を作っているのでしょう。
職人の手づくりという希少価値
数多く作れない、というのは栗山さんだけでなく、名物会各店の悩みでもあります。もちろん、名物会だけでなく、個人あるいは小規模の商店にとってはどこも悩ましいところでしょう。でも、裏を返せば、実はそれは「強み」でもあるのではないでしょうか? シッカリしていて余計なものが一切含まれていない、優しく懐かしい味付けでファンの多いごん太鮓さんも、「ほか弁」ができた当時はお客が減り続け、随分と悩んだそうです。それでも、自店の味を大切に、丁寧に商品を一つ一つ作り上げる姿勢を何十年も続け、今もなお、その姿勢を貫いています。 |
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イベントに出店する朝も、いつもの通り、一つ一つを丁寧に作り上げ、イベント会場に向かいます。時には集合時間に間に合わないこともあります。数だって決して多くは作れません。でも、それがお客様にとっては堪らなく「希少価値」になっています。ごん太鮓さんが登場するまでの「まだですか?」の声が多い事。ごん太鮓さんの登場から完売までの早いこと。実はイベント時のごん太鮓さんのお弁当は、私たち名物会にとっても楽しみの一つなのですが、お蔭でありつけないこともしばしばあります。
もちろん、栗山さんとごん太鮓さんばかりでなく、桑名屋さん・鉾立さん・保土ヶ谷せんべいさん、名物会の皆さまは、本当に職人・商人の「あるべき姿」であり、保土ヶ谷宿の「匠」たちと言えるでしょう。
【予告】保土ヶ谷宿ボーイズ誕生!?
最後にチラッと予告です。
最近、改めて気づいたのですが、そんな保土ヶ谷宿の「匠」たちなのですが、意外と「前面」に立っていないのでは? そんなワケで、只今、「保土ヶ谷宿ボーイズ(仮)」PR大作戦が浮上中です。(笑) 何が起こるか、乞うご期待!
レポーター プロフィール
山田浩和(やまだひろかず/Yamada,Hirokazu)
合資会社 笑う門 代表社員
保土ケ谷宿名物会事務局
1971年8月生まれ。獅子座のO型。保土ケ谷生まれの保土ケ谷育ち。
2003年、合資会社「笑う門」を設立。<オンリーワンの価値創り>のお手伝い。
会社設立時に制作したミニコミ誌がきっかけとなり、保土ケ谷のまちづくりにドハマリ。
現在、歴史や地産地消など、地域資源を活かしたまちづくりに幅広く取り組んでいる。
合資会社 笑う門 http://www.warau-kado.com
各社・各店・各個人が持つ十人十色・百人百色の目に見えない財産(経験・体験・知識・技術・ノウハウ・アイデア等)を活かした販売促進企画・商店街活性・まちづくりを推進しています。
業務内容 :
●シンボル制作
ネーミング / シンボルマーク / ロゴマーク / キャラクター企画・制作
●広報(コミュニケーション)媒体制作
・簡易版会社案内(A4版三つ折り)制作
・ニュースレター(A4版)制作
その他、フライヤー / ポスター / 小冊子 / 名刺 / のぼり旗 / エコバッグ / ユニフォーム、など
ヨコハマNOW掲載情報
佐々木彬文の「四季・色・贅・食」 第19話 誰にも教えたくないお店
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『誰にも教えたくないお店』は、誰にも一軒や二軒あるものです。今月はその様なお店のお話です。ですから詳しい場所は書きません。探しに行ってみて下さい・・・ 関内駅の市役所とは反対側、横断歩道を渡ると大きな坂東橋まで続く公園が有ります。 関内駅から歩いて2~3分位の駐車場隣のビルの7階にそのお店はひっそりと開いています。7階のフロアー全部がそのお店です。 |
プロショップとアマチュアショップ?!
俗に『pro shop』と言われるお店は、その業界のプロの方だけが出入りできる専門店です。
東急ハンズのように、それなりの素材は置いているけれど、誰もが仕上げられるように半分加工されている商品や、簡単に組み立てられる商品を置いているお店が、アマチュアショップです。
このお店はもちろんプロショップ! その分野の名士『御用達』のお店です。
店内に入ると、余り目立たない『普通のおじちゃんやおばちゃん』って感じのお客さんが、店長さんとお話をしたり、紙や筆を選んだりしています。お店の方がその方々を呼ぶときは『先生』です。 店内は『先生』だらけです。
ですから、そのお店に行かれたとして、見た目が『地味な客やな~!』と思っても、虚勢を張ってはいけません。トンでも無く偉い先生方がいっぱい買いに来られています。 もしも、あなたがアマチュアならば、プロのお店に入ったら謙虚に謙虚にしていることが一番かもしれませんよ。(笑)
接客に時間がかかる店です
さて、そのお店が扱っている商品は? 「筆・墨・和紙はもちろんのこと、額から掛け軸の仕立ての注文、落款様の朱肉から石まで書道用品の事なら何でも有ります。
初めて入店なさったら、どこをどの様に見て廻って良いのか判らないのではないでしょうか?!紙って言っても「種類」「大きさ」とても品ぞろえが多いのです。
特に、未だに、和紙の大きさは江戸時代からの呼び名で扱われています。『全紙』や『半切』厚みは匁(もんめ)です。(カッコ良いでしょ!!) これ等の言葉を使いこなせたら一人前です。お店の方も話し相手に成ってくれます(笑)
そうそうこのお店、お客さんとお店の方が話をしている様子がちょっと他の店と違います。
先ず天気の事、それから世間話が始まり、先生方の日頃の活動の話になり、そしてやっと注文となります。
早い話が、お一人おひとりに時間が掛ります! でも、決して話の腰を折ったり、割り込んではいけません。 他に買い忘れた物は無いか、気長に店内を見て回って待っていて下さい。
そうすると、面白い物を発見できると思いますよ。(笑)
旬を発見できます
これからの取扱商品『夏物 一位団扇・二位扇子』といっても何も書かれていない・・・これから皆さんがその画面に筆を入れる扇子や団扇の事です。 大量に買われるとお安くなります。大量?「はい、20貼りとかです。
皆さん、今年からmy団扇やmy扇子を持ちませんか?! あなたの手描きの団扇や扇子・・・素敵だと思うのですが。
葉書も年中ブームです。しかし、こちらは百枚単位ですが・・・一枚二枚で売っているのを見た事がないです。
筆の種類も、迷ったら手ぶらで店を出るほど多いです。もしも迷ったら、判ったふりして見栄をはらず、欲しい筆をお店の方に御相談下さい。でないと、本当に手ぶらで店を出る事に成るかもしれません。プロショップはアマチュアの方には敷居が高いことも「有」ます。(笑)
本来、プロショップは、プロが品選びをする場所
『誰にも教えたくないお店』の理由は、今迄書いて来たように、①大切で物静かなお客様[先生方]が来なくなると困ります。 ②ゆっくり静かに品選びをしたいので、あんまり混まれるのも困ります。③江戸時代からの習慣が崩れるのはもっと困ります。
エッヘン!私も一応プロですから、江戸時代からの買い方が身に付いています。 ある日突然、紙を注文するとき『何センチ×何センチで厚みが何ミリの紙を5枚頂戴』なんてできません。 『全紙ひと束』って注文する方がとても合理的ですから・・・アマチュアショップになって欲しくないと思うのが本音です。
最後まで私のコラムにお付き合いして頂いたあなたに、お店の名前を小さな声で言いますね、『翠祥園』です。関内駅近くのビルの7階です。一応年中無休です。お正月とかは休みますが、休日でも5時頃までは開店しています。平日は6時過ぎまでは開店しています。
http://store.shopping.yahoo.co.jp/touhoukoueki/okaidoku.html
ビルの入り口に目立たない看板が出ています
エレベーターで7Fへ、お店の入り口です
さて、7月から岩谷学園(横浜駅東口)の粋生倶楽部で第4水曜日に『文人画教室』を始めます。墨と和紙の世界です。
(講座名:文人画を描こう:http://www.ikiiki-club.jp/course_guide/bunjinga.html)
是非、粋生倶楽部にお問い合わせください。そして、マイ筆と和紙を探しに翠祥園に行ってみては如何でしょうか? もちろん、文人画教室の先生が買い方等教えてくれますから(笑)お店に行っても目線が違って、きっと楽しいと思いますよ!
文人画を描こう! (時間:10:30~12:00 場所:岩谷学園粋生倶楽部 TEL:045-444-2181)
7月24日(水) | 京野菜を描こう 筆の扱い方、絵具のお話・如何にデフォルメするか |
8月28日(水) | お花の基本 普段何気なく見ているお花を注視するようになります |
9月25日(水) | 菊/墨の描き方 涸墨の技・たら仕込みの技、筆遣いを楽しもう! |
文・絵:佐々木彬文(日本画家・裏千家茶道講師)/写真・構成:高野慈子
佐々木彬文画伯の今月の絵『遊』
題:遊 50号(大きさ 73cm x 117cm) 金額:250,000円(額なし)
額はご希望で40,000円くらいから
『遊』は1月の或る朝・・・その前日、50号のパネルに和紙を張り寝たのですが、筆順を何度も夢に見て、夢の中で繰り返し繰り返し『遊』を書いて居りました。
そのせいか、早朝4時前に目が覚めてしまい、寝れなくなりました。
冬の早朝です。 窓を全部開け、部屋の空気をキリっとした朝の新鮮な空気に入れ替えると、シャワーを浴びで身を清め、東雲色の雲を見ながら『えい!』っと書いた作品です。『遊』という字を書くというよりは、自己を解放し無の境地になり、筆にまかせ、筆の走るままに描いた作品です。
筆が遊んでとても良い作品に成りました。
(紹介文:佐々木彬文)
※絵のご購入に関するお問合せは、ヨコハマNOW編集長 辰巳までご連絡ください。
TEL 045-264-4939 FAX 045-264-4940 Email kabuki@waratte.jp
HEART&SOUL代表 原 正行 1958(昭和33)年9月7日横浜生まれ、12歳よりギターをはじめ17歳からミュージシャンとして活動。39歳の時に念願だったライブハウスを開業、現在は関内駅北口駅前に60年代から80年代の洋楽ヒット曲を演奏するライブハウス、ハート&ソウルの経営者。他にもミュージシャンとして演奏活動、作曲、プロデュース等、幅広く活動している。 |
第3章 ビジュアルによる影響と成長 3
神奈川テレビ(tvk)
さてロックポップスにおけるテレビ放送を書いてまいりましたが、横浜で育ったロックファンたちにとって忘れられないのがtvk(テレビ神奈川)です。tvkは、1972年に放送開始、洋楽邦楽のロックの歴史と進歩と共に我々にその貴重な情報、映像を与え続けてくれました。
まず70年代に放送された「ヤング・インパルス」。70年代に放送された日曜夜8時から9時25分までの1時間半番組。1組のアーティストをゲストに招き公開収録された演奏をたっぷり交えて生放送された番組でした。今もYoutubeで流れる貴重な映像はここからのものが多いです。出演者は、キャロル、甲斐バンド、南こうせつとかぐや姫、ダウンタウンブギウギバンドなど、当時まだデビューほやほやの彼らの特集が組まれました。驚くのは荒井由実だった頃のユーミン、浜田省吾、シュガーベイブの一員だった山下達郎が出演していた事。彼らは当時メジャーのテレビには殆ど出ていないし、その映像は殆ど残っていなません。なぜこんなローカルな番組に出ていたのか、しかもその映像の幾つかが残っているのが驚きです。
その後を継いだのが80年から83年まで放送されてた「ファイティング80’s」。宇崎竜童が司会で毎回1~2組のゲストの公開収録されたライブを放送するロック番組。出演者はダウンタウンBWB、RCサクセション、ジョニー・ルイス&チャー、シーナ&ロケッツ、デビュー仕立てのサザンオールスターズ、柳ジョージとレイニーウッド、ハウンドドッグ、クリエーション、佐野元春他そうそうたるメンバーが出演していました。
どっちの番組だったか記憶が定かではありませんが、アマチュアのバンドコンテストもやっていたはずで、ある時見てたら中学の同級生が映ってたりしました。横浜のロックファンはこの番組たちには本当にお世話になりました。
80年代後半には現在のハート&ソウルがある場所、セルテ11階にあったオールディーズライブハウス、リトルダーリンから生放送された番組もありました。ホストバンドはクリエーションの竹田和夫が率いるバンドで司会は湯原昌幸が担当してました。
tvkはローカル局にしては珍しく演歌、歌謡曲系の音楽番組がほとんどなかったのがすごいところで、横浜らしいといえるでしょう。また、音楽に強い局として関係者から評価を得ているようです。
70年代、開局した頃はtvkは番組もCMも充実しているとは言えなかったようで、それを埋めるために独自の手法でライブ映像やレコーディング風景などに、レコードの音を乗せたりした作品を作り流していた為、それが逆に売りになって音楽ファンを獲得しました。80年代に、MTVの時代になると、日本の他局では洋楽のプロモーションビデオを扱う番組は少なくて、小林克也が司会の人気番組「ベストヒットUSA」あたりでも、1曲がフルにかかる事は1回に一曲位。しかし、tvkではかなり充実した音楽ビデオを流す番組を多数持っていて、「ソニーミュージックTV」では、ほとんどの楽曲をフルに見ることができました。他にもミュージックトマト、おしゃべりトマト(ミュートマ、オシャトマ)などがありました。視聴者からのリクエストに答える「ビルボードトップ40」は、1982年開始以来現在まで続いていて音楽番組として最長記録を誇りギネスブックにも認定されています。
横浜、街と風(青い日記) 10
事件
ボクシング部は、夏休みに入ると東京の自衛隊の宿舎で合宿。自衛隊員の後をランニングすると、そのスピードとスタミナにびっくり。彼らの半分も走れません。あまりに過酷な練習メニューに、泥の様に眠ってしまい、朝目覚めると、1年生全員の体中にいたずら書きが。。。真夜中の間に素っ裸にされて書かれていたようです。そして秋ごろにはスパーリング(スパー)もやれるようになりました。スパーで気がついたのは、パンチには人それぞれ個性があること。スピードは速いのにぜんぜん効かないパンチの人だったり、ゆっくり飛んでくるのに当たると石みたいに硬いパンチの人だったり、テクニックやスタミナは練習でどうにもなりますが、パンチだけはある程度天性のモノがあると感じました。
スパーは、16オンスのバカでっかいグローブを使用しますが(試合は確か12オンス)、顔の前でガードしてるつもりが重たくて気がつくとすぐ下がってしまいます、ヘッドギアは視界が狭くなりマウスピースは呼吸がしづらくなります。この状態でフットワークを使い戦うと、1ラウンドたった2分間が10分くらいに感じます。ボディにご機嫌なパンチを食らうとしばらく呼吸が出来なくなりますが、その間も敵のパンチは襲い掛かってくるし、フットワークを止めることはできません。頭にいいのを食らうと意識がなくなり気がつくと倒れています。軽い脳震盪を起こすようでほんの数秒なのに何分かたったような気がします。その時って本当に目の前を星がぐるぐる飛びますよ漫画みたいですが。。。
2年進級を目前にしたある日いつものように2年に”ヤキ”を入れられ帰ろうとすると、1年部員の一人の様子がおかしい。その場は帰りましたが翌日学校に行ってみると大事件になっていました。
帰宅後家族に病院に連れて行かれたその部員は、かなりの重症だったようで、真相を聞き激怒した親が学校に乗り込み、”ヤキ”が発覚。新聞にも載ってしまう大問題になりボクシング部は休部。その後廃部が決定しました。ここに数々の名選手を生み出した同校ボクシング部歴史は幕を閉じ、なすすべもない我々1年部員は途方に暮れるばかりでした。
進級
廃部が決まってから、まったく力が抜けたような状態になり、学校にもあまり行く気がなくなってしまいましたが、親との約束があったので卒業だけはしなくてはと思い、とりあえず2年に進級。この頃大学生だった兄がやっていた関係で、新聞配送のアルバイトを始めました。
朝3時半頃起き。自宅の上大岡から弘明寺にある会社に行き、そこで売店ごとに新聞を区分けして梱包。ハイエース(バン)に乗り込み京浜急行の各駅の売店に新聞を配送するアルバイトで、まだ免許はなく助手でしたが、配送中周りは大学生や社会人ばかりだったので、女の話や大人の話いろんな話が楽しくて、仕事は結構ハードでしたが楽しい時間でした。
ラジオから流れるFEN〈米軍放送)の音楽も楽しみの一つ。それが終わると7時位。それから学校に行きましたが、疲れていて授業中しょっちゅう居眠りしていました。学校が終わると綱島にあった自動車教習所に自動二輪の免許を取りに通い始め、当時バイクは、まだ原付、小型、大型の3種類しかなく、大型をとりにいきました。350CCのバイクで講習を受けめでたく取得。ホンダの250ccを中古で購入してからまったく羽が生えてしまいました。
(HEART&SOUL代表 原 正行)
HEART&SOUL
〒231-0014 横浜市中区真砂町3-33 CERTE11階
営業時間
平日:OPEN 19:00 CLOSE 4:00 LIVE START 19:50~
休・祝日:OPEN 18:00 CLOSE 24:00 LIVE START 18:40~
TEL:045-664-5569
JR関内駅徒歩より1分
地下鉄関内駅より徒歩1分
Websie http://www.heartandsoul-live.com/
わびぬれば 今はた同じ難波なる 身を尽くしても 逢はむとぞ思ふ
♪わびぬれば 今はた同じ難波なる 身を尽くしても 逢はむとぞ思ふ♪
絵・千絵崇石 |
読み人:元良親王 (もとよししんのう ) 現代語訳 by 千絵崇石・・・貴女の事が世間に知れてしまった以上 何もしないで 悩んでいるくらいならたとえ・・命を捨てることになっても あなたに逢いにゆきます。 元良親王は 心の病のために10代で天皇の座から降ろされた陽成院の息子です。風流でプレイボーイだった元良親王は源氏物語の主人公のモデルではないかと推測されてもいますが、約30名程の女性との歌のやり取りが今でも残されているらしくその中でも、一番スキャンダラスなロマンスとして有名なのが、宇多法王の寵愛を受けて3人も子供をもうけている京極御息所・藤原褒子(ほうし)とのロマンスです。 |
藤原褒子はとても美しい女性で最初は宇多法王の息子の醍醐天皇のお妃さまとして入る予定だったらしいのですが、宇多法王が彼女を見て気に入って自分の愛人にしてしまったといういわくつきの美女。
この歌は彼女との関係が明るみに出てしまってから、親王が彼女に送った歌だそうです。
平安時代でもやはり女性は男性達の権力争いや政治の道具としての政略結婚が普通だったんですね。そういう意味では一般庶民のほうが何の問題もなく恋愛結婚が出来たのかもしれません。でもその頃の女性って、自分の意志とは全く関係ない所で自分の伴侶を決められて、辛くなかったのかしら?と思います。まあちょっと前まではお見合いと言う結婚形態があり、結婚式直前まで自分の夫の顔さえ見たことがなかった、なんていう話も聞きます。よっぽど嫌でない限りうまくいってしまうものだったのかもしれません。ちょっときわどい推定ですが。女性って一度身体を許すときっと、その男性をよっぽど嫌いでない限り情が出て来て愛してしまうのでしょう。 その上自分の人生での選択肢がない場合には、ただひたすらその状況に耐えて生きてゆく事しか生きる道がなかったのだと。
京極御息所も自分の父親の様な宇多法王に愛されて、3人も子供を産んだとしても、元良親王と恋に落ちてしまうと言う事は、心の中では本当に満たされてはいなかったからだと思います。女性は本当に愛する男性と添い遂げることが出来たら、他の男性に目移りはしないと思います。ただし相思相愛という関係が一生続くかどうかはわかりません。そこが移り変わる心の不可思議な所です。現代はソウルパートナーと言う言葉があって、自分の魂の方割れの存在を信じる女性達が増えています。私もその一人ですが、本当に自分の魂の方割れと出合うにはもうすこし自分自身を深く知る必要があると思っています。人生とは自分を知る旅。私達一人ひとりに魂の方割れが居るのなら、その人と出合うには自分を百パーセント知らなくてはもし出会っても気がつかないかもしれません。でもそんな魂の伴侶といつの日か出会えることを信じて生きて行ける時代に生まれて、やっぱり良かった。
先日あるお寺で、霊能力を持つ住職さんに出会ってお話しを伺ったのですが、私は平安時代と鎌倉時代に過去世で生きていてその時も和歌に関わっていたという事でした。今その過去世の私が現代の私を指導して下さっているんですって。その時代の私は、女性として本当に愛した男性と添い遂げることが出来たのかしら・・・
(早苗ネネ♪)
新宿シャンパーニュ 電話 03-3354-8540(昼) 03-3354-2002(夜)
新宿一丁目。元新宿厚生年金前。http://www.champagne-live.com/
早苗ネネさん プロフィール
木々や鳥や魚や精霊…人間以外の存在達との交流が当り前に語れるくらい、いのちのひろがりに気づくと、共に生きている喜びや、苦しみや悲しみにもナイーブになる。
心と野生がひとつながりになると……こんな風に人は年を重ねられる。ひとりひとり、ユニークにもっと自分になれる。
早苗 Nene さんは、そういう人生の先駆者です。 感性を解放しながら、40代で高校生に仲間入り卒業後、マウイのカレッジに留学中、突然半生記が受賞しました。
そんな新たなシーズンを迎えて、今エッセンスを分かち合いたい。
<天性の歌い手>というだけでなく、その存在感、溢れる活性のバイブレーションは、光のシャワーのよう。彼女と語り歌い、魂の成長を旅している現在の、自分の位置を確かめてみませんか?
荻津郁夫建築設計事務所 代表 荻津郁夫さん
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なぜ建築家になろうと思ったのですか
小さい時からものを作る仕事をしたいと思っていました。模型飛行機を作るのが好きでしたね。竹ひごで形を作って紙を貼るものでしたが、夢中になって作っていました。小学校6年生の時に記録会に出場して、なんと全国一位になって文部大臣賞を受賞しました。
高校のときは理系クラスにいたのですが、理系の中で一番文系に近いと思った建築学科に入学しました。(秋田高校から京都大学工学部建築学科に入学されました)
京都での大学生活はのんびりとしてとても楽しいものでした。大学院に2年間行って、その後就職しました。
大手の設計会社に就職されたのですが、どのような経緯で独立されたのですか。
大学卒業後、山下設計に入社しました。それで東京に出てきました。そこには5年間いました。企画部門に配属されて、いろいろなコンペに関わりました。青山にある「こどもの城」も、我々のチームがコンペを勝ち抜いて設計したものです。
私は、自分で現場に行って苦労して作り上げていく仕事がしたかったのに、大手にいるとそれができなかったので、退社しました。
その後、大学の同級生の建築設計事務所に合流しました。仲間たちと一緒に仕事をして、いろいろな経験を積むことができました。箱根の「強羅花壇」や乃木坂のビルなどはその時代に手がけたものです。
40歳を迎えて、そろそろ一人でやってみたいなという気持ちになり、思い切って独立しました。それが1994年のことです。最初は北品川で女房と二人で事務所を始めました。有難いことに独立したとたんに「強羅花壇」の懐石料理店や秋田県の雄勝町の文化会館の設計を依頼されて忙しくなりました。それでスタッフを採用したのですね。
秋田は私の故郷ということもあり、様々なご縁でいろいろな仕事をさせてもらっています。例えば、「サテライト六郷」(競輪の場外券売場)や「勝月本店」(和菓子屋)、「あぐらフォースクエア」(地ビールのレストラン)などです。山口県のコンサートホールを設計した経験が評価された雄勝町の文化会館などの仕事もやりました。月に2回くらいは秋田に行っていましたね。
横浜に事務所を移されたのはなぜですか。
1992年にマイクル・グレイブス氏が設計した「アルテ横浜」に引っ越ししました。ここはポートサイド地区で最初に建てられた高層マンションでした。
それで職住接近にしようと1998年にポートサイド地区に事務所を移したのです。
ずっと横浜で仕事をしていたのに、なかなか地元での実績がなくて・・。2008年に手がけた山手の個人住宅が初めての横浜での仕事になりますね。
電気ヒートポンプによる低温水躯体蓄熱暖房のシステムを構築し、中央に3層の吹抜けを持つ住宅の全館暖房を低ランニングコストで実現しています。
私の代表作品の一つになっています。
この仕事を受注した経緯が、まさに今風なのです。
「横浜にエリア045」という建築家を集めたマッチングサイトがあって、そこから来た注文でした。
「ヨコハマNOW」で連載していただいてる「AAスタジオ」の活動はどのようなものですか。
住宅という器からではなく、「暮らしをデザインする」ことから始めようという意識を持ち、そのような意識を持ったクライアントと出会う機会を増やさなければという問題意識を持った建築家たちのグループが「AAスタジオ」です。元町の代官坂に建築設計事務所がある青木恵美子さんが中心となって結成されました。 毎週土日に交代で建築に関する相談会を開催しています。 今手がけている桜木町の物件も、インターネットで「AAスタジオ」を調べて訪ねてきた方からの注文です。3人の建築家と面談して、私のところに依頼されました。 桜木町駅すぐの築50年のアパートを三分の一残します。町の喧騒の中でプライベートな生活を守ることと、施主さんが生まれてからずっと住んでいる町との関わりを保ちたいという希望を実現するためです。残すアパートの部分は人が集まる場所にしたいそうです。年末には完成予定です。 |
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設計のお仕事で大変なことと楽しいことは何ですか
まず仕事にたどり着くまでが大変です。仕事が始まっても完成するまで、短くても一年間長いともっとかかります。その間に、様々なトラブルがあります。そのたびに新しいアイデアが湧いてきます。
楽しいことは、どの仕事でもそうでしょうが、クライアントから喜ばれることです。「こんなものができるとは想像していなかった」と驚かれるのが嬉しいですね。
今後されたいことはありますか。
ようやく横浜での仕事が増えてきました。現在、桜木町の個人住宅と新横浜の教会を手掛けています。これからは横浜の歴史建造物や街並みに関わる仕事もしていきたいですね。歴史的な町のなかで調和しながら新しいさのある建物を作っていきたいと考えています。町づくりに対しても提案していきたいですね。もっともっと横浜と関わっていきたいです。横浜らしい多様な建物を多様なデザインで作っていきたいです。
一から手間ひまかけて、お客様と話し合いながら新しいデザインを提案していきます。リフォームもやっていますから、何でもお気軽に相談ください。(笑) 荻津さんにとっての横浜は・・・便利な街です。コンパクトな中に何でもそろっている。それから海が見えるのが気に入っています。(高層階にある荻津さんの事務所からは海が見えます) 自分にとってベースになっているところです。結節点なので、どこに行くのも横浜が起点になります。 |
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荻津さんは私の高校(秋田高校)の2年先輩です。昨年、Facebbokを通じてお知り合いになり、それから交流を深めています。著名な建築家の方ですが、とても気さくで楽しくて素敵な先輩です。
(インタビュー・文・写真:ヨコハマNOW代表 渡邊桃伯子)
関内水辺の旅
横浜の中心街の一つである関内(かんない)は一帯は、江戸時代に埋め立てられてできた陸地です。開港当時、現在の関内駅のところにある吉田橋に関門があって、その内側を「関内」その外側を「関外」と呼んだことが地域の名称の由来と言われています。
5月19日、金一グループの坪倉さんのお誘いで、横浜水辺のまちづくり協議会のメンバーが主催された「UDCY水辺班 子安浜クルーズ」に参加しました。
横浜水辺のまちづくり協議会
http://yokohama-mizube.com/reportmap.html
船が出発したのは大岡川の桜桟橋です。(京浜急行線黄金町駅のそば)大岡川は川の両岸に桜並木が並んでいて春のお花見の時期はとてもにぎわいます。黄金町は、以前は風俗店が立ち並んでいて、治安の悪い時代もあったようです。1963年に公開された黒沢明監督の「天国と地獄」の舞台となった町でもあります。現在は、アーティストの町として生まれ変わっています。
黄金町エリアマネジメントセンター
http://www.koganecho.net/
大岡川にかかる橋の下をくぐって船はゆっくり北上していきました。橋を下から見るなんて、生まれて初めての経験です。
横浜市が管理している橋の数は1744橋です。(2013年4月1日現在)多くの橋が老朽化していて、掛替工事を進めていく計画とのことですが・・・。実態はなかなか進んでいないらしいです。
横浜市道路局 橋梁課
http://www.city.yokohama.lg.jp/doro/kyouryou/
大岡川は思ったよりもきれいで臭いもありませんでした。ただ大量のクラゲが発生していました。昔はこの川で材木を運んでいたのでしょう。周囲には材木店やその名残りがありました。
船は南区の蒔田公園のところでUターンして中村川に入りました。中村川は高い壁に囲まれていて、周りはマンションで大岡川と風景が一変しました。下っていくとJR京浜東北線の石川町駅が見えてきました。石川町駅のホームは川の上にかかる橋なのです。下から見上げて改めて実感しました。 中村川は元町と中華街の間を流れているのですが、大岡川と比べると汚かったですね。 中村川から海までの地域は、50年ほど前には水上生活者の船が多くあったそうです。西の橋のたもとには今だに一泊1000円で泊まれる(?)と噂されている船が浮かんでいます。 昭和の横浜~水上生活者の記録~ 船は海に出ました。やはり横浜ベイブリッジは大きかったです。日曜日だったのでクルーズ船も何隻か出ていました。みなとみらい地区は海から見ると、高層マンションの乱立地域ですね。あのマンションうちのいくつの部屋から海が見えるのだろうか・・と思わず考えてしまいました。 横浜港に米軍施設があるのをご存じですか。神奈川区の「瑞穂埠頭」にある「横浜ノース・ドック」です。軍用艇が停留していて物々しい雰囲気でした。写真を撮るのも憚られました。 横浜市政策局 基地対策課 倉庫群の間をかいくぐり、船はいよいよ本日のメインスポット「子安浜」に到着しました。ここは、江戸時代から変わらぬ水辺の景色を保っているという地域です。住宅と船着き場が一体となっている漁師町の不思議な光景を目にしました。船はまだ現役で漁に出ているものもありましたし、廃船(?)だろう・・というものもありました。 それにしても横浜駅のすぐそばの川にこれだけの漁船が停泊しているとは・・驚きの風景でした。漁師さんたちは今も「あなご漁」などに出ているそうです。神奈川区のタウンニュースに漁師、谷さんのインタビューが掲載されています。(谷さんは以前、NHKの「キッチンが走る」に登場されていました。) 子安浜の風景(横浜街角社会科見学より) |
(クリックで写真拡大) |
子安浜の漁師 谷正則さん(神奈川区のタウンニュース2013/06/02)
http://www.townnews.co.jp/…
桜桟橋から乗船して三時間。観光スポット、米軍施設、漁師町 と様々な顔を持つ横浜の一面を感じた貴重な旅でした。
※当日ツアーに参加された方のアルバムです。
「20130519UDCY水辺班 子安浜クルーズに行ってきました」
http://ganymean.sakura.ne.jp/…
ビジネス梁塵秘抄「遊・献・学」(第3回)
大浦総合研究所 代表/大浦勇三
ビジネス梁塵秘抄「遊・献・学」(第3回)
遊びをせんとや生れけむ、戯れせんとや生れけん
遊ぶ子供の声きけば、我が身さえこそ動がるれ
- 梁塵秘抄 -
平安時代末期以降の11世紀後半から12世紀にかけて、当世風(今様)の俗謡、民謡、和讃などは下層階級にあたる老若男女に広く歌われましたが、武士階級や、上層階級の貴族、皇族の一部にも親しまれ、後白河法皇のように編者として、積極的に関わる支持者も現れました。この時代は、乱世でもあり、人々が生死の間をさまよう大変な時代でした。一方で管理とは無縁に近く、ひたすら自己責任・自由意志のもと、人間の本能に向き合った生き方をするしかない時代でもありました。どんな方法や手段を用いてでも生き続ける意志が要求され、食べることは生きるためのエネルギーであることを超えて、生命の輝き・日々の刷新でもありました。食い扶持を探し求めながらも、時に遊び、時に学ぶ生き方に人間の原点を見る思いがします。現在、労働の二極分化が静かに進行し、”生きる・働く”ということの再定義が求められています。“知的創造力(知的好奇心)”や“コミュニケーション力(関係性構築力)”の周辺を除く仕事が、静かで着実な形で人間からコンピュータにシフトしているように感じます。今年”プロ将棋界”で起こったことが、限定した用途の形をとりながらも様々な分野に広がっていきそうです。ただ、本質は“ライバルではなくパートナー”であることをもう一度再確認しておきたいものです。
“遊びをせんとや生れけん” 「遊」
常に相手より、長い刀で勝ってきた小次郎への 逆手をとった作戦といえる
勝機を冷静に見極めたうえで、周到に準備 神仏は敬うが、頼らない自然体
野生動物は、最後まで弱気を見せないもの 土壇場でも孤独だけは怖れない
宮本武蔵といえば巌流島の決闘。相手の佐々木小次郎は、三尺三寸(約1メートル)の太刀(備前長船長光)、通称”物干し竿”による剣法”燕返し”で数多の敵を倒してきました。対する宮本武蔵は、常に相手より長い刀で勝ってきた小次郎への逆手をとった作戦をとり、佐々木小次郎の刀より長いものを用いたと伝えられています。武蔵は剣術家・兵法家として二天一流の祖であると同時に、重要文化財に指定されている”鵜図”"枯木鳴鵙図(こぼくめいげきず)”に代表される水墨画にも類まれな才能を発揮しました。剣と同様に一切の無駄をそぎ落とし、震えあがるような斬れ味を見せています。晩年には熊本市近郊の霊巌洞で”五輪書”を執筆、書名の由来は密教の五輪(五大)からきたといわれ、”地・水・火・風・空”の五巻からなります。あれほどの剣豪でも”最後は自分の心との闘い”であることを窺い知ることができます。
“仕事をせんとや生れけん” 「献」
顧客の意向を重視し顧客の夢の実現に応える デザインはあくまで双方向で推進
顧客の反応をみてデザインを固める 韓国の躍進、日本製造業への冷徹な分析
技術では及ばなくともデザイン力で勝負できると見抜く 負けない自信を強める
デザインという概念が従来の範囲を越えて使われるようになってきました。ビジネスモデルに直結し、収益構造の根幹と密接につながるようになっています。その本質を見抜き、日本の製造業に正面から挑戦してきたのが韓国企業、特にサムスンです。日本企業はもう一度、モノづくりの再定義が求められているといえそうです。企業におけるデザインの位置付けは、従来の意匠・造型だけでなく戦略や組織・制度など、“要素間のあらゆる関係性の設計”までをも含み、全体像の見える化と伝達・共有に向かっています。商品の構想・企画・開発からブランド確立までをも統合するものです。“デザイン”の問題を重要な戦略テーマと捉え、広義の技術/スキルとして新しく定義し直し、組織文化風土の中に浸透させていくことが急がれているように思います。
“学びをせんとや生れけん” 「学」
成功する人間は、失敗の反省もしっかりするが 成功の内省も手堅く怠らない
生きる道具を大事にすると 道具も人間の期待に応えて、成功に導いてくれる
武士は、トンボを勝虫と改名 トンボもムカデも、死を前に絶対後退りしない
最後のよりどころは、いつの時代、どこの国でも“人の心”ということがいえそうです。失敗だけでなく成功した時の対応が、人間のその後の成長に大きな影響を与えるということでしょうか。トンボは絶対に後退しないということから、戦国時代は武士の世界で勝虫として重宝されました。後退りせず、ひたすら前に向かっていくということです。確かに、子供の頃のトンボ捕りでは、いつもトンボの正面に立って捕まえたことを思い出します。作家の村上春樹さんは、最近”魂のネットワーク”の大切さを語っています。人と人のつながりに強い関心を持つようになったこと、生身の人間への興味が増してきたことを理由にあげています。音楽の世界でもダニエル・ラノワが”ソウル・マイニング(魂の採掘)”の思いを伝えています。“何でもいいから深いところへ入れ。深いところではすべてが音楽や法則になる”と詠ったのは詩人リルケです。
「遊びは仕事、仕事は遊び」
「仕事は学び、学びは仕事」
「学びは遊び、遊びは学び」
今回とりあげた「遊・献・学」それぞれの4行文は、拙書「ビジネス梁塵秘抄(一)~(五)」(全10巻)から抽出したものです。次回以降も「遊・献・学」から各々4行文を一つずつ抽出してご紹介していきたいと思います。
「ビジネス梁塵秘抄」購入ご希望の方はこちらからどうぞ!
http://www.syplus.jp/ooura/
(第3回了)
大浦勇三(おおうら ゆうぞう) プロフィール
大浦総合研究所 代表 (http://www.mmjp.or.jp/ooura/) 石川県七尾市出身。 筑波大学大学院講師、城西国際大学客員教授、名城大学講師、産業能率大学講師、中小企業大学校講師などを歴任。 主な著作物:
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セカンドライフ列伝 第12回 大伴旅人
榎本技術士オフィス/榎本博康
第12回 大伴旅人
エリート軍人から、最晩年での叙情詩人への変身
天皇制を支え、特に軍事面で日本の統一に多大な貢献をしたのが大伴氏でした。そのエリート貴族の家系に生まれたのが旅人(たびと)(天智天皇4年(665年)~天平3年7月25日(731年8月31日)です。
旅人が正史である続日本紀に突然姿を現すのが、710年(和同3年)元旦であり、朝賀の儀式に左将軍(正五位上)として供挙します。堂々たる46歳の彼は、朝賀する南の隼人、北の蝦夷(えみし)を、彼の騎兵と共に率いて朱雀大路を行進しました。隼人と蝦夷はそれぞれの民族の正装をし、祝賀の舞を披露することで、正に日本の統一を象徴したのです。平城京遷都の大イベント注1)であり、今日の我々が呼ぶ奈良時代の幕開けでした。
当時は702年(大宝2年)に頒布した大宝律令により、統一国家としての政体を整えて間もない頃ですが、その版図は九州南端と白河以北の東北には必ずしも及んでいませんでした。同年に派遣された遣唐使の目的は、大宝律令で定めた日本という国名の承認と、唐における律令制度運用の実態調査にあったと言います。後に旅人の良きライバル歌人となる山上憶良が参加していました。
720年(養老4年)に大隅国(現在の鹿児島県東部)で隼人の反乱があり、大隅国司が殺害されました。これは朝廷に隼人征伐を正当化させる格好の材料を与えました。56歳の旅人は大将軍として1万人以上の大軍を率いて平定に当たりました。
そのような旅人が64歳の528年(神亀4年)に太宰師(だざいのそち)として九州に赴任すると、それより2年早く筑前国司として赴任していた山上憶良との交流もあって、叙情詩人に大変貌しました。万葉集に残された彼のおよそ78首の内、殆どがこの大宰師時代に詠まれたのです。3年近くの赴任の後に帰京し、翌年に67歳で没しました。
既に山上憶良については紹介しました注2)が、大伴旅人もまた、革命的な歌人であったわけです。どうして最晩年にそのようなことができたのでしょうか。例によって私の妄想と不勉強で、史実を逸脱しながらも、その謎を追ってみたいと思います。
その出自と生い立ち
大伴氏は名門であり、天孫降臨まで遡ることができるということですが、そこははしょって父母から始めましょう。父は大伴安麻呂、母は巨勢郎女(こせのいらつめ)ですが、父は古代最大の内戦である壬申の乱(672年)で、当初は劣勢であった大海人皇子(おおあまのおうじ、後の天武天皇)側に付いていました。キングメーカーという役割です。彼は6男でしたが、兄が亡くなると参議として公卿に列し、大納言にまで昇進して大伴氏の総領たる地位にありました。(なお壬申の乱では大伴榎本氏(後の榎本氏)の活躍もあったそうです、余談ながら。)
その長男が旅人(たびと)ですが、今日的な目からはずいぶんとカッコいい名前です。弟は田主という地味な名前ですので、元は田人ではなかったかという説もあるようですが、それは忘れましょう。
旅人がどのような青春を送ったのか、どのような公務を果たしてきたのかは分かっていませんが、冒頭の平城京の開都セレモニーに統一国家の威信を背負った演出で登場したのでした。あをによしの奈良の都。何と(710年)きれいな平城京と後世の受験生は暗記し、ちょっとぶきみな「せんとくん」が1300年を記念したマスコットになりました。そんな一見華やかな時代ですが、663年の朝鮮半島での白村江の戦いでの大きな敗戦と、その後の新羅との緊張状態での防人の設置と新羅外交の継続、その新羅の後ろ盾である唐との外交、激しい権力闘争である壬申の乱(672年)、隼人や蝦夷の辺境での反乱、そしていつまでも続く朝廷をとりまく権力闘争と、国家的課題が山積していた時代が、次の段階に進もうとしていた時でした。
第一の人生~軍人としての隼人の反乱静定
父安麻呂が714年に没し、旅人は一族の長となりました。すると715年に従四位上、中務卿、718年に中納言に昇格します。そしてその年に長男の家持(やかもち)が誕生、ずいぶんと遅い年齢での子供で、大いにめでたいことでした。
なお、彼の子供は家持(718~785)、書持(ふみもち、生年不詳~746)、女児の留女之女郎(るめのいらつめ、生没不詳)の3人で、いずれも母は丹比郎女(たじひのいらつめ)とされています。この家持が大伴氏の長となるのですが、万葉集の編者のひとりであり、歌人としても優れていました。
そのような平城京における幸せの絶頂期に、降って湧いた事態が720年の隼人の反乱です。征隼人持節大将軍に任命された56歳の旅人は、家門の誇りを持って軍勢を率いて九州の南端に遠征したのでした。政治的に劣勢になりかけている大伴氏を維持・興隆させるには、絶対に負けることのできない戦いです。政敵達を喜ばせるような結果にはできません。1万人以上の兵を率いて旧暦3月に出発し、真夏の炎熱の戦いを、野営を重ねながら続けたのです。隼人は集落を放棄する時に、必ず火を放って旅人軍が使えないようにしました。南下すれば右手に桜島があり、718年の噴火のなごりの煙が立ち上っていると共に、足元に堆積した火山灰(シラス)は、雨が続けば足をとり、晴れて風が吹けば舞い上がって旅人の軍勢を苦しめました。台風の襲来もまともに受けました。このような土地で、地勢を知り尽くしている隼人に対抗するのは容易ではありません。
6月には制圧したと報告したのですが、8月に都で右大臣藤原不比等が没し、旅人は急遽呼び戻されます。しかしながら、隼人いまだ平らかならずということで、副将軍(笠御室と巨勢真人~旅人の母方です)以下は現地に駐屯させました。彼らの帰京は翌年の7月であり、隼人の斬首・捕虜は1400人以上であったといいます。当時の隼人の人口は5~6万人という推定がありますから、そのトップ3%を排除したものであり、彼らの戦闘能力を壊滅させるには十分でした。その後723年に薩摩・大隅の隼人624人が朝貢して民族舞踊を奏上し、名実共に大乱は鎮静されたのでした。
第一の人生~歌人としてのアンラッキーなデビュー
さて、724年(神亀元年)の3月に即位して間もない聖武天皇が吉野の離宮に行幸しましたが、60歳の旅人が一行に加わりました。この時に朝廷への服従奉仕の心を結集させた、次のような歌を作りました。当時の歌とは、このように政治的なものだったのです。
暮春の月に芳野の離宮(とつみや)に幸(いでま)しし時に、中納言大伴卿の勅(みことのり)を奉(うけたまは)りて作れる歌一首※
み吉野の 芳野の宮は 山柄(やまから)し 貴(たふと)くあらし 川柄し 清(さや)けくあらし 天地(あめつち)と 長く久しく 万代(よろづよ)に 変わらずあらむ 行幸(いでまし)の宮
反歌
昔見し象(きさ)の小河を今見ればいよよ清(さや)けくなりにけるかも
この歌の意味は全く解説不要なほどに明確というか、平明であり、形式としての新規性はなく、内容も天皇賛美に徹しているだけなので、従来は余り評価が高く無かったといいます。しかし最近はこれを評価する意見が出てきているようです。私には詳細まで分かりませんが、聖武天皇即位の宣命の詞句を援用し、当時の諸思想に典拠しているという、時代の教養にしっかりと根ざしながら、さすが名門の頭首とされる格調を備えたものと言います。私は語調を整えての繰り返しを多用した日本語表現に才能を感じます。この言葉の用法は、この後の彼の歌のスタイルに多く見られます。反歌での「いよよ」で全体の調子を受け止めて終わりに至る流れも見事と言う気がします。
でもこの歌はボツでした。先の歌の冒頭の※印の位置に、こんな但し書きがあります。「未だ奉上を経ざる歌」、要するに天皇から制作を命令されたのに、未提出ということです。中納言が宿題を出さないということがあり得るのでしょうか。私は次のように勝手に解釈しています。
ひとつは宮廷歌人の存在です。当時は山部赤人(やまべのあかひと)がその頂点であり、724年の吉野行幸でも多くの歌を奉上しています。そこに中納言が割り込むのを好ましくないと考える人が居たのかもしれません。それは赤人のバックに勢力を強めている藤原氏の存在を抜きには考えられません。大伴氏が新天皇との距離を縮めることに、こころよく思わなかったのではないでしょうか。病弱な聖武天皇を補佐する、この絶好のシチュエーションを独占しようと図っていました。
この60歳の作品が万葉集に残された旅人の最も早い時期の作品です。未奉上でも残ったのは、息子の家持が編集者だったからであり、同じ理由でこれ以前の作品は少なくとも家持の手元に無かったことは確実と思います。処女作でこれだけのものが書けるということは、旅人が相当に普段から勉強をしているということです。軍人だからと言って、文化的な教養をおろそかにはできない時代だったのです。次の時代の平家は武家であったものの貴族化しました。鎌倉時代で武家の文化が確立していきます。はるかにそれ以前では、宮廷内での文化闘争も欠かせないものでした。旅人は漢詩も作れれば、当時の新思想である仏教への理解も深かったと言われています。
歌を作ることに、旅人は急速に意欲を失ってしまいました。軍事の世界では一目置かれる大伴氏ですが、宮廷内では中納言といえども側近達のガードを越えることができませんでした。平城京の風は彼には冷たく感じられました。
第一の人生~失意の大宰府行き
726年に山上憶良が初代筑前国守として赴任していましたが、728年には旅人が太宰師(そち)に任命されました。従来は太宰師が外交と内政を兼ねていましたが、太宰師は外交に専念し、国内問題は筑前国守が担当するという分担になったのです。当時は白村江の戦い(663年)から50年以上を経て、新羅との関係は外交交流を通じて安定化してきており、教養の高い旅人が担当することは適任であると言えるでしょう。
しかしこの人事の本当の意図は長屋王(ながやのおおきみ)を孤立化させるために、有力な長屋王派の旅人を遠ざけたことにあります。果たして729年に藤原四兄弟は、彼らの勢力確保のじゃまになる長屋王を服毒自殺に追い込みました。(後の737年にこの4人とも揃って天然痘で死ぬと、人々は長屋王の祟りと噂し、藤原氏の謀略であることは公然化していました。)この謀略の邪魔をされないように旅人を遠ざけたものと、考えています。果たして翌730年に旅人は大納言に昇格して都に戻され、731年に従二位と極めて高い位に就きました。これは父の安麻呂(大納言、正三位。ただし死後従二位を追贈)を超えるばかりではなく、長屋王とほぼ同等というものです。ただし、私はこれをバランス人事と考えています。すでに老齢の旅人には対抗するだけの政治力も気力も体力も無く、藤原氏が官職を独占しているのではないことを示すための、便利な人事に過ぎません。使い勝手の良い、名門の老人ということです。
従って、旅人の大宰府赴任は失意の旅であったと思います。728年(神亀4年)の2月に若き妻、大伴郎女(おおとものいらつめ)~あれ、いつのまにか奥さんが変わっている。この辺の事情はわかりません~と、家持らの子供達と下って行きました。家持少年は数えで11歳、お姉さんのような新しい母をどのように思っていたのでしょうか。旅人は失意の一方で、家族との濃密な時間を持つ大宰府への旅であったと思います。
第二の人生~最愛の妻への挽歌
太宰府の前任者である太宰少弐の石川足人(たるひと)が、業務引継ぎの宴席で、
さす竹の大宮人の家と住む佐保の山をば思ふやも君
(あなたのお父さんの安麻呂様の頃から住んでいる平城京の高級官僚用住宅地である佐保の山が懐かしいでしょうねえ、こんな辺境に来てしまっては。)
と、親しい間柄なのでしょう、からかい半分に歌うと、旅人は次のように返しました。
やすみししわご大君の食(を)す國は 倭(やまと)もここも同じとそ思う
(最初の7文字は大君の枕詞。食すは統治の尊敬語。後は説明不要。)
彼の人生第2作は、上司としての役人の職務姿勢をストレートに示したもので、おそらく二人で、そして侍っている人々も含めて大笑いしたことでしょう。都を離れた解放感もあって、旅人のサロンが早くも出来てきたようです。後世に筑紫歌壇と呼ばれました。
その4月に郎女が突然に病没します。さっそく都からは弔問の勅使が遣わされてきました。その深い同情に感謝の心を籠めて旅人は素直に心情を歌います。
橘の花散る里のほととぎす 片戀いしつつ鳴く日しそ多き
(卯の花と同じように、橘の花にはほととぎすが付きものと言われていますが、その橘の花が散ってしまいました。片思いで鳴く日々です。)
この弔問は公務であり、いかにこの勅使との人間関係が良かったとはいえ、公務の席を逸脱している歌です。本来は天皇の配慮に感謝するような歌であるべきでしょう。
そして3ヶ月の喪が明ける時に、漢文書簡と共に、「凶問に報ふる歌」一首を周囲の人に示しました。
世の中は空しきものと知る時は いよよますます悲しかりけり
(世の中とは、男女の仲のことです。)
64歳の地位も名誉もある男が、20代の妻の死に、「いよよますます」と慟哭したのです。ついに叙情詩人としての旅人が、その殻を割って登場しました。
さらに、既に山上憶良で紹介したように、憶良の創作にも火が点き、その翌月に日本挽歌が成立します。旅人の心情に仮託しつつ、仏教思想を土台としながら、漢文+長歌+反歌5首というシンフォニーのような作品です。歌が集団や政治を離れて、個人のものになるという、大転換でした。日本の歌は、古くは歌垣という集団見合いのような場面から始まり、天皇を賛美するなどの政治的な意味でも使われるようになったもので、常に社会的であったと思われます。現代でも歌は社会的であり、詩は個人的であるという面を持っています。その意味で形式は歌ですが、心は詩人となったのです。
実は旅人の女々しい歌は、政治的なものとの解釈もあります。このような歌を勅使が持って帰れば、藤原氏は旅人が既に政治的には廃人に等しいと安心するだろうと、そこまで考えての創作だというのです。しかし過去に類似の作品が無いなかで、意図的に作れるものではありません。ずっと時代を下って、与謝野晶子が言文一致運動の檄文を書くのですが、それが文語体で書かれたという残念な例があります。理念での言文一致は分かっても、先例が無いので口語体で檄文が書けなかった、どう書けば良いか全く分からなかったのでした。まして歌を個人のものとして歌うという歴史が無いなかで、考えてできるものではないでしょう。それらの歌を公開したことが政治的であったと言われれば、そうかもしれません。
第二の人生~サロンの形成と歌人から詩人へ
さて、総勢50人になると言われる作歌サロンが形成されますが、これは山上憶良の方に書きましたのでご確認ください。(http://yokohama-now.jp/home/?p=9227)中でも憶良はせっせと創作ノートに書きとめて、できた作品を旅人に送るという、西条八十と金子みすゞのようなことをしていたことは驚きです。
翌729年2月に長屋王の変がありますが、それが旅人の歌に現れることはありませんでした。その変を受けた人事で、大宰府の部下が昇進して都に送り出す宴では、「せっかく用意した酒なのに、君がいなくなるので独りで飲むのは寂しいなあ」と無難に歌いました。これは政治的な歌です。所が都ではその翌3月に、常に旅人の下に居た武智麻呂が、彼を飛び越して大納言に昇格する人事が行われました。太宰師になるのは左遷だとは思っていましたが、こうもはっきりと政治的にピリオドを打たれると、さすがにがっくりとしました。
そこに、この変による人事で昇格した部下が、位階を受けるために都に上り、そして大宰府に4月初めに帰ってきました。旅人主宰のその祝宴で、部下の昇進の喜びに溢れた無邪気なまでに太平楽な歌に対し、旅人は次のように応えました。
藤波の花は盛りになりにけり 平城(なら)の京(みやこ)を思ほすや君
真っ向、藤原氏がその権勢の絶頂になったと、おおらかに歌ってみせたのです。ちぇ、こいつも藤原派になって帰ってきたか。俺の動静を逐一報告するんだろうなあと、腹のなかでつぶやきながら。でもこの歌、大変な皮肉とも読めますが、問題となることはありませんでした。それはさらに続きがあるからです。
さらに列席の君子達の歌のやりとりがあり、旅人が大宰府での歌会では型どおりとなる望郷の歌、5首を次々と披露しました。その3首めを紹介します。
浅茅原(あさじはら)つばらつばらにもの思へば 故(ふ)りにし郷(さと)を忘れむがため
浅茅原とは茅萱(ちがや)が生えている荒れ野ということで、必ずしも現在の奈良公園内の地名を指しているものではありません。むしろ5首を併せて見れば、暗雲渦巻く平城京の奈良ではなくて、幼少期を過ごした葛城山麓の故郷や、青年時代を過ごした旧都藤原京への望郷歌です。紙幅の関係で1首だけの紹介としましたが、その心情の重さ、深さ、そして率直な優美さに列席者は無言となりました。それぞれの人が、自分の故郷を思い浮かべたことでしょう。その雰囲気を変えるために旅人が指名して、まあここだって住めば都じゃあないかという歌でまとめる者があり、さらに憶良に振ると、例の憶良らしい場違いな歌が披露されました。
憶良らは今は罷(まか)らむ子泣くらむ そを負う母も吾を待つらむそ
(さあさあ、おセンチな望郷タイムは終わりにしましょう。この卑小な私の現実問題として家族がこの宴会のお土産を首を長くして待ってるんで、もう帰りますよ。)
この歌で、どれだけ座の雰囲気が和んだかは分かりませんが、とにかくお開きになりました。残された旅人は憶良の諧謔にほくそえみながらも、またも追憶の世界にひとり戻って行ったのです。
第二の人生~歌人旅人の優雅な生活
さて、郎女の代わりに、子供達の教育係として旅人の妹の大伴坂上郎女(おおとものさかのうえのいらつめ)が大宰府に下ってきました。彼女は額田王以来の孤高の女流歌人であり、旅人や憶良より多い84首を万葉集に残しています。人生経験が豊富で、大伴氏一族を陰で束ねていたようです。家持少年は、今度は辣腕の叔母さんに硬軟併せて可愛がられたことでしょう。
そして旅人は自らの心の平静を酒に求めました。酒を賛(ほ)むる歌13首を残していますが、詳細は文献を参照願います。彼が歌ったのは濁り酒であり、それに溺れながら酔泣(すいなき)をするという作品群です。これは旅人が陶淵明を知っていて、酒をたしなむ隠遁の日々の真似をして作品化したものかもしれませんが、リアルに飲んだくれていた可能性も高いでしょう。理屈っぽい憶良へのあてつけか、仏教思想くそくらえ的な表現も面白いものです。良家に育った旅人の精いっぱいの不良老人ごっこのようでもあります。
翌730年の4月初旬に旅人らは松浦川(現在の佐賀県玉島川、大宰府からみて唐津市の手前)で、神功(じんぐう)皇后が新羅遠征に際して鮎を吊り上げてから船に乗った故事になぞらえて、乙女たちにその装束をさせて鮎釣りをする祭儀を見学しました。少女たちの幼いエロチシズムを感じさせながら、極めて上品に格調高くまとめられた一連の作品は、66歳の旅人が到達したひとつの境地です。少女たちに家はどこ、名前はなあに、と古典的なナンパともとれる問をすると、私たちは名も無く家も無く、あばら家に住む漁師の娘たち、海辺や渓谷でのなりわいをしています。こんな高貴な方とお逢いできたのは感激ですと答えました。旅人は、君たちはそのように自己紹介したけど、いかにも上品で明るくて、良家の子らに間違いがないと歌います。これに応えて一連の歌が作られ、旅人の歌で締めくくられました。でもこの連作はすぐに都に報告されました。これもまた政治的なもので、藤原氏がどのように読むかを意識し、また歌のライバル達への挑戦状でもあるという、ややこしいものでしたが、旅人はもうそのようなことは超えて、軽々と歌うのでした。なお、憶良は福岡県の知事なので、佐賀県に連れて行ってもらえずに、留守番でした。後から旅人に歌を見せられて、くやしいなあ、うらやましいなあと、いつになく素直な歌を返しています。実は旅人の肉体的な衰えに気づいていたのでした。
第二の人生~帰京と幻滅
旅人はこの夏にひどく脚をわずらい、一時は死の淵を覗いた思いでした。心身共に無害な老人になってしまいました。その9月に時の大納言が死亡し、空席になったので、藤原氏がその温情を示すため、旅人が大納言に昇格し、都に召喚されます。
12月6日に旅人の餞別の宴が催されました。例によって憶良からは、独りよがりで熱っぽい送別の歌を贈られました。これは憶良の創作ノートに残されていた私信です。筑紫歌壇の事実上の終焉でした。
さて上京の旅につくと、少し行ってはまた宴会と、何とも嬉しいような、迷惑なような送別が続き、九州各地からの挨拶や餞別が多くありました。そんな中で、遊行女婦(うかれめ)児島が2首を餞別に送っています。部下の誰かが気を利かせて連れてきたのでしょうか、この児島の歌も公務です。
九州の陸路を終わると、瀬戸内海は船で進みます。家族と伴の者たちだけで落ち着くと、3年前に郎女を伴って下ってきた時に見た同じ風景に、おもわず涙ぐんでしまいます。懐かしいはずの都の家に、郎女は居ません。旅人は病んで、生まれ育った土地への望郷の歌を残して731年7月に没しました。
旅人の政治的な遺産
本稿は作品論ではありませんの、興味のある方は是非参考文献等で観賞していただきたいと思います。彼の高潔な叙情は、旅人という人間のど真ん中からあふれ出てくるものであり、深い味わいを得ることができるでしょう。
さて、政治ネタです。大宰府の旅人に都から書状が来ました。「720年の隼人の乱から10年が経った。日本を律令国家として完成させるには、隼人もこの枠組みに入れる時期かと思うが、太宰師の意見はどうか。」というものです。丁度創作ノートを持ってきた憶良が理屈をこねて、辟易としていた所なので、話題を変えるために、このことを問いました。
楽しい日本史復習「律令制」
律は刑法、令は主に行政法を指す。この基盤として班田収授法があり、男女の戸籍に従って口分田が与えられるという、中央集権国家の骨格を成す。またそれに基づく税制が租庸調であり、兵役もあった。
701年の大宝律令で完成形に達したとされている。同年の遣唐使の目的の1つは唐での律令制実施の実情調査であった。8世紀が最もしっかりとこの制度が運営された時代であったという。
憶良がちょっと顎を捻りますと、おっと、また理屈が始まると旅人が構えます。
「おそれながら私が唐で見聞してまいりました律令制度は、中央集権国家の構築に誠に適した制度のように思われましたが、実際には多くの矛盾といいますか、問題を内包しているものでも御座いました。まず人口調査ができていませんでした。唐は広大であり、辺境は無限です。地方の有力者の欲は深く、中央に報告する人口は極端に少ないものです。従って口分田の多くは機能しておりませんし、その土地の有力者がピンはねをして、却って民衆を苦しめているのが実態です。中央政権でもピンはね構造は重層的で、その苦しみは総て民衆に転化されます。そして何よりも、少数民族の文化を破壊しています。ご存知のように私は滅亡した百済の出身です。日本に亡命することができて実に幸せですが、国を失っても、民族を失うことはできません。どうか、ご覧下さい。」
リューマチで足腰が痛い痛いといつも嘆いている憶良が、すっと立ちあがり、百済の舞を舞い始めました。口先で何かぶつぶつとつぶやいているのは、百済の歌でしょう。やがて合いの手の部分だけは、聞き取れるようになりました。旅人が初めて目にする憶良の姿でした。彼が舞い終えると、今度は旅人が口を開く番でした。
「10年前の隼人の乱の平定では、多くの人々の命を奪うことになった。彼らの悲嘆の声は決して忘れられない。その後、朝貢して彼らは都で舞を奉じたが、その舞は、私には意味を知ることはできないが、彼らの民族の心血が注がれたものであることくらいは、分かった。敗者の卑屈さは微塵もなく、彼らの民族の誇りというものを表していたと思う。彼らには彼らの文化があり、生活がある。律令制度の枠に無理に押し込もうとすれば、必ずや無理が生じるであろう。従来の通り、定期的に朝貢させることで良いではないか。時代が進めば、彼らが同化することもあろう。これは感情論ではなく、民族性を尊重するという理念であり、理性の帰結である。」注3)
この結論を答申として送りました。もう中央の誰かの顔色なんて関係ないし、自分がどんな答申を出そうと、それは形式的に意見を聞いただけで既に結論ありきだろうし、白を黒と解釈する名人が沢山いるから、太宰師も隼人への律令制導入に賛成していますと、してしまうだろうとか考えて、思うままとしたのでしょう。
しかし中央の決定は、驚くことに旅人の答申通りになりました。隼人族の軍事的脅威を招くことを避けたのです。実際に戦った旅人の言葉の重みが伝わったのでした。
ここからは旅人没後の話です。やがて両者の関係が安定してくると、朝廷は隼人を優秀な軍人として重用し、宮廷警護などに採用するようになりました。隼人はゆるやかに同化していったのでしょうが、民族的な遺伝子は受け継がれていったものと思います。やがて島津家の領地となっても、日本列島の中では常に独自の位置を保ち、また常に軍事的な力量を維持し、それは秀吉の朝鮮半島出兵や、関ヶ原の戦いなどでも遺憾なく発揮され、幕末には薩長連合という形で、新日本を築く原動力となりました。これらが旅人の御蔭とまでは言いませんが、歴史の積み重ねのひとつであることは、確かなことです。
(2013.6.1)
注1)朝賀の儀は、実際には平城京の前の藤原京で行われたものです。儀式は710年の元旦であり、遷都は3月(いずれも旧暦)という時系列です。しかも遷都の時点では平城京の諸施設が整っていなかったようで、パレードの背景としてはいささか寂しい状態でした。史実はそうだとして、旅人のために、最盛期の平城京を背景にプレゼントしました。
注2)本シリーズ10山上憶良の記述と齟齬する点がいくつかありますが、勉強不足によります。そのうちに訂正しなければならないでしょうが、論旨に影響するものでは無いと考えています。
注3)対隼人政策への答申は史実ですが、見てきたような描写はウソです。念のため。
主な参考文献
- 大久保廣行:筑紫文学圏論「大伴旅人筑紫文学圏」、笠間書院(1998.2)
- 中西進編:大伴旅人 人と作品、おうふう(1998.10)
- 谷口茂:外来思想と日本人「大伴旅人と山上憶良」、玉川大学出版部(1995.5)
- 神野志(こうのし)隆光、坂本信幸:万葉の歌人と作品「第4卷 大伴旅人・山上憶良(一)」、和泉書院(2000.5)
- 神野志隆光、坂本信幸:万葉の歌人と作品「第5卷 大伴旅人・山上憶良(二)」、和泉書院(2000.9)
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榎本博康(えのもとひろやす) プロフィール
榎本技術士オフィス所長、日本技術士会会員、NPO法人ITプロ技術者機構副会長 日立の電力事業本部系企業に設計、研究として30年少々勤務し、2002年から技術士事務所を横浜に開設して今日に至る。技術系では事故解析や技術評価等に従事する一方で、長年の東京都中小企業振興公社での業務経験を活かした企業支援を実施。著作は「あの会社はどうして伸びた、今から始めるIT経営」(経済産業調査会)等がある。趣味の一つはマラソンであり、その知見を活かした「走り読み文学探訪」という小説類をランニングの視点から描いたエッセイ集を上梓。所属学協会多数。 |
ビジネスのフレームワーク入門(第6回)
デジタルハリウッド大学大学院/NVD株式会社 松本英博
1.同じ図形でもフレームワークが異なると分析も違う
これまではフレームワークレームの紹介に留まっていましたが、今回はフレームワークを使った分析を考えてみましょう。
ビジネスでよく使うフレームワークでの分析
ビジネスでは、迅速な判断と実行、さらに競合や市場といった多くの情報の中で自社の採るべき戦略を練る必要があります。フレームワークは多くの先人が培ってきたノウハウや知恵があり、これを利用することで、自社の戦略の評価もできます。
戦略評価で代表的なフレームワークとして、3Sがあります。多少日本的な3Sですが、3つのSは、「選択」、「差別化」、「集中」です。良く言われる「選択と集中」に「差別化」という戦略を継続して遂行する原点も分析しようというモノです。
戦略の3Sによる分析
図 1 戦略の3つのS
図1に示すように分析と言ってもかなりシンプルな図で書くことができます。このフレームワークの特徴は
①選択、②差別化、③集中のどれが優位といった内容ではなく、3つのバランスで成り立ち、1つを変えれば、他の2つが変わると言った相互関係にあることが分かります。選択をすれば何に集中し、何をもって差別化することが出来るかといった流れを示します。一方で、差別化を検討対象とすれば、差別化の中で何を特に取り上げ、何を捨てるのかと言った流れとも読み取れます。
【3Sの分析】
①選択:重点である分野を明確にすることです。実行する、あえてしないを決めることと考えてください。また、選択することで、同時に選択できない事項も出てきます。そのような事項こそ、縮小撤退などの対象と考える候補となります。
②差別化:他社との違いを明確にすることです。差別化できる事項がなければ競合他社に勝てません。第三者的に自己満足ではなく、顧客に差別化のポイントをアピールすることが重要です。
③集中:経営資源(ヒト、モノ、カネ、情報)を集め、その分野でナンバー1を狙うことで、ナンバー2では、その分野での主導権は握れない事になります。
このように分析して、今自社の成長には、3つのSで専門特化する領域を見出し、それを実行する方法やアプローチを検討することになります。
本業の強みから新規の事業ドメインを見出すフレームワーク
図 2 事業領域を決めるフレームワーク
図2は、図1と同じように見えますが、フレームワークはその軸の切り出しが違えば、使われる用途も変わることを見てみましょう。
今回は、前回のように新規あるいは既存の事業とは無関係に戦略を考える場合ではなく、これから参入しようとする事業領域(ドメイン)を決定するものです。
このフレームワークの要素は、図1と同じ3つですが、3Sのバランスでなはなく、同時に成立することを見出すフレームワークです。いわば、数学の時間で習った、連立方程式を解くようなフレームワークです。
【新規事業のドメイン分析】
①顧客層:どのような年齢、性別、地域、所得、経験と言ったプロフィールを持った顧客を狙うかということです。B2B(企業間取引)であれば、狙うべき顧客企業のプロフィールとなります。
②ニーズ:これは①を仮に決定した後で、その需要や希望を分析しなければなりません。さらに、そのニーズが顧客共通のニーズなのか、個別の重要や希望なのかも判断しなければなりません。
③コア・コンピュタンス:得意分野でどんな差別化できる力を想定あるいは発揮できるかです。この力は事業を継続させる源泉であり、成長の源でもあります。企業であれば、独自の経営資源(ヒト、カネ、モノ、情報)となります。あるいは顧客へのアクセス力、販売チャネルの力となります。
さらに、狙うべきドメインは、自社事業のすそ野も含めた領域と考えてください。例えば、トヨタ自動車は、メーカーとして自動車を供給することもドメインですが、自社の自動車を買いやすくするために、金融・ファイナンス事業も周辺事業としてドメインに含め成功しています。こう考えれば、自社の既存事業の周りに多くの新規の事業が眠っていることが見えてくるはずです。その時、図2の3つの要素が同時に成り立たねば事業として進まない事も分かるでしょう。
2.図解とフレームワーク
さて、類似した図で書き表すことが出来るフレームワークを紹介しました。図1と図2の根本的な違いは、バランスと同時解というように、その分析の方法や使われ方に依存します。
そこで良くあるミスとして図解=フレームワークと考えてしまうことです。図解は読み手へのメッセージであり、フレームワークでの分析の「結果」に主眼をおくものです。従って、フレームワークは結果を図解していく際の「途中経過」の枠組みであって、読み手に興味があるかどうか分かりませんし、混乱を興す可能性もあります。
例えば、3Sで商品戦略を検討していく際に、「選択」・「集中」・「差別化」を考えることはフレームワークを使っての検討で問題はありませんが、これを図1に書き込み、読み手に「このように分析しました」とだけ示すのは決してうまい方法ではないのです。図解したいなら、と問えば、集中すべき事項を大きく書いてその成功条件など、分析で得られた仮説を読み手に伝えねばならないのです。
分析で使った図解をそのまま使うのではなく、読み手にその行動を促す意味でも、選択、集中、差別化の何れを今やるべきだという仮説まで表現できれば良いのです。
※発想や創造に関する「創造方程式」による発想のトレーニングがしたいというなら、参考に拙著「ヒット商品を生み出すネタ出し練習帳」をどうぞ。
次回の予告
次回は、フレームワークとロジカルシンキング(論理思考)の関係を解説してフレームワークについてまとめていきたいと思います。
松本英博 プロフィール
松本 英博(まつもと ひでひろ) デジタルハリウッド大学大学院 専任教授/NVD株式会社 代表取締役 京都府出身。18年にわたりNECに勤務。同社のパーソナルメディア開発本部で、MPEG1でのマルチメディア技術の開発と国際標準化と日本工業規格 (JIS)化を行い、MIT(マサチューセッツ工科大学)メディアラボで画像圧縮技術を習得のため留学。帰国後、ネットワークス開発研究所ではWAPや i-モードなどの無線インターネットアクセス技術の応用製品の開発と国際標準化を技術マネジャーとして指揮。 NEC退社後、ベンチャー投資会社ネオテニーにおいて大企業の新規事業開発支援、社内ベンチャーの事業化支援を行い、2002年9月にネオテニーから分離独立し、NVD株式会社(旧ネオテニーベンチャー開発)を設立、代表取締役に就任。大手企業の新規事業開発・社内ベンチャー育成などのコンサルティング 実績を持つ。 IEEE(米国電子工学学会)会員、MIT日本人会会員。神奈川県商工労働部新産業ベンチャー事業認定委員、デジタルハリウッド大学大学院 専任教授、現在に至る。 |
2013年6月 三ツ池だより 「雨は行ったり来たり」
街を歩いていると工事中のところが目につく。
ふとCoffeeの店に足を止めることがあった。Flower and Coffeeの看板が懐かしく店をくぐった。好きな街ってどんな街なのだろう。どんなお店があったらいいのだろう。店の一角をギャラリーとして貸したり、ライブに使ってもらったり、花があって、教室が開かれたりしている。店の端ではキャラナビの本があったりする。それがまた自分のお店だったりしたら。
六月に入って紫陽花が目につく。俳句にはつぎのような句がある。
紫陽花は辺り一面を違う世界に誘う。華やかな景色を作り出す。正岡子規はその色の変化の鮮やかさ速さを、誠と嘘という言葉であらわしたのだろうか。
あじさいは「あづさヰ」からきている。「あづ(あぢ)」は小さいものが集まるの意味、「さヰ」は真藍から来ているようだ。
紫陽花の鮮やかさに、夜間の雨の残りの雫が朝日でまた光っている様は本当にみずみずしくさわやかである。そんな朝の出勤時にこんな句を詠んだ。
日本はどこに向かっているのだろうかと時々考える。世界平和であり、共存共栄であらねばならない。もちろん日本経済の健全発達は当然である。「永遠の0」を読みながら、今ある日本は大事なことを忘れてしまっていると改めて思った。戦前だって日本国民は上層部の動きのままに動かされてきた。それでいて、国民同士は助けあい、寄り添いながら生きてきた。宗教も相互互助を進めてきた。担ってきた。その精神が戦中戦後も続いていた。それが戦後は民主主義という形のなかで歪められてきた。上層部が特権階級的、管理統制の形を持っている。戦前戦後を通して変わっていないのではないか。むしろお互い様・相互依存の生活習慣が壊れてきているのが残念だ。
日本はAかBでなく、AもBもが伝統である。Aでもない、Bでもないでもよかったのである。大事なことは生かされていることの、いきていることの感謝であり、お互いの役割分担を担うことの喜びと責任を感じていることなのだ。
六月は私たちに恵みの雨をもたらしてきたこの雨の重要性を私たち日本人は利用してきた。田植えに見られる稲作文化は人生に重ねられる。晴れだけでも、雨だけでもない。そして収穫期を迎える。時には近所の力も借りた。次には借りたこちらも応援に行くのだ。6月の雨を楽しみ、五穀豊穣を夢見た。日本の生活文化の原点は相互依存だったのだ。
とかく今は自分で解決していかなければいけないことが多い。だからといって他人に頼らないというのではなく、意識して他人に頼ることをしていいのではないかと思っている。聞くは一時の恥といわれる。聞けなくて我慢しているのではなく、時には聞いていいんだと思うことで気が楽になるではないか。そして今ふっと思い出した。家の外にいた時に宅急便の方がこまっているようだったので、小荷物を預かった。夕方届けに行ったらこんな返事が返ってきた。「うちはご近所づきあいをしてませんので、預かるようなことはしないでください。」変な人とは思っていたが後日談がある。駐車禁止でないところに車をとめていたら、お叱りを受けた。「ここは日本ですよ。日本の法律に合わせて生活していますよ」といったら「あなたは偏見だ」と怒ってきた。聞いたり聞かれたり、教えたり教えられたりの行ったり来たりの文化も、今もう一度見直してみたい時だ。雨もまた嬉しくなる時代を忘れてはいけない。そしてまたあの街のあのお店にふらっと寄ってみたいと思うのだった。
Photos
(画像をクリックすると拡大写真が表示されます)
(文・写真:横須賀 健治)
横須賀 健治プロフィール
メジャーテックツルミ 代表取締役
はかることのプロとして50年です。
食品の放射能測定のアークメジャーを設立しました。
「計量から見える幸せ」をライフワークにしています。
東日本へ届け!横浜サウンド! 横濱音楽波止場 in 象の鼻
横浜から熱い音楽を全国に届けよう!
横浜には昔から、日本で最初に海外の音楽が入ってくる街でした。
横浜は、本物のジャズやR&Bが聴ける街でした。
それを求めて様々なミュージシャンたちが集まってきました。
そして、多くのミュージシャンがここで育ち、大きく羽ばたいていきました。
横浜は、まさに音楽の波止場です。
そんな横浜の街で育った音楽を全国に広め、新しいミュージシャンたちを生み出す、それが今年で3回目となる「横濱音楽波止場 in 象の鼻」です。
今年は8月4日(日) 、横浜港発祥の地である象の鼻に次世代を担う初々しいミュージシャンと、日々横浜で活躍するミュージシャンが集います。
今年はさらに最高のロケーションでの心地よい時間をご用意します。
そして、ここ横浜から 熱い音楽で、パワーあふれる元気を全国に届けていきたいと思います。
東日本に届け!横浜サウンド
音楽の力で、横浜から東日本へ元気を届けよう!
東日本大震災の被災地への支援は、まだまだ風化させてはいけません。支援の段階や内容も多様化し、横浜でも様々な支援の活動が行われています。 被災された方たちのことを思い、できることを、まず実行する。それが一番大事なことだと考えます。
そこで、私たちは、音楽の力、イベントの力、横浜の街の思いを結集して、東北へ元気を届けたいと考え、8月4日(日)に象の鼻パークにてチャリティ・ライブを実施することとしました。多様な方の参加による、パワーあふれるライブにしたいと考えています。
今回は、宮城県山元町の子ども達の育成のために、皆さまの善意を活用して頂くことで、宮城県山元町役場のご担当者とお話ができました。
そのためには、多くの方々の力が必要です。
ご協力、ご協賛のほど、ぜひよろしくお願いいたします。
2013年6月
横濱音楽波止場 in 象の鼻実行委員会
実行委員長 中山 一彦
横濱音楽波止場in象の鼻 公式ホームページ
http://ongakuhatoba.com/
実行委員会事務局
横濱音楽波止場 in 象の鼻実行委員会
(NPO法人横浜ひと・まち・くらし研究会 内 担当:辰巳)
TEL 045-264-4939 FAX 045-264-4940
URL http://npo-ycl.com/
Email contact(@)npo-ycl.com info(@)ongakuhatoba.com
<(@)を@に変更して送信してください>
〒231-0012 横浜市中区相生町1-26-2 小島屋ビル402号
書評 「永遠の0」 講談社文庫 百田尚樹 著
この本を読んで、よく書いてくれたと思った。目的地に故障で着かない飛行機があったという話は聞いていた。「必ず死ぬ作戦は作戦ではありません。これは戦後ある人に聞いた話ですが、ミッドウェーから戦っていたベテラン搭乗員が”敵艦に爆弾を命中させたら、もどってきてもいいでしょうか”と尋ねたそうです。すると長官は”ならぬ”といい放ったそうです。」「これが特攻の真実です。勝つための作戦ではなかったのです。特攻の目的は搭乗員の体当たりなのです。そして、沖縄戦の後半は志願するもしないもない。通常の命令で行われたのです。」と書かれている。一気に読んでしまった。実際の生き証人の言葉として浮き出される。 なぞのような発言がある。「この年になって、つくづくと思う。わしも特攻で死にたかった。五体満足であれば必ず志願していただろう。 |
わしが腕を失った三年後、宮部は特攻で死んだ。おそらく奴は志願はしなかっただろう。命令でいやいやながら特攻に行かされたに違いない。命を投げ出して戦ったものがこうして命を長らえて、あれほど命を大事にして助かりたかった男が死んだ。」
この物語は宮部の孫が自分のルーツをたどるものである。祖父が特攻にいたことで、その最後が知りたくて当時を知っている人にインタビューに歩く。「おじいちゃんは、いつも僕に優しいね。こんなことを言うと、あれだけど、その・・・」「血も繋がっていないのに、か」戦後祖父に代わって祖母と結婚しお母さんを育ててくれたのがおじいちゃんなのだった。
「これって、もしかしたら奇跡のようなことじゃないかと思っている。戦争に行った人たちが歴史の舞台から消えようとしている、まさにこの時にこの調査を始めたことは、何か運命的な巡り合わせのような気がしてならないんだ。もし、あと五年遅かったら、宮部久蔵のことは永久に歴史のなかに埋もれてしまったと思う。だから、ぼくはおじいさんを知っている人すべての話をきかなくちゃいけないと思っている」私たちは当時の本当の姿を知っているのだろうか。「アメリカの兵士たちが祖国の勝利を信じて命を懸けて戦ったように、私たちも命を懸けていたのです。たとえ自分がしんでも、祖国と家族を守れるなら、その死は無意味ではない。そう信じて戦ったのです。」姉と弟の取材が続く。
桜花の搭乗員もいた。桜花とは人間が操縦するロケット爆弾。自力で飛び立つことも着陸することもできない。旋回もできずただ真っ直ぐに滑空することしかできない人間ロケットがあった。これほど非人間的な兵器もつくられていたという。「今日の桜花の搭乗員に筑波での教え子がいた。出撃前に、彼は俺の顔を見て、宮部教官が援護して下さるなら安心ですと言った。しかし俺の目の前で、彼を乗せた一式陸功は火を吐いて墜ちていった。中功の搭乗員たちは俺に敬礼しながら墜ちていった」宮部少尉はこうも語っていたという。「運よく、敵戦闘機の追撃を逃れて、敵空母にたどり着けたとしても、ものすごい対空砲火が待ち構えている。俺はなんどか特攻機が突っ込むところを見た。米軍の対空砲火のものすごさと言ったらない。マリアナの時もすごいと思ったが、今や米軍の対空砲火はそれをはるかに上回るすごさだ。そんな実態を司令部は何も知らない。いや、知っていて知らないふりをしているのか」
この物語は生きることの大切さを問うているのではないかとも思われる。戦後宴会でいつも歌われていたラバウル小唄やここはお国の何百里とうたわれた戦友の歌はなにを意味していたのか。大事な想いをどこかに秘めて当事者はそこにいたのかもしれない。実際を知らないものが郷愁のなかで歌っていたというのだろうか。
姉弟は祖父宮部を追いながら、その人物と時代背景、神風そのものの実態に迫りながら、時間に流されていく厳しさ、悲しさ、寂しさを描いていく。あの「やって見せ、言って聞かせてさせてみせ、ほめてやらねば人は動かじ」の山本五十六は昭和18年のガダルカナルの戦いに敗れ戦死している。立派な軍人もいたはずである。宮部は教官なのに訓練生を誉めなかったという。なぜ!!誉めることは優先的に特高に指名され、死を意味するからだったという。そんな実態を戦後60数年知らずにいた。ただ茫然と立ち尽くしながら読み終わった。なんと不思議な「永遠の0」なのだろう。「不思議なことに、より厳しい戦場から帰ってきた者ほど戦場のことは話しませんでした。むしろたいして実践を積んでいないような搭乗員の方が戦地風を吹かす傾向にありました。宮部さんもまた戦場体験はほとんど語りませんでした。華々しい話や手柄話はまったく言わない人でした。」「熟練搭乗員が特攻に行かされることは稀でした。」だのに・・・・。
(文:横須賀 健治)
「エネルギーと環境を考える」ワークショップが始まります
(横浜売れるモノづくり研究会の分科会です)
「エネルギーと環境」の関係を理解した上で、環境をより良くするために私たちができることを一緒に考えていきましょうというワークショップが6月から毎月一回、3回シリーズで開催されます。
第1回の講演内容は・・
「実験するからわかる!効率的なエネルギーとは?風力・火力・原子力?」です。
講師は西口昇太朗氏(科学教室ガリレオラボ主宰)と横須賀健治氏(メジャーテックツルミ・アークメジャー代表取締役)です。毎回エネルギーを体感する実験を予定しております。
「エネルギーと環境」については、様々な意見があります。このワークショップを通して、大いに語り合いましょう。皆様のご参加をお待ちしております。
場 所:さくらworks(関内)
受講料:2,000円(3回分は5,000円)
※参加者には放射能に関連する小冊子をプレゼントいたします。
詳しくは下記をご覧ください。
http://ark-measure.com/pdf/seminar01.pdf
お申込みは下記でお願いいたします。
https://www.supportyou.jp/monoken/form/14/
「笑顔経営」ワークショップは6月も開催いたします
(横浜売れるモノづくり研究会の分科会です)
「笑顔経営」とは、企業の業績をアップして、経営者だけでなくスタッフも取引先も皆、笑顔になるような経営のことです。
このセミナーは、参加者同士でディスカッションしながら、自らの問題点を「気づき」「改善」して経営に生かしてもらおうというセミナーです。「売ること」を科学的に分析して、理論だけでなく売るための行動も学習・実践していきます。自社の「価値ある最終成果物」を把握して、売上をあげていくノウハウを学ぶことができます。
どの回からでも参加できます。5月のワークショップに初参加された方は、「これまでいろいろなセミナーに参加したけれど、これが一番刺激を受けた。」(50代女性)という感想でした。
自社を「笑いがあふれる」会社にしたい皆様、是非ご参加ください。
セミナーはビデオでもご覧になれます。
笑顔経営ワークショップの様子は下記をご覧ください。
http://www.monoken.net/egao-keiei/
~あなたの会社の「価値ある最終生産物」を創り出そう~
講師:木下一真 氏(株式会社バイオクロマト)
日時:6月18日(火) 18時30分~21時
場所:横浜 関内 さくらWorks 会議室
お申込みは下記でお願いいたします。
https://www.supportyou.jp/monoken/form/11/
「売れるモノづくり」についてのご相談を承ります
いいモノを作ってもなかなか売れない・・・
製造業の方々からそんな悩みをよく耳にします。
どんなに良い製品でも、市場に受け入れられなければ「モノ」で終わってしまいます。
「横浜売れるモノづくり研究会」は、神奈川県在住の企業支援の専門家やITの専門家など多種多彩なメンバーで構成されています。
「横浜売れるモノづくり研究会」では、「製品の売り方をどうしたらいいか」
という企業のご相談を随時受け付けています。
毎月一回第二木曜日には、ご相談される企業と専門家が面談を行っています。
売れるモノづくりについてのご相談はこちらにご入力下さい。
https://www.supportyou.jp/monoken/form/2/
<問合先>
横浜売れるモノづくり研究会 事務局
(株式会社ともクリエーションズ内)
〒231-0004
横浜市中区元浜町3-21-2 ヘリオス関内ビル4階
TEL 045-226-3475 FAX 045-226-3476
メディア掲載情報
- 2012年2月20日 神奈川新聞 横浜売れるモノづくり研究会代表・猪狩惇夫の記事が掲載されました
- 2011年11月11日 日本経済新聞 「この企業ここがポイント」内に横浜売れるモノづくり研究会についての記事が掲載されました
- 2011年11月9日 日刊工業新聞 「横浜売れるモノづくり研究会」活動の輪広がり100人規模目指す
- 2011年6月6日 「売れるものづくり」をどう実現するのか―「横浜売れるモノづくり研究会」の取り組み
- 2011年1月21日 ヨコハマ経済新聞
横浜で「売れるモノづくり研究会」が発足-中小企業を支援 - 2011年1月19日 カナロコ — 神奈川新聞社
売れるモノづくり研究会発足へ、中小製造業をコンサルらが支援
第16回 どあっぷ「シチズンシップワークショップ in横浜国大」
みなさんこんにちは! |
シチズンシップワークショップ in横浜国大
先日、5月16日(木)に横浜国立大学教育人間科学部の先生に協力していただき、小学校教職科目の授業で、ど・あっぷ!の「シチズンシップワークショップ教材」を実践させていただきました。その模様をお伝えしたいと思います。
その前に、ワークショップの簡単な概要です。
ワークショップの概要
このワークショップは、「ど・あっぷ!タウン」という“仮想のまち”を舞台に、まちの課題を踏まえ、そこに暮らす住民の視点に立って必要な施設を考えていくというものです。ど・あっぷ!タウンは海に囲まれた島で、自然豊かなまちですが、近年は人口の増加や産業の発展・社会の変化にともない、課題がたくさんあります。その一例として、必要な施設の不足です。住民がもっと暮らしやすいまちにしていくために、まちにどんな施設を作ることが必要か、住民の目線に立って、まちの代表者(=議員)になって考えていくというというのが本ワークショップです。
ワークショップのおおまかな流れ
●はじめに(自己紹介・ワークショップの説明)→ ●各自で考える → ●政党集会 → ●グループ会議 → 発表 → まとめ
受講者60名ほどの授業教室。これからワークショップが始まります。ワークショップの資料も一式配布し、準備完了です。”教師のたまご”である学生のみなさんを前にして、授業者は緊張しています。学生のみなさんも「何が始まるのだろう?」と思っているように感じられました。
初めに自己紹介をして、ワークショップについての説明をしました。みんな真剣な様子で聞いています。途中の「政党集会」に備えて、あらかじめ席によって「子ども党(0~19歳)・パパ・ママ党(20~59歳)・じぃ・ばぁ党(60歳~)」の3つの党に割り振っておいたのですが、今から一人ひとりがこのいずれかの党の議員さんになります。(なりきります!)
ワークショップの説明中
なりきって考えてみよう!
全員にいずれかの党の議員さんになりきってもらいました。これから、ど・あっぷ!タウンの課題を踏まえ、議員さんとして、その年代の住民の視点に立ってまちの課題を考えます。まちの各年代の住民から、様々な要望があがっています。そこから、まちの代表として、「ほかにどのような課題があるか」・「課題を解決するにはどうすればよいか」ということを各自が考えました。みんな真剣に考えてくれていました。この後の政党会議が楽しみです。
政党会議
ここから政党会議です。今回は教室の都合から、近くの人で2人1組になって話し合ってもらいました。(1チームが6人で、座席に応じて1つの政党につき2人に設定しました。)
1つ前のなりきって考えてもらったことを踏まえ、住民の要望に応えるために新しく建てる必要のある建物を検討してもらいました。「ショッピングセンター・スポーツセンター・工場・海洋研究所・健康ランド」の候補の中から選んでもらうのですが、すぐに決められたところもあれば、迷っているところもあったようです。やはり、住民の願いを実現するとなると、決めるのはそんなに簡単ではなかったようです。
さらに、「ゴミ処理場」と「防波堤」をどこに建設するかも話し合ってもらいました。(この2つはすでに建設が決まっているという設定です。)
全体的に議論が盛り上がっていました。
グループ会議
政党会議で話し合ってもらったことをもとに、3つの政党でグループを作り、話し合ってもらいました。(各グループ6人で、各政党2人ずつで編成したチームです。) 話し合う内容は、政党会議と同じで、「どの建物を、どこに建てるか」ということと、その理由などです。全世代の代表で話し合うと、意見をまとめるのは難しそう。。。各グループ、いろいろな意見を出し合いながら、活発な議論をしていました。(ここの議論が一番盛り上がっていました!)
グループ会議の様子(盛り上がりました!!)
発表タイム!
グループ会議で話し合ってもらったこと・決めてもらったことを発表してもらいました。今回は時間の関係で2チームしか発表できませんでしたが、どちらのグループも独自の、ユニークなアイディアを出してくれました。また、どのグループからも一生懸命話し合ったということが伝わってきました。「あっ!こんなアイディアもあるのか!」「そのアイディア面白いな!」といった発見がいっぱいありました。やはり、ほかの人と話し合うことは、新たな発見もたくさんあります。それが、話し合い・議論の良さであり、大切さですね。
発表の様子
最後に
実際にワークショップをやってみると、やはり課題が見えてきました。時間配分・説明方法など・・・実際に小学校の現場で使える教材にしていくためには、さらなる改良が必要であるということを感じました。大学生に対してワークショップを実施するにあたり、期待とともに不安がありましたが、真剣に、楽しそうに取り組んでくれていた学生が多くて嬉しかったです。終了後に書いてもらったアンケートには、良かった点や改善すべき点を書いてくれた人が多く、励みになりました。今回のワークショップで得た意見や経験は、さらなる教材のブラッシュアップをしていこうというモチベーションになりました。
「まちづくりの主役はだれか?」―それは他でもなく、私たち1人ひとりの「市民」であるということ。これを実感してもらえるような教材を創り、シチズンシップ教育を広めていくこと。それを目標に、これからもど・あっぷ!では教材開発をしていこうと思います。
最後になりましたが、今回協力してくださった横浜国大の学生の皆さん、快く私たちにチャンスをくださった大学の先生に感謝いたします。本当にありがとうございました。
http://www.youtube.com/user/douptv
(写真・イラスト:NPO法人ど・あっぷ!(DO UP!) / 文:藤原 暢之
★ど・あっぷに「参加したい」、「ワークショップをやってもらいたい」、「ミーティングを見てみたい」等等、どんなことでも結構です。ご興味がありましたら、是非ご連絡ください。
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第5回 オー・マイ・モトマチ・ライフ 山手・元町・石川町10分散歩
春先から初夏にかけて、山下公園や港の見える丘公園には薔薇などのたくさんの花々が咲き揃う季節になりました。 |
こちらは山手西洋館の中でも私が特に好きなエリスマン邸。 |
このお部屋は一階の暖炉があるリビングです。 |
部屋の細部や階段にいたるまでよく観ると、あちらこちらに幾何学模様を発見できてなかなか面白いです。 |
エリスマン邸と外国人墓地の間の小径をテクテクと降りると、こんなクロネコちゃんに出会います。 |
さて、こちらは先日石川町から元町一丁目に移転して来られたお花屋さんです。 |
美味しそうなスコーンがいっぱい!! |
2階ではフラワーアレンジスクールも開催中でした。 |
今度はいきなりワインのお店へ。。。 |
お店の名前は「ル ピピ ダンジュ」天使のおしっこという意味らしい!? |
カウンターにはバッグをかけるお洒落なフックが付いていて、気軽にワインを立ち飲みもできます。 |
今月は、山手ー元町ー石川町と、歩いて数十分圏内を散策しました。
近くに住んでいても初めて入るお店だったり、気にはなっていたけれど既にオープンされて2年が過ぎていたりと、意外に知らないことが多いこの町です。
これからもトコトコと元町散歩で面白いお店などを発見して、みなさまにお知らせしていけたらいいなと思います。
オー・マイ・モトマチライフを読んで下さりありがとうございました。それではまた・・・。
レポーター プロフィール
Yuu Adachi Gallery1223 あいお☆らいと代表 |
イベント・坂道・権太坂。積み重ねと新展開で、ますます楽しい名物会!
(また)坂を登りました。
4月に発足(?)した「坂を愛する会」ですが、ゴールデンウィークの最終日、5月6日(月・祝)に2回目の坂登りを行いました。 今回チャレンジした坂は、神戸町と桜ヶ丘を繋ぐ「ビール坂」。正確にはビール坂の1本裏の急階段でした。 とにかく急な階段ですが、急な階段であるため、少し登る毎に景色が変わります。振り返る度に目の前の横浜ビジネスパークの景色が変わり、やがて、みなとみらいが、そして横浜ベイブリッジまで、と視界が広がっていきました。 歩くだけなら本当に急でキツイだけの坂ですが、見方を変えると坂にはこのような楽しみが秘められていますね。 今回は、旧東海道は殆ど通りませんでしたが、相鉄天王町駅→天王町駅前公園→横浜ビジネスパーク→神明社→ビール坂→桜ヶ丘→霞台→保土ヶ谷カトリック教会→大仙寺→保土ヶ谷駅東口商店街と、歴史あり、近未来型空間あり、神社・教会・お寺あり、そして急勾配な坂道あり、と、中々の具沢山なルートでした。 横浜FC「ほどがや区民デー」&ほどがや花フェスタ前回書かせていただいた通り、只今、春のイベントシーズン真っ只中です。 5月12日(日)に開催された横浜FC主催の「ほどがや区民デー」は、(当日、私は諸事情により欠席でしたが)本当に気持ち良く晴れた日でした。 |
(クリックで拡大画像) |
会場も多くの人で賑わったようで、名物会各店も大忙しの1日だったそうです。
そして、それから1週間も経たない18日(土)は、こちらも恒例の「ほどがや花フェスタ」。
この日もお天気には恵まれたものの、風の強い1日でした。
毎年出店させていただいているお蔭で、名物会を目掛けて来てくださるお客様もたくさんいらっしゃいます。
一方で、これだけ何年も出させていただいている上、そもそも区内でも有名な名店揃いの名物会ですが、知らない方もまだまだたくさんいらっしゃいます。
こういう機会に触れる度、改めて、発信し続けることの大切さを感じます。
権太坂プロジェクト
権太坂小学校で恒例の「ごん太坂まつり」(主催:権太坂小学校PTA)が7月13日(土)に開催されます。
お蔭さまで保土ヶ谷宿名物会にとっても今回で3回目の参加となります。
このイベントの打ち合わせも兼ね、5月14日(火)、権太坂小学校PTAの皆さまと打ち合わせをさせていただきました。
が、話題の中心はイベントよりも「コラボレーション」。
今後、権太坂小学校PTAの皆さんと名物会で連携し、「PTA × 名物会 × 権太坂」で何が生まれるか!?
というテーマで意見交換をさせていただきました。
「(名物会各店の店主を講師に迎え)和菓子・そば打ち・手巻き寿司などの料理教室」「お母さん向け東海道保土ヶ谷宿の歴史散策」や、突飛なところでは、権太坂の「新しい昔話」を作る「新・権太坂伝説」の制作など、時間としては僅かでしたが、興味深い意見交換ができました。
この権太坂小学校PTAの皆さんとのコレボレーション、今後の名物会に新たな方向性が生まれる可能性は「大」です!
今後の展開、是非、ご期待ください。
レポーター プロフィール
山田浩和(やまだひろかず/Yamada,Hirokazu)
合資会社 笑う門 代表社員
保土ケ谷宿名物会事務局
1971年8月生まれ。獅子座のO型。保土ケ谷生まれの保土ケ谷育ち。
2003年、合資会社「笑う門」を設立。<オンリーワンの価値創り>のお手伝い。
会社設立時に制作したミニコミ誌がきっかけとなり、保土ケ谷のまちづくりにドハマリ。
現在、歴史や地産地消など、地域資源を活かしたまちづくりに幅広く取り組んでいる。
合資会社 笑う門 http://www.warau-kado.com
各社・各店・各個人が持つ十人十色・百人百色の目に見えない財産(経験・体験・知識・技術・ノウハウ・アイデア等)を活かした販売促進企画・商店街活性・まちづくりを推進しています。
業務内容 :
●シンボル制作
ネーミング / シンボルマーク / ロゴマーク / キャラクター企画・制作
●広報(コミュニケーション)媒体制作
・簡易版会社案内(A4版三つ折り)制作
・ニュースレター(A4版)制作
その他、フライヤー / ポスター / 小冊子 / 名刺 / のぼり旗 / エコバッグ / ユニフォーム、など
ヨコハマNOW掲載情報
教えて!放射能のこと! 第1話 放射能の正しい知識
「ええっ」って申されましたか? 何の話かと?! 今回は、七夕様のお祭りの頃に楽しんで頂く『葉蓋』というお点前(茶道)のお話です。
七夕のお祭り特製『お点前』?
このお点前、七夕限定では無いのですが、御簾を下ろし、少し薄暗くした茶室で、水差しの蓋に大きな葉っぱを使ってするお点前なのでございます。 はい、裏千家に伝わって居ります。
もちろん葉っぱは使いっきり、一回しか使いません。 夏の日差しの中、木下陰のひんやりとした茶室で『葉蓋』のお点前は格別の風情が有ります。
このお点前は、十一代玄々斎様の創案のお点前です。 ほんの悪戯心か・・・とても粋な計らいのお点前なのです。
と申しますのも、「葉っぱ」を使うだけでも『えっ!』と驚かれますが、その水差しが末廣籠の花生けの『受け筒』を使って居ります。 「花生け」の水差しに「葉蓋」なので、「ええっ」となります。
ですが、「花生け」の筒の上に「葉っぱ」ですから、考えてみれば『普通』のことなのです。
茶道具の見立て
『何でも茶道具にしてしまう』お茶人とは困った人種かもしれません。 このように別な使い道を工夫する事を『見立て』と申します(笑)。 使われる「葉っぱ」は、梶の葉や桐・蓮・芋・蕗等何でも良いのですが、紫陽花の葉など毒や匂いの強い物・汁が出るものは使わないで下さい。 紫陽花は、今の季節に丁度良い大きさの葉ですから、使い易い様に見えますが、紫陽花の葉を使うと『暗殺』の言葉を暗に添えている様で良くないのです。 |
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疎まれた紫陽花
紫陽花の人気が高まったのは近年になってから、鎌倉の東慶寺(アジサイ寺)が観光の人気スポットになりました。 そして、紫陽花を線路沿いに植えたことから『アジサイ電車』が走るようになり、車窓からの景色を楽しむ観光客が増え沿線も賑わっております。
品種も改良され、庭木として、切り花として楽しむようになりました。 しかしながら、アジサイ寺と呼ぶように、紫陽花はお寺で見かける花でした。 紫陽花の七変化を武士が好まなかったとも言われています。
そして、紫陽花で中毒症状がでることを忘れてはいけません。 料理に季節感を醸し出すために紫陽花の葉を飾りに使うのは避けられた方がよろしいでしょう。
御ままごとなどのわらべ遊びでお子さんが誤って口にしないようにと、古(いにしえ)の人達は紫陽花を庭木にしなかったのでしょうか?!
そうそう紫陽花にいるかたつむりは絵になりますが、本当は「ありえません」よ、紫陽花の葉の毒に敏感ですから(苦笑)
蓮の葉の『葉蓋』
何方かの御供養や偲んでの茶会などには、その方ゆかりの茶碗や茶杓など何か一つ添え、蓮の葉などを『葉蓋』とするととても素敵かと思います。
七夕祭りと『葉蓋』
この頃、下賀茂神社のみたらし池でお祭りが有ります。(日時要確認・土用の丑の日前後4日)夕方涼しく成ってから灯りを燈した蝋燭を持ってみたらし池の中を歩いて参拝します。
浴衣の裾を托し上げて蝋燭の灯りがゆれてお参りする姿は、誠に美しい風物詩で御座います。
お参りに行き、帰って来て茶室の縁側に腰掛け、裏山から引いた石清水に漬けて置いた冷酒を頂き、取り留めも無く徒然に話をする・・・誠に心安らかなひと時では無いでしょうか。
さて、横浜で大きな七夕のお祭りって何処に有るでしょうか? 皆さん誘い合ってお祭りに行き、帰ってから『葉蓋』のお手前でお茶を点き喉を潤す。夏の楽しみ方の一つとして如何でしょうか?
写真と文:佐々木彬文(日本画家・裏千家茶道講師)
佐々木彬文画伯の今月の絵『森の中』
P6号(たて 27.5cm よこ41cm) 金額 280,000円 (額なし※)
私が選んだ今月の絵は『森の中』です。 最近では都会の川でもカワセミを見かけるようになりました。 都会の川の水がきれいになって餌が豊富になったことも一理ありますが、人間の生活圏に暮らすことで天敵から守られるからだとも言われています。
この絵のカワセミは緑深い『森の中』に暮らしているのでしょうか? 深い瀞の水面(みなも)には渓谷の緑が写り、かわせみの美しさが際立ちます。 飛び立つ前の一瞬の静寂、静止しているようにも見える水そして時間。 森の木々が風に騒ぐと、すべてのものが一斉に動き始めます。
(紹介文:高野慈子)
※額はご希望に応じて作成いたします。価格は素材に応じて20,000円からです。
※絵のご購入に関するお問合せは、ヨコハマNOW編集長 辰巳までご連絡ください。
TEL 045-264-4939 FAX 045-264-4940 Email kabuki@waratte.jp
佐々木彬文プロフィール
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日本画家(彬文会主宰) |
佐々木彬文作品
佐々木彬文作品 「祈り」
佐々木彬文作品 「祭り」
佐々木彬文作品 「墨絵」
佐々木彬文作品 「遊」
※絵のご購入に関するお問合せは、ヨコハマNOW編集長 辰巳までご連絡ください。
TEL 045-264-4939 FAX 045-264-4940 Email kabuki@waratte.jp
第12回 個人からはじめる
後藤 武
横浜や湘南地域には、今でも昔ながらの自然が残された地割の大きな敷地が点在しています。こうした敷地は当然個人の所有物でありながら、地域の自然資源としての役割も果たしてきました。しかしこれらの土地が相続などで手放されるやいなや、とたんに宅地開発によって細かく分けられ、新建材で覆われた張りぼての住宅密集地に変貌していきます。極端に環境の質が低下していると、私は思います。街並みが変貌していくことは避けがたいとしても、質的な低下をいくらかでもくいとめることはできないのでしょうか。
ディベロッパーが仲介して効率を優先して開発を行い、そこに出来上がった商品としての住宅を消費者が買うことによって所有権が移転していく構造が、ここにはあります。大組織の収益の対象に街が飲みこまれてしまっているといってもいい。この構造を迂回することができれば、今とは少し違ったかたちで街並みの変貌を見届けていくことができるのではないかと思います。
そのために微力ではあるのですが、大きな土地を共同購入して、そこに集まって住むかたちを模索しています。自然の残された広大な敷地が、接道条件などの理由で分筆が困難で取引されにくくなっている場合があります。そうした土地に、戸建ての感覚に近くて庭をふんだんに確保できるような配置計画を考える。共有とプライヴァシーの兼ね合いをコントロールしながら、住人たちと議論しながら建築計画をすすめていく。こうしたやり方はコーポラティブ方式として知られてきましたが、今あらためて取り組むに値するものだと考えています。住人と建築家が個人の立場で、不動産と建設のブラックボックスに分け入り、開発される一歩手前の状況で街並みをコントロールしていくこと。その可能性がここにはあるのではないでしょうか。
建物の作り方の水準でも、質の低下を抑えることはできるはずです。ハウスメーカーは生産コストを抑えるために部材を規格化し大量生産を行いますが、大量に同じものを売買するためには広告と営業に膨大なコストをかけざるをえない。その結果として一つの住宅の取得費用はいくらか下がりはするものの、取得費用の中には建設費用以外のものが計上されざるをえなくなります。同じお金を払っていても、物質的な水準での質が下がることになるわけです。
私は、建物の質を向上させなければいけないと思います。これは、性能とはまた別の議論です。質が高いものとは、制作の過程の思考が彫琢されて現れ、品格があるもののことを意味します。そのためには、建物の費用をなるべく純粋に建材と施工費に還元していく方法があると思います。日本の住宅産業は戦後量産化して商品化への道をすすんできたように見えますが、しかし他の産業と比べて特殊なのは、規格化が徹底できずに今でもさまざまな技能をもった職人たちによって現場が支えられている点です。
職人たちは多くの場合個人で仕事をしています。そうした個人を工務店やハウスメーカーが束ねて管理費などを計上するわけです。かつては直接建て主が個人の職人とやりとりして家は建てられてきたわけですが、今ではそのあいだにハウスメーカーや工務店が入って組織化されました。住宅建設が、作り手の顔が見えずお金の流れも見えないものづくりへと変わっていったのです。
個人どうしがつながってネットワークをつくり、ものづくりをする。アメリカではフリーエージェント社会の到来が言われますが、日本の建設業界は、昔から個人のネットワークで支えられてきたのです。プロセスの可視化は、必ず質を向上させます。建築家という職能は自分もまた個人の立場から、個人のネットワークを纏め上げる立場に変わっていくべきだと考えています。
湘南でのコーポラティブの住まいづくりは、湘南デザインシステムと協同して行っています(http://shonanstyle.com/)。また、建て主直営の建設方法は、オープン・システムとして、株式会社イエヒトに参加しています(http://osnw.jp/)。
鵠沼コミュニティ住宅 |
交差点の家 |
AA STUDIOの仲間たちの パーティーのご案内
日 時 6月15日(土曜日)
時 間 17:00~21:00(出入り自由)
場 所 横浜元町 AAスタジオ 横浜市中区元町2-80-22-2F
会 費 2,000円
詳細はこちらをご覧ください
「暮らしを大切にデザインする」ギャラリーへ
横濱元町AA STUDIOは「暮らしを大切にデザインする」17名の建築家のギャラリーです。それぞれの建築家の模型・作品写真など自由にご覧になれます。
横濱元町代官坂の中腹にあるカフェのようなギャラリーで、週末は交替で建築家がお迎えいたします。(建築家と話そう!)ホームページのスケジュールに担当建築家が掲載されていますので、カフェに立ち寄る気分で横濱元町まで建築家とお話にいらしてください。お待ちしております。
なお5回ほど私が連載して参りましたが、今後はメンバーが交替で「新しい建築とのかかわり方」を綴りますので、変わらぬお付き合いでご愛読くださいますと幸いでございます。ありがとうございました。
AA STUDIO WEB http://www.aaplan.com/aastudio/
Craftman Shop Street Motomachi http://www.motomachi-cs.com/cm/shop/shop051
AA STUDIO パンフレットがダウンロードできます。(PDF)
青木恵美子 | http://www.aaplan.com |
新井今日子 | http://www.arai1992.com |
伊藤 寛 | http://www.ito-kan.com |
岡田 勳 | http://www.kuukantoshi.co.jp |
荻津 郁夫 | http://www.o-as.co.jp |
神田 雅子 | |
北川 裕記 | http://www.aalab.com/kitagawa/ |
栗原 正明 | http://msak.asia |
河辺 近 | http://www.ken-ken-a.co.jp |
後藤 武 | http://www.gtaa.jp |
鈴木 信弘+洋子 | http://suzuki-atelier.com |
豊田 悟 | http://home.m07.itscom.net/toyoda/ |
中村 高淑 | http://www.unit-h.com |
藤本 幸充 | http://www.kamakobo.com |
松井 理美子 | http://www.matsui2ar.com |
水口 裕之 | http://homepage1.nifty.com/eau/ |
山口 賢 | http://www.amarterrance.com |
HEART&SOUL代表 原 正行 1958(昭和33)年9月7日横浜生まれ、12歳よりギターをはじめ17歳からミュージシャンとして活動。39歳の時に念願だったライブハウスを開業、現在は関内駅北口駅前に60年代から80年代の洋楽ヒット曲を演奏するライブハウス、ハート&ソウルの経営者。他にもミュージシャンとして演奏活動、作曲、プロデュース等、幅広く活動している。 |
横浜、街と風(青い日記) 9
バンタム
ボクシング部入部後は、来る日も来る日もロードワークと筋トレ、シャドゥーボクシングはひたすらジャブだけ。2ヶ月位してやっとストレートを教えてもらうと、ひたすらワンツーばかり。しかし、夏になる頃には慣れてきました。高校ボクシングは、1ラウンドが2分。休みが1分で計3ラウンド。体重で階級が分かれ一番下がモスキート級で45キロ以下。次がライトフライ級48キロ迄。フライ級51キロ。バンタム級54キロ。フェザー57キロ。ライト級60キロ。ライトウエルター64キロと上がっていきます。自分は普段から60キロくらいあったのでバンタムまで落とせと言われ、食事制限を始める事に。しかし、運動を続けてる体で落とすのは並みの努力ではありません。朝はトマト1個、昼は掛けそば、夜は少な目に普通の食事をしましたが、たまに馬鹿食いして元通り。それでも通常が57キロくらいにはなりました。大きく分けてボクサーのタイプは2つ。インファイトとアウトタイプで、インファイトはガードを固めておでこを打たせて相手の懐に飛び込み接近戦で戦うタイプ。アウトボクサーはリーチを伸ばし相手を近づけず距離をとって戦うタイプ。自分の身長は161センチ位で骨太。バンタムでも170センチ位が普通にいたので監督にお前はインファイトを目指せと言われました。
3人のヒーロー
私がボクサーで一番すきなのはモハメッドアリでこれは別格ですが、この頃3人のヒーローがいました。一人目はフライ級世界チャンピオンの大場政夫でチャチャイ・チオノイとの劇的な逆転KOで防衛した後、愛車のコルベット・スティングレーで事故死。世界チャンプのまま帰らぬ人となりました。この時私は中3、本当にショックでした。
(http://ameblo.jp/jesuscrist-0831/entry-11452457651.html)
もう一人は明日のジョー!。力石が死んだのを読んだのは上大岡駅の構内でしたがそのシーンを今でも覚えています。
3人目はボクシング部の3年生だった糸数勤先輩。沖縄出身で自分と同じバンタム級でインファイト。2年生の時すでに社会人の部で全日本8位にランクされてました。よくサンドバッグを支えたのですがこの人のパンチの衝撃力は尋常ではなくて、堪えきれずどんどん後ろに押されてしまいます。絶対にこの人は世界チャンピオンになると確信していました。自分は可愛がっていただきインターハイの関東大会にも付き人で連れてってもらいました。糸数さんは3年の時高校生で相手になる人はおらずバンタム級の全日本高校チャンピオンになりました。その後プロに転向。8戦目でJ・バンタム級の日本チャンピオンになりました。1回目の防衛戦、伝説のボクサー、ジャッカル丸山との死闘は凄絶で、今でもボクシングファンの間で語り草になっています。かつてこんなに凄い試合を見たことがありません、今ならとっくにレフェリーストップになっているでしょう。
(http://movie1.search.biglobe.ne.jp/video/watch/7e5ef396d8cc1eea)
この試合の後しばらくして先輩は引退。燃え尽きてしまったのかも知れません、今は沖縄に在住しているそうです。こんなヒーローたちに憧れボクシングに夢を見ていました。
母
話は少し戻りますが、小学6年の時、脳溢血で倒れた母の意識が戻ったと連絡があり、病院に駆けつけると私の顔を見て、「マコト、マコト」と言います(まことは母の弟の名前)。「お母さん、僕が分からないの?」、最初は冗談かと思いましたが「マコト」を繰り返すのを見て母は本当に自分が分からなくなったと気づいた時愕然としました。
母は静岡で大きい病院の長女として生まれ、何不自由なく育てられ、性格ものんびりとおっとりしていて怒った所は殆ど見たことがありません。幼い頃からピアノを弾いていたそうです。
聞くところによれば、母方の先祖は徳川慶喜のかかりつけの医者で、母の弟の真氏(私の叔父)も静岡で大きい病院の院長。母の妹は若い頃ミス静岡に選ばれた程の美人で、母もぽっちゃり系の美人でした(母のパッチリした二重瞼は兄に遺伝してしまい私は父方の奥二重をいただいてしまいました)。
そんな母がバリバリの商売人の原家に嫁いでからは、厳しい祖母のもと満足に寝るひまもないほど働かされて、相当苦労したそうです。家が倒産し家業から開放され家族4人一軒屋に住んでから倒れるまでのわずか3年ほどが彼女が幸せで安らいだ短い時間だったのでしょう。一度目に倒れた時は、それほどではなくすぐに普通の生活に戻りましたが、二度目は完全に意識不明。医者からも危ないと言われていましたが、奇跡的に意識は戻りましたが、殆どの記憶がとび、左半身は麻痺した状態で寝たきりの入院生活を送ることになったので、ヘルパーさんを雇ってつきっきりの看病をお願いすることにしました。
ところがある日、母の背中に床ずれがあることが発覚。私も見ましたが背中にぽっかりと穴があき、なんと背骨が見えています。寝たきりの母は何時間か毎に寝返りを打たせなければならなかったのですが、ヘルパーさんがその業務を怠ったのです。父は激怒しヘルパーを首にすると仕事が終わると殆ど病院に寝泊りし寝返りからシモの世話まで父が自分でやりました。母も我々子供の事は分からなくても父だけは分かるようでした。そんな状態が何年か続き父の献身の甲斐あってかほんの少しずつ快方に向かっていきました。
中3の頃、母が入院していたのは金沢八景にある病院の古い木造の病棟で、その部屋には老いて寝たきりになった女性ばかりが10人ほど入院していました。ある初夏の晴れた日、見舞いに行くと、病室から美しい歌声が聞こえてきます。入り口で私は思わず立ち止まり聞き入りました、母でした。やがて歌い終えると、「光子さん○○歌って」と、隣のおばあさんが母にリクエスト! すると母は、また澄んだソプラノで女学校時代の流行歌や童謡を歌いだします。何人か涙ぐんでる人もいました。母の歌は彼女達の癒しでした、しかし見舞いに行くたびに同じ病室の人が一人また一人とその姿を見かけなくなっていき母もとても寂しそうでした。
第3章 ビジュアルによる影響と成長 2
エド・サリバンショー
テレビの普及により、ビジュアルの影響は映画からTVへと以降してゆきます。アメリカのTV番組エド・サリバンショーにビートルズが出演した時は、米国民の60% 7300万人が見て放映時間中青少年犯罪がゼロだったと言われています。
50年代から80年代頃まで、エド・サリバンショーは年齢層や富裕の差をこえてテレビを所有するほぼすべての国民が見ていた米国最高のバラエティで、あらゆる音楽やオペラ、演劇、お笑いと、当時アメリカにおける最先端のエンターテイメントを放送していました。
日本でも放送されましたが、幼かったからか自分にはかすかな記憶しかありません。アメリカを代表する番組だった為、出演者にはその品位が問われ、エルビスが出演した際にはその腰の動きが卑猥だとクレームがつき、腰から下を移さない様にして放送。本当は出演させたくなかったのでしょうが、ここでプレスリーを出さなければ若者達にそっぽを向かれてしまいます。
70年代に入ってもストーンズにセックスを連想させるのはいかんと歌詞を変えて歌わせたり、まだまだロックには体制に壁がありました。ドアーズ出演時は今でも伝説で、“ハイ”は麻薬を連想させるとして歌詞を変えて歌うよう指示したのに、生演奏本番でボーカルのジム・モリソンは、そのまま歌って番組側を激怒させたりしました。本来ロックミュージックには反体制が基本にあります。こんなお堅い番組でも若者達の圧倒的な支持には抗しきれず、受け入れざるを得なかったのでしょう。こうしてビジュアルはロックの変化と成長をもたらしたのです。
変化
他にも、ディック・クラークが司会者をつとめたアメリカン・バンド・スタンドは、最新のヒット曲を出演者やバンドが演奏する人気の歌番組でした。
50年代中頃最初は地方だけでしたが、あまりの人気で全国放送となり、夕方の4時位から放映されたのは学校帰りの裕福な白人のティーンネイジャーをターゲットにしていた為でした。黒人の若者は貧しかったので、放課後は働かなければなりません。最初のうちは白人の出演者のみで黒人歌手のヒット曲が売れると白人歌手がカバーしたバージョンを放映していました。
しかし60年代を超えると、視聴者からオリジナル本人出演の要望が多くなり、少しずつ黒人歌手も出演していくようになります。当時の彼らは服装もバリッと正装のスーツで決めたり、髪もちりちり髪をストレートに伸ばしたりカツラをつけたりして、白人達に迎合するような出で立ちでした。
サムクックがユーセンドミーをヒットさせこの番組に出演した時も、まだ白黒でしたが観客席は全員白人の若者でまったく受けずそっぽを向いているものまでいる始末で、本人もやりずらそうにしている映像が残っています。それでもこの番組は60年代を通してロックミュージックの貴重な映像を送り続けその成長に貢献していきます。
黒人音楽もモータウンミュージックなどと共に白人にも受け入れられるものを中心に流していきます。しかし60年代終わり頃にはベトナム戦争の泥沼化で戦争反対を表現するヒッピー文化が生まれたり、ロックも形を変えゆき、また黒人社会も公民権運動をへて白人に迎合するのではなく、黒人としてのプライドをもって生きようという空気になって行きます。
髪はそのまま伸ばしたアフロヘアが主流になり、ブラックイズビューティフルを合言葉に、ジェームスブラウンやカーティスメイフィールドらを中心に変化を遂げていきますが、そんな頃生まれた番組がソウルトレインでした。
ソウルトレイン
それまでテレビ番組でソウルミュージックだけを扱う番組はありませんでした。アメリカ海兵隊帰りの黒人青年ドンコーネリアスが始めたシカゴのローカル番組が人気となり、1971年10月から全国放送に、当初は黒人(アフリカ系アメリカ人)の若者を支援するという目的で始められました。
毎回何組かのミュージシャンによるライブとソウルトレインダンサーズによる華麗なダンスで構成され、彼らによる音楽とダンス、そして最新のファッションは常に話題になりアメリカ各地にできつつあったディスコと共に成長して、70年代中頃にはピークを迎えてアメリカ最高の音楽番組としての地位を確立しました。ソウルミュージックの発展、成長はこの番組と共にあったと言っても過言ではないでしょう。
日本でも70年代中頃テレビ東京で放映され、我々の世代はこの番組のおかげで黒人音楽に触れる機会を得たともいえます。(ジュンとロペのCMがめちゃかっこ良かった)
また、ディスコの繁栄もこの番組なくしてはありえなかったでしょう。番組はアメリカでは2006年まで放映されてたそうで司会のドン・コーネリアスは’12年に逝去されました。
(HEART&SOUL代表 原 正行)
HEART&SOUL
〒231-0014 横浜市中区真砂町3-33 CERTE11階
営業時間
平日:OPEN 19:00 CLOSE 4:00 LIVE START 19:50~
休・祝日:OPEN 18:00 CLOSE 24:00 LIVE START 18:40~
TEL:045-664-5569
JR関内駅徒歩より1分
地下鉄関内駅より徒歩1分
Websie http://www.heartandsoul-live.com/
音に聞く高師の浜のあだ波は かけじや袖の 濡れもこそすれ
♪音に聞く高師の浜のあだ波は かけじや袖の 濡れもこそすれ♪
絵・千絵崇石 |
読み人:祐子内親王家紀伊 (ゆうしないしんのうけ の きい) 現代語訳 by 千絵崇石・・・あの有名な高師の浜に打ち寄せる 高波のように 言いよってきても情けをかけたりしませんよ 袖が 濡れることになりますからね、世間では言っていますよ 貴方は憎い浮気者と・・・ 私は・・・自分の経験から得た認識として、女性にとって恋人もしくは夫が他の女性に心を移していることを知った時ほど、苦しい体験はないと思っています。 |
母としての子育ては別にして女性を人間的に大きく成長させてくれるのは男性との関係を通してだと、思います。一時はとても愛し合っていたのに、その後の付き合いの中で徐々に亀裂が生まれて分かりあえなくなってゆく時の苦しさや、相手の言葉を信じられない時、別れの言葉を切りだされているのに受け入れられない時など、愛と執着が絡まり合って心の中は七転八倒。昔の女性達も愛する人が心移りをする度に涙で袖を濡らして、でもきっとその苦しみの中から豊かな人間性が育まれて行ったのでしょうね。私自身は本当に別れた男性たちによって成長させていただいた。という感謝の想いがあります。でもこれからの人生でもう一度それらを体験したい?と聞かれたらとんでもない!もう2度とお断りです。
最近は男性と言う生き物がとても愛おしく思えるようになってきました。年齢を重ねるとはこういうことを言うのね。まだ3~40代の頃は男性を憎んでいたというか、敵対していた様な時もありました、似非フェミニズムにかぶれていたのかもしれません。
さてこの歌・作者の紀伊がいくつの時の歌なのかと言うと、70歳になっていたのではないかとされています。この歌の生まれたのは1102年の堀川院にて行われた歌会。それも「艶書合わせ」といって恋歌の大会です。疑似恋愛の中での歌で主に男性の方がいいより、女性の方がはねつける。というパターンで歌合わせが進行するらしいのですが。
彼女の恋歌のお相手は若干29歳の中納言藤原俊忠(藤原貞家のお祖父さん)彼が詠んだ
♪人知れぬ 思ひありその 浦風に 波のよるこそ いはまほしけれ♪
現代語訳・・人知れずあなたを思っている私は 荒磯の浦に波が寄る様に、ひと夜お目にかかってこの想いを打ち明けたい。その歌の返歌が♪音に聞く~となるわけです。
29歳の公達の恋歌に、70歳の女房が朗々と?応える。なんか素敵でしょ?
タイムマシンがあったらぜひその歌会にフォーカスして彼女が謡いあげる瞬間に居合わせたいと思ってしまいます。
このところヨーロッパの歴史小説を読む機会に恵まれて、西洋文明の中に浸透している辛口のユーモアの味わいに敬服していた私ですが、西洋とは全く異なる東洋の極辺で1千年以上も前に花開いていた和歌文化の極みに日本文化の底力を感じる今日この頃です。
(早苗ネネ♪)
新宿シャンパーニュ 電話 03-3354-8540(昼) 03-3354-2002(夜)
新宿一丁目。元新宿厚生年金前。http://www.champagne-live.com/
1.スターピープルVOL41から「女性性のパラダイムシフト」というタイトルで連載寄稿しています。
早苗ネネさん プロフィール
木々や鳥や魚や精霊…人間以外の存在達との交流が当り前に語れるくらい、いのちのひろがりに気づくと、共に生きている喜びや、苦しみや悲しみにもナイーブになる。
心と野生がひとつながりになると……こんな風に人は年を重ねられる。ひとりひとり、ユニークにもっと自分になれる。
早苗 Nene さんは、そういう人生の先駆者です。 感性を解放しながら、40代で高校生に仲間入り卒業後、マウイのカレッジに留学中、突然半生記が受賞しました。
そんな新たなシーズンを迎えて、今エッセンスを分かち合いたい。
<天性の歌い手>というだけでなく、その存在感、溢れる活性のバイブレーションは、光のシャワーのよう。彼女と語り歌い、魂の成長を旅している現在の、自分の位置を確かめてみませんか?
ご主人 佐川利三郎さん(79歳)栃木県足利市出身 女将さん 佐川美津江さん(81歳)東京神田出身
横浜中区にある山元町は、40年前に廃止された市電長者町線の終点でした。市電が走っていた頃は、乗降客の多くが山元町商店街で買い物をしていたそうです。市電が廃止されバスに代わってから、商店街の人通りも少なくなって商店も減ってきました。
※山元町二丁目商栄会の皆様には宮城県山元町の復興支援でお世話になっています。
山元町の入り口に「食べログ」などで人気の食堂「おかめ」があります。創業55年。80歳を迎えた夫婦が二人で切り盛りしています。私は週末の午前7時ごろにお店に行きます。巻きずしとお稲荷さんそして名物の豆大福を購入して、朝食にするのが我が家の定番です。
「インターネットっていうものが、うちのお店の宣伝を勝手にしてくれるよ。」と仰るお二人に「おかめ」の歴史を伺いました。
ここでお店をはじめるきっかけは?「主人は新宿でバーテンをやっていて、私の親族にスカウトされて神田に移ったの。そこで私と知り合って恋愛結婚したのよ。」 とテキパキと話してくださる女将さんはチャキチャキの江戸っ子で実家は餅菓子屋さん。 女将さんの親族が市電終点の真ん前に造作を持っていて、そこで餅菓子屋をやったらを勧められて開店したのが、1959年(昭和34年)のことでした。 「開店当初から、大福や団子の餅菓子・お寿司類の製造販売とラーメンやオムライスを出す食堂をやっていたの。これは今も変わっていないよ。」 座席が16席の食堂も、お品書きも全く変わっていないそうです。 市電が走っていた頃の山元町はどうでした?「お店もたくさんあってにぎわっていたよ。今はなくなっちゃけれどここの並びにもおたくさん店があったの。開店当時は忙しかったね。8時から23時までお店を開けていて働きづめだった。昔はスーパーもコンビニもなかったから、お客さんがひっきりなしだった。娘が1961年(昭和36年)に生まれたけれど面倒を見ることもできなかった。娘はお客さんに育ててもらったようなもんだよ。忙しいだろうからと言って、娘を預かってくれたり・・。地域の人たちに支えられていたね。」 市電が廃止されて大変でしたか?「市電がバスになってうちの前を通り過ぎてしまうようになったからね。でもいろいろなお客さんが来てくれたから、つらいことなんかなかった。30年ほど前、うちはホストのたまり場だったのよ。伊勢佐木町の人気ホストたちが営業が終わった朝に、うちに来て食事をしていったの。その当時はファミレスなんかなかったから・・・。タクシーで乗りつけてきて、それは楽しかったわ。山手町にマンションが建設されていた頃は、建築業者さんがよく来てくれた。タクシーの運転手さんたちも来てくれたね。お客さんが減っても、二人きりでやっているから何とかなったの。」 最近また忙しくなってきたとか?「そうなの。インターネットの食べログってのに掲載されたり、2年前に朝日新聞神奈川県版に掲載されてから、遠くから訪ねてくる人が増えてきたの。注文品の写真を撮る人が増えたのも最近だね。食べログの記事を送ってくれたお客様がいて、若い人たちが来てくれるのはこれなんだと初めてわかったのね。」 お店には、新聞記事やお客様からの手紙が貼ってありました。お店の評判が口コミで広がって、様々なメディアに取り上げられるようになっています。 「あっさりとしたしょうゆ味のラーメン(400円)が人気で、食べログのランキングで上位になったんだって・・。オムライスも若い人たちによく出るね。」 毎朝早くから営業していますね「今は毎朝午前4時に起きて、午前5時から大福などを作り始めるのよ。豆から煮てあんこを作り、御影石の臼でお餅をついている。原材料も製法も開業当時を変わっていないよ。二人の共同作業で作っているの。」 |
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大きくておいしいと評判の「豆大福」は一個100円。値段は30年間変えていないそうです。毎朝100個作るそうですが、お昼ごろには売り切れてしまいます。
「15歳の孫に言われるのよ。小さくしたり値段を上げたらだめだよ。って・・二人でやっているからこのままで頑張るよ。」
80歳を超えてもお元気なお二人ですが、最近は近くに引っ越してきた娘さんが手伝ってくれています。
暮れのお餅の時期、お彼岸のおはぎの時期、そして節句の柏餅の時期は注文が殺到して寝る暇もない忙しさだそうです。50年来のお客様もいるので期待は裏切れないとお二人は仰います。
お二人のお元気な秘訣な何ですか?
「共通の趣味があることかな。競馬・競輪・競艇・・・賭け事が好きで二人でよく出かけるよ。それから働くことが好きだからね。今はお休みはなし。月1回くらいかな。体の都合でお休みしている。」
「それと言いたいことを言うことかしら。うちほどお客様にきつくモノを言うところはないかも。ダメなことはダメ・・と言う。でも注意してあげるとその人がまた来るから不思議だね。」
アットホームだと言われませんか?
「言われるよ。うちのお客さんは長居する人が多いのよ。全然帰らないの。2.3時間はざらだね。10時から17時までいる人もいるよ。皆、会話が楽しいんだって。自分の家だと思っているんじゃないの。」
ベランメエ調の女将さんの言い方は、確かにきついけれど心地いい気がします。私たちが取材に行った時も30年来のお客様が来ていて、その方たちに「元気出さなきゃダメじゃない。」と女将さんはカツを入れていました。
「ありがたいね」とよく仰いますね?
「地域の人たちに支えられているという感謝の気持ちを忘れてはいけない。だから訓盲院のバザーにも協力している。お巡りさんも毎日パトロールしくれてメモを入れてくれるよ。」
「遠くからこの不便な場所にわざわざ来てくれる人がいる・・ありがたいね。感謝の気持ちでいっぱいだよ。」
お二人にとって横浜はどんな場所ですか?
女将さん曰く「東京から来たときはどんなところかと思ったら住めばいいところだね。横浜は東京よりもいいところだよ・・・」 「もっと気の利いたことが言いたいね・・何かないかしら・・」とお客さんに問いかけたところ「横浜よいとこ。おかめはもっといいところ・・でいいじゃないか」と声がかかりました。
そこで写真撮影。いつも笑顔が絶えないお店です。
これかもずっと同じようにやっていきたいと話すお二人の心意気が、「おかめ」の魅力そのものなのでしょう。「お姉さん・・いつも早いね。」と話しかけてくれる女将さんの元気な声を聞きたくて、今日も入口のドアを開けるのです。
※今回の取材には、M.F.コラボレイトの藤崎美和さんが同行してくださいました。藤崎さんに撮影していただいたビデオを掲載いたします。
食べログ 「おかめ」
http://tabelog.com/kanagawa/A1401/A140106/14024480/
横浜市中区山元町1-4
tel 045-681-2563
営業時間 7時~17時(不定休)
吉田町商店街
横浜の桜木町駅と関内駅の線路に沿った通りが、吉田町(よしだまち)商店街です。伊勢佐木町と野毛という歓楽街をつないでいることから「250mのコリドー」(渡り廊下)とも呼ばれています。 吉田町の名前は、横浜の発祥である埋立地「吉田新田」を開いた吉田勘兵衛良信(よしだかんべえよしのぶ)からきています。横浜開港当時から横浜の歴史を作ってきた街でもあります。 商店街ではなく、「吉田町名店街会」という名称であることも歴史の古さを感じさせます。名店も多く、桜木町寄りの都橋近くにある鶏肉専門店の「梅や」の焼き鳥は私の好物の一つです。「野毛おでん」や「濱新」「梅林」などの老舗もこの地区にあります。 「吉田町名店街会」は、ここ数年昼と夜の顔が違う商店街ということで話題になり、若者でにぎわっています。まず昼・・・。メインストリートには、画廊や画材店、写真店などアート関連の専門店が並んでいます。250mですから歩いても5分程度です。吉田町名物(?)である一本裏の路地をのぞくとちょっと異空間にきた感じになります。 そして夜・・・。アートの街がバーの街に変身します。この街には20軒を超えるバーやカフェがあります。「吉田町名店街会」では「横浜よしだまちガイド」を発行して、お店の紹介をしています。私なこのガイドを参考にして、たまに吉田町に出かけますがどの店に行ってもゆったりとした時間を過ごすことができます。 昼と夜の両方の顔を持つ横浜の商店街は珍しいかもしれませんね。 吉田町が注目を浴びるようになったのは、この街の方々の様々な活動があります。その一つが「ヨコハマ吉田町通りアート&ジャズフェスティバル」です。 今年は、4月20・21日に開催されました。あいにくの天気でしたが、大勢の人でにぎわっていました。通りを通行止めにして、野外ビアガーデンにします。吉田町にある飲食店の模擬店から好きなものを買ってきて飲みながら食べながらジャズを楽しむというイベントです。 道端には様々なアートが展示され、作品が販売されていました。まさに食とアートのコラボレーションした子供から大人まで満足できるイベントでした。 このイベントは今回で14回目だそうです。歓楽街の狭間で低迷していた時期もあったと聞いていますが、この地区の方々の地道な努力が「吉田町」の活況につながっているのだと思います。 「ヨコハマ関外吉田町」というWebサイトを見ても、広報活動に力を入れていることがわかります。Webサイトにある観光CMは、この街の魅力を伝えています。「吉田町インターネット放送局」も開設されています。 「吉田町」は、関内駅から吉田橋を渡ってすぐのところです。一度訪ねてみてはいかがでしょうか。 ヨコハマ関外 吉田町 |
(クリックで写真拡大) |
ビジネス梁塵秘抄「遊・献・学」(第2回)
大浦総合研究所 代表/大浦勇三
ビジネス梁塵秘抄「遊・献・学」(第2回)
遊びをせんとや生れけむ、戯れせんとや生れけん
遊ぶ子供の声きけば、我が身さえこそ動がるれ
- 梁塵秘抄 -
平安時代末期、高度な文化として上層階級では和歌が盛んでした。歴史上、正当な文化として語られてきたのは、きらびやかな和歌の文化です。しかし、それは表の歴史・文化であり、表があれば必ず裏もあります。地を這い、肚をくくって生き抜いた人間の歴史は裏側にあります。その中にこそ、生身の人間の思いとエネルギーがこもっています。農民・商人から芸人・遊女に至るまで、誰もがそれぞれの生業を天命と受け止め、命を賭けて生き抜きました。乱世の中、いつ命を落とすかもしれない身を覚悟しつつ人生を全うしたのです。江戸時代の”花下有楽図屏風(かかゆうらくずびょうぶ:国宝)”には、桜の下で楽器を奏で、歌い踊り、飲み食いに興じる情景が描かれています。更には、”春は花見(桜)、秋も花見(紅葉)”の屏風など、花の下での遊楽図が様々な形でいろんなところに残されています。厳しい労働があるからこその飲み食い踊り三昧の色即是空。形式や内容は異なりますが、リオのカーニバルに一歩も引けをとるものではありません。日本人の遊びの精神は、縄文時代から平安時代、江戸時代を経て現在に至るまでしっかり受け継がれています。
“遊びをせんとや生れけん” 「遊」
未来はすぐに過去になる だからこそ、過去を描いて、未来を洞察する
いつの世も課題は尽きない 大切なことを思い続ける、それに飽きない
ただ座っているだけでは 腕があがるはずはなく課題解決もありえない
長谷川等伯は、石川県能登・七尾の出身、安土桃山時代に活躍した代表的な絵師の一人です。代表作の“松林図屏風(国宝)”は、京へ上る際に目にした能登・羽咋(はくい)千里浜の松林を、写実でなく写意で描いたといわれます。上野の東京国立博物館では数年に一度、誰でも鑑賞できる機会が用意されています。静謐の中に秘められた切腹覚悟の気迫には圧倒されるものがあります。後継者と恃んだ息子にも先立たれ、千利休との関わりから自らの身の危険も感じながら、それでも絵の道を貫きました。“できることの可能な限りを追いかける” “思い続けて飽きることなくやり続ける”ことでしか、地力はつかないし腕もあがらないこと。このこと抜きに、世の中の複雑で高度な課題を乗り越えていく道はなさそうです。
“仕事をせんとや生れけん” 「献」
一〇〇年予測からは、さまざまな教訓が得られる かなりの精度で的中した
要因としては 技術の萌芽期から分析を重ね、その先をしっかり読んだ成果
今後一〇〇年の萌芽技術 更に途上・成長技術の道を歩むものは何かを探る
時代を動かす理論や考え方の変化は激しく、どのような経営手法であれ、すべてを一から洗い直さないと使いものにならない時代になりました。知をベースにしたインフラ構築が何より急がれます。1900年初頭の100年予測では、携帯電話などの登場を予測し、その的中は今日では誰もが認めるところです。的を射ることができた要因として、萌芽技術や途上技術への洞察の深さが大きく貢献したといわれます。一人ひとりが知のインフラを確立・強化するということは、単に“魚を溜め込む”ことではなく、“魚の釣り方を鍛え磨く”ということを意味します。知の釣り人としての腕があがれば、どんな環境でも臨機応変に対応できるはずです。そのためにも、自らが頼みとする技術/スキルの棚卸しと、更なる練磨の計画は欠かすことはできません。
“学びをせんとや生れけん” 「学」
それでも、明治時代を切り開く人材が数多く育ち 偉材が大きく羽ばたいた
日本は八百頭の神の世界 神教と仏教という二つの教義の対立を乗り越えた
教育の力が大きい 不文律が根を張る文化風土も、教育を突破口にしていく
教育は国の要であり、国を支える個人一人ひとりの根幹でもあります。充実した教育環境は大切な要素であることはいうまでもありませんが、それだけで真の教育が実現できるとは思えません。モノや道具に加えて、プラスアルファの何かが必要です。“神か仏かではなく神も仏も”は、日本人の弱みでなく強みであることの揺るぎない確信。“両義性”を包含することで多様・多重な視点と発想が更に鍛えられ磨かれるはずです。グローバル資本主義では、これに似た課題が今後も繰り返し降りかかってきます。“あれかこれか”でない解決策も一つの選択肢であること。それを深化させていくローカル教育こそが日本人のグローバル教育。可・否の二案だけでは不足、“決定しないという決定もある”と説いたのはピーター・ドラッカーです。
「遊びは仕事、仕事は遊び」
「仕事は学び、学びは仕事」
「学びは遊び、遊びは学び」
今回とりあげた「遊・献・学」それぞれの4行文は、拙書「ビジネス梁塵秘抄(一)~(五)」(全10巻)から抽出したものです。次回以降も「遊・献・学」から各々4行文を一つずつ抽出してご紹介していきたいと思います。
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大浦勇三(おおうら ゆうぞう) プロフィール
大浦総合研究所 代表 (http://www.mmjp.or.jp/ooura/) 石川県七尾市出身。 筑波大学大学院講師、城西国際大学客員教授、名城大学講師、産業能率大学講師、中小企業大学校講師などを歴任。 主な著作物:
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ビジネスのフレームワーク入門(第5回)
デジタルハリウッド大学大学院/NVD株式会社 松本英博
1.時間・経過を意識したフレームワークとは
応用のフレームワークとしてマトリックス型を 前回 紹介しましたが、今回は、時間や経過を意識したフレームワークを考えてみましょう。
手順やプロセスを考えるフレームワーク
手順は、経験的あるいは論理的な目標達成の枠組み(フレームワーク)を示します。言い換えれば、フレームワークの中で考えると、抜けや無駄を排除することが期待できます。
今回はビジネスで役立つマーケティングのフレームワークを例に活用を考えてみましょう。
ここでいうマーケティングとは、販売でいう売り込み方や方法ではなく、顧客のニーズ(需要)を読み取り、ニーズにあった製品やサービスを提供することを指します。つまり、販売が売り手中心の概念であるとすると、マーケティングは、買い手の心理を読んだ概念と考えましょう。
マーケティングのフレームワークとしてよく使われるものに、
- R:リサーチ(対象の市場調査):現状分析や情報収集を行う。内部外部の環境分析。
- STP:セグメンテーション(購買傾向のまとまりの把握)・ターゲティング(重点市場の絞り込み)・ポジショニング(差別化による自社の位置付け)で「お客様」を定義する。
- MM:マーケティング・ミックスで売れる仕込みを通常4つのP(プロダクト、プライス、プロモーション、プレイス)を組み合わせて想定する。
といった手順があります。ここで重要なのは、R>STP>MMといった順序です。順序がおかしいと、売れる需要があっても商品やサービスに結びつかないことになります。例えば、商品ありきで、R(市場調査)をしっかりと行わないで進めると、押し付けの販売戦略を立てることになり、継続的な目標達成ができない結果となるかもしれません。ここでは、このマーケティングのフレームワークの内容について詳細は追いませんが、重要なことは時間的あるいは段階的な順序が重要なフレームワークであることを理解してください。
経験的な流れによるフレームワーク:市場価値の分析
同じマーケティングでの応用として、市場に対する価値観をフレームワークで分析するものがあります。ここで紹介する内容は、手順のように予め設定された段階ではなく、経験的な流れになっている点で上述とは異なります。
企業が市場に対する価値観として、
- プロダクトアウト(企業が自社の販売・製造計画に基づいて、市場に製品やサービスを投入):供給不足の時代の主流な価値観
- マーケットイン(生活者の需要を汲み上げて、それを形にすることで市場に出すこと):顧客のニーズを重視する時代の主流な価値観
- カスタマーイン(顧客一人一人が望む商品やサービス内容に沿ったものを提供すること):顧客のニーズをジャンストインタイムで提供する時代の価値観
という流れです。歴史的に多くの産業は、この流れに沿って発展をたどってきました。このフレームワークでは、明らかに進化や展開の過程を示しており、自社の現状分析を考える上で、戦術というよりは、大局的な戦略を考える上で重要です。この流れに逆らって、いつまでもプロダクトアウトだけの一辺倒では、何れ立ち行かなくなることがわかります。
マーケティングに関するフレームワークは、バリューチェーン分析など、商品と対価の流れから自社の価値をどこで発揮するかなどという、同時に起こる現象にも適用することがあります。詳しくは、拙著の コラム をみてください。
2.循環型のフレームワーク
時間的あるいは段階的なフレームワークのさらに応用として、循環型とも言えるフレームワークがあります。1つの輪ができるフレームワークで、始点と終点が定まらないものとも言えます。
商品のライフサイクル
商品が生まれて消えて行くまでのプロセスです。一商品に限ってみると循環型のフレームワークではないですが、商品に系列がある場合やシリーズ化を考えると、循環型になります。
フレームワークとしては、「導入期」、「成長期」、「成熟期」、「衰退期」に分けて考えることができます。
- 「導入期」:新製品を投入した段階で、市場の認知度は低く、売上もわずかです。投資した開発費なども未回収で利益はマイナスです。
- 「成長期」:売上が急成長する段階。市場から高い評価を得れば、成長期に入り、利益はピークになります。
- 「成熟期」:売上に陰りが見えてくる段階。他社も魅力的な市場だと気付き、後発の参入が増え、激しい価格競争が起こり始めます。利益は徐々に低下します。
- 「衰退期」:売上と利益が急激に激減します。撤退なども視野にいれる段階です。
このフレームワークの分析は企業が新製品を出すこと、つまり、導入期と成長期の商品を継続的に出さないと生き残れないことを示しています。自社の商品の位置付けを念頭にいれ、市場の需要とのギャップを埋めるべく、新製品を投入しなければならないのです。
さらに、このフレームワークは、ある意味で自社の商品を俯瞰する分析であり、打ち手を考えるポートフォリオ戦略としても応用できます。成長期にある商品での利益をうまく、導入期の別の商品に流し込み、企業全体として勝ち残るといった戦略です。成長期を長く維持することも経営手腕が問われるところです。
※発想や創造に関する「創造方程式」による発想のトレーニングがしたいというなら、参考に拙著「ヒット商品を生み出すネタ出し練習帳」をどうぞ。
次回の予告
次回は、「フレームワークを用いた分析法」でフレームワークの実際の応用について考えてみましょう。
松本英博 プロフィール
松本 英博(まつもと ひでひろ) デジタルハリウッド大学大学院 専任教授/NVD株式会社 代表取締役 京都府出身。18年にわたりNECに勤務。同社のパーソナルメディア開発本部で、MPEG1でのマルチメディア技術の開発と国際標準化と日本工業規格 (JIS)化を行い、MIT(マサチューセッツ工科大学)メディアラボで画像圧縮技術を習得のため留学。帰国後、ネットワークス開発研究所ではWAPや i-モードなどの無線インターネットアクセス技術の応用製品の開発と国際標準化を技術マネジャーとして指揮。 NEC退社後、ベンチャー投資会社ネオテニーにおいて大企業の新規事業開発支援、社内ベンチャーの事業化支援を行い、2002年9月にネオテニーから分離独立し、NVD株式会社(旧ネオテニーベンチャー開発)を設立、代表取締役に就任。大手企業の新規事業開発・社内ベンチャー育成などのコンサルティング 実績を持つ。 IEEE(米国電子工学学会)会員、MIT日本人会会員。神奈川県商工労働部新産業ベンチャー事業認定委員、デジタルハリウッド大学大学院 専任教授、現在に至る。 |
2013年5月 三ツ池だより 「5月の風が吹いている」
斑鳩の里に立ち寄りたいと思っていた。聖徳太子の和の精神を日本のあるべき姿と思っているからであった。もう20年も前であろうか、法隆寺の漆喰の長壁を歩いて回廊を回り、仏像に接し、そのあと茶屋に入った。ゆっくりした時間を満喫していた。
この度久しぶりに寄らせていただいた。何かが違った。心に何も来ないのである。天気のせいであったのか、ここへ来る道筋の街の様子であったのか、付近に感じる寂しさのせいなのであったろうか。生き生きが感じられないのであった。法隆寺の塔がプラモデル的な感じなのであった。
「あなたの記念日はなんですか。」ふとそんな問い掛けが聞こえてきた。記念日と言えば誕生日であり、結婚記念日であったりする。五月は3日が憲法記念日、5日が子供の日である。憲法記念日の5月3日は1948年に「日本国憲法の施行を記念し、国の成長を期する日」と法律で定められた。日本国憲法は3つの柱を持っていると言われる。
- 国を治める主権は国民にあるという「国民主権」
- 人間が生まれながらにして持っている、人間らしく生きる権利を永久に保障する「基本的人権の尊重」
- 世界の平和を永久に守るため、外国との争いが起きても戦争をしないで平和的に解決するという「平和主義」
現在は「平和主義」に基づく憲法9条の問題がしばしば討論の的になっている。さて、その平和主義をどのように運用していくのか、されているのか。米国に守られているとすればそれはどのように運用されていくのか。昭和の時代、私たちは、いつかは安心社会でゆっくり出来ると思っていた。妄想というかもしれないががむしゃらに働いてきた。その結果の今をどうとらえていくのか。
子どもは誉めて育てればいい子に育つと言われる。だが時に叱るべき時には叱ることも必要だ。その効果的に叱ることのできるとはどういう場面になるのだろうか。平和主義に戻ってみよう。戦争をしないで解決する方法を真剣に考えているのだろうか。ほどほどの抑止力をどう考えていったらいいのだろうか。
また、子供の日は、もともとは古代中国発祥の厄祓い行事で、「端」は初めのという意味で、「端午」は月の初めの午(うま)の日だった。やがて、五月が十二支でいう午の月であり、「午(ご)の日」が「五の日」に通じることや、奇数が重なっておめでたい「重五(ちょうご)」の日でもあるため、「午の月の端の午の日」=端午といえば五月五日をさすようになったようです。武士の力が強くなると、「菖蒲」が武を尚(たっとぶ)「尚武」や「勝負」に通じ、葉の形が剣に似ていることから、兜に菖蒲を飾ったり流鏑馬(やぶさめ)をするようになり、男の子のおまつりに変わっていきました。
さて、毎日の出来事を別の切り口から眺めて文字にすることにして、1000日目が4月25日だった。私は「自分を考える記念日」とした。課題山積みのなかで、何かをしなければいけないと思って、行動してきたことは多々あり、成果の出ている部分もある。しかしなにか足りないものを感じていた。それが今までが周りの人の為にしてきたと思っていたことが、実は私自身へまわりからの励ましだったことに気づかされた。誰かに喜んでもらうこと、大事な人に喜んでもらうこと、それは夢の実現ではなく、志を果たすことなのだと知らされた。志とは心の上に士を置いていく。喜んでもらうためにすることは沢山ある。発想を、自分の夢の実現ではなく喜んでもらうためにすること、一歩足を進めれば飛躍的にやることが様々になり希望が見えてきた。
さあ、あなたにとっての記念日は何と何ですか。歴史は生かされていい、それが記念日になる。私の記念日は未来への希望の扉をあけることにつながる。
5月の風が若葉の上をあるいている。無駄な葉は落として、大事な歩を進める時だ。ありがとうごがつ! ありがとうふるさとにっぽん! 気持ちよく叫んでみた。
Photos
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(文・写真:横須賀 健治)
横須賀 健治プロフィール
メジャーテックツルミ 代表取締役
はかることのプロとして50年です。
食品の放射能測定のアークメジャーを設立しました。
「計量から見える幸せ」をライフワークにしています。
書評 「すべては今のためにあったこと」 海竜社 中山靖雄 著
仕事ではそれぞれに役割があるとよく言います。役割とはどう考えるのでしょうか。中山さんは次のように言います。 「役割には上下はないのですが、うっかりすると、立派な役割とそうでない役割があるというふうに思ってしまうことがあります。それは立派さとは関係ないのです。ここが大事なんです。」ここでの新入社員の人を足の裏みたいなものといった研修での話が面白い。社長は顔、新入社員は足の裏だ。しかしお風呂に入る時は足の裏はいつも一番に入ることになる。顔などお風呂に入ることもできないと語られる。役割をどのようにとらえていきていくかによって、「人生」の立派さがかわってくるのだという。 「籠に乗る人、担ぐ人、そのまた草履を作る人」ここでは次のように言う。 |
「草履を編むのが本当にすごく好きで、その道を極めたいと思っているのに、周りからは、なんで籠に乗る人になりたいと思わないのだ!どうしてがんばらないのだ!責められて、そのうちに籠に乗れなかった自分はダメなんだ、と思ってしまう」そういう今は非常に不幸な時代だと語られるのだ。だから私はみんなのために、みんなは私のためにが本当の世界であり、働くとは本来「はたを楽にする」ことであり、どんな仕事もこう言い切れたら、仕事への視点が変わってくる。
むすんでひらいての童謡がでてきます。
むすんで ひらいて
手をうって むすんで
またひらいて 手をうって
その手を うえに
「結んだら開きなさいということを教えてくれていると思うのです。つまり、つかんだら、はなしなさい。手をうって喜んでも、またすぐつかんでしまう。これを繰り返して、最後はその手を上にで、すべてを手放して、万歳をします。これは、手放せばすべて天が教えてくれるよ、天に万歳!ということなのです。」
この本になぜか私の手がいってしまったのかを書いておきたい。
「悪い時こそいいふうにとれるかどうかが大事です。すんだことはみんないいこと、これから起きることもみんないいことです。」じぶんの力ではどうしようもないことが起こることがあります。そういう時こそ、いいふうに取れるかどうかが大事なところなのですね。日ごろからの修行が求められると書かれている。
本の内容からいって、取り上げる順序が逆になってしまったこと。「食卓で感謝の心をはぐくむと、見えない世界のことを自然と感じられるものです。」中山さんは見えない世界のことを知っていれば、より心豊かな人生を送ることが出来るようになりますと語られています。
「本来、人は目に見える世界や心の世界だけでは生きづらいものです。それでも目に見える世界、心の世界以外を理解することは簡単ではありません。だから、まずは見えるところで実践することが大切になります。 その一歩は感謝です。すべてに感謝して生きること。感謝しているうちに、だんだんと見えない世界にきづいてくるのですね。」「食卓は感謝の心をはぐくむいい教え場です。食事の時に”これ作ってくれたのはだれなのかなぁ”というように、その話の中に感謝を見つけていく。毎日いただくものに感謝していく。」
いかされている自分、天からみたら役割は違っていても、みんな大切な我が子と思われていることを知ることなのだ。「今しかない、ここしかない、今こそすべてなのだ」と喜んで生きてまいりたい。年度が変わって一ヶ月になる。上手くいっていること、上手くいっていないこと混とんとしている中で、さわやかな風を感じて一歩を前に進めて時、自然の恵みに感謝したくなる。
(文:横須賀 健治)
「笑顔経営ワークショップ」が好評です(横浜売れるモノづくり研究会分科会)
「笑顔経営ワークショップ」が好評です
第9回セミナーでお話いただいた株式会社バイオクロマトの木下社長が、自ら学んで実践して結果を残した「管理ノウハウ」を多くの方に伝えていきたいという想いで「笑顔経営ワークショップ」を始めました。
「笑顔経営」とは、企業の業績をアップして、経営者だけでなくスタッフも取引先も皆、笑顔になるような経営のことです。
このセミナーは、参加者同士でディスカッションしながら、自らの問題点を「気づき」「改善」して経営に生かしてもらおうというセミナーです。
「売ること」を科学的に分析して、理論だけでなく売るための行動も学習・実践していきます。
自社の「価値ある最終成果物」を把握して、売上をあげていくノウハウを学ぶことができます。
どの回からでも参加できます。自社を「笑いがあふれる」会社にしたい皆様、是非ご参加ください。
セミナーはビデオでもご覧になれます。
笑顔経営ワークショップの様子は下記をご覧ください。
http://www.monoken.net/egao-keiei/
~あなたの会社の「価値ある最終生産物」を創り出そう~
講師:木下一真 氏(株式会社バイオクロマト)
日時:5月21日(火)18時30分~21時
場所:横浜 関内 さくらWorks 会議室
http://yokohamalab.jp/sakuraworks
「売れるモノづくり」についてのご相談を承ります
いいモノを作ってもなかなか売れない・・・
製造業の方々からそんな悩みをよく耳にします。
どんなに良い製品でも、市場に受け入れられなければ「モノ」で終わってしまいます。
「横浜売れるモノづくり研究会」は、神奈川県在住の企業支援の専門家やITの専門家など多種多彩なメンバーで構成されています。
「横浜売れるモノづくり研究会」では、「製品の売り方をどうしたらいいか」
という企業のご相談を随時受け付けています。
毎月一回第二木曜日には、ご相談される企業と専門家が面談を行っています。
売れるモノづくりについてのご相談はこちらにご入力下さい。
https://www.supportyou.jp/monoken/form/2/
<問合先>
横浜売れるモノづくり研究会 事務局
(株式会社ともクリエーションズ内)
〒231-0004
横浜市中区元浜町3-21-2 ヘリオス関内ビル4階
TEL 045-226-3475 FAX 045-226-3476
メディア掲載情報
- 2012年2月20日 神奈川新聞 横浜売れるモノづくり研究会代表・猪狩惇夫の記事が掲載されました
- 2011年11月11日 日本経済新聞 「この企業ここがポイント」内に横浜売れるモノづくり研究会についての記事が掲載されました
- 2011年11月9日 日刊工業新聞 「横浜売れるモノづくり研究会」活動の輪広がり100人規模目指す
- 2011年6月6日 「売れるものづくり」をどう実現するのか―「横浜売れるモノづくり研究会」の取り組み
- 2011年1月21日 ヨコハマ経済新聞
横浜で「売れるモノづくり研究会」が発足-中小企業を支援 - 2011年1月19日 カナロコ — 神奈川新聞社
売れるモノづくり研究会発足へ、中小製造業をコンサルらが支援
第15回 どあっぷ「『みんなの夢AWARD3』を紹介します」
みなさんこんにちは! |
「ど・あっぱーず★見つけ隊」 vol.7
「夢を現実に!」
「みんなの夢 AWARD」
このコーナーは、市民度の高い人や団体を、“ど・あっぷ”が勝手に紹介するコーナーです。
今回は日本一の夢を決めるコンテスト、「 みんなの夢AWARD」をご紹介します。
「みんなの夢AWARD」は、ワタミグループの会長渡辺美樹さんが主催するプレゼンテーション大会で、参加者は8000人の観客と50社以上の企業担当者の前で自分の夢を発表します。入賞者には、企業から資金援助などの様々な支援をうけることができるという、まさに夢のような企画。今回は第3回目の大会、「 みんなの夢AWARD3」の学生事務局代表を務めていた鈴木駿矢さんにお話を伺いました。
みんなの夢AWARD3 http://www.miraimeishi.net/award/
就職しても夢はかなえられる!
鈴木さんは学生事務局として、「みんなの夢AWARD」に多くの学生が参加するよう働きかけていたそうです。「みんなの夢AWARD」では、プレゼン大会以外にも、学生向けに企業担当者と学生が一対一で話せる場が用意されています。従来の企業説明会とは大きく異なり、担当者が大勢の学生に向け一方的に企業の強みや特徴を説明していくものではなく、その学生が「その企業で夢を達成することができるのか」という点を担当者と相談していくものです。
鈴木さんは、「起業しなくても企業で夢はかなえられる」ということを熱意を持って説明してくださいました。「アントレプレナントをしなければ夢を達成できないと思っている人は多いですよね。けれど、企業に就職することによっても夢を叶えることは可能なんです。」この言葉を聞き、とても共感させていただきました。筆者は大学生なのですが、社会貢献活動をライフワークとして行っていきたいと考えた時、民間企業への就職を選択肢として思い浮かべることができませんでした。 |
なぜなら、企業に勤めるということは企業利益のために行動すること、と考えていたからです。もちろんそれは間違いではないでしょうが、しかし、企業によってはCSRの取り組みをとおして、例えば貧困問題や環境問題解決のための取り組みに関わることは可能です。「夢AWARD」は「場」を提供することによって、学生の夢をかなえるための選択肢を広げてくれているといえるのではないでしょうか。 |
あんなにキラキラしていたのに...
鈴木さんが企業と学生の関係についてこれほど熱心に考えるきっかけとなったのは、ご友人の就職活動にあったことを話してくれました。鈴木さんの参加しているゼミは、生徒ひとりひとりがプロジェクトを立ち上げ、運営しています。一生懸命問題に取り組み、解決しようとしていく仲間の姿はとてもキラキラしていたそうです。しかし、鈴木さんは、3年生後期に始まった就職活動を境に仲間の様子が変わっていったことに気づきました。「疲れた」と涙を流したそうです。その学生さんだけでなく、就職活動が原因で鬱になり、外出することができなくなってしまった先輩の存在など、就職活動で苦しむ学生の姿を多く見てきた鈴木さんは、次第に「何が問題なのか」と考えるようになったと話してくれました。 |
鈴木さんの夢
苦しむ学生の姿を見てきた鈴木さんの夢。それは「大学生を幸せにすること」です。鈴木さんは、学生がいきいきと活躍をできるようにと、新たな企業の形を模索中です。鈴木さんのような取り組みのおかげで、自分らしく社会へと飛び出すことができる学生が増えていくのではないでしょうか。同年代にこのような思いを抱いている方がいることに、筆者自身とても心強く感じました。 |
より夢のあふれる会場へ
大成功に終わった「みんなの夢AWARD3」ですが、すでに第4回目の大会の開催も決定しています。
・日付 2014年2月13日
・場所 日本武道館
第4回はどのような大会にしたいか、と伺ったところ、「もっと学生の夢があふれる会場にしたい」と、鈴木さんは答えてくれました。自分の夢をプレゼンするのもよし。企業相談ブースに参加するのもよし。他の学生さんの夢を聞くことで、自分の夢が膨らむかもしれません。関わり方は様々です。大事なことは一歩を踏み出すこと。学生のみなさんはぜひ、これを機会に自分の夢の実現に向け動き始めてはいかがでしょうか。社会人のみなさんも、まずはぜひホームページをご覧ください。いままでの入賞者のレポートを読むと新たなことにチャレンジしたくてウズウズすること請け合いです!
多くの参加者の夢が合わさり「みんなの夢AWARD4」がよりすばらしい大会になりますことを、 ど・あっぷ!メンバー一同、 心より楽しみにしております。応援しています!
取材後記
もっと鈴木さんのことが知りたい!と、インタビュー終了後にもカフェおすすめのケーキをほおばりながら鈴木さんの学校やインターンシップ先のお話をたくさん伺いました。鈴木さんは都内の企業でインターンシップをされているのですが、実は静岡にある大学の学生さんです。都内で働きながら、週に2回学校に通われているそうです。すばらしい気力と体力!夢に向かって人の何倍も努力されている鈴木さんの姿は本当にキラキラしていました。
就職活動に関する規定は年々変動し、自身の将来に不安を抱えている学生は多いと思います。筆者自身そのような学生のひとりです。しかし、不安に思うからこそ、行動してみよう、と鈴木さんへのインタビューをとおして、心から感じることができました。
お忙しい中での取材へのご協力、本当にありがとうございました!
http://www.youtube.com/user/douptv
(写真・イラスト:NPO法人ど・あっぷ!(DO UP!) / 文:河辺 麻美
★ど・あっぷに「参加したい」、「ワークショップをやってもらいたい」、「ミーティングを見てみたい」等等、どんなことでも結構です。ご興味がありましたら、是非ご連絡ください。
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第4回 オー・マイ・モトマチ・ライフ 大桟橋で船三昧
今回のモトマチ・ライフは船三昧でございます ♣ |
ヨコハマベイブリッジの真下を通り、船は港を出て行くのでした ♥ |
ベイブリッジを潜って、また港へ戻る1時間45分のコースです。 |
ロイヤルウイングと入れ替わるように、今度はにっぽん丸が入港しました!! |
にっぽん丸を眺めていたら、素敵なダルメシアンちゃんに出会いました ♥ |
昨年、大さん橋に新しい名所ができました。 |
さて今度は横浜港に初めて入港するオランダ船籍フォーレンダムです。 |
乗客の皆様が甲板から手を振って下さり、桟橋のデッキではブラスバンドの演奏でお出迎えなのです。 |
これはロビーに置いてあった、記念写真用の衣裳です。 |
この日はねばって日が沈むまで大さん橋にいて、船の夜景を楽しみました。 |
おまけに、みなとみらいの美しい夜景も観られました ♥ |
最後は超巨大豪華客船「Celebrity MILLENNIUM」入港 ♣ |
浮かぶ鉄の高層マンションかデパートのように巨大!!! |
そして巨大船から遠くに見える氷川丸がとっても可愛く見えたのでした。。。 |
今月はモトマチ情報を載せるスペースがないくらい、客船入港オンパレードになってしまいました。
いま横浜港は外国客船が寄港する港として、その入港数は日本一なのだそうです。
これからも続々と大型豪華客船が横浜を訪れます。
掲載日に間に合いませんが、5月8日には「ボイジャー・オブ・ザ・シーズ」が初入港しました。
この船は大き過ぎてベイブリッジを潜れないため、大黒ふ頭に着岸しました。
5月10日朝7時に、やはり初入港の「ダイヤモンド・プリンセス」というバミューダ船籍の客船が寄港します。
これから人生の船出をしたい方や、大きな夢を描きたい方、転機を迎えている方は是非、大さん橋へ船を見にいらして下さいね ♣
夢が叶いそうな気持ちになってきますよ ♥
次回はモトマチ特集の予定です☆ よろしくお願い致します。
レポーター プロフィール
Yuu Adachi Gallery1223 あいお☆らいと代表 |
「坂」を登ってみました。そして春のイベントも進行中!
恒例「花まつり」開催
前回予告させていただいた通り、4月8日(月)、境木地蔵尊で恒例の「花まつり」が開催されました。今年は桜の開花が早く、当日は既に見ごろは過ぎてしまっていましたが、春の気持ち良い天候に恵まれたくさんの方にご来場いただきました。保土ヶ谷宿名物会も、各店で使える割引券の配布など、来場者への特典をご用意しおもてなしさせていただきました。 また、「純米酒・権太坂」でお馴染みの鉾立商店さんでは、同店で人気の「権太坂からあげ」を(イベントでは)初出品。こちらも大好評でした。この「権太坂からあげ」は、保土ヶ谷宿名物会でブランド認定(笑)され、今後、「ごん太じいさん」のパッケージで販売される予定です。 「坂を愛する会」発足同じく前回予告させていただいた「坂を活かした販促企画」ですが、企画立案のため「何はともあれ歩いてみよう」ということで、4月16日(火)、関係者3名で権太坂を歩きました。 当日、JR保土ヶ谷駅集合→ごん太鮓→御所台の井戸→軽部本陣跡→本金子屋→松並木プロムナード→権太坂→鉾立商店→菓匠 栗山→境木地蔵尊→品濃一里塚→JR東戸塚駅というルートを2時間半掛けてゆっくり巡りました。 さすが、日ごろ運動不足の3名。私自身も権太坂を歩いて登るのは何年振りだろう、ということで、東戸塚駅に着くことには少々、足がもつれた人もいましたが、自分の足で登って見える景色は、いつもとは少し違い気持ちの良い見晴らしでした。 また、名物会各店とも、こういう機会にお店に伺い、改めてお話を伺うと長年のお付き合いにも関わらず、新しい発見がたくさんあることに気づかされました。 |
(クリックで拡大画像) |
中でも、鉾立商店さんは名物会では、「純米酒・権太坂」等、オリジナルブランドの酒類の販売が中心のため、その印象が強くなりがちですが、日頃は惣菜やお弁当などの製造販売にも力を入れており、手作りのお弁当(260円)は毎日7種類、しかもその内の半分くらいは日替りメニューもご用意しているとのことでした。やはり、歩くこと、話すことで改めて見えてくること知れることはたくさんあるようです。
そんなワケで、わずか数時間ではありますが、「(本当に)小さい旅」の楽しさに味を占めてしまった私たちは、保土ヶ谷の坂を舞台に「坂を愛する会」を発足することになりました。毎月1回のペースで保土ヶ谷の坂を歩きます。ご興味のある方は、ご連絡をお待ちしています。
今後のイベント
春のイベントシーズン真っ只中ですが、保土ヶ谷宿名物会では、5~6月、以下のイベントに参加予定です。
保土ヶ谷区民DAY
地元Jリーグチーム(J2)横浜FCが保土ケ谷区役所と協働し、年1回開催しているイベントで、保土ヶ谷区在住・在勤・在学者は無料で観戦招待などの特典があります。
日 時:5月12日(日) 14:00一般開場 16:00試合開始
会 場:ニッパツ三ツ沢球技場(神奈川区三ツ沢西町3-1)
【参照】http://www.yokohamafc.com/news/2013/04/11/17846/
ほどがや花フェスタ
星川グランドで開催される毎年恒例のイベントです。
日 時:5月12日(日) 9:45~15:00
会 場:星川グランド
【参照】http://www.city.yokohama.lg.jp/hodogaya/bunyabetu/shigen/hanafesta/hanafesta2013.html
ごうどいち
保土ヶ谷産の夏野菜や宿場名物などの物販を行います。
日 時:6月2日(日) 10:00~12:00
会 場:北川製粉・中庭 保土ヶ谷区帷子町2-82
皆さまのご来場をお待ちしています。
レポーター プロフィール
山田浩和(やまだひろかず/Yamada,Hirokazu)
合資会社 笑う門 代表社員
保土ケ谷宿名物会事務局
1971年8月生まれ。獅子座のO型。保土ケ谷生まれの保土ケ谷育ち。
2003年、合資会社「笑う門」を設立。<オンリーワンの価値創り>のお手伝い。
会社設立時に制作したミニコミ誌がきっかけとなり、保土ケ谷のまちづくりにドハマリ。
現在、歴史や地産地消など、地域資源を活かしたまちづくりに幅広く取り組んでいる。
合資会社 笑う門 http://www.warau-kado.com
各社・各店・各個人が持つ十人十色・百人百色の目に見えない財産(経験・体験・知識・技術・ノウハウ・アイデア等)を活かした販売促進企画・商店街活性・まちづくりを推進しています。
業務内容 :
●シンボル制作
ネーミング / シンボルマーク / ロゴマーク / キャラクター企画・制作
●広報(コミュニケーション)媒体制作
・簡易版会社案内(A4版三つ折り)制作
・ニュースレター(A4版)制作
その他、フライヤー / ポスター / 小冊子 / 名刺 / のぼり旗 / エコバッグ / ユニフォーム、など
ヨコハマNOW掲載情報
佐々木彬文の「四季・色・贅・食」 第17話 烏帽子(えぼし)のお話
五月空が綺麗な季節に成りました。空に泳ぐ鯉幟! やはり この様な景色を見ると安心して暮らせる平和な世の中であって欲しいと願います。美しい日本の景色の一つです。
今回は、端午の節句に因んだお話です。それは、烏帽子(えぼし)のお話です。
烏帽子とは?
「烏帽子ってご存知ですか?」 では、「烏帽子の種類は?」って聞かれると、「どれまでが烏帽子かしら?」となると思います。公家・武家・町人(安土時代頃までが多い、その後衰退して行きます)・・・皆さん被っている黒い被り物は、形が違いますが全て烏帽子なのです。じつに種類が多いのです。 |
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烏帽子で身分や出身が伺える?
先ず良く目にするのが神主様の被って居られる江戸時代からの立烏帽子。巫女の背の高い立烏帽子。この二つ呼び名は同じ立烏帽子なのです。全然形が違いますが同じ「立烏帽子」です! 背の高いのが平安時代の立烏帽子、宮司様の烏帽子が江戸時代の立烏帽子です。 平安時代の立烏帽子は、風が吹くと飛ばされたり、結構厄介なものでした。そこで、ちょっとカジュアルに先端三分の一程を折り曲げた烏帽子が、鎌倉以降に工夫され流行りました。 |
この烏帽子は、隠居なさった上皇・公家が良く使われ「風折烏帽子」と呼ばれています。此の折れ方に決まりが有り、右折れと左折れがあります。上皇並びに許された公家(地下家)が右折れ、一般的には左折れです。
時代が下がり、宮司さんの被って居られる立烏帽子になりますと(右折れ・左折れが烏帽子の正面に)眉と呼ばれる箇所が有り、そこが右折れ左折れに伝わって参りました。ちなみに宮司様の眉は両折れでこれを『諸眉』と呼びます。 家に伝わって居た物が右眉でしたので源氏が右・平家が左かと思って居たのですが、この度、端午の節句に因んだお話をと思い調べ直しましたら、この烏帽子結構厄介です。種類も多いし、紐の掛け方にも決まりが有り、一度のお話ではなかなか済みそうに有りません。今回は、気の向くままに独断と偏見で書かせて頂きます。 |
鳥と烏・・・えぼしは「からす帽子」と書く
烏帽子の漢字の『烏』これ鳥という漢字では無いですよね、『からす・烏』です! 烏帽子は漆で塗り固め黒い色をしておりますので、烏の字が充てられたと思います。
それに、日本では古来より烏は神の使いとして(ヒッチコックでは悪役ですが)大切にされてきました。皆様良く御存じの八咫烏がその代表です。そうです、サッカー日本代表のエンブレムの鳥です。
烏天狗
それ以外に鞍馬山に住む天狗様は「烏天狗」を引き連れてお山を守って居られます。黒色はこの様な所から『烏』の漢字が使われています。
絽と和紙
次に材質ですが、平安時代には絽が使われていました。絽は風通しが良いので頭は蒸れません。町人は、和紙に漆を塗ったものや布の烏帽子を付けて居りました。
室町期の面白い絵が国立博物館に所蔵されています。それは、鎌倉時代に(賭け双六だと思うのですが)賭けに負けて身包み剥がれても烏帽子だけは被っている図です。そのころは、男子被り物を脱いだところを人に見られるということはとても恥ずかしい事だった様です。『裸よりはずかし~~~!』だったようです。(笑) 時代時代で価値観は変わります。皆様余り固定観念でものを決めつけませんように!
時代が下がり江戸時代に成りますと殆ど紙製です。紙に漆を塗り、二つ折りに折畳み、袂に入れられるように作られたものも有ります。全部はかけません。今回はこの位で!(ペコリ)ごめんなさい。興味のある方は、調べてみて下さい。
烏帽子を注文するって?
烏帽子作っている家がまだ四家在ります。宜しければ注文してみてはいかがでしょうか。そうそう、日本伝統文化関連暇だと思いでしょうが、この烏帽子を伝え作っている家(各御流儀が有るそうですが)は注文が多くて結構忙しいそうです。今すぐ発注しても待たされます。特に春秋に注文が集中するようです。お正月前とかお祭りに合わせて、その前に、注文が集中するようです。
日本料理人の帽子
最後に、日本料理の料理人さん達が被っている帽子は、正面の眉は皆右折れなのです。これは、小生が考えますに四条家と関わりが有るのでは?! 四条家は、羽林家(※注1)のご家格であり、烏帽子の右折れを賜った家格で、四条流包丁道のお家柄です。現在も四条流の料理人は多く居られます。それで、帽子の折れが四条家に倣い、右折れになっているのではないかと思えるのです。調べると小さな事でも素敵な歴史があります。何にでも意味が有るものです。
お茶の作法の中でも、ちょっとした事に、その深く見つめて工夫されたお手前に、驚かされることがございます。
佐々木彬文プロフィール
日本画家(彬文会主宰)
茶道講師(裏千家 佐々木宗秀)
クラッシックギター演奏者
文・絵:佐々木彬文(日本画家・裏千家茶道講師)/構成:高野慈子
HEART&SOUL代表 原 正行 1958(昭和33)年9月7日横浜生まれ、12歳よりギターをはじめ17歳からミュージシャンとして活動。39歳の時に念願だったライブハウスを開業、現在は関内駅北口駅前に60年代から80年代の洋楽ヒット曲を演奏するライブハウス、ハート&ソウルの経営者。他にもミュージシャンとして演奏活動、作曲、プロデュース等、幅広く活動している。 |
第3章 ビジュアルによる影響と成長 1
ここらで少し視点を変えてみましょう。
まだビデオやパソコンがない時代、海の向こうのミュージシャンがどんな顔をしているのかどんな服を着てるのか? レコードか音楽雑誌の写真からしか情報が得られませんでした。まして動くライブ映像などめったに見られません。数少ない画像映像は今からは想像も出来ないほど貴重で少ない資料がいかに影響を与えたことか、今回はそんなお話を。
映画時代
50年代、まだテレビがあまり普及していない頃は、映画が主流でフランク・シナトラやエルビス・プレスリーなどのスター歌手は、映画に俳優として出演してそのビジュアルや歌う姿をファンに焼き付けました。1963年の映画「ビートルズがやって来るヤァヤァヤァ!」が公開された時は、あまりの人気で映像に向かって叫びスクリーンに突進するファンまでいたそうです。その後も数作を経てリハーサル風景や屋上ライブを記録した「レットイットビー」は、解散間際の暗い内容にもかまわず大ヒット。人前で演奏するのをやめたビートルズの演奏シーンは貴重だったのです。(なぜか映画「レットイットビー」だけはいまだに正式に再製品化されていません。) 70年頃にはプレスリーもハワイやラスベガスの公演を映画化し大ヒット。ストーンズも興奮した観客同士で死人が出たコンサート(オルタモントの悲劇)を映し出した映画「ギミーシェルター」が話題になるなど、ビデオが普及していない当時、彼らの動く姿は中々目にする機会がなく、まして海を隔てた日本ではロックファンには更に貴重な映像だったのです。
ウッドストックとモンタレーポップフェス
更に、その後の音楽に多大な影響を与えたのが、60年代後半に野外で行われたビッグイベントが映画になったことです。中でも67年のモンタレー・ポップフェスティバルと69年ウッドストックフェスティバルの映像が与えた衝撃は計り知れません。モンタレーでは、バーズやママス&パパス、ジェファーソンエアプレーンなどヒッピーカルチャーを代表する人気バンドが出演、それに混じってまだ無名のジミヘン、ジャニス、オーティスレディングがここから世に知られることとなります。ジミヘンドリックスの超絶テクニックと演奏が頂点に達した時、オイルライターで自分のギターを燃やし最後にはアンプに叩きつけて壊すショッキングな映像。全身から搾り出すように歌うシーンが評判を呼んだのはやはり無名だったジャニスジョプリン。また、ソウルミュージックからはオーティスレディングの歌がみんなの度肝を抜きました。ウッドストックフェスティバルは ’69年8月にニューヨーク郊外の農場で40万人の若者が集まった史上最高のロックイベントで、ジミヘン、クロスビースティル、スナッシュ&ヤング、ジャニスなどそうそうたる出演者で、ここでジミヘンはアメリカ国家の「星条旗よ永遠なれ」を演奏。エレキギター1本で真っ最中だったベトナム戦争の戦場の音を表現し反戦を訴えていました。サンタナやジョーコッカーはここでの演奏が伝説となり今に至っています。ホテルカリフォルニアの歌詞で、ホテルのバーテンにスピリット(酒)を注文すると(アメリカの)スピリッツ(魂)は ’69年以降なくなってしまいましたと表現されたように、この69年を境にロックは商業主義に走っていったと言われます。日本の若者にも影響をあたえ前述した全日本フォークジャンボリーや郡山ワンステップフェスティバルに繋がっていきました。
この後、もジョージハリスンが声をかけたバングラデッシュの飢餓救済コンサートやザ・バンドの解散コンサートの映画の衝撃もロックファンには忘れられない伝説です。
横浜、街と風(青い日記) 8
ボクシング
子供時代からボクシングが大好きだったので、高校に入ったらボクシングをやりたいと思っていました。武相ボクシング部は県下では横浜高校と並ぶ全国レベルの実力で全国大会で何度も優勝して多数のチャンピオンを輩出していた有名校。殆どの人が高校から始めるのでスタートは一緒です。早速入部してみると入部希望者が約50人位いて全員新調した赤いジャージに着替え横一列に整列すると実に壮観。いかにも一癖もふた癖もありそうなヤツばっかりで、一様になめられてたまるか的なオーラを放っていました。先輩達の準備が終わり全員揃うと校外へロードワーク。最初はゆっくり走っていますが一定の距離になるとダッシュ、また一定の距離になるとゆっくりを繰り返し、かなりの距離を走った後に心臓破りの急坂をダッシュで駆け抜け学校にゴールします。この時点で全員死にそうになっていて、さっきまでえらそうにしてたリーゼントにタバコくさそうなのは数分経ってから到着していました。自分は足はあまり速くありませんが、水泳部でマラソンは慣れていたしスタミナには自信がありましたが、平気な顔をしてる2年を見てさすがに高校生はすごいと思いました。その後腕立てや腹筋、縄跳びなどこなし1年はひたすらシャドウボクシング。終わる頃には立っているのもやっとの状態でした。
練習が終わると1年生は部室の前で気をつけの姿勢で腕を後ろに回し整列。まず3年生が着替えるのを待ちます。泥の様に疲れた体で待つ間私語は禁止、水も飲めません。3年生が着替え終わり帰るのを見送ると2年生の着替えが始まります。この間に1年生は外で着替えて2年が着替え終わるのを待ちます。あたりはすっかり薄暗くなっていました。
伝統
2年生が着替え終わると1年が20人位ずつ外から部室の中に呼ばれます。薄暗い部室で1列に並んだ1年生を前に2年生の1番鼻息の荒らそうなのが、「お前らの中でマラソンで遅れた奴は一歩前に出ろ。気合を入れてやるから手を後ろに回して歯を食いしばれ!」というやボディーにパンチが入ります。
後ろのロッカーまで飛ばされガッシャーンと音がします。不服そうな顔をしようものなら「なんだその顔は!一発もらったらありがとうございますと言え」といって今度はビンタが飛んできます。これを ”ヤキ” を入れるという伝統だと聞かせれました。やがて他の2年生達も加わって5人位ずつ一度に ”ヤキ” が始まります。終わると又次のグループが呼ばれ全部終わる頃には殆ど全員が殴られて表はすでに真っ暗になっていました。3年生は神様、2年が人間、1年はゴミだなどとよく2年生が言っていましたが、言葉遣いは敬語、使いっ走りやカバン持ちは当たり前。殆ど軍隊に近いものがありました。腫れた顔と切れた口でこんなんやってらんねえよと愚痴る1年生達。1人やめ2人やめ2ヵ月後位には50人近くいた1年部員が15人くらいになっていました。理不尽な伝統で最初は驚きましたが運動部はこんなものだろうと思っていましたし、この時はボクシングでチャンピオンになってみたいと思っていたのでこの程度でへこたれる様じゃ駄目だと思ってました。学んだ事もあります。殴られる前は凄い恐怖心で恐ろしいのですが殴られるのに慣れると痛みもこんなもんかと思うようになり、殴られる事に恐怖心がなくなりました。痛いときは痛いですけどね。しかしこの ”ヤキ” で、やがて大変な事になるのですが。。。
(HEART&SOUL代表 原 正行)
HEART&SOUL
〒231-0014 横浜市中区真砂町3-33 CERTE11階
営業時間
平日:OPEN 19:00 CLOSE 4:00 LIVE START 19:50~
休・祝日:OPEN 18:00 CLOSE 24:00 LIVE START 18:40~
TEL:045-664-5569
JR関内駅徒歩より1分
地下鉄関内駅より徒歩1分
Websie http://www.heartandsoul-live.com/
憂かりける 人をはつせの山おろしよ はげしかれとは 祈らぬものを
♪憂かりける 人をはつせの山おろしよ はげしかれとは 祈らぬものを♪
絵・千絵崇石 |
読み人:源俊頼朝臣 (みなもとのとしよりあそん) 現代語訳 by 千絵崇石・・・僕につれないあの人の心が なびくようにと観音様に祈ったのですが、あの人は 初瀬の激しい山おろしのように前にもまして冷たくなってしまった。 最近は神社や仏閣にお参りする若者が増えていて、特に縁結びの神様が人気!たくさんの女性達がお参りしているようです。そして女性が集まる場所にはやはり若い男性も集まり、そこでの出会いも含めて神社仏閣は若いカップル達のデートコースにもなっています。 |
きっと現代でも、この歌のように好きな女性が自分に心を向けてくれるように、と密かにお祈りしている若者も沢山いそうです。この作者の相手の女性はどうやら、彼に気がないと言う以上に、どちらかと言うと冷たいぐらいにそっけなくて、もしかしたら嫌いになってしまったのかも!と本当に可哀相な歌なんですが、でもねぇ・・
人の心を自分になびくように祈るって・・・やはり動気が不純なのでは・・・と思ってしまうのは私だけではないように思います。
やはり神仏に向かった時は自分の中にあるエゴをさらっと引っ込めて、真心を差し出すことが求められるのではないかしら。彼もう少し自分の心を清めてみれば、好きな女性の心をコントロールするお願いではなくて、好きな女性の幸せを祈る心境にまで自分の気持ちを高めることが出来たら、きっと観音様はそんな祈り手の純粋な気持ちに響いて、彼女の心にもその無条件の愛の響きが届いたのではないかと思います。最近は思考や想いはエネルギーであって、物理的に同じ様な波動を持つエネルギーと同調し合うと言う事が科学的にも実証されてきています。昔から”波長動通”とか”類は類を呼ぶ”等の言葉に表されている肉眼では見えない世界の話しですが、きっと彼の祈りはそういう意味ではちゃんと彼女に届いて同じ振動数をもつ彼女の心境を態度によって示されたら、冷たい拒絶という形になってしまった。だから一見あべこべに見えるけれど想いは繋がっていそうです。
その上、彼がお祈りした観音様ってお名前の通り、音の響きをつかさどるお役目の女神さま。想いは響きとなって必ず伝わっています。従って彼は自分の思惑どうりには行かなかったけれど、自分の発した波長にぴったりと合った波長を彼女から受け取っているのでしょう。
今年は日本の神様達の節目の年。5月は縁結びの神様でもある出雲大社の式年遷宮が行われます。そしてそのあとはいよいよ伊勢神宮の式年遷宮が。
神仏にお祈りする時は心を清めて真心を差し出しましょう。きっと願いは聞き届けられると・・
(早苗ネネ♪)
新宿シャンパーニュ 電話 03-3354-8540(昼) 03-3354-2002(夜)
新宿一丁目。元新宿厚生年金前。http://www.champagne-live.com/
1.スターピープルVOL41から「女性性のパラダイムシフト」というタイトルで連載寄稿しています。
早苗ネネさん プロフィール
木々や鳥や魚や精霊…人間以外の存在達との交流が当り前に語れるくらい、いのちのひろがりに気づくと、共に生きている喜びや、苦しみや悲しみにもナイーブになる。
心と野生がひとつながりになると……こんな風に人は年を重ねられる。ひとりひとり、ユニークにもっと自分になれる。
早苗 Nene さんは、そういう人生の先駆者です。 感性を解放しながら、40代で高校生に仲間入り卒業後、マウイのカレッジに留学中、突然半生記が受賞しました。
そんな新たなシーズンを迎えて、今エッセンスを分かち合いたい。
<天性の歌い手>というだけでなく、その存在感、溢れる活性のバイブレーションは、光のシャワーのよう。彼女と語り歌い、魂の成長を旅している現在の、自分の位置を確かめてみませんか?
今回は、大さん橋でにっぽん丸を眺めていて出会った素敵なワンヌをご紹介します。
お名前は「マーブル」ちゃん。犬種はダルメシアン(原産国クロアチア)の雌で4ヶ月です。
とっても可愛いこだったので、思わずワンヌを初ナンパしてしまいました(笑)
港の景色もよく似合う横顔。。。
ダルメシアン特有の模様がとっても美しいマーブルちゃんです。 ♥
そしていきなりの取材にもかかわらず、特技を見せてくれました。
「さあ、いきますよ!!」
「コロンっ」☆
パチパチパチ☆すごいでしょ♪ 4ヶ月にしてこの技です!!
飼い主である山本博司さんにお話を伺うと、マーブルちゃんの両親犬は代々ドッグショーのチャンピオン犬だそう!!
マーブルちゃんのお母さんは2010年のインターナショナルチャンピオン犬とのことです。
なるほど気品があるはずですねぇ♪
ダルメシアンのブリーダーさんはなかなかいないらしく、二代目になるマーブルちゃんともやっと出会えたと嬉しそうな山本さんでした。
奇遇なことに、めずらしくダルメシアンがもう一匹登場!!
まだ4ヶ月なのに頑張って吠えていたマーブルちゃんでした。
山本さんは美容室「Blue」のオーナーさんで、マーブルちゃんは今やお店の看板犬なんだそうですよ。
芸達者なマーブルちゃんに会いたい方は是非行かれて見てくださいね。
横浜市西区岡野1-12-18 新倉ビル3F
美容室「Blue」
Tel 045-316-4000
http://www.with-blue.com/
『りせっとcafé』関内店の店長の大井智彦です。定年後も社会と繋がりを持ちたいと「仕事探し」をする人が増えています。ところが、再就職の門は狭く厳しいものです。 それならば、起業するのはいかがでしょう?! 『りせっとcafé』は「街角カフェ」を始める人に食材を提供し、開業支援を行っています。また、この『りせっとcafé』を同じ趣味の人達が集う会、多世代交流会、異業種交流会、イベントetc地域のコミュニティの場として多くの人に利用してもらいたいです。そして集まった方々に『健康』を提供したいと思っています。『りせっとcafé』は地域とココロとカラダの健康を求めるサービス提供をコンセプトにしています。
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りせっとcaféとは
横浜の店舗は、ベイスターズ通りにあるここ関内店です。他に神奈川県には、藤沢店と北鎌倉店とおやつ工房の鎌倉御成店があります。もう一店舗、東京・虎の門に『フォレスタ虎ノ門店』があります。
薬膳の考え方を取り入れていますが、難しいものでなく6つの体質別スープの中から、簡単な特徴チェックにより自分に合ったスープを選ぶ『しょうなん薬膳すぅぷ』がメインです。
ご飯は日本で初めての五色米です。五穀米は穀物特有の匂いがあり、またアレルギーの出る方も多いので使っていません。国際薬膳協会理事長・東京家政大学教授の中村先生から教わった「五色法」のもと、国産米6種類(色は5色)を使っています。「健康おやつシリーズ」のデザートもこの五色米を使っています。
OPEN当初は女性客が多かったのですが、最近はサラリーマン男性が3割くらいに増えました。お母さんが子供と一緒にシェアしながら食事が出来ます。子供から大人まで安心して食べられる食材を使っています。
また、この春には、『りせっとcafé』は『健康ごはん』を掲げ、『薬膳すぅぷ』と同じように6体質に分けられた新商品、『お惣菜』を販売し始めました。お惣菜は親しみ易いものをアレンジしており、そのまま店内でも食べられますし、お持ち帰りもできます。
五色米のご飯と薬膳スープ、旬の食材でカラダの健康を目指す一方、地域に根差し、人が集う場所(コミュニティ)を提供しています。 他のカフェとの違いは、店員がお客様にお声を掛けること、何気ない会話の中からお互いが「励まされること」「癒されること」があります。もちろん、訊かれれば薬膳のお話もしますよ!
勉強会、交流会、展示会、イベントなどの場として利用される方もいます。作品の展示やイベントのポスターなどが壁面を飾っています。
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人生をリセットする「りせっとcafé」・・・定年後の起業を応援しています!
今の60代は老人とは呼べません。元気はつらつしています。しかし、いざ定年後に働こうとしても「働く場所」がないことも事実です。「独立してお店でも始めようか」と思っても、思うだけでなかなか始められません。そんな方の「街角カフェ」デビューを応援しています。
もちろん、屋号(お店の名前)も自由にネーミングしてOKです。私達は、『しょうなん薬膳すぅぷ』を中心とした各種食材を提供いたします。
スープとコーヒーで「街角カフェ」としてスタートできます。スープは温めるだけです。トーストやサンドイッチ、おにぎり等に添えれば「ランチ」になります。
こうしてスタートした「街角カフェ」のオーナーを「パートナーズ」と呼んでいます。「やってみようかな」と思ったら「りせっとcafé」を覘いてください。年々「パートナーズ」の問合せが増えています。
母体は湘南地域にシニアホームを展開している(株)サンフォーレです
特に男性は、定年後、働かないで家にいるとすぐに老け込むといいます。働き甲斐が生き甲斐になっているからです。 活き活きと働くことは病気の「予防」だと思います。
サンフォーレは18室から35室の比較的小規模なホーム作りを30年間やってきた会社です。
介護のこと、高齢者のことを見続けてきたからこそ「生き甲斐こそが予病だ」との考えに辿りつきました。
食と仕事と予病から老人医療負担の少ない社会を目指しています。「りせっとcaf?」で社会貢献ができると思っています。
有料老人ホーム サンフォーレ http://www.sunforet.co.jp/
りせっとcaf é http://www.reset-club.jp/resetcafe
横浜で学んだことを青森で
青森では、大手飲食系のフランチャイズ店でマニュアル通りに働いていました。自分の中で「ああしたい、こうしたい」があったのですが・・・実現できませんでした。横浜に異動になった時、色々な人と出会い、学び、その後、店を辞めました。
「りせっとcaf é」関内店OPENの時に採用されました。1年あまりの間に、藤沢店、北鎌倉店とOPENしてきた「りせっとcafé」でしたが、仕組みが完成されていた訳でなく、自分の「ああしたい、こうしたい」を理解してくれ、商品開発を一緒にやれたこと、仕組み作りに加われたことが楽しく「やり甲斐」になりました。
他の店と違って、お客様がプライベートな話まで自然体でしてくれます。地方に転勤になったサラリーマンの方が、休暇に帰って来た時にちょっと寄って行ってくれて、人と人の繋がりが感じられる店になったことが嬉しいです。
壁面を使って作品が展示されています |
私は、時間があれば、ふらっと飲食店を中心に色んなお店を見学に行きます。都会だから、想像もつかないほどの色々な人がいて「人間観察」が出来ます。
いつか青森に帰る時は、地域を活性化して、若者が流出しないような、横の繋がりのあるコミュニティを八戸(青森)に作りたいと思っています。
貴方にとって横浜とは?「たくさんの色・・・人にもたくさんのカラーがあり、街は色・色・色の氾濫。華やかなイメージの中で『人との関わり』を持てない『孤独』を抱えた人がいます。『人との関わり』を持ちたくないのか持てないのか? よく分からないけれど、話しかければ、普段はしゃべらないのに、長々と「しゃべり出す」のに驚かされます。横浜はたとえれば強烈な「赤のイメージ」に似ていると思います。」 |
(インタビュー・文・写真:高野慈子)
ヨコハマNOWの仲間たち
3月のある日曜日。 横濱うたげや ど根性ホルモン 登場したのは、日本一高い北総線で有名な印西在住の落語家金原亭馬治さんです。古今亭系・金原亭系では定番になっている「幾代餅」 の一席を伺いました。 その後は、馬治さんを囲んでの懇親会。「ど根性ホルモン」のオーナーシェフである椿さんの自信作、横浜野菜のサラダに舌鼓を打ちました。 今回の落語会は、椿さんと「横浜落語を愛する会」の江口さんとのコラボで実現いたしました。 「ヨコハマNOW」を始めてから、今月でちょうど3年。 その間に、様々な方々との出会いがありました。「横浜落語を愛する会」の江口さんとの出会いも偶然からです。あるイベントで知人に声をかけられ、その隣にいらしたのが江口さんでした。 ご縁があったのでしょうね。「ヨコハマNOW」では、江口さんご夫妻が主催されている「馬生ハマ寄席」を応援することになりました。 江口さんは、「ヨコハマNOW」のオンラインショップである「濱よせ」の店長でもあります。 横浜落語を愛する会 |
(クリックで写真拡大) |
椿さんとは数年前に「横浜市認定 はまふぅどコンシェルジュ」になられたときに一度お会いしたきりでその後ご縁がなかったのに、「ヨコハマNOW」の心強い仲間である高野さんの紹介で再会しました。それから「ど根性ホルモン」のファンになり、「ヨコハマNOW」の忘年会をやらせてもらったり、お忙しい椿さんに無理なお願いして「横浜地産地消物語」の連載をしていただいております。
横浜地産地消物語
http://yokohama-now.jp/home/?cat=58
「ど根性ホルモン」のオーナーシェフ椿直樹さん
http://yokohama-now.jp/home/?p=7786
「ヨコハマNOW」は手弁当で持ち出しばかりです。でも続けてこられたのは、素敵な人達との出会いがあるからです。そして3年たった今、「ヨコハマNOW」を中心にしていろいろなネットワークができています。
2013年3月7日。 そこには「ヨコハマNOW」のコラムニストである横須賀建治さんの姿が見えました。展示ブースには横須賀さんが昨年設立した「アークメジャー」の放射能測定器が展示され、多くの参加者の関心を呼んでいました。 |
横浜売れるモノづくり研究会 第10回特別セミナー
http://www.monoken.net/seminar/seminar10.html
アークメジャー
http://ark-measure.com/
横須賀さんには、毎月「横須賀詢」という素敵なコラムと「横浜ブックス」という書評を書いていただいております。
コラム「横須賀詢」
http://yokohama-now.jp/home/?cat=35
書評「横浜ブックス」
http://yokohama-now.jp/home/?cat=23
横須賀さんは、川崎市にある「はかり」のメーカーとして有名な「メジャーテックツルミ」の代表取締役でもいられるのに、激務の毎日の中で毎月原稿を送ってくださいます。「忙しい人ほど約束を守る」を実践されている横須賀さんが、「フクシマ」の方々への想いを込めて設立した「アークメジャー」を「ヨコハマNOW」では応援しています。 |
この他にも、「保土ヶ谷名物会」を連載していただいる「笑う門」の山田さんと一緒に、経営セミナー(「笑顔経営」ワークショップ)を始めたり・・・「ヨコハマNOW」ネットワークにどれほど助けられていることか・・感謝感謝でございます。
笑う門
http://www.warau-kado.com/
笑う門 代表 山田浩和さん
http://yokohama-now.jp/home/?p=4899
「笑顔経営」ワークショップ
http://www.monoken.net/egao-keiei/
「石の上にも三年」とは言いますが、よく続いてきたと思います。編集長の辰巳さん、ライターの高野さん、クレヨン画伯の工藤さん、そして多くの連載者の皆様・・・本当にありがとうございました。
「ヨコハマNOW」は4年目に入ります。
これからもよろしくお願いいたします。
第6回 「笑顔経営ワークショップ」取材レポート
「笑顔経営ワークショップ」を取材した。
去る3月19日、大変ユニークな経営者向けスクールが関内の「さくらWORKS」で開催された。今月はこのスクール「笑顔経営ワークショップ」をご紹介したい。 講師は、株式会社バイオクロマト代表木下一真氏(藤沢市本町)。30代の若いイケメン経営者だ。同社は1983年に設立し、木下一真氏が代表に就任したのは数年前。独自の経営手法で売上を伸ばし、各方面から注目を集めている。 昨年11月に開催された第9回横浜売れるモノづくり研究会セミナーでは講師を務められ、その反響の高さから、今回のスクール開催となった。 第9回横浜売れるモノづくり研究会セミナーのサイト |
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「笑顔経営」を実践する木下氏
現在、株式会社バイオクロマト社は、主に検査機器の製造販売を行なっている。自前の工場を持たないファブレス形体を取るメーカーだ。しかし、驚くのはその取引先。ホームページには、そうそうたる大企業が軒を連ねる。聞けば、製品の開発費は大手企業負担。共同で製品開発及び特許申請を行うものの、製品の販売権はバイオクロマト社の独占だという。
このような夢のような話が何故実現するのか。それは木下氏のニッチ戦略にある。大手企業の研究機関にとって、研究に必要な機材の開発は開発費を投じて製造することは珍しいことではない。しかし、出来上がった機器は、そもそも販売目的で開発したものではない事に加え、研究に独自性があればあるほど、機材もオーダーメイドに近いものとなるため、利用者も少なく市場規模も小い。つまり大企業にとってはマンパワーを投じてまで参入する価値のない商材ということになる。そのため、大手企業としては販売権を譲渡しても問題がないというわけだ。
だが、ここで一つ疑問が出てくる。ある意味オーダーメイドに近いような製品の販売権を得ても、商売になるのか?
それが、商売になっているのだ。いや、商売にしているという方が適切かもしれない。
「確かに大変ニッチな市場ですが、日本国内はもとより、海外へも営業をかければ、必ずニーズはあります。ニーズのあるところに的確に情報を提供するように仕掛ければ、商品のオファーは必ず得られるのです」と木下氏。
聞けば、独自に収集した配信先約2万件へ、3日に1回の割合でメルマガを配信しているという。そのメルマガを開封した先を分析し、営業に役立てているのだそうだ。多い時には、1日に200件を超える問い合わせもあるのだとか。また海外へも年に複数回、展示会に参加し、精力的に営業をかけているという。
さらに「開発の段階で、マーケティングを行い、よりニーズにあった製品の開発に努めていることも、当社の戦略です。」とお話いただいた。
例えば、同社には大変カラフルな検査機器がラインナップされている。全部で4色そろった小型の濃縮器だ。
http://www.bicr.co.jp/0103/cev1.html
理系の方なら思い当たる方も多いと思うが、きれいな色のついた機器など、世の中にはほとんどない。実にユニークな商材である。共同開発した企業1社からのオファーであったなら、カラーのラインナップなど決して発想されなかったに違いない。はじめから、国内外の展開を見据え、市場の創造を検討しているからこそ、現場のマーケティング調査を入念に行い、その結果得られた情報をもとに、カラー展開に至っているということだ。木下氏の言葉を借りれば、「需要を生み出す」戦略がここに見て取れる。
このように木下代表の経営は実にユニークに映る。しかし、その市場性とニーズを端的に捉え、的確で効果的な仕掛け(プロモーション)を実行させる経営手腕(当人曰く「経営の技術」)があってこその結果なのである。
前置きが長くなったが、この木下社長の経営技術を惜しみなくご教授いただくワークショップが、毎月1回、さくらWORKSで開催されている(詳細は末尾を参照)。
有料のワークショップであるが、お許しをいただき、先月行われた講座(第2回目)を一部ご紹介させていただく。
まずは前回のおさらい。興味深い内容もりだくさん!
ワークショップは、木下氏の解説が約15分、その後その内容を反復できるよう、各自でワークを行うスタイルを繰り返して進められていく。木下氏自信、数々のセミナーを受講し勉強を重ねる中、実践につながる(身につく)ものはなかなかないと感じた結果、このような形体を採用したのだそうだ。
はじめに、前回(1回目)のおさらいがあった。私は前回の講座を受講していないため、簡単なまとめにとどめておきたい。だが、大変興味をそそられる内容で、詳細を聞いてみたくなった。余談だが、ビデオ配信サービスも準備されている。 http://www.monoken.net/egao-keiei/ 都合が悪くスクールに参加できない場合でも安心だ。
- 売上が下がる等の問題に直面した時、正しい解決策と、間違った無数の解決策がある中、正しい解決策が取れずに失敗するケースがある。
- 正しい解決策を導き出すための技術があり、方法がある。
- 正しい解決策とは”問題解決に効果的な解決策”で、問題解決に重要なデータ(上位データ)を見落とさず収集し、的確なアウトプットを早急に行なっていけば、問題解決につながる。
- 大量のアウト(プロモーション・営業etc.)を行なって初めてイン(情報収集・収益etc.)が得られる。アウトが先!
今回のテーマはVFPの見つけ方。 VFPって何?
第2回目の今回は、商売の真髄、何を提供していくかに関する内容だ。
本講座では、本当の意味での提供品を価値ある最終生産物VFP(valuable final product)と呼び、VFPをどのように見つけていくかという事が、今回のテーマになっている。具体的なワークとしては、お客様にとっての価値の見つけ方、自社製品(又はサービス)のどこに価値を感じているのかを、完結な言葉で表記するといった内容となった。
より知ればより売れる
とかく企業は、その製品やサービスの良さを伝える際、発信者の視点で語りがちだ。「ここがこんなに優れた特許技術なんですよ」とか、「ほかには無いサービスです」などといった具合だ。しかし、利用者にとっては、それはどうでも良い、あるいはそこを重要視してお金を払っているわけではないことが多い。重要なのは、利用者が何を望んで、どこに価値を感じお金を払っているかということだ。その為には、相手を知る事(相手の情報収集)が何よりも大切になる。
「より話せばより売れるのではなく、より(相手を)知ればより売れる」とパワーポイントに映し出された時には、思わず”なるほど”とうなづいてしまった。
感情に訴えられるかが鍵
木下氏は「“安い” “早い” “うまい”(=技術・性能・品質etc.)というような論理的利点が当たり前になっているこの時代には、利用者がお金を払うという行動を触発するのは”感情”に訴えられた時だ」と解説した。技術・性能・品質は当たり前で、これにプラスして、人の心に訴えるもの、人の心を揺さぶるものが相手に伝わってはじめて物が売れる時代という訳だ。
そのため、ワークでは、以下の手順で自社製品やサービスの利点を感情的表現にまで分解して考える作業を行なった。
まず、これまでお客様からいただいた好意的な声を列記し、論理的か感情的かに分けてみる。次に論理的な意見も全て感情的表現に変換してみる。木下氏いわく、論理的な意見も、ほとんどが感情的なものに置き換えられると言う。例えば「性能が良い」などの論理的な意見を、それは何故かと突き詰めてみると「性能が良いと故障が少ないから面倒がなくて良い」などの理由があぶりだされ、「面倒でない」という感情的な表現に置き換えられるといった具合だ。
日頃からユーザーの声を収集していない企業にとっては、苦戦する作業となるが、少ない情報源でも構わないからワークをするよう求められた。
ワークには十分な時間が取られるため、受講者はなんとか情報を絞り出そうと努力する。こんなに自社製品の利点について、ユーザー視点で、しかも感情的表現を考えた人は、なかなかいないだろう。しかし、本当はいの一番にやっていなければいけない事なのだと気づかされた。
次に、この絞り出された?感情的表現を類似するもの同士まとめて、代表する言葉に分類していく。
このようなワークを、自社の製品(サービス)をケースにして行っていき、自社のVFPにつながるキーワードをワークショップ内で導いて行くのだ。
当然、作業をする中、疑問が生じたり、情報不足により、思考が停止してしまい、筆が止まる事がある。しかし、それはむしろこの講座では好機かもしれない。疑問はすぐにその場で講師に質問する事ができるし、情報不足の場合には、その情報(上位情報)は重要であるにもかかわらず、会社で収集していなかった事に気づけるからだ。
ユーザーの声を収集する際のポイント(ヒアリング内容)
- なぜ当社の商品やサービスを購入しているのですか?
- 購入することによって、何が達成できますか?
どのような結果になりますか?
何が得られますか?
「明日から使える」が最大の魅力
VFP検証作業ステップまとめ
Step1:論理的ワードを感情的ワードに変換
Step2:似た言葉をまとめる
Step3:絞った感情を、言った本人にヒアリング
Step4:結果70%以上に支持されればVFPの要素
これらのワークを行い、そこから自社製品(サービス)のVFPを導きだす方法を解説いただいたところで本講座は終了となった。次回はこれをいかに上手くPRするかがテーマとなるそうだ。
受講者の一人、竹内氏(公認会計士)は「今回のワークで、自社のVFPに成りうるワードは“安心”と“楽”の2つにしぼられました。本講座では、その場で実践的な気づきが得られことが大きな魅力です」と感想を述べられた。木下氏も「使える講座にしたい」とお話されていたが、自社の新たな気づきや問題点、これからやるべき事など、明日から使える実践的情報が得られることが、本講座の最大の魅力ではないだろうか。
今回の講座は、マーケティングのSWOT分析やペルソナ設定などの要素が盛り込まれているものの、より実践的な内容となっている印象を受けた。余計なことは排除し、目的に的確に切り込む最短距離を示してくれているとも言えそうだ。
経営者向けスクールだが、経営企画、マーケティング、プロモーション企画担当者等にもオススメの講座である。
まだ間に合うらしい!
次回は第3回目となるが、これから参加する事も十分可能とのこと。
月に1回の講座なので、無理なく参加ができるのではないだろうか。また、講座終了後の懇親会も是非おすすめしたい。木下氏はもちろん、受講されている方々との情報交換も実に有意義だ。
講座情報
講座タイトル | 「笑顔経営」ワークショップ |
今後の日程予定 |
第3回 4月16日(火) 第4回 5月21日(火) 第5回 6月18日(火) 第6回 7月23日(火) 第7回以降は日程が決まり次第発表(全10回) |
時間 | 18:30~21:00 |
料金 | 5,000円/1講座 |
場所 | さくらWORKS(関内) |
お問い合わせ |
横浜売れるモノづくり研究会 事務局 〒231-0004 横浜市中区元浜町3-21-2 ヘリオス関内ビル4階 TEL:045-226-3475 (ともクリエーションズ内) |
プロフィール
ペンネーム: 津木 雫(つぎ しずく)
オヤジ・オバチャン・オトメのO3マインドを持つ、なんちゃってコラムニスト。
約20年間メーカー勤務。広報・マーケティングを経て、現在フリーランス。
典型的な仕事人間という生活を過ごし、はたと気がつけば人生の折り返し地点。「さぁどうする!」と我が道を振り返っている真最中。
学生時代に、約15カ国を貧乏旅行。
その経験から、今の若者が育つ環境には、問題を自らの力で乗り越える体験が不足していると、感じている。若者教育関連のNPOを立ち上げ、神奈川を中心に現在活動展開中。
ビジネス梁塵秘抄「遊・献・学」(第1回)
大浦総合研究所 代表/大浦勇三
ビジネス梁塵秘抄「遊・献・学」(第1回)
平安時代末期、「梁塵秘抄(りょうじんひしょう)」という歌謡集が編まれました。
平安時代末期は、日本の歴史の中でも先が見えない激動の時代でした。編者は後白河法皇で1180年前後のものといわれます。書名の「梁塵」は、その歌で梁(はり)の塵(ちり)も動いたという故事からとられました。
多くの方は、
遊びをせんとや生れけむ、戯れせんとや生れけん
遊ぶ子供の声きけば、我が身さえこそ動がるれ
という代表的な歌を聞かれたことがあるのではないかと思います。
今日、日本をとり巻く環境は、平安時代末期に負けず劣らずの大変革期にあり、その規模はグローバルな広がりを持っています。グローバル規模の動きになればなるほど、あらためて日本の文化風土、日本人の特性が一段と問われることになります。
この20年、日本はなかなか前に進めず、ある意味で後退を余儀なくされましたが、”後ろ向きで前に進む”ことには限界があります。前へ進もうとする以上、きちんと正面を向く必要があります。平安時代の日本人は、乱世の中での人生を”遊び”"戯れ”と肚をくくり、難題や障害と真正面から向き合い、それを乗り越え生き抜いてきました。
21世紀の我々も、この文化風土と特性を再認識し、覚悟を決めて思いを深め、生活と仕事に希望や喜び、愉快さや面白さを見出したいものです。
このコラムでは、本業の経営コンサルティングを通じて少しずつ抽斗(ひきだし)に溜め込んできたものを、
「遊びは仕事、仕事は遊び」
「仕事は学び、学びは仕事」
「学びは遊び、遊びは学び」
の思いのもと、「遊び(遊)」「仕事(献)」「学び(学)」の形でゆるやかに束ねながら、しばし遊び戯れてみたいと思います。
“遊びをせんとや生れけん” 「遊」
絵を描くことしか眼中にない人間の覚悟と楽観 七〇歳までの絵はすべて否定
九〇回も転居し、画号は三〇回も変えた 九〇歳を超える年齢まで頂点を追う
小布施でも 目覚めた床の上で、毎朝三枚の獅子図を描く、その遊び心と執念
一茶が受け止めた心情は、そのまま葛飾北斎にも重なります。100歳まで生きることができれば絵の何たるかを感得できるとの執念も及ばず、90歳でその道を絶たれました。最高傑作の”富嶽三十六景”は73歳の作であり、これ以前のものはすべてとるに足らないと自ら切り捨てました。後には、ゴッホなど印象派の画家や、ドビュッシーなどの音楽家にも大きな影響を与えたのです。毎朝三枚の獅子図を描くという修練を最後まで自らに課しながら、その一方で”北斎漫画”という絵に関する膨大な知識ベースを作成しました。作業の段取りが極めてプロセス志向であることに何より驚かされます。やりたいこと一筋に生き抜いた人間としての凄さには感服するのみです。
“仕事をせんとや生れけん” 「献」
大事なことは、何があっても逃げず信じる どんな馬でも、千里走れば、名馬
新技術、新素材、新製品の開発 それに加えて人材育成や契約の仕組みづくり
世も末と思われた大恐慌時代 これだけの新しいものが、次々に誕生している
昨今では一時、世界大恐慌の再来との声も聞かれ、閉塞感が広く世界全体を覆っていました。しかし、1929年に襲った世界大恐慌の中でも、人類は時代環境を冷静かつ覚悟をもって受け止め、新たな未来を見据えて前向きにイノベーションに立ち向かい、その後の大きな繁栄のきっかけをつくりました。ナイロンや合成樹脂などの素材革命をはじめ、コピー機、ポラロイドカメラの登場にも道を切り開いたのです。”不況も人間がつくり出したものだから人間がなくせばいい”"不況は物の価値を知るための得難い経験であり、かつてない困難や不況からはかつてない革新が生まれ、かつてない飛躍が生まれる”との松下幸之助の洞察と確信は今でも世界に通用するものです。
“学びをせんとや生れけん” 「学」
自分の人生、心から納得したい お金があるだけでは、往生できない
学問は 自らの身を守り、他人さまを助ける術 人生を味わい尽くす
着物も人生も 時間をかけてこそ、身に馴染む それを最上と心得る
浪速の大商人は、使い切れないほど稼ぎ、寄付し、大いに遊んだと聞きます。いくら遊んで蕩尽してもお金が増え続けるのであれば、とても使い切れるものではありません。もともと、道楽には、お金に対する不浄を洗い落とすという考え方があり、必要悪として商人の世界ではいい逃げ口上になっていたとも聞きます。しかし、それにも限度があり、道楽も行くところまで行くと、最後の到達点は何と学問。すべての欲得から解放されるところで現れるのが人間の本性であり芯棒。それが知的好奇心だとすると、人間も捨てたものではありません。それを生身で経験できたとなると、ある意味では、お見事というほかありません。
今回とりあげた「遊・献・学」それぞれの4行文は、拙書「ビジネス梁塵秘抄(一)~(五)」(全10巻)から抽出したものです。次回以降も「遊・献・学」から各々4行文を一つずつ抽出してご紹介していきたいと思います。
「ビジネス梁塵秘抄」購入ご希望の方はこちらからどうぞ!
http://www.syplus.jp/ooura/
大浦勇三(おおうら ゆうぞう) プロフィール
大浦総合研究所 代表 (http://www.mmjp.or.jp/ooura/) 石川県七尾市出身。 筑波大学大学院講師、城西国際大学客員教授、名城大学講師、産業能率大学講師、中小企業大学校講師などを歴任。 主な著作物:
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セカンドライフ列伝 第11回 大田垣蓮月(おおたがき れんげつ)
榎本技術士オフィス/榎本博康
第11回 大田垣蓮月(おおたがき れんげつ)
心を歌わぬ無私の尼僧
大田垣蓮月(1791年(寛政3年)~1875年(明治8年))という心優しい尼がいました。私が属している関東圏では、かつて日常会話の中で耳にしたことが無いのですが、京都時代祭では毎年紫式部、静御前や出雲阿国達とパレードをしていますので、関西圏ではとてもポピュラーな人です。知ってましたか。
その人生は多難でした。庶子として誕生し、生後10日で養女になりました。名は誠(のぶ)。父となったのは大田垣常右衛門です。2度の結婚で夫はいずれも短い結婚生活で病没し、さらに子供5人が全て幼い頃に死んでしまいます。父と共に出家して法名蓮月とするのですが、父が亡くなると、女性が独りで寺に住む理由が無くなり路頭に迷うことに、それは42歳の時でした。
そのどん底から蓮月は歌人として名をなすのですが、生活費は土を手捏ねした焼き物で得ながら、質素な生活を信条とします。そんな所が人気を得て、いろいろな文化人が訪ねてくるようになりました。60歳から富岡鉄斎(最後の文人画家と呼ばれている)を侍童として育てます。85歳で没し、あらかじめ自分で用意した棺に収まりました。
彼女にはいくつも逸話が残っていて、どこまで本当かと疑ってしまいますが、それも彼女の人間性故のことと思います。例によって好ましい逸話は勝手に拡大し、時には逸脱しながらも、蓮月尼を通じて人生を考えてみたいと思います。史実はそこそこで、創作が混ざっています、くれぐれも誤解の無いように。
その出自と生い立ち
天明8年の京都の大火が誠(のぶ)を産んだと言われています。この応仁の乱以来とも言われる焼け野原の復興事業に、多くの人々が派遣されてきます。御所の造営や諸藩の京屋敷の再建であり、その中に彼女の父が居ました。ここでは藤堂某としておきますが、身分の高い武士でありました。一方実母ですが、のぶが遊郭である三本木で誕生したことから、そのような女性とも思われがちですが、どうも様子が違います。生母は後に、亀岡藩士に嫁ぐのです。これは藤堂家が背後にあってのことらしいのですが、本人にもそれだけの武家の教養があるわけです。さらにのぶが8歳の時から約10年間、御殿奉公に行くのも亀岡城(本来は丹波亀山城だが、現在の地名の亀岡に合わせて、本稿では亀岡で通す。)でした。本人達が名乗りあったかは知りませんが、少なくとも母は娘が近くにいることを認識する以上の位置に居たと想像します。実父は産ませっぱなしのちゃらちゃら男ではなくて、藤堂家のネットワークの中で、のぶと実母を保護したのでした。でも国元に新妻がいて、しかもほぼ本妻との連続妊娠のようですから、ちゃらかった面も否定できません。
そしてのぶにとって最高のプレゼントは養父でした。普請に際して、藤堂某が宿舎にしていたのが知恩院であり、その寺侍の山崎常右衛門(後に大田垣姓)です。彼は貧しい農家の出身で、苦労を重ねてやっと知恩院の家来になったのですが、赤貧の状態だったのです。しかし碁を良く打つとの評判で藤堂某と対局をし、彼の打つ石の品格が優れていることから、人物が見込まれたのです。しかし皆さん、見込まれるというのは、怖いことですよね。ちょっとできちゃたんで、何とかしてくれない?とやんごとなき某に軽く頼まれてしまいました。
常右衛門は腹をくくったのです。門の松飾を忘れかけた頃、生後10日でもらいうけた嬰児のもらい乳に奔走しましたが、貧乏な彼にはお礼の方法もありません。彼は養育料を請求しなかったのでした。当時常右衛門は35歳くらいですが、実は彼には故郷から呼び寄せた妻と息子がありました。さらに姉もついてきたので、大所帯が薄給にのしかかっていたのでした。家に帰ると馬鹿(注:京都では何と言うのでしょうか。)亭主よばわりされて針のむしろ、二本差しながら着たきり雀の男が月代(さかやき)を剃ることもできず、赤ん坊をかかえての乳さがし、京都の夏は格別に暑かった……とは凡人の想像力であって、実際は彼の妻もわが子のように育てたのです。
すると秋風を感じる頃に、知恩院本坊から呼び出しがありました。何か悪いことをしたかなあと案じながら、出頭するような気持ちで参上すると、何と御請代を仰せつかったのです。これは寺侍の地位を世襲できるという意味です。本物の武家になったのです。これは某の手配かと喜びをかみしめました。夫婦仲が益々良くなったことはもちろんです。
第一の人生~亀岡城御奉公の頃
所が実父某は早世してしまいました。おのぶの後ろだてが無くなったのです。そうなっては本人に価値をつけさせるしかありません、御殿奉公に出すことにしました。その奉公先に選んだのが、実母に近い亀岡城でした。おのぶ8歳の時です。
おのぶは聡明で活発であったようです。しかも15歳もすぎればどんどんと美人になっていきました。これではお殿様の手がつくのも時間の問題と噂される一方で、彼女には大きな欠点がありました。活発過ぎて、男勝りだったのです。女性が身につけるべき和歌、舞、裁縫などは当たり前に習得した上で、女性の武芸は薙刀と決まっているのですが、それに飽き足らず木刀を振り回し、鎖鎌をマスターし、馬を乗り回し、果ては竹竿を使って高さ一間(1.8m)の塀を乗り越えるというすさまじさ。暴漢を投げ飛ばしたと言う伝説も残っていますが、柔術もできました。話を半値八掛けで評価しても、スゴイ。
第一の人生~最初の結婚
常右衛門は大田垣姓になりました。山崎は知恩院に最初に勤務する時にもらった名前で、元々は大田垣を名乗るつもりでした。息子も成長し元服して、父と共に知恩院に出仕し、常右衛門の最も嬉しい日々が訪れました。次はおのぶと所帯を持たせるばかりです。しかし息子は21歳で病没してしまいます。それを追って妻も他界してしまいました。
常右衛門は家名の維持に心がけ、養子を迎え、元服して望古(もちひき)と名乗らせました。やがておのぶが城勤めを辞して、二人は夫婦になりました。しかし彼らの3人の子供は次々と幼いうちに死に、夫もそのような中で荒んできて放蕩を尽くし、病を得て知恩院の勤めができなくなり、離縁の上実家で病没してしまいました。おのぶが未だ25歳のことです。
第一の人生~2回目の結婚
常右衛門は後継ぎがないまま、64歳でも出仕を続けていました。父の願いをかなえたいと思ったのでしょうか、おのぶは29歳で再婚します。しかし案ずるよりも何とかで、婿の重二郎は優しい理想的な夫であったそうです。常右衛門は喜んで家督を譲って隠居しました。そして女児を、さらに男児を得たのです。常右衛門の心労はすべて報われました。しかし労咳でしょうか、重二郎は急速に病み衰えました。のぶは臨終の床で、黒髪を自ら切り落として、薙下げ(なぎさげ)の姿となりました。死後しばらくは人事不省の状態であったといいます。33歳になっていました。
第一の人生~新米尼僧
常右衛門は自分も出家することを決め、その前に家督を継ぐための養子を迎え、のぶの幼児が成長すれば家督を戻すという約束をしました。出家剃髪を知恩院に願い出た常右衛門は真葛庵(まくずあん)住持となり、西心という法名を授かりました。おのぶの法名は蓮月です。二人の子供をつれて、親子はこの庵で平穏に暮らしました。庭の池の、深い泥から咲く蓮の花は、彼女に安らぎを与えました。父から囲碁を教わり、父と歌の推敲をし、子供達を育てて満ち足りた日々でした。
しかしそのような日々は長くは続きませんでした。蓮月35歳で女児が逝き、37歳で男児が逝ったのです。そして傷心のまま父、西心が78歳で亡くなりました。蓮月は42歳でした。知恩院は尼寺ではありませんので、父を失ったあとまで置いてはもらえません。行き場の無くなった彼女は父の墓所で泣き暮らしました。墓は人の暮らす場所ではないと、強く叱責されて我に返ったのです。
第二の人生~孤独の本質
「つねならぬ世はうきものとみつぐりの ひとり残りてものをこそおもへ」
栗のイガの中に栗の実が仲良く3つ入っていたように、ひっそりと仲良く暮らしていたのに。これは彼女には少ない心情を吐露した歌です。泣けば泣く程に腹が減る、蓮月は極めて健康体でした。粟田口という場所にあばら家を借りましたが、収入の道を得なければいけません。でもまともに仏教の修業をしていませんから、その道では無理があります。何かを教えて糊口をしのぐことを選びます。しかし尼さんが薙刀や柔術、舞踊というわけにも行かないので、和歌教授と看板を出しました。手持ち金が無くなるまでに、ビジネスを軌道に乗せなければなりません。
所が後家で美貌の尼さんです。そっちを目当ての男たちがやってきました。そういう目的で開業したものと勝手に解釈して、むきだしの性欲をぶつけてきたのです。中には真剣に結婚を、絶対に幸せにするからと、これまた自分勝手な誠実さで迫る男もあって、却ってこっちの方が手を焼いて、ほとほと参りました。自分がどれだけ、父から守られて来たかも、世間を知らないことも思い知ったのです。ついに切なくも自らの食欲は総ての蓄えを消費してしまいました。
第二の人生~泥から咲く蓮のように
ちょっと話を極端にしてしまいましたが、実際は養子の嫁がわずかばかりの米を運んでくれたらしいのです。しかし貧しい養子の暮らしによりかかるのは、彼女の気性に合いません。途方に暮れて彷徨するうちに、運命の出会いがありました。粟田口の埴細工(陶土を手捏ねで器を製作すること)の老婆です。この場所は京都の東のはずれで、江戸方面に下る旅人が土産物を買う場所でもありました。そこで老婆は粟田焼という器を製造・販売していたのですが、声をかけてくれました。よほど見かねたのでしょうか、普通ならば競争相手をあえて増やすようなことはしないはずです。老婆の手ほどきで埴細工を始めました。しかし運動系は達者な連月が、作品系の芸術は弱かったのです。どれもへたくそで不細工。これには本当に弱りました。
老婆は窯を持っていないので、清水坂の窯元に持っていって、金を払って一緒に焼いてもらいます。しかし作品が余りに下手なので、どこの商店も扱ってくれません。彼女が作っていたのは、きびしょでした。当時は煎茶を飲むのが文化人としてのたしなみであり、京都の町人文化として浸透していました。煎茶用の急須を中国の発音で「きゅうしゃ」、それが京風に転訛して「きびしょ」でした。マーケティングは完璧なのに、クオリティが伴わないので売れない、万事急須でした。
蓮月は逃げませんでした。他に道もありませんでした。陶土をこねながら、土の不思議な魅力にのめり込んで行ったのです。一見無価値な土から、人が清らかに煎茶を飲む器ができる、それは泥から咲く蓮の花と通じるものがあると気付いたのです。それなら蓋を蓮の葉の形にしてみようか。だったら取っ手は蓮の茎がいいだろう。こつこつと丁寧に造形に工夫をしました。さらに自作の歌を釘彫りにしたのです。杉本秀太郎氏がいみじくも名づけた、新たな三つ栗(土、歌、書)という作品ができました。コンセプトは具体化され、蓮月焼きとネーミングされたのです。
第二の人生~屋越し蓮月
最初の独居先には6年いましたが、その後「屋越し蓮月」とのあだ名をもらう、引っ越し摩になりました。流行というのは恐ろしいもので、ひとたび売れ始めると、蓮月の庵を訪ねてくる人が増えたのです。ほとんどは面白半分の物見遊山です。新潟では、当時のお土産は蓮月焼き、土産話は蓮月と会ってきたことと言い伝えられているそうです。まるでバス旅行で土産物屋に立ち寄るような具合です。これは蓮月の好む所ではなかったので、さっさと引っ越します。やがて新しい住まいが知られてしまいます。また移動します。その時に必ず呼び出されるのが、大工の松平(まつべい)でした。彼は34回までは覚えていたそうです。松平が良くやってくれるので、新たな住まいの居心地が悪いだけで引っ越すようになりました。年に13回が自己ベストと言われています。このように奔放なお嬢さまに戻ってしまいました。質素だがやりたい放題、我慢強いが妥協しない、だから益々人気が出てきたのです。
そこへ深刻な顔の数名の訪問者がありました。70歳頃のことです。よほどの事情と見えたので話を聞くことにしましたが、もじもじとしてなかなか言い出しません。実は彼らは蓮月焼きの贋作者達だったのです。何とか形はまねることができるのですが、歌と書はうまくいきません。そこで相談して、思い切って教えを乞いに来たのでした。
そこで蓮月は快諾しました。(贋作を)持ってらっしゃい、(私が歌を)書いて差し上げましょう。私の拙い作品で雇用が促進されるのであれば、結構なことではありませんか。かくて本物が量産されることになったのですが、彼女は彼らから料金を受け取らなかったといいます。ひとつの試算では蓮月焼きの総生産数は5万点、当時の所帯数が700万軒、人口が3500万人なので、相当な比率で普及したのでした。
60歳頃から少年を預かりました。46歳違いの彼が後の富岡鉄斎です。鉄斎はほとんど耳が聞こえないものの、良く書を読みました。彼の父が子の行く末を案じて預けたものです。蓮月の下で研鑽し、また諸先生について修業をしましたが、最初は鉄斎でも作品がなかなか売れません。既に有名になっていた蓮月が合作の形で応援していた時代もありました。
第二の人生~新日本のサロン
時代は幕末です。いろいろな人達とのネットワークができてくると、蓮月の庵は討幕派の秘密情報拠点になっているのではないかと、疑われもしたらしいのです。しかし彼女はどちらにも偏らずに自然体で対応したのが事実に近いようです。丁度その頃、銭形平次の八五郎のように、若き鉄斎が大変だあっー、黒船が来たあ、と駆け込んで来ましたが、蓮月は動じません。どうして脅威と決めつけるのですか、却って良いこともあるでしょう。
「ふりくとも 春のあめりかのどかにて 世のうるほいにならんとすらん」
春雨の下の梨花の風情に例えてはいますが、彼女の本音として、西洋医学があれば、夫も子供も死なずに済んだのではないでしょうか。私の不幸を繰り返さないために、もっと時代は進んでほしいという解釈があります。彼女は決して本心を歌でストレートに表現するタイプではありませんでした。
そんな蓮月が動きました。
「聞くままに 袖こそぬるれ 道のべに さらす屍(かばね)は 誰にかあるれん」
鳥羽伏見の戦いのニュースが届いたのです。徳川慶喜は前年に大政奉還をして薩長の出鼻をくじき、新しい政治的な均衡を図る中で、大阪城に下がっていました。一方薩摩藩は江戸で挑発的な破壊工作を演じて、部分的な戦闘状態に入ったのです。この報告を受けて、旧幕府軍が伏見街道を上京、京都市南の鳥羽、伏見で薩摩軍との本格的な戦闘状態に入りました。しかし装備の新旧の差で、旧幕府軍は敗北、累々たる死体は放置されたのです。
連月は怒りました、西郷をつれて来なさい。
「あだ味方 勝つも負くるも 哀れなり 同じ御国の 人と思えば」
さすがに連れては来られないので、短冊にしたためて、直訴状を人に託しました。技巧ゼロの思ったままの歌です。彼女には西郷隆盛につながる人脈はいくらでもあり、薩摩藩士達も彼女の庵に出入りしていたのでした。
西郷は読みました。そして江戸に向かう船旅には冷静に考えるだけの十分な時間がありました。百万都市の江戸を焼き尽くして日本を変える、その主張の西郷が変わりました。薩摩藩江戸藩邸で、勝海舟と対面した時、西郷は既に腹を決めていて、江戸無血開城を受け入れたのです。そのために江戸の高度な都市機能がそのまま維持され、東京として新時代を容易に築くことができたのです。勝海舟は戦争になれば、江戸市民の手で自ら江戸を焼き払い、ゲリラ戦で徹底抗戦する準備をしていました。
(余計なコメントですが、もちろんこの短冊1枚で西郷の意思が決まったわけではありません。でも今回は蓮月に花を持たせましょう。)
蓮月という生き方、連月と言う作品
蓮月は70歳を過ぎてから死に支度をして、棺桶まで用意していましたが、さらに長命を得ました。村で誰かが死ぬと、尼さんの所から棺桶を借りてこいという具合で、でも棺桶は返してもらうわけにいかないので、いくつも作ったそうです。そんな蓮月もそれを使う時がついに来ました。85歳でした。棺を蓋う白木綿には鉄斎が描いた蓮と月がありました。さらにそこに辞世の歌が。
「願わくは のちの蓮の花の上に 曇らぬ月をみるよしもがな」
所で、今日的な視点でみると、蓮月の歌はさほど面白いものでは無いとの説があります。私にはその評価ができませんが、私なりに考えてみました。要するに彼女は自分を出した歌を作っていないのではないかということです。その原因は、ひとつは彼女の芸術に対する態度であり、もうひとつは彼女の人生にあるのではないでしょうか。今回は採用していませんが、歌の先生が悪かったという説もあります。
まず態度ですが、蓮月焼きの贋物を許容し、短冊には謝金を求めませんでした。つまり今日的に言えば、連月焼きという有体物には値段をつけたのですが、その意匠や著作と言う無体物には無頓着でした。当時は知財法こそ無いものの、著作物等で生活している人たちも当然ありましたので、無償は彼女に固有のことです。(注:窮民救済の時は短冊を書き続けて喜捨を得ています。)それだけに、気が利いてはいるが、そこまでという歌が多いのでしょうか。さらに器に深刻な歌は似合いません。清廉な尼さんの作品なので、恋をはじめとする感情表現は希薄であり、風景画の手慣れたデッサンのようです。
「うを(魚)すくふ あみ(網)よりもれて 早川に ながれる月の 影のすずしさ」
「軒ちかく ほたるとびきて うたたねの いめ(夢)もすずしき 川づらのやど」
もうひとつの原因の人生については、少々創作も交えて概観してきましたが、要するに尼僧として生きたことに尽きると思われます。誕生の経緯や夫・子供達との死別という不幸はありましたが、それを乗り越える生きかたとして尼僧を選択したのです。俗世のことを直接にも婉曲にも表現することから遠ざかりました。だから彼女の歌は、歌っていない所まで掘り下げないと分からないのかもしれない。しかしそれでは、囲碁の対局で1手目から長考して参りましたと投了するようなもので、本人以外は盤面からは何も知ることができません。芸術の鑑賞者側の共有性が希薄になります。蓮月はむしろその生き方自体が作品になったのでした。
杉本秀太郎氏は彼が所有している蓮月作のへちま型の花生けをこのように評しています。この花生けには次の歌が彫られています。
「露とやどり 蝶とむつれてをりをりの 花のいろかにあくよしもかな」
つまり「夜は露とともに野にあり、昼は蝶と親しんで、四季折々の花々に飽きることもなくこの世を過ごせるものであれば、どれほど幸せであろうか」と、手折った花を生ける器にあるということは、花瓶が花瓶の用途を否定しているということです。手折った花を生けるより、自然の中に遊びに行ってはいかがですか、と呼びかけている花瓶に花を挿すことはできません。
この花生けを毎日見て暮らしたらどうでしょうか。たとえ外界と完全に遮断された牢獄の中であっても、風や光や草花のかぐわしさを感じることができるのではないでしょうか。ここから先の解釈は、もう言葉の外です。心と心の対話、しかもひとつは自分の心として、もうひとつがどの心であるかは融通無碍、あなた次第でしょう。
京都時代祭のパレードで、毎年10月に蓮月が歩きます。それは若き日の姿、人生の長さの4分の1も行かない頃の初々しい姿です。しかしその真っ直ぐな姿勢は、生涯の姿でもあるようです。
(2013.4.2 榎本博康)
主な参考文献
- 杉本秀太郎:大田垣蓮月、淡交社 (1976.5) (1988年中公文庫として復刊)
- 成瀬慶子:大田垣蓮月、同文館 (1943.2) (1994年大空社より復刊)
- 寺井美奈子:蓮月、社会評論社 (2005.5) (注:小説)
- 磯田道史:無私の日本人、文藝春秋 (2012.10)
- 相馬御風:貞心と千代と蓮月、春秋社 (1930.2)
- http://kyoto-design.jp/special/jidaimatsuri (京都時代まつり)
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榎本博康(えのもとひろやす) プロフィール
榎本技術士オフィス所長、日本技術士会会員、NPO法人ITプロ技術者機構副会長 日立の電力事業本部系企業に設計、研究として30年少々勤務し、2002年から技術士事務所を横浜に開設して今日に至る。技術系では事故解析や技術評価等に従事する一方で、長年の東京都中小企業振興公社での業務経験を活かした企業支援を実施。著作は「あの会社はどうして伸びた、今から始めるIT経営」(経済産業調査会)等がある。趣味の一つはマラソンであり、その知見を活かした「走り読み文学探訪」という小説類をランニングの視点から描いたエッセイ集を上梓。所属学協会多数。 |
ビジネスのフレームワーク入門(第4回)
デジタルハリウッド大学大学院/NVD株式会社 松本英博
1.応用のフレームワークであるマトリクスを学ぼう
たくさんの応用が考えられる MECEを前回紹介 しましたが、今回はさらに、ビジネスで応用されるフレームワークを幾つか紹介しましょう。
マトリクス型のフレームワーク
マトリクスとは、簡単に言えば、2つの異なった切り口を2次元で示したものです。もちろん、2つ以上の切り口を考えて、もっと次元を増やすこともできますが、フレームワークを考える上で、シンプルで使い勝手を考えると2次元のものが多用されています。
2次元のマトリクスとは、イメージ的に行と列からなる表ですね。さて、マトリクス型で良く使われるフレームワークを紹介しましょう。
応用事例:プロダクト・ポートフォリオ・マネジメント(PPM)
プロダクト・ポートフォリオ・マネジメント(PPM)のフレームワークは投資を行う際の戦略を考える場合に使われます。つまり、具体的にどの事業に投資をすべきであるかを検討する場合です。それによって商品戦略も変えていくことになります。
PPMはMECEとは異なって、検討する切り口にダブリはありませんが、事業を分類する際に、対象となる商材をダブって入れることも許します。
マトリクスとなる切り口は、市場の成長率の高低と相対的なマーケットシェア(=業界の地位)の大小です。つまり、
- 市場成長率「高く」×相対的なマーケットシェア「小さい」:問題児
- 市場成長率「高く」×相対的なマーケットシェア「大きい」:花形
- 市場成長率「低く」×相対的なマーケットシェア「大きい」:金のなる木
- 市場成長率「低く」×相対的なマーケットシェア「小さい」:負け犬
において事業の状態をこれら4つの状態に分類します。これは、コンサルティング会社のボストンコンサルティンググループが投資の意思決定を行うフレームワークとして開発したもので、(1)から(4)に上記のようなニックネーム?を付けています。目安として、市場成長率は、米国で10%、日本では米国よりも市場成長率が低いため5%をとります。相対的なマーケットシェアは、業界1位が最も左側、業界2位以下は右側におき、業界1位は業界2位の売り上げを1として何倍かを計算します。
さて、自社の事業を上図のマトリクスに分類してみましょう。
PPMのフレームワークの便利さは、分析がこの分類のどこに事業が入るかで自動的にその特徴が分かることです。言い換えれば事業の現状把握を行うにはもってこいのフレームワークです。それぞれの特徴を述べると、
- 市場成長率「高く」×相対的なマーケットシェア「小さい」:問題児:売上が少ないのにお金がかかりすぎる
- 市場成長率「高く」×相対的なマーケットシェア「大きい」:花形:成長のために先行投資が莫大なので利益は低迷する
- 市場成長率「低く」×相対的なマーケットシェア「大きい」:金のなる木:花形から成長率が減り、先行投資が小さくなる
- 市場成長率「低く」×相対的なマーケットシェア「小さい」:負け犬:ほぼ勝敗が決した状態である
となります。以上から、問題児が花形になるには思い切った先行投資が必要ですが、挽回のチャンスはあるとも言えます。一方、負け犬は、成長率が低いため挽回が極めて困難といえます。従って、投資すべきは、金のなる木と問題児の事業と商材となります。
2.フレームワークの利点と欠点
PPMのフレームワークと同様に、マトリクス型のフレームワークとして米ゼネラル・エレクトリック(GE)が長年使ってきた事業への投資判断をより精緻に判断するフレームワークあります。実は、GEのフレームワークは2つあります。PPMのフレームワークでつかったマトリクス型とMECEの2つのフレームワークです。GEでは、この2つを段階的に使った、いわば2段構えのフレームワークです。
- 1段目:事業の成長を考えるMECEのフレームワーク
- 2段目:業界の魅力度×自社の強さのマトリクス型フレームワーク
を使います。
1段目:「再建」、「売却」、「撤退」を選択します。
これは事業を抜本的に見直すためのフレームワークで択一です。
「再建」なら、業界一位を目指して取り組むことで黒字化は当然と考えるもので、業界一位になれないなら、「売却」か「撤退」を選びます。売却の対象となる事業は、黒字の事業にも適用します。収益が上がっていても業界一位になれないなら、シビアですが、高く売れる今こそ、売却するというものです。撤退は赤字の事業の場合で赤字のたれ流しを早期に食い止めるために事業撤退を決めるものです。
2段目:「業界の魅力度」×「自社の強さ」をそれぞれ大中小の3分類して9個の領域に分類します。
これは現状の事業の状態を9つの状態に分析することになります。例えば、事業の魅力度が大で、自社の強さも大であれば、「再建」を前提として優位死守を決定するのです。反対に業界の魅力度が小さく、自社の強さも小さいならば、売却か撤退を考えます。
実際、この2つのフレームワークは、CEOとして著名なジャック・ウェルチ氏が、事業の日本でのテレビ事業を撤退する際に利用したと言われています。
ここで注意事項として、PPMでもGEのフレームワークでも、分類によって分析される事柄が自動的であることから、その判定を分析の結果から見てしまうことで失敗することです。つまり、負け犬として分類されないように、成長率の判断のパーセンテージを甘く見たり、マーケットシェアも事業ではなく、一部の商材の優位性をもってきたりするといったことです。あくまでも客観的な分析を行うことが前提です。
次に注意が必要なことは、判断がどちらにもならない中間的な位置付けになった時の取り扱いです。例えば、相対的なマーケットシェアが3位であるというのは、これからの傾向として上昇なのか下降なのかといった予想も必要です。その傾向によって判断しなければなりません。
さて、皆さんも今回のマトリクス型フレームワークを活用して、自社の事業を整理してみてください。次回は、手順や変化と言った時間的な経過を含むフレームワークについて解説します。
※発想や創造に関する「創造方程式」による発想のトレーニングがしたいというなら、参考に拙著「ヒット商品を生み出すネタ出し練習帳」をどうぞ。
次回の予告
次回は、「応用のフレームワーク(2):時間的な経過」で、マーケティング戦略を考えてみましょう。
松本英博 プロフィール
松本 英博(まつもと ひでひろ) デジタルハリウッド大学大学院 専任教授/NVD株式会社 代表取締役 京都府出身。18年にわたりNECに勤務。同社のパーソナルメディア開発本部で、MPEG1でのマルチメディア技術の開発と国際標準化と日本工業規格 (JIS)化を行い、MIT(マサチューセッツ工科大学)メディアラボで画像圧縮技術を習得のため留学。帰国後、ネットワークス開発研究所ではWAPや i-モードなどの無線インターネットアクセス技術の応用製品の開発と国際標準化を技術マネジャーとして指揮。 NEC退社後、ベンチャー投資会社ネオテニーにおいて大企業の新規事業開発支援、社内ベンチャーの事業化支援を行い、2002年9月にネオテニーから分離独立し、NVD株式会社(旧ネオテニーベンチャー開発)を設立、代表取締役に就任。大手企業の新規事業開発・社内ベンチャー育成などのコンサルティング 実績を持つ。 IEEE(米国電子工学学会)会員、MIT日本人会会員。神奈川県商工労働部新産業ベンチャー事業認定委員、デジタルハリウッド大学大学院 専任教授、現在に至る。 |
2013年4月 三ツ池だより 「横浜は近代化の先頭を走っている」
新幹線で戻る車中に”三島”のアナウスがあった。ひかり号だと三島の次は新横浜になり、箱根にむかう人はここで降りる。熱海駅を通過する頃、景色は桜かすみのように、少しおぼろで、もやっとしていた。私は車内販売の珈琲を飲んでいた。”横濱珈琲物語”、”横浜南京町通り”の文字をカップに見ることができた。南京町は1859年(安政6年))横浜が開港され、7年後外国人居留地が造成された時に始まる。
江戸時代は宿場とされた神奈川宿、程ヶ谷宿(保土ヶ谷宿)、戸塚宿を中心に発展した。特に、神奈川湊を持つ神奈川宿が江戸湾(東京湾)内海交通の要衝の一つとして栄えた。一方六浦湊は、歌川広重が金沢八景を浮世絵としたように、風光明媚な景勝地としての色合いを濃くしていった。なお、江戸時代末期までの横浜村は、前出二つの湊とは対照的に、戸数わずか100戸足らずの半農半漁の寒村であったという。
横浜村の運命を一変させたのは、当時国交を持たなかったアメリカのマシュー・ペリー率いる黒船の来航であった。太平洋航路の拠点として、また、捕鯨の際の供給基地として日本の港を利用することを望んだ。アメリカ海軍の黒船一行は六浦藩小柴村沖(現在の金沢区八景島周辺)に無許可のまま2か月間居座り、幕府の対応を待った。その後に横浜沖へと進み入り、その後幕府は横浜村に設営した応接所で外交交渉を行った。交渉の結果1854年(安政元年)に横浜村で日米和親条約が締結され、1858年(安政5年)には神奈川沖・小柴(現・八景島周辺)で日米修好通商条約が締結された。この通商条約に「神奈川」を開港するよう定めたことが、横浜の都市開発の発端となった。幕府は、東海道に直結し当時既に栄えていた神奈川湊を避け、外国人居留地を遠ざけるため、対岸の横浜村を「神奈川在横浜」と称して開港地とした。(出典ウィキペディアから)
その横浜が今その当時には想像できなく発展している。近年の”みなと未来”の開発当時などは、当時の横浜市長の失政と言われるばかりの状態があった。それがどうだろう今や大歓迎の態である。さらには赤レンガ倉庫から横浜港への夜の景色のポイントは絶景である。その横浜の港近くの山下公園は、関東大震災の瓦礫を埋めてつくられている。私はそのことを数年前に友人の横浜案内人の方から聞かされ驚いたのだった。横浜も様々な歴史を刻んで今がある。
横浜村には、短期間で居留地、深谷市在の笹井万太郎により波止場、運上所(税関)など国際港の体裁が整えられた。安政6年6月2日(新暦1859年7月1日)に横浜港は開港した。横浜市では、6月2日を開港記念日としている
さて私の20年前の俳句につぎのような句がある、
四月はスタートの時である。「聞き出そう!考えよう!結集しよう!」全員が営業になろう!と呼びかけた。情報を届ける。情報を聞き出す。それは営業的な仕事であるからだ。話を聞いてもらえる、話を聞きだしていく。
見て聞いて、この四月を大切に過ごしていきたい。そしてどれもが物語になってくる。今一度横浜を歩きながら物語の構想を練るにもいい時である。
Photos
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(文・写真:横須賀 健治)
横須賀 健治プロフィール
メジャーテックツルミ 代表取締役
はかることのプロとして50年です。
食品の放射能測定のアークメジャーを設立しました。
「計量から見える幸せ」をライフワークにしています。
書評 「禅が教える人生の答え」 PHP新書 枡野俊明 著
慌ただしくしている時にこの本を手にとった。突然背中を押されたような気がした。それは励ましというのではない。大きな目当てを持っているかと問いかけられているようだった。 「自然の中に佇むと、私はいつも自分が生かされている存在であることを実感します。私たち人間の意志や意図に関係なく、季節は移り変わっていく。どんなに物事がうまくいかない時にも、そんなことはたいしたことではないとでもいわれているかのように、草木は生い茂り、花々が咲き誇ります。」さらには形から入るという項で次のように話されます。「朝起きたままの格好で、パジャマ姿で仕事場に行ったとしたら、はたして仕事に集中できるか。おそらくはだらだらとした無為な時間が増えるような気がします。」朝起きて朝の坐禅を組む時、おつとめをする時には、きちんとした衣に着替え、境内の掃除をする時、通常作務衣と呼ばれる服をきると話されます。 |
庭園造りをする時のことです。「私が一つの石の据える場所を指示する。どうしてその位置にしたのか。それを言葉で説明するのは難しい。ですから弟子たちは、そこに据えられた意味を自分で考えなければなりません。石が一番心地よいと思う位置はどこなのか。石心と必死になって向き合う訳です。その一つの石に一瞬、太陽の陽ざしがてりつけるとしましょう。その美しい一瞬を、私は頭の中に思い描きながら据える場所を決めている。」
著者は横浜市鶴見区にある建功寺の住職さんである。庭園デザイナーであり、多摩美術大の教授である。玉川大学農学部卒業後、大本山総持寺で修業を積まれている。私は毎週の日曜坐禅でお世話になっている。
自分と出会う旅に出かけるのに、遅すぎることはないという項がある。
「子どもが生き方に迷った時、親は自分自身の人生を語ることです。自分がすきだったこと。自分がやりたいと思っていたこと。それを諦めてしまった時のこと。自分が得意だったこと。絶対にやりたくないと思った仕事のこと。そんな人生経験を話してあげてください。その親の言葉の中にこそ、子どもの生きるヒントがたくさん隠されているのです。失敗した時の恥ずかしい経験や、成功した時の涙が出るほどの嬉しさ。子どもは両親の生きてきた道を知ることで、自分自身の中に確かに存在する何かを見つけるものです。」自分とは何か、自分の人生とは何か、模索の時には自分の育った故郷へ足を向けてみることです、と話される。この年になって私はあらためて思い出すことがある。育ったところにある実家のお墓参りをした時だった。小川があって、そこで泳ぐような水遊びをしていて、お袋に悲しそうな顔をされたこと、お風呂をもらいに行っての帰り道で蛍を捕まえたこと等…。
小さな満足のかけらを積み重ねるの項では継ぎのように話されます。
「過去・現在・未来という言葉があります。これを三世といいます。禅の世界においては、その中でなによりも現在を重視しています。もっというなら現在しか考えない。過去を振り返っても仕方がないし、来てもいない未来のことなど知る由もない。ただ、今という時間の中にこそ、人生はあるのだという考え方です。禅の言葉でいえば而今(にこん)がそれです。ニ度と帰ってこない今という時間を大切に生ききることを説いたものです。」
今をどう生きるかを考えさせられます。「道は間違えたのならば、引き返せばいい」といいます。間違えた道をただ続けていませんか?間違えたことを知らずにいませんか?厳しい指摘ではある。一歩考えを進めてみれば、難しく考えずに引き返せばいいといわれます。「絶望を受け入れてこそ、希望の光が灯る」とも。肩の力を抜いて歩き直すことなら出来そうな気がしてきました。
(文:横須賀 健治)
「横浜売れるモノづくり研究会特別セミナー」を開催しました
「横浜売れるモノづくり研究会特別セミナー」を開催しました
2011年1月に設立した「横浜売れるモノづくり研究会」の10回目となる特別セミナーを公益財団法人 横浜企業経営支援財団(IDEC)と共催で、3月7日に横浜情報文化センターの情文ホールで開催いたしました。
おかげさまで130名の皆様にご参加いただきまして大盛況でした。
基調講演をしていただいたJAXA(宇宙航空研究開発機構)宇宙科学研究所の阪本成一先生は、「顔よし、頭よし、体よし(?)」に加えてお話しがとても楽しい「話よし」の方で、参加者一同感嘆しきりでした。
事例報告の神奈川県の製造業三社の社長は、それぞれ個性的でさすがオンリーワンの技術を開発する方々だと納得させられました。「全日本製造業コマ大戦」の映像には迫力がありましたね。
展示スペースでは、コマ大戦の実演等も行われ、出展者に熱心に質問する参加者が大勢みられました。
情文センターの1階のレストランで開催された交流懇親会は、立錐の余地もないくらい人で溢れておりました。
参加者のアンケートも概ね好評で、またやってほしいという意見が多かったです。
計画から3ヵ月・・・運営スタッフは大変でしたが、皆様のお役に立てるセミナーを開催することができたと自負しております。
特別セミナーの様子は下記をご覧ください。
http://www.monoken.net/seminar/seminar10.html
横浜売れるモノづくり研究会の分科会が始まっています
第9回セミナーでお話いただいた株式会社バイオクロマトの木下社長が、自ら学んで実践して結果を残した「管理ノウハウ」を多くの方に伝えていきたいという想いで「笑顔経営ワークショップ」を始めました。
このセミナーは、参加者同士でディスカッションしながら、自らの問題点を「気づき」「改善」して経営に生かしてもらおうというセミナーです。
自社を「笑いがあふれる」会社にしたい皆様、是非ご参加ください。
笑顔経営ワークショップの様子は下記をご覧ください。
http://www.monoken.net/egao-keiei/
~あなたの会社の「価値ある最終生産物」を創り出そう~
講師:木下一真 氏(株式会社バイオクロマト)
日時:4月16日(火)18時30分~21時
場所:横浜 関内 さくらWorks 会議室
http://yokohamalab.jp/sakuraworks
「売れるモノづくり」についてのご相談を承ります
いいモノを作ってもなかなか売れない・・・
製造業の方々からそんな悩みをよく耳にします。
どんなに良い製品でも、市場に受け入れられなければ「モノ」で終わってしまいます。
「横浜売れるモノづくり研究会」は、神奈川県在住の企業支援の専門家やITの専門家など多種多彩なメンバーで構成されています。
「横浜売れるモノづくり研究会」では、「製品の売り方をどうしたらいいか」
という企業のご相談を随時受け付けています。
毎月一回第二木曜日には、ご相談される企業と専門家が面談を行っています。
売れるモノづくりについてのご相談はこちらにご入力下さい。
https://www.supportyou.jp/monoken/form/2/
<問合先>
横浜売れるモノづくり研究会 事務局
(株式会社ともクリエーションズ内)
〒231-0004
横浜市中区元浜町3-21-2 ヘリオス関内ビル4階
TEL 045-226-3475 FAX 045-226-3476
メディア掲載情報
- 2012年2月20日 神奈川新聞 横浜売れるモノづくり研究会代表・猪狩惇夫の記事が掲載されました
- 2011年11月11日 日本経済新聞 「この企業ここがポイント」内に横浜売れるモノづくり研究会についての記事が掲載されました
- 2011年11月9日 日刊工業新聞 「横浜売れるモノづくり研究会」活動の輪広がり100人規模目指す
- 2011年6月6日 「売れるものづくり」をどう実現するのか―「横浜売れるモノづくり研究会」の取り組み
- 2011年1月21日 ヨコハマ経済新聞
横浜で「売れるモノづくり研究会」が発足-中小企業を支援 - 2011年1月19日 カナロコ — 神奈川新聞社
売れるモノづくり研究会発足へ、中小製造業をコンサルらが支援
第3回 オー・マイ・モトマチ・ライフ
皆様に知られている横浜の歴史はまだ浅く、154年前の開港時からは大変興味深いものが町に残っています。
それで今回は桜と共にモトマチの歴史散策をして参りましょう ♣
私が知られざるスポットへとご案内致しますので、しばしお付き合い下さいませ ♥
元町の東の入り口、谷戸橋のたもとに「シドモア桜」と呼ばれる一本の桜の木が佇んでいます。 |
シドモア桜を観た後は、こちら河岸通りを歩いて前田橋(手前)まで桜並木を歩きます。 |
「横浜緋桜」-金沢兼六園のケンロクエンクマガイという桜と沖縄に咲く緋桜の配合による新種の桜です。 |
そして今は昔、朱雀門から前田橋を渡り元町へ入ると、突き当たりにこのような光景が広がっていました。 |
百段階段がなくなったので、浅間山へ行くには代官坂の歯医者さん横の階段を上ります。 |
階段を上りきってすぐ、今は「元町百段公園」と名を変えた山の頂上にたどり着きます。 |
そしてこちらが百段公園の眺めです。遠くにランドマークタワーが見えますね。 |
百段公園から住宅街を抜けると山手通り。そのすぐ下は、元町に下る汐汲み坂です。お隣にはフェリスホールも見えています。 |
そして元町へと戻る散歩道、山手の素敵なお宅の猫ちゃんは紐に繋がれながらもパフォーマンスを見せてくれます ♣ |
また百段公園の前を通り過ぎ、高田坂まで戻ると外国人墓地の山桜が目の前に ♣ |
レポーター プロフィール
Yuu Adachi Gallery1223 あいお☆らいと代表 |
春のイベントシーズン!そして新しいことが始まりそう!?
春のイベントシーズン到来
季節も良くなり、今年も春のイベントシーズンの到来です。私たち保土ヶ谷宿名物会も、4月8日(月)の花まつりを皮切りに、横浜FC主催の保土ヶ谷区民Day(5月12日(日))、ほどがや花フェスタ(5月18日(土))など、毎年恒例のイベントの他、現在企画中の新規のイベントにも幾つか出店させていただく予定となっています。 その中の一つに、『東海道市(いち)』(仮称)があります。保土ヶ谷宿名物会のメンバーでもある桑名屋の近藤さんを筆頭に、保土ヶ谷区、ほどがや 人・まち・文化振興会、横浜商工会議所など、関係者一同が東海道保土ヶ谷宿の名物イベントになることを目指し盛り上がっています。 伝説のイベントのリメイク(?)保土ヶ谷には明治時代からの恒例で、旧東海道筋で毎年12月28日に『神戸市(ごうどいち)』という市が行われていました。 市では、神棚飾り・松飾り・餅・凧・コマ・羽子板などの正月用品を中心に、古本・衣類・綿飴など、数多くの品々が並び、たくさんの人でとても賑わったそうです。 |
(クリックで拡大画像) |
残念ながら、神戸市は戦争の影響で衰退し、盛大さを取り戻すことなくやがて時代の流れの中で消失していったそうです。
現在企画している『東海道市(いち)』(仮称)は、規模こそ神戸市のような大きなものではありませんが、「地元の良いモノを発信する」というコンセプトで、保土ヶ谷の農産物や名物会をはじめとする地域で長く愛されている商品を集め、地域の人たちに地域の魅力を伝えていきます。
第1回は6月2日(日)10時~12時の開催予定です。保土ヶ谷宿名物会も是非、この企画に関わっていければと思います。
「坂」を活かした新企画
保土ヶ谷宿名物会の会合では、毎回、今後の活動内容や各店の商品企画、販促企画についてアイデア出しをしています。アイデア出しと言っても、本当に自由で無責任で言いっぱなしな雑談のようなものが殆どです。
そんな中、前回の会合では、今後、継続的な議論になりそうな「ネタ」が幾つか出てきました。その中の一つが「坂」を活かした販促企画。保土ヶ谷と言えば「坂」。そして保土ヶ谷宿の坂と言えば、やはり「権太坂」。坂と言えば連想するのは「キツイ」「苦しい」「面倒くさい」「不便」「避けたい」というネガティブなイメージが殆どではないでしょうか?
実はこのネガティブがキーワードで、現在、各地で盛り上がっているイベントや町おこしも、「電車が1日数本しか走っていない町」「おばあちゃんしかいない町」「全然、人がいない商店街」など、ネガティブを前面に出すことで、返って盛り上がっている事例が多々あるそうです。
権太坂も、宿場の時代は「江戸を発って最初の難所」と言われていたそうですが、坂の上から見える富士山は葛飾北斎の「富嶽三十六景」に描かれていますし、その先の尾根道は「境木立場」として多くの茶屋で賑わいました。
【参照】境木立場(Wikipediaより)
http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/2/2d/Hodogaya_on_the_Tokaido.jpg
つまり、上り切らなければ見えない景色があったり、上り切ったことの達成感や満足感のようなものが「坂」には隠されているのでしょう。一体、どんなことが始まるのか?現時点ではテーマだけですが、今後の企画にご期待ください。
保土ヶ谷宿名物会HP誕生
全く作り込んでいませんが、保土ヶ谷宿名物会のホームページが誕生しました。現在は、各店の連絡先が掲載されている程度ですが、今後、各店のプロフィールや看板商品など、少しずつ少しずつ、コンテンツを増やしていく予定です。よろしければ、時々ご覧になっていただければと思います。
保土ヶ谷宿名物会HP http://hodogaya-jyuku.jimdo.com/
レポーター プロフィール
山田浩和(やまだひろかず/Yamada,Hirokazu)
合資会社 笑う門 代表社員
保土ケ谷宿名物会事務局
1971年8月生まれ。獅子座のO型。保土ケ谷生まれの保土ケ谷育ち。
2003年、合資会社「笑う門」を設立。<オンリーワンの価値創り>のお手伝い。
会社設立時に制作したミニコミ誌がきっかけとなり、保土ケ谷のまちづくりにドハマリ。
現在、歴史や地産地消など、地域資源を活かしたまちづくりに幅広く取り組んでいる。
合資会社 笑う門 http://www.warau-kado.com
各社・各店・各個人が持つ十人十色・百人百色の目に見えない財産(経験・体験・知識・技術・ノウハウ・アイデア等)を活かした販売促進企画・商店街活性・まちづくりを推進しています。
業務内容 :
●シンボル制作
ネーミング / シンボルマーク / ロゴマーク / キャラクター企画・制作
●広報(コミュニケーション)媒体制作
・簡易版会社案内(A4版三つ折り)制作
・ニュースレター(A4版)制作
その他、フライヤー / ポスター / 小冊子 / 名刺 / のぼり旗 / エコバッグ / ユニフォーム、など
ヨコハマNOW掲載情報
『ファンネルマークってご存知ですか?』それは、船の煙突に付いているマークのことです。例を上げると、皆さんよくご存知の氷川丸のファンネルマークは “赤の二引” です。 そうです、氷川丸の黒い煙突の真ん中が白く塗られ赤い二本の線が引かれているのが、ファンネルマークです。 |
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日本郵船の社旗も “白地に赤の二引” です。社章も白地に二引の線がはためいているバッジです。裏には通し番号が添られていて無くす事は許されません、退職の折に会社に返却いたします。それほど大切なバッジですから、ほとんどの社員は失くさないように大切にしまっています。
煙突で船会社が分かります
船は煙突を見ると所属している会社や組織が分かります。三井商船は真っ赤な(ちょっと朱に近い)色の煙突です。川崎汽船は “K” の文字が付いてます。
三井船舶は以前大阪商船と合併した頃には赤の三本線(三井家の三を表した)ファンネルマークも運行されていたのですが今はなくなったようです。でも、結構、国内航路の会社が真似をして三井とは関係のない会社が三本線にアルファベットをつけてファンネルマークにしているのを見かけます。
二引もそうですが、グループではない会社が真似たファンネルマークを付けているのをよく見かけます。昭和の時代の憧れへの名残ですね。
このファンネルマークで歴史が結構分かります。皆さん宜しければ是非、国際航路を航行している会社のファンネルマークやその会社の歴史を調べてみてください。結構凄い歴史がありますよ。
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2013年4月20日(土)開催 日本郵船歴史博物館 http://www.nyk.com/rekishi/index.htm |
水夫の話は『話半分』?!
終戦の頃、現役で乗船なさっていた船員さんが『船は全部沈んでしまって、乗る船がない! 会社も給料を払うにも現金がない! そこで、会社が支払った給料が現物支給だった。船に積み込むはずだった石炭を、街に一輪車で持って行って、コメや食べるものと交換してきた』と、懐かしそうに、楽しそうに話してくれました。酒がすすむほどに、話も悦に入ってきて、色々な逸話で楽しませてくれました。 そうそう、船乗りさんの話は話半分が丁度です。 『えっ?!』って・・・では、お酒を飲みながら聞いた話の一例をお話ししましょう。 『船でワッチ(当直)に入っていた時、海面が黒く影の様になったので、よ~くその形を見たらエイだった!その大きさは6畳ほど。船の横を泳いでいた!』とか・・・『デリック(甲板に備え付けられているクレーン)を釣り竿にして流し釣りをした』なぁんてねぇ。6畳は話半分として3畳くらいで丁度でしょうか?!(笑) |
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皆さん楽しそうにお酒を召し上がる方々です。酒席で暗い方にお会いした覚えがないです。「只、強い!とても強い!」のです。「お酒が!」
神戸支店でのお話
私が神戸支店に入社した頃、5時になると副支店長や部長各セクションの課長や室長の机の一番下の引出しから(そうそう一番大きな引出しですウイスキーボトルを立てる事が出来る引出しです)から日本酒やウイスキー・ウゾ・テキーラ(何でもありです)が出て来ます。
書類を持って行くと先ず一杯です。呑まないと書類受け取ってもらえないです。打ち合わせも各課の課長の横にある応接セットで呑みながらです。来客も一緒に飲んでます。とても良い社風の会社でした。『昭和』だからでしょうかね。
このテンポだと結構面白いアイデア出てきます。皆が枠を超えて、手を繋いで考えているので、先輩たちが、面白い見方や社会の仕組みなどを話してくださいました。
ある時、副支店長と飲んでいた時、『おい、佐々木! 会社に食わして貰おうなんて思うな。会社には遊びに来い。自分の食い扶持は自分で考えろ!』です。凄い会社です。
横浜港の『F』の電光掲示を見たことがありますか?
船舶通行信号ってご存知ですか? そうそう赤レンガや大桟橋からひょっと横を見ると『F』や『O』『I』『X』が点滅している奴です。これは、F=free O=out I=in X=港長が指定した船以外航行ダメ!って意味です。
「何がダメ?」
横浜港の場合。
『F』15000t(油槽船は1000t)以下の船は入出港自由!という意味です。この15000t(油槽船1000t)の事を管制船と呼びます。その大きさ、時に危険物を積載しているので、船は小回りが利かないですから、安全運航に気を付ける意味があります。『船は急に止まれない!』のです。船にブレーキはないのですから(笑)
『I』は500t以上の船舶は、入港は良いが出航はダメ!です。「何故か?」って・・それは、15000t以上の大きな船が入港してくるので、『同じ方向を向いた航行は安全だから良いが、対航船はぶつかる危険があるからダメ!』なのです。
『O』は15000t以上の船が「出航するぞ~」って意味です。だから小さな船舶は、『出航は良いが入港はダメだぞ~!』って意味なのです。
『X』は『管制船以外入出港ダメ!』って意味です。解り易いでしょ!
この15000tは横浜港のルールで、東京港等は5000t以上だったと思います。港の間口の大きさ(笑)等で決まって来ます。日本の第一級港のルールを調べてみるのもちょっと通かも?!
ちなみに、日本の国際港の内第一級港は東京・横浜・名古屋・四日市・大阪・神戸です。その次に博多・北九州・下関が続きます。
横幅が問題になります。(もちろん船のことですよ!)
それから、船の横幅で大切なことがあります。これは、パナマックス(Panamamax)と呼ばれる造船する時のルールです。何かというと、パナマ運河を航行したければパナマ運河の幅が45mですから船舶の幅は38m迄しか運河には入れない決まりなのです。
パナマ運河を航行出来ないと、横浜港から大西洋岸のニューヨークに行きたい場合、大きく南下してアルゼンチン沖南極大陸に近い所を廻るか、アフリカ紅海を目指して地中海に入り、それから大西洋に向かうかのどちらかになります。
どちらも日数が掛り、非常に費用が掛る事になりますから、一般の貨物船やお急ぎの船は、パナマ運河経由がお得です。そのため、船幅を38mにして造船します。
横浜港を元気に!
最後にworldwideになってきた昨今、日本の港の『輸出入取扱い量』がとても低下しています。日本の周りの国の政策を見てみますと、港の貨物取扱量が増加している『勝ち組』にシンガポール・釜山・香港等が挙げられます。これらの港は、自国での消費の為の貨物取扱では無く、トランジットなのです。
例を挙げます。スペイン・マドリッドの鞄屋さん(loewe)が、far east(極東)に商品を大量に運び顧客を増やそうと、地中海からアシアの各店舗にカバンを送ったとします。マドリッドからはまとめてコンテナーで送り、ハブ港で仕分けして、アシアの各店舗に小分け発送する場合、シンガポールや釜山・香港で一旦貨物を上陸させ、仕分けして再度発送します。
それで取扱量が増え港は活気を増すのです。
各国では、利便性を考えた港作りをして、船や荷主に対してのサービスに工夫をしてきました。(入港税やトランジット貨物に対しての免税処置等)このworldwide serviceに対して、日本の政策はかなり遅れを取り、港の貨物取り扱い収益はどんどん下がってきています。(日本の港は入港するだけでも経費が高いからや~めた)って具合です。
昨年4月、洋上大学船エキスプローラー号が横浜に入港した時の大桟橋
日本の水は美味しくて痛まないからと、昔は神戸に入港する船は、入港前に水を全て捨てて神戸の水を積んだものでした。横浜の水もとても品質が良いのですが、あまり有名ではありません。
色々な観点からの工夫が重要に成って来ています。横浜は赤レンガやみなとみらい地区・元町等が有りますので、これらを生かした観光立国としての政策も大切な要素に成って来ています。
『なんとか横浜を元気にしなくては。』
佐々木彬文画伯と茶懐石料理を作りませんか?
日本画家であり茶道講師である佐々木先生と茶懐石料理を1~3品作り、楽しくおしゃべりをしながらいただきます。会話の中から「日本文化」の良さに気づいていく教室です。女性の参加者が多い教室ですが、男性も大歓迎です。
(お問合せ/お申込み:http://www.ikiiki-club.jp/)
佐々木彬文プロフィール
日本画家(彬文会主宰)
茶道講師(裏千家 佐々木宗秀)
クラッシックギター演奏者
文・絵:佐々木彬文(日本画家・裏千家茶道講師)/構成:高野慈子
第2回 こだわりの生産者。神奈川区羽沢の平本貴広さん
「羽沢育ち」の野菜を全国に広める。
いつもありがとうございます、ど根性ホルモンの椿です。今回は神奈川区羽沢地区で農業をされている平本貴広さんを取り上げて第2回のコラムとさせていただきます。
平本さんはアメリカで農業研修を経験されてからの就農という事もあり、考え方がかなり柔軟です。地元の農家仲間で「羽沢育ち」というブランド野菜を立上げたり、市場出荷中心から直売中心に切り替えたりと、多岐に渡り活躍されています。 彼とは生産者と料理人という仕事上の関係以上に友人のような間柄です。そんな彼は本当に前向き過ぎるくらい前向きです。仕事上、私が様々な無理難題の依頼をしても必ず笑顔で「いいっすよ!やりましょう!」と返してくれます。 |
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つい先日も横浜市内の児童養護施設へボランティアで料理を作りに行く私に「ウチの野菜を提供しようか?」と言って下さり、そして、その場に一緒に来てくれました。
美味しい安全な野菜を “作る” “売る” “広める” という「農業」の仕事からさらに一歩進んで食文化の継承や、人と人とのつながりなどを重んじているんです。だから一緒にいると楽しいし、仕事もやりやすいし、これからも彼と行動していきたいと思っています。
彼が作る野菜の特長は、キャベツ、人参などオーソドックスな野菜も当然作っていますが、それ以上にも見た目もキレイで珍しい野菜などにもチャレンジしています。とかく見た目の派手さに意識がいきがちですが、味も本当に素晴らしいんです。
去年の夏、彼の育てた「島オクラ」がど根性ホルモンで大ヒットしました。長~くしてから収穫したオクラなので、普通は硬くてアクが強くなるのですが、彼のオクラは何と生食しても柔らかく、そして味も濃いんです。本人は、たまたまだ、なんて謙遜していますが、目には見えない努力や工夫など、試行錯誤を重ねているんだと思います。
そして、もうすぐ彼らの「はさわ」ブランドのキャベツとやまゆりポークを使用して開発した「横濱餃子」を販売スタートします。
彼らの地元「羽沢育ち」の名を全国に広めるため、その「横濱餃子」がお手伝い出来れば、私としてもこんなに誇らしい事はありません。
これからも、さらに新しい珍しい野菜を作るチャレンジを続けつつ、共に次世代に食文化の大切さを伝え続けたいと思います。
(文筆:椿 直樹)
レポーター・プロフィール
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第11回 目利きのプロに相談したくないですか?
有限会社 鈴木アトリエ一級建築士事務所
鈴木信弘
私が生まれたのは、ちょうど東京オリンピックの準備で世の中が活気づいていた1963年。
映画「ALWAYS/3丁目の夕日」と同じ頃です。
映画の中でも登場する、リアカーを引く氷売りのおじさんは確かにいたし、洗濯機は2層式で脱水層の右には絞り機がついていましたね。それから昭和の暮らしといえば、毎朝牛乳がポストの上に置かれ、夕方には酒屋さんがプラッシーとビールのケースを交換に来たし、クリーニング屋のお兄さんも毎度洗濯物を届けてくれていました。そうそう思えば、住まいに関してもいろんな人が家に関わってくれていました。季節の変わり目には植木屋さんが庭の枝の手入れに来てくれたし、襖を直しにくる経師屋、棚を直しにくる大工、テレビの調子が悪いと電気屋、皆住んでいるのが近所だったのでしょう、ちょっとした時に寄ってくれて「そろそろ外壁を塗った方が良いね」とか、「最新の冷蔵庫は凄いよ?」とかいろんな面倒をちまちまと見てくれたし、情報も頂いたものです。
今ではすっかり横浜も様変わりしました。工場だった所は大型店舗のショッピングモールになり、幹線道路にはファミレスができ、駅前の小さな喫茶店や定食屋がなくなり、ドラッグストアと学習塾とファーストフード店ばかりになりましたし、家に出入りしていたご用聞きの職種の人たちもすっかりといなくなりました。牛乳屋さんは既に配達をやめ、酒屋さんもコンビニに代わり、クリーニング店は消え、昔の大工さんが亡くなって縁がなくなり、すっかりと生活のなかで関わる人の数が減ってきた気がします。
確かに、大型店舗やチェーン店は品物が均一で安定していて、価格も安く、いつでも手に入り、自動車で行けて便利です。世の中のサービスは私たちが求めたものなのでしょう、その結果が今の状況なのかもしれませんし、これからも大資本が残り、小さな業態はもっと淘汰されていくのかもしれません。
私個人においても知識や情報の入手方法はだいぶ変わりました。地元や地域とのつながりも薄くなり、話す機会も減り、近くで何かを頼む相手がいなくて、ついインターネットでいろんな情報を探してしまうのです。
でも、実は最初からネットで何かを探すのが好きだったのではないのです。身近な店舗や専門店に、きちんとした専門家、プロのアドバイスのできるひとが少なくなってきたから仕方がなくネットで探しているのです。
例えば、鍋を買うとします。使っていた鍋が駄目になり、買い替える時には、次は取手が木で根元の取り付けが云々、といろいろ素人料理人ならではの、ちょっとした希望を考えます。
店に出向いて展示されている鍋に希望の品物がない時には店員さんにその旨を伝えるのですが、「ここにあるものしか扱ってないです?。」の一言。
いやいや、そうではなくて、ほかに売っていそうな店を教えてくれたり、メーカーを教えてくれたりすればありがたいのだが、自分の店で買わないからなのか、店員さんがアルバイトなのか、知識もなさそうだし聞いても無駄だなと早々にこちらも退散。
しかたがなく自宅に戻りネットで調べたり、情報検索に走るのです。するとやっぱりありました。世の中は広い。自分の悩みを解決してくれるようなこだわりの理想の鍋が見つかるのです。
個人経営の専門店が生き残れず、目利きの専門家が少なくなり、平均化された商品や規格品で満ち溢れるこの頃。接客すらマニュアル化、効率化され、未経験者でも対応できるような即席の店が多すぎて、人件費を抑えるのには貢献しているけど、サービスの質って低下しているのではないかと思う。ちょっとしたこだわりや悩みをなかなか解決してくれないし、提供もしてくれない。はたまその道の目利きも減ってきていて、どこに行っても同じような店ばかり。本当のプロ店員が減っているのはかなり残念。
こんな経験ありませんか?
さて前置きが長くなりましたが、実はこれ、家をつくる、建てる時も全く同じだと思ったのです。上記の鍋屋と同じことが日常でよくあると思うのです。
住宅を建てようとするとき、たいがいの人が一度は行く住宅展示場。そこで見る、凄く大きな住宅の数々。地震にも強そうで、素敵な広いキッチンと豪華な設備にすっかり酔ってしまい、夢がふくらみ、笑顔のスーツ姿の担当者に予算と敷地を伝えると、一瞬で出来上がる我が家のプランが刷り込まれたカラーのパンフ。おお、早い!と感動して浮かれていると「今月中に契約してくれれば、食器洗浄機と床暖房はサービスですよ?!」と言われてビックリ。
すっかり舞い上がって帰宅し、冷静になってその夜に家族会議で考えてみる。すると、うーん、ちょっと変えてほしいなと思うところがでてきて、「ここは変えてほしいのですが」と尋ねる。たいがいは若い営業マンが接客しており、質問には半分くらいしか答えられないし、困り顔で「上に聞いてきます」と戻っていく。次には上司が一緒に来るのだが、怪訝そうな顔で「我社はそういう対応はできません!」とか、「オプションならできます」といわれ、そこだけ面倒くさいと言わんばかりのべらぼうに高い見積もりがでてくる。
マニュアル化された接客、カタログから選ぶ仕様、合理化と効率化のシステムには細かなことにはいちいち対応するつもりもないし、そもそも営業マンは設計のプロではないので、顧客の細かな要望に対しての答えなど最初から持っているはずがないのです。本来なら、その会社で作るかどうかを選択するのは正しいのですが、すでに片足突っ込んでしまっているために、気づいた時にはその店に陳列してある商品のなかから選ぶしかない。こんな状況が日常茶飯事だと思うのです。
本当はその道のプロに一度相談すべきなのです。
お金があろうがなかろうが、条件が悪かろうが、その内容に応じた本物のプロのアドバイスなら、見方も世界も広がるはずです。知らなかったことも教えてくれます。気づかなかった別の側面も見えてきます。物事の善し悪しを偏った目で見ずに、公平に考えてくれますし、無限の選択肢から、最も適切なものを一緒に探すのですから、依頼者が道を誤らずに済むのです。
そんな人を早くから見つけて、相談して家のことは任せられる、相談できる、アドバイスをもらえるようにしてくのが良いと思うのです。いわゆる、自分にとっての住まいに関するブレーンを雇うようなものです。
一般的に敷居の高いと思われている設計事務所とは、実ははそんな身近な存在だったりします。私たちは自分たちを建築や住宅のプロと自負しているからこそ、どこにも属さず独立しています。つまりそれぞれがこの道の「目利き」のプロであり、こだわりの店主達なのです。
しかし、ほとんどの方は私たちの存在も仕事の内容も知りませんし、一部の特殊な人たちが依頼する別世界の人間だと思われている気がするのです。
建築家のHPを見ていただけるとわかると思うのですが、掲載されているのは多くのお客様が私たちをブレーンとして雇ってくださり、建築に関して安心してくださっている事例が掲載されています。
あなたにもきっと相性のよいプロが存在します。
それが、新しい建築(住宅)との関わり方になると思うのです。
水テラスと名付けられたこの浴槽は、実はリビングの横にある。 |
家の中に坪のような部屋がある。なんじゃこれ!? |
リビングを半地下にして天井高さ3mを確保した家。 |
「暮らしを大切にデザインする」ギャラリーへ
横濱元町AA STUDIOは「暮らしを大切にデザインする」17名の建築家のギャラリーです。それぞれの建築家の模型・作品写真など自由にご覧になれます。
横濱元町代官坂の中腹にあるカフェのようなギャラリーで、週末は交替で建築家がお迎えいたします。(建築家と話そう!)ホームページのスケジュールに担当建築家が掲載されていますので、カフェに立ち寄る気分で横濱元町まで建築家とお話にいらしてください。お待ちしております。
なお5回ほど私が連載して参りましたが、今後はメンバーが交替で「新しい建築とのかかわり方」を綴りますので、変わらぬお付き合いでご愛読くださいますと幸いでございます。ありがとうございました。
AA STUDIO WEB http://www.aaplan.com/aastudio/
Craftman Shop Street Motomachi http://www.motomachi-cs.com/cm/shop/shop051
青木恵美子 | http://www.aaplan.com |
新井今日子 | http://www.arai1992.com |
伊藤 寛 | http://www.ito-kan.com |
岡田 勳 | http://www.kuukantoshi.co.jp |
荻津 郁夫 | http://www.o-as.co.jp |
神田 雅子 | |
北川 裕記 | http://www.aalab.com/kitagawa/ |
栗原 正明 | http://msak.asia |
河辺 近 | http://www.ken-ken-a.co.jp |
後藤 武 | http://www.gtaa.jp |
鈴木 信弘+洋子 | http://suzuki-atelier.com |
豊田 悟 | http://home.m07.itscom.net/toyoda/ |
中村 高淑 | http://www.unit-h.com |
藤本 幸充 | http://www.kamakobo.com |
松井 理美子 | http://www.matsui2ar.com |
水口 裕之 | http://homepage1.nifty.com/eau/ |
山口 賢 | http://www.amarterrance.com |
HEART&SOUL代表 原 正行 1958(昭和33)年9月7日横浜生まれ、12歳よりギターをはじめ17歳からミュージシャンとして活動。39歳の時に念願だったライブハウスを開業、現在は関内駅北口駅前に60年代から80年代の洋楽ヒット曲を演奏するライブハウス、ハート&ソウルの経営者。他にもミュージシャンとして演奏活動、作曲、プロデュース等、幅広く活動している。 |
第2章 フォークと日本語のロック その7 (日本のロック黎明期)
フォークブームも1段落した1974年頃、、神田川、心の旅、心もようとフォークが歌謡曲と同レベルで売上げを上げるようになるとフォークと歌謡界は接近していきます。メジャー系の会社からもチェリッシュ、ダカーポなどのフォークデュオ、アグネス・チャンや麻丘めぐみなどフォーク系アイドル、売れる曲調もフォーク的な曲が多くなってきて、いわゆる軟弱な感のするフォーク系ヒット曲が音楽業界を席巻していました。やがて作曲の依頼を受けた吉田拓郎が襟裳岬を森進一に書き大ヒットさせると、ほとんど垣根はなくなってしまったといえるでしょう。
博多 “照和”
そんな中で地方では独自の流れから新しいアーティストたちが生まれていきました。九州博多のライブハウス “照和”はアマチュアミュージシャンの登竜門。この年ヒットした「母に捧げるバラード」の海援隊もこの照和から出ました。他にもアンドレ・カンドレ時代の陽水、チューリップ、甲斐バンド、ロック系ではシーナ&ロケッツ、ザ・モッズ、ARBの石橋凌、長渕剛とそうそうたる顔ぶれ。
博多出身のミュージシャンはみんなここをめざしここに出演することが目標だったようです。一時営業をやめていたそうですが、最近はやっているそうでいまでも地元ミュージシャンの聖地的存在だそうです。
関西ブルーズ系
又この頃、関西では何があったか。高石ともや、岡林の関西フォークが中央の拓郎たちの影に隠れた感のあった関西の音楽シーンですが、底辺ではじわじわとうごめいている流れがありました。それはブルース。リズム&ブルースに心動かされた人達です。
ディランⅡ、憂歌団、上田正樹とサウストゥサウス、ウエストロードブルースバンドなど、骨太の飾り気のない素のままの感情を表現する彼らの活動は軟弱な傾向に進んでいた中央音楽界の正に真逆をいっていました。
横浜、街と風(青い日記) 7
入学
東横線で白楽か妙蓮寺から坂を上ると武相高校がありました。完全男子校で先生も殆ど男。1年生はA組からK組11クラス、商業科が2クラスで1学年で13クラスで1クラス50人位づつ。私のクラスの担任は、卓球部の顧問でこわもての体育会系。しかも生活指導担当で体格のがっしりした先生でした。最初の授業で学校の決まりごとを説明している時、何かしゃべってるつっぱり風のいかにも目立つヤツがいました、担任はつかつかと駆け寄り、立たせるかと思ったらいきなり顔面に腰の入った平手打ち。2メートル位吹っ飛びました。担任曰く、「いやならいつでも辞めていいんだぞ。大体1年位で2クラス分くらいはいなくなるからな。」 こりゃあえらい所に来ちゃったなって感じでした。
タイマン
チャイムが鳴って休み時間、教室の角々に同じ中学や地元で顔見知りだったワルどもが4~5人づつたむろしています。何階に何々中学の番(番長)張ってた誰々がいるとか話しています。そうこうしている内、同じ階の奥の方でいきなり喧嘩が始まり、どこそこの番と番とでタイマン(1対1の喧嘩)が始まったと情報が流れます。生活指導の先生が止めにきて収まりますが、こんな事がちょこちょこ起こりました。最初、名前が噂になってた連中はこれで殆どが退学処分、若しくは停学処分でした。校則は髪型もかなり厳しくて、朝、校門で生活指導の先生がチェック。耳にかぶるだけで職員室に連れて行かれ新聞紙の上に正座させられ、バリカンで丸坊主。服装も厳しくて当時スリッポンというペッタンコの革靴が流行っていて、黒い皮のひらひらのアクセサリーがついたヤツをみんなピッカピッカに磨いてはいていましたが、これが校則違反で目の前でひらひらのアクセサリーをブチッと引きちぎられてました。リーゼントで決めたやつも翌日の授業時間には丸坊主にジャージを着てどぶ掃除をしている姿を見かけます、停学処分です。そんな連中もやがてはやめて行き先生の予言どうり2年になる頃には2クラス分くらいの生徒が減っていました。
(HEART&SOUL代表 原 正行)
HEART&SOUL
〒231-0014 横浜市中区真砂町3-33 CERTE11階
営業時間
平日:OPEN 19:00 CLOSE 4:00 LIVE START 19:50~
休・祝日:OPEN 18:00 CLOSE 24:00 LIVE START 18:40~
TEL:045-664-5569
JR関内駅徒歩より1分
地下鉄関内駅より徒歩1分
Websie http://www.heartandsoul-live.com/
西海市立 松島小学校閉校コンサート
早苗ネネさん(左)にお礼の気持ちを込めて百人一首を読む児童ら。 長崎新聞 3月14日掲載記事 (クリックで表示) |
今月はちょっと趣向を変えて、最近とても心に染みた和歌うたコンサートのお話しをさせて頂きます。 今年の一月半ばころ、電子メールが届きました。私の和歌うたのCDアルバム “花のいろは” の購入注文でしたが、注文先は長崎県西海市立松島小学校。 校長先生がラジオからで流れていた私の「和歌うた」をお聞きになり、本校で取り組んでいる百人一首の勉強に活用したいとの教頭先生の添え書きがついてました。 |
早速、予備のCDを一枚加えて送ったのですが、数日後に校長先生からお礼のお手紙が届きました。その手紙には可愛い生徒たちの写真と共に、松島小学校が長崎県の西海市にある小さな離島にある小学校で、全校生徒は11名。今年の3月でとうとう閉校してしまう事が書かれていました。そして給食の時間に「花のいろは」のCDを流したところそれまでおしゃべりをしていた子供たちがハッと耳を澄ませて聞いてくれた事も。
私の中で1994年から4年間 東京都立八丈島定時制高校に通った時の記憶が蘇りました。八丈島は東京から300キロ南にある島です。17歳の高校2年の夏に休学届を出してからじゅん&ネネの仕事が忙しくなり、そのまま学業とは縁のない人生を送っていた私は44歳の時にもう一度勉強をしようとその時住んでいた八丈島の高校に入学しました。
夜間に通う一年生から四年生までの全校生徒を合わせても、はやはり11~2名だったと覚えています。体育の授業は全校生徒の合同授業でよくバレーボールをしていました。15歳から45歳の私を最年長に先生方まで参加してのアットホームなチームプレイ。4年間の定時制高校体験は私の人生にとっても貴重な思い出でした。その時の記憶がオーバーラップした事もあり、手紙を読んだ私は閉校する前に小学校を訪れて是非子供たちに「和歌うた」のコンサートをプレゼントしたいと思ったのです。その日のうちに校長先生からの手紙を和歌うた実行委員会へ送って事情を説明しました。
小学校側へ連絡して訪問したいと告げた所、学校側もとても喜んでくださり、スケジュールの調整をして頂いて、3月20日の閉校式よりも一週間前の3月12日にコンサートをする事に決まりました。それも校長先生の提案で「松島小学校閉校和歌うたコンサート」と名付けられて。
3月11日の夜に博多入りした私は元気いっぱい。12日の当日はよい天気で松島へのフェリーに乗って約15分。船着き場には教頭先生が待っていて下さいました。
松島は人口600人の小さな島。その島の一番高いところに小学校があり、その体育館でコンサートは行われました。島内の人々もたくさん見に来て下さり、そんな客席の一番前に小さな椅子が11個。子供達のまっすぐなまなざしが歌っている私を見つめていました。この原稿が皆さまの目に届くころ、子供達は毎朝フェリーに乗って、九州大陸?の小学校に通っていることでしょう。あどけない6歳から12歳の子供達の瞳は新しい環境で何を映すのでしょうか。でもあの時、自分をまっすぐに見つめてくれていた22の瞳は、私に生きる活力と未来への希望を与えてくれた様です。
(早苗ネネ♪)
新宿シャンパーニュ 電話 03-3354-8540(昼) 03-3354-2002(夜)
新宿一丁目。元新宿厚生年金前。http://www.champagne-live.com/
1.スターピープルVOL41から「女性性のパラダイムシフト」というタイトルで連載寄稿しています。
早苗ネネさん プロフィール
木々や鳥や魚や精霊…人間以外の存在達との交流が当り前に語れるくらい、いのちのひろがりに気づくと、共に生きている喜びや、苦しみや悲しみにもナイーブになる。
心と野生がひとつながりになると……こんな風に人は年を重ねられる。ひとりひとり、ユニークにもっと自分になれる。
早苗 Nene さんは、そういう人生の先駆者です。 感性を解放しながら、40代で高校生に仲間入り卒業後、マウイのカレッジに留学中、突然半生記が受賞しました。
そんな新たなシーズンを迎えて、今エッセンスを分かち合いたい。
<天性の歌い手>というだけでなく、その存在感、溢れる活性のバイブレーションは、光のシャワーのよう。彼女と語り歌い、魂の成長を旅している現在の、自分の位置を確かめてみませんか?
花と果実のお酒(リケール)に魅せられて、マリエンホーフ社の日本輸入総代理店「エーデル リケール」の社長になった中尾友紀さんに、横浜駅東口スカイビル1階のカクテルバー・マルソウでお話を伺いました。「若さゆえの『無謀』だったと思います。今なら怖くて出来なかったと思います。お酒の業界を知らなかったことが私を『無謀』にも夢に向かって走らせたのだと思います。」
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保土ヶ谷生まれの香川県育ちです。
母の実家が横浜でしたので、私は保土ヶ谷で生まれました。父は次男でサラリーマンでしたが、実家の春日神社を継ぐことになり、香川県に一家で帰ることになりました。私が生まれて間もない頃のことです。
香川県には独自の文化があります。それは、ドイツとの交流で生まれ育った文化です。第一次世界大戦時、ドイツ軍の兵士が日本各地で捕虜の生活を送りますが、その中でも特に徳島県と香川県は待遇の良さで有名になりました。
香川県で「捕虜」と言わずに「俘虜」というのは、ドイツ兵を捕えて監禁するのでなく、わりと自由が許されていて、市民との交流があったことからです。今も、日独協会があり、食べ物、ワインやビール、音楽・・・いろいろな分野でドイツとの交流が盛んに行われております。
私は、香川県で学生生活を送り、OLになりホテル系の会社で働いていました。 引き出物にドイツワインを企画した縁で、ドイツ大使館の方々と知り合うことになりました。
そして、ドイツのリキュール「リケール」と出合いました。
引き出物に「リケール」を企画したのですが通りませんでした。当時、リキュールと言えば、カクテル用の香りと甘味の強いリキュールしか無く、引き出物でもらったリキュールを家庭でどうカクテルにするのか「意味が分からない」と言われました。リケールは、ドイツと交流が盛んな香川県でも扱いの難しいものでした。
リケールとは
リケールとは、ドイツの伝統ワイナリーが生み出す『液体の宝石』と言われています。 繊細な風味と香りなので、ショットでウィスキーのように飲むのがお勧めです。カクテルや料理に使うのは難しいと言われます。ここ「マルソウ」の素晴らしいバーテンダーならば美味しいカクテルが提供できると思いますが・・・(笑)
リケールには、すみれ、さくら、バラのような花を使ったもの、イチゴ、ベリー、ざくろ、さくらんぼ、リンゴ、マルメロ(花梨)のようなフルーツを使ったものがあります。
花や果実などの原材料は、全て丁寧な湯せん蒸留によってエキスを抽出します。バラの花びらから香水を作る工程に似ています。そして、良質なワインを作るリースリング(高品質のぶどう)から最上級のブランデーを作り、それをベースに花や果実のエキスを美しいガラスのボトルに閉じ込めたのがリケールです。果物系はフルーツ本来の甘みです、花はビーツ(さとうだいこん)を使って甘みを演出します。白砂糖やカラメルは一切使用しません。 その年の素材の出来栄えによって味が違います。天候に果実の出来は左右されます。お天気の多かった年は甘くなり、雨の多い年は酸味が出ます。リケールの色、味、香りは毎年違います。「今年のは深い色だね」とか「去年の方が酸味が強かったね」とか、その違いを楽しむのもリケールの楽しみ方のひとつです。 |
門外不出、継承者へと伝えられた秘伝の技法
リケールに魅せられて『日本で売りたい』と思った時、まずワイナリーを見に行こうと思いました。ドイツ・ファルツ地方のフェニゲン村にある『マリエンホーフ社』。道のりは本当に遠かったです。
ドイツ大使館の紹介で、英語が話せる牧師一家にホームステイをすることにしました。ドイツ語が話せる訳でも読める訳でもなく、英語が少し分かるくらいでした。
ホームステイ宅には電車に乗って行くことになっていました。駅名が分からず、車内放送も分からず、2つ手前の駅で降りてしまいました。駅前に公衆電話もなく、たまたま通りがかった人の携帯電話を借りて、ホームステイ先と連絡を取り、車で迎えに来てもらいました。
牧師の一家には大学生の娘さんがいて、英語で話すことができました。
一週間ほどの滞在でしたが、その間に『マリエンホーフ社』を訪ねることが出来ました。地図にも載っていない小さな村です。今ならグーグルマップやWEBで検索ができるのでしょうが・・・
『マリエンホーフ社』の創業は17世紀後半から18世紀初頭、7代続く歴史と優れたワインの醸造所です。リケール作りは19世紀から始まったと言われています。その製法は次の継承者にのみ伝えられる秘伝で、伝統と技が守られています。 『マリエンホーフ社』には、ホームスティ先の牧師さんから私について紹介がされていて、フェニゲン村着くと、となり村からアメリカに行ったことのある女性が通訳として招かれていました。観光客が行くような場所ではないので、日本人は珍しく、村中の人が集まってきました。 「コーヒーを飲んだことあるの?」なんていう質問もされました。 それでなくても、日本人は若く見られます。村人は、女の子がお酒の商談に来たと驚いてようです。 「この娘は大丈夫なのだろうか?」ときっと思われたことでしょう(苦笑)。 私は、素材にこだわりをもって、寝る間も惜しんでリケールを作るフィニゲン村の人の姿に感動を覚えました。そして、このリケールを扱うのだから「しっかりやりとげよう」と心に決めました。 |
ところが、お酒を売ったことがありませんでした
まず、お酒を売るのに免許がいることを知りませんでした。それもそのはず、父はサラリーマン、弟は証券マンをしながら「春日神社」の神主を務めているのですから。酒屋でもない、輸入業者でもない・・・お酒を売った経験がないところからのスタートです。資金は、OL時代の貯金と親からの援助です。スポンサーがいた訳ではありません。準備期間中にも資金は少しずつ減っていきました。
やっとのことで、お酒を取り扱える許可が下りて、「マリエンホーフ社」に注文を入れたのですが、あちらは英語が分からない。ドイツ語の通訳を入れての商談です。ところがマリエンホーフ社も輸出の経験がなかったので、インボイスの書き方から梱包の方法まで教えることになりました。教えている私も輸入の経験がないのですから、輸入代理店や税関に訊きに行って連絡を取ります。連絡の方法は電話かFAXです、マリエンホーフ社の方々はご年配でメールが使えなかったのです。
マリエンホーフ社には学生の息子さんがいるので、とうとう私が息子さんに「英語を勉強してください」と言ってしまいました。私がドイツ語を勉強するよりも息子さんが英語を習得する方が早道だと思ったのです。
こうした苦労のすえ、20種類、約600本のリケールが日本に入って来ました。
日本での苦労話
地元の香川県で友人や知人には好評でした。そこで「福岡フーデックス」に出品して紹介しようと思いました。出品費用は『マリエンホーフ社』が負担し、息子さんが手伝いに来てくれました。もの珍しい「リケール」の評判は良く、これを本当に売るのなら『東京に行かなくちゃ』と思い、家族の反対を押し切って上京、戸越の1Kのアパートに商品と一緒に暮らすことになりました。ベッドは段ボールです。 空き箱の上で寝ていました(苦笑)。
酒屋さんを回り、BARや飲食店に声を掛け、展示会でもらった名刺の方々に営業をかけ・・・ある時、大手百貨店系の会社に営業に行きました。商品の良さを分かってもらえて、デパートにリケールを置くことができました。しかし、高価なリケールはすぐには売れませんでした。 置いてもらっただけではだめだと気づきました。
まずリケールの楽しみ方を伝えないと、リケールは売れないことが分かりました。
デパートでのイベントで、ある大手の酒屋のオーナーがリケールの試飲をし「美味しい」と取り扱ってくれることになりました。 酒屋さんのお客様は個人の方もあれば、BARなどのお店もあります。口コミでリケールの良さが伝わり、ファンが広がって行きました。東京、大阪、名古屋、札幌からお客様の声が届くようになりました。
商談も増え、東京のアパートでは狭くなり、母方の親戚の住む「横浜」に戻ってきました。実際は、従妹の住む川崎で少し暮らしてから横浜市青葉区に移って来たのですが・・・とにかく今は「ハマっこ」です(笑) 私が『酒屋さん』を大切に思うのはこの「口コミ」ができることです。お客様にお酒の飲み方、楽しみ方を伝えてくれる、つまりは文化を伝えてくれることになると思うのです。お客様からの要望も私に伝えてくれます。 何か手ごたえを掴んだのもこの頃です。 買いに来られた方が、家庭で、職場で、パーティの席で、リケールの話をしてくれたらこんなに嬉しいことはありません。私が直販をしないのは、取り扱ってくれる「酒屋さん」を大事に思うからです。 |
リケール1杯をゆっくりと
「食後酒」という文化がまだ育っていないと感じています。食前酒や食事と一緒に楽しむお酒の文化はありますが、食後に音楽を楽しみながら、会話を楽しみながら、シガーを楽しみながら、消化を助けるお酒を飲むという文化が育っていないような気がします。
通勤や仕事に時間を取られてしまい食後にゆっくりする時間が無い・・・食事をして、テレビ見て、お風呂に入って寝てしまう。食事の時に、料理に合うビールや日本酒・焼酎やワインを頂いたので、食後に特別なお酒を楽しむ必要がない=食後酒に親しんでいない・・・だからこそ「食後酒」を文化にできたら素敵だと思うのです。
これはデザートの文化とはちょっと違います。デザートを食べたり、デザートワインや甘いお酒を食後に飲むことはあります。私が思うのは、お酒と時間とのマリアージュです。食後の音楽や会話の時間、もちろん一人でいたい時間でも良いのですが、リケール1杯をゆっくり飲みながら過ぎてゆく時間を感じる・・・そんな楽しみ方です。
リケールを使ったカクテルが銅賞になりました
カクテルバー・マルソウには全日本フレアバーテンダーズ協会(ANFA)の事務局があります。会長の北條智之氏、店長の澤木良太氏の創るカクテルは定評があります。
以下は、フレアバーテンダー・CATMANのブログ(北條智之氏のブログ)から抜粋
北條智之氏のプロフィール http://catman-flair.blog.ocn.ne.jp/about.html
横浜駅東口スカイビル1階のカクテルバー・マルソウ
http://www.yokohama-sky.com/restaurant_detail/01marceau/
リケールを置いてあるお店・楽しめるお店
買えるところ 三留商店 http://www.mitome.jp/ 神奈川県鎌倉市坂の下15-21 0467-22-0045 飲めるところ カクテルバー・マルソウ http://www.yokohama-sky.com/restaurant_detail/01marceau/ ケーキ製作 キッチン山田 「ブレーメンの音楽隊スイーツクラス講師」 |
あなたにとって横浜とは郷愁を感じる街。あらゆる文化に触れる時、自分の中の「ものさし」となっている場所です。 |
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(インタビュー・文・写真:高野慈子)
これからも支援活動を続けます!!
「何も変わっていないのですよ。」
電話口で山元タイムの山下さんは、ポツンとつぶやきました。
東日本大震災からもう二年がたとうとしています。
2011年3月11日午後2時46分頃発生した地震は、マグニチュード9.0の観測史上世界4番目の規模となる大地震でした。
この地震と津波、そして原発事故が、死者15,880人、不明者2,698人(2013年2月6日現在)という大惨事を引き起こし、何十万人という方々の生活を奪ってしまいました。
私達「ヨコハマNOW」編集部が、宮城県山元町を最初に訪問したのは、2011年4月4日、津波の跡が生々しいときでした。
この二年の間に、私は5回宮城県山元町を訪問しました。
その間、宮城県山元町と横浜市中区山元町が同じ町名だということでつながりました。そして、山元町二丁目商栄会の方々の支援活動がきっかけとなって横浜市が宮城県山元町に職員を派遣までになりました。
※詳しくは・・・
横浜市が宮城県山元町を継続的に支援することになりました!
~私達の力が横浜市を動かした~
http://yokohama-now.jp/home/?p=6785
宮城県山元町では常磐線が不通のままです。人口流出がとまらず町内の小中学校の統廃合が検討されています。特に若い人たちが町からいなくなっています。
※2011年2月末に16,695名だった山元町の人口は、2012年12月末には、13,776人になっています。(東日本大震災の死者行方不明者716名)
2011年12月には、「山元町震災復興計画」が策定されましたが、集団移転についても住民間の意見の相違によって進んでいないのが実情です。
山元町の沿岸部は瓦礫が撤去されて、雑草が生えている荒野が見渡す限り広がっています。
山元タイムの山下さんは、仮設住宅に住むお母さん達に何か生きがいになることをと考えて、宮城県山元町の名産である「いちご」の形のアクリルたわしを作ることを教えています。
山下さんは、ご自宅でパッチワークの教室を開いていたそうですが大震災で自宅が津波に流されてしまったそうです。現在はお子さんの学校のこともあって、名取市で暮らされています。
進まない復興に対するやるせない想いが、山下さんの「何も・・・」という言葉に表れていました。
「アベノミックス」で景気が上向きだと言われていますが、仮設住宅に住んでいるお母さん達の生活が今よりも良くなるようになることを願っています。
「東日本大震災」への関心が日に日に薄れている感じがしているのは私だけでしょうか。自立に向けて、これからが本当の支援活動になるというのに・・・。
山元町商栄会のお店には、今も買物客に向けて募金箱が置かれています。山元町商栄会から宮城県山元町に送った義援金は140万円を超えました。
昨年からは数店で、宮城県山元町の名産品「マルタのぶどうジュース」を販売しています。これまで200本以上を販売しているそうです。 ※「マルタのぶどうジュース」を製造販売している田所食品は、 平成25年1月29日から新工場での操業を開始しました。 宮城県知事が復興の現場を訪問 山元町商栄会の広報担当の鬼島さんは、「これからも支援活動を続けていきますよ。」と話されています。 山元町二丁目商栄会 横浜市立山元小学校では、宮城県山元町の山下小学校に手作り雑巾を送ったり、ベルマークを集めて教具などを送って交流を勧めています。今年は、集めたベルマークで跳び箱を送ることになっているそうです。 被災地復興に係る児童生徒の活動事例 「ヨコハマNOW」はこれからも支援活動を続けていきます。その一環として、宮城県山元町のお母さん達が作った「いちごのアクリルエコたわし」を販売いたします。2個で500円です。 「アクリルエコたわし」は、昨年と比べて大分進化して、彩りもきれいになりました。このたわしで茶碗を洗うと、洗剤がなくてもとてもきれいになります。(だからエコなのですね・・) 皆様のご協力をお願いいたします。 ※ご注文いただける方は下記のフォームに入力してください。 |
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第5回 自分を肯定する力を科学してみる
プロローグ
今、子どもの「自尊感情」について問題になっている。若者の自尊心の低下は、時には「死」に結びつく。決して軽視できる問題ではない。
自尊感情には2種類あり、その両方が整ってはじめてバランスのとれた人間に成長できると考える研究がある。
今回は、子どもの自尊感情に関する研究をご紹介したい。
「成功経験を積ませる」だけではダメ?
2月17日、山下町にあるワークピア横浜で、「子どもたちの『生きる力』を育む学校のあり方とは」というテーマでフォーラムが開催された(主催:公益社団法人日本フィランソロピー協会/後援:横浜市教育委員会)。その基調講演として東海大学心理・社会学科 近藤 卓教授の講演があった。
近藤教授は、高校で10年間教鞭を取られた後、東京大学博士課程を修了。ロンドン大学精神医学教室客員研究員、群馬大学、立教大学講師の他、約30年間にわたりスクールカウンセラーとしてご活躍されている。
これらのご経験の中で、いわゆる自尊心の低い子供への指導として正しいとされる、「褒める」「認める」「評価する」「出番をつくる」「成功経験を積ませる」などの指導には限界があると感じたと語られた。
確かに一定の効果は見られるが、その時はよくても、またすぐ自信を喪失したり、自分の存在意義に疑問を感じる状態に陥る子供があとをたたなかったからだ。
「自尊感情」は “バルーン” と “和紙” の2種類に分類するとわかりやすい
そんな実際の経験から、近藤氏は子どもの「自尊感情」を追求する研究を始められた。研究では、定量化・分析できるよう緻密に練られたアンケートテストを多くの学生に実施(Social Basic Self Esteem Test)。そこから2種類に分類した。
一つ目は「社会的自尊感情」。
「自尊」とは自らを肯定するという事だが、人は通常自らを肯定する時は、何かが出来た時や、うまくいった時に多い。自分が定めた目標に達したり、人よりも良かったり・・・。つまり目標や他人など、対象があって自分を評価するものとなる。
心理学の世界では100年以上も前から、
自尊心=成功÷要求 と定義されてきたのだそうだ(ウイリアム・ジェームス著「心理学原理」)が、これでいくと、成功が大きければ自尊心は高まり、失敗すれば自尊心は低下するとなる。一時的に高めることは簡単だが、低下するのも簡単となるわけだ。
近藤氏はこれを「社会的自尊感情」と呼び、熱気球(バルーン)に例えた。「褒め」「たたえ」「成功」させれば膨らむが、熱風をいれ続けなければ、しぼむのも簡単というわけだ。
一方、二つ目として位置づけされたのが、「基本的自尊感情」。これは、対象や成功とは無関係に、絶対的に無条件で、自らを肯定する感情とし、これを糊のついた和紙に例えられた。一枚一枚和紙を重ねるように時間をかけて育まれるものだが、一度積み上がると簡単には崩れない。どんな事があっても、失敗しても、自分の存在意義を疑うことには及ばない。そういうものだという。
言い換えれば「基本的自尊感情」が低いと、「自分には生きる価値があるのか」「生きていて良いのか」「生きる意味があるのか」そういう根源的な問いかけに悩み苦しむ結果に至ってしまうという事になる。
長年スクールカウンセラーとして現場を見てきた近藤氏は今、この、子どもの「基本的自尊感情」の脆弱化を指摘しているのである。
あなたのお子さん、お孫さんはどのタイプ?
バルーンと和紙の組み合わせを以下のように4パターンにしてみると、それぞれの状態で子どものタイプが分かりやすく理解できる。 ※バルーン:社会的自尊感情、 右上:バルーンも膨らみ、和紙も積み上がった子。 |
左上:バルーンはしぼんでいるが、和紙の積み上がった子。
→マイペース型。褒めたり、成功体験をつませれば、ぐんぐん伸びるタイプ。
右下:バルーンは膨らんでいるが、和紙が積み上がっていない子。
→親の期待に応えようと、一生懸命頑張るいい子に多い。一見問題のない子に見えるが要注意。バルーンがしぼむのを恐れ、休むことができない。実は崖っぷち状態。失敗したり疲れたりしてバルーンがしぼんだ時が危険。
左下:バルーンはしぼみ、和紙も積み上がっていない子。
→明らかに良くない状態。まずは即効性のあるバルーンを膨らましてやる事が必要。
和紙はどうすれば積み上がるの?
ではどうすれば、「基本的自尊感情」は育まれていくのか?
近藤氏は、信頼できる他者との体験の共有、そしてそこから生まれる感情の共有により、少しずつ育まれるとお話された。お母さんと一緒に夕焼けを見た「きれいだった」、家族と一緒に楽しくご飯を食べた「美味しかった」、友達と一緒に遊んだ「楽しかった」、そういう日常の事でも和紙は積み上がっていくのだという。
「向き合う」関係と、「並ぶ」関係。
ここで近藤氏は、関係性の深さを「向き合う関係」と「並ぶ関係」で表現された。
初対面の人や、まだあまり関係が深くない人とは「向き合う」状態であるのに対し、時間がたち、信頼が深まった段階になると「並ぶ」状態になるという。
この「並ぶ関係」同士の共有体験こそが、感情の共有につながり、人を信頼し、自分を信頼できる基本的自尊感情の形成につながるという事だった。
考えてみれは、私の子どもの頃は、一日の大半を誰かと共に過ごし、一人でいることは極めて少なかった。友達と毎日同じ遊びをいつまでしていても、少しも飽きなかった。「並ぶ関係」の誰かと過ごす、共有体験の連続だったことになる。お陰で、親を困らせる目的で「死んでやる!」とだだをこねることはあっても、「自分は生きていて良いのか?」というような自分の存在を疑問視するような事はなかった。というか、そんなある意味高尚な考えは思いつきもしなかった。昔は多くの人がそうだったのではないだろうか。
あらためてこの子の周りは?
子供が育つ環境は、私が子供の時代とは明らかに変わっている。
まわりのスピードがどんどん早くなり、子ども達はやることが増え、忙しくなった。また、暮らす環境が危険になり、安全が担保された範囲内で生活することを強いられるようにもなった。「並ぶ関係」の誰かを作り上げる機会も費やす時間も、間違いなく少なくなっていると言える。
もし様々な環境の変化が、子どもの「心の基盤を支える自尊感情の形成」に悪影響を及ぼしているとするなら、直ちに改善しなくてはならないはずだ。でなくては、そんな環境で育った子どもがかわいそう過ぎる。
まずはもう一度、自分の子どもや孫、周りの子どもの環境を見つめ直してみたい。
この子には「並ぶ関係」の誰かがどのくらいいるのか、そしてその誰かと体験を共有し感情を共有するために費やせる時間がどれだけあるのか。
そしてもし極めて少ない場合には、授業や塾や習い事の時間を削っても増やしてやらなければならないはずだ。何よりも重要な、自分を大事に、肯定する心を育むために。
プロフィール
ペンネーム: 津木 雫(つぎ しずく)
オヤジ・オバチャン・オトメのO3マインドを持つ、なんちゃってコラムニスト。
約20年間メーカー勤務。広報・マーケティングを経て、現在フリーランス。
典型的な仕事人間という生活を過ごし、はたと気がつけば人生の折り返し地点。「さぁどうする!」と我が道を振り返っている真最中。
学生時代に、約15カ国を貧乏旅行。
その経験から、今の若者が育つ環境には、問題を自らの力で乗り越える体験が不足していると、感じている。若者教育関連のNPOを立ち上げ、神奈川を中心に現在活動展開中。
ビジネスのフレームワーク入門(第3回)
デジタルハリウッド大学大学院/NVD株式会社 松本英博
1.基本のフレームワークMECEを学ぼう
前回 、フレームワークが意外に身近なところで使われていることに気付かれたと思います。モレやダブリのない枠組み(フレームワーク)を作る基本となるMECEについて紹介していきましょう。MECEに慣れることで他のフレームワークについても理解しやすくなると思います。
MECE (ミッシー) とは
米コンサルタント会社のマッキンゼー・アンド・カンパニーが1980年代に作ったと言われるフレームワークで、Mutually Exclusive and Collectively Exhaustive (相互に排他的な項目」による「完全な全体集合」, Wikipediaより)の略とされています。今回、この名称がどうであれ、意味するところは、重複なく・漏れなくという点が重要なのです。
読者も筆者もMECEを使うのは全体を把握したいときです。抜けや死角などのモレを排除し、全体像をシンプルに見て、無駄や混乱を避けるためにダブリも外すことです。
米国のコンサルタント会社がMECEを作りだしたのも顧客のニーズが疑問に対して、モレなく、しかもシンプルにダブらずに要望に応えるためと考えられます。
対立軸の発見と例外の発見
MECEの基本は、対立軸の発見と例外の発見です。
対立軸の発見とは、『内側」と『外側』や『プラス』と『マイナス』のように対極や正反対のように、対立する軸を見出すことです。
さらに、この考えを拡げると、例えば、これまで日本国内で販売していた商品を日本国外、つまり海外で売ればどうなるかといった具合です。お気付きかも知れませんが、良く考えると、対立軸でなくても、○○ と ○○ 以外という2つの集合に考えることでも、MECEであることを満たしています。国内市場に対して、国内以外=海外市場というわけです。
信号機の色のように赤色、青色、黄色で、危険、注意、安全にようにリスクの段階を表わすとしても、これ以外の状態が存在しなければ、3項目でもMECEです。すなわち、モレがないことです。
ただ、現状のリスクがどれかといったような判断では、危険、注意、安全の判定に危険度のような尺度が必要かもしれません。
次に例外の発見です。つまり、1つの軸を考え、 ○○ と ○○ 以外とするのは単純なことですが、 ○○ 以外に例外は無いかという確認が重要です。例えば、「動物」と「植物」とすれば、生命をMECEに分かたように見えます。しかし、近年の研究では、動物と植物の両方の性質を持った生物も多く発見されていることから、MECEとなっていないことが分かります。さらに、動物と動物以外が、MECEかどうかを考えると、動物と植物の両方の性質を持った生物はやはり、動物の枠か動物以外の枠かは判定がつかない事になります。動物、植物、動物と植物の両方の性質を持った生物の3つに分けねばMECEではありません。
対立軸が正反対や対極であれば、モレやダブリについては心配なく、明確に対象としていることがどちらに分類されます。ただし、この時に注意しなければならないのは、分類するのが目的ではなく、この対立軸を含めた、広くて浅く、周囲を探索する考え方(思考)が重要なのです。そこでの気付きが多くのアイデアや示唆を生むところだからです。
2.ビジネス戦略の弱点をMECEで探索する
MECEを使ってビジネス戦略の弱点を考えてみましょう。
MECEの応用のフレームワークとして、ビジネスでは4Pと呼ばれる分析があります。4Pは、Product(商品:顧客価値)・Price(価格:顧客コスト)・Promotion(広告宣伝:販売促進)・Place(販売する場所:流通)の頭文字をとったものです。
それでは、4Pで単純な考え方として、以下のようなMECEを考えてみましょう。対立軸の中身は以下の表中の項目以外にも設定できますが、説明上、仮に以下の項目としておきましょう。
では、あなたが新商品の企画をしているとして、4Pがどこに分類するかを検討してみましょう。
明らかに組合せ的には16通りの4Pが考えられます。言い換えれば、その商品が売れて儲かるかは別として16個の企画が成り立つことになります。例えば、商品企画Aでは、単純機能の製品で、低価格、大きな宣伝もしないが、全国で販売といった内容です。
そこで、企画Aを考え、上司にこれを認めてもらい、説得することを考えます。上司は、企画のヌケやダブリであるビジネスの弱点を突いてくるかも知れません。これについても予め検討しなくてはなりませんね。
そこで、MECEを応用してみましょう。商品企画Aの選択以外をあえて選ばない理由あるいは選べない理由を考えてみることです。4Pの一つ一つを取り上げてみましょう。
(1)単純機能であって多機能な商品を選ばない/選べない理由
(2)高価格でなく低価格を設定する理由
(3)大々的な広告宣伝を行わない理由
(4)地域限定などでなく、あまねく全国で販売する理由
いかがでしょう?(1)では、想定する市場やお客さまにとってメリットがあることが、単純機能で実現できることが説明できれば、企画としては納得できるかもしれません。(2)~(4)ではどうでしょう?
このように、4Pを1つの商品投入の尺度として設定し、それぞれをMECEで考えると、ヌケやダブリを防ぐだけでなく、検討による気付きや説得材料などを発見することができるのです。
皆さんもMECEを活用して、全体を眺め、そこでの気付きを見出すことで、発想を整理、発展させてみてください。
※発想や創造に関する「創造方程式」による発想のトレーニングがしたいというなら、参考に拙著「ヒット商品を生み出すネタ出し練習帳」をどうぞ。
次回の予告
次回は、「応用のフレームワーク(1):マトリクスを学ぼう」で、商品戦略を考えてみましょう。
松本英博 プロフィール
松本 英博(まつもと ひでひろ) デジタルハリウッド大学大学院 専任教授/NVD株式会社 代表取締役 京都府出身。18年にわたりNECに勤務。同社のパーソナルメディア開発本部で、MPEG1でのマルチメディア技術の開発と国際標準化と日本工業規格 (JIS)化を行い、MIT(マサチューセッツ工科大学)メディアラボで画像圧縮技術を習得のため留学。帰国後、ネットワークス開発研究所ではWAPや i-モードなどの無線インターネットアクセス技術の応用製品の開発と国際標準化を技術マネジャーとして指揮。 NEC退社後、ベンチャー投資会社ネオテニーにおいて大企業の新規事業開発支援、社内ベンチャーの事業化支援を行い、2002年9月にネオテニーから分離独立し、NVD株式会社(旧ネオテニーベンチャー開発)を設立、代表取締役に就任。大手企業の新規事業開発・社内ベンチャー育成などのコンサルティング 実績を持つ。 IEEE(米国電子工学学会)会員、MIT日本人会会員。神奈川県商工労働部新産業ベンチャー事業認定委員、デジタルハリウッド大学大学院 専任教授、現在に至る。 |
2013年3月 三ツ池だより 「春が来た!きた!」
台所で洗い物をしていた。早苗が私の肩を動き回る。早苗は生後四か月のインコである。朝と夕方籠から出して部屋のなかを飛ぶようにしている。すこしづつ家に馴染んできていた。手を休め庭に咲く梅を眺めた。春三月である。春という字を眺めていた。「三」「入」「日」が見えてきた。春は三月に入った日であると読めた。
「先日百舌鳥が庭にきましたよ!歌がありましたね!鳴き声はどのようでしたか?」久しぶりにもずの歌を引き出して歌った。
サトウハチロー作詞「もずが枯れ木で」
1 | モズが枯木で鳴いている わたびき車はおばあさん |
オイラは藁を叩いてる コットン水車が回ってる |
2 | みんな去年と同じだよ アンサの薪割る音が無え |
けれども足んねえものがる バッサリ薪割る音が無え |
3 | アンサは満州へ行っただよ モズよ寒いと鳴くがよい |
鉄砲が涙で光っただ アンサはもっと寒いだろ |
歌いながら春の日差しを楽しんだ。
3月3日はひな祭りだ。正岡子規に次の句がる。
明治20年 | 一枝やたましひかえす梅の花 | 正岡子規 |
明治29年 | 雛売れてだるま淋しや道の端 | 正岡子規 |
淋しさや羅漢の前の雛二つ | 正岡子規 | |
明治31年 | 海苔干した村を過ぎ行く梅見哉 | 正岡子規 |
明治は遠くなった。とはいえ戦後まもなくまで日本は畦道があり、リヤカーの轍のある道はどこにもあった。峠には一本松などがあった。戦後60数年、日本はどこに行こうとしているのか?
雛の句で江戸時代にさかのぼってみる。
雛の飾られる様子や景色が随分と変わってきている。道端で売れるほどの値の雛から、ようよう折り紙ででも雛にした時代が長く続いた。今はお雛様の扱いがまったく変わってしまった。生活のなかから飛び出して形骸化のなかにあるようにも思う。
時に何組かの同窓会と思われる酒を酌み交わす実物のお雛様がいる。前前夜祭なのだろう。春が来た春が来た。今私たちは複雑な心境の中にいる。初節句を飾るためにお雛様を買う。雛祭りは「桃の節句」といい、桃の花を飾ったりする、これは桃の木には邪気払いの効き目があるとされているからだ。家では桃の花を雛飾りの横に置いた。
ひな祭りの起源は、漢の時代に徐肇(じょちょう)という男おり、3人の女児をもうけた。3人とも3日以内に死んでしまった。その嘆き悲しむ様子を見た同じ村の人たちが酒を持ち、3人の女児の亡骸を清めて水葬したことに由来しているとされている。それが平安時代になると、「上巳の祓い」といって、3月3日に陰陽師を呼びお祓いをさせ、自分の身に降りかかる災難を自分の生年月日を書いた紙の人形(ひとがた)に移らせて川に流した。この紙のひな人形が発展し、現在の豪華なひな人形になったとされる。
ところで雛人形の配置は関東では自分から向かって左に男雛、右に女雛を置くとされますが、京都は向かって右が男雛、左が女雛。これは御所の伝統にならったもので、左大臣・右大臣で左大臣が偉いように、左が位の高い位置とされているため。御所の紫宸殿は南向きに建てられており、天皇から見て日が昇る方角(東)は左、ということで、位が高いためです。女児のお祝いなのに、お内裏様というのがなぜなのでしょう。いいところへ嫁に行く、世を繋いでいくのが女性ということからくるのだろうか。
春3月は卒業の月、卒業とは出発のこと、いただいた生命を大切に守り育てる時です。出発とは新しい苦難の道の歩きはじめです。乗りこえるためにいただいた生命を、乗り越えるためにある苦難への心構えを確立する時です。「みんな去年と同じではありません。」
原稿の下書きをしているノートを早苗が啄ばみ始め、2mmほどの紙の切れ端を落とした。さぁ! 新しいリズムをもって歩き出す時だ。さぁ!出発の準備だ。
Photos
(画像をクリックすると拡大写真が表示されます)
(文・写真:横須賀 健治)
横須賀 健治プロフィール
メジャーテックツルミ 代表取締役
はかることのプロとして50年です。
食品の放射能測定のアークメジャーを設立しました。
「計量から見える幸せ」をライフワークにしています。
書評 「未来を拓く君たちへ」 PHP文庫 田坂広志 著
二月のある日私は経営体験報告者の立場で立っていた。その時にこの本のことが頭にあった。一番の印象はイチロー選手の言葉のところである。 「ある時期、イチロー選手が、ライバル・チームのピッチャーに何試合にもわたって抑え込まれ、ヒットが打てなかった。あのピッチャーは、あなたの苦手なピッチャーですか?その問いに対して、イチロー選手は、こう答えた。いえ、そうではありません。彼は、ぼくの可能性を引き出してくれる、素晴らしいピッチャーです。だから、僕も、腕を磨いて、彼の可能性を引き出せる、素晴らしいバッターになりたいですね。このイチロー選手の言葉の中に、人生における苦労や困難の意味が語られている。」 |
この本が言い続けているのは「人は成功することではなく、成長することが大事だ。」ということ。どんな人生であろうと、出会うことは奇跡である。それが喧嘩の相手だったり、どんなに嫌いだなと思う人でもだ。だから「志」を抱いているかと問い続ける。だからこそ、どんな人生であろうと後に続くものに語りかけているかという。誰でもの営みは奇跡以外のなにものでもない。ではなぜ我々は志を抱いて生きるか。「ただ一度しかない人生をくいなく生きること、若者は苦労も、困難も、失敗も、敗北もあったからこその人生であり、成長も遂げることが出来た。」というその思い。
「我々が感謝の念を抱く時、我々の心には、自然に、義務と呼ぶべき感覚が生まれてくる。恵まれた境遇に生まれた人間には、そうした境遇に生まれなかった人々に対してなすべき義務がある。そうした感覚が、自然に生まれてくるだろう。それは、洋の東西を問わず、誰でもが抱く、ごく自然な感覚でもある。」
こうも述べる。「たとえ、日々、街の片隅で ささやかな仕事に取り組んでいる人物でも、もし、その人物が、広い世界を見つめ、遠い彼方を見つめて 仕事に取り組んでいるならば、その人物の人生には、素晴らしい意味がある。そのことを教えてくれる寓話がある。二人の石切り職人という寓話だ。」と言って寓話を紹介する。難しい言葉でもあるが、「人を大切にするとは何か」を次のように述べる「自分の人生で巡り会った人に、親切にする、やさしくする、愛する。」さらに次のように述べる。どれも大層なことではなく、だれでもやればできることなのだ。
「若き日に、目の前に立つ山を、見上げてほしい。人生という山、人間成長という山を、見上げてほしい。そして、その山の頂を、心に刻んでほしい。君が、生涯を賭して登っていく山の頂。その姿を、深く、深く、心に刻んでほしい。君は、いつか、その山の頂に立つ。そのことを信じている。君は、かならず、その山の頂に立つ。そのことを信じている。」
山の頂を心に刻むとは、志を抱くということ、そして、我々が、命尽きるまで成長していくとき、死がやってくる。成長の最後の段階の死について、終末医療の医師、キューブラー・ロスの素晴らしい言葉を紹介している。「Death:The Final Stage of the Growth」それは、「尽きるその日まで、どこまでも成長していきたい。そして、素晴らしい”最後の成長”を遂げたい。」
著者は「いまだ、人類の歴史は本史の幕開けを迎えていない。いまだ、人類の歴史は、本当の輝く歴史を迎えていない。なぜなら、人類の歴史は、いまなお、戦争や紛争、迫害や差別、飢餓や貧困に満ちた時代の中にあるからだ。」われわれの役割は人類の歴史を切り拓くことなのだと。だから見上げてほしい。君に、あの山の頂を、見上げてほしい。そしてわれわれは、「礎」となろうと呼びかける。その「礎」となる覚悟を、定めようと!
「君の命。かならず終わりがくる命。ただ一度かぎり、君に与えられた命。いつ終わりがやってくるか分からない命。 その君の命。 その命を、君は、 何に使うのか。」
そしてこう呼びかける。
「だから、もし、君の人生で、苦しいときがあったら、思い出してほしい。 その苦労や困難。 その失敗や敗北。 その挫折や喪失。 それのすべてが、君の素晴らしい成長の糧になる。 そのことを、思い出してほしい。」
経営体験報告が終わって、少し虚脱感を感じていたときに、もう一度この本を手に取ることがあって書評を書くことに決めた。著者渾身のメッセージが裏帯に書かれている。
「人生という登山。頂上への道標は無く、その道は険しい。しかし自ら道を拓き、遥かな頂を目指すとき、我々は人間としての素晴らしい成長を遂げることが出来る。では登山口に立つ若者は、何を思い定めるべきか。今、山道を登り続ける壮年は、若者に何を語るべきか。そして、登山の終わりを迎える老境は、自らの人生を、どう振り返るべきか。すべての人々に贈る。」
(文:横須賀 健治)
みなさんこんにちは! |
「ど・あっぱーず★見つけ隊」 vol.6
「日本に誇りを!」
学生団体 賢者の選択 Project for Youth
このコーナーは、市民度の高い人や団体を、“ど・あっぷ”が勝手に紹介するコーナーです。
今回はテレビから生まれた史上初の学生団体である「賢者の選択 Project for Youth」をご紹介します。
「賢者の選択 Project for Youth」は、BSなどで放送されているテレビ番組「賢者の選択」の企画から生まれた学生団体です。「日本をあきらめない学生をふやしていく」ことをコンセプトに、今春からインターネット番組を放送していくために現在様々な準備活動をしています。今回は「賢者の選択 Project for Youth」の総括代表、佐藤祐さんにお話を伺いました。
賢者の選択 http://kenja.jp/
今、学生たちがあつい!
テレビ番組「賢者の選択」は、「日本を元気にしたい」というコンセプトのもと、毎週だれもが知っているような話題の経営者をスタジオへ招き、特集するという内容の番組です。つまり、ここでいう「賢者」とは経営者である社会人たちを指します。しかし、学生の中にも日本の将来を担う賢者の卵がいるのではないか、そんな学生たちの姿をもっと社会に届けたい。「賢者の選択 Project for Youth」はそのような思いのもと活動されている学生団体です。
「現在は暗いニュースがとても多いことから、日本の未来に希望を抱けない若者がたくさんいるように思います。そのことから、外国へ出てしまう学生も多くいるのが現状です。しかし、次世代の日本を担うのは僕たちです。現在日本の未来に光を射そうと、もがいている学生がたくさんいます。特に震災以降、多くの学生団体が生まれてきました。」と話してくれました。 普段、学生団体が大きく世間から注目されることって実はあまりない |
のです。だから、多くの人は知らないだけで実はたくさんの学生たちが日本の未来のために一生懸命がんばっているのです。そのような学生をもっと多くの人たちに知ってもらいたい、そんな佐藤さんの切実な想いがお話から伝わってきました。 学生の活動は、お金を対価としてもらっているわけではないので、モチベーションを保つのがちょっと大変であったりもします。しかし、お金目的で |
はなく、「私もやりたい!」という強い”想い”や”気持ち”によって自発的に活動しているからこそ、その力はとってもあつい力となる!そこが学生団体の強みでもあるのですね。
全国の学生たちが一致団結するために!
学生団体は増えてきたものの、学生団体のコミュニティのせまさに課題を感じた佐藤さん。だからといって活動範囲を広くしようとしても、佐藤さんはこれまでのご自身の団体活動経験から、距離が離れていると意思疎通が難しいことを実感したそうです。「全国の学生が一致団結していくべきだと思うんです。
そのためにも、ネットがつながりさえすれば全国どこにいても視聴することができる、インターネット番組という媒体が有効だと考えました。」と、佐藤さん。 一人の力よりもみんなで力を合わせた方がより大きな力となる。一見当たり前のことのようですが、実はそれはとても難しいことでもあります。 |
佐藤さんのお話を伺っていると、本当に人とのつながりを大切にされている方なのだなぁということを強く感じました。そのように人を大切にする佐藤さんだからこそ、「どうやって大勢の力を合わせていくか」という点で様々なご苦労がこれまでにあったのかもしれません。それを実現させるためのインターネット番組。放送開始の春が本当に楽しみです。 |
インターネット番組では毎月テーマを変えながら、日本の課題に向かってがんばっている学生を紹介していくそうです。そして、視聴し続ければ1年後には日本にどのような課題があるのかが理解できるような構成となっています。
「すごい」で終わってほしくない!
インターネット番組で学生を紹介していく上で、「うわべだけではなく、裏の努力をみてもらえるようにしたい」と佐藤さん。人が普段、他の人から評価されるのはうわべの綺麗なところだけをみて評価をされることが多い。しかし、そのうわべの綺麗なところだけをみても、きっと見ている人は「すごいなぁ」と感じるだけで終わってしまうのでしょう。佐藤さん達が目指すのはそうではない。「表には出ない、もっと泥くさい隠れた努力を伝え、見ている人に、ただ”すごい人”ではなく、”自分と近い人物”として感じてほしい。自分と同じような学生の、原点や努力が見えるからこそ、心が揺さぶられる”共感”が生まれるのだと思うんです。」と話してくれました。
人は「共感」によって動かされる
それは、佐藤さんご自身の経験でもあるそうです。「みんなの夢アワード」という武道館で行われた大きなイベントで、被災した石巻の高校生が復興のためカフェを経営するための協賛団体を募る内容のスピーチがあったそうです。
残念ながらその高校生たちは賞はとれなかったのですが、そのスピーチを聞いて佐藤さんは涙が止まらなかったそうです。「高校生の想いが伝わった。共感した。高校生の活動や想いを伝えたい。」それが佐藤さんの原点にもなったそうです。
「想いを伝えるのって、綺麗じゃなくていい。その人が本当に想っている感情を綺麗じゃなくても伝えようとすることで人は共感し、動かされる」と話してくれました。その言葉に、ど・あっぷメンバーも大いに共感させていただきました。
人の想いを受け取ることができる人は、きっと、その人も何かに向かって一生懸命になれている人なのだと思います。人がそれぞれ何かに向かって一生懸命になり、互いに受け止め合い、それがまた他者によい影響を与える。そのようなサイクルによって社会はより良い方へ動いていくのではないかと感じました。
「賢者の選択 Project for Youth」のみなさん。春からのインターネット番組の配信を楽しみにしております!これからもがんばってください!応援しております。
みんなの夢アワード http://www.miraimeishi.net/award/
取材後記
今回の取材場所として、佐藤さんに新宿にある「就トモcafe」というところをご紹介いただきました。就活生向けにだれでも3時間100円という安いお値段で利用できるシェアスペースで、多くの学生団体がMTG などに活用するそうです。運営しているスタッフもみなさん大学生。部屋の中もとってもキレイでWi-Fiも無料で使えちゃう。それになんといっても部屋の中の雰囲気がとってもアットホームで、人と人とがつながりやすい雰囲気なのです。 そんなアットホームな雰囲気の中での取材。佐藤さんは今回のど・あっぷの取材にも大変お忙しい中、「がんばっている学生たちの声をひろってくれる大人が少しずつふえてくれてうれしい」と、快く引き受けてくださいました。実はそんな佐藤さん、ガクセンという優秀な学生を企業向けに紹介するサイトで、閲覧ランキング現在第1位!すごい! テヘペロというニックネームがとてもよく似合う佐藤さん。その素敵な笑顔とお人柄で、ど・あっぷメンバーも終始その魅力に引き込まれっぱなしでした。 ご協力ありがとうございました。 就トモcafe http://www.syuutomo.com/cafe/ |
http://www.youtube.com/user/douptv
(写真・イラスト:NPO法人ど・あっぷ!(DO UP!) / 文:河辺 麻美
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第2回 オー・マイ・モトマチ・ライフ
おはようございます。元町から上がった港の見える丘公園から観た朝日です。 |
朝焼けでピンク色に染まるYOKOHAMAベイブリッジ。 |
テクテクと山手から元町へ降り、いつもの散歩コースの山下公園を歩いていると、海の方にインド水塔が見えます。 |
インド水塔 |
山下公園から繋がっている遊歩道橋を歩くと、象の鼻パークに辿り着きます。 |
そして象の鼻パークからは、この派手ハデな金龍の船にも乗れるんです ♣ |
桜木町発で赤レンガ倉庫や県庁前などから100円で乗れるバス、赤い靴号が走っています。 |
そして昼下がりは山手のロシュで、レアステーキサラダとワインを注文し、“ここはパリかしら” と妄想を楽しみます ♣ |
そして元町の夜は更けて行く。。。モトマチの入り口に佇むフェニックスは夜になると綺麗に光って飛んでいます ♣ |
春になったら桜も咲きます。和みの街モトマチにみなさまも遊びにいらしてくださいね ♣
お待ち申し上げます ♥
レポーター プロフィール
Yuu Adachi Gallery1223 あいお☆らいと代表 |
いつもの会合・例年のイベント。継続はチカラなり!
小田原の人気店から学ぶ(?)
小田原の「菜こんたん」さんというレストランをご存知でしょうか?
前回 書かせていただいた通り、脱線しがちな名物会の会合ですが、今回の脱線話題の一つがこの「菜こんたん」さんでした。小田原駅東口を出てすぐのところにあるお店で、「小田原魚 旬菜和食」の名の通り、新鮮な魚と野菜が自慢のお店のようです。「小田原どん」や「海鮮サラダ丼」が人気のようで、ぐるめサイトでものきなみ高評価です。先日、名物会の栗山さんが訪れた時も長い行列ができていたそうです。それ以上に栗山さんが驚くのは、お客さん達の来店のきっかけ。前述のぐるめサイトのような口コミ、あるいは一度来たお客さんが、今度は友達を連れてくる、というパターンが多いそうです。
「どうしたら、そうなれるのか?」
という話題でひとしきり盛り上がりましたが、やはりこれだけのベテラン店主たちにも、その法則を見つけるのは容易ではないようでした。
4月8日(月) 恒例の花まつり
今年も4月8日に恒例の花まつりを境木地蔵尊で開催します。花まつりはお釈迦様のお誕生日を祝う行事で、草花で飾った花御堂の中に誕生仏の像を安置し、像に甘茶を掛けて祝います。 境木地蔵尊では、この行事を20年以上前から行っており、お参りをした子供たちにたくさんのお菓子をふるまいます。例年、桜が散り始める時期ですが、ここ数年は寒さの影響で、ちょうど満開の時期に当たることが多いようです。桜咲く地蔵堂で小さい子供たちが長い行列を作ってお参りをする光景は、春先に相応しく、なんとも温かい気持ちにさせてくれます。 そんな境木地蔵尊の花まつりに、保土ヶ谷宿名物会も毎年参加させていただいています。また、今年は「ほどがや・えかたりーべ」という地元の紙芝居を製作・上演している市民活動グループが参加し、新作「境木地蔵」を披露してくださる予定です。 そして! 今回は、当日ご来場いただいた方限定で、名物会各店(イベント会場でなく実店舗)で、500円以上のお買い物ごとに50円の割引特典のチケットを配布します。 |
(クリックで拡大画像) |
『若大将のゆうゆう散歩』に出演!
2月25日(月)・26日(火)、保土ヶ谷宿名物会の桑名屋さん・ごん太鮓さん・鉾立商店さんが『若大将のゆうゆう散歩』(テレビ朝日・午前9:55~10:30)に出演しました。
番組で東海道を取り上げたそうで、名物会3店だけでなく、後藤印店さんやえびす屋軽部商店さんなど、地元の名店の他、浅間神社や本陣跡、そして境木地蔵尊など、地元の名所旧跡も紹介されたそうです。「東海道保土ヶ谷宿の名店と言えば」という感じで名物会各店をご紹介いただく機会が年々増え、誠にありがたい限りです。
『若大将のゆうゆう散歩』番組サイト
http://www.tv-asahi.co.jp/yuyu-sanpo/
今回の記事を書き、改めて気づいたことが一つあります。書いていることは普段の会合と例年のイベント、そしてありがたい機会をいただいたテレビ出演の話。会合やイベント、そして、このヨコハマNOWの連載など、普段コツコツと繰り返し継続している結果が、テレビ出演などの「評価」に繋がるのかな、などとふと、自画自賛してみました。
レポーター プロフィール
山田浩和(やまだひろかず/Yamada,Hirokazu)
合資会社 笑う門 代表社員
保土ケ谷宿名物会事務局
1971年8月生まれ。獅子座のO型。保土ケ谷生まれの保土ケ谷育ち。
2003年、合資会社「笑う門」を設立。<オンリーワンの価値創り>のお手伝い。
会社設立時に制作したミニコミ誌がきっかけとなり、保土ケ谷のまちづくりにドハマリ。
現在、歴史や地産地消など、地域資源を活かしたまちづくりに幅広く取り組んでいる。
合資会社 笑う門 http://www.warau-kado.com
各社・各店・各個人が持つ十人十色・百人百色の目に見えない財産(経験・体験・知識・技術・ノウハウ・アイデア等)を活かした販売促進企画・商店街活性・まちづくりを推進しています。
業務内容 :
●シンボル制作
ネーミング / シンボルマーク / ロゴマーク / キャラクター企画・制作
●広報(コミュニケーション)媒体制作
・簡易版会社案内(A4版三つ折り)制作
・ニュースレター(A4版)制作
その他、フライヤー / ポスター / 小冊子 / 名刺 / のぼり旗 / エコバッグ / ユニフォーム、など
ヨコハマNOW掲載情報
佐々木彬文の「四季・色・贅・食」 第15話 雛祭りの飾り方
今年もそろりそろりとその日がやって参りました。 私は、日本画を描き、裏千家茶道の講師を務めさせて頂いております。そのせいか「お雛様の飾り方はどのように飾るのが正しいのですか?」と良く聞かれます。ちょっとレベルの高い質問をなさる方は、「関東と関西では飾り方が逆なんですよね?」と聞かれます。 こんな質問をどなたかにしたことはありませんか? 私は毎年聞かれます。毎年同じ方が同じ質問をなさいます(苦笑)。その都度、その歴史と道理(理屈)成り立ちをお話します。 皆さんはご存知でしたか? |
絵:佐々木彬文画伯 |
さて、質問の答えは(゚o゚;; 結論から言えば、お雛様の飾り方は『どちらも正しい』です!
1時間目 歴史
京都の中心は『御所』です。天皇様が居られました。小生18・9才の頃、明治生まれの嵐山在住のおばあちゃんが、生前、『天皇様はご旅行に江戸に往かれたまま未だ帰ってきられへんねん(※注1)』と仰っしゃってました。日本中で『御所』と呼ばれるのはここだけです。東京は明治になって江戸城の敷地に建てられた『皇居』です。
今日の授業の1時間目は、お雛様の立ち位置についての歴史です。
御所に倣(なら)い、関西(特に京都中心に畿内)では向かって左にお姫雛様をお飾り致します。右は男性(男雛)と成ります。
ちなみに「お内裏様」とは読んで字のごとく『内裏』(宮中の天皇様のお坐します内裏(畳と同じように作りました一段高い場所)を指し示します。ですから、畳の絎(へり)にあたる部分に五色の裂地で飾られた畳の上に御座布団を敷き『お内裏様』を飾ります。
関東(始まりは皇居です)では、向かって右にお姫雛様を飾ります。
年号が明治に代るまでは、『御所』が日本の政治の中心でしたから御所に倣(なら)って祭り事を行って参りました。
※注1) きられへん き=来る・られ=敬意を払った丁寧語・へん=否定語で訳すと『天皇(天朝さま)様は旅行に江戸(現在の東京)に行ったまま未だ帰って来られないのよ!』この様になります。
2時間目 社会
明治になって明治天皇が『皇居』に移られ、西欧のマナーに合せて、立ち位置が入れ替わりました。ですから良く言われます関東・関西(※注2)の違いは明治天皇からです。
※注2)「関東・関西は逆なんですよね」って質問される方の出身を聞きますと『関東』出身です。絶対に『関東』が先に来ます。「関西・関東」と云う言い方を関東の人はなさらないですね。(笑)
3時間目 仕組み(理屈)
とても判り易い覚え方があります。それは、日本の天皇は左の腰に太刀を佩用(はいよう)しておられます。次に、西欧の王様は腰にピストルです。ピストルは左右両方に下げることができますが基本的には右の腰になると思います。
そして、ステージでの立ち位置(笑)ですが、日本の太刀の場合は、左に刃物である太刀が有ると左にいては危ないです。女性は右が宜しいかと思います。女性を守るためにも、左にある太刀を右手で抜き、両手を広げますと丁度『守れる体制』に成れます。
西欧のピストルの場合は、右にピストルがあり、その隣に女性がいて暴発でもすれば、女性に怪我をさせてしまうかもしれません。故に、女性が左に来て頂くと安全であり、且つ、右手でピストルを抜き左手で女性を『庇う姿勢』が自然と取れます。女性は左が宜しいかと思います。
この様に覚えて頂きますと覚えやすいのではないでしょうか?
女性の方がお強いご家庭は、この法則の逆に飾って頂きましても差し支えなく、また、そう飾った意味を悟られることも無いと思いますよ。(笑)
4時間目 風習・祭り
『お雛様は早くしまわんと結婚できへんで』と良く言われます。 『当たらずとも遠からず!』。 お雛様の始まりは、人(方)形なのです。真っ白な和紙を人の形に切り、大人も子供も体にこの和紙を当てて、息を吹き掛け、名前を書いて、竹で編んだ船(笊でもあります)に乗せて、川に流しました。
人の厄を払う行事の形が変わって来て、現在の雛祭りになりました(現代に到るまでの経過は長くなるので略!)。ですから、本来の意味はお子さんの無事の成長を祈って、お雛様が代わりにそのお子様の厄を受けて下さっておりますので、3月3日が過ぎますれば速やかに片付けてください。そうしないと『厄が子供に戻ってしまう』言い伝えです。
そして、古くなったお雛様は神社やお寺でお焚き上げして頂いて下さい。けして、親戚に女の子が出来たから『丁度ええわ。うちとこのお雛様まだ綺麗やから譲るわ』なんてしないでください。
せっかく身代わりに引き受けて頂いた厄が憑るかもしれませんよ~~~~~!(これは冗談)。
使い回しはやめて、お一人最後まで何歳になってもお祀りください。そして、姉妹でもその子その子、お一人お一人に、一組のお雛様をお祭りください。お雛様は、お一人お一人のお守りなのです。
『えらい大きいお守りやな~~~~!』ってなことです(^O^)
最後に「お雛様の飾り付けはいつ頃からよろしいですか?」と云う事ですが、一般的には立春(2月4日)やお水取りの頃からひと月程飾ってお楽しまれるようです。(※注3)
※注3)地域によって諸事情により、その地方の風習があります。あくまで一般的な飾る目安です。
横浜人形の家ではひな祭り展が3月24日まで開かれています。
http://yokohama-doll-museum.com/
佐々木彬文画伯と茶懐石料理を作りませんか?
日本画家であり茶道講師である佐々木先生と茶懐石料理を1~3品作り、楽しくおしゃべりをしながらいただきます。会話の中から「日本文化」の良さに気づいていく教室です。女性の参加者が多い教室ですが、男性も大歓迎です。
(お問合せ/お申込み:http://www.ikiiki-club.jp/)
佐々木彬文プロフィール
日本画家(彬文会主宰)
茶道講師(裏千家 佐々木宗秀)
クラッシックギター演奏者
文・絵:佐々木彬文(日本画家・裏千家茶道講師)/写真・構成:高野慈子
第1回 こだわりの生産者。保土ヶ谷区西谷の苅部博之さん
プロだから当然です。
はじめまして。
今回からコラムを書かせていただく、株式会社よこはまグリーンピース代表取締役の椿 直樹と申します。西区戸部町で「ど根性ホルモン」という居酒屋を経営しております。
さて、コラムの内容ですが、横浜という大都市の「地産地消」について、「人」にフォーカスして書いていきたいと思います。ここでいう「人」とは、横浜の生産者やメーカー、企業の方々の事です。どうぞ よろしくお願いいたします。
という事でトップバッターとなる一人目は、保土ヶ谷区西谷に在住、ご自身で13代目となる苅部博之氏です。 |
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くレベルだと思います。そのエピソードを後日彼に伺った所、「プロだから当然です。それがFRESCOのブランドだから」という、あまりにもカッコ良い返事が返ってきました。
そんな彼が運営している直売所ですから、オープン前にはたくさんのお客様が並んで開店を待ちわびています。
なぜ直売所以外にも販路を広げ利益を追求しないのかを伺ってみた所、またまたこんな返答がきました。「安易に販路を広げると、ここに並んで下さっているお客様の分の野菜がなくなってしまうし、忙しくなれば質も落ちてしまうかもしれない」。
この様な積み重ねが、お客様や我々プロの料理人から支持される理由ではないかと思います。
先日、彼の息子がいる小学校に特別講師として彼の野菜を使用した料理を作りに行ってきました。その際も彼は、自分の畑、地域、そして我々のような料理人も含めすべての人々はつながっているんだよ、とお話していました。
本当にその通りだと思います。
我々が生活しているすぐ側に畑があり、がんばっている生産者がいる。このような地域は大都市ならではの特徴だと思います。
市民がもっともっと一次産業に理解を示し、それと共存していくという意識を強く持つ事が、横浜の地産地消を理解する上で必要なことだと思います。
(文筆:椿 直樹)
レポーター・プロフィール
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第10回 建築家とつくる
unit-H(株) 中村高淑建築設計事務所
中村高淑
みなさんは建築家って知っていますか?
「建築士のことでしょ!? 」、「建物を設計する人だよね!? 」、「えっ、設計士と違うの!?」、「変わった建物つくる人?」
いえいえ、建築家って「みなさんの使う建築を一番いいものにしようと考えるパートナー」のことなんです。
まぁ、実際には建築家についての定義は「設計と施工を分離した中立な立場」であるとか、「建築家協会の定義(※1)」や「国際建築家連合の基準」だとか、いろいろあるのですが、わかりやすくいうとこの一言でいいんじゃないかなと思います。
※1)建築家協会の定義「建築家とは」
http://www.jia.or.jp/guide/architect/main.htm
現代人のみなさんは建築を使わない日は無いハズですよね。アウトドアでキャンプしたときでさえもテントといった簡易な建築(シェルター)を使うでしょう。まず自宅で目覚め、街に出て仕事や学校へ行って、帰りにちょっとお店によって、家に帰って休む。旅行にいけばホテルや旅館に泊まり、建築を含む名所を周って、レストランで食事をする。毎日毎日、必ず建築を使いますし、街はひとつひとつの建物が集まって構成されています。何気ない日常生活の中で建物に関わる時間は実はとても長いのです。その「長い時間を過ごす建築を美しく豊かなものにすれば、人生も美しく豊かになるのではないだろうか…」、なんてことを日々、建築家は考えているのです。
事実、実際に私は、「建築の力と可能性を信じたい・・・・」そんな想いを胸に自らの事務所を設立しました。建築にはみなさんの暮らしや社会をより豊かにするだけの力と可能性を持っていると信じています。
そして独立後15年近くが過ぎ、その間に約60軒以上の建築をつくってきました。そのうち横浜市内で完成した家が20軒、今23軒目を設計中。ひとりの建築家としてはまぁまぁ仕事に恵まれ、多くの家を手がける一方で、我々は仲間達と古くても価値があるものは文化的な遺産や街の記憶として残すように運動をしてきました。それでも残念ながら、まだまだ日本の街並みは美しく豊かとは言い難い...。私たちはこの街に住んでいること、それ自体が楽しくなるような家と街並みをつくりたいのです。中には結果的に個性的に見える建築もあり、その点が目立つこともありますが、決して奇抜な建築をつくることが建築家の仕事ではありません。
そして、実は、いい建築や街並みをつくることは簡単なんです。「建築を発注する人(施主)」、「考える人(建築家)」、「造る人(施工者)」の三者がいい建築にしようと思えば、ほぼ100%に近い確率でいい建築になります。
我々建築家は与えられた条件と許された予算(これ重要!)や期間、法律や建築技術のなかで最高にバランスのいい建築を作ろうとします。それも寝食も忘れてかなり一生懸命に(笑)
いい建物にしたい「建築を発注する人(施主)」が、そんないい建築を「考える人(建築家)」に依頼すれば、建築家は腕がよくて信頼がおけるいい建築を「造る人(施工者)」を紹介したり、一緒に探すことができます。
どうでしょう? こうしていい建築にしたい三者が揃えば、おのずといい建築ができあがると思いませんか?
いい建築がほしい人はぜひ建築家に声をかけてみてください。きっと最良のパートナーが見つかるはずです。建築はパートナーを決めた時点でほぼその成否が決まります。私たちに安心・安全・快適で美しい建築や街並みをみなさんと一緒につくらせてください。
「暮らしを大切にデザインする」ギャラリーへ
横濱元町AA STUDIOは「暮らしを大切にデザインする」17名の建築家のギャラリーです。それぞれの建築家の模型・作品写真など自由にご覧になれます。
横濱元町代官坂の中腹にあるカフェのようなギャラリーで、週末は交替で建築家がお迎えいたします。(建築家と話そう!)ホームページのスケジュールに担当建築家が掲載されていますので、カフェに立ち寄る気分で横濱元町まで建築家とお話にいらしてください。お待ちしております。
なお5回ほど私が連載して参りましたが、今後はメンバーが交替で「新しい建築とのかかわり方」を綴りますので、変わらぬお付き合いでご愛読くださいますと幸いでございます。ありがとうございました。
AA STUDIO WEB http://www.aaplan.com/aastudio/
Craftman Shop Street Motomachi http://www.motomachi-cs.com/cm/shop/shop051
青木恵美子 | http://www.aaplan.com |
新井今日子 | http://www.arai1992.com |
伊藤 寛 | http://www.ito-kan.com |
岡田 勳 | http://www.kuukantoshi.co.jp |
荻津 郁夫 | http://www.o-as.co.jp |
神田 雅子 | |
北川 裕記 | http://www.aalab.com/kitagawa/ |
栗原 正明 | http://msak.asia |
河辺 近 | http://www.ken-ken-a.co.jp |
後藤 武 | http://www.gtaa.jp |
鈴木 信弘+洋子 | http://suzuki-atelier.com |
豊田 悟 | http://home.m07.itscom.net/toyoda/ |
中村 高淑 | http://www.unit-h.com |
藤本 幸充 | http://www.kamakobo.com |
松井 理美子 | http://www.matsui2ar.com |
水口 裕之 | http://homepage1.nifty.com/eau/ |
山口 賢 | http://www.amarterrance.com |
HEART&SOUL代表 原 正行 1958(昭和33)年9月7日横浜生まれ、12歳よりギターをはじめ17歳からミュージシャンとして活動。39歳の時に念願だったライブハウスを開業、現在は関内駅北口駅前に60年代から80年代の洋楽ヒット曲を演奏するライブハウス、ハート&ソウルの経営者。他にもミュージシャンとして演奏活動、作曲、プロデュース等、幅広く活動している。 |
第2章 フォークと日本語のロック その6 (日本のロック黎明期)
GSからニューロックへ
GSも殆どのバンドが ’70年をまたぎ解散、新しいロックの道を模索していきます。代表格としてPYGがあります。タイガースの沢田研二と岸辺修三、テンプターズから萩原健一、大口広司、スパイダースから井上孝之と大野克夫6人で結成されたのがPYGです。渡辺プロ所属のグループということで批判もあり短命でしたがロックへの道を模索していました。わが横浜のゴールデンカップスも ’72年1月で解散、リードGのエディ藩はエディ藩グループとしてファンキーなサウンドを模索し活躍。ルイズルイス加部は元パワーハウスの陳信輝らと共にスピード・グルー&シンキなどで活動、後にジョニー、ルイス&チャーの活動につながります。正にロックが胎動していた時期と言えるでしょう。
サディスティックミカバンド
フォークからロックへ見事な転身を見せた大御所、加藤和彦氏が当時奥様のミカさんをリードボーカル、ドラムに角田ひろ(メリージェーンで有名)、ギターは高中正義で結成。 ’72年 「サイクリングブギ」 でデビュー。程なく角田が抜け、高橋幸宏(後のYMO)が加入、ベースは小原礼(昨年の象の鼻イベントに奥様の尾崎亜美と出演してくれました)、そうそうたる顔ぶれです。
ファーストアルバム 「サディスティックミカバンド」 は、当初千枚しか売れませんでしたが、海外で評判になり逆輸入という形で日本でも売れるようになりました。これをきいた英国のプロデューサー、クリストーマス(ビートルズやピンクフロイドを手がけたことで有名)からプロデュースの話があり、アルバム 「黒船」 が完成、日本のロック史上に残る名盤がリリースされました。名曲「タイムマシンにお願い」の歌いだしで一瞬間をおくセンス、「塀まで一っとび」などののファンキーなサウンド、ファンキーマージャンやお産婆サンバのユーモアセンス。黒船の「おっプログレっ?」と思わせるアルバム作り。そして英国仕込のファッションセンス。すべてが卓越していました。海外でも高く評価されロキシーミュージックのオープニングアクトを勤めたりしましたが ’75年加藤夫妻の離婚により解散。
現在までボーカルを変え2度ほど再結成しています。
カルメンマキとオズ、ブルースクリエーション
フォーク風歌謡曲 「時には母のない子のように」 でヒットを飛ばしたカルメンマキが、ある時ジャニスジョップリンにしびれ、ロック歌手へ転身します。カルメンマキ&タイムマシーンを経て、ブルースクリエーションとマキ&ブルースクリエーションでアルバムを作成、ニューロック期の名盤として評価が高いようです。(ブルースクリエーションはブルースギタリスト竹田和夫を中心に ’69年に結成、71年頃からカルメンマキと活動しその年の全日本フォークフェスティバルにも出演。 ’72年にはブルースクリエーションを解散してクリエーションとして新たに活動を開始。クリームを育てたアメリカ人フェリックス・パパラルディに認められ海外でも評価される。アメリカのプロレス兄弟チームザ・ファンクスの入場テーマ 「スピニングトゥホールド」 が有名で、 ’80年代にはボーカルに元カーナビーツのアイ高野を加え 「ロンリーハート」 の大ヒットがある)
’72年には新メンバーでカルメンマキ&OZを結成。地道な活動を経て、 ’75年に1stアルバム「カルメンマキ&OZ」を発表。10万枚を売るセールスを記録。ロックがまだ形作られていないこの時期、この記録は大したもので、前出の黒船と共に語り継がれています。中でも12分の超大作「私は風」は素晴らしく日本のロックを語る上で重要な一曲と言えるでしょう。
横浜、街と風(青い日記) 6
ナショナルショールーム
1972年、当時横浜関内の現関内ホールの関内大通りを隔てた所にナショナルショールームがありました。発売中のセパレートステレオなどが沢山展示してあって、レコードリストから自由にレコードを借りて試聴することが出来ました。(もちろんヘッドフォン使用、無料だったと思います) クラシックからフォーク、ロック歌謡曲までかなりの数のレコードがありました。しかも、2階の奥にはライブスペースがあり、殆どただ同然でライブが見れました。しかも驚くのは、出演者でよく出ていたのは、ピピ&コット(後に「どうぞこのまま」をヒットさせる丸山圭子や、通りゃんせのケメがいた)、RCサクセション、など、フォークギターをかきむしるように弾き歌う忌野清四郎をほんの5メートル位の距離で見ていました。後は当時売れかけていたフィンガー5。一番印象に残っているのが井上陽水で、ただでさえも身長が高いのに、アフロヘアーとヒールの高い靴でエライ巨人に見えました。その背中を丸めて座り、「傘がない」、「夏まつり」をアコースティックギター2本で歌っていたのは忘れられません。
衝撃の出会い
フォーク三昧の日々、ある時ラジオの特番でビートルズ特集をエアーチェックしました。兄の影響で普通に洋楽は聴いていたし好きでしたが、その時聞いた「恋する二人、I Should have known better」にかつてない衝撃を覚えたのです。ギターのサウンド、ジョンのボーカル、すべてにしびれて、これをそっくりにやりたいと思ったのです。それからはしばらくビートルズを聴きまくる日々が続き、授業中退屈な授業の時はビートルズのメンバーを写真を模写したり、分厚いビートルズ関連の本を読みあさったり、夜は必死にギターをコピーしたり、お正月の2日は一人部屋にこもり一日中ギターを弾きながらビートルズを片っ端から歌いまくりました。その後の爽快なこと、、正に快感!
ビートルズはこの時すでに解散していて、確か第一回目のリバイバルブームの時でした。今に至るまでビートルズは自分にとって特別な存在です。
進学
いよいよ高校受験。たいして勉強もしていないので不安でしたが、白楽にある武相高校に合格、こんな自分でも拾ってくれる所がありました。
港南中学ともお別れの時がやってきて卒業式を迎えます。音楽や生涯の友と出会えたこの中学校に感謝しています、近年、前を通ったらプールや懐かしい校舎がなくなっていてちょっと寂しい気持ちになりましたっけ、もう40年経つのだから当たり前ですよね。
(HEART&SOUL代表 原 正行)
HEART&SOUL
〒231-0014 横浜市中区真砂町3-33 CERTE11階
営業時間
平日:OPEN 19:00 CLOSE 4:00 LIVE START 19:50~
休・祝日:OPEN 18:00 CLOSE 24:00 LIVE START 18:40~
TEL:045-664-5569
JR関内駅徒歩より1分
地下鉄関内駅より徒歩1分
Websie http://www.heartandsoul-live.com/
春の夜の 夢ばかりなる たまくらに かひなく立たむ 名こそ惜しけれ
♪春の夜の 夢ばかりなる たまくらに かひなく立たむ 名こそ惜しけれ♪
絵・千絵崇石 |
読み人:周防内侍(すおうのないし) 現代語訳 by 千絵崇石・・・春の月夜に誘われて ふと気を許して あなたの腕を 枕にすれば きっと 噂されている夢を見るでしょう 私とつまらない噂が立っては あなたがお困りでしょう この歌には粋なエピソードがあります。場所はもちろん宮廷サロン。月の明るい春の夜に後冷泉天皇の中宮章子内親王(2条院の御屋敷)のもとに人々が集まって夜通し話しをしていました。夜も更けて飛び交っていた話しも一段落して誰もが畳にごろりと横になりたい様なリラックスした沈黙が訪れていた瞬間に作者の周防内侍がふと「枕が欲しいわ」とつぶやきました。それを聞きつけた大納言忠家が「これをどうぞ!」と自分の腕を御簾の下から差し出してきました。 |
彼女はそこでつかさずこの歌を詠みます。あなたの手枕はいりませんよというお断りの歌なんですが、機知とエスプリが効いていて、その上品な小気味よさにしびれてしまいます。御簾からにょきっと自分の腕を出した大納言忠家の方としては、枕が欲しいというつぶやきが聞こえて、男のお茶目な気分を刺激されたのでしょう。このお茶目男の大納言忠家は公家さんで、御簾の中にいたと言う事は位の高さでは女官の周防内侍とは大きな格差があります。えら~い人なんです。そんな大納言様が女官に軽くく応酬されて、さて本人はその後どんな歌を返したのでしょう。それも残っています。
♪契りありて 春の夜ふかき 手枕を いかがかひなき 夢になすべき♪
読み人:藤原忠家(ふじわら の ただいえ)
現代語訳・・・春の夜深く 貴方に差し出す手枕は前世からの約束です・・儚い夢で終わらせることなどはしません!私は真剣ですよ。
その後二人が深い仲になったかどうかは記録には残っていませんが、私が周防内侍だったら、きっと自分の良い男リストにでも入れておくと思います。そしてバレンタインデーにはちょっとかわゆいチョコでもあげちゃいそう。この歌を詠んだ周防内侍は色んな天皇様に仕えた女官でばりばりの平安キャリアウーマン。36歌仙の一人でもあり歌人の才能と女官の長としての采配力にたけた女性だったのでしょう。こんなイメージで周防内侍を捉えるとあまり柔らかみもなくてまわりの男性にとっては対等に渡り合ってゆくパワフルウーマンで・・彼女を口説くなんてもってのほか!と思われがちですが。私がいつも彼女の歌をうたう時にハートに浮かんでくる女性は・・・・とてもセクシーなんです。きっと沢山の男性にプロポーズされて・・その中にはラブアフェアのような儚い誘惑もあって、それらに翻弄されて沢山涙を流してきた可愛い女性が見えます。そして本当の恋を求めながらも恋することに憶病になっている。そんな高級女官さんが、とっさに返したこの歌。この歌は彼女の本音です。
(早苗ネネ♪)
新宿シャンパーニュ 電話 03-3354-8540(昼) 03-3354-2002(夜)
新宿一丁目。元新宿厚生年金前。http://www.champagne-live.com/
1.スターピープルVOL41から「女性性のパラダイムシフト」というタイトルで連載寄稿しています。
早苗ネネさん プロフィール
木々や鳥や魚や精霊…人間以外の存在達との交流が当り前に語れるくらい、いのちのひろがりに気づくと、共に生きている喜びや、苦しみや悲しみにもナイーブになる。
心と野生がひとつながりになると……こんな風に人は年を重ねられる。ひとりひとり、ユニークにもっと自分になれる。
早苗 Nene さんは、そういう人生の先駆者です。 感性を解放しながら、40代で高校生に仲間入り卒業後、マウイのカレッジに留学中、突然半生記が受賞しました。
そんな新たなシーズンを迎えて、今エッセンスを分かち合いたい。
<天性の歌い手>というだけでなく、その存在感、溢れる活性のバイブレーションは、光のシャワーのよう。彼女と語り歌い、魂の成長を旅している現在の、自分の位置を確かめてみませんか?
横浜市南区にお住まいの八田さんご夫妻の愛犬、プーちゃんともみじちゃん
今回は横浜市南区にお住まいの八田さんご夫妻の愛犬、プーちゃんともみじちゃんをご紹介します♪
八田さんご夫妻は独身時代からそれぞれにワンちゃんを飼われていて、ご主人はプーちゃんを、奥様はもみじちゃんを連れて3年前にご結婚されました。ぷーちゃんも、もみじちゃんも最初は緊張していたそうですが、今ではとっても仲良し家族です ♥
♥ プーちゃん | ウェルシュ・コーギー・ペングローブ(イギリス) メス 9歳 |
エピソード | 趣味はドライブ!! クルマも好きだし、パパのバイクに乗せてもらうのが大スキ。 お家の周りをちょこっと走るだけだけど、風が気持ちいいのー♪ そしてリズムだってとれちゃうんです♪ |
♦ もみじちゃん | レイクランド・テリア(イギリス) メス 6歳 |
エピソード | 大人しいけど、いたずら好き。何故かプラスチックが大好き。 噛んじゃダメとママに叱られてもやめられなくて、プラスチックをガリガリしていたら、この前は下の歯が抜けちゃいました!! それからパパのクルマのサイドブレーキの先っぽに付いているボタンを噛んで飲み込んじゃったことも!? ママに聞いたら、1ヶ月後にウンチの中からボタンが出てきたって!! よかったぁ♪ ホッ☆ |
お茶目なふたりはカフェが大好き ♥ |
そしてお家ではこーんなにリラックス☆ふたりで仲良くお昼寝中であります。。。すやすやzzz |
ハロウィンの時だって、仮装パーティに負けないくらい可愛いでしょ ♥ |
お気に入り ♥ パパのカッコイイ車でドライブするのが一番の楽しみ♪ |
取材&撮影場所・・・港の見える丘公園
写真・文・・・足立 優
写真提供・・・八田様
横浜野毛で37年間続いているバー「美幸」の馬場敏江ママ
横浜の桜木町駅のそばにある野毛(のげ)地区は、横浜開港とともに交通の要所となりそれから繁華街として栄えてきた。特に戦後は闇市が開かれ、人で溢れていたという。美空ひばりがデビューした横浜国際劇場も野毛の一角にあった。
現在の野毛(のげ)には、居酒屋から本格料理店、バー、ライブハウスまで多種多様の飲食店が軒を並べている。その中に住宅、医院、美容室などがあり、ソープランドや、フラブホテルなどの風俗店も同居しているという、まさに「ごちゃごちゃ」した感じが “野毛らしさ” だと言われている。
横浜の下町「野毛」公式ホームページ(150程度のお店が紹介されている)
http://www.noge-net.com/index.htm
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その野毛で37年間、続いているバー「美幸」がある。カウンター席が10席しかないが、いつ行ってもお客さんで一杯。筆者も「美幸」に行き始めて20年になるが、何度断られたことか・・ 今月号の「ヨコハマこの人」は「美幸」の人気の秘密に迫ってみる。
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ママ(馬場さんのことを筆者はそう呼んでいる)は、長年美容師をやっていたと聞きましたが・・・。
姉さんが美容師だったこともあり、私も若いころから美容師を目指していたの。鎌倉美容学校を卒業して美容師の国家試験を受けたのが昭和27年(1952年)でした。 その後、「写真のモデルになってほしい」と電車の中で声をかけられた男性に見染められて結婚しました。19歳で長女(美幸さん)を出産して、夫の援助で20歳で美容室を始めました。美容室を持たせてもらうというのが「結婚の条件」だったから・・。 でも事情があって、娘を残して32歳のときに婚家を出ることになったのです。 神奈川区の美容室で主任として一所懸命働きました。私は働くことが趣味で、寝る暇があったら働いているほうがいいというタイプなのね。それと婚家に残してきた娘にお金を残したい一心で、お酒が飲めないのに夜もアルバイトを始めました。とても評判が良くて、今思うと、接客業が向いていたのかもしれない。 |
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昭和47年(1972年)に、上大岡駅前に「とし美容室」を開きました。この美容室は上大岡駅の再開発で閉鎖する平成4年(1992年)まで経営していました。美容室は繁盛して、美容師協会の役員をやったり美容師研修の講師も務めていました。
美幸さんにとってママはどんな存在でしたか?
どきどき会うお母さんは、いつもきれいであこがれの人でした。
美容学校に行ったのもお母さんに近づきたいと言う気持ちだったからかも・・。
18歳になってようやくお母さんと一緒に暮らすことができました。
ママが「美幸」を始めたのはどういう「きっかけ」からですか。
美幸を美容師にして行く行くは支店を持たせようと考えていました。ところがその当時は「男性美容師」全盛時代で、女性美容師はなかなか就職先がなかったのです。美幸さんは美容学校時代に野毛のお店(ゲイ・バー)でアルバイトしていて、彼女は接客業のほうが向いているのではと考えていました。
だったら二人でお店をやれたらと思い、カウンター席だけの小さなお店を探しました。そして見つかったのが、ここなのね。お店の名前は「美幸」にして、素人の母娘二人でバーを始めることになりました。
写真:野毛の風景 |
当時の野毛は賑やかで、お客様はネクタイ族の男性ばかりだったそうです。「美幸」の前のお店は繁盛していて、船員さんや役人が常連さんでした。その方達がそのまま常連になってくれたそうです。二人は37年前の開店日の最初のお客様を今でもはっきりと覚えていました。 「美幸」は美人母娘がやっているお店だと評判になって友達が友達を連れてくる「憩いの場」になっていきました。女性同士が野毛に飲みに来ても安心なお店だと言われ、大勢の女性達が訪ねてきました。開店当時、FUKUZOのシャツにGパンが二人の仕事着だったそうです。 |
それから37年・・・。美幸さんが子育て中の6年間は、女子大生に手伝ってもらって、母娘二人のお店は続いてきました。 常連さん達が「山登りの会」を結成して、ママも一緒にハイキングに行ったり旅行に行ったり、家族ぐるみの付き合いをするようになりました。 私の紹介で生まれた夫婦が八組あるの。人生相談をしにくるお客様も多いのよ、私は世話焼きババアね・・とママは話してくれました。 |
ママは、「美幸」の人気の理由はどこにあると思いますか。
家のダイニングで飲んでいるような雰囲気がいいのかしら・・・。私は、バー・クラブ・キャバレーの雰囲気で、小料理屋の食事ができて、立ち飲み屋のようにおしゃべりを楽しめるお店を目指してきました。それがお客様に受け入れられているのかもしれませね。
仕事を退職しても、毎日のように通ってきて「ここは第二の我が家だ」と言って下さるお客様たちがうちの財産です。
何でそんなに人気があるのか・・・<筆者の見解>
まず、誰に対しても優しく接してくれる、お二人の人間性です。ママは、人の気持ちに寄り添うことができる方で、男気があって頼りになる感じがします。美幸さんは、とても綺麗で華のある方だが、優しい感じが素敵で女性に人気があると思います。
そして、バーなのに(?)とても美味しい家庭料理が出てくること。席につくと、今は家庭でなかなか食べられない「きゃらぶき」、「おから」などの手作りのお料理が次から次へとが出てきます。寒かった今年の冬は、一人分の土鍋に「湯豆腐」が出てきました。
来やすいお値段だということもあるわよ・・とはママの意見。
経営センスにも優れていて、野毛でもかなり早い時期に「カラオケ」を導入しました。最新の「カラオケ」では、点数がつくだけでなく、全国ランキングが表示されます。
常連さん達が、「カラオケ」で歌いながら、家庭料理に舌鼓を打っている、まさに我が家のように振る舞えるお店が「美幸」なのです。
ママはシニア世代なのになんでそんなに元気なのですか。
お客様にお会いするのが嬉しいのね。体調が悪くてもお店の時間になると不思議なことに体が動くの。まだまだ現役で頑張りますよ。私の人生は失敗の繰り返しだったから、それを伝えてお客様には失敗してほしくないという気持ちも強いわね。
美幸さんにママの元気の素を伺うと
働くこと、お客様と話すことが好きなんですね。家庭的な人ではないのに、お客様のためには、時間をいとわず煮ものを作っているのを見ると、本当にこの仕事が好きなんだなと思います。「子供のために 孫のために」と言って頑張る母には頭が下がります。
ママにとって「横浜」は、「野毛」は どんなところですか。
これまでずっと勝負してきたから・・・。「私の土俵」です。ここでたくさんの人達との素敵な出会いがありました。 これからもお客様を大切にして、家のダイニングで飲んでいる雰囲気を残して、娘と二人でお店を守っていきたいですね。 |
高度成長時代は、「帰りに一杯」が当たり前だった。仕事帰りに一杯飲んで、疲れをとりストレスを発散していた。そんな良き時代の雰囲気が「美幸」にはまだ残っている。
この癒しの空間がいつまでも続くことを願ってやまない。
インタビュー・文・写真:渡邊 桃伯子
横浜の女の子たち
横浜市中区を散策しているとたくさんの女の子のブロンズ像に出会います。私のお気に入りの「女の子」たちを紹介いたします。 一番有名なのは、山下公園の中にある「赤い靴はいてた女の子」でしょう。「赤い靴」の童謡にちなんで1979年に作られました。「異人さんにつれられて行っちゃった」という悲しい歌詩ですが、今はいつも大勢の観光客に囲まれていて、寂しくないでしょうね。 山下公園の中にあるバラ園にもう一つ女の子の像があります。「やくそく」という名称のガールスカウトの像で、三人の少女たちです。日米友好のためにアメリカガールスカウト50周年を記念して1962年に作られました。歴史的なこの像に気がつく人が少ないのが残念です。 気がつく人が少ないと言えば、横浜が生んだ歌姫、「美空ひばり」の像が、桜木町駅から日の出町駅に続く通りにあるのをご存知でしょうか。横浜市磯子区の魚屋の娘として生まれた「ひばり」が10歳でデビューしたのが野毛の国際劇場でした。ひばり像が立っているまさにこの場所が彼女のデビューの地なのです。訪れる人も年々減っているようで「ひばり」ファンの私としては寂しい限りです。 元気な「女の子」もいますよ。それは、日本丸メモリアルパークにある「海鳥達の風/The wind for sea birds」です。海鳥と女の子の像は躍動感あふれるみなとみらい地区にマッチしています。峯田義郎氏の作品で1986年に制作されました。日本丸やランドマークタワーに対して凛として立っている女の子の像は若い人たちに見ていただきたいですね。ここはデートスポットしても人気らしいです。 関内駅に隣接する横浜公園の中の女の子は「心の像」と名付けられています。「やさしい心が生命を守ります 心のふれあいがわざわいをなくします 安全の希いと祈りをこめて・・」という詩が刻まれています。「心の像」の前には遊具があって、子供達の笑い声が絶えません。 女の子の像には健やかに育ってほしいという願いが込められているのでしょう。「いじめ」「体罰」・・・「心のふれあい」を育んでいったら起きなかっただろうにと思うことばかりです。 3月16日には東急東横線が東京メトロ線とつながります。埼玉方面から横浜が近くなります。横浜を訪れたら、女の子の像にも注目して下さいね。 |
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第4回 白隠展に行ってきた。
プロローグ
白隠は書画を描き、それを使って民衆の教化に努めてきた人だという。これは一体誰の為に書いたのだろう。子供かな?修行僧かな?商人かな?農民かな? そんな事を想像しながら、絵に書かれたメッセージ(賛)とともに、漫画のような絵を楽しんで欲しい。(『白隠展』は2013年2月24日まで開催)
今に伝わる「禅/臨済宗」のスタイルを作った偉~いお坊さん「白隠」
白隠(白隠慧鶴・はくいんえかく:1685-1768)とは、江戸時代中期の禅僧。
鎌倉時代に中国から日本に伝わったとされる「禅」を、江戸の時代に再興、臨済宗の今のスタイルを構築したと言われる人だ。白隠は、15歳で出家し83歳で没するまで、膨大な数の書画を描き残している。現存するだけでも1万点以上と言われ、誰にでも分け隔てなく、与えて回り、民衆教化に努めた。
今回展示されているのは約100点。白隠が残した数からすれば、ほんの一部だが、実にバラエティー豊かで、様々な内容のメッセージを感じ取ることができる。
1分でわかる! ざっくりと「禅宗」
私のように、仏教について全く知識がない人のために、「禅宗」について少々調べてみた。
「禅宗」とは坐禅をする宗派ということになるが、現在では主に、臨済宗(りんざいしゅう)、曹洞宗(そうとうしゅう)、黄檗宗(おうばくしゅう)があるのだそうだ。違いを超ザックリ言うと(ザックリ過ぎて叱られるかもしれないが)、次のようになる。
「臨済宗」は与えられた課題(公案という)を考えながら坐禅して修行し悟りを目指すというもの。坐禅の向きは通路側を向いて座る。
「曹洞宗」は修行と悟りは一体と考え、坐禅そのものが悟りの姿とし、心を無にして坐禅するというもの。坐禅の向きは壁側を向く。
「黄檗宗」は自己の中に浄土を見出し、念仏を唱え坐禅するというもの。リズムを刻む木魚も黄檗宗とともに広まったとされる。
ちなみに鶴見区にある總持寺は、永平寺と並ぶ2つの曹洞宗大本山の一つ。一般の人も、坐禅に参加できるコースがある。
HP http://sojiji.jp/zenen/sanpai/sanzenkai.html
一人一人に処方を変えるカリスマ医師のような白隠
今ではこの3つの宗派がある禅宗だが、白隠の時代は、現在のような明確な別れ方はしていなかったようだ。白隠は自由な発想で、修行のための課題「公案」も、自らつくり加え、禅宗を構築していった。
白隠が活躍した江戸中期とは、戦乱の世は去り、安定したとみられる時代。寺子屋などにより、民衆の識字率が急速に高まり、大衆の文化が花開く。しかし一方で、一揆もしばしば起こっている。民衆の貧富の格差が一段と広がり、富む者と貧しい者が混在する時代だったわけだ(現代と似ているのかもしれない)。
そんな時代背景の中で、白隠が伝えたメッセージは、型にはまらない白隠流。時には難解で、時には分かりやすく、また時には包み込むように暖かく、時にばかばかしく笑えるなど、実に様々だ。修行中の僧侶やおごった者には、自らの未熟さを痛感させる問答を、弱って疲れた貧しい者には、癒しや内なる浄土を、その人のその時々の状態にあわせて、最適なメッセージを説いてまわったのだろう。まさに、患者の状態にあわせて処方する、カリスマ名医のような存在ではなかったか。
白隠は、独自の漫画のような画風で、神様や地獄の閻魔様までをキャラクター化して、ユニークに面白おかしく書き上げている。こんな教材を使われては、興味を引かないわけがない。当時は、大ウケだったに違いない。
事実、晩年の白隠のもとには、一般民衆、修行僧、身分の高い者、低い者、様々な人々が、ひっきりなしに訪れたとされている。また、自らも生涯にわたり民衆の元へ出向き、教化する現場主義を貫いた。
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(1) 半身達磨 |
(2) 布袋吹於福 |
(3) すたすた坊主 |
(1)半身達磨(はんしんだるま)
美術館を入ってはじめに目にする2mもある大作。賛(絵に書かれたメッセージ)は「直指人心、見性成仏」。「仏は自分の心にあり、それを自覚することで仏になる」という意味。
(2)布袋吹於福(ほていすいおふく)
右は煙草を吸う白隠布袋。左はその煙が幸運を呼ぶお福になっている。白隠はよく自らを布袋さんとして描いている。また、お福も、人々に幸運をもたらす象徴としてよく描いている。この絵は、白隠が皆にお福を連れてくるぞ、皆の幸せを願っているぞと示している。
(3)すたすた坊主
当時、金持ちの変わりに代参した坊主が実際にいたらしいが、この坊主は白隠とされる。白隠が皆の代わりに代参し、皆の幸せをいつも願っているから大丈夫、安心しろよ、ということなのだろう。
白隠は兼好が嫌いらしい
展示作品の中に吉田兼好(後に出家して兼好法師)を猿になぞり吉田猿猴と呼んで、馬鹿にしている作品がある。
吉田兼好と言えば、「徒然草」の作者。「つれづれなるままに、日ぐらし硯に向かひて、心にうつりゆくよしなしごとをそこはかとなく書き付くれば」ではじまる冒頭の意味は、「暇でやることもないので、思いつくままかいてみよっかな」というもの。そして内容は、自分の関心事や、何かの評価や批判がメインの当時のコラムだ。
白隠としては、「暇をもてあましたあげく、自分の事ばかり考えおって、人の幸せのために何かやろうとは思わんのか!」とツッコミたくなるような人物に映ったのかもしれない。
一方、白隠が師と仰ぎ、好んで書いたとされる禅宗の祖師の中に、大燈国師という人物がいる。この人は京五条の橋の下で、20年にわたり乞食に交じって暮らしたという人。現場をまわり、他人の幸せのために、全身全霊を捧げて奮闘する人だったようだ。まさに、白隠の現場主義のお手本となった人なのだろう。
机の前で、自らの美学を追求する兼好とは対照的だ。
この大燈国師の絵も、展覧会ではお目にかかれる。
時には教科書も下ネタ パロディーに!
当時寺子屋で使われていた教材「実語教」をパロッた絵もある。
「智有るを以て貴しとす」 という冒頭の文章を、「痔有るを以てたった下火」として、お尻を出して痔の治療をしている滑稽な絵を描いているのだ。とても和尚の書くものとは思えない下ネタだが、当時、これは間違いなく大爆笑だったはずだ。
寺子屋に行きたくない子供達、あるいは寺子屋に行けなかった読み書きのできない民衆を集めて、そのへんの石にこしかけながら、「いいか、見とれよ」とでも言いながら、書いてやったのかもしれない。白隠とは、そんな「お笑い」大好きのサービス誠心旺盛な、吉本系坊主でもあったようだ。
カリスマを受け入れ 演じたかのような白隠
「白隠様がおっしゃるなら間違いない」、「白隠様が命令して書かせたんだから、皆が長生きする寿の効果はあるに決まってる」「だから、心安らかに信じよう」。そんな民の声と、カリスマを受け入れた白隠の覚悟のようなものを、この絵から感じた。白隠83歳、最晩年の作である。
参考:白隠展パンフレット、白隠禅師の不思議な世界/芳澤勝弘著
プロフィール
ペンネーム: 津木 雫(つぎ しずく)
オヤジ・オバチャン・オトメのO3マインドを持つ、なんちゃってコラムニスト。
約20年間メーカー勤務。広報・マーケティングを経て、現在フリーランス。
典型的な仕事人間という生活を過ごし、はたと気がつけば人生の折り返し地点。「さぁどうする!」と我が道を振り返っている真最中。
学生時代に、約15カ国を貧乏旅行。
その経験から、今の若者が育つ環境には、問題を自らの力で乗り越える体験が不足していると、感じている。若者教育関連のNPOを立ち上げ、神奈川を中心に現在活動展開中。
セカンドライフ列伝 第10回 山上憶良(やまのうえ の おくら)
榎本技術士オフィス/榎本博康
第10回 山上憶良(やまのうえ の おくら)
最晩年に「名」を成したノンキャリア官僚の刻苦
人は死ぬ直前まで人としての無限の可能性がある、そのような思いを強くするのが、今回紹介する山上憶良(やまのうえのおくら、660~733年)です。万葉歌人として有名ですが、下級官僚として、営々として執務に励むと共に学問を修め、42歳で遣唐使に抜擢され、55歳という遅さで従五位下に昇進しました。これは国の正史に名前が残るぎりぎりの位です。57歳で伯耆(ほうき、今の鳥取県)守となり、さらに66歳で初代の筑前(福岡県西部)守となって大宰府へ下り、73歳で帰京して74歳で没しました。
そんな行政に尽くして頑張った一生ですが、万葉集に78首の歌を残していて、今日では代表的な万葉歌人のひとりと認識されています。しかしその中で実に72首が大宰府以降の作品というのは、どういうことでしょうか。死の直前の6年間で集中的に代表作を残したのです。最晩年に一気に開花した才能がどこから来たかを、見ていきましょう。
例によって私の妄想と不勉強で、史実を逸脱することもありますので、そのようなたわいの無いものとして読んで下さい。また学説が確定していない事項は、私が個人的に好きなものを採用しています。なお文末に掲げた参考文献はどれも深い学識によるもので、心から楽しめます。
その出自と生い立ち
憶良の父は百済の宮廷医、憶仁(おくに)です。しかし白村江の戦い(663年)に敗れて、日本に亡命してきました。当時の朝鮮半島は北に高句麗、南の西が百済、南の東が新羅という勢力図でしたが、百済が660年に唐に滅ぼされ、さらに白村江の戦いで百済遺民・倭国連合軍は唐・新羅連合軍に敗れました。大敗だったそうです。百済からは記録にあるだけで3,000人以上の難民が日本に入植しました。そして朝鮮半島との軍事的な緊張が続く中、翌664年に防人(さきもり)が置かれたのです。
憶仁一族の入植地は現在の滋賀県甲賀市水口(みなくち)町であったと考えられています。当時はあかねさすと歌われた紫草の産地でした。憶良は数えで4歳です。帰化人達は何らかの技術を持っている者が多くあり、父の憶仁は天智天皇(668年即位)の侍医となって遷都された近江大津宮(おうみおおつのみや)に移り住み、さらに672年にも遷都で飛鳥浄御原宮(あすかきよみがはらのみや)に住んだものと思われます。その父は彼が27歳の時に亡くなりました。
憶良自身の記録は42歳まで全く無いそうです。無名の下級官僚として、写経所か図書寮の書生・史生を務めていたと思われています。これは座りずくめの仕事で俸給が安く、時には柿がいくつかという現物支給の一方で、誤記をすると罰金、それが続くと給料が飛んでしまうというものでした。当時の写経の文字を見ると、そのような緊張感が伝わってくるそうです。
第一の人生~歌人としての挫折と遣唐使抜擢
憶良の最初の作品は、31歳(690年)の時の川島皇子(かわしまのみこ)の代作歌でした。天智天皇の第2皇子であって当時34歳、憶良の学才を重用していましたが、歌人としての素質も見出していたようです。しかし頼みの皇子は691年に薨去し、歌人への夢は絶たれました。要するに当時は、現代のように個人の気持ちを好きな時に歌うものではなくて、執務として歌うものであり、仕える皇族や有力者のひいきがなければ、単なるつぶやきであって、どこにも記録されないものでした。その意味では、後に編纂される万葉集に多くの読み人知らずや防人の歌が蒐集されているのは、画期的なことです。
この一方で柿本人麻呂らの宮廷歌人達が台頭し、天皇の行幸に従駕して作歌するようになっていました。憶良は歌を忘れて、ひたすら官僚として歩むのです。
そして真面目な憶良に、ついにチャンスが訪れました。42歳(701年)で遣唐少録に任命されました。実に32年振りの遣唐使です。その任務は白村江の戦い以降の唐との国交回復と、日本版律令制度である大宝律令の運用面での諸課題を実践に即して学ぶこと、さらにその中で定めた国号「日本」の承認であったといいます。この外交・内政一挙解決型遣唐使の使節使は粟田真人(あわたのまひと)で、真人は令編纂担当19人の中の首脳陣の一人であり、憶良も19人の員数外で編纂の実務に関係していたと思えます。
憶良は43歳から48歳までの約5年間を唐で過ごしていますが、先に帰国する真人のための宴で、餞別の歌1首を残しています。これは真人の気持ちを代弁したものであり、これもまた職務上の作歌でした。その時のメンバーで歌が読めるのは憶良だけという事情もあったとのことです。そして、またも長い歌人としての沈黙期間に入ります。
第一の人生~歌人としての再度の挫折と編集者としての再起
そんな憶良が、55歳(714年)に従五位下に任ぜられました。帰国後も真人が上司であり、引っ張り上げてもらったのでしょう。真人は中国人も驚くほどの勉強家であり、帰国してからも出世を続けていたのですが、憶良とはまじめ人間どうしで信頼関係が築かれていたもののようです。
憶良は57歳(716年)で伯耆守(ほうきのかみ)に任ぜられました。その頃の筑後守は道君首名(みちのきみのおびとな)であり、大宝律令編纂の19人の一人にして、遣唐使仲間で、律令の第一人者であると共に、中国で農業を学んできて、筑後の農業技術の振興に実践的な技術を導入して大きな成果を上げていました。そんな同僚の姿を横目で見ながら、憶良も真摯に伯耆の国司としての任務に没頭したと推測されます。1首も歌が無いのは、仕事づけという以上に、地方にはそのようなサロンが存在しないからでもありますが。
718年に上司の真人が世を去る一方で、大納言が長屋王(ながやのおおきみ)、中納言が大伴旅人(おおとものたびと)という体制になりました。憶良は720年に61歳で帰京すると、東宮侍講者に指名され、首皇子(おびとのみこ、後の聖武天皇)の16人の教育係の一人となりました。彼の推薦者は長屋王と思われています。次の天皇の教育を通じて影響力を持つことは、長屋王にとって重要なことであり、実力本位の抜擢人事でした。憶良は、この当時七夕の歌を残していますが、これらもそのような席で求められた執務上のものです。
そして724年に聖武天皇が即位すると、山部赤人らの若い歌人集団が天皇の周辺で活躍します。またも歌人憶良の時代は来ません。そんな環境の中で、憶良は「類聚歌林(るいじゅうかりん)」を編纂しました。これは現存していませんが、万葉集等に引用がみられ、7卷数百首から成ると思われます。歌の作者は天皇とその周辺であり、皇太子用のサブテキストのようです。64歳頃の仕事でしたが、歌を勉強しなおす絶好の機会であったかもしれません。
第二の人生~筑前守赴任と旅人との出会い
えーい、人の作った歌をまとめたって何にも面白くないとやさぐれていた時、(訂正、まじめな憶良は職務を投げ出すということはありません。でも心の片隅にはちょっぴりあったかもしれませんね。)725年に筑前守に任命されました。とうとう66歳です。年齢的にはどう頑張っても公務はこれが最後であり、しかも中央では不要と言われたも同然です。持病のリューマチも段々とつらさを増しています。病気のつらさに、さらにやさぐれそうになる心を押さえながら京都を後にしました。従来は大宰府が兼ねていたので、初代の筑前守です。当時は新羅との大使交換が頻繁に行われており、緊張の緩和が懸命に図られていました。そこで大宰府は外交と軍事の拠点に専念して、内政は筑前守の分掌にしたものです。ですから、伯耆の時と違って、現地に上司が居るのです。老齢、病気、地方、上司、これではどんよりとした生活になりそうです。憶良は歌のなかで、士(おのこ)であれば個人として名をなしたいとしているのですが、とうてい無理な環境です。
ところが赴任して2年後の727年2月に大伴旅人(たびと)が太宰師として赴任しきました。かつての貴公子旅人も63歳になっていました。この赴任に妻と長男家持、二男書持を伴っていましたが、単に家族仲が良いのではなくて、中央での政変を予見しての退避とも見えるのです。事実、この2年後の長屋王の変で長屋王は自殺し、藤原氏の権力が決定的に強化されることになるのですが、名門ではあるが勢力を失いつつあった大伴氏は、政変に巻き込まれないで一族を維持するのが精いっぱいであったのです。
さて旅人が赴任すると、既に歌人としても名を挙げていた彼を中心に、後世の人々が筑紫歌壇とか、筑紫文学圏とか呼ぶこととなる、歌人達の活発で斬新な創作活動が繰り広げられました。旅人が大宰府に居た、わずか3年と少しの期間であり、旅人の帰京と共に急速に衰えてしまいました。ただ憶良だけがその残り火をさらに輝かせたのです。
その作歌者リストには、大宰府の官人20人、地域の五国二島の官人11人、その他の男性、女性、未詳作者を含めて総勢50人になると言います。しかも長歌、短歌のみならず、漢詩や散文もあり、それらを融合させた独特のスタイルを形成しているのです。それは表現の世界を飛躍的に拡大させるものであって、極めて高い教養と感性に支えられたものでした。特に旅人と憶良の関係は群を抜いており、歌の傾向の全く異なる二人は、火の出るような創作を戦わせたのです。実際は旅人の方は余裕であって、憶良がすっかり夢中になって旅人にせっせと歌を送っては旅人を鏡に自作を磨き上げたのです。旅人にとっての憶良は空気を読まずに迷惑な面もあったのですが、憶良にインスパイアされた面もありました。
ここで憶良は、自作をせっせと創作ノートに書いて推敲を加え、完成原稿を旅人に書き送るという行動をとっていました。つまり従来のように何かの趣向の席で歌い、書記が書き残すような、聴いて観賞するような歌ではなくて、個人的に文字に書いてそれを読んで観賞する歌というジャンルを作ったのです。
万葉集に収録された歌は、旅人も憶良も同じ78首だそうです。(数え方で違ってくるが。)しかし旅人の方がはるかに多く歌っているはずです。要するに旅人にはそのような席がたくさんあり、彼の才能であればいくらでも詠んだであろうと思われます。一方憶良には散文もあり、これは歌の数に入らないので量で計れば圧倒的です。いずれにしろ旅人の長男の家持が万葉集編者の有力な一人であることは間違いがないので、父旅人と共に、大宰府で親しく接した憶良の歌をしっかりと収録したものでした。
旅人も大宰府時代に変わったので、セカンドライフのシリーズでいずれは書いてみたいのですが、今回は憶良に集中したいと思います。
第二の人生~死を悼む「日本挽歌」
この大宰府に新天地を見出した旅人の家族に突然の悲劇が、妻の大伴郎女(いらつめ)が、赴任直後の4月に急逝してしまうのです。その時、憶良の何かに火が点いたのです。その後の、彼の死に至る6年間に猛烈な創作活動を行うための内燃機関が始動したのです。しかもその作品は空前絶後と言って間違いのない特異な作風としてでした。
その歌のタイトルが「日本挽歌」です。挽歌は死者を悼む歌ですが、そこにどうして日本がついているのでしょうか。学説と違いますが、私はこのように勝手に考えています。この歌は作者=憶良が、私=旅人として歌うという構成ですが、旅人が中納言だというのではなくて、単に妻を喪ったひとりの男として、国をあげて悼んでも余りある悲しみであるとのタイトルだと。しかも倭国(つまり中国側からの呼称)ではなくて、憶良も参加した遣唐使で日本という国名を主張した、その国であると。
本稿は作品解説でなく、またその力量もありませんが、その構成の斬新さだけは紹介しておきます。前置漢文があって、次に日本挽歌の長歌があり、反歌5首が続いて作者名があるという構成です。憶良は漢文で仏教の死生観を展開した後で、ずっと直情的な哀悼を長歌で展開し、さらに反歌で愛する者を亡くした喪失感を歌うと言う、シンフォニーのような構成です。雅な席での職業的で社交的な歌ではなく、全くの個人的な歌を旅人に献上したものです。憶良の教養と感性が全開しました。
ちょっと脱線、東歌の挽歌
旅人の長男の家持は、母の死についての憶良の歌を受け止めていたでしょう。筑紫歌壇の作品は主に万葉集卷第5にありますが、卷第14の3577に作者不詳としてこんな歌がありあります。家持が採用したのでしょうか、憶良のような教養も技法も無い、朴訥な東歌(あずまうた)ですが、これが実に泣けます。
愛し妹を何処行かめと山菅の背向に寝しく今し悔しも
(かなしもを いづちいかめと やますげの そがひにねしく いましくやしも)
ささいなことで妻と喧嘩をしてしまった。広い家であれば別室で寝る所だが、狭い竪穴式住居なので、ひとつしか無い薄い夜具で、背中合わせに寝るという情けなさだ。背中を通じて妻の嗚咽が感じられるが、男の俺から折れるなんてことができるかってんだ。やがて小さな咳がするが、ざまあみろだ。俺に逆らいやがって。
しかしそのまま妻は熱を出して、震えながら死んでしまった。あの時は既に体調が悪いので、つっけんどんだったんだろうか、俺はそれを分かってやれなかった。貧乏な俺は、妻に医者を呼ぶことも、薬を与えることもできない。死神に見込まれたら、貧乏人はそれに従う他に何もできない。いや、何もできないのではなくて、腕をからめて抱きしめてやればよかった。楽しかった頃の思い出を語ればよかった。共白髪までの未来を約束すればよかった。苦しい体をさすってやればよかった。
俺は、ばかだ。
第二の人生~子らを思う歌
これは教科書にもに乗っている有名な歌です。長い歌が多い憶良には珍しい短さで、序が3行、長歌が575757577、そして57577の反歌です。序を省いて掲載しましょう。
瓜食(は)めば 子ども思ほゆ 栗食めば まして思(しの)はゆ 何処(いづく)より
来(きた)りしものそ 眼交(まなかい)に もとな懸(かか)りて安眠(やすい)し寝(な)さぬ
反 歌
銀(しろがね)も金(くがね)も玉も何せむに勝(まさ)れる宝子に及(し)かめやも
この歌は69歳の時であり、実際に小さい子供が居る頃ではありません。憶良は状況を設定して歌うという手法を用いているのであって、自らの事情に限定して歌っているわけではありません。省略した序では、釈迦の愛を説いているのですが、実は釈迦の博愛を、親の子に対する愛にすり替えるという荒業を行っています。これは仏教の教養のある人には強烈なメッセージ効果があります。百済難民の憶良にとって故郷と呼べる場所はなく、どこであっても住める所には住むものの、どこも故郷にはなりえません。あえて言えば京都でした。都会人なのです。従って子供や家族が最大の財産であり、拠り所でした。この明快な価値観は現代にも通じるものと思います。
第二の人生~貧窮(びんぐ)問答の歌
730年に旅人は大納言に昇進して帰京しましたが、この年に防人が廃止されました。旅人らの外交努力で、新羅や唐との軍事的緊張を解き放すことができたのです。そして、翌731年に旅人は死去しました。この年に73歳の憶良も帰京が叶うことになりました。その帰京に際してこの貧窮問答の歌を創作したのです。
これは貧しい私ともっと貧しい人、つまり貧と窮とが問答を交わすという奇抜な形式です。ここで歌われている貧乏は本当に悲惨であり、それは庶民のありのままの姿でもありました。当時の憶良はリッチな国司ではありましたが、国司として地域の実情をつぶさに見聞していました。この歌は一種の行政レポートであって、文末に誰かは不明ですが、要職の人物に提出したものと注記が入っています。
第二の人生~絶筆三部作
憶良は京都に帰った後、74歳での死の年に長大な作品を残しています。「沈痾(ちんあ)自哀の文」、「俗道悲嘆の詩」、「老身重病歌」の三部作です。
まず「沈痾自哀の文」は長い散文です。トイレへ立つのに天井の梁から長い布を垂らして、それにつかまってようやく立ち上がるような状態で、何ともつらく老病の至りです。このような苦しみを背負いながらも、いやそれだからこそ生命の尊さを認識したのですが、次に続く言葉が、「言はむと欲りて言窮まる。何を以ちてかこれを言はむ」です。何という絶望でしょうか。憶良ほど言語の力に絶対の信頼を置いていた人は無かったのですが、この苦しみの中で生の尊さを表現する言葉が全く見つからないのです。そして死んでしまったら、生きているネズミ以下だといいながら、最後にはネズミに例えたとは、なんて恥ずかしいことかと、結びます。これが憶良です。
さらに「俗道悲嘆の詩」では、「心力共に尽きて寄る所なし」という絶望に至るのです。そして一部、二部のうねりを受けとめる三部である「老身重病歌」では、まず長歌で病がつらく死んでしまいたいと思うのだが、幼い子供達を残しては死ねず、思い悩んで泣くばかりだとして、6首の反歌を続けています。74歳の憶良に幼児が居るはずもなく、ここでは親の子を思う姿を一般化して表現しているものです。憶良は私小説作家ではなくて、様々な主人公に仮託しながら、自己の嘆きを普遍化する手法を取っているのです。死を目前にして、立ち返る所は家族愛であるとは、故郷を持たない憶良の帰結です。そして最後の第6反歌は、彼が筑前守として赴任する前に作った、千年も生きたいという歌をはめ込んだのです。このようにでもしないと、とてもまとまるような思いではありませんでした。
歌人としての第三の挫折と現代での再評価
万葉集編集者のひとり、大伴家持は憶良と親しく接していたこともあって、歌の評価は後世に任せよう、個人的な歌でも、空気を読めないような歌でも、卑賤の者の歌でも、選者が評価しきれない歌でも何でも入れてしまおうという態度だったので、世界に類まれな国民的アンソロジーが編まれました。その中でも憶良は士(おのこ)だったら名を残したいとの強烈な自己愛に満ちていて、当時ですら異端でしたが、その作品はその後の風雅の気風に合わず、評価されずに埋もれてしまいました。死してなお、第三の挫折です。長く埋もれたまま、明治時代になってやっと評価されたといいます。
レッテルを貼るようで躊躇するのですが、誤解をおそれずに言えば、真に庶民の立場で創作したということでは、世界初のプロレタリア文学者でした。彼自身はノンキャリアとしては最高の出世をしたのですが、元々は難民であった頃の父母や、同郷の人々の苦労を忘れることはできませんでした。伯耆や筑前の国司として民衆の実情をつぶさに知るにつけ、民衆の代弁者として自己を再定義するように突き動かされたのでした。そして無産者という立場に仮託して作品を書けば、自らの現実である老病もまた、若さや健康を失った状態であり、立つこともかなわず人間としての尊厳を損ねる中で、貴賤を問わずに必ず訪れる運命を正視することが、彼の一貫した創作の対象となったわけです。
最初は旅人の妻の死をはじめとする、幾つかの挽歌で死を悼んだのですが、その視点から、生のぎりぎりの状態に視点を向けることで、仏教の無常感に現実的な肉づけをしました。「ゼロを見つめる歌」の作者は、そこから人間性を問い続けたのです。
故郷を持たない憶良が永遠である道は、自分の子供達が生き続けることに加えて歌で名を残すことでした。死後千年以上の時を経て、それが成就したのです。
(2013.2.2 榎本博康)
主な参考文献
- 中西進:悲しみは憶良に聞け、光文社 (2009.7)
- 大久保廣行:筑紫文学圏論「山上憶良」、笠間書院 (1997.3)
- 谷口茂:外来思想と日本人「大伴旅人と山上憶良」、玉川大学出版部 (1995.5)
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榎本博康(えのもとひろやす) プロフィール
榎本技術士オフィス所長、日本技術士会会員、NPO法人ITプロ技術者機構副会長 日立の電力事業本部系企業に設計、研究として30年少々勤務し、2002年から技術士事務所を横浜に開設して今日に至る。技術系では事故解析や技術評価等に従事する一方で、長年の東京都中小企業振興公社での業務経験を活かした企業支援を実施。著作は「あの会社はどうして伸びた、今から始めるIT経営」(経済産業調査会)等がある。趣味の一つはマラソンであり、その知見を活かした「走り読み文学探訪」という小説類をランニングの視点から描いたエッセイ集を上梓。所属学協会多数。 |
ビジネスのフレームワーク入門(第2回)
デジタルハリウッド大学大学院/NVD株式会社 松本英博
1.身近なフレームワークを探してみよう
最初にビジネスにこだわらず、フレームワーク、つまり全体を考える場合の枠組みを身近なところから探してみましょう。
自分の行動で考えてみる
例えば、文章を書く場合はどうでしょうか。どこかで「起承転結」という言葉を聞いた方も読者にはおられるでしょう。Wikipediaによると、物語における起承転結の一例として、
- 起 → 物語の導入部。その物語にはどんな登場人物がいるか、どんな世界・時代に住んでいるのか、登場人物同士の関係はどんなものか、なぜその物語は始まるのかなど、これから物語を読む上で必要な知識を紹介する部分。
つまり、「起」とは、読ませたい内容(物語)の背景知識を読者に与える部分と言えます。同様に、
- 承 → 「承」は「受ける」を表し、 「起」で提起した事柄を受け、さらに進めて理解を促し、物語の導入である「起」から、物語の核となる「転」へつなぐ役目を果たす部分。ここは単純に「起」 で紹介した物語を進めるだけで、次に続く「転回」または「展開」が誤解されることがないように備えておくものであまり大きな展開はないのが普通。
「承」とは、訴求したい部分を誤解ないように予備知識を読者に与える部分です。次に
- 転 → 物語の核となる部分。「ヤマ」ともいわれる、物語の中で最も盛り上がりを見せる部分。物語の中でも最も大きな転機を見せる部分であり、読者が知らなかった事柄や想起を超える展開をすることによって関心や興味を引く部分となる。
「転」とは、著者の腕の見せどころで「あっと」言わせる展開を与え、関心や興味、主張を読者に与える部分です。最後に、
- 結 → 「オチ」とも呼ばれる部分で、物語が進んだ結果、「転」での結末が最終的にどうなったのかを描いて物語を締めくくる部分。
「結」とは、最終的な結論や結果を読者に与える部分となります。
落語なども、「枕」、「本文(本題)」、「落ち」と、背景知識や予備知識にあたる「枕」、あっと言わせる展開となる「本文」、そして物語の結論で笑いをとる「落ち」といった流れですね。
いかがでしょう。意外に日常的にフレームワークを使っていますね。フレームワークと言わなくても、様式やフォーマット、型式などいったものにも「すべて、例外なく、当てはまる」内容であればフレームワークと言えます。なぜなら、フレームワークは前回もお話ししたように、偏った見方をしない為の概念ですから、一部だけで、例外があり、すべてに当てはまらないことはフレームワークとはしません。
さて、ちょっとしたクイズです。以下の内容でフレームワークを完成してみてください。
(5) の例にあるように、オリジナルとして作成して定義しても結構です。例えば、旅行業で、安・近・短といったフレームワークは売れ筋の海外旅行のマーケティングなどに活用されています。
2.身近なフレームワークを活用してみよう
フレームワークを使った分析の基本を学んでみましょう。
分析は、フレームワークの特質である、モレやダブリのない状態に分類されたことを利用しましょう。例えば、旅行業の安・近・短を考えると、組合せとして
- 安・近・短:最も手軽な旅行?
- 高・近・短:あっけない旅行?
- 安・遠・短:弾丸旅行?
- 安・遠・長:滞在型旅行?
- 高・遠・長:もっとも敬遠される旅行?
- 高・近・長:繁忙期の旅行
- 安・近・長:次の狙い目の旅行?
- 高・近・長:内容に依存する旅行?
が考えられますね。気付かれたように、(3) や (4) などは商品化されていますし、(7) や (8) は旅行企画によっては新しい需要が掘り起こせるかもしれません。このように、分類した状態を想定して、そこでの気付きを分析することで、新たな視点が生まれてきます。
身近なフレームワークを考えることで、発想を豊かにし、より現実的な解法が生まれることもあります。それでは、どんどんフレームワークを使って、発想を整理、発展させていきましょう。
※「創造方程式」による発想のトレーニングがしたいというなら、参考に拙著「ヒット商品を生み出すネタ出し練習帳」をどうぞ。
次回の予告
次回は、「基本のフレームワークMICEを学ぼう」を通じて、ビジネス戦略の弱点発見の基本を解説します。
松本英博 プロフィール
松本 英博(まつもと ひでひろ) デジタルハリウッド大学大学院 専任教授/NVD株式会社 代表取締役 京都府出身。18年にわたりNECに勤務。同社のパーソナルメディア開発本部で、MPEG1でのマルチメディア技術の開発と国際標準化と日本工業規格 (JIS)化を行い、MIT(マサチューセッツ工科大学)メディアラボで画像圧縮技術を習得のため留学。帰国後、ネットワークス開発研究所ではWAPや i-モードなどの無線インターネットアクセス技術の応用製品の開発と国際標準化を技術マネジャーとして指揮。 NEC退社後、ベンチャー投資会社ネオテニーにおいて大企業の新規事業開発支援、社内ベンチャーの事業化支援を行い、2002年9月にネオテニーから分離独立し、NVD株式会社(旧ネオテニーベンチャー開発)を設立、代表取締役に就任。大手企業の新規事業開発・社内ベンチャー育成などのコンサルティング 実績を持つ。 IEEE(米国電子工学学会)会員、MIT日本人会会員。神奈川県商工労働部新産業ベンチャー事業認定委員、デジタルハリウッド大学大学院 専任教授、現在に至る。 |
2013年2月 三ツ池だより 「日の丸が上がっている!」
庭園の松の大きな古木を透かして山の中腹に日の丸の旗がはためいているのを見た。背筋がなにかピリッとした。五十鈴川で手を昔は洗ったそうだ。手を洗い口を濯いだ後、人の流れを避けて林を歩いてお参りしながら、内宮の本殿へ向かった。なにもない風と何もない音を聞く。新しい年のはじまりは伊勢神宮の式年遷宮の年にあたる。なぜか動きを感じる。なにか変わろうとしているのか。人の波も予想以上に若い人が見られる。
伊勢神宮参拝の機会は大先輩からの同行のお誘いがあったからだ。伏せんがなかったわけではない。昨年の12月初めに思いだしたことがあって、探し物をしている時に国旗が出てきた。祝日にかざそうとおもった。理屈ではなく、祝日には国旗を飾ろうと思ってまもなく、この一月の参拝のお誘いを受けたのであった。考えてみれば小学校の5年からボーイスカウトに入隊し、成人になり指導になってからも、セレモニーにはいつも国旗があった。日本ジャンボリー、世界ジャンボリーが富士の朝霧高原で行われた時には国旗の担当としてご奉仕させていただいた。東京オリンピックでの横浜の三ツ沢競技場での国旗掲揚は学生としてスタッフ奉仕をさせていただいた。国旗との縁は普通以上に濃いのだけれど、自宅での掲揚を想いついたのは何十年ぶりかの事だったのだ。
国旗は形が決められていて日の丸の直径は縦の長さの5分の3となっている。国旗の歴史を振り返ってみると、1870年(明治3年)1月27日太政官布告「商船規則」で国旗のデザインや規格が決められた。現在は1999年8月13日に公布された「国旗国歌法」により決められている。旗の縦横の比は2:3、日の丸は旗の中心である。
日の丸の俳句を見てみよう。
「日本の」という言葉に一種のほこりめいた思いが感じられ、「冬の朝」という季語によって全体が引き締まって感じられるとは選者の今瀬幸一氏の評。
私達の日常の生活から日の丸は遠くなった。私が子供の頃は社宅暮らしの我が家にさえ日の丸はあったのだと選者の小川軽舟氏の評。
元旦も暮れ、玄関先に掲げていた日の丸の国旗を取り入れ、畳もうとしたら湿っていたというのである。この湿りは「御降」(おさがり)だと直感している。作者はこの御降りに今年の豊穣を思い喜んでいるとは鈴木厚子氏の評。
いくつかの句を出しておきたい。
伊勢神宮の本殿は工事の最中でした。10月までにはまだいくつも工事がありそうです。
伊勢神宮の山々は青空につつまれていました。寒気を感じ、緊張して内宮の本殿前に進みました。拳大の玉石はとても歩きづらかったです。御付の人はここまでとのこと、本殿のかなりまえでの参拝となりました。それにしても、森の中の日章旗のはばたきは美しいものでした。群馬の先輩経営者はこの6年ほど前に伊勢神宮で神棚を購入し、皆の健康と税金を沢山払えますようにと祈っているそうです。おかげさまで順調とのお話を聞くことができました。他のために祈ることの大切さを感じました。教えられることの多い伊勢への同行でした。企業はいつ何をする習慣を持っているのか。どんな時にどんなことをするのか。栄華はつづかないと言われる。しかし栄華を味わってみたいという思いがしきりにします。
2013年も、はや2月に入りました。新しい物語をどう作っていけるか、それぞれどのように覚悟出来るかなのだと思っています。 迷いながらも大胆に吐いては吸っていくことだと、それは人の呼吸と同じことで、姿勢を正して、新鮮な空気を取り込んでいくことなのだと思っています。伊勢神宮の息吹をたのもしく感じました。
伊勢神宮参拝には再度見えた国旗に黙礼をして去りました。
Photos
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(文・写真:横須賀 健治)
横須賀 健治プロフィール
メジャーテックツルミ 代表取締役
はかることのプロとして50年です。
食品の放射能測定のアークメジャーを設立しました。
「計量から見える幸せ」をライフワークにしています。
書評 「聞く力(心をひらく35のヒント)」 文春文庫 阿川佐和子 著
「あの、ヘヴィメタって、なんですか」 こんな質問をデーモン閣下にしたところがとても面白かった。インタビューというのは普通、事前にいろいろ調べ質問の準備をしておくのだそうです。単刀直入に質問したら、親切に説明してくれたそうです。 「ロックがいろいろな枝葉に分かれていく中で、速さと激しさを追求したものをハードロックいいうんですね。」 「じゃ、速くて激しければ全部ハードロックなのかというと、そうではなくて。そこからまた枝葉が分かれていって。速くて激しいけれど、ドラマティックであったり、仰々しい決め事を入れる。」「簡単にいうと様式美を入れないと、ヘヴィメタルとは認定されなんです。」 |
阿川さんは週刊文春の「この人に会いたい」での対談連載のインタビュアーとして活躍している。「インタビューに臨む際、質問は一つを基本のモットーにしつつ、聞きたいテーマをだいたい三本ほどに絞り込むことにしている。」 デーモン閣下との時は素朴な質問を大切にしたそうである。デーモン閣下は解説がとても上手だったといいます。
渡辺淳一さんのことも参考になる。 「渡辺さんは講演なさるときも、最初はにこやかとは言い難い。壇上に立ち、マイクに向かうや、いつも声は小さめで笑顔はほとんどない。あれ今日の講演者はなんだか不機嫌そうだぞ。大丈夫かなあ。壇上の渡辺さんを見上げる観客は一様に、不安顔です。そこへ、離婚というのはね、お互いに忙しければしない。暇なときにあれこれ余計なことを考えるから離婚するのです。なんて話をなさるので、観客はガハハと笑ってしまいます。」 だから人にはそれぞれの愛想の作り方というものがあるので、人によって初対面の人の前での構え方が違うことをよく承知しておくことと阿川さん。
誰でもできるアガワ流対話術と名付けられるこの本で「面白そうに聞く」 「上っ面な受け答えをしない」 「安易にわかりますと言わない」 「あれ? と思ってことを聞く」「先入観にとらわれない」
取り上げている内容はどれも阿川さんの人柄のなせることのように感じる。でも、今でもインタビューに出かける前はビクビクどきどきしているのだという。その阿川さん 「三月十一日の東日本大震災以降、被災者でない日本中の多くの人々が感じたと同様に、私もしばらくは、何も手がつかないほどの虚無感に襲われました。いったい私に何ができるのだろうか。何の役にもたてないのではないだろうか。無力な自分に焦りを覚え、その時点でやらなければならない仕事のすべてが無駄に思えるほど、やるせない気持ちになりました。」 津波に逢い、命からがら逃げだした二十二歳の女の子にツイッターで知り合いまして、このあいだ、その子とここの事務所で会ったんですという糸井重里さんの話から、「聞くだけで、人様の役に立つんだ」 ということを知り、胸のつかえがいっきに下りた思いがしたと綴られます。
遠藤周作さんに学んだことでは次のように書いておられる。 「人の話はそれぞれです。ほんの些細な一言のなかに、聞く者のこころに響く言葉が必ず潜んでいるものです。でもそれぞれが、決して立派な話である必要がない。声の出し方、ちょっとした反応、表情、仕草、躊躇、照れ、熱意・・・。オチもないような下らぬ話の隙間にも、その人らしさや人格が表れていて、そこに共感したくなるような、なにか小さな魅力があれば、それだけで十分です。そして、そんな話をする当の本人にとっても、自ら語ることにより、自分自身のこころをもう一度見直し、何かを発見するきっかけになったとしたら、それだけで語る意味が生まれてきます。そのために聞き手がもし必要とされる媒体だとするならば、私はそんな聞き手を目指したいと思います。」
聞くという機会はインタビュアーでなくてもあらゆるところに存在する。営業することしかり、社内コミュニケーションの場でもしかり。上司にうったえる時もしかり、指導する時もしかり。阿川さんは「聞かれた側もまた、語りながら改めて自分の頭を整理して、忘れかけていた引き出しをあけ、思いもよらぬ発見をするかもしれません。」といい、そんな気持ちで聞くことが出来たら今までと違った展開が生まれるかもしれないと思った。
(文:横須賀 健治)
「横浜売れるモノづくり研究会特別セミナー」を開催いたします
「横浜売れるモノづくり研究会特別セミナー」を開催いたします。
「横浜売れるモノづくり研究会」は、2010年から9回にわたって、「日本のモノづくり」を元気にしていこうと、研究会セミナーを開催してまいりました。
横浜売れるモノづくり研究会
http://www.monoken.net/
10回目を迎えるにあたって、公益財団法人 横浜企業経営支援財団(IDEC)と共催で、横浜市中区の情報文化センターホールで特別セミナーを開催いたします。
今回は、JAXAの宇宙科学広報・普及主幹である阪本博士に日本の科学技術の結晶ともいえる「はやぶさ」についてご講演いただきます。
当研究会の恒例となっております企業の事例報告は、海外進出を成し遂げている神奈川県内の製造業の社長三人にお話しいただきます。
また、2月の「テクニカルショウヨコハマ2013」での日本一決定戦を終えた「全日本製造業コマ大戦」のレポートを、主催者の株式会社ミナロの緑川社長にしていただくという構成になっています。
セミナー終了後は、講師との懇談会も予定しております。多くの方々に参加していただいて、講師・参加者との交流を深めていただきたいと思いますので、皆様奮ってご参加ください!!
特別セミナーのチラシはこちらでご覧いただけます。
http://www.monoken.net/images/leaflet.pdf
多くの方々にご参加をお待ちしております。
参加申し込みはこちらからお願いいたします。
https://www.supportyou.jp/monoken/form/3/
よろしくお願い申し上げます。
1.日 時 : 平成25年3月7日(木)
研究会セミナー 14時~16時30分
交流懇親会 17時~18時30分
展示・プレゼンテーション 13時30分~14時・16時30分~17時
2.場 所 : 横浜情報文化センターホール6階ホール
交流懇親会は1階「ランチャンアベニュー」
〒231-0021 横浜市中区日本大通11番地
TEL 045-664-3737(代表)
http://www.idec.or.jp/shisetsu/jouhou/access.php
※JR・市営地下鉄線「関内駅」徒歩10分
※みなとみらい線「日本大通り駅」3番出口すぐ
3.内 容 :
「はやぶさ」を越えてJAXA相模原キャンパスの挑戦
宇宙航空研究開発機構(JAXA)宇宙科学研究所 教授
宇宙科学広報・普及主幹 阪本 成一 氏
http://www.jaxa.jp/
企業の事例報告
「同業との連携による販路開拓・海外展開」
昭和精工株式会社 代表取締役 木田 成人 氏
http://www.showa-seiko.co.jp/
「インド企業と提携、三輪電気自動車を開発、製造」
株式会社日本エレクトライト 代表取締役 松波 登 氏
「省エネ型各種保温材の製造、人工衛星の断熱ジャケットも製作」
株式会社クロスメディア 代表取締役 佐藤 棲秋 氏
http://www.cross-me.co.jp/
製造業の集結
全日本製造業コマ大戦の事例報告
主催者 株式会社ミナロ 代表取締役 緑川賢司 氏
http://www.komataisen.com/
2回に分けて行います。出展企業募集中です。
講師と事例報告者を囲んで交流、懇親会
【共 催】 横浜売れるモノづくり研究会/公益財団法人横浜企業経営支援財団
【後 援】 公益財団法人川崎市産業振興財団/公営財団法人相模原市産業振興財団
【協 力】 海外事業展開事例研究会/神奈川県中小企業家同友会
【会 費】 3,000円(交流会費含む)
横浜売れるモノづくり研究会の活動報告はこちらをご覧ください
横浜売れるモノづくり研究会は、2011年1月から2012年11月まで9回の研究会セミナーを開催いたしました。
これまで発表して下さった方々は20名を超えました。「かながわ産業Navi大賞2012」を受賞した株式会社片野工業の片野明夫氏や、「全日本製造業コマ大戦」の初代チャンピオンである株式会社由紀精密の大坪正人氏にもご登場いただきました。
当研究会は、「全日本製造業コマ大戦」を応援しています。「全日本製造業コマ大戦」は、現在各地区の予選が行われています。NHKテレビの「さきどり」で放映されたり、朝日新聞に大きく掲載されたりして製造業の新しいウェーブとして話題沸騰しております。
当研究会の活動報告についてはこちらをご覧ください。
http://www.monoken.net/seminar/seminar9.html
「売れるモノづくり」についてのご相談を承ります
いいモノを作ってもなかなか売れない・・・
製造業の方々からそんな悩みをよく耳にします。
どんなに良い製品でも、市場に受け入れられなければ「モノ」で終わってしまいます。
「横浜売れるモノづくり研究会」は、神奈川県在住の企業支援の専門家やITの専門家など多種多彩なメンバーで構成されています。
「横浜売れるモノづくり研究会」では、「製品の売り方をどうしたらいいか」
という企業のご相談を随時受け付けています。
毎月一回第二木曜日には、ご相談される企業と専門家が面談を行っています。
売れるモノづくりについてのご相談はこちらにご入力下さい。
https://www.supportyou.jp/monoken/form/2/
<問合先>
横浜売れるモノづくり研究会 事務局
(株式会社ともクリエーションズ内)
〒231-0004
横浜市中区元浜町3-21-2 ヘリオス関内ビル4階
TEL 045-226-3475 FAX 045-226-3476
メディア掲載情報
- 2012年2月20日 神奈川新聞 横浜売れるモノづくり研究会代表・猪狩惇夫の記事が掲載されました
- 2011年11月11日 日本経済新聞 「この企業ここがポイント」内に横浜売れるモノづくり研究会についての記事が掲載されました
- 2011年11月9日 日刊工業新聞 「横浜売れるモノづくり研究会」活動の輪広がり100人規模目指す
- 2011年6月6日 「売れるものづくり」をどう実現するのか―「横浜売れるモノづくり研究会」の取り組み
- 2011年1月21日 ヨコハマ経済新聞
横浜で「売れるモノづくり研究会」が発足-中小企業を支援 - 2011年1月19日 カナロコ — 神奈川新聞社
売れるモノづくり研究会発足へ、中小製造業をコンサルらが支援
第1回 オー・マイ・モトマチ・ライフ
おはようございます!! |
展望台に人気はないが、 |
丘の上から横浜港を見下ろすと、 |
そしてこちらは和みのカフェ。 |
こちらは石川町よりの元町にある「はらドーナッツ」☆ |
トコトコと元町から歩いて来て、こちらは山下公園。 |
・・・元町から1キロ圏内を上ったり、下りたり、商店街をまた歩いたり、まったりとしたスローライフ的なモトマチライフ。 この次はもう少し足を延ばしてみようかな。。。
レポーター プロフィール
Yuu Adachi Gallery1223 あいお☆らいと代表 |
祝!80回越え。名物会の月例会
保土ヶ谷宿名物会では、毎月1回、桑名屋さんで会合を開いています。その数、前回でなんと81回。毎年夏は納涼会、年末は各店が多忙のため会合がないので、年間10回前後のペースで開催しています。ということは、概ね8年間も続いていることになりますね。(名物会発足前の準備期間などもあるので、実際にはもう少し長いお付き合いになります)
集中力ナシ? 脱線しがちな会合
その会合ですが、毎回、桑名屋さんのお蕎麦をいただきながら、直近のイベントの企画、既に終わったイベントについての意見交換、今後の企画などについて2時間程度話し合うのですが、とにかく話が脱線しがちです。
でも、実はこの「脱線」がとても魅力的。単なる雑談・世間話から政治・経済など、話の内容は様々ですが、雑談の流れから、各店の商いに対するこだわりや思い、経験談、成功事例、あるいは失敗談など、日頃、中々聞けない、あるいは言えないような「リアルな裏(?)話」がしばしば飛び出します。前回も、この「脱線」から始まった各店の商品開発のお話が、特に印象的でした。
名物店の「熱い」商品開発
保土ヶ谷宿の名所旧跡を和菓子で表現する名店・菓匠栗山さんは、新しい商品を作る時は、とにもかくにも、頭や手はもちろん、足だって目一杯使って新商品を生み出すのだ、と言います。
商品開発の際は、モチーフにする名所旧跡のイメージに合うのは餅なのか饅頭なのか最中なのか、と、まずは様々な和菓子を想像するそうです。インスピレーションで瞬時に決まるものもあれば、そうでないものもあり、栗山さんの感覚にピタッとくるまで、とにかく考え続けるそうです。
イメージが湧いたら、現在ある和菓子を足を使って調べまくる。同店の看板商品「境木おじぞうさんもなか」を開発する際は、美味しい最中がある、と聞けば千葉でも静岡でも、実際にそのお店に足を運んで食べに行ったそうです。
その後は試作。自分のイメージ通りの商品ができるまで、何度も何度も何度も作り直します。商品そのものだけでなく、パッケージにまでこだわります。デザイナーと何度も校正を繰り返し、デザインだけなくパッケージの素材まで、納得いくまで詰めていきます。そこまで全精力を注いで完成した新商品でさえ、発売後、お客様の反応が良くなければ、ズルズルと売り続けず思い切って販売を中止する場合もあるのだそうです。 ごん太鮓さんの看板商品「道中いなり」も、振り分け荷物を模した現在の商品を生み出すまでの道のりは長かったそうです。 オリジナリティのある商品を作りたい、という想いから企画・開発を始めたものの、稲荷でオリジナリティを出すこと自体が難しく、また、オリジナリティを出すために製造の手間が掛かり過ぎてしまうと、現実的に日々の製造が追い付かなくなってしまう。道中いなりは、そんな矛盾に悩まされながらも、諦めずに向き合い、やがて完成した自慢の逸品だそうです。 鉾立商店さんの「純米酒・権太坂」も、箱根駅伝で全国的に知られている「権太坂」の名に恥じないように、というより、「保土ヶ谷のおみやげ」として胸を張って保土ヶ谷の人たちが故郷に持って帰れる商品を売ろう、という想いで、酒造メーカーと検討を繰り返し誕生した商品だそうです。 |
(クリックで拡大画像) |
80回越えの秘訣は「脱線」・・・なのか!?
今では保土ヶ谷の名物として地域で浸透している各商品も、そこに至るまでは私たちの知り得ない水面下での悪戦苦闘があり、それを乗り越える各店の想いがあり、各商品にはその数だけ、熱いストーリーが秘められていることを教えられます。
そして、そんな熱い話が、各店の刺激になっているのも事実で、もしかしたら、この「脱線」こそ、月例会が、あるいは名物会そのものが長く続いている理由なのかもしれません。
レポーター プロフィール
山田浩和(やまだひろかず/Yamada,Hirokazu)
合資会社 笑う門 代表社員
保土ケ谷宿名物会事務局
1971年8月生まれ。獅子座のO型。保土ケ谷生まれの保土ケ谷育ち。
2003年、合資会社「笑う門」を設立。<オンリーワンの価値創り>のお手伝い。
会社設立時に制作したミニコミ誌がきっかけとなり、保土ケ谷のまちづくりにドハマリ。
現在、歴史や地産地消など、地域資源を活かしたまちづくりに幅広く取り組んでいる。
合資会社 笑う門 http://www.warau-kado.com
各社・各店・各個人が持つ十人十色・百人百色の目に見えない財産(経験・体験・知識・技術・ノウハウ・アイデア等)を活かした販売促進企画・商店街活性・まちづくりを推進しています。
業務内容 :
●シンボル制作
ネーミング / シンボルマーク / ロゴマーク / キャラクター企画・制作
●広報(コミュニケーション)媒体制作
・簡易版会社案内(A4版三つ折り)制作
・ニュースレター(A4版)制作
その他、フライヤー / ポスター / 小冊子 / 名刺 / のぼり旗 / エコバッグ / ユニフォーム、など
ヨコハマNOW掲載情報
佐々木彬文の「四季・色・贅・食」 第14話 鋳掛 物を直すという事
鋳掛屋さん
絵:佐々木彬文画伯 |
最近見なくなったのが鋳掛屋さん。月に一度くらい近所に廻って来て、鍋や薬缶の底を打つ『カン・カン・カン』と心地よいリズミカルな響きがしていたものです。 中学校では工作の時間に鋳掛も体験しました。アルミのリベットを鍋の底の破れたところに差込、リベットを潰しながら閉めて水漏れを止めます。簡単なものです。でも、誰もしなくなりました。テフロンや素材が変わってきてアルマイトや鉄の鍋が無くなってきたからでしょうね。 |
研ぎ屋さん
次に、見掛けないのが包丁研ぎ屋さん。うちの家では、包丁は家の男が研ぐものでした。砥石に研ぎ癖ができると、石畳に擦って砥石を平らにして使っていました。でも、包丁に研ぎ癖がどうしてもつくので、年に一、二回は包丁屋さん(店構を構えたお店)に出して癖を直してもらっていました。
小生が研ぐと刃紋が出ないでも、研ぎに出すと綺麗になって戻ってきます。今だにそうです、どうも小生は研ぎが下手な様です。
金継ぎ
物を直すという事では、皆さんが良くご存知の『金継ぎ』と言う技法があります。昔から日本人の物に対する考え方に、「寿命が尽きる」ものを「再生」するという考え方が存在しています。金継ぎすることで一旦終わった寿命が再生され、それ以上に『格が上がった』と考えます。また、金継ぎの模様に美を見出す中々素敵な考え方です。
金継ぎ (Yahoo WEB画像より)
漆塗り
漆器を扱う時に、『漆の扱いは難しいから触ってはいけない』とか言われますが、鰻屋さんや蕎麦屋さんの器を考えてみてください。すごく乱暴に扱っています。毎日毎日お料理を入れ、洗っては使い、使っては洗う・・・『漆有り難!』では仕事が滞ります。器は器どんどん使います傷だらけです。そして、ある程度痛むと、漆屋さんに塗りに出すのです。綺麗になって帰ってきます。ですから、鰻屋さんの器は創業以来のものが結構多いです。
再生(リフォーム)
江戸には火消しと火事場の後片付けをする職業がありました。焼けた柱等を削り直し細くなった柱を再利用します。
地震の多い国ですから家はわざと壊れやすく作っています。材料も木と土と紙です。再生の考え方がここにも生きています。壁土は練り直せば永遠に使い続けられます。柱も直して使います。そう考えると捨てる物が無いのです。
桐の箪笥等は皆様よくご存知の再生の使命を持って作られています。何十年か経って古くなった箪笥は削りに出され綺麗になって帰ってきます。
神家工(神奈川県家具協同組合/神奈川県家具工業組合
http://www.shinkako.or.jp/index.html
後藤桐タンス店では近くの小学生を工場見学に招いたり、体験学習の場を提供しています
洗い張り
着物も昔は家で洗い張りをして、物干しに長い反物が干されてました。小生も手伝わされました。皆懐かしい思い出ですが、今は余りされているところを見かけません。美しい風景だと思うのですが少し寂しいです。
洗い張りの風景
直すということ
皆さん直すということを少し考えてみてください。楽しい工夫が見つかるかもしれません。物を買う時も、直すことを考えて買うのも良いと思うのですが。
佐々木彬文画伯と茶懐石料理を作りませんか?
日本画家であり茶道講師である佐々木先生と茶懐石料理を1~3品作り、楽しくおしゃべりをしながらいただきます。会話の中から「日本文化」の良さに気づいていく教室です。女性の参加者が多い教室ですが、男性も大歓迎です。
(お問合せ/お申込み:http://www.ikiiki-club.jp/)
2013年1月26日「ワインと茶懐石の会」
2013年1月6日 『新春 お琴とお茶の会』 パナソニックリビングショールーム横浜
佐々木彬文プロフィール
日本画家(彬文会主宰)
茶道講師(裏千家 佐々木宗秀)
クラッシックギター演奏者
文・絵:佐々木彬文(日本画家・裏千家茶道講師)/写真・構成:高野慈子
HEART&SOUL代表 原 正行 1958(昭和33)年9月7日横浜生まれ、12歳よりギターをはじめ17歳からミュージシャンとして活動。39歳の時に念願だったライブハウスを開業、現在は関内駅北口駅前に60年代から80年代の洋楽ヒット曲を演奏するライブハウス、ハート&ソウルの経営者。他にもミュージシャンとして演奏活動、作曲、プロデュース等、幅広く活動している。 |
第2章 フォークと日本語のロック その5 (日本のロック黎明期)
はっぴいえんど
フラワートラベリングバンドは英語で歌い、世界を目指しましたが、日本語で歌うロックを追及しようとしていたのが はっぴえんど を中心にした流れでした。音楽誌などでは、たびたび日本語はロックに合うか? という論争が行われ、内田裕也氏が、はっぴいえんどを相手に激論しているのを読んだ記憶があります。1970年はっぴいえんどは結成され、ベース 細野晴臣、ボーカル 大瀧詠一、ギター 鈴木茂、ドラム 松本隆の4人組。彼らは、イギリスロック全盛の当時、バファロースプリングフィールド などのアメリカンロックを志向する細野、大瀧のサウンドセンスと、松本隆のダブルミーニングなどのテクニックを駆使した日本語による歌詞で、ロックビートにのせた日本語ロックを生み出しました。正に日本語ロックの先駆者といえるでしょう。
後年、細野晴臣は、イエローマジックオーケストラで世界に知られるミュージシャン。松本隆は、80年代には「赤いスイートピー」など松田聖子など有名歌手のヒット作品を数多く手がけて、日本を代表するニューミュージック界の大作詩家になりました。大瀧詠一は、ナイアガラレーベルを作り山下達郎や著名なミュージシャンに多大な影響を与えた大御所。ソロ作品「ロングバケーション」はロングセラーを続ける名作です。鈴木茂は、はっぴいえんど 解散後もキャラメルママ、ティンパンアレイなど素晴らしい作品を残し、後のミュージシャンに多大な影響を与えたギタリストの一人です。セッションミュージシャンとしても数々の名演奏を残していて、ユーミンの卒業写真のバッキングなどは絶品です。
日本のロックの確立期
GS以降、商業作家によるサウンド作りではなく、自分達の手によるサウンド作りが模索され、海外の音楽のコピーから脱却し、日本独自のロックを作ろうとする動きは、フラワートラベリングバンド を初めとするGSからの流れと、はっぴいえんど を初めとする新しい流れによる2つの主流によって、アメーバのように新しい形が生まれていった様に感じます。
1969年から1971年は、歌謡曲全盛の時代。表立った舞台の影で地下ではどんな世界が展開されていたのでしょう。
1970年頃になるとジャズ喫茶と呼ばれたライブハウスは姿を消してゆき、替わりにディスコと呼ばれる生バンドが演奏して踊らせるライブハウスが主流になっていきます。ビートルズやロックンロールを演奏するバンド、オーティスレディング などのR&Bを演奏するバンドや グランドファンクレイルロード などコテコテのロックを演奏するバンドなどがごっちゃになり、こういうところで腕を磨いていました。又、腕の良いバンドは、外人相手に米軍の施設で演奏したりしました。そして、その流れが形として現れるのが、1972年、この年デビューしたバンドが現在につながる流れを作ったと言って過言ではないと言えるでしょう。
1972年デビューしたバンド
キャロル(矢沢永吉)、サディスティックミカバンド、
クリエーション、カルメン・マキ&オズ、スモーキーメディシン(チャー)
凄まじい顔ぶれです。
キャロル
私が中学2年頃、ラジオから盛んにかかっていたのが「♪かわいいあの子はルイジア~ナ」。キャロルのデビューを伝えるコマーシャルでした。
元々は矢沢永吉が「ビートルズとロックンロール好きなヤツ求む」の、貼紙がバンド結成の始まりで、ボーカル&ギターにジョニー大倉、リードギターに内海利勝が集まり、横浜のディスコ「グルッペ」などを拠点に活動していました。ある時、若者に人気のテレビ番組「リブヤング」に出演した所、プロデューサーのミッキーカーチスの目に留まりプロデビュー。革ジャンにリーゼントでロックンロールを演奏するスタイルは、凄まじいインパクトでした。(ちなみにこれ以前、矢沢はマシュルームカットだったそうです)
彼らのスタイルは、一世代下の悪(ワル)をきどる連中に圧倒的な支持を集め、リーゼントは不良のシンボルにまでなり、又、クールスなどのフォロワーも生まれ、館ひろしや岩城光一などのキャラクターを生み出します。矢沢の英語のように発音する日本語の歌、ジョニー大倉の日本語と英語を組み合わせた作詞などは、今までになかったもので、後のロックに与えた影響は計りしれません。
しかし、たった3年の活動を経て解散。そして、伝説の日比谷野外音楽堂でのラストコンサートのフィナーレで、ステージ上に掲げられたキャロルの電飾の看板がいきなり燃え落ちて火事になるアクシデントがおこり、彼らのインパクトを更に強烈にしました。私が高校時代、ともだちのツッパリたちが学校を途中でエスケープして見に行っていたのを思い出します。
横浜、街と風(青い日記) 5
中学3年へ
2年生が終わり、いよいよ3年。大好きだった2年2組もクラス替えで3年ではバラバラになり、新しいクラスも来るべき進学に備えて不安な気持ちを抱えているので、「クラスで一つになる」的な空気はありませんでした。でもラッキーだったのは新しい男の担任もギターには寛容で、自分も昔弾いてた、と言って「禁じられた遊び」を聞かせてくれました。だもので、相変わらず学校にギターを持って来ては、やれ文化祭、講堂での催し物などには必ずでしゃばって弾いていました。
放課後になると夕暮れの教室でギターを弾きながら歌い始めると、クラブ活動を終えた生徒がまだ体操着のまま集まってきます。よそのクラスの生徒も入ってきます。当時ヒットし始めた「神田川」を歌いだすと涙ぐむ女子も。。。「学生街の喫茶店」や「翼をください」、誰からともなく一緒に歌いだし夕日をバックに最高潮の雰囲気に。。。
その頃「お前ら!何やってんだ。早く帰れ、帰れ」の先生の怒鳴り声と共に夢の時間はいつも打ち切られました。
バレンタインデー
放課後の教室はいつもドラマでした。失恋した女の子を誰かがなぐさめていたり、誰かがけんかを始めたり、バレンタインデーなどは、もらった、もらわなかった、あげた、あげられなかった、など大騒ぎ。そういえばバレンタインなんて言葉を聴いたのもこの2年生か3年生の頃で、チョコレート会社の営業戦略で始まったと思われるこの風習も、この頃がスタートだと思われます。13、14歳で、もてる、もてないの現実を見せ付けられ、自分も含め、結構これに傷ついた男の子も多かったんではないかと思います。
そんな頃、自分にも始めて本気で好きになり付き合った彼女が出来ました。
水泳部
三年間続けた水泳部もキャプテンとなりいよいよ最後の夏。得意種目は平泳ぎ。自分で言うのもなんですがまあまあ泳げるほうだったと思いますが、中学3年間どうしてもかなわないライバルが横浜市にいて、インターハイにも出ていたM君は、市でも県でもダントツのトップ。彼を目標に夏が終わるまで水泳の練習に打ち込みましたが、結局は県大会6位に終わり、水泳部の夏は終わりました。
夏が終わると進学の季節。元々あまり勉強ができない上にアルバイトとギターと部活ばかりやっていたので、成績は知れたもの。家庭の事情もあったので就職も真剣に考えていましたが、水泳の強い某高校の関係者から推薦の話があり、それに期待して高校でも水泳をやろうとしていましたが、手違いがあり推薦がなくなってしまいました。それに落ち込み水泳への情熱も消え去り、就職しようと思っていたら、父親が金は何とかするから私立でもいいから高校だけは卒業しろと。。。母の看病を続けながら仕事を頑張っている父には逆らえず、どこでもいいから進学しようと今更ながらの受験勉強に着手していきました。
原正行 ヨコハマNOW連載記念ライブ Vol.2 開催決定
ヨコハマNOW掲載に伴い執筆者、原正行本人によるアコースティックライブが開催されます。第2回目の今回は1971年から1974年くらいのフォークソング! 拓郎、陽水、かぐや姫等、普段は演奏することのないナンバーばかりです、是非ご予約ください。
【 原 正行 アコースティック・フォークライブ Vol.2 】
日時: 2013年2月24日(日) 18:00~
場所: スタージスカフェ
横浜市中区蓬莱町3-104の2階(1階ファミリーマートが目印)
TEL 045-341-0002
チャージ: ¥2000(普段はカフェバー営業です)
(HEART&SOUL代表 原 正行)
HEART&SOUL
〒231-0014 横浜市中区真砂町3-33 CERTE11階
営業時間
平日:OPEN 19:00 CLOSE 4:00 LIVE START 19:50~
休・祝日:OPEN 18:00 CLOSE 24:00 LIVE START 18:40~
TEL:045-664-5569
JR関内駅徒歩より1分
地下鉄関内駅より徒歩1分
Websie http://www.heartandsoul-live.com/
第9回 自分で家を作る?
株式会社 鎌倉設計工房
藤本幸充
ベンガラを建物に塗っています。 防腐、防虫剤でもあるので木造の建物では室内や外部に使用でき実際、千葉の住宅では床、壁、天井、全てに塗ったことがあります。(写真1) もっとも使用しないことも、もちろんあります。(写真2) 素人が塗っても塗りムラが目立たないので住宅の新築時、建築主の多くが自分で塗り塗装工事分70万~100万を浮かせます。全部塗るのは大変だ! 足場があっても高所作業は素人には危険! なので地面の台上で塗れる範囲に留めるそんなケースも多いのです。ただ皆さん真剣!(写真3) 自分の家を自分で作っている気分だから? ( 私の場合、デスクワークが多いせいか、太陽の下で無心で塗る、その事自体が楽しいのです。) ところで自分の好みを生かして家を立てようとすると思いの外、予算が嵩み、希望の幾つもあきらめることが多いのでは? ベンガラ塗りを楽しんでいる方々は塗装以外でもネットで設備機器や照明器具を自分で、購入しています。 器具を取り付ける電気工事会社とも直接契約しています。実際は家一軒建てるに必要なすべての工事会社(職人さん達)と個別に契約しています。ただ工事会社や職人さんとどう向き合えば良いのか、 |
(クリックで拡大画像) |
その作業は素人にはわからないので建築家に頼んで家を完成させます。ベンガラ塗りなど工事に参加でき、建築家にも設計監理を頼め、家の格も上がる。設計の自由度も高い。その上、野菜の「産地直送」と同じで、職人さんを雇う建設会社の中間マージンも無いので、建築家への報酬を支払っても工事費用は安くなります。 完成への道のりをわくわく感じ取って皆さんベンガラ塗り真剣かつ楽しそうー? なのでしょう!
自分で家を建てる意識を少しでも持てば世界が広がる!いままでベンガラ塗りに携わった方と興味のある方々が「べんがらくらぶ」の集いをもちます。 ご案内は、3月最初のホームページに掲載します。
ベンガラの良さとは!
現代は内外白い家が多いですが、ベンガラを塗ると包み込まれるような落着いた雰囲気を作る事が出来ます。布で乾拭きすると、いぶし銀の様に木目が浮き出て全体も鈍く光ります。そういった一つ一つの事が居心地の良さを形作って行きます。
あ!そうそう、ベンガラとは酸化第二鉄を主成分とする赤色顔料のことで、松煙を混ぜるほど黒くなります。昔は鉱物として土中にありアルタミラやラスコーなどの洞窟壁画の顔料として使われました。
私とベンガラの出会いは学生時代=四十年近く前の事!当時、研究室で岡山県倉敷市美観地区形成の補助作業をしていました。現地の旅館の主人の案内で倉敷の北西に位置する高梁市の山の中「吹屋」へ。今でこそ「吹屋ふるさと村」として観光地になっていますが,当時はゴーストタウン!道の両側に続く格子の家並みが古ぼけた城代劇のセットのようでした。その時、印象深かった格子の赤茶や黒、それがベンガラでした。
「暮らしを大切にデザインする」ギャラリーへ
横濱元町AA STUDIOは「暮らしを大切にデザインする」17名の建築家のギャラリーです。それぞれの建築家の模型・作品写真など自由にご覧になれます。
横濱元町代官坂の中腹にあるカフェのようなギャラリーで、週末は交替で建築家がお迎えいたします。(建築家と話そう!)ホームページのスケジュールに担当建築家が掲載されていますので、カフェに立ち寄る気分で横濱元町まで建築家とお話にいらしてください。お待ちしております。
なお5回ほど私が連載して参りましたが、今後はメンバーが交替で「新しい建築とのかかわり方」を綴りますので、変わらぬお付き合いでご愛読くださいますと幸いでございます。ありがとうございました。
AA STUDIO WEB http://www.aaplan.com/aastudio/
Craftman Shop Street Motomachi http://www.motomachi-cs.com/cm/shop/shop051
青木恵美子 | http://www.aaplan.com |
新井今日子 | http://www.arai1992.com |
伊藤 寛 | http://www.ito-kan.com |
岡田 勳 | http://www.kuukantoshi.co.jp |
荻津 郁夫 | http://www.o-as.co.jp |
神田 雅子 | |
北川 裕記 | http://www.aalab.com/kitagawa/ |
栗原 正明 | http://msak.asia |
河辺 近 | http://www.ken-ken-a.co.jp |
後藤 武 | http://www.gtaa.jp |
鈴木 信弘+洋子 | http://suzuki-atelier.com |
豊田 悟 | http://home.m07.itscom.net/toyoda/ |
中村 高淑 | http://www.unit-h.com |
藤本 幸充 | http://www.kamakobo.com |
松井 理美子 | http://www.matsui2ar.com |
水口 裕之 | http://homepage1.nifty.com/eau/ |
山口 賢 | http://www.amarterrance.com |
朝ぼらけ 有明の月と 見るまでに 吉野の里に 降れる白雪
♪朝ぼらけ 有明の月と 見るまでに 吉野の里に 降れる白雪♪
絵・千絵崇石 |
読み人:坂上是則(さかのうへのこれのり) 現代語訳 by 千絵崇石・・・あまりに明るい夜明けなので多分有明の月だろう 窓を開けてみると まぶしいくらいの 光が飛び込んできた。眠りのうちに降り積もった雪だ 旅の一夜 ここは吉野の里だった。 百人一首には色々な方が現代語訳を付けていますが、ヨコハマナウの私のコラムでも歌仙絵を提供して下さっている日本でただ一人の女性歌仙絵師 千絵崇石さんの現代語訳は直訳とは違ってちょっとしたニュアンスが入っていて私は大好きです。 |
高校で古文を習うときは直訳ですので、それを補う先生のセンスによって面白みが違ってきます。私が44歳から通った八丈島の定時制高校で古文を習った時はとても若い新任の女性教師で当時の男女の関係性が殆ど夜這いから始まることなどを話してくれて、楽しかったのを覚えています。夜這いですよ ヨバイ! ヤバイでしょ?つい興奮します。
和歌を学術的に捉えるととてもつまらなくなってしまいますが当時の文化と一緒に歌われた時の、その情景を理解して読むとリアリティがあって現代でも十分に共感できる事柄が多くあります。この坂上是則のうたも2月の寒い季節にはよくある情景だと思います。
明け方にトイレなどで目覚めた時に外がいやに明るく思えて、満月かしらと思ってカーテンをちょっと開けて眺めたらまっ白い雪景色で感動した。なんてきっと誰にでもそんな体験があるのではないでしょうか。私は夜中の満月には敏感で、時にはわざと月明かりが差し込む所に、お布団を持っていって月に照らされながら眠るのが好きです。月光がベッドを照らしてゆく。満月が美しい時には是非月光浴を楽しみながら眠りに着くことをお勧めいたします。月の運行はとても速いのであっという間にベッドを移動してしまいますが、月を見ながらベッドに入るのは私にはとても贅沢なひと時に思えます。
そしてもっと贅沢なひとときが・・・雪景色の中で温泉に浸ること。冷たい雪と温泉、やはり露天風呂がいいですね・空を見上げると満天の星・もしくは三日月や満月が輝いている。日本の露天風呂は世界に誇れる文化だと思います。
2月のコラムは吉野の里に降り積もった白雪から飛躍して露天風呂に発展してしまいましたが、坂上是則さんがこの歌を詠んだ後に、旅の宿のお風呂に浸かってそれが露天風呂だった可能性はありそうです。その頃に露天風呂があったのかどうか、今度調べなくては。
(早苗ネネ♪)
スケジュールが決まりましたらご連絡しますね!
新宿シャンパーニュ 電話 03-3354-8540(昼) 03-3354-2002(夜)
新宿一丁目。元新宿厚生年金前。http://www.champagne-live.com/
1.スターピープルVOL41から「女性性のパラダイムシフト」というタイトルで連載寄稿しています。
早苗ネネさん プロフィール
木々や鳥や魚や精霊…人間以外の存在達との交流が当り前に語れるくらい、いのちのひろがりに気づくと、共に生きている喜びや、苦しみや悲しみにもナイーブになる。
心と野生がひとつながりになると……こんな風に人は年を重ねられる。ひとりひとり、ユニークにもっと自分になれる。
早苗 Nene さんは、そういう人生の先駆者です。 感性を解放しながら、40代で高校生に仲間入り卒業後、マウイのカレッジに留学中、突然半生記が受賞しました。
そんな新たなシーズンを迎えて、今エッセンスを分かち合いたい。
<天性の歌い手>というだけでなく、その存在感、溢れる活性のバイブレーションは、光のシャワーのよう。彼女と語り歌い、魂の成長を旅している現在の、自分の位置を確かめてみませんか?
私の名前は「はな」です。4月12日生まれの7歳よ♪
私は生まれてすぐに西郷家の子どもになりました。
「はな」はハワイ語で「OHANA」、家族という意味なんです。
素敵でしょ? ハワイが好きでフラダンスも踊れる私のママが付けてくれました。 (*^ワ^*)
プロフィール | はな トイプードル メス 7歳 |
こちらが私のママで、西郷隆子といいます。
あの幕末の歴史に名を残した、西郷隆盛の子孫で「やしゃご」にあたります。
ママは平塚で「aikana 」という美容室とハワイアン雑貨屋さんをやっています。
お店の名前の「あいかな」は、ご先祖である西郷隆盛の奥さんの名前でした。ママはお店を開く時に初めて奄美大島へ行き、あいかなさんの墓前に名前を使わせてもらうことを報告に行きました。それから数年が経ち、昨年秋にたまたま奄美大島を訪れたママは、そこでビッグサプライズに遭遇!! その日になんと、西郷隆盛の縁により奄美大島龍郷町と熊本県菊池市の友好都市宣言書の調印式が行われたのです。そこへママが現れたことで、町長さんも市長さんも西郷どんのお導きかと大変驚かれたようでした。
そんな不思議な偶然のラッキーハプニングも楽しむママのことが大好きなはなちゃんなのです。
これは私の肖像画?
画家でアーティストの今井アレクサンドルさんに描いて頂きました。
可愛いでしょ♪ これからもはなちゃんをよろしくね (*^ワ^*)
協力:Hair Salon Aikana http://island.geocities.jp/aikana358
撮影場所:元町 Oriental Beach 5F
取材・写真・文:足立 優
新年あけましておめでとうございます。
新年あけましておめでとうございます。 皆様は「初詣」は行かれましたか。私が住んでいる神奈川県だと、鶴岡八幡宮(鎌倉市)や川崎大師(川崎市)に行かれる方が多いようです。 ところで、「初詣」の意味をご存知ですか。「初詣」は、年が明けて初めて社寺にお参りすることで、神様に新年のご挨拶をして、一年間の家内安全を願います。「初詣」は、大晦日の夜から元旦の朝にかけて祈願のために氏神の社に籠る「年籠り(としごもり)」から始まったと言われています。「氏神神社」とは、自らが居住する地域の氏神様をお祀りする神社のことです。 つまり本来の「初詣」は、氏神様にお参りすることなのです。東京都神社庁のWebサイトには、「初詣は氏神さまから」というページがあります。 かく言う私も「氏神様」を意識したのは、横浜市中区に移転してきた六年前からです。中区に居を定めたときに、我が家の「氏神神社」がどこなのかを探して、「皇太神宮 (こうたいじんぐう)」だということがわかりました。 「皇太神宮 (こうたいじんぐう)」は、住宅地のなかにひっそりと佇む神社です。目立たない神社ですが、天照皇大御神をおまつりし、天永年間(1110~1112)に創立とされている古い神社です。 |
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今年は、元旦の午前二時頃に、古いお札を持って「皇太神宮」に初詣に出かけました。ちょっと出遅れたようで、私が到着した頃は、すでに「お焚き上げ」(古い御札を焚くこと)は終わっていて、人の流れも途絶えていました。
「二拝二拍手一拝」のお参りを終えると、夜の冷たい空気がピンと張りつめて、新年が始まった清々しい気持ちになります。その後、「おみくじ」をひきます。昨年は「大吉」でしたが、今年はそれほどでもありませんでした。内容は・・・秘密です。
「おみくじ」は持って帰ってもいいようですが、私は神社境内にある結び場所に置いてきます。子供の頃からの習慣で利き手と反対の手で結ぶようにしています。これは「おみくじ」の内容が吉でなくても、吉に転じるような「おまじない」だと言われています。
神社の近くでは、消防団の方々が甘酒を振る舞っていました。甘酒をいただきながら、「氏神様」を意識することは、地域とつながることだなと感じました。
神奈川県神社庁のWebサイトでは、氏神様検索ができるようになっています。有名な神社仏閣にお参りするのも素敵なことだと思いますが、新年を機に自分の「氏神様」を探してみませんか。
初詣は氏神さまから(東京都神社庁)
http://www.tokyo-jinjacho.or.jp/ujigamisama/index.html
あなたの氏神様は?(神奈川県神社庁)
http://www.kanagawa-jinja.or.jp/
第3回 2013年のオススメ手帳
プロローグ
新しい年が明けた。新政権も誕生した。
今年は、この日本を覆っているどんよりとした空気が晴れるのか否か、少~し興味を持ちつつも、自称「最強人類世代(と勝手に呼んでいる)」の40sウーマンに属する私は、今年もO3マインド(オヤジ・オバチャン・オトメ)で身近な出来事を甘辛くつづっていきたいと思う。
さて、今年一発目のテーマは「手帳」。昨年、皆さんはどんな手帳を買われたであろうか? 男性のビジネスマンは、毎年決まったものを使う人も多いが、女性の場合、毎年手帳を変える人の方が多いように思う。
私も好みの形態はあるが、毎年同じものを使う事はまず無い。昨年末もあれこれと店を周り、色々とみて、コレ!と思うものを決めた。そんな手帳選びの中で、凄い販促&プロモーション展開をしている手帳に出会ったのでご紹介したい(もちろん、メーカーのまわしものではない)。
第21回 日本文具大賞 グランプリを受賞した手帳
ご存知の方も多いと思うが、第21回日本文具大賞 グランプリを受賞した「ED!T」という手帳シリーズ。基本B6サイズで1日1ページ式になっており、時間管理にとどまらず、自由に自分らしく手書きをするために作られた。日記帳と類似するが、市販の日記帳とは異なり、薄い上質紙を使い、極力軽量化を図っているところが素晴らしい。表紙も、色や柄、材質の異なるバージョンが50種類以上ラインナップされており、オトメ心だけでなく、ビジネスマンのオヤジ心もくすぐる製品になっている。
PCの普及で、2-3行以上直筆で書く事が少なくなっていると言われているこの時代、アイデアや感想、出来事などを、手書きをする事で、記憶に残りやすくなったり、考えが整理できたりする効果もあるらしい。
EDIT デイリープランナー エディット http://marksdiary.jp/edit/
オトメマインドをくすぐるバリエーション
なんといっても、様々なカラーと、質感の異なる表紙が多数用意されているのが、オトメ心をくすぐる。人気アーティスト奈良美智氏とのコラボレーションをしたシリーズがある事でも、昨年話題をよんだ。 奈良美智シリーズには、たくさんの物が入れられるよう、表紙がクリアケースになっている。奈良美智バージョンを選ぶユーザーは、多色使いで、手帳を書くことが想定されるため、ペンやコラージュシール、付箋などを入れておけるよう工夫がされているというわけだ。 実によく考えられている。 |
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オバサンマインドをゆさぶる軽量化と、大人のデザイン
「日記のように、色々書いてみたいけど、デイリーは重くなるから・・・」とつい躊躇してしまうのがオバサン。そうでなくても、カバンの中は色々な物で一杯だし、年相応にちょっと値の張るカバンを持てば、それ自体で結構重い。昔はバインダー式のシステム手帳を持った事もあったけど、肩こりの原因になるので翌年には却下。かといって、小さな手帳では毎日の予定が収まりきれない。 そんなニーズを知ってか知らずか、このデイリー手帳は、極めて薄い上質紙を使用し、書き心地もバツグンで申し分ない。さらに、オバサン好みの大人派手目の色も豊富に揃っている。すばらしい! |
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オヤジマインドで、販促&プロモーションをチェック
このように、数々よく考えられて作られている「ED!T」手帳だが、その販促物やプロモーションも素晴らしい。私が注目したいのは、以下の3点。
1. |
まずはこの手帳をどのように活用できるか、様々な職種の人の使用例を記した書籍(単行本)が発行されている。 無料で配布される説明BOOK的なものとは異なり、きちん定価のついた書籍だ。いわゆる有料の販促物。にくい演出だ。様々な人の活用例を眺めているだけで、想像がかきたてられ、旅行のガイドブックを眺めているような楽しさがある。 |
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2. |
2. アーティストとのコラボ 先にも記載したとおり、若い女性に人気のアーティスト奈良美智氏とのコラボレーションをしたシリーズを発表している。このことにより、雑誌やWEBなど、メディアの露出が随分と高まったはずである。シリーズと言っても、コラボした作品は2種類だけ。しかしこのコラボのニュースから、この手帳が文具大賞グランプリを受賞した事を知り、さらに興味を持った人も多いと(私もそのくちだ)。通常はグランプリを受賞すれば、それだけで十分な広報ネタとなりそうだが、手帳のユーザーは幅広い。「文具大賞グランプリ」より、「奈良美智デザイン」のインパクトの方がはるかに大きく響くユーザー層も、多数存在するはずである。この点をきちんと計算に入れたプロモーションだと想定すれば、実に見事だと言わざるを得ない。 |
3. |
サンプル品がある。 この手帳にはサンプル品がある。これがまた凄い! 約半月分の記載ができるサンプルが、店頭に置かれてあった(無料)。半月分なのでペラペラな冊子。はじめは、手帳を説明するカタログかと思った。しかし、紙質も大きさも中身の形状も全く実物と同様のもので、当然日付も入っている。私が手にしたのは2012年12月1日からのものだった。「まず、半月使ってみてください」ということなのだ。 手帳にサンプルとは恐れ入った。 |
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文具業界に詳しいわけではないので、このような販促品やプロモーションがこの業界で初めてかどうかはわからないが、少なくとも、毎年時間をかけて手帳を吟味する私だが、上記の3点を行なっている手帳は、ほとんど記憶にない。特に、手帳のサンプル品は、類似品もお目にかかったことがない。
確かにお金もかかっているので、投資対効果があったかどうかはわからないが、このサンプルの販売促進効果は、確実にあると思った。実際、デイリータイプは一切検討する気が無かった私だが、このサンプルを使ってみて、かなり迷わされてしまったからだ。
土俵を変える
製品関連の有料書籍も、ゲームの攻略本や、PC関連には存在する。また、有名アーティストとのコラボも、アパレル業界をはじめ、様々な業界で実施されている。同様に製品サンプルも化粧品業界などでは一般的で、当たり前の手法だ。しかし、これを手帳に持ち込んだだけで、これだけユニークな、楽しい販促物やプロモーションができあがった。
マーケティングの世界では、土俵を変えるという考え方がある。同じ商品やサービスでも、全く異なる業界や場所に持ち込むと、画期的な新しいものになり、販売が促進されるというものだ。今回のサンプルなどは特に、販促物に応用した変形バージョンとも言えるかもしれない。
「製品を買う前に試す」という発想は、化粧品業界では全く当たり前の考えだが、手帳業界ではほとんど無かった。決して新しい手法ではないが、別な土俵に持っていくと、画期的なアイデアとなった良い例ではないだろうか。
目を凝らして探してみると面白いかも
こういう事は、ビジネスに限らず、きっとあちこちに転がっているのかもしれない。自分の家ではとても当たり前なのに、お隣さん家に行ったら、ものすごく褒められたとか、また逆に、旅行先で、街の人が普通にやっている事だけど、自分の町内には無い素晴らしいシステムを見つけたとか・・・。特殊な事や物でなくても、場所を変えるだけで価値が変わる事は、身近なところにも転がっているのかもしれない。
そういう埋もれたお宝を見つけ出せるよう、今年も、オトメ・オバチャン・オヤジのアンテナを全開にして、私の周りの平々凡々とした日常を見つめていきたいと思う。
本年も、どうぞよろしくお願いいたします。
プロフィール
ペンネーム: 津木 雫(つぎ しずく)
オヤジ・オバチャン・オトメのO3マインドを持つ、なんちゃってコラムニスト。
約20年間メーカー勤務。広報・マーケティングを経て、現在フリーランス。
典型的な仕事人間という生活を過ごし、はたと気がつけば人生の折り返し地点。「さぁどうする!」と我が道を振り返っている真最中。
学生時代に、約15カ国を貧乏旅行。
その経験から、今の若者が育つ環境には、問題を自らの力で乗り越える体験が不足していると、感じている。若者教育関連のNPOを立ち上げ、神奈川を中心に現在活動展開中。
セカンドライフ列伝 第9回 陶淵明(とう えんめい)
榎本技術士オフィス/榎本博康
第9回 陶淵明(とう えんめい)
職業隠者としての逆転人生
今回は5世紀中国江南の田園詩人にして隠棲者として高名な陶淵明(365年~427年)です。実は陶淵明については以前に拙著「走り読み文学探訪」で書いたことがあり、そこには政変に巻き込まれて命を全うできないリスクから逃れて、自分らしく生きることへの回帰を果たした男への共感を綴りました。丁度私がサラリーマン生活から現在の自営業に移るという時期でもあったからでしょう。
しかし今回は別の陶淵明像を描いてみます。家柄に恵まれず、強運も無い、沸々たる野心を秘めた教養とまじめさだけの男が、実務の世界では不器用で使いものにならない。世に名をなすために選んだ一発逆転のトラバーユ、職業隠者への転身の成功譚として、です。
同じ著者が違う陶淵明像を書いて良いかという声もあるでしょうが、そのような二面性にこそ描く方にも描かれる方にも人間の本質があって良いのだろうと、自分勝手に納得しております。
なお文末の参考文献はいずれも高い学識に溢れていて、私のような入門レベルの知識で書いて良いテーマなのかと落ち込みましたが、まあ英検一級じゃなくてもブロークンな英会話をしてもかまわないのと同じと居直り、例によって史実をトレースしきれずに逸脱しながらも、虚々ときどき実を取り混ぜた陶淵明像に挑戦してみます。
ちょっと観賞タイム
陶淵明を知らない方には、とっつきにくいと思いますので、まず最も有名な詩のイントロを紹介します。長いと嫌われるので、ちょっとだけです。漢字は現代日本風にしました。この書き下し文を声に出して詠ずると、ちょっとした漢詩気分を味わえるでしょう。
帰去来兮辞 ききょらいのじ
帰去来兮 かえりなんいざ(さあ、今こそ故郷に帰ろう)
田園将蕪胡不帰 田園まさにあれなんとす なんぞ帰らざる
(主人が不在の田畑は荒れ放題になろうとしている、早く帰らないと)
既自以心為形役 既に自ら心をもってからだのしもべとなす、
(もう十分に生活のために自分の心を偽って官吏をやってきた)
奚惆悵而独悲 なんぞちゅうちょうとして独り悲しむや
(どうして独りで恨み悲しむ必要があるだろうか、サッパリしよう)
(この後は、「帰去来兮辞」で検索してみてください。)
おさらい、その頃の中国史
まず中国史のおさらいを。4000年以上昔の夏から、殷、周、春秋戦国、始皇帝の秦、そして紀元前後を挟んでの中国最長の統一王朝である前漢、後漢の時代が400年余り続き、次いでAD220年頃から魏呉蜀の三国時代、それを265年に建国した晋が統一しました。しかし304年頃からの五胡(北方の五族)の侵入と建国(十六国)により弱体化し316年に滅びるも、晋(歴史では区別のため東晋と呼ばれるが、本稿では単に晋とする)として317年に建康(今の南京市、海沿いの上海より少し内陸)を国都とし、華北からのがれてきた北方勢力と江南地方土着の豪族勢力との協力によって建国、100年余り続きました。これが陶淵明の時代です。その領域は揚子江流域からその南側の東シナ海、そして今のベトナム国境あたりまでです。協力と書きましたが、北方勢力がイニシャシチブをとり、江南勢力は下方に置かれていました。当時の揚子江以南は未だ開発途上であり、「南人」とは蔑称でもあったので、江南勢力はこの亡命王朝を自分らのステータス向上のチャンスととらえて協力したのですが、実態としては乗っかられたのです。陶淵明はこの土着豪族勢力に属します。
しかし50年もすると晋室の衰えや水害、飢饉などもあって世が乱れ、403年から404年にかけて、禅譲により鎭軍将軍桓玄が帝位に就いて楚となるも、鎭軍将軍劉裕(この二人の名前、憶えておいて下さい)に攻め滅ぼされ、晋室は復活します。その直後の405年に、陶淵明(41歳)は隠遁生活に入ってしまうのでした。
さらに420年に宋朝が開かれ、晋は滅亡しました。宗の始祖は例の劉裕であり、脅迫による禅譲のあと、晋の廃帝を幽閉の上で殺害しました。
偉大なる曾祖父陶侃(とうかん)
本人の伝記の前に、その祖先から始めなければならないのは、中国四千年の伝統です。曾祖父の陶侃は下層で貧賤な士族階級の出身で、しかも異民族の血を引くというハンディにもかかわらず、チャンスをうまく掴み、さらに戦争が上手で軍の最高責任者に就任しました。勤勉で農耕を奨励し、との評価が高い一方で、当時としては当然なのですが、妻妾数十人、召使千余人という贅沢で、17人の子供が居たと伝えられていますが、陶淵明の祖父はその中にありません。一体何人の子供がいたのでしょうか。さらに陶淵明の父親の名前は伝わっていません。彼の作品の中で、「おとうさん」と呼んで名前を書かなかったというよりも、どんどん家が傾いてきて官職に就けず、当時の記録に残りませんでした。それでも「おとうさん」は農業を愛する荘園領主であり、正妻の子である陶淵明と、妾の子である3歳年下の妹がありました。
この曾祖父は陶淵明誕生の31年前に死んでいるのですが、彼は曾祖父を敬愛するとともに、自分の出自が立派であることの宣伝に使っていました。本人の才能よりも、出身が出世に繋がる世の中であったから当然なのです。
また外祖父孟嘉(もうか)の影響も強いのですが、長くならないように簡単に紹介します。孟嘉は家柄も育ちも良くて、教養も高かったので、いわゆる名士の風格であったといいます。このカッコいいということは、中枢で生きる上で重要なことと言われています。武力以外の場面において、人間力での闘争が日常的にあったからです。
第一の人生~荘園主として
さて、陶侃(とうかん)の勤勉な自制心と、孟嘉の教養と冷静さを受け継いだことを誇りとする陶淵明は、8歳で父を亡くしましたが、荘園領主の長男という立場です。相応の農地と小作人を抱えていたことでしょう。彼が19歳の時に淝水(ひすい)の戦いがあって、北方の前秦が100万弱の軍勢で侵攻してきましたが、晋軍8万でこれを破り、このため前秦は自滅し、後秦に代わることになります。彼は儒者としての教養を収めつつ、青雲の志をいだいていましたが、この戦いに熱い思いを寄せた詩が残されています。この北方の弱体化がしばし晋国の安定を招くのですが、一方戦禍冷めやらぬこの後の10年間で5回の洪水や、干ばつ、蝗害の発生で深刻な飢餓状態でありました。それにもかかわらず政治の無策、というより横暴が続いていたのです。
陶淵明は20歳頃に最初の妻を娶るのですが、その出自は不明であり、一子儼(げん)を残して死にました。それは彼の20代末と考えられています。この子の誕生に際して作られた「子に命(なづ)く」という詩では、偉大なる先祖から立派な父までを滔々と紹介して、それに引き替え私は学識が浅く、この子に家の将来を託す他は無い」との思いを記しました。ここで父について「自然の中に身を置いた君子」としています。この父の影響も見逃せません。
その後再婚し、さらに4人の子供(俟(し)、份(ひん)、佚(いつ)、佟(とう))をもうけました。ただしこの5人は男子であり、他に5人の女子もあったのですが名は伝わっていません。そういう時代ですから、仕方のないことです。
さて20代の彼の伝承は乏しく、疲弊した江南の地での荘園経営に汲々としていたと想像します。この時代は北方勢力の入植により、農地の開拓が進んだのですが、彼の身分では余り良い土地は得られなかったと考えられています。
第一の人生~軍事参謀として
29歳で「祭酒」に就きました。別に酒が飲めるぞという役職ではなくて、州の学事を司るものです。官に就くのが遅いとも見えますが、彼の家格からはこんなものかもしれません。一説には彼の荘園だけでは食えないので、就職活動をしたのだとも言われますが、当時の就職活動はお金が必要なので、なかなか資金が貯まらなかったのかもしれません。しかし「吏職に耐えず」(意訳:こんな下らない仕事、やってられるか。)としてすぐに辞めてしまうのです。次に紹介された州主簿は鼻先で嗤って最初から断ってしまいます。これは傲慢とも見えますが、より高い官職を得るためのその時代の常套的な手法であったとも思われますが、自負も相当に高かったのでしょう。でも彼のハッタリは不成功でした。当然そのしっぺ返しで数年は干されてしまいます。それでも貧なりといえども荘園があるので生活は維持できるのです。
ようやく35歳で次の役職を紹介されますが、生意気なことをした懲罰的な意味合いもあるのでしょうか、彼にふさわしい文官らしい役職ではなくて、職業軍人である鎭軍将軍劉牢之の参軍となり、孫恩の寇の討伐に従軍しました。今度はもう後が無いので断るわけにはいきませんでした。このボスの劉牢之には理念も信念も無く、戦いの日常においての処世が重要な関心事です。
次いで同じく鎭軍将軍である桓玄の幕下に参じました。桓玄の方は大軍閥の出身で支援者が多く、風采が良くて教養があって文芸に秀でていました。また彼の父の桓温は天下を夢見つつ、果たせないまま死んだという思いも受け継いでいました。桓玄は陶淵明の4歳下であり、外祖父の孟嘉はその父桓温の幕僚であったという関係です。陶淵明が劉牢之の所で役に立たずにおぼつかないので、親の代の恩義から転属させてくれたのでしょうか。
当時の晋室は単に有力者達に担がれた飾りにすぎませんでした。陶淵明が最初の就職をした頃の孝武帝はアル中でしたが、お気に入りの妾に「おまえはもう30歳、若いのが欲しいなあ」と言ったため、妾にふとん蒸しにされて殺され、次の安帝は言葉が不自由で知能に問題があったといいます。
やっと就職が軌道に乗ったかに見えた36歳で、陶淵明は国都建康への使いに帰り、37歳(401年)で休暇をとって帰郷しました。やっぱり軍の実務はつらかったのかと、勝手に推測します。しかし年末に実母が亡くなったため25ヶ月の喪に服しました。この母の死は、彼にとってラッキーと言わざるを得ません。理由は次節で説明します。
第一の人生~劉裕の同僚として
桓玄は野心を抱いて、揚子江中流の江陵を攻め落とし、次第に晋国の三分の二を掌握し、402年に東進して首都建康を攻め落し、競争相手の劉牢之を自殺に追い込みました。翌403年に桓玄は帝位に就いて国号を楚としました。しかしこの間に劉牢之の部下の劉裕が頭角を現しており、一揆の鎮圧で20万人を殺戮するという実績をあげていました。税は重く、官職は公然と売買される乱れた世に、一揆は常態化していたのです。劉裕は404年に桓玄を攻め滅ぼし建康を奪回して鎭軍将軍になりました。この劉裕が破竹の勢いで、420年には自らが帝位に就いて国号を宗と改めました。晋は滅亡したのです。
ここで時計を戻しますが、陶淵明が初めて劉牢之の下で参軍となった時に、同期の新米参軍同士として傑物劉裕と会っています。陶淵明の2歳年上であり、将来宗の開祖となる男は、彼とは全く違うタイプでした。陶淵明が必要としていた家柄も教養も全く関係のない世界の住人です。草履屋の息子、博徒あがりで無教養ながら、ばくちと喧嘩がめっぽう強かったのです。ピースの缶を賭けたちょぼいちで稼いでいました。(あれ、時代がちがうかな)劉裕が37歳の時に劉牢之が従軍者を募集し、それに応じて戦争の能力も開花させ、揚子江南岸デルタ地帯で転戦に転戦を重ねてことごとく勝利し、勇名を馳せました。
これはおぼっちゃまだった陶淵明が、自分の荘園に留まっていた頃には知らなかった猥雑で残酷な社会の実態です。官職を蹴飛ばす程度のはったりは何の効果もありませんでした。また出自が良く、教養のある桓玄は晋を簒奪したものの、単に玉座が欲しかっただけで、為政者としては何もできずに政治家としての無能をさらけだしただけでした。一方持っている男劉裕は負けを知らず、野卑ながらそこがまた魅力で協力する人物が集まってくるのです。この持っている男が背負う男になろうとしているのでした。
さて、陶淵明は404年の40歳で鎭軍将軍劉裕の参軍として復職します。そして劉裕のやり口を目(ま)の当たりにします。劉裕は徹底的な桓玄の残党狩りをしたので、陶淵明があのまま桓玄の下に留まっていたら恐ろしいことになっていたのは間違いありません。
第二の人生~県令から隠遁者へ
当時の生き方は陶淵明の場合で言えば、有力者に従うか、隠者になるかの二者択一との説があります。劉裕の配下では発言するひとことを間違えれば首が飛ぶので、翌405年には劉牢之の子、建威将軍劉敬宣の参軍に移りました。ここから再度就職活動をして、その秋に彭沢(ほうたく)県県令(県知事)となりました。もう41歳、高い官職は既に望むべくもなく、せめて実入りの良い搾取のできる立場になろうとしてもおかしくはありません。しかし3ヶ月弱でその県令の地位を投げ打って帰郷し、隠遁生活に入ってしまいました。
なぜそうも早く県令を辞めてしまったのでしょうか。一説には査察が入ることになり、そんな小役人にぺこぺこするのはプライドが許さんとして、そんな屈辱よりは辞めてしまったと。しかし私が採るのは陶淵明の一石二鳥説です。つまり政変から身を守ることと、隠者として後世に名を成すことです。ではなぜ県令になったのか。これは隠棲者になるための手続きとする見方があります。つまり参軍として使われる立場ではなく、小なりといえども県令という権力者になり、そこからの隠棲という落差を演出したものというのです。
実は隠者とそれを庇護する貴族階級との相互依存関係が当時既に成立していて、隠者は極めて政治的な存在であったのです。隠者の高級なものを隠士と言うそうですが、隠士に助言を求めたり、時には政府中枢に組み入れたりして、政策の権威を高めたり、為政者の人徳の証(あかし)としていました。丁度現代で学識経験者をいろいろな委員会に招へいしたり、時には大臣に登用していることと同じとしても、言い過ぎではないでしょう。
第二の人生~隠遁生活の実態
足取り軽くヤッホーヤホホの帰郷でした。「帰去来の辞」で喜びを露わにしての隠棲者デビューでした。彼の詩にはいかに貧乏かということが縷々語られていますが、下僕がいて、複数の妻が居て、10人の子供が居て、実際はそう困っていなかったとも思えます。日本の大邸宅の敷地の一画に鄙びた茶室がぽつんとあるように、彼の御屋敷の敷地の一画にぽつんとわざとボロボロの隠者の庵があったのではないかとも想像してしまいます。当時の有力者は、有名な隠者のパトロンであるかというのがステータスの一つですから、例の劉裕直属の将軍が手土産を持って彼の庵を訪問したといいます。「あなたは世に道がないので隠棲しているとおっしゃるが、今はその道がある。今こそ賢者として世に出るべきでしょう。」と誘うが、これに乗っては隠者ではありません。「私は愚者ですよ。」とはぐらかす。これで益々隠者としての株があがるというのです。でも本音は殺戮マシン劉裕の傍になど戻りたくないということでしょう。庵から持って帰らせたお土産は、母屋に届けられていたかもしれません。無教養な劉裕から見ればかつての同僚であった隠者は、利用しやすいと見たのでしょう。
陶淵明が隠者として人気が出てくると、いろいろな名士が訪ねてきました。いつしか自称していた五柳先生(門前に生えていた五本の柳に由来)が呼称となり、好きだと公言している酒が届けられ、酔っぱらってよく寝ていた石は「酔石」と呼ばれ、それが段々と観光地化してきました。私の妄想では寺院の仲見世のような状態であります。あくまでも妄想ですよ。
実は彼は隠者を心がけながらも、常に中央の政変に関心を抱いていたようです。従ってそのような訪問者は重要な生の情報源であり、それがお土産付きでやってくるのですから、申し分がありません。しかも隠者としての名声が高まれば高まるほど、身の安全は保障されます。陶淵明は自分の5人の男児は皆んなバカだという詩を書いていますが、バカであることこそ身を守る術です。利口では長生きができません。長男が生まれた時に、あれほど出世してくれと願ったことなど、さらりと忘れていました。
そして自ら耕して自ら食うと言う生活を実践し、陶淵明の躬耕(きゅうこう)米としてブランド化に成功しますが(うそですよ、ウソ)、また老いに苦しむ日々も払いのけることができませんでした。
人生は実に難しい
陶淵明を論じるには、彼の詩を観賞することが不可欠ですが、私に教養が無いのでそれは参考文献等に譲るのが賢明でしょう。最後に参考文献2)の吉川氏の論説に依拠しながら、彼の辞世の詩である「自祭文」を概観して結びにしたいと思います。これは彼の百余編の詩文の最後を飾るものであり、63歳の9月の死の床で書かれた(または口述筆記された)詩です。その書き出しから研ぎ澄まされた詩人の言葉が紡ぎだされます。
歳惟丁卯 としはこれひのとう(今年は西暦427年だ)
律中無射 ふえはぶえきにあたり(楽の高音が冴える9月(新暦の10月)である)
天寒夜長 てんはさむくしてよるはながくして(放射冷却で空は寒く、夜が長い)
風気粛索 かぜのきはしょうさくとわびしきとき(風気寂しく吹き続けるときに)
次がポイントです。死に際しての心の整理ができたようです。
陶子将辞逆旅之館 とうし、まさにかりのやどりのやかたをじして
(私こと陶淵明はかりそめのこの世からグッドバイして)
永帰於本宅 ながくもとのいえにかえらんとす
(本来の住まいである、死後の世界にかえりゆこうとしている、永遠に)
数行おいて、「われ人となりてより、運の貧しきに逢い」(俺の時代はろくでもなかった。俺のように潔癖では貧乏神しかやってこない)と、愚痴る。だから農業に、田園生活に勝るものはない、と持論にたどりつき、さらに数行あって
捽兀窮庵 みじめなるいおりにそつこつとしつつ(あばらやを自慢しながら)
酣飲賦詩 ほしいままにのみて詩をつくりぬ(好きなだけ酒を飲んで詩作を楽しんだ)
これぞ陶淵明の真骨頂です。しかし、さらに何行か続いたこの詩の最後の3行は次のようで、全く翻訳不要の嘆きです。
1600年近く昔の嘆きがダイレクトに届きます。
人生実難 人生はまことにむずかしい
死如之何 死はいかがなるべきか
嗚呼哀哉 ああ、かなしいかな
陶淵明は我々から見れば理想の人生を送ったように思えます。ぐっと卑近な話にすれば、サラリーマンとして大成できるのはほんの一つまみの人間で、たいがいは住宅ローンの返済に退職金を使い果たして老残の日々を過ごすのがオチです。陶淵明が残りの人生を貧しくとも優雅な田園生活を送れたのは、元々荘園主であるというラッキーな出身であったからです。それに職業隠者としての名声を得ることに成功していました。政争に巻き込まれずに天寿を全うできたこと。家族、親戚、友人達に看取られて旅立とうとしていること。こんなに上手に達成できた人生なんて、そうざらにはありません。誰の人生が難しいんだ、と突っ込みたくなります。
加えて死とは何だと問いかけます。でも自分で冒頭に、それは本当の住まいに帰ることだと言っています。推理小説のどんでんがえしでも、実は誤認逮捕で真犯人は分かりませんというだらしのない結末は無いでしょう。
ああ、死を眼前にして、生きることも死ぬことも何も分からなかった。何と哀しいことかと結びました。でも哀しいのは読者の方だと言いたいですよね。
ちょっと突っ込んでみましたが、ここが陶淵明の魅力の真骨頂であろうと思います。彼の誠実さの表れでもあります。職業隠者としてのポーズを取り続けて死ぬことも十分に可能であったでしょう。しかし実直な彼はそのようには死ねなかったのです。陶淵明の言いたかったことを代弁してみました。
「偉大なる曾祖父である陶侃(とうかん)じいちゃん、俺もおおじいちゃんのように栄達したかった。なんたって妻妾数十人だもんな。いいなあ。そうできなかったのを時代のせいにしたけど、陵裕のように運と冷酷さの備わった奴は皇帝になっちまった。皇帝のまま、大満足のうちに天寿を全うして、息子が後を継いでいる。陵裕は殺戮の末に時代を作ったんだ。そんなまねのできない臆病な俺は隠棲するしかなかった。貧乏な俺はボロ屋を自慢するしかなかった。酒好きな俺だが十分には飲めなかった。文才を自負した俺だが、詩を書けばどこか本音が出てしまって、カッコ悪かった。ま、カッコ悪いままに絶筆とするのが、俺らしいか。じゃ、グッドバイ。」
陶淵明は後世の人々から羨望されるような人生を送り、かつ以来1600年近くも多くの人々を惹きつけてきました。しかし本人は自らの人生に、老いる程に懊悩したものと思われます。それは正直にしか生きられなかった、へたくそな人生だからであり、そこが我々凡人にとっての救いであり、人生の先生としてふさわしいのではないでしょうか。
(2013.1.1 榎本博康)
主な参考文献
- 和田武司:陶淵明伝論 田園詩人の憂愁、朝日選書 (2000.6)
- 吉川幸次郎:陶淵明伝、ちくま学芸文庫 (2008.8)
- 石川忠久:陶淵明とその時代、研文出版 (1994.4)
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榎本博康(えのもとひろやす) プロフィール
榎本技術士オフィス所長、日本技術士会会員、NPO法人ITプロ技術者機構副会長 日立の電力事業本部系企業に設計、研究として30年少々勤務し、2002年から技術士事務所を横浜に開設して今日に至る。技術系では事故解析や技術評価等に従事する一方で、長年の東京都中小企業振興公社での業務経験を活かした企業支援を実施。著作は「あの会社はどうして伸びた、今から始めるIT経営」(経済産業調査会)等がある。趣味の一つはマラソンであり、その知見を活かした「走り読み文学探訪」という小説類をランニングの視点から描いたエッセイ集を上梓。所属学協会多数。 |
ビジネスのフレームワーク入門(第1回)
デジタルハリウッド大学大学院/NVD株式会社 松本英博
1.フレームワークとは
前回までの連載「ビジネスの創造方程式で勝ち抜こう」は発想を拡げることに注目しましたが、実際は実践するためにまとめや絞り込みが必要です。その際に役立つのが枠組み(フレームワーク)です。MICEやPDCAなど多くのビジネスで活用されているフレームワーク。その初歩を学ぶことでビジネスのステップアップを図るヒントを与えるのがこのコラムの狙いです。
では、フレームワークとは何でしょうか。英訳のままですと、枠組みとなります。これだけでは、ビジネスあるいは発想のまとめに役立ちそうにないと思います。そこで、その例を先ず見てみましょう。
新規事業の戦略を考える
さて、新しい事業をフレームワークで考えてみましょう。
先ず上図を見てください。縦軸は、新規事業で売る商品を新商品と既存商品に、横軸は、新規事業の対象とするお客さまを既存客と新規客に分けてみて、4つの領域があることに気付きます。
さて、この4つの領域は、
- 既存客に既存商品を提供する
- 新規客に既存商品を提供する
- 既存客に新商品を提供する
- 新規客に新商品を提供する
になります。さて、こう考えると、これから進める事業と商品、顧客の関係を「モレやダブリのない状態」で分類できることが分かります。さて、これから、貴方が考える新規の事業企画や事業計画はどこに分類されるでしょうか。
ここまでくれば、例えば、
- 既存客に既存商品を提供する:既存事業の改善(コストの削減や商品のマーケティング戦略の見直しなど)
- 新規客に既存商品を提供する:既存事業の顧客開拓(これまでと異なった顧客に既存商品を展開)
- 既存客に新商品を提供する:既存事業の商品刷新(新商品によって既存客の購買を促す)
- 新規客に新商品を提供する:全く新規の顧客を開拓し、新商品を投入する
と分析できます。1~4で、リスクを考えると、1は比較的低く、2と3は同程度、4は最も高いことが分かります。
このようなタテヨコ軸でできる4象限に、正反対の条件を設定することでモレやダブリなく分類できることが分かります。つまり、このような設定をおけば、どんな事業でも分類でき、分類することで気付きを誘発することになるのです。このような設定の仕方がフレームワーク(枠組み)と呼ばれるものなのです。今回紹介した例はMICE(ミッシーと読みます)というフレームワークを利用したものです。
フレームワークは、論理的思考の枠組みに一種で、発想の方程式が思考の発散を促すものだとすると、フレームワークで分類することは、絞り込みを促すことにもなります。
2.フレームワークの効用
フレームワークは、発想のまとめ以外に多くの効用が知られています。
先ずは、MICEの例のように、自分の発想や考えのモレやダブリを気付かせ、死角を発見でき、発想をさらに現実的、具体的にすることができます。
また、フレームワークに当てはめること全体像をつかむことができ、偏った見方を脱し客観視することができます。つまり、全体を眺めることで部分的な思考に拘り過ぎることを避け、全体を生かす手法も発想できることもあります。近年、全体的な最適化をビジネスの上で行わないと、競争社会で勝利できない時代になってきています。部分で勝って全体で負けるといった日本企業が多くなっているのも、全体最適を行う発想が必要だと言われています。マネジメントの著名なドラッガーがいう、『いかに優れた部分最適も、全体最適には勝てない』と一致しています。
さて、ここまで読んで、ちょっと興味アリと思った方、次回からフレームワークの適用事例を紹介しながらビジネスに役立てる方法を解説していきます。乞うご期待!
※「創造方程式」による発想のトレーニングがしたいというなら、参考に拙著「ヒット商品を生み出すネタ出し練習帳」をどうぞ。
次回の予告
次回は、「身近なフレームワークを活用してみよう」を通じて、フレームワークを使った分析の基本を解説します。
松本英博 プロフィール
松本 英博(まつもと ひでひろ) デジタルハリウッド大学大学院 専任教授/NVD株式会社 代表取締役 京都府出身。18年にわたりNECに勤務。同社のパーソナルメディア開発本部で、MPEG1でのマルチメディア技術の開発と国際標準化と日本工業規格 (JIS)化を行い、MIT(マサチューセッツ工科大学)メディアラボで画像圧縮技術を習得のため留学。帰国後、ネットワークス開発研究所ではWAPや i-モードなどの無線インターネットアクセス技術の応用製品の開発と国際標準化を技術マネジャーとして指揮。 NEC退社後、ベンチャー投資会社ネオテニーにおいて大企業の新規事業開発支援、社内ベンチャーの事業化支援を行い、2002年9月にネオテニーから分離独立し、NVD株式会社(旧ネオテニーベンチャー開発)を設立、代表取締役に就任。大手企業の新規事業開発・社内ベンチャー育成などのコンサルティング 実績を持つ。 IEEE(米国電子工学学会)会員、MIT日本人会会員。神奈川県商工労働部新産業ベンチャー事業認定委員、デジタルハリウッド大学大学院 専任教授、現在に至る。 |
2013年1月 三ツ池だより 「再生の年を喜ぶ!」
新しい年のはじまりは再生のはじまり。伊勢神宮の式年遷宮の年にあたる。遷宮は古いものを新しく再生するということ。おかげさまの年なのである。20年ごとといえば人は20歳で成人式、60歳で還暦、80歳は傘寿の祝いがある。40歳はないのだろうかと考えたら、男は42歳、女は37歳の厄年がある。40歳は祝いというより、働き盛りであり、厄年で一休みということなのだろうかと思った。 新しい年はどんな年になるのだろうか。再生とはあらためて絆を求める年にすることになのだ。a+b=cは偶然ではなく必然だ。aとbの出会いがなければcは始まらない。aとbは対立するものでなく、aとb二つの出会いであると考える。たとえば日本aと中国bとが対立のものと考えるのではなく、日本+中国を考えてみたらどうだろう。日本が中国を儲けの源泉と考えるのではなく、お互いの発展のために力を貸し合う。中国は日本を敵とみるのではなく、日本を心穏やかな国と見、中国の文化のお手伝いをしてくれる国と見たらどうなのだろう。過去侵略があってはならないことではあったが、「赦しと絆」を共にしていく、再生の年にしていくことなのだと思う。 |
(クリックで画像拡大) |
寒い中で星を仰ぎながら見えない線でつながっている、そういうものが絆だっていう。
「絆す」は「ほだす」と読み、つなぎとめる意味だそうです。絆のはかなさを連想させているといいます。絆の意味は深い。絆の句には次の句もある。
枷とは「かせ」と読む。枷ともなる絆とは暖かな春を迎えて、ある時ヒョット寒さを感じるようなもの、アレッ!とした時の感じるもののことだろうか。
仕事も絆を大事にしていきたいところだ。昨年もそうであったが、あてにしあてにされる関係での仕事が多くあった。少し込み入った内容になるとなおのこと。出来て当然と思われているのに、実際はいくつかの技術課題をこなす必要があったのだった。そして求められ以上のことができたと思ってもらえてくれたことであろうと祈るのであった。
さて式年遷宮はまだ先と思っていた。実は2008年7月29日に参拝した時に幸にもお木曳きの儀に遭遇しているのである。勇壮なものであった。
「エンヤーのかけ声に、一列二百人二本のロープに総勢四百人という人が、唸りながら川の流れに逆らって動くヒノキの神木を曳く。水かさは腰までだ。式年遷宮に用いられる造営用材が運ばれる。川曳は町毎に幟をたてて参加していた。お木曳は次から次ぎに繰り出される。曳き手四百人に木遣り方、合図方や曳きをコントロール人たちその他を入れて、総勢五百人程のグループが次から次ぎへ来る姿は壮観である。上流での停滞により赤い旗が上がると、止まれの合図だ。それと共に木遣りが歌われる。水しぶきと共に二つの両の綱が近づき、綱が上下に振られる。
合戦のようになって、綱を激しく川面に叩きつける。」
あれから5年がたっている。その間にもいろんなことがあった。政府が変わったこともあったし、2011年3月11日の東北大震災もあった。5年でもそうである。20年では様変わりであった。
2013年を再生の始まりなりとすれば、その時に生きるものとして、しっかり大地を踏みしめた行動をしていきたいと思う。批判するだけでなく、自然回帰の生活の仕方はただ便利だというのではなく、意識的に行動の仕方をかえていくことなのだ。水仙が膨らみ、梅が蕾を持ち始めている。寒さを経験するからこその春の近付く足音を楽しみたい。穏やかなお正月であったことを喜びたい。
Photos
(画像をクリックすると拡大写真が表示されます)
(文・写真:横須賀 健治)
横須賀 健治プロフィール
メジャーテックツルミ 代表取締役
はかることのプロとして50年です。
食品の放射能測定のアークメジャーを設立しました。
「計量から見える幸せ」をライフワークにしています。
表題で手に取ってしまった。うなずきの連続であった。設問やまとめがじつに分かりやすいのだ。そしてすぐ実践したくなる。それはどこからきているのだろうか。著者はインバスケットの考え方を取り入れている。そして次のような人に向けて書きましたという。
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だから「仕事の8割は捨てていい」という項目があっても驚かない。「やめることはやること以上に重要」と言われてなるほどと思う。達成感はあっても成果が上がっていないことがある。「この忙しいのにもう5軒など廻れない」という思いはあるに違いない。成果が上がらないからもう5軒まわることだったのだろう。さらに忙しく5軒廻ったとして、達成感はあっても成果がともなわなかったら・・追われる身から解放させてみる。そこに著者は「考える視点」を15点出して思考を変えることを提案する。
限られた時間の中で、成果をあげることが望まれているので、多くの仕事をぎゅうぎゅうに詰め込んでいる。それらすべての仕事を完璧に仕上げるだけの時間は与えられていない。そこで著者は絞り込む必要を説き、設問をする。どれとどれを優先しますか!
A社 資本金300万円「どのような商品か興味があるので、ぜひ説明を聞きたい」
B社 資本金1億円 「話を聞いてもいいが、検討段階」
C社 資本金1000万円「責任者が不在だが、代わりに話を聞いてもよい」
D社 資本金5000万円「すでに購入したが、あいさつ程度なら時間をとる」
初級編は「本当にそれからするべきか」「本当にそれで解決するのか」「相手がどう思うか」「なぜ叱られたか」「本当にそれで大丈夫か」を考えること。
中級編は「ほんとうにそれが一番効率的か」「次にどうなるか」「相手が何を求めているか」「ほかに手はないか」「誰に聞けばよいか」を考えること。
上級編は「仕事は進んでいるか」「本当の原因は何か」「ゴール」「白紙に戻そう」「逆算したらどうなるか」を考える事。
「目標を考えれば、それを達成するためのストーリーが生まれます。目の前でおきていることは、すべてチャンスです。」具体的な目標をたて、達成する充実を味おうことで、目標を達成するための考える力が身に付くと言われます。
「受けた指示をただこなす。これは考えない仕事です。考えるというほんの少しスパイスを加えると、相手の反応は大きく違ってきます。これが仕事の成果につながります。」考えて仕事するとは、行動を起こす前に5秒だけ考えることですといい、その感じるポイントがわかれば、必ず仕事の成果は変わります。誰でもできることを、ただこなすのは、仕事ではありません。あなたしかできない仕事をするべきです。考えるという行動は、料理で言うところの価値を生む隠し味となるのです。だから「あなたのたったひと手間が、商品・サービスの価値を倍加させる。」
どうです。たった5秒です。考えてみませんか。考えるというプロセスを取り入れてみましょう。よい評価を実感し、仕事を10倍楽しくしましょう。提言なのだ。忙しいからこそ、行動を起こす前に5秒の時間を取るという、考える時間を取るという発想を大切にしたいと思った。
(文:横須賀 健治)
あけましておめでとうございます。 シティズンシップ教育(市民度アップ)を目指す、NPO法人ど・あっぷ(DOUP!)です。皆さん、いかがお過ごしですか? 昨年(と言ってもつい先月のことですが)の衆議院選挙、皆さんはそれぞれに、様々な感想をお持ちになった事と思います。今回は、私が先の衆議院選挙で強く感じた事、「立候補者自身の情報公開」について書かせていただきたいと思います。 どうぞ、最後までお付き合いください。 |
“立候補者の情報公開の質に物申す!
私が先の選挙でちょっと残念に感じた事があります。それは、立候補者自信の情報公開の形とその質についてです。
たまたま今回、立候補者の情報をあるポータルサイトに提供する仕事をお手伝いしたことから、全国の候補者のホームページをたくさん閲覧する機会を得ました。
そこでまず感じたのが、ホームページの質の悪さについてでした。もちろん、わかりやすくご自身の情報を公開されている方々も多数おられますが、ひどい場合には、ホームページさえ無い候補者も多く、改めて愕然としました。
「急に立候補が決まったから・・・」
「ホームページを作る暇があったら、一人でも多くの有権者の皆さまにお会いしたい」
「どうせ、敵陣営かマスコミ関係者が閲覧するくらいだし・・・」
立候補者の主張は数々はあるでしょう。
しかし、閲覧者が少なかろうが、製作する時間が無かろうが、きちんと候補者の情報を開示する事は、有権者に対する礼儀というか、常識というか、義務ではないでしょうか。
スーパーに並ぶ商品を見れば、数十円のお菓子にさえ、情報の記載が義務付けられていますし、メーカーのホームページに行けば、様々な情報が得られます。
なのになぜ、100兆円近い予算の使い道を決める国会議員を選ばなくてなならないのに、情報の提供がこうもお粗末なのでしょうか。
国が定めるTVの政見放送や、新聞の公報だけで、候補者の情報が十分得られると考える人は少ないと思います。それらを補填する候補者情報が必要です。全ての立候補者には税金が使われるわけですし、まず、有権者の事を考え、候補者自らで、自らの情報公開を行っていただきたいと思います。
箱に入ったままのリンゴを買いますか?
先の選挙では、こんな記事がありました。新聞社が事前に候補者情報を調査するため、候補者に調査票の記載を依頼したところ、個人情報保護の観点から、弁護士にも相談の上、記載を拒否したというものです。
http://sankei.jp.msn.com/politics/news/121221/elc12122107260003-n1.htm
全く信じがたい出来事です。この候補者はいったいどこを向いて、何がしたいのでしょう。八百屋に例えるなら、この候補者は、リンゴを箱に入れ封をし、食べごろ状態や、痛み具合もわからないまま、お客様にただ買ってくれと言っているようなもの。完全にお客を無視した自分勝手な八百屋の発想です。
一方、「私は情報公開はしています。私の考えは、街頭演説や政治集会でお伝えしています。」という候補者もおられます。しかし、これもまた自分勝手な主張のように思えます。候補者の都合で情報発信をするのではなく、全ての有権者が十分な情報が得られるかを重要視して、情報発信する事が求められるのです。街頭演説や集会ももちろん悪くありません。しかしそれらで情報を収集できない人に対してのフォロー(情報提供)も同時に行う必要が候補者にはあると思います。
街頭演説や集会もいいでしょう。しかしそれらで情報を収集できない人に対しての情報提供も同時に行うべきです。
ブログ的情報公開ではダメ
今回の立候補者には、公式ホームページはないけれど、ブログやツイッターはやっている方々も数多くいらっしゃいました。日記のように、誰でも簡単に更新ができるので、便利だからでしょう。しかし、これも有権者の立場にたったものとはいいがたいように思います。
重要なのは内容と有権者の立場に立った見やすさです。ブログやツイッターはそもそも、情報発信者の自己満足のためのツールです。そのため、簡単に更新ができるなど、情報発信者にはとても便利なのですが、必要な情報をチェックしたい閲覧者からすると便利なツールとは言えません。
日記のように「今日はどこどこ事務所を訪問しました。」とか、「どこどこで街頭演説をしました。」など日々の活動記録を記したものが中心となりますし、だらだらと書かれた情報が次々と加わり、古い情報はどんどん探しづらくなってしまいます。候補者の考え方など、重要な情報が記されていても、閲覧者がすぐに探す事ができません。これではダメです。
今年の参議院選挙に期待
私たちは、その人が国政でどんな活躍をしてくれそうなのか判断したいのです。そのためには最低でもこれまでのキャリア、やってきた事、専門、そして、世論が注目している重要な問題について、どんな考えを持っているのかということは必要です。是非とも、全ての立候補者に、それらを明確にまとめ、閲覧しやすい形態で公式サイトに公開して欲しいと思います。
政治家は、私たちが預けた税金によって活動する公人です。政治家を志す候補者なら「有権者の立場に立って、いかに情報公開ができるか」そういう視点を、持って欲しいと願います。まず、リンゴを箱から出してお客に見せる。それができてはじめて「これ買ってください」と言って欲しいと思います。
有権者の立場に立って、公式サイトできちんと公開すべき
民主党政権下ではもう一歩のところで実現できなかった「ネット選挙解禁」。現在は、公職選挙法でインターネットを利用した選挙運動が禁止されていますが、もう何年も前から、これは時代に合わないと、改正が叫ばれてきました。
安倍首相は昨年末、積極的に解禁していく方針を打ち立てました。
http://www.yomiuri.co.jp/election/sangiin/news/20121230-OYT1T00149.htm
これが実現すれば、公示後にも、候補者はホームページの更新が自由に行えるようになりますし、公示直前で出馬を決めた候補者も、ホームページを作成することができるようになります。次の参議院選挙までに法案が可決されれば、次の参議院選挙は、ネット選挙解禁後、はじめての国政選挙ということで注目が集まるでしょう。ネット選挙解禁にからむ話題が、マスコミにも数多く取り上げられ、各候補者のホームページ閲覧者数も増加すると予想されます。この流れを受けて、候補者自身の高い質の情報公開が、なお一層進むことを期待します。
有権者の選択眼も問われる
一方で、私たち有権者の質も高めていく必要も感じます。
現在、選挙を戦うために外せない手法として、選挙期間前の駅頭と期間中の握手があると言われています。朝早くと、遅くに駅前などに立ち、「いってらっしゃい」、「おかえりなさい」と言って知名度を上げる活動と、商店街などを歩き、一人でも多くの人と握手をする活動です。どれも好感度と認知度を上げる有効な活動とされ、特に組織票の少ない候補者には必須と言われているスタイルです。
しかし、裏をかえせば、有権者が重視するポイントと言い換えられるのかもしれません。「結局有権者は『毎日駅によく立っている人』や『握手した人』を重視して議員を選ぶのだ!」と言われているようで、市民度アップを目指す私たちとしては、少し残念な気持ちになります。
お母さんがこどもに食材を選ぶように選びたい
自分の小さな子供に、お母さんが食材を選ぶ時、とても真剣に食材を吟味しますよね。何が入っているのか、どんな味がするのか、どこで作られているのか、評判はどうか、食材を手に取り、裏の表示をチェックし、時には、別なところから情報を入手して、慎重に丁寧に食材を吟味します。特に体の弱い子供を持つお母さんは、さらに慎重になります。まさに今のこの国は、問題が山積する体の弱い子供です。慎重に吟味して国会議員を選ばなくてはならないのではないでしょうか。
毎日駅前にいるとか、握手をしたとか、目が合って笑ったとか、誰かに頼まれたとか、名前を知っているとか、そんな基準で選択しては、候補者そのものを吟味した事にはならないと思います。「さわやかに握手した人」イコール「国会で良い仕事をする人」ではありません。「ネット選挙解禁」がなされるであろう次の参議院選挙には、ホームページなどで情報をしっかりとチェックし、市民度アップ(市民ど・あっぷ)して、選挙に望みたいと思います。
(写真・イラスト:NPO法人ど・あっぷ!(DO UP!) / 文:ツッキー(築山 美樹)
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「横浜売れるモノづくり研究会特別セミナー」を開催いたします
「横浜売れるモノづくり研究会特別セミナー」を開催いたします
閉塞的な環境の中、モノづくりが見直されています。
9回の売れるモノづくり研究会、6回の海外事業展開事例研究会で、私達は優れた元気のある神奈川県内の製造業に出会いました。
国内を攻めるのか、海外に目を向けるのか、元気の源は何かを皆様とご一緒に改めて探りたいと思います。
「横浜売れるモノづくり研究会特別セミナー」のお知らせです。
今回は3月7日(木)14時から開催いたします。
横浜売れるモノづくり研究会
https://www.supportyou.jp/monoken/
今回は、公益財団法人 横浜企業経営支援財団(IDEC)と共催で、定員200名の横浜情報文化センターの情文ホールで開催いたします。
基調講演では、JAXA(宇宙航空研究開発機構)宇宙科学研究所の阪本成一教授に「小惑星探査機はやぶさの帰還」~挑戦こそ成果~というタイトルで、「はやぶさ」帰還の経緯をお話していただきます。
事例報告は、海外戦略をすすめている神奈川県の製造業三社の皆様に発表していただきます。
また、「全日本製造業コマ大戦」について心技隊代表の緑川賢司氏には一年間の総決算をお話いただきます。
(決戦大会は、2013年2月テクニカルショウヨコハマで開催される予定です。)
展示スペースを設けますので、交流懇親会までの30分間にプレゼンテーションを行うことができます。製品説明等されたい企業様を募集しております。
交流懇親会では、講師・参加者間の交流が図れるといつも好評です。
多くの方々にご参加をお待ちしております。
参加申し込みはこちらからお願いいたします。
https://www.supportyou.jp/monoken/form/3/
よろしくお願い申し上げます。
1.日 時 : 平成25年3月7日(木) 14時~18時30分
研究会セミナー 14時~16時30分
交流懇親会 17時~18時30分
※開始時間にご注意ください。
2.場 所 : 横浜情報文化センター 情文ホール
〒231-0021 横浜市中区日本大通11番地
TEL 045-664-3737(代表)
http://www.idec.or.jp/shisetsu/jouhou/access.php
※JR・市営地下鉄線「関内駅」徒歩10分
※みなとみらい線「日本大通り駅」3番出口すぐ
3.内 容 :
「小惑星探査機はやぶさの帰還」 ~挑戦こそ成果~
JAXA(宇宙航空研究開発機構)宇宙科学研究所 教授 阪本 成一 氏
http://www.jaxa.jp/
事例報告1
海外戦略、世界を照準にものづくり
昭和精工株式会社 木田 成人 氏
http://www.showa-seiko.co.jp/
インド企業と連携、三輪電気自動車を開発、製造
株式会社日本エレクトライト 松波 登 氏
不織布等の縫製加工、人工衛星の断熱ジャケットに
株式会社クロスメディア 佐藤 棲秋 氏
http://www.cross-me.co.jp/
事例報告2
全日本製造業コマ大戦について
心技隊 代表 緑川 賢司 氏
http://www.komataisen.com/
交流懇親会(軽食付き)
横浜売れるモノづくり研究会の活動報告はこちらをご覧ください
横浜売れるモノづくり研究会は、2011年1月から2012年11月まで9回の研究会セミナーを開催いたしました。
これまで発表して下さった方々は20名を超えました。「かながわ産業Navi大賞2012」を受賞した株式会社片野工業の片野明夫氏や、「全日本製造業コマ大戦」の初代チャンピオンである株式会社由紀精密の大坪正人氏にもご登場いただきました。
当研究会は、「全日本製造業コマ大戦」を応援しています。「全日本製造業コマ大戦」は、現在各地区の予選が行われています。NHKテレビの「さきどり」で放映されたり、朝日新聞に大きく掲載されたりして製造業の新しいウェーブとして話題沸騰しております。
当研究会の活動報告についてはこちらをご覧ください。
https://www.supportyou.jp/monoken/seminar/
「売れるモノづくり」についてのご相談を承ります
いいモノを作ってもなかなか売れない・・・
製造業の方々からそんな悩みをよく耳にします。
どんなに良い製品でも、市場に受け入れられなければ「モノ」で終わってしまいます。
「横浜売れるモノづくり研究会」は、神奈川県在住の企業支援の専門家やITの専門家など多種多彩なメンバーで構成されています。
「横浜売れるモノづくり研究会」では、「製品の売り方をどうしたらいいか」
という企業のご相談を随時受け付けています。
毎月一回第二木曜日には、ご相談される企業と専門家が面談を行っています。
売れるモノづくりについてのご相談はこちらにご入力下さい。
https://www.supportyou.jp/monoken/form/2/
<問合先>
横浜売れるモノづくり研究会 事務局
(株式会社ともクリエーションズ内)
〒231-0004
横浜市中区元浜町3-21-2 ヘリオス関内ビル4階
TEL 045-226-3475 FAX 045-226-3476
メディア掲載情報
- 2012年2月20日 神奈川新聞 横浜売れるモノづくり研究会代表・猪狩惇夫の記事が掲載されました
- 2011年11月11日 日本経済新聞 「この企業ここがポイント」内に横浜売れるモノづくり研究会についての記事が掲載されました
- 2011年11月9日 日刊工業新聞 「横浜売れるモノづくり研究会」活動の輪広がり100人規模目指す
- 2011年6月6日 「売れるものづくり」をどう実現するのか―「横浜売れるモノづくり研究会」の取り組み
- 2011年1月21日 ヨコハマ経済新聞
横浜で「売れるモノづくり研究会」が発足-中小企業を支援 - 2011年1月19日 カナロコ — 神奈川新聞社
売れるモノづくり研究会発足へ、中小製造業をコンサルらが支援
佐々木彬文の「四季・色・贅・食」 第13話 お正月の床の飾
今年こそ良い年でありますようにとの願いから、床飾りには色々な思いが込められています。今回は、茶道で必ず飾る柳のお話です。
絵:佐々木彬文画伯 |
お正月の床飾りです。柳の枝を輪にして、ひと結びして飾っているのを、ご覧になられた事が有りますか。この柳を『結び柳』とか『綰柳』(わんりゅう)と呼びます。とても勢いのある美しいものです。ところが、一般の方はあまり目になさらない様です。今回は、この綰柳(わんりゅう)について、結構中身の濃い、知っていて損の無い『お話』です。 |
なぜ柳なのでしょう?
柳の枝はしなやかで、一年をしなやかに過ごし無事を祈る意味があります。そして、お正月の頃から柳は、新しい芽を息吹きます。生命の再生・誕生などの意味があります。次に、『正月旦 取楊柳枝著戸上 百鬼不入家』。つまり、正月に家の戸口に柳の枝を挿しておけば、百鬼が家に入れないという故事があります。また、柳を龍が昇る姿にたとえ、『登竜門』の願いを重ね合わせています。中国の故事に、友が旅立つ時、名残り惜しく、見送りに来た人と無事を願い「柳の枝を結び合わせることが行われていた」とあります。意味は色々含まれておりますが、現代の床飾りでは華やかでお正月らしく、柳の勢いが見る者を元気にさせてくれます。
柳を輪に結んで友との別れを惜しんだ千利休
柳の枝はしなやかで丸く、結ぶ事が出来る事から、車輪をイメージしていたのでしょう。物事が順番にうまく回転し、無事にたどり着けますように・・・との意味もあったと思います。利休様が、友の旅立ちの時に、茶室にこの故事になぞって床に柳を輪に結び飾ったと伝えられております。利休様が茶室に柳を飾った最初の方のようです。
万葉歌や和歌の中での柳万葉集の中にこのような歌があります。『霜枯れの冬の柳は見る人の縵にすべく萌にけるかも』(注1)とあります。「縵(かづら)」とは柳を輪に結んだ姿を云い「綰柳」の意です。 |
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大伴家持の歌に『青柳のほつ枝捩ぢ取り縵くは 君がやどにし千年寿くとそ』と「彼女の家が千代に栄えることを祈る」と歌っています。この方、下級官僚で地方転勤が多く、暇なのかあちらこちらで恋の歌を読んでいます。
注1) 霜で枯れた冬の柳は、見る人の髪飾りになるくらいに芽がでています
『万能綰一心』
最後に、小生の好きな言葉で世阿弥元清(注2)が『花鏡』の中の述べている言葉がございます。『万能綰一心』(ばんのういっしんにつなぐ)(注3)この言葉にも『綰』の字が使われています。
注2) 世阿弥元清:世阿弥(ぜあみ、世阿彌陀佛、正平18年/貞治2年(1363年?) ~嘉吉3年8月8日(1443年9月1日?)は室町時代初期の大和猿楽結崎座の猿楽師。 父の観阿弥とともに猿楽(現在の能)を大成し、多くの書を残す。『花鏡』は能芸論書である。観阿弥、世阿弥の能は現代の観世流として受け継がれている。
注3) 万能綰一心(ばんのういっしんにつなぐ)。見物人の批評に「演技しないところが面白い」などと言うのがある。これは仕手が秘事としている内心の工夫によるものである。つまり演技と演技の「間」のことである。この間がどうして面白いのかと言うと、それは油断なく張りめぐらした心の働きの力である。舞を舞い納めた時の間、謡をやめた時の間、その他言葉、物真似全ての演技と演技の間、つまり心の緊張感を緩めず演技を繋いで行くその心の奥の心の働きである。この内心の緊張感が外に匂い出て面白いのである。ただ内側の心が外に見えるようではいけない。それではまるで操り人形の繰り糸が見えるようなものだ。無我の境地で自分でも自分の心を意識しないほどの深い心の働きで演技と演技の間を繋ぐべきである。これを『万能を一心に綰ぐ』と言うのだ。この心掛けは能を演じている時だけでなく、常住坐臥、立ち居振舞いの全てを通じて生かされなければいけない。そういう努力をしていれば能は上達する一方であろう(webから引用)
お正月飾りの『お炭』
そして、茶道でとても大切で無くては成らない物があります。それは『炭』です。炭もお正月は大切な飾りです。飾りというより「奉る」と言ったほうが正しいと思います。
炭は、管炭三本を半紙で巻き、紅白の水引で結い、丸い三方にのせて床に奉ります。神楽鈴を奉る先生も居られます。『神楽鈴』は、四角い三方にのせて床に奉ります。
昔より伝わってきたものを次世代につないでいくこと
宜しければ、このような床を飾っている空間で少しの時間を楽しんで下さい。心の奥の方からホッとしたような寛ぎの感覚が湧いてくると思います。
もっとも「日本文化」と改めていうのもあまり好きでは無いのですが、昔より伝わってきたものを忘れないでつないで(綰)いって下さい。私たちの代で途切れてしまわないように。
佐々木彬文画伯と茶懐石料理を作りませんか?
日本画家であり茶道講師である佐々木先生と茶懐石料理を1~3品作り、楽しくおしゃべりをしながらいただきます。会話の中から「日本文化」の良さに気づいていく教室です。女性の参加者が多い教室ですが、男性も大歓迎です。
(お問合せ/お申込み:http://www.ikiiki-club.jp/)
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2012年11月は『蛤寿司』でした。 |
佐々木彬文プロフィール
日本画家(彬文会主宰)
茶道講師(裏千家 佐々木宗秀)
クラッシックギター演奏者
文・絵:佐々木彬文(日本画家・裏千家茶道講師)/写真・構成:高野慈子
第8回 建築+アートの提案
マツイリミコ建築設計事務所 一級建築士事務所
マツイアートマネジメントオフィス
松井 理美子
ひとことに [建築] といっても、幅広くなってきています。ファニチャ類はもちろんのこと、照明器具やカトラリー、アクセサリーまでデザインする建築家もいます。そういった暮らしを彩るもののひとつに、アートがあります。 [建築にアートを取り入れる] というと敷居が高く思われがちですが、もっと身近に自然なカタチでアートを楽しめる [新しい建築とのかかわり方] とは何でしょう?
数年前にオープンしたショップ壁面にアートペイントを施したことがあります。犬のグッズを販売するお店だったので、素直に犬を主人公としました。描かれた主人公がショップのメインキャラクターに起用されたことで、犬の絵をただ描くだけではなく、ショップのイメージづくりにも深く関わることができました。
また犬の主人公とともに [犬の十戒] をフランス語で描き、ペットへの大切な思いを表現しました。 [犬の十戒] とは、飼い犬が飼い主にお願いしたい10箇条を綴った英文の詩です。その最終節は以下の通りです。
「君のそばにいてあげる事は出来ない」「私のいない所でどうにかなればいい」なんて決して言わないで欲しいのです。
あなたがそばにいるだけで、どんな事でも私は乗り越えれる気がするからです。
だから忘れないで・・・私はいつもあなた愛しているという事を。
そして忘れません。あなたが愛してくれたことを・・・
(「犬の十戒」yoshi e bookland より)
ペットを飼った経験のある方には、たまらない内容です。その十戒をベースにしたWEB絵本(現在電子ブックとして購読できます)をショップのホームページ上に展開し、さらにショップカードやウィンドウディスプレイのデザインへとつなげました。もちろん壁面にぺイントしたのは私ではなく、絵本作家である池谷剛一というアーティストです。
わたしの役割は、建築空間とアートを繋げることです。具体的には、コンセプトの提案、アーティストの選定、ペイント箇所や行程の調整といったところです。お施主さんの思いや希望をくみ取り、どういうカタチ、手法でつくっていくかを提案し、アーティストも交えて話し合って決めます。建物をつくるとき仕上げ材として壁紙や塗装を選ぶように、アートペイントも選択肢に加えることで暮らしはもっと多彩になるでしょう。例えば住宅の場合でしたら、家族の歴史やポートレイト、お家を新築した記念をモチーフとしたペイントを施すのもおもしろいと思います。
かつてはどの住宅にも床の間があり、生活とアートを繋げる役割を果たしていました。生活形態の変化や住宅の狭小化により、都市部では和室が減ると同時に床の間も少なくなってきました。無駄なスペースはつくらず、収納を少しでも増やしてほしい!といった要望をよく聞きます。そのため空間の隙間は収納で埋められ、テトリスのようなプランになりがちです。
合理的に無駄ない空間をつくることも大切ですが、 [遊び・無駄?=ゆとり] を提案することも建築設計に必要な要素だと考えます。床の間に代わる空間をつくるということではなく、生活のなかにちょっとした寄り道的要素を盛り込むということです。フッと下らないことを考えてしまうことで気持ちがリセットできるような、忙しい生活のなかで忘れていたことを思い出させるような・・。
かなりハードルの高いことを書いてしまいましたが、そういったことを心にとめて仕事をしています。暮らしを活性化させる触媒としてのアートを[建築+アート]というカタチにして、これからも提案していきたいと思っています。
(クリックで拡大画像) | ||||
「暮らしを大切にデザインする」ギャラリーへ
横濱元町AA STUDIOは「暮らしを大切にデザインする」17名の建築家のギャラリーです。それぞれの建築家の模型・作品写真など自由にご覧になれます。
横濱元町代官坂の中腹にあるカフェのようなギャラリーで、週末は交替で建築家がお迎えいたします。(建築家と話そう!)ホームページのスケジュールに担当建築家が掲載されていますので、カフェに立ち寄る気分で横濱元町まで建築家とお話にいらしてください。お待ちしております。
なお5回ほど私が連載して参りましたが、今後はメンバーが交替で「新しい建築とのかかわり方」を綴りますので、変わらぬお付き合いでご愛読くださいますと幸いでございます。ありがとうございました。
AA STUDIO WEB http://www.aaplan.com/aastudio/
Craftman Shop Street Motomachi http://www.motomachi-cs.com/cm/shop/shop051
青木恵美子 | http://www.aaplan.com |
新井今日子 | http://www.arai1992.com |
伊藤 寛 | http://www.ito-kan.com |
岡田 勳 | http://www.kuukantoshi.co.jp |
荻津 郁夫 | http://www.o-as.co.jp |
神田 雅子 | |
北川 裕記 | http://www.aalab.com/kitagawa/ |
栗原 正明 | http://msak.asia |
河辺 近 | http://www.ken-ken-a.co.jp |
後藤 武 | http://www.gtaa.jp |
鈴木 信弘+洋子 | http://suzuki-atelier.com |
豊田 悟 | http://home.m07.itscom.net/toyoda/ |
中村 高淑 | http://www.unit-h.com |
藤本 幸充 | http://www.kamakobo.com |
松井 理美子 | http://www.matsui2ar.com |
水口 裕之 | http://homepage1.nifty.com/eau/ |
山口 賢 | http://www.amarterrance.com |
HEART&SOUL代表 原 正行 1958(昭和33)年9月7日横浜生まれ、12歳よりギターをはじめ17歳からミュージシャンとして活動。39歳の時に念願だったライブハウスを開業、現在は関内駅北口駅前に60年代から80年代の洋楽ヒット曲を演奏するライブハウス、ハート&ソウルの経営者。他にもミュージシャンとして演奏活動、作曲、プロデュース等、幅広く活動している。 |
第2章 横浜、街と風(4)
清涼飲料水
水泳部は7月から8月の約2ヶ月をプールで泳ぎますがそれ以外はほぼ陸上部と同じで、ランニングとサーキットトレーニングが中心、ひざによくないというので最近はあまりやらなくなったウサギとびもよくやりました。部活の帰りはともかく喉が渇きます。学校横のパン屋でよく飲んだのがチェリオ。ファンタより断然量が多くてお得。コカコーラ、三ツ矢サイダーが定番でしたが、その内ミリンダやスプライトなんてのも出てきました。今では殆ど見かけませんが、コアップガラナなんて不思議な味の炭酸飲料がありましたっけ。途中のお米屋さんではプラッシーというオレンジジュースの親戚みたいなのがありました。駄菓子屋にはチビッココーラというのがあって、通常のコーラより少し小さく、ふたの裏に当たりと書いてあるともう一本もらえました。
昼休み
中学に入った時、購買部と言うのがあり文房具など必需品がそこで買えるのに驚きました。給食はないのでみんな弁当かパン。昼時には校内にパン屋が出現。3個くらいのパンがAセットとかの袋に入ってお手軽値段で購入できました。4時間目が終わるとお待ちかねの昼休み。その時、校内放送で音楽がかかりますが、良くかかるのは確かポールモーリアとかのイージーリスニング。その内カーペンターズやサイモンとガーファンクルもたまにかかるようになり、ある時びっくりしたのは拓郎のライブLP 「ともだち」 がかかって、拓郎の曲 “もう寝ます” の 「起きてても~」 が流れた時は衝撃でした。きっと先輩の放送部部員で好きなのがいてかけたのでしょう。何回かその辺のフォークが流れた後ぴたりとなくなったの、で先生あたりからクレームでもついたのでしょうか残念でした。
食後の昼休みは校庭でフォークソングがかかり、先生達に混じってオクラホマミクサーとかマイムマイムを手をつないで踊っていましたね。今考えればのどかな時代です。「サインはV」 とかの影響でバレーボールが流行ってて、何人かがグループになってドリブル(?)してました。みんな指先で音を立てずにトスするのですが私はいつもパン!て音が出るので苦手でした。
先輩
中学の時の1年の差は大きく1級上でもかなり大人に感じ、2級上だと相当おっさんに見えました。2年の体育祭の時応、援団をやりそれが縁で3年生の教室へよく出入りする機会があり、その時先輩達が教室でギターを弾いているのを見てテクニックを盗みました。やはり拓郎が多く、 “花嫁になる君に” などのスリーフィンガーピッキングや、 “今日までそして明日から” などのカーターファミリーピッキングを演奏してました。負けず嫌いだったので直接教わろうとはせず、先輩達の手首の角度やピックの持ち方、ストロークを目に焼きつけ家に帰ってから実際に真似してやってみるとなるほどと言う感じで出来ました。3年生が卒業する時の 「3年生を送る会」 では講堂で3人ぐらいのグループでフォークを歌いましたが恩返しできたかな?
フォークと日本語のロック その4 (日本のロック黎明期)
ロックとフォークの違い
GSから始まり ’73年位までのフォークを見てきましたが、そもそもフォークとロック、何が違うのでしょう? その定義は時代と共に変化し皆さんそれぞれに考えをお持ちでしょうが、私なりに検証してみました。
1.フォークは生楽器、ロックは電気楽器を使う
1965年、いつもアコースティックギターを弾いていたボブディランがエレキギターを抱えフォークの祭典ニューポートフォークフェスティバルで、ザ・バンドをバックに登場したら観客から 「お前はフォークの魂を売り飛ばした。帰れ、帰れ」 と言われステージの途中で降りたのは有名なお話。
それほど1960年代初頭はエレキギターに偏見があったのでしょう。日本でもロックは不良の音楽、エレキを持っていたら不良と言われた時代でした。
基本的にフォークはアコースティックの弾き語りでソロ、(グループでも多くて3人くらい)で演奏。ロックは基本的にグループ。ドラムが入っていてギターは必ずエレキを持っていると言ったところでしょうか。
2.強いビートがロック、ビートがないのがフォーク
ロックはドラムとエレキベースが強いビートを産み出し、それに電気を使ったギターやピアノが増幅された音で和音をかぶせる。フォークは生ギターかピアノの和音で作り出す優しいリズムが基本。打楽器が入っていたらそれを軽く補佐するだけの小さい音でした。
ビートの基本にはダンスがあります。日本人は古来から静の文化なのであまり踊りませんが海外では音楽にダンスはつき物。フォークは座っておとなしく聞くものでした。
3.ロックは最大限のボリュームをめざす
ロックは電気によって増幅された音でマックスのサウンドを目指します。最大もしくはそれ以上をめざすのでスピーカーの限界を超えてギターの音は割れてしまい、結果、音を歪ませて増幅させるエフェクター、ファズが誕生。ボーカルはそれに負けないよう大きい音を出すため最大限の高さまでキーを上げシャウト! 結果ハスキーボイスになります。
4.ロックは考え方の基本に反体制、反社会性があり、歌詞や音でそれを表現する
フォークも以前は反体制が基本でしたが、拓郎以降は身近なことを中心に歌うようになり反社会性は薄れていきました。ロックも70年代後半から反社会性は薄れていきましたが80年代には一部パンクロックやニューウエーブが台頭、その精神を受け継いでいきます。
とまあ、勝手な解釈ですがいかがでしょうか?
本文の戻りますが、1969年、GSが歌謡曲化し衰退してからアンダーグラウンドなところでフォークが若者文化の中心になっていく一方、GSからロックに移行していく流れを中心に日本のロックも形を整えていきます。
フラワートラベリングバンド
内田裕也氏が見出してプロデュースしたのが “フラワートラベリングバンド”。 ’70年デビュー、万国博覧会に出演した時、カナダのライトハウスというバンドに声をかけられ、カナダで活動を開始。高い演奏力と元GSフォーナインエース(491)のジョー山中の素晴らしい高音のボーカルは、海外でも高く評価されました。彼らのオリジナルは、東洋旋律を元に作られたものが多く、明らかに海外市場を意識していたと考えられます。又、同じく元GSビーバーズの石間秀樹のギターの弾く東洋的旋律は、独特で今聞いても個性的で新鮮です。デビッドボウイが彼らの事を認めていて、拠点をニューヨークに置くことを薦めたそうですが、解散後だった為かなわなかったそうです。アルバムが再発売されてますのでディスクユニオン等で是非お買い求めください。もしフラワーズを聞いたことがない方でYoutubuで見るのなら、 「shadows of lost days (画面にMade as an evaluation of Proshow Gols Rと出るバージョンがお勧め)」 と 「Make up」 はとりあえず見ていただきたい。私的には当時偶然テレビで聞いた 「shadows of lost days」 があまりにも衝撃的でした。
次回は ’72年頃の日本のロック、キャロル等から始めてみたいと思います。
(HEART&SOUL代表 原 正行)
HEART&SOUL
〒231-0014 横浜市中区真砂町3-33 CERTE11階
営業時間
平日:OPEN 19:00 CLOSE 4:00 LIVE START 19:50~
休・祝日:OPEN 18:00 CLOSE 24:00 LIVE START 18:40~
TEL:045-664-5569
JR関内駅徒歩より1分
地下鉄関内駅より徒歩1分
Websie http://www.heartandsoul-live.com/
ながらへば またこのごろや しのばれむ 憂しと見し世ぞ いまは恋しき
♪ながらへば またこのごろや しのばれむ 憂しと見し世ぞ いまは恋しき♪
絵・千絵崇石 |
読み人:藤原清輔朝臣(ふじわらのきよすけあそん) 現代語訳・・・このまま生きながらえていたら また辛い いまの境遇が懐かしくなるのだろうか? あんなに苦しかった昔の事が今では恋しく思えるんだから。 皆様あけましておめでとうございます。 |
嬉しくて色々なお料理を作りました。今では大根と白菜の様々な料理方法が頭の中に。でも最近は記憶力が長く続かなくて。春になって冬野菜が終わってしまうと殆ど忘れてしまいそう。集中力でぺたっと頭脳の表面に張り付けていた物が時間がたつとすぐはがれてしまう感覚です。
さて!2013年の初頭に一体どんなうたを紹介させて頂こうかと思い悩んだ私ですが、やはりこの歌がぴったり。今の日本や世界の情勢の中できっと共感される方が多いのではないかしら。詠み人の藤原清輔朝臣(ふじわらのきよすけあそん)の家柄は代々歌のお師匠さんで六条烏丸にあるお家はそのまま六条家と呼ばれていました。
まあプロのお家に生まれたサラブレッドです。でも悲しい事に彼の才能を父親が認めていなくて、お父さんが崇徳院の仰せで当時のよい歌を撰んだ「詞歌集」の中にまったく選ばれなかったり、又その後二条天皇の仰せで彼自身が「続詞歌集」を撰ぶことになったのですが、完成させたのにもかかわらず、天皇様が亡くなってしまい勅撰集にはなりませんでした。庶民から見れば由緒ある家柄に生まれて、生活苦などと言うものとは縁のない人生だったと思うのですが、サラブレッドにはサラブレッドの悩みや苦しみがあったのでしょう。この歌には時代や立場を超えて誰もが共感できるエッセンスがあります。
人間それぞれどんな状況に生きていても誰も自分の人生を代わりに生きてくれる人はいません。みな一人一人に取り組み解決して行かなければならない課題があり、泣いたり笑ったりしながら幸せを求めて生きてゆく。
44歳から4年間通った八丈島の定時制高校時代に貧富の差や食糧事情等、私達先進国の3分の1の人間が世界中の食べ物の3分の2を消費しているのだと学びました。そして飽食の時代、食べきれずに余らせてしまう量の多い事も。世界はバランスの悪い社会システムが未だ続いていますが、きっとこれから地球規模で大いなる変容が起こってくるのでしょう。どの国の国民として生きようと、どんな境遇の人生を生きようと、そこには喜びも悲しみも存在します。今現在生きているこの時を精いっぱい生きてゆくことが大切な事。もうこれって大人の誰もが言う事なんですが、人生の真実だと思います。
そして一番大切な物は・・・・私にとってはユーモアと音楽。寒くて暗い夜道は笑いを照らして歌いながら歩いていきましょう。今年も早苗ネネと「和歌うた」宜しくお願いいたします。2013年も明るく生きてゆきます。
(早苗ネネ♪)
6時30分~ 2回ステージ ¥6000飲み放題 入れ替えはありません。
出演:早苗ネネ パリ祭出演の歌手の方々2~3名。
新宿シャンパーニュ 電話 03-3354-8540(昼) 03-3354-2002(夜)
新宿一丁目。元新宿厚生年金前。http://www.champagne-live.com/
1.スターピープルVOL41から「女性性のパラダイムシフト」というタイトルで連載寄稿しています。
早苗ネネさん プロフィール
木々や鳥や魚や精霊…人間以外の存在達との交流が当り前に語れるくらい、いのちのひろがりに気づくと、共に生きている喜びや、苦しみや悲しみにもナイーブになる。
心と野生がひとつながりになると……こんな風に人は年を重ねられる。ひとりひとり、ユニークにもっと自分になれる。
早苗 Nene さんは、そういう人生の先駆者です。 感性を解放しながら、40代で高校生に仲間入り卒業後、マウイのカレッジに留学中、突然半生記が受賞しました。
そんな新たなシーズンを迎えて、今エッセンスを分かち合いたい。
<天性の歌い手>というだけでなく、その存在感、溢れる活性のバイブレーションは、光のシャワーのよう。彼女と語り歌い、魂の成長を旅している現在の、自分の位置を確かめてみませんか?
こだわりの家づくり 「もくもくはうす」の島村健二さん
大倉山駅前の横断歩道を渡って小道に入ると1分もしないで「もくもくはうす」があります。木製のがっちりした扉はスライドドアです。 扉を入ると、お出迎えしてくれたのは「木の香り」。 靴を脱いで素足で失礼・・・大人でも裸足で歩きたくなる木の家です。「こだわりの家づくり」お話は、ご自身を「おじさん(小父)」と呼ぶ島村健二さんです。
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いつのまにか「おじさん」とか「もくもくさん」と子供たちから呼ばれていて、自分自身を「小父さん」と言うようになりました。
小父さんは、社長をさせていただいておりますが、お家の打ち合わせは、女性が一番だと思っていて(今となっては男性も多いいのですが)やっぱり肝心なところは由紀子さん(奥様を島村さんはこう呼んでいます)に打ち合わせをしていただきます!
特に、キッチンや水回りのことは、女性どうし打合せをした方が良いのかな?! 基本は女性がお家を使うので・・・。
そんな時、小父さんはもっぱらお子さんと遊んでいます。お子さんたちは「ひみつのへや」が大好きです。裸足で木の床を走り回り、木の良さを体感しています。
ひみつのへや |
1枚板をつかった木のテーブル |
「ここにいることが自然で、ずっと居たくなる!」とよく言っていただきます。
小父さんが自然素材の家にこだわるのは、自分たちが健康な事をしていて家が「落ち着つく居場所」でなかったら変だなと思ったからです。そして、材料に関しては(食も似ているのですが)一つ妥協をすると全てが崩れてしまうので、なるだけ身体にやさしいものを使わせていただいております! そこに真実があるのではとおもっています。うそのない物=本物!
静寂に近づく為の手段「気功」から学んだこと!
私たちの身体には「自然治癒力」というものがあると思っています。その「自然治癒力」を引き出すのが「静寂」だと思っています。静寂の中にはバランスとか調和といった無限に広がる世界・私を超えた世界が・・・(笑)
気が病めば「病気」・気が元にもどれば、元気になります。字のごとく!
自らの心や感情をコントロールすることで、元気になるのかな。
「体を整えることは、自然界の法則にのっとりバランスと調和の中で生きること。」僕は感じました。
常に、自然の呼吸の中で、私たちも呼吸している。だから、木と漆喰と自然素材で出来た家に居ると、落ち着くのだと思います。
そして、去年スタッフみんなで考えた企業理念
「私達は、生命(いのち)のつながりで元気な家をつくります」になりました。
生命のつながりとは、人と人のつながり・使っている材料(自然素材だから)も全て生命という意味も含めて・・・
気功との出合いですか? お客様の中に気功をなさっている方がいて・・・。最初は新興宗教のような気がして違和感がありました(苦笑)。いつの間にか自分も?! 今やってる身体や意識を動かすものではありませんが・・・!
しかし本当に 不思議と良い人との出会いがいっぱいありました。由紀子さん(奥様を島村さんはこう呼んでいます)と出会ったのも気功でした。その後何年かして、つながりで、伝説の気功家・中健次郎先生とも出会うことができました。今となっては「もくもくはうす」で、気功講習会をしてくれるようになりました。
中健次郎公式ブログはこちらから:http://ameblo.jp/kamehenmura/
自然の流れでしょうか?小父さんが着ている「うさと」の服にも出合いました。綿、ヘンプ(大麻)、蚕から糸を取り、撚り、紡ぎ、草木で染め上げ、素朴な機械で布を織る。その布がうさぶろう氏のデザインで服になります。「もくもくはうす」では年に数回、自然のめぐみそのままの「うさと」の服の展示販売会を開いています。
うさとの服はこちらから:http://www.usaato.com/
食の大切さも学びました。マクロビオテック料理や長岡式酵素玄米講習会を開いています。
詳細はPDFをご覧ください |
詳細はPDFをご覧ください |
8年前、気功の師匠中健次郎先生に会いにインドに行きました。
中先生と出逢い! 僕は、中先生のいるインドに行きたいと思いました。観光旅行ではありませんが・・・(笑)。
あるインドのアシュラム(注1)でだいたい10日間位過ごします。そこでは、自由行動ですが 僕が思うにある程度自由の中からでないと、何か感じたり気づいたりするのは難しいのかと思いました。特にこのアシュラムでは、本当に時間が早く思ったことが実現するのも早いですし(笑)
本当にいろいろな体験をさせていただきました。その結果、ほんの少し「静寂という本当に静かな何もない時間」を体感して、こんな楽しい世界は捨てられないと思いました。これを捨てるなら、お酒なんかいらないと思い、お酒をやめて体が楽になりました。
こんな話をすると「私も行きたい」と言う人がいますが、「行きたい人」と「行く人」は違う事を知りました。
縁とタイミングで人は繋がっています。 おしつけたり、無理強いはしません。すべて、この大宇宙のお導きなのかな?!
僕は、インドに行って「手放す」ことを学びました。「手放す」ことでまた自分が掴んでいるものに気が付きます。 環境から掴まされたもの、自分から掴んだもの・・・掴んでいるものに気がついたら、また手放す。すると純粋(ピュア)な自分に近づいていく、いえ、自己さえも手放した時に自分があるような・・・そんな「自分探しの旅」です。ご一緒に体験してみませんか? 今年は、インドツアーを企画したいと思っています。
(注1) アシュラム:「聖なる道を歩む人々の休息や安らぎの場所」
不動産業を始めました。
自然素材にこだわった家に住み、マイクロビオテックな食事を食べ、自然素材の服を着用し、気功を行い・・・と衣食住に徹底的にこだわった小父さんだから勧められる「元気な家」があります。
ところが、お客様が家を建てる時に最初に出会うのが「不動産屋さん」だと知りました。不動産屋では大抵「建売住宅」を勧められるそうです。良質の注文住宅を創るには「不動産屋さん」から始めないとだめだと思いました。そこで、何かお手伝いできればと思い不動産業を始めました。現在、売却物件を探しております m(_ _)m。
青空木工教室の風景
「家」にこだわると「家具」にもこだわりが出ます。実は、意外に家と同じで自然素材風が多くて材料からこだわってるの家具がなったので家具も創るようになったのです。「もくもくファクトリー」ではオリジナルの家具を作っています。無垢の木で作る家具は高価だと思われますが、使い勝手の良い、体にしっくりとあう家具です?!
そして、去年(2012年)10月27日、僕の誕生日に由紀子さんが鎌倉に「SAIRAM」をOPENしてくれました。ビーガン(注2)レストランです。健康と食材にこだわった料理をご提供しています。菜食主義以外の方にも味やボリュームで好評を得ています。ここでも「料理教室」や「気功講習会」なども開いております。
SAIRAMはこちらから:http://sairam.asia/
ヒーリングサロン「Shanti」は、化学薬品は避け天然素材の自然派ブランドにこだわった癒しの空間です。
Shantiはこちらから:http://www.shanti358.com/
小父さんが良いと思ったことを実践していたら、出会いがあり、出会いが繋がり広がって、いつの間にか「もくもくはうす」がたくさんの枝を伸ばし始めているのかな?!
(注2) ビーガンとは菜食主義の中でも卵や牛乳を食べない「菜食」のこと。ビーガン主義の方は動物の革なども身に着けない。(菜食主義には個人差があります)
もくもくはうす
小父さんは3人兄弟の末っ子で姉と兄がおります。子供の頃はよく叱られました。家業は「家づくり」でしたから「家づくりのDNA」を持っていたのだと思います。25才で独立し、由紀子さんとの出会いでそれまでの「家づくり」と大きく変わりました。「もくもくはうす」はこうして生まれました。
そして今、同じ思いで働いているスタッフがいます。あまり募集をかけていないのですが、「ここで働きたいです」と若者がきてくれます。 「もくもくはうす」の始まりは、まず全員でする「お掃除」からです。 小父さんもお掃除をします。それから全員で「瞑想」します。「外と内」の全てを綺麗にしてからお客様をお迎えしたいと思っています。
若いスタッフと
「家づくり」を通して、お客様と一生のお付き合いが始まります。
「一生」とはお客様の「生命」と向き合うことです。一生を元気で過ごすこと、健康にすること・・・「一生にお付き合いできる」ことは喜びです。この「喜び」に感謝しています。小父さんもスタッフもいつも「ありがとう」という気持ちを忘れません。
もくもくはうすの「ひつじ」ですか? 小父さんがひつじ年であること、断熱材に「ひつじ」の毛を使っていることからマークに使っています。
羊は「もくもくはうす」のロゴマークです
島村さんにとっての横浜は?小父さんにとっての横浜は「育てていただいたところ」です。そして、「楽しくいつも誰かといっしょに居た場所」です。 |
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(インタビュー・文・写真:高野慈子)
宮城県山元町の「産業まつり」に参加しました!!
宮城県山元町の「産業まつり」に参加しました!!
11月23日、宮城県山元町で「心をひとつに!山元町ふれあい産業祭」が開催されました。
宮城県山元町の公式サイトより
http://www.town.yamamoto.miyagi.jp/kankou/fureai-sangyou_fes.html
「ヨコハマNOW」では、東日本大震災後、皆様のお力添えで宮城県山元町を応援しています。
※詳しくはこちらをご覧ください。
横浜市が宮城県山元町を継続的に支援することになりました
~私達の力が横浜市を動かした~
http://yokohama-now.jp/home/?p=6785
東神奈川で「くらしの器と絵 匣(さや)」を経営する重田さんは、この一年間ご友人たちに呼びかけて、宮城県山元町の方々に使っていただきたいと沢山の食器を集めて下さっていました。集まった食器は段ボールで20箱を超えているそうです。 ※重田さんは、「ヨコハマNOW」の2010年7月号「よこはまこの人」に登場しています。 重田さんたちの想いを宮城県山元町に届けられる機会があればいいなと思っていたのですが今回の「産業まつり」に出店する横浜市のブースの一部を借りて、集めて下さった食器を販売できることになりました。 私達夫婦と主人の友人たち(奥様と小学生のお嬢様も一緒です)で販売チームを結成しました。 11月23日の朝、宮城県山元町役場前の広場に集合した私達は、全国各地の市町村や地元の方々が出店されている様子に圧倒されました。ブースだけでも100以上はあったでしょうか。中央には大きな舞台も設置されていました。午前10時に開始だというにも関わらず、午前9時にはすでに大勢の人で賑わっておりました。 |
(クリックで写真拡大) |
私達の食器のスペースは、あっという間に大勢の人たちが集まりました。重田さんは無償提供でいいですよ。と仰っていましたが、熟慮の結果、「お一人様100円でお好きな器をお持ちください」ということにしました。 「コーヒーカップのセットが欲しかったの。」「こんな小鉢が欲しかったの。」と仰っていただいて、食器はあっという間になくなりました。中には「こんな皿が欲しいけれど、仮設は狭いから置けないわ」と話される方もいらして、厳しい現実はまだまだ続いていることも感じました。 50人以上の方々にご自分のお好きな器をお持ち帰りいただきました。私達にできることはささやかなことですが、それでも皆様の食卓で使っていただける食器をお持ちできたことは嬉しい限りです。 |
お昼ごろに私達は早々と店じまいをしました。それから私は、以前から親交のあった山元町社会福祉協議会の佐藤さんを訪問しました。佐藤さんは東日本大震災発生後から、震災復興の最前線で、ボランティア班の責任者として働いている方です。
※佐藤さんの制作した【ボランティア活動の軌跡】というビデオを是非ご覧ください。
やまもと復興応援センター
http://msv3151.c-bosai.jp/group.php?gid=10117
佐藤さんに「その後いかがですか」と伺ったところ、「元気のある人はいいのですが・・多くの方々はまだまだです。」というお答えでした。「渡邊さんに会って欲しい人達がいるのです。」と「やまもと復興センター」で二人の女性を紹介されました。
一人は「山元タイム」の山下よし子さんです。山下さんは東日本大震災前はパッチワーク教室の先生だったそうです。大震災後、仮設住宅の相談員などをされて、家も仕事も失った女性達に何か生きがいをと、山元町名産の「イチゴ」の形をした「アクリルたわし」を作り始めたそうです。 |
イチゴのアクリルたわしは二個パックになっています。パックの後ろには、制作者の名前と住所が手書きで書かれていました。「仮設住宅の住所を見て、お手紙をくださる方もいるのですよ。中には訪ねて来られた方もいて、皆で感激しました。」と山下さんはお話されました。 |
もう一人はなんと秋田県人の戸嶋さんです。戸嶋さんは、秋田から単身山元町に移り住んで、自分デザインした山元町の港の風景を描いたステッカーやストラップを販売しながら港の復興を応援しているということです。 |
「何か始めなきゃ・・とやったことなのですが、まだまだ頑張らなきゃと思っています。」と話されるお二人の言葉を聞いて、私も思わず「微力ながら協力します。」と言っていました。
「イチゴ」と「ホッキ貝」の町だった山元町。あの津波は、「イチゴ」のビニールハウスも港の船もすべてを持って行ってしまいました。坂元駅があったところから見る風景は、未だに雑草が生えている見渡す一面の荒れ地になったままです。まだまだ復興には程遠い状況です。 |
今の私達にできることは、無理しないで長く続けていく復興応援だと思います。「ヨコハマNOW」では、山元町復興応援商品の販売をサポートしていきます。このリストの中には、「ヨコハマNOW」編集長の辰巳隆昭がデザインした「心をひとつに」Tシャツあります。 |
これからも皆様の温かい応援をお願いいたします。
※ご注文いただける方は下記のフォームに入力してください。
https://www.supportyou.jp/yokohama-now/form/7/
第2回 モバイルPCを買った!
プロローグ
このコラムでは、40s ウーマンを、オヤジ・オバチャン・オトメ (3つあわせて 「O3」 と呼ぶ) マインドを持つ最強人類世代と勝手に呼び、40sウーマンの私が、 O3マインド で、身近な出来事を甘辛くつづっていきたい。
モバイルPC (Let’s Note) を買った!
先日、念願のモバイル用パソコン(以後PCと表記)を購入した。1ヶ月ほど、悩みに悩んでの購入だ。
自宅で使っているノートPCは大きいため、持ち歩くには重く、かなりの覚悟がいる。そのため、かねてより持ち運びに便利な、小さくて軽いPCが欲しかった。
私の場合、外でPCを使うと言ったら、文章の入力がメイン。画像関連の重いソフトを使う作業はほとんどない。そのため、それほど性能のよくないものであっても、軽量なら良いと考えていた。
そこで、リストに上がったのが、業務用として利用される事の多い、丈夫で長持ちのLet’s Noteシリーズ! の中古品。 ネットで見ると、4年前に10万円を超える価格で売られていたものが、3万円を切る値段。しかも状態も良い。軽いし、性能も、まぁ文章入力メインならいけそうだし、「これで、いいじゃん!」と、買う気満々であった。 ところが、そこから1ヶ月もの間、長きに渡る葛藤の日々が訪れようとは。そして、紆余曲折の結果、7万円の超小型Let’s Noteシリーズ。しかも新品を購入するに至った。 現在では、後述する分析の結果、この選択に間違いはなかったと、満足している(満足したい)。 |
(クリックで写真拡大) |
人に聞くのも良し悪し
1ヶ月の葛藤のはじまりは、意味もなく友達に相談した事だった。
私 「私、●●シリーズを買おうと思ってるのよね。中古だけど、状態もいいみたいだし、なんたって安いしね。」
A子 「 ちょっと、●●シリーズはやめてよ!」
私 「なんで?」
A子 「だって、私の嫌いな●●が使ってるんだもん。」
私 「いやいや、そんなの事関係ないでしょう!」
A子 「ダメダメ、しかも、分厚いし、カッコ悪いよ!ちょっと待って検索してみる・・・。コレコレこの▲▲シリーズがいいよ。スペックもいいし、極薄ですごくかっこいい! これなら、もうちょっとお金を出せば、新品が買えるじゃない!」
私 「へぇ、こんなのあるんだ。かっこいいね。しかも、確かにスペックも●●より上だね?。でも、ちょっと待って、これちょっと重いね。」
A子 「もっとよく探せば、軽いバージョンもあるわよ・・・」
こんな会話の末、色々抵抗はしてみたものの、私の気持ちは結局ぐらついてしまった。新品でも、結構安くてスペックの良いものがあるのだ。しかもオシャレ。
いつの間にか私の心は、●●シリーズから、▲▲シリーズへと以降。▲▲シリーズで軽量なバージョンとなると、やはり少し高くなるのだが、ほぼ、購入決定寸前にまで至っていた。価格は5万円代後半。当初の3万円から約3万円近く上がっていた。
その後も、よせばいいのに、こんな事を数回繰り返してしまったのだ。
私と同様にモバイルPCを検討しているBさんに、「モバイルはスペックの割に、割高なので、購入するのを止めようかと思う」と言われ、「そうだよな。結局、なんだかんだ言っても、色々作業していく中で、スペックが悪いと結局使えないってことになるかもな・・」と思ってみたり、Cさんに、「中古はバッテリーの消耗が問題になるかもしれないから、やめた方がいいよ。やっぱり高くても●●シリーズの新品がいい。電池やメモリも増設できるし。10万円くらいで買えるよ。」と言われ、「そうか・・・安物買いの銭失いとなったら、本末転倒だよね。10万円かぁ・・・」
お気づきの通り、この時点で当初3万円で購入しようと思っていたモバイルPC予算が、10万円に跳ね上がっている。これこそ、本末転倒!
O3マインド(オトメ・オバチャン・オヤジマインド)がそれぞれ自己主張
よせばいいのに、色々な意見を聞くうち、気づかぬうちに私の中のO3マインドのそれぞれが自己主張をし始め、自分でも訳がわからなくなっていた。
それぞれが重要視する項目は、
- オトメマインド・・・軽量・コンパクト・デザインが良い事(かわいい)
- オバチャンマインド・・・安い・壊れない・長く使える事(増設可能な事)
- オヤジマインド・・・バッテリーがもつ事・サクサク動く事・windowsバージョンが古くない事
これらを同列に、どうしようどうしようと、延々迷ってしまったのだ。気づけば購入を思い立ってから1ヶ月が過ぎていた。その間、モバイルPCがあったら、どんなに便利だった事かと思われる場面は、何度か訪れていたにもかかわらず・・・。
迷う事にだんだん疲れてきた頃、そもそも私は何故モバイルが必要なんだっけ?と、ここに来て始めて気づきはじめた。そして、O3マインドが主張する項目に優先順位を付けるべきだと、建設的な思考にやっとのことでたどり着いたのである。結果、最終的に2機種に絞り込む事に成功。
結局それは、始めに検討した●●シリーズ、すなわちLet’s Noteシリーズの超小型バージョン(新品)と、これも始めに検討した▲▲だった。
Let’s Noteシリーズの超小型バージョン(新品)は、家電量販店では10万円近くしていたのだが、ネットで7万円代を見つけ、購入を決めた。▲▲よりは、2万円程度高いことになるのだが、その価値は十分あると自分に言い聞かせながら・・・。
より安心するために、点数をつけてみた
散々迷って決断したものの、最後は直感で決めてしまったせいか、確固たる安心が欲しくなる。このコラムを機に、数値化して検証してみることにした。我ながら、どんだけ小心者なのだと、いささか恥ずかしい。
その結果がこちら
完全に自己満足の検証だが、自分には意味のある検証だった。購入したLet’s Noteは46点。 ▲▲は41.5点。 うんうん、十分満足のいく結果が出た。やっぱりLet’s Noteでよかったんだわ!!!
やり方は簡単。以下の順番で、作業を進めていった。
- 自分が大切だと思う項目に優先順位をつける。
例えばA)軽いけど、バッテリーがもたない機種とB)バッテリーは持つけど、ちょっと重い機種、どちらを買うか?と考える。私の場合は、A)。どちらも重要だけど、どちらか一つと言われれば軽い機種が欲しいので、「軽い」ことは「バッテリーの持ち」より優先順位が上となる。 - 各製品を評価。
今回は、◎とても良い(3点) ○良い(2点) △普通(1点) としてみた。 - 優先順位にプラス評価を設ける。
優先順位が高い方がより重要になるので、傾斜をつけるため1位と2位はプラス4点、3位4位は3点のようにプラスする得点を設ける。 - 計算
最終的な各項目の得点は、◎○△の得点+プラス評価の得点。例えばLet’s Noteの「軽さ」については、◎(3点)+優先順位1位(4点)=7点となる。
結果、私にとっては、超小型Let’s Noteを選択して正解だったと、数値化できた。
選択に悩むとは
今回は、たかがモバイルPCでの検証だったため、バカバカしさがぬぐい去れないが、しかし、迷って迷って選択に困る場面は、誰にでもよくある事だと思う。そんな時どうするのか?何となくや、仕方なく選択してしまっては、「本当にこれで良かったのかな?」と、後になってもずっと、満足いかないまま引きずられてしまう場合だってある。
加えて、悩むという事は、自分の優先順位が定まっていない為とも言える。時には私のように、優先順位の項目さえ、見失っている場合もある。
そんな状況を打開するためにも、自分の価値観の優先順位を定める作業は、意味があるように思う。
衆議院選挙の「選択」についても同様?
「選択」と言えば、「選挙」がある。この原稿を書いている時は、まだ衆議院選挙の投票前。乱立する政党に優劣がつけられず、悩んでいる人も多いのではないだろうか。次の政権をどこに託すかを決める大事な選択である。PCを選ぶのとは訳が違う。きちんと自らが納得いく「選択」を行いたい。
選挙も数ある中からひとつを選ぶという意味では、PCと同じケース。まず、自らの価値観に優先順位をつける作業を行ってみてはどうだろう。
そうは言っても、はいわかりましたと、スラスラ項目が挙げられる人は、普段から相当政治について考えている人と言えるかもしれない。一般的には、自分の政治に対する価値観と言われても、ピンと来ないかもしれない。
私も優先順位をつけるべき項目が思いつかなかった口なので、まず、政権政党に求める要素を、大項目として思いつくまま考えてみた。すぐに出てきたのは次の3つ。「政策」「政権実行力」「リーダーの思想」 。そしてそれぞれの大項目を細分化するイメージで、そこに含まれる自分が重要と思う要素を項目として上げていった。一部をご紹介。
- 政策・・・消費税・原発・被災地復興・近隣諸国外交・教育・地域主権・・・etc.
- 実行力・・・官僚を使える力(人事手腕)・市民を巻き込む力(透明性担保)・・・etc.
- リーダー思想・・・誰にでもいい顔をしたがらない・保身に走らない・責任力・他国への配慮・・・etc.
最後にその全てを一緒にして、優先順位を無理くりつけてみた。流れはPCの時と全く同じだ。人に見せるものではなく、自分の主観について検討しているわけだから、直感的に考えていけば良い。A項目がすごく良くて、B項目が悪い政府と、その逆では、どっちが良いかで、A・Bの優劣をどんどん決めていけば良いのだ。その順位が後に変わったってかまわない。今どう思うのかを自らに問う事が大切なのだと、実際にやってみて感じた。
すると、自分としては上位だと思っていた項目が、意外に低かったり、またその逆があったり・・・。これまで見えなかった自分の価値観が、まるであぶり出しのように、徐々に見えてくるようで、大変面白かった。
自分は何をより重視しているのか?いないのか? 優先順位をつけるという事は、時には「捨てる」項目を明確にする事でもある。全ての項目が叶えばそれに越した事はないが、そんな事はありえない。何かを優先したら、何かを諦める。「選ぶ」とは、そういう覚悟を持つ事でもあるのかもしれない。そういう気持ちで、次期政権政党を検討してみたいと思う。
プロフィール
ペンネーム: 津木 雫(つぎ しずく)
オヤジ・オバチャン・オトメのO3マインドを持つ、なんちゃってコラムニスト。
約20年間メーカー勤務。広報・マーケティングを経て、現在フリーランス。
典型的な仕事人間という生活を過ごし、はたと気がつけば人生の折り返し地点。「さぁどうする!」と我が道を振り返っている真最中。
学生時代に、約15カ国を貧乏旅行。
その経験から、今の若者が育つ環境には、問題を自らの力で乗り越える体験が不足していると、感じている。若者教育関連のNPOを立ち上げ、神奈川を中心に現在活動展開中。
ビジネスの創造方程式で勝ち抜こう(第8回 最終回)
デジタルハリウッド大学大学院/NVD株式会社 松本英博
1.資本金とは?
前回は収益モデルをクルマに例えて、継続的に走るためには燃料(利益)が必要であることを説明しました。ただし、新規事業やベンチャーではまだ商品が整わず、利益をねん出する以前の状態です。言い換えれば、商品を揃え、顧客に提供できる状態をつくる資本金が必要となります。
資本金は、
①売上の内だけでいつまで事業停止あるいは倒産に至るか
②将来の成長性の根源(設備、人員、情報武装)などにどれだけの投資が必要かを基準に算出
といった点で考えてみます。
①は、売上がゼロであっても、どのくらい会社の体制が維持できるかといったコスト面で考える方法で、投資家のいうバーンレート(燃焼率)です。具体的には、キャッシュアウトするまで何カ月あるかといった考えで自ずと必要な資金が割り出せます。
②は資本を増強して投資を行うことを前提にした、適正な投資額に基づく資本金です。投資に対する使途とそれに対するリターン(成果額)を算出して割り出すものです。
2.資本とガバナンス
社内の新規事業であれば、資本金に当たるのは、新規の予算と考えることができます。この場合は、事業推進に必要な予算ですから、企業内の統治(ガバナンス)に大きな影響は通常ありません。
ところが、ベンチャーの起業や事業の大きさによっては資本金を社外から調達する必要がでてきます。つまり、既存事業(起業の場合は既存事業自身が存在しない)を上回った資金が必要となる場合です。
資金をすべて自分で都合できれば自己資本として統治は問題にはなりません。しかし、起業時には開業に必要な人・モノを集める必要があり、自分以外の他人に資本金を求めることになります。これ以上は、企業経営の話になるので、このコラムの本題から逸れるため、資本とガバナンスが他人資本を考えた場合密接に関係してくるとだけ述べておきます。
3.創造方程式の応用
さて、8回にわたり、アイデアの出し方や誘発の仕方、アイデアから事業ネタ、さらに事業テーマと展開する方法について解説してきました。
再度、創造方程式を掲げ、ちょっとその応用を見てみましょう。
(1) 異種間融合方程式
A x B => C
(2) 改善方程式
A => A’
の二つですが、これを組み合わせていくと、下図のようにも考えることができます。
つまり。A:「おとな」、B:「オフィス」として
(1)A => A’:「おとな」からイメージできる:「バリバリ仕事をするビジネス・パーソン」
(2)B => B’:逆転発想で「休憩場所」
とすると、使えそうなアイデアとして、
C’:「メリハリをつけるために休憩が必要である」
が導かれます。このような掛け合わせを行うことで、新たなアイデアを拡げていくこともできます。以前にも書いたようにアイデアは質よりも量が重要ですから、このような一見無意味でもアイデアを誘発するネタが浮かび上がってきます。
また、今回はビジネスに焦点を当てましたが、創造方程式は、発想に限らず、多くのシーンで活躍します。
(1)オプション選択
何かの決定を行う際に、必要な情報(オプション)を漏れなく考慮したかなどを点検できます。
(2)意見出し
ブレストで発想の枠を拡げるために、創造方程式でネタを増やしていきます。
もちろん、読者のみなさん、これ以外に応用してみてください。
4.まとめとフレームワークについて
これまでは創造方程式を使って発想を拡げることを考えてきました。実は、それ以上に大変なことは、具体的にまとめることです。そのためには、発想を実際の計画や実践に進めるための具体的なまとめ方や枠組み(フレームワーク)が重要であることが分かりますね。
拡げて、まとめる(絞り込む)ことの両用が次への発想を生むためにも必要です。
今回のコラムでは拡げる発想に必要な創造方程式について語りましたが、次回機会があれば、絞り込み、まとめ、具体化するフレームワークについてお話し出来ればよいと思っております。
※「創造方程式」による発想のトレーニングがしたいというなら、参考に拙著「ヒット商品を生み出すネタ出し練習帳」をどうぞ。
松本英博 プロフィール
松本 英博(まつもと ひでひろ) デジタルハリウッド大学大学院 専任教授/NVD株式会社 代表取締役 京都府出身。18年にわたりNECに勤務。同社のパーソナルメディア開発本部で、MPEG1でのマルチメディア技術の開発と国際標準化と日本工業規格 (JIS)化を行い、MIT(マサチューセッツ工科大学)メディアラボで画像圧縮技術を習得のため留学。帰国後、ネットワークス開発研究所ではWAPや i-モードなどの無線インターネットアクセス技術の応用製品の開発と国際標準化を技術マネジャーとして指揮。 NEC退社後、ベンチャー投資会社ネオテニーにおいて大企業の新規事業開発支援、社内ベンチャーの事業化支援を行い、2002年9月にネオテニーから分離独立し、NVD株式会社(旧ネオテニーベンチャー開発)を設立、代表取締役に就任。大手企業の新規事業開発・社内ベンチャー育成などのコンサルティング 実績を持つ。 IEEE(米国電子工学学会)会員、MIT日本人会会員。神奈川県商工労働部新産業ベンチャー事業認定委員、デジタルハリウッド大学大学院 専任教授、現在に至る。 |
2012年12月 三ツ池だより 「坂道は光っていた」
銀杏紅葉を背にして坂道を登りながら、今住む場所が芋畑だったことを思いだした。
12月16日が衆院議員選挙の投開票が行われる。何はともあれ期待せずにはいられない選挙である。結果はその時の空気を表していることに間違いない。気になるのは、どの政策・主張も間違っているわけではない。我慢もしようという我々国民も国難を理解している。しかしながら不安の是正されない苛立ちがある。
芋畑のことを思い出したのは偶然ではない。その後60年ほどを経ていた。
大正生まれで女学校を出た母は父親を早く亡くして、父と結婚した。一時は妹弟と母親も一緒に同居していたようにも思われる。そんな母が鍬を持ったのは戦後のことであり、父の実家の近くに疎開してからである。震災で被災した父母はよく眠っている私をおぶって川崎の元木町から横浜の駒岡へ疎開のために歩いた。何も持てずお釜をさかさまにして大事なものを入れて慌てて川崎の家をでたという。父の実家はもちろん、近所は農家がほとんどであった。疎開してしばらくして、そこのお寺の境内に家を建てさせてもらった。目の前の道には小川があった。近所の子供たちは戯れたり泳いだりしていた。「いけません」と母はそこで泳ぐことを私には禁止していた。ある時、裸で皆と水の中にいるところを見つかってしまった。悲しそうな顔をしていた。
その母は私が中学になると畑の芋を収穫に行くときに決まって私に声を掛けた。畑は実家等から借りての3か所であった。リンゴ箱を自転車の後ろに括り付けた。収穫でいっぱいの自転車は重くてゆらゆらし時々倒れた。鍬を担いだ母は自転車の後ろを歩いてくるのであった。その頃鶏を飼っていた。日本鋼管に勤務していた父は少し体が弱かったこともあって、卵を毎日食べていた。鶏が数羽いて複数卵が取れると一つを残して乾物屋さんに持っていって買ってもらった。時々母に代わって卵を乾物屋にもっていく仕事を手伝わされた。当時は手伝いというより、家のことをするのは当たり前であった。井戸から水をくむこと、風呂に水を入れる時の水汲みのこと、風呂に薪をくべることなど、手伝うことは沢山あった。
その畑だったところに今住まわせてもらっている。
出勤前のひと時の、輝くような朝陽に照り返されての木々を背に、坂道を登って家に戻るときに、今と昔を比較してしまったのであった。ここは横浜市鶴見区である。圧倒的に幸せでありながら、今は考えさせられることの多い時代である。
脱原発は間違っていない。では代替えエネルギーはどのようにするのか。エネルギー消費はどう制御していくのか。廃炉の処理をどうしていくのか。世界的には脱原発での全廃に進んでいない。日本はどのような立場でリードしていくのか。まさか廃炉の処理を他国に任せっぱなしにしようと言うのではあるまい。
社会保障と税の一体化の議論がある。「高齢者を費用負担の大きい存在と見てしまう現状がおかしくないか」と朝のテレビでのコメントがあった。まさにそのことである。高齢者医療をビジネスチャンスとした風潮が間違っている。ビジネスと考えると大きい方がいい。ビジネスと考えると儲けはどれだけあるかになっていく。大きな資本の投入を必要としていく。これも間違っているわけではない。しかし違和感があり、それが財政破綻への入り口になっていく。高齢者は邪魔者ではない。
「ビジネスとは人を幸せにするもの」と考えてみることはできないのだろうか。中小企業家同友会での視察でフィンランドを訪問した時「なぜ福祉国家を目指してきたかわかりますか。」こんな質問を逆に受けたのだった。「私たちは高齢者になったときに自宅でゆっくりしたいのです。」そのための負担として高い税を受け入れているのでした。議員は大半が女性であり、ボランテアに近い待遇でした。隣に住んでる人のお世話ができる人が議員になっているといったものでしょうか。
枯葉を燃やせない。落葉炊きが出来ない。落葉を塵という。
公園で孫と一緒に花火をしようとしたら「禁止です!」と監視員。
誰が悪いというのではなく、いつもYESかNOかの判断の求められる生き方でいいのかという思いだ。時にははみだしてみる許容、時には恐れおののいてみる謙虚をどう政治家に求めていくのか。だから選挙を楽しみたい。その結果を楽しみたい。決まったら数年しっかりやってもらいたい。見守る勇気を日本人として持ちたい。いまだからこそ「しっかり日本の未来を見据える」政治家の姿を追い求めたいところだ。
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(文・写真:横須賀 健治)
横須賀 健治プロフィール
メジャーテックツルミ 代表取締役
はかることのプロとして50年です。
食品の放射能測定のアークメジャーを設立しました。
「計量から見える幸せ」をライフワークにしています。
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若手芸人が6年ぶりに行った人間ドックで「胃がん」が発見されたことが話題になっている。この出来事は、定期的な健康診断がいかに重要かを私達に教えてくれる。 私が中高年の領域に入ったせいか、最近は健康や病気のニュースに目が行くようになった。ただ、医療関係の記事は専門的な言葉が多くて素人には難しい。まず病名が覚えられない。例えば・・「深部静脈血栓症」これは、片足がむくむ病気だそうだ。 病気の原因や予防を分かりやすく解説してくれる本がないかな・・と思っていた矢先、私の大学院時代(筑波大学大学院経営・政策科学研究科)の友人である塚崎朝子氏が「いつか罹る病気に備える本」という本を出版された。 |
この本は、「週刊エコノミスト」に、2009年5月26日号から2012年7月31日号まで連載された「からたチェック」を一冊にまとめたものである。
塚崎氏は、読売新聞記者を経て、筑波大学大学院修了後に東京医科歯科大学大学院医歯学総合研究科修士課程も修了されている、医療関係に精通しているジャーナリストである。彼女が東京医科歯科大学の医師・歯科医師に取材して、100の病気のことをまとめてくれた。
第1章の「メタボリックシンドローム」から第15章の「男と女に固有の病気」までこの本を読むと、私達のまわりには実にいろいろな病気があるということを思い知らされる。「目の病気」「歯と口の病気」など章立ても分かりやすくて誰でも読める構成になっている。
全体を読んで病気予防についての基礎知識を身につけるのもいいが、かなりボリュームがあり、各病気についての説明図やチェックリストも用意されているので、自分に関係する病気のところだけ拾い読みしてもいい。100の病気についてそれぞれの専門家のコメントがあり、最新の医療技術についても知ることができる。
本の冒頭に、なぜ「メタボリックシンドローム」を第一章にもってきたかが書かれている。肥満は「万病の素」ともされているそうである。まさに肥満である私には耳が痛い言葉であるが、この事実を心して受け止めたい。
老若男女を問わず、よくある病気の予防と早期発見のために読んでいただきたい一冊である。
(文:渡邊 桃伯子)
書評 「不自由な心」角川文庫 白石一文 著
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著者はあとがきで次のように述べる。「小説というのは、劇的なほんものの人生を手に入れることの出来ない大多数の人々が、持て余した時間をつぶすために行う古臭い趣味のひとつにすぎないのだろうか」いやいや新鮮である。 「天気雨」では意外な展開。「ジャンケン、ですか?」「そうです。恨みっこなしの一回勝負。負けた方はいまここからきっぱりこの部屋を出てゆく。もう二度と姿を現さない。それでどうですか。」野島はじゃんけんに勝ち、仙台への転勤に病身の恵理を連れていくことを決意する。伏せんがある。野島は娘の誕生日に家に早く帰ると前から約束していた。恵理には先週から大事なパーティーがあって、その後、知り合いの新聞記者と銀座に流れるといってある。「そう、だったら、私その日は髪を切りに行くね」男は我儘であり、恵理は男に尽くしては裏切られる。 |
「卵の夢」では捨てられていく男が描かれる。「卵の夢を見た人は、どこかに自分を心から愛してくれている人がいるんです。卵が大きければ大きいだけ、その人の愛情は深く強いんです。昨日の夜の卵はいままでで一番、ダチョウの卵くらいおおきかったな」そういう由利子と結婚した坂本は一人つぶやく。「結局、俺はその卵をこの五年間預かってきただけのことだ。」年の差だけの問題ではなく、仕事一途に生きてきた男の哀しい崩壊なのでもある。
「夢の空」では緊急着陸した飛行機が滑走路の向こうで真っ黒なものになって立ちのぼった描写で終わる。「四年前、金親が福岡へと就任する前日の夜のことを、その相変わらずあたたかく柔らかな手を懐かしく握りしめながら大木はおもいだしていた。つながった掌を通して、自分の変わらぬ想いが脈打つように金親の身体の仲へ流れ込んでゆくのが分かった。」
ふいに異様な飛行機内の雰囲気のなかで大木は事態の重大さを十分に把握できないままに電話をかけるのだった。<俺は、死ぬ>
「水の年輪」は不思議なものがたりだ。
「で、あなたはどうするの。愛人のところにでも転がり込むつもり」
「いや、そういう人はいないんだ。君はずっと疑っていたいみたいだけどね。本当に誰もいやしない。動けなくなるまでは都心のホテルを宿にするつもりだ。金は一千万円ばかり親父のから貰うことにするよ。」
主人公三枝広明は自分に声を掛ける。「ありがとう、三枝広明、そしていま、永遠の別れだ。夜の闇の向こうに、静かに泡立つような水音がはっきりと聞こえた。」三枝は耳をそばだて、その音の源をめがけ、ひと思いに跳躍した。三枝は三歳で亡くした息子のところに帰っていくのだった。
「不自由な心」
「愛とは愛を営むことにその本質があるのではなく、それを相手の死によって失った時に本当の輝きや価値を生むのではないか、と考えたのである。本当に自分の愛する者を亡くしたとき、この世界の他のすべての価値は色あせ、人は生への執着からはじめて離れることが出来る。」「野口の傍から見れば余りにも哀れな最期を看取りながら、娘を失い、妻を失い、そして何の生への執着もなく死を迎えることができた野口の幸福を江川は深く羨望した。」
江川は妹を同僚の部下に嫁がせた。その部下が「もう燃えるものがないんだ。」といって同じ職場の女性と付き合っている。「あまったれるんじゃないんだよ」右の拳を固め、下腹にゆっくりと気合を掛けて拳を沈めた。「人間はもっと自由だよ」その通りだとはおもいながら、「人はいきているあいだは生きるしかない。人にとって何よりも深い哀しみは、自分の死を前提に自分の生を生きることができないということだ。この世界にある死は、自分が生きている限りすべてが他人の死でしかないのである。」「死の恐怖心こそが真実の愛情の源泉でもある。」と様々に思い悩みながらいつもの曲がり角を曲がっていく。「ため息をつこうとしてやめ、その角をゆっくり曲がった。」小説は実験なのかもしれない。生きていくことを前提に組み立てられた実験を自分も歩んでいく。私は私であるがゆえに小説を読む。仮説に基づく実験でなく、希望という漠然とした結果を求めての実験でもあるのだから。
著者は別の物語を書きながら「不自由な心」だけでは分かりにくいのではないかと、「天気雨」「卵の夢」「夢の空」「水の年輪」を併せる形にしたそうである。
(文:横須賀 健治)
もっと旅がしたい!(その8)
Pick Up 【龍宮城ホテル三日月】
横浜駅東口から高速バスで約40分、袖ヶ浦へ。そこにすでに待機している三日月送迎バスに乗って約10分。到着したのは今回取材させていただく龍宮城ホテル三日月。団体・グループ旅行、家族旅行に通年人気のお宿です。
とにかく大きい!駐車場も広い!宿泊フロントがこじんまりしているのは、もともとは日帰りスパとして始まったここ龍宮城。宿泊のホテル棟と日帰りのスパ棟が分かれているのです。混雑なしにゆっくり案内してもらえていいですね。
三日月の目玉はやっぱりスパ。通常チェックインは15時ですが、スパの利用はその前からOK。お昼くらいには行って軽くお昼を食べ(お祭り広場にお食事処あり)、夕方までスパでゆっくり遊ぶのがおすすめですよ。
水着で遊べるアクアパーク(屋内アトラクションプール)はアクアジェットやジャグジー、長いスライダーもあってお子様連れのご家族だけでなく大人のグループにも人気です。オーシャンスパ(屋外プール&スパ)はプールだけは夏季限定営業ですが、ゆず風呂・ローズ風呂・漢方薬湯などなど充実のスパは年中営業。すぐ横は東京湾が一望できます。砂浜のある海ではなく、ごつごつした潮風が感じられます。サウナや砂風呂・岩盤浴もあって男性・女性どちらも堪能できそう。
屋内プールからは男女それぞれ大浴場へとつながっているので、水着を脱いだ後は温泉&露天風呂を楽しむことができます。三日月ホテルの有名な「黄金風呂」「純銀風呂」は男女どちらの浴場にもありますよ。露天風呂はオーシャンスパに負けないくらいの解放感。
さて、その他施設。意外と知られていないのですが、会議室も充実(別料金)。テーブルも椅子もプロジェクターなども用意されています。待合室的なものもあり、会議だけではなく、イベント事などにもよさそう。赤い絨毯のリラクゼーションフロア(利用無料)はアロマの香りがして、仮眠に利用もできるそうですよ。
旅行といえば宴会!宴会場は大きなお部屋が100名以上収容OK。他にも20名程度の宴会場がいくつもあり、壁仕切りを開けば要望人数ごとの宴会場が出来上がるという優れもの。もちろんカラオケもありです。
今回取材させていただいた11月下旬は早めの忘年会のお客さまが多く、ほとんどのお部屋からカラオケが聞こえていました。余興準備の仮装をした人たちが、廊下を急ぎ足で通り過ぎて行ったり(笑)。そんな様子をスタッフの方も自然に笑顔で見送っている、館内中が明るく楽しい空気です。宴会も盛り上がってしまうわけです。
営業担当の方(酒井さん、ありがとうございました!)に館内の案内をしていただいている時にどうしても気になってしまったのが、いたるところに出現するブロンズ像。和風旅館(名前からして)に結構な違和感。支配人の趣味、ということですが…。これが、三日月に着いてあの明るい雰囲気に馴染んでくると、自然とブロンズ像にも慣れてくるのが不思議。よく見ると名前がついている像もあって、つい笑ってしまうほど。
団体のお客さま以外にはバイキングが用意されてます。その数を眺めただけでお腹いっぱいになるくらいの品揃え。さらに今は大人のお客さまに伊勢海老!付いていました。お寿司もてんぷらもできたて食べ放題。
朝もこちらの場所で朝食バイキングになります。メニューは朝用に焼き魚やお味噌汁、スクランブルエッグにパンも多種類。デザートやフルーツも。そしてヤクルトいっぱい。なるほど、これはファミリーに喜ばれますね。
三日月グループは木更津龍宮城のほかに鴨川・勝浦・鬼怒川などありますが、どのホテルも人気ですよね。今回はそのわけが分かった気がします。
まず、清潔。スタッフの方も親切。そして、明るい。お料理やお風呂ももちろんいいのですが、やはりお客さまにそこで「楽しい」「嬉しい」と感じてもらうには、「人」が良くなければありえない。そんな風に感じました。
ゆったり、たっぷり、の~んびり♪
ホテル三日月、いいですよ。
今回のプラン、詳しくはこちら↓
http://www.travel1.co.jp/menu1-kazoku/issyo/issyo2012.10/issyo2012-10-34.html
(クリックで拡大写真)
( 文・イラスト・写真:(株)とらべるわん いいづかあや )
いいづかあや(飯塚 文) プロフィール
1974年、横浜生まれ横浜育ち。
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第11回 どあっぷ「学生団体『キッカケ』をご紹介します」
シティズンシップ教育を目指すNPO法人ど・あっぷ(DOUP!)です。 今回は、メディアにも多数登場し注目される、学生団体「キッカケ」をご紹介します。 どうぞ最後までお付き合いください。 |
「ど・あっぱーず★見つけ隊」 vol.4
「成長・感動・絆をプロデュース! “キッカケBEAT”」
このコーナーは、市民度の高い人や団体を、”ど・あっぷ”が勝手に紹介するコーナーです。
NPO法人ど・あっぷ の活動をしていると、学生達と会う機会がよくあるのですが、その度に、最近の若者はしっかりしているなぁ、とよく思います。今回も、そんな学生達の集まりです。
“キッカケ”とは、プロデューサー兼講師の生田知久氏をはじめとした、「教育ベンチャーの経営者」たちと「学生」で組織されているプロジェクトです。イベントの企画運営を行う「キッカケBEAT」と、フリーペーパー発行などの情報配信を行う「キッカケROLMO」からなり、大学生が活躍しています。
今回ご紹介するのは、「キッカケBEAT」。“キッカケBEAT”は大学生が「自分らしくイキイキと輝くきっかけを届けること」をコンセプトに、様々なイベントをプロデュースしています。
キッカケBEATスタッフの臼井弘介氏(大学2年生)にお話を伺いました。
“キッカケ”が大切にしているのは、自分がイキイキと輝いてはじめて、社会に貢献できる人材になれるという基本概念。特に今の学生には、仲間と切磋琢磨し合い、深い絆を築き、猛烈に感動する体験がとても重要なのだと言います。
“ガチ”の付き合いの中ではじめて気づく本当の自分。
学生達は、メールやfacebookなどでこまめに連絡を取り合ってはいるものの、顔を付き合わせて、意見を交わすような経験は少なく、意外と希薄な人間関係の中にあるのだそうです。だからこそ、友達同士の“ガチ”の付き合いが重要で、ここから本当の自分を知る事ができるのだと臼井氏は言います。「弱いところ、カッコ悪いところ、イヤなところを全てさらけだして、相手に自分を受け入れてもらう。そうしてはじめて本当の自分に気づくんです。」と臼井氏。
こういう言葉は、大人でもなかなか言えるものではありません。彼自身、実感しているからこそ、出てきた言葉なのだと思いました。
“自分史上最高の感動”合宿研修プロジェクト
参加した学生達の多くが、「参加後の生活が変わった」、「充実感が違う」と感想を綴っており、次に記した動画を観ると、汗と涙で顔をぐちゃぐちゃにさせながら、「ありがとう!」と最後に皆で互いに抱き合う経験が、確実に彼らを成長させ、次の一歩を踏み出す大きな「きっかけ」となっていることがわかります。
「僕もこの合宿が19年の人生の中で、自分が大きく変わる一番のきっかけになっています」と臼井氏。
人生を変えるほどの、濃厚な1週間。少し羨ましくなりました。
今年の夏合宿の様子がわかる動画はこちら。是非ご覧ください。
キッカケプロジェクトBEAT2012夏合宿動画
【キッカケプロジェクト】夏合宿2012@沖縄
【キッカケプロジェクトBEAT】夏合宿2012エンディング
“感動”が人をつくる
一見、今の日本の学生達の環境は、昔に比べれば、大変幸せのように思えます。他国のように戦争など生命の危険もなく、衛生面や物質面でも恵まれ、人権も保証され、やろうと思えば、なんでも出来るようにも思えます。
しかし、いくら環境が整っていても、毎日が平穏に過ぎていても、心が震えるような感動がなければ、心は冷えたままで、喪失感や欠乏感がぬぐい去れないのかもしれません。
私の学生時代、まだ携帯もない時代でした。人とコミュニケーションを取るには、対面して話すか、せいぜい固定電話。約束の時間に遅れそうでも、連絡のしようのない時代。日本中や世界中の人と気軽にコンタクトを取るなんて不可能でした。しかし、その分、限られた人ではあっても、一人ひとりとは深い付き合いだったのかもしれません。夜通し誰かの下宿で疲れるまで議論するなんてことは、そんなに珍しくはありませんでしたし、部活だったり、祭だったり、いたずらだったり・・・。バカなことに異常に盛り上がった経験もありました。
一方、今の学生を取り巻く環境は、もっとクールなのかもしれません。
学校を含め社会では、人と同じであると安心し、空気を乱さないことが評価されます。その中では、言い合いや、自己主張は嫌われがちです。
加えて現在では、対面しない簡単なコミュニケーションツールが日常となり、わずか数行の短い文章を何度もやりとりするのが通常です。顔を見ながら長時間会話をする時間が極端に短い環境であることも現実なのです。
こんな状況では、“キッカケ”が求めるような、仲間同士の“ガチ”なぶつかり合いは、日常では大変困難な出来事なのだと、今回、改めて気づきました。学生達が深いコミュニケーションを避けているのではなく、そういう環境がそもそも極めて少ないのです。
しかし、仲間同士のガチなぶつかり合いを経て、問題を仲間と乗り越えた時に、「ウォォ!」と天に向かって叫びたくなるような“感動”が生まれるのだとういう事を、今回改めて気づかされました。
私にも少なからず「ウォォ!」と天に向かって叫びたくなるような“感動”をした経験はあります。それは、確かに、仲間と共に、同じ目標に向かい、困難を乗り越えた時でした。そしてその経験は、今でも自分の宝物ですし、その後の人生の大きな自信につながったように思います。
今回の”キッカケ”の取材を通じ、“仲間と共有する感動が人を創るキッカケ”なのだと、改めてその重要性を勉強できました。今後の学校教育プログラムを検討する上でも、主軸となるべき視点なのかもしれません。
感動創造プロデューサー集団”キッカケ”の皆さん。
これからもたくさんの感動プロデュース、頑張ってください!
取材後記
スタッフの臼井弘介君は明治大学の2年生。以下に添付の取材ビデオでもわかる通り、とても爽やかなイケメン男子です。 彼がキッカケに入るきっかけは、3.11の震災だったそうです。震災の影響で、入学式が1ヶ月遅れる事態となり、その間、多くの震災関連の報道を目にしながら、何とも言えない空虚感にさいなまれたと話してくれました。ポッカリ空いた大きな穴を埋めるように、1ヶ月後の入学式前に、キッカケスタッフになったそうです。 今回の取材は、新宿Chelsea Cafeのテラス席だったため、ブルブル震えながらの撮影となりましたが、臼井君の笑顔に、皆救われました。 ご協力ありがとうございました。 |
新宿ミロードのChelsea Cafe 撮影風景 |
http://www.youtube.com/user/douptv
(写真・イラスト:NPO法人ど・あっぷ!(DO UP!) / 文:ツッキー(築山 美樹)
★ど・あっぷに「参加したい」、「ワークショップをやってもらいたい」、「ミーティングを見てみたい」等等、どんなことでも結構です。ご興味がありましたら、是非ご連絡ください。
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佐々木彬文の「四季・色・贅・食」 第12話 カリフォルニアワインはいかが?
元町に一件のワインのお店があります。元町商店街のメインストリートより一つ山側の静かで落ち着いた通りに可愛いテーブルが2つ出ています。夕方になると明かりが灯り開店です。静かな通りにそのお店の明かりが一際きわ立って、まるで「ゴッホの絵(夜のカフェテラス)」のようです。その店は、カリフォルニアワインだけを扱っているこだわりのショップです。
共通言語は “WINE” です
カウンターとテーブル席の、数席がそんなに多くないお店です。夕方になると、いろんな国の方々が所狭しと集まってきます。オーナーのマイケルがカリフォルニア出身だからでしょうか? 初対面の方でも共通言語の”WINE”で打ち解け合い盛り上がります。小生も酔っぱらいのカタコト英語で適当に会話です。”This is はgoodなwineねっ”です(赤面) |
オーナーのマイケルとお客様 |
お店の名前は 「おばあちゃんの名前」 です
ゴッホ:夜のカフェテラス |
そうそう、これだけ勿体をつけたのですから場所の説明をしなくてはいけませんね。汐汲坂から降ってくると左 “UNION” の裏の隣、main streetからは “UNION” の裏になります。とても判り易い場所でしょう。要するに ‘UNION’ の裏手のゴッホの絵画のような明かりの溢れている店を見つけると、そこが “TOMEI’S” (トメイズ)なのです。すみません、お店の名前言うの忘れていましたでね。 綴りが少し変わっているのにお気づきですか? 英語ならtomi’esとなりそうなのですがtomei’sなのです。 これは、マイケルのおばあちゃんのミドルネームがTomeiだからなのです。Tomei’sは日本語に訳すと「トメイさんのお店」(トメイおばあちゃんのお店かな?!)となります。 Tomei’sのホームページはこちらから: |
スタッフが交代でお店を守っています
スタッフが、企画を色々考えています。先日は、「パエリア・パーティ」が行われました。特別な会費とかは無くて、店の前でパエリアを作る人がいて、出来ると皆が食べる。料金はいつも通り。何という事はないのですが、すごく盛り上がります。
スタッフのみなさん |
ギター演奏は佐々木彬文 |
奥に小さなステージがあって、そこで昼はサックス奏者が演奏していました。夜は小生がギターを演奏しました。小さなステージなのにPAも本格的です。小生が演奏をしているとステージ近くの人が一緒に歌い出します。外国人は気に入ればすぐに「アンコール」を求めます。嫌でも乗せられてしまう雰囲気です。という訳で、時々ギター演奏をしています。見かけた時はお声をお掛けくださいね。
カリフォルニアワインの shop です
時々、カリフォルニアワインの試飲会があります。会費三千円で飲み放題です。そしてアンケートに答えてもらう・・カリフォルニアワインのモニターリングをしています。早い話しが、お客さんが会費を払って、マイケルがカリフォルニアで買って来たワインのモニターをし、人気のあったワインをお店が仕入れるといった具合です。 うまいこと考える「参った!」です。トメイズはワイン・バーではないのです。カリフォルニアワインを独自のルートで買い付けに行き販売しているshopなのです。 そして、カウンターとテーブル席を作って、お店でもカリフォルニアワインが味わえるようにしているのです。ですから、お料理は簡単なもので余り手を掛けたものはありません。ドライフルーツとかチーズの盛り合わせとかなのです。 |
絵:佐々木彬文 |
そして「ワイン」 Shot glassもあります。もちろんボトルでも買えます。
お店で飲む場合はボトルの販売価格にプラス千円程度加算した額です。気楽なものです、残れば持って帰れます。
「秘密の部屋」の秘密とは?
小生は未だ利用したことはないのですが、トメイズには奥に「秘密の部屋」があります。そこで皆さんパーティーをしたりして楽しんでいます。ガラス張りのセラーの中に大きなテーブルが一つあり、一度に10人くらいは入れるのでしょうか? 「特別な部屋」です。
「秘密の部屋」では、よく女性たちだけでワインを召し上がっておられます。「女子会」の楽しそうな笑い声が漏れてくる・・・長閑(のどか)で柔らかな明かりに包まれたひと時・・・心の贅沢です。
カリフォルニアワインの shop です
この店は、「仕事の話」や「人の悪口」を酒のつまみにするようなお客さんが、お酒を飲みに来る店ではありません。プラス思考で、おしゃれな会話を楽しみ、色々な方と世間話をしたり情報交換をしたり(何か困ったことがあれば相談に来ると結構情報が集まったりするかも?)と・・・そういう人が来られます。このお店をどう利用するかは皆さんしだいです。 そうそう、このお店はお店がお客さんを選ぶのか?『入りたいのに入れない』っていうお客さん |
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結構います。そうかと思えば後ろから誰かに押される様にスーっと入ってくるお客さんもいます。不思議なお店です。
これからがこのお店はお祭りシーズンです。クリスマスにお正月に・・・と何時もの事ながら盛り上がります。皆さんもちょっとお洒落して覗きに来てみてください。小生が時々クラッシック・ギターの生演奏をしております。その時の気分で演奏しています。見かけたら、共通語のWINE語で話しかけてください。
佐々木彬文プロフィール
日本画家(彬文会主宰)
茶道講師(裏千家 佐々木宗秀)
クラッシックギター演奏者
文・絵:佐々木彬文(日本画家・裏千家茶道講師)/写真・構成:高野慈子
IKIIKI CLUBでの催しもののお知らせ
(お問合せ/お申込み:http://www.ikiiki-club.jp/)
第7回 リノベーション考
一級建築士事務所 水口建築デザイン室
水口 裕之
先日、先輩建築家の案内で関内、石川町界隈の主に店舗をリノベーションした事例を拝見させて頂く機会がありました。横浜の古い街に良くなじんだ、歴史がある味わい深い建物がうまく再生されて利用されている姿を見て、単なるスクラップアンドビルドではなくて建物を残すことを選んだオーナーや関係者にとってこの建物や場所がとても愛されているのだなと感じさせられました。
老朽化のためやむなく壊されていく歴史的な建物が多い中、決して目立たないけれど新築ではどうしても出せない風格や味わいを持つ小さなこのような建物たちがリノベーションされて、これからも横浜らしい風景の一部となって残っていくことはとても素晴らしいことだと思います。
さてこの「リノベーション」という言葉はまだ耳新しく感じる方も多いと思いますが、単なるリフォームではなく付加価値を増す大規模な建物改修という意味で使用されています。建物の用途変更まで伴う「コンバージョン」という言葉もあってややこしいのですが、このリノベーション、今、住まいを考える上での選択肢として存在感がとても大きくなってきているようです。
自分らしい個性的な家に住みたいが一戸建ての新築までは手が出ない、賃貸では自由に手を加えることが難しいし、魅力的な賃貸住宅自体が乏しいという特に若い住み手にとって、将来的な収入や家族構成まで見通せないということもあって、とても現実的で賢い住まい方としてもてはやされてきているようです。
その利点として、まず価格が安いということがあります。中古住宅の個別の価値がなかなか評価されにくい不動産流通のシステムのなかで、築年月を経た中古住宅、中古マンションは大量に余っていて、中には掘り出し物といえるお安い物件も多く存在しています。古い住宅ほど新築ではなかなか得られないような生活に便利な立地の良い場所に建っていることが多いので、住宅の広さを求めない住み手にとっては中古住宅の価値が一層高く感じられることでしょう。高度成長期からバブル期のような、一生かけて支払う住宅ローンを組んで終の住処を手に入れるという感覚は薄れてしまったようにも感じます。家族構成や将来の収入や社会保障が見通せない世代にとっては、人生のある期間をその時々のライフスタイルにふさわしい住まいで過ごしたいという、多少刹那的な意識があるのかもしれません。
価格面で言うと東京の都心などでは、面積がそこそこ広く共用空間が充実していて維持管理も行き届いた古いマンションが「ヴィンテージ・マンション」と呼ばれて逆に新築並みに高く取引されるという事例も増えてきたようです。過渡期にある今は、価値のある中古住宅を安く入手して、欧米のように手を加えることで資産価値まで増やせるという時代到来のさきがけなのだと思ってみたいところです。
私の住む横浜郊外には築50年近い古い団地が数多く建ち並んでいますが、その新築当初には一般的な家族向けとされていた50㎡前後の住戸が今では当然手狭となっていて、多く住まわれている高齢の夫婦や独居老人だけでなく独身の一人住まいや若い夫婦にとってもちょうどよい広さと言えるでしょう。水廻り設備の老朽化や、エレベーターがないなどの不便な面がありますが、大規模団地ならではの立地の良さや屋外空間、共用空間の余裕、年月を経て大きく茂った緑などの、新築にはない魅力にも溢れています。分譲団地であれば個別のリノベーションにも適した物件ですが、UR都市機構(昔の日本住宅公団)主導による大規模な賃貸公団住宅の再生計画もこれから横浜でも進められるそうで、どのように変わるのか期待したいと思います。
かくいう私の自宅も民間の古いマンションを自分で設計してリノベーションしたものです。築40年近いマンションですが自分のライフスタイルに合わせながら間取りを大きく変えたり、老朽化して不便で仕方なかった設備を新しいものに入れ替えたりすることで、予想以上にとても快適な空間となりました。
改修することを前提に手に入れて10年以上住んでからの改修となったので、この住まいの良い所悪いところを全てくまなく知り尽くしているという意味でもベストなリノベーションとなったと思います。
今後も人口減少に伴ってさらに既存住宅が余ることが絶対的な世の中で、中古住宅を資産としてうまく活用していく手立てとしてもリノベーションはとても有効だと思います。私たち建築家の設計すべき仕事としても、リノベーションの設計の機会は今後どんどん増え続けるに違いありません。
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「暮らしを大切にデザインする」ギャラリーへ
横濱元町AA STUDIOは「暮らしを大切にデザインする」17名の建築家のギャラリーです。それぞれの建築家の模型・作品写真など自由にご覧になれます。
横濱元町代官坂の中腹にあるカフェのようなギャラリーで、週末は交替で建築家がお迎えいたします。(建築家と話そう!)ホームページのスケジュールに担当建築家が掲載されていますので、カフェに立ち寄る気分で横濱元町まで建築家とお話にいらしてください。お待ちしております。
なお5回ほど私が連載して参りましたが、今後はメンバーが交替で「新しい建築とのかかわり方」を綴りますので、変わらぬお付き合いでご愛読くださいますと幸いでございます。ありがとうございました。
AA STUDIO WEB http://www.aaplan.com/aastudio/
Craftman Shop Street Motomachi http://www.motomachi-cs.com/cm/shop/shop051
青木恵美子 | http://www.aaplan.com |
新井今日子 | http://www.arai1992.com |
伊藤 寛 | http://www.ito-kan.com |
岡田 勳 | http://www.kuukantoshi.co.jp |
荻津 郁夫 | http://www.o-as.co.jp |
神田 雅子 | |
北川 裕記 | http://www.aalab.com/kitagawa/ |
栗原 正明 | http://msak.asia |
河辺 近 | http://www.ken-ken-a.co.jp |
後藤 武 | http://www.gtaa.jp |
鈴木 信弘+洋子 | http://suzuki-atelier.com |
豊田 悟 | http://home.m07.itscom.net/toyoda/ |
中村 高淑 | http://www.unit-h.com |
藤本 幸充 | http://www.kamakobo.com |
松井 理美子 | http://www.matsui2ar.com |
水口 裕之 | http://homepage1.nifty.com/eau/ |
山口 賢 | http://www.amarterrance.com |
ヨコハマ・ディスコグラフィティー 第7回 フォークと日本語のロック その3
HEART&SOUL代表 原 正行 1958(昭和33)年9月7日横浜生まれ、12歳よりギターをはじめ17歳からミュージシャンとして活動。39歳の時に念願だったライブハウスを開業、現在は関内駅北口駅前に60年代から80年代の洋楽ヒット曲を演奏するライブハウス、ハート&ソウルの経営者。他にもミュージシャンとして演奏活動、作曲、プロデュース等、幅広く活動している。 |
第2章 横浜、街と風(3)
初恋
中学1年が終り、2年になると同時に港南中学は笹下中と2つに分かれることになりました。この時、悲しい別れが待っていたのです。1年の秋同じクラスで演劇部だった女の子が文化祭の“夕鶴”という劇で主役の鶴の化身“おつう”を演じたのです。1年で主役なのもすごいですが、ストーリーは助けた鶴が美しい女の姿になり恩返しに男に嫁ぎ自分の羽根をちぎり機織りをします。その姿を見られたらもう人間の姿ではいられなくなる。見てはいけない姿を見られたとき一人で「なぜあなたはみてしまったの? もう私は帰らなければいけない」と長せりふを一人で語る場面があるのですが、これが素晴らしい演技で、これにいたく感動してしまいこの女の子に夢中になってしまいました。今思えばこれが初恋、彼女は分校に行く事になり、藁にもすがるつもりで文通をお願いしましたが、当時の自分には何を書いてよいのかまったく解らず結局2回ほどで終わってしまい淡い想いとともに消滅してしまいました。中一ですよ、ませガキでした。
熱血先生
2年生になるとクラス編成があり私のクラスは2年2組。今思えばこの一年が私の人生において1番楽しく充実していた学生生活でした。担任は谷先生と言う女性。金八先生を女にした様な熱血一直線。何事にも真剣で熱い人で生徒を叱るときにはたとえ女の子であろうとも平手が飛びましたし、いつも涙を流して僕らを叱りました。又、個性的な奴が多かったので、反抗期だった我々を相手に、先生は本当に大変だったと思います。時代だったのでしょう。テレビでも熱血先生をテーマにしたドラマが多かったし、(これが青春だ、青春とはなんだ、等)あのぶつかり合いが1生の思い出になったり、生徒の人格を作ったりするのだと思います。あんな熱血先生も最近は見かけることは少なくなったんではないでしょうか、寂しい限りです。
2年2組
クラスは6人づつ班に分かれ、各リーダーが選ばれいろんな活動をするのですが、何ヶ月かに1回、ミュージックフェスティバルと言うのをやることになりました。その1回目、同じクラスに何人かギターを弾く子がいて、Iさんという女の子が拓郎の“ともだち”を弾き語りしました。これには驚き、他にも何人か上手いのがいて、これには刺激され、ひたすらギターの練習に励みました。他のクラスは、ギター持込を禁止されている所もあったようですが、2組は自由だったので、気がつけばクラスの3分の1位はギターを持っていたようでした。テレビジョッキーと言う土居まさるが司会の番組で、素人が芸をやって受けると、白いギターをもらえるというのもあって、ブームだった様です。同級生がよく持っていたのはヤマハ、ヤイリ、一番多かったのはモーリスのフォークギター。1万2千円くらいのやつでした。私はやりませんでしたが、女の子や軟派な奴は、ネックの先にマスコット人形なんかぶら下げてましたね。
学年行事の文化祭の合唱コンクールなども2組は異常に盛り上がり、クラス一丸となって朝早くから遅くまでパートごとに分かれて猛練習! 遠い記憶なので優勝できたかどうかは定かではないですが、目標に向かって仲間達と一生懸命頑張った場面場面が、今でも心に残っています。勉強は相変わらずまじめにやらなかったので、成績はひどい結果でしたが、この中学2年の一年間で多くのものを学びました。
フォークと日本語のロック その3(’70~’73のフォーク)
吉田拓郎
フォークジャンボリー以降、フォークの流れは社会的メッセージ性の強いものが受けなくなり、より身近なことや自分のことを歌うものが主流になって行きます。やはり先頭を切っていたのは吉田拓郎で、今で言うインディーズだったエレックレコードからスタートした拓郎は、1971年1月に大手のCBSソニーに移籍、そこで出したシングル『結婚しようよ』が大ヒット。これ以降、一躍メジャーになりフォークのプリンスと持てはやされます。そして続く『旅の宿』がフォークとしては空前の60万枚を売る大ヒット。押しも押されもせぬフォーク界の第一人者となります。拓郎は一度、テレビのリブヤングに出演、4曲歌いますが、これ以降テレビ出演を一切拒否。テレビに数多く露出し売っていくというそれまでの歌謡界の常識的なプロモーションを行わず、ラジオのDJとコンサート活動によって、プロモーションしていくという手法をとりました。その理由は色々ありますが、まずテレビサイズに曲を短くされる事、1曲で自分を判断してもらいたくない事、当時からこれは拓郎が常々言っていた事です(有名歌手H、A、が嫌いだったからという説もありますが、、)。又、シングル中心で売るのが主体だった歌謡界に、アルバム主流で売ってゆくスタイルをとりました。これが当たり、アルバム『元気です』は、40万枚の売り上げを記録。拓郎以降、ミュージシャンのテレビ出演拒否やアルバム主体の活動が、様々なミュージシャンに受け継がれて、テレビに出ないのがかっこいいという風潮まで生まれていきました。
エレック
この当時のほかのフォーク歌手を見てみましょう。拓郎がいたエレックレコードは様々なアーティストを輩出しています。まずなんといっても泉谷しげる。そのデビューは強烈でした。『黒いかばん』などコミックがかったものもありましたが、やはり『春夏秋冬』は名曲でした。古井戸は、『さなえちゃん』が大ヒット。『通りゃんせ』の佐藤公彦(ケメ)、後に『どうぞこのまま』で有名になる丸山圭子、武田鉄也の海援隊などががここから出ています。
他にも、拓郎の広島フォーク村の影響で各地にフォーク村が生まれ、当時返還されたばかりの沖縄フォーク村が話題になり村長の佐渡山豊などがエレックからデビューしました。
RC、GARO
片や、メジャー系からも沢山のアーティストがうまれます。TBS系の「ヤング720」のオーディションで出てきたのがRCサクセション。最初は、フォークギターにウッドベースのフォークスタイルで『僕の好きな先生』がヒット。RCの事務所はホリプロでしたが、後年、移籍後に古井戸の仲井戸麗一(チャボ)と組み、ロックスタイルになりご存知の通りになります。
ガロは田辺エージェンシー、かまやつひろしのバックバンドでしたが、71年デビュー。同年1stアルバム発売。このときは、メンバーの手による作品が殆どで今聞いても普遍の名作です。しかし、事務所の方針からか、2枚目からは、洋楽の日本語カバーや職業作家の作品が入るようになり、3枚目のアルバムからカットされたシングルB面の『学生街の喫茶店』が有線放送からじわじわと火がつき大ヒット。拓郎以降、テレビ拒否が多い風潮の中、ガロは頻繁にテレビ出演し、フォークアイドル的な存在になり、これより先は職業作家の作品を主体に歌うようになっていきヒットも生まれますが、’76年には解散。私として彼らのオリジナル主体でやっていたほうがグループも長続きしたのではと勝手な想像をしています。
かぐや姫、陽水
’70年、南こうせつとかぐや姫も登場! かぐや姫は、当初こうせつ以外は違うメンバーで結成され、テレビの全日本歌謡選手権に出場。4週勝ち抜きますが、5週目に辞退。彼らに辞退を決意させた歌手、三谷謙は、その後10週勝ち抜き、五木ひろしと名前を変えています。デビュー後、数枚のアルバムを発表後メンバーチェンジ、’72年、拓郎の助けを借りて作られたアルバム『はじめまして』が4万枚を売り上げ、翌、’73年には、『神田川』を大ヒットさせます。こうせつは、マイナー調の曲に独特の日本的哀愁を帯びたメロディーを持っています(『加茂の流れに』、『夢一夜』など)。又、メンバーの伊勢正三も初めて書いたと言う『22才の別れ』や、『なごり雪』などいくつもの名作があります。’75年解散、短い活動期間でした。こうせつはソロ、伊勢は風を結成し活動します。
井上陽水はすでに’69年にはアンドレ・カンドレの名でデビューしていましたが、泣かず飛ばず。CBSソニーから井上陽水で再デビュー、『傘がない』などで注目を集め’72、『夢の中へ』が大ヒット。’73年にはアルバム『氷の世界』がアルバムにおいて日本史上初のミリオンセラーを記録。フォークがメジャーになった瞬間です。陽水の魅力はなんといってもやはり歌詞の良さにあると思われます。
傘がない
『傘がない』の歌詞に、「都会では自殺する若者が増えている、今朝来た新聞の片隅に書いていた、だけども問題は今日の雨、傘がない」というのがあります。社会問題よりも今大切なのは自分の事(傘がないこと)だと言うのです。ほんの4,5年前まで、岡林たちがあんなに社会問題に対するメッセージを送り続けたフォークがすっかり方向転換してしまったことを見事に表現しています。学生運動や安保、成田で権力に押さえ込まれた若者達が絶望感やあきらめの境地から社会問題に少しづつ関心をもてなくなっていったということなのかも知れません。「モーレツからビューティフルへ」、「無関心、無感動」、「ナンセンス」、「しらけ」など、この頃はやった言葉も、物事に前向きに取り組むことが虚しいとか白けるとかいった風潮を表しています。そんな時代の若者が、親になり孫ができると言う時代。夢を持てない人が多いと言われる現代。もう一度原点に返る事もありかなと考えます。
以下次号につづく
(HEART&SOUL代表 原 正行)
HEART&SOUL
〒231-0014 横浜市中区真砂町3-33 CERTE11階
営業時間
平日:OPEN 19:00 CLOSE 4:00 LIVE START 19:50~
休・祝日:OPEN 18:00 CLOSE 24:00 LIVE START 18:40~
TEL:045-664-5569
JR関内駅徒歩より1分
地下鉄関内駅より徒歩1分
Websie http://www.heartandsoul-live.com/
めぐりあいて 見しやそれとも わかぬまに 雲隠れにし 夜半の月かな
♪めぐりあいて 見しやそれとも わかぬまに 雲隠れにし 夜半の月かな♪
絵・千絵崇石 |
読み人:紫式部 (むらさきしきぶ) 現代語訳・・・久しぶりね!本当に貴方なの?だいぶ合わなかったから一瞬分からなかったわ。その上月が雲間に隠れるように早々に帰ってしまって・・もっと話がしたかったのに。 早苗ネネの「和歌うた十周年コンサート」に足を運んで下さった地元横浜の皆様。有難うございました。お陰さまで無事に終わることが出来ました。 |
プロジェクターのアクシデントがあって数曲映像をお見せできない事態がありましたが、それでも皆様とても満足して帰って頂けてホッとしております。このヨコハマNOWの紙面をお借りして心よりお礼を述べさせていただきます。本当に暖かいご声援をありがとうございました。
和歌は日本文化の根幹にある宝物です。歴史を紐解けばそこには大陸からの渡来人が作ってきた古代社会がありますが、それらの異文化が日本列島の中で融合して一つの情緒とも言える感情的思考を生み出しました。それが大和という言葉に代表される民族意識です。日本と言う国の礎に絶対に必要だった言葉の文化が、和歌と言う美しい織物として残されています。これから又五年十年と和歌を歌い続けて参ります。やっと少し形になってきました「和歌うた」というジャンルがいつか日本の謡曲の中で小さな席を頂けるように・・・
さて・・先日、京都にある紫式部のお墓にお参りに行ってきました。自分が歌っている歌人の墓前で歌わせていただくことへのご挨拶をしよう!と機会を見つけてはお墓参りを続けていますが、いかんせん千年以上前の方々なのでお墓が明確に残っているのは皇室関係の方々ばかり。一般の歌人はあまり知られてはいません。もしくは小野小町の様に有名過ぎて日本全国に彼女のお墓と言われる場所があって何処へお参りしてよいやら迷ってしまうケースもあります。そんな中で比較的このお墓は信憑性がありそう、という京都、堀川鞍馬というバス停の近くにある紫式部のお墓まで、大阪でのコンサートの合間に足を伸ばしました。 |
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お墓の前に立ってご挨拶のあと歌いだします。 ♪めぐりあいて~見しやそれとも~♪ すると突然さわさわっと風が吹いて故人が喜ばれているのを感じました。
実は私はこの百人一首に残されている紫式部の歌にいつも、なんでこの歌が選ばれたんだろう?もっと源氏物語を書いた作者としてインパクトのある歌が沢山あるのに。と思っていました。日米ハーフの友人が「授業中、世界でもっとも古い大河小説は源氏物語と習った」と言う様に、世界的にも有名な源氏物語の作者、紫式部の和歌としていつも物足りない様な気持でいたのです。それがお墓参りをした後に、なんとなく百人一首選者の藤原定家は等身大の紫式部を皆に知らせたかったのかもしれない、と思えるようになりました。きっと定家が生きていた頃はもう「源氏物語」は有名で紫式部は超才女として定評が固まっていたのかも知れません。お墓参りをした後に紫式部と言う女性のエッセンスが今まで私が思いこんでいたきらびやかな才能あふれる女性と言うよりは、さらっとしたバランス感覚のある知的で成熟した女性。という風に変わりました。彼女は自分の名声には惑わされない地道な平静心を持っていたような気がします。それが紫式部の良さかもしれない。と思ってこの歌を読んでみると、藤原定家の気持ちがわかったような気がします。あまりにも大きくなりすぎた紫式部という女性の一番等身な側面を選んでみたのかしらって。
(早苗ネネ♪)
6時30分~ 3回ステージ ¥5500ワンドリンク付き 入れ替えはありません。
出演:早苗ネネ パリ祭出演の歌手の方々2~3名。
新宿シャンパーニュ 電話 03-3354-8540(昼) 03-3354-2002(夜)
新宿一丁目。元新宿厚生年金前。http://www.champagne-live.com/
1.スターピープルVOL41から「女性性のパラダイムシフト」というタイトルで連載寄稿しています。
早苗ネネさん プロフィール
木々や鳥や魚や精霊…人間以外の存在達との交流が当り前に語れるくらい、いのちのひろがりに気づくと、共に生きている喜びや、苦しみや悲しみにもナイーブになる。
心と野生がひとつながりになると……こんな風に人は年を重ねられる。ひとりひとり、ユニークにもっと自分になれる。
早苗 Nene さんは、そういう人生の先駆者です。 感性を解放しながら、40代で高校生に仲間入り卒業後、マウイのカレッジに留学中、突然半生記が受賞しました。
そんな新たなシーズンを迎えて、今エッセンスを分かち合いたい。
<天性の歌い手>というだけでなく、その存在感、溢れる活性のバイブレーションは、光のシャワーのよう。彼女と語り歌い、魂の成長を旅している現在の、自分の位置を確かめてみませんか?
「本物の食」と「食の知恵」を求めて。 磯村家のキッチンから代表 磯村恵子さん
横浜駅から「本牧車庫行」のバスに乗り、元町のトンネルを過ぎると「麦田町」という停留所があります。停留所の近くに「磯村家のキッチンから」という名の小さなお店があります。そこで売られているのは「本物の食」と「食の知恵」。もちろん完全無添加。国産素材の美味しいジャムや手作り食品とこだわりの塩が売られています。今回はフードナビゲーターの磯村恵子さんに「手作りの素晴らしさ」をお話いただきました。
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一人の先生との出会いが人生を変えました
それまでは専業主婦でした。40代の後半に『病気にならない方法があります』という一人の先生と出会いました。予防医学という考え方が無い頃でした。 医学書や「糖尿病の本」「高血圧の本」と、病気になってしまった人が読む本はたくさん出ていました。 しかし、「どうしたら病気にならないのだろう」という私の疑問「どうしたら」に答えてくれる本はありませんでした。その先生を訪ねて行き、10年間「健康管理」について勉強しました。その間に、「食べる」ことの大切さを学びました。
まず、食生活を変えました。野菜中心の食生活にしました。息子は成人して独立していて、夫と二人暮らし、食事を変えるのは簡単だと思いました。ところが、夫からは「俺はうさぎでないぞ」って言われるし・・・そう言われないように、料理を工夫しました。野菜だけの料理は、手を抜けば味気ないものになってしまいます。テーブルの上には、サラダや煮物、野菜炒め、おひたし、野菜の天ぷらと・・・見た目の満足感を補うに足りる程のお料理を作りました。また、「陸のもの」「海のもの」のバランスに気を配りました。その結果、塩や昆布にこだわりを持つようになりました。
野菜中心の食生活の中で、甘党の私の欲求を満たすために、生クリームやバターを使わないお菓子を作りました。 お菓子は、小豆を煮てあんこにしたものを作りました。やがて、あんこの味に飽きてしまったので果物を煮てみようと思い、橙でマーマレードを作ったのが「ジャム」を作るきっかけになりました。
当店の「ジャム」は、砂糖の他に塩と昆布を使います。それは「果物を煮てみよう」と思ったことと、「海と陸」のバランスが取れた食事を常に心がけていたからです。パンに塗る「ジャム」だと思わず、「果物の煮物」だと思っていただけると使う範囲が広がります(そのまま食べても美味しいですよ)。
運動をすれば「足がつる」とか、マッサージを受けることが多かった夫の体調が良くなって、野菜主体の食事に対する文句が無くなりました。2週間続けばよいと思って始めた食生活の改善は、現在も続いております。稀に肉料理が食べたくなり、作ることもありまが・・・舌が食べたがっているのだと分かります。体は欲しがらなくなりました。無理強いをせずに続けること、「続ける」ことが大事だと思います。
『磯村家のキッチンから』の誕生秘話
ジャムを作り始めたのは50代に入ってからです。自宅で食べきれない程のジャムが出来てしまい、近所の方におすそ分けしていたところ、喫茶店を出している友人が「お店で売るわ」と言ってくれたのが始まりです。
旬の果物を砂糖と塩と昆布で煮た「ジャム」は、味が良いと評判になり有名デパートに置けるようになりました。『磯村家のキッチンから』という名前も友人との交流の中から生まれました。瓶のデザインも友達のデザイナーが引き受けてくれました。営業のノウハウも知らなかった私ですが、友人に助けられて「磯村家のキッチンから」が誕生しました。
磯村家のキッチンから お店の外観と店内の様子
週末は群馬県に野菜作りに行っていました
健康管理することは「安全なものを食べること」です。ところが、過度の農薬依存により安全な野菜が見つからず、友人4人と群馬県で野菜作りを始めました。1997年のことです。週末になると群馬の畑に行きました。
「磯村家のキッチンから」を始めて、商品を作ること、営業に回ることに忙しくなり、群馬県まで野菜作りに行くのが難しくなって、畑は手放しましたが、今でも、この野菜作りでお世話になった群馬県の農家の方々に助けられ、安全で旬な野菜や果物を手に入れることができるようになっております。イチゴは、ミツバチ受粉をしている農家さんから、化学肥料を使わないブルーベリー農家さんともお付き合いが続いています。
神奈川の素材も素晴らしいものがあります。お客様から「地元神奈川産のもの」を作って欲しいというお声があります。神奈川のお土産として、高島屋7Fの「ヨコハマ・グッズ横濱001」のコーナーに当店のジャム2種が出ています。
ここで『磯村家のキッチンから』のジャムの歳時記です。
1月は橙(千葉)。2月はネーブルオレンジ(神奈川/二宮)。3月は夏ミカン(千葉)。4月はイチゴ(群馬・神奈川/平塚)。5月はルバーブ(群馬・神奈川)。6月は梅(神奈川)。7月はもも(山梨)ブルーベリー(神奈川・群馬)あんず(長野)。8月はネクタリンとプルーン(長野)。9月はいちぢく(千葉)ドラゴンフルーツ(徳之島)。10月が赤いリンゴ(青森)。11月がジンジャーのリンゴ(群馬)としょうが(神奈川・静岡)。12月は柚子(横浜) 洋ナシ(長野)と続きます。その間、美味しい旬の物が手に入れば、即日ジャムに加工します。
今、人気なのは赤~いリンゴジャムです。青森で中も赤いリンゴが出来たと知って産地まで飛んで行きました。電話での照会が多い中、本人が直接来たのは一人だったと即取引が成立し、「赤~いリンゴジャム」になりました。
青森産の中まで赤いリンゴ |
ジャムに加工前のリンゴ(花弁の様です) |
現在、野菜作りは戸塚に畑を借りてやっていますが・・・忙しさにかまけると雑草が伸び放題になり、草刈り機と格闘しています。昔取った杵柄とでもいいましょうか? 草刈り機の操作は若い人には負けません(笑)
海の陸とのバランスが、食生活のバランス?
陸上の汚れは、雨に打たれ、川に流れ込み、汚れた水は海へと集められます。海は含まれている塩分と、波が取り込む酸素で汚れを浄化していきます。そんな自然の営みを人工的に出来ないかしらと考えたのが『病気にならない方法があります』の先生でした。その理論が素晴らしいので実践してみようと思ったのが曝気(バッキ)洗浄です。『磯村家のキッチンから』は使われている食材の全てに「塩」と「酸素」で洗う「バッキ洗浄」を行っています。
【バッキ洗浄】 動画で見る食品洗浄イソバッキー
使う塩は、オーストラリアの島でとれた塩です。島全体が塩田で2年間かけて天日干した塩を、沖縄の精製所で汚れを取り除いて作っています。
『磯村家のキッチンから』のジャムは「果物の煮物」といった観点から作っています。 美味しさの秘密は、砂糖と塩と昆布を使うことです。塩はご紹介したもの、砂糖は沖縄のサトウキビから灰汁を除いたもの、昆布は道南産(根室が主)のものを使っています。食の中に「海と陸」のバランスを作ること、安全な食材を使うこと、旬な素材にこだわること、食材の汚れを安全な方法で落として使うことが『磯村家のキッチンから』皆さまにお伝えしたいことです。
11月のジャム:ジンジャージャム
紅茶やお湯で割って温かい飲み物にしてもお味噌に混ぜて、生野菜と一緒に食べてもドレッシングに加えても、ソースにしても体を芯から温めます。
磯村家のキッチンから外へ向けて発信しています
従業員は、パートさんが一人います。 安全にこだわった食づくりに関心のある人で、ホームページやfacebookなどで当店の活動を紹介してくれています。
平日は、販売をしながら、産地から届いた素材を加工しています。土日は、外へ出ていくことを積極的に行っています。六本木アークヒルズや代々木公園など・・・東京が多いのはイベントの数が多いからでしょう。もちろん、横浜でもtvkの収穫祭、横浜ビールの収穫祭、日曜市などのイベント等に出て行っています。
イベント参加は、「売れる売れない」よりも(もちろん売れたら嬉しいのですが)いろいろな情報が入ってくるのが目的です。イベント参加は準備などが大変なので、義務だったらやれません。 仕事が好きなのです。限られた時間の中で、じぃ~としている時間がもったいないと思うのです。
本牧地区センターでは「シルコト」という教室を開いております。食材の選び方、洗い方、調理のしかた、食べ方・・・母から子へと伝わってきた日本の食文化が途切れてしまった今、おばあちゃんやおかあさんに代わって伝えられたらと思っています。
本牧地区センターアクセス:http://www.honmoku-ac-seikosha.com/access/index.html
2013年1月~11月には八洲学園大学で第4水曜日の10:00~12:00(一部変更あり)に『食の寺小屋』という講座を開きます。
八洲学園アクセス:http://www.yashima.ac.jp/univ/information/access.php
大震災後の特記すべきことは、「食の安全」に関心が高まっているということです。以前は定員に満たなかったこのような講座も人気が出てきております。それだけ皆さんの関心が高いのだと思うと、伝えていく責任を感ぜずにはいられません。
磯村恵子さんにとっての横浜とは金沢区の生まれで、子供の頃は横浜の海で泳いでいました。育った場所は海と陸のバランスのとれた土地でした。父母も横浜生まれ、私も浜っこ、そして息子も横浜で暮らしています。この横浜が、これからもずーっと安心して暮らせるまちであり続けて欲しいと願っております。 私にとっての横浜は、「心のふるさと」です。 |
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「ヨコハマNOW」で「磯村家のキッチンから」様の商品のご購入ができます。
ご購入はこちらからです。
磯村家のキッチンから「ジャムギフト」2個セット
磯村恵子さんのセミナー情報
(インタビュー・写真:高野慈子)