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10月 10 14

書評 「富と成功をもたらす7つの法則」 大和出版 ディーパック・チョプラ 著

by staff
 

「人生の本質」という本を古本屋で手に取った。それは私の生き方をかえるのではないかとの予感がした。しかしなかなか読みにくかった。なにかいい手掛かりがないかと探していて、同じディーパック・チョプラさんのこの本にであった。

何をしたらいいのか、どう行動したらいいのか?のヒントを七つの法則としている。

第一は純粋な可能性の法則です。
毎日沈黙の時間をとって、ただ「在る」ことによって、純粋な可能性の場につながります。また朝30分、夕方から晩にかけて30分、一人で静かに座って瞑想します。
「すべての創造の源は純粋意識です。私たちが、真の “自己” とはその純粋な可能性の一部であると気付くことその時宇宙の中ですべての物事を実現させているパワーと手を組むのです。」

第二は与える法則です。
今日私は、出会うすべての人に何かを与えることによって、自分の人生と他の人の人生の中に、喜びや、富や、豊かさをめぐらせるプロセスを開始します。今日私は、生命が与えてくれたすべての贈り物を喜んで受け入れます。陽の光や、鳥のさえずりや春雨や、初雪などの自然からの贈り物を受け取ります。他の人からの贈り物をーそれが物質的なものでも、お金でも、ほめ言葉や祈りの言葉でも関係なくー受け取ることを躊躇したり、遠慮したりせずにオープンになります。
「宇宙は力の交換をつうじて作用しています。与えることと受け取ることは宇宙の中のエネルギーの流れの異なる側面です。自分の求めるものを他に与えることによって、宇宙の豊かさが私たちの人生の中でめぐりつづけるのです。」

第三は原因と結果の法則です。
選択するときはいつでも、自分自身に、私が行うこの選択の結果はどうなるだろう?
私が今行っているこの選択は、じぶんと自分の周囲に満足や幸せをもたらすだろうか?
という二つの質問をします。
「一つ一つの行動が、エネルギーを生成し、似たようなものを返してきます。・・・私たちは自分が蒔いた種の結果を刈り取るのみです。そして、私たちが他の人に幸せや成功をもたらすような行動をとるとき、その行動のもたらす果実も幸せと成功なのです。」

第四は最小限の努力の法則です。
自分のおかれている状況や、自分が問題だとおもっている出来事に対して「責任」を持ちます。私は責任をもつということは、自分がおかれている状況に対して、誰のことも何事も非難しないことを知っています。私はまた、一つの問題は “チャンスが変装したもの” であること、このチャンスにたいする油断のなさがこのチャンスの瞬間を捉え、より良い状況や物事に変換させてくれることを知っています。
「苦労しなくてもこうして自然に叶う。自然の知性は努力することなしに機能しています。・・心配したりせず、ただ調和と愛とともに。そして、私たちがこの調和や喜びや愛の力を使うとき、楽に、努力せずに、成功や富を作り出すことができるのです。」

第五は意図と願望の法則です。
自分の願望をすべて書き出します。この願望リストをどこに行くにも持っていき、沈黙や瞑想に入る前にこの願望リストに目をとおします。夜寝る前にもこの願望リストをみます。朝起きたら、この願望リストを見ます。
「宇宙の“無限の組織力”をどう活かすか? 一つの意図や願望に備わっているものは、それ自身を叶えようとする力学です。・・純粋な可能性の場において、意図と願望には無限の組織力があります。そして私たちが純粋な可能性という肥沃な大地に“意図”を植えるとき、この無限の組織力が私たちのために働いてくれるのです。」

第六は手放す法則です。
今日私は、執着しないでいることを自分に約束します。私は、自分と自分の周囲の人々が、あるがままでいられるようにしてあげます。物事がどうあるべきかという自分の考えをかたくなに押し付けたりしません。問題を無理に解決しようとして、新たな問題を作ったりしません。私は、手放した状態ですべてのことに参加します。
「執着しないほうがうまくいく。手放すことは不確実性の英知にもとづいています。・・不確実性の英知は、過去からの自由、既知のものからの自由、つまり“過去の制約”という牢獄からの自由にもとづいています。そして私たちが未知のもの、すべての可能性の場に足を踏み入れようとすることは、宇宙全体のダンスを指揮している創造的な心に身を任せることなのです。」

第七は人生の目的の法則です。
毎日自分に“どうすれば役にたてるでしょうか?”“どうすれば人の助けになるでしょうか?”と質問します。これらの質問の答えは、仲間である人類の役に立ち、愛情をもって奉仕できるようにしてくれます。
「自分にしかない才能を活かして生きる。誰にも人生の目的があります。それは、それぞれもって生まれた独自の素質や特別な才能を他の人たちに与えることです。そして、私たちが自分の独自の才能を他の人たちへの奉仕と混ぜ合わせたとき、私たちは、すべての目的のうちの究極の目的である、自分のスピリットのエクスタシーと歓喜を経験するのです。」

チョプラ博士はサンディエゴに「チョプラセンター」を持っている医学博士です。

(文:横須賀 健治)

 

 

10月 10 14

第23回 どあっぷ 「『ワダヨコ』を取材」

by staff

みなさんこんにちは!
シチズンシップ教育の普及をめざすために活動している、NPO法人ど・あっぷ!です。
このコーナーでは、市民度の高い人や団体を、ど・あっぷ!が勝手に紹介します。
記事の最後には団体のFacebookページのURLやTwitterのアカウント名も載せていますので、ぜひぜひそちらもチェックしてみてくださいね!

 

「ど・あっぱーず☆見つけ隊」vol.14
横国のまちづくり学生団体「ワダヨコ」

今回は、横浜国立大学の学生団体「ワダヨコ」さんをご紹介します。
ワダヨコとは、横浜国立大学のある和田町(横浜市保土ケ谷区)のワダと横国のヨコをつなげた名称で、もとは、まちづくりを考える建築学部の学生達が7年前につくった団体です。
その名の通り、和田町の商店街や町内会の皆さんと深く関わり合う、地域密着の活動を展開しています。

相鉄線和田駅を降りて帷子川を渡ると、そこから約300m、和田町商店街が続きます。
取材に伺った日は休日だった事も手伝ってか、商店街は閑散としたちょっと寂しい雰囲気。飲食店も少なく、いわゆる学生街の面影はありませんでした。
横浜が誇る国立大学のある街なのに、ちょっと残念~というのが、私の第一印象でした。

そんな和田町だからでしょうか、学生が街に飛び出し、商店街を中心に、学生と住民が交流するきっかけの場や、イベントをつくる活動がはじまりました。それが「ワダヨコ」です。
活動は、もう7年間もつづき、今では和田町の人で、「ワダヨコ」を知らない人はいないと言われるほど、地域に根付いた無くてはならない存在になっているようです。

取材を受けてくださったのは、ワダヨコ寺子屋班班長 藤原暢之さん。学校の先生を目指す教育人間科学部の4年生です。とてもわかりやすく、魅力的にワダヨコをご紹介してくださいました。

まず、ワダヨコには立派な街の活動拠点があります。
商店街のメインストリートから、少し入ったところ。静かな住宅街に旧町内会館だった古い建物があります。ここを無償で借り受け、学生達で改造し、様々なサービスを提供しています。
中に入ると、横国建築学部の学生さん力作という木の棚や椅子が、ちょっと懐かしくレトロな雰囲気をかもし出して、不思議ととても居心地が良く、用がなくてもつい立ち寄りたくなるような、そんな空間でした。

 

(クリックで拡大画像)

ワダヨコ寺子屋班班長 藤原暢之さん
ワダヨコ寺子屋班班長 藤原暢之さん

ワダヨコ外観
ワダヨコ 外観

ワダヨコ内部
ワダヨコ 内部

ワダヨコ棚
ワダヨコ 棚

私が子どもだったら、絶対行く!

ワダヨコの主要活動の一つに「寺子屋」があります。子どもが学校帰りに立ち寄り、大学生に勉強を教えてもらったり、遊んでもらったりする場です。毎週月曜日16:00~18:00にオープンしています。

全国的な傾向ですが、子どもの放課後の過ごし方が、実は今、とても深刻な問題になっていると聞きます。横浜にはハマっ子や学童などありますが、それぞれ一長一短あるようで、どこに通わせるかを、親御さん方は真剣に悩んでいるようです。
「そんなの外で勝手に遊ばせとけばいいじゃない」とおっしゃる方もいらっしゃると思いますが、学習の問題でも、遊ぶ場所の問題でも、治安の問題でも、子ども達の取り巻く環境は、私たちが子どもだった頃とは大きく変化していて、子ども達が自由に過ごせないのが現状です。

そんな中、ワダヨコのように、子どもが集まり、大学生が面倒を見てくれるサービスは、ニーズが高いのではないでしょうか? しかも横浜国立大学の大学生が!しかも無償で!
私が小学生だったら、大学生のお兄さんお姉さんに会えるだけでもワクワクして、「絶対通う!」と思いますし、子どもの親なら、「こんなお得なチャンスを逃すまい!」と思うと思います。

残念ながら、週1回のオープンですが、大学生は毎回4人程が来てくれるそうです。対象は小~高校生とのことですが、やはり小学生の利用が一番多く、毎回5~15人程の子ども達が集うそうです。

本好き集まれ! ユニークな図書館

また今年の4月にオープンしたのが、「古本図書館」です。施工班が企画・運営しています。
街の人から、いらなくなった本をもらい受け、ワダヨコに並べて図書館にしています。
開館時間は、毎週土曜日13:00~18:00。誰でも利用できるのだそうです。
また、自分の古本を持参すれば、、図書館内の好きな古本と交換してくれるユニークなサービスもあります。
いらなくなった古本の寄付も受け付けているそうなので、おうちに処分したい古本がある方は、ご連絡してみてはいかがでしょう?
連絡先:wadayoko2011@gmai.com

HP: http://ameblo.jp/wadayoko2010/.
Facebook: facebook.com/wadayokochan
Twitter: @wadayoko_twi

イベントもおまかせ!

寺子屋班、施工班、と並び、企画班があります。
これは大学内と街の様々なサークル同士がコラボして、新しいイベントを企画する活動をしています。
これまでに、陶芸、美術、アカペラ、手芸など、数々のコラボが実現しています。
街の人達にとっても、活動を発表する場ができるだけでなく、若い大学生とのコラボで、サークル内に新しい風が吹き込まれ、気持ちも新たに、モチベーションのアップや新しい事へチャレンジする力が生まれているのではいでしょうか。

編集後記

今回の取材を終え、大学生が街に飛び出す事への期待感が高まりました。
試行錯誤を繰り返しながら、大人にはない発想力と行動力で街に色合いをどんどん加えていく。そんな姿が、和田町にはありました。
是非、今後も、この素晴らしい活動を継続して続けていって欲しいと思いました。
「ワダヨコ」応援しています!

ど・あっぷTV

ワダヨコの詳細が動画でわかりますよ!是非こちらもご覧ください。


http://www.youtube.com/user/douptv

(写真・イラスト:NPO法人ど・あっぷ!(DO UP!) / 文:築山 美樹)

 

★ど・あっぷに「参加したい」、「ワークショップをやってもらいたい」、「ミーティングを見てみたい」等等、どんなことでも結構です。ご興味がありましたら、是非ご連絡ください。

ど・あっぷへのお問い合わせ form1.fc2.com/form/?id=161559
ど・あっぷHP www.citizendoup.com/index.html
日々のど・あっぷ ブログ 「ど・あっぷVOICE」 doupblog.blog123.fc2.com/
「ど・あっぷ!」Facebookページ www.facebook.com/doup.doup.doup

 

10月 10 14

本牧ラプソディ(第4回) ホンモクDNA

by staff


 
 

 

サロン・アカデミー「sho & jeric」チーフベリファイア 久留原 昌一郎

PROLOGUE 連載に寄せて

初めに。
来年古希を迎えるにあたり、私の人生の起点となった横浜本牧での体験やエピソードを寄稿すると共に、21世紀を担う皆さんに本牧スピリットを伝えて横浜発展のお手伝いが出来れば幸いです。

 

本牧ラプソディ(第4回) ホンモクDNA

現在日本人美容師は世界での評価は高く、アメリカ、カナダ、ヨーロッパ,アジア,南米、オーストラリア、ニュージイランドと多くの先輩、後輩達が活躍しています。
日本の伝統である“匠”常に向上心の技術と“おもてなし”の接遇の“Japan Standard”を生かしてお客様の満足、笑顔を追及している結果と思います。
今回はアジアで活躍している後輩を照会いたします。

鈴木大輔さん(東京出身)

日本でスタイリストデビュー後に英国ロンドンにある世界的に有名なヴィダル・サッスーンアカデミーで学び、その後ロンドン市内でサロンワークを経て帰国途中でインドの有名な霊能者サイババのアカデミーでマレーシア人のAiさんと出会い結婚されて現在はマレーシアの首都クアラランプール市内でサロン経営の傍ら日本の美容製品メーカーの専属講師として現地の美容師達にJapan Standardを伝えて高い評価を得ている若手美容師さんです、私が関わっています英国の職業教育機関(NVQ)の認定講師です、今後の活躍が期待されています。

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本牧ラプソディ ホンモクDNA 鈴木大輔さん  

本牧ラプソディ ホンモクDNA 鈴木大輔さん  

本牧ラプソディ ホンモクDNA 鈴木大輔さん

河口哲也さん(東京都出身)

日本でスタイリストデビュー後当時のお客様がインドの紹介でインドのサロンでサロンマネージャーとして活躍後、私の紹介でシンガポールで有名な“Jeric”グループ(オーナーのJeric Seeは私のビジネスパートナー)参加しスタイリストとして活躍されて現地のお客様より多大な評価得てその後グループのFCオーナーとしてシンガポール空港の近くのショッピングモール店を経営されています。

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本牧ラプソディ ホンモクDNA 河口哲也さん  

本牧ラプソディ ホンモクDNA 河口哲也さん  

本牧ラプソディ ホンモクDNA 河口哲也さん

吉村聡さん(長崎出身)

私の旧知の後輩の紹介で三重県よりsho&jeric salon academy の横浜山手店に入社後明るく元気にサロンワーク語中国支店(広東省中山市)に移動して現在は現地の多数(毎月250名)のお客様を担当して現地ではカリスマ美容師として活躍しています、そして現地の美容師達の憧れの存在です。

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本牧ラプソディ ホンモクDNA 吉村聡さん  

本牧ラプソディ ホンモクDNA 吉村聡さん  

本牧ラプソディ ホンモクDNA 吉村聡さん

 

 

この紹介しました3名の後輩達は冒頭に述べましたようにJapan Standardを頑なに追求して海外に波及したいと頑張ってくれています、ホントに感謝です。

次回は毎年ロンドンで開催される美容イベント“Salon International”に参加してきますのでご紹介します。

サロン・アカデミー「sho & jeric」 チーフベリファイア 久留原 昌一郎

 

サロン・アカデミー「sho & jeric」
〒231-0862 神奈川県横浜市中区山手町184-21 2F
TEL.045-625-0515 FAX.045-625-0515
営業時間:AM10:00~PM8:00
定休日:毎週火曜日+1日(平日不定)
Websie http://sho-jeric.com/

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10月 10 14

秋のイベントシーズン、はじまりました!

by staff

 

雨でした・・・。

8月は例年通りお休みをさせていただき、9月から再スタートした「ごうどいち」ですが9月7日(日)はあいにくの雨でした。
強くなったり弱くなったりという降り方でしたが、通りには殆ど人の姿は見られませんでした。
それにも関わらず、振り返ってみると来客数も販売数も(いつもよりは下がりますが)決して悪くない、つまり、いつも来てくださるお客さま方がサッと来てサッと買い物を済ませてサッと帰る、という感じだったようです。
それだけ固定客が付きつつあるのだとすれば、やはり主催者・出店者の皆さんの努力の賜物と言えます。
また、当日は県とNPO法人ミニシティ・プラス(都筑区)の協働事業「子どもアクター」の一環として、中高生の企画「こども屋台」(来場した子どもたちが「駄菓子屋」の店員となり仕事体験をする企画)も初出展。朝日新聞にも取材・掲載していただきました。

参照【朝日DIGITAL】
http://www.asahi.com/articles/…

 

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雨のごうどいち
雨のごうどいち

こども屋台
こども屋台

 

光陵祭に参加しました!

ごうどいちの翌週末、9月13日(土)・14日(日)は県立光陵高校の光陵祭に出展させていただきました。
今回は高校の文化祭ということで、通常の販売はNGということで、初日は主に東海道保土ヶ谷宿のパネル展示や資料配布、2日目は保土ヶ谷せんべいさんによるおせんべいの試食や「おせんべいクイズ」などを行いました。

初日のパネル展示は、どちらかと言わず生徒よりも保護者が対象になってしまいましたが、保土ヶ谷宿に詳しい方、興味はあるけどあまり良く知らなかった方、光陵高校の前の道が権太坂であり旧東海道であることさえも知らなかった方など、色々な方とお話ができ、楽しくやらせていただきました。

2日目は、保土ヶ谷せんべいさんが主役でした。
昔ながらの道具を使い、昔ながらの製法を守り続けている保土ヶ谷せんべいさんの道具(写真)の展示、「おせんべいクイズ」、そしてお煎餅の試食などを行ないました。
が、(たくさん持ってきていただいたにも関わらず)試食用のおせんべいは午前中で無くなってしまいました。
面白いもので、同じ保土ヶ谷区でも生活圏が異なるため、保土ヶ谷せんべいさんを知らない方も少なくなく、中々良いPRができたのでは、と思っています。

そして、今回の一番の収穫は、高校生や先生たちとコミュニケーションが取れたコトです。
皆さん、地元の歴史や名物には興味を持ってくださっており、来年は何かしら、コラボレーションして出展できるのではないかと思います。

 

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光陵祭
光陵祭

保土ヶ谷せんべい
保土ヶ谷せんべい

窯

 

ココからがピーク!イベントシーズン

いよいよ10月ということで、イベントシーズンもピークを迎えます。
ご都合がよろしければ、是非、おでかけください!

  • 10月5日(日)
    ごうどいち
  • 10月12日(日)・13日(月・祝)
    保土ヶ谷宿場祭り
  • 10月18日(土)
    ほどがや区民まつり
  • 11月2日(日)
    ごうどいち
  • 11月15日(土)
    ごんたまつり(横浜市立権太坂小学校(保土ヶ谷区権太坂2丁目)PTA主催)
  • 11月29日(土)
    ほどがや地区センター共催イベント

 

レポーター プロフィール

山田浩和(やまだひろかず/Yamada,Hirokazu)

合資会社 笑う門 代表社員
保土ケ谷宿名物会事務局

1971年8月生まれ。獅子座のO型。保土ケ谷生まれの保土ケ谷育ち。
2003年、合資会社「笑う門」を設立。<オンリーワンの価値創り>のお手伝い。
会社設立時に制作したミニコミ誌がきっかけとなり、保土ケ谷のまちづくりにドハマリ。
現在、歴史や地産地消など、地域資源を活かしたまちづくりに幅広く取り組んでいる。

合資会社 笑う門 http://www.warau-kado.com

各社・各店・各個人が持つ十人十色・百人百色の目に見えない財産(経験・体験・知識・技術・ノウハウ・アイデア等)を活かした販売促進企画・商店街活性・まちづくりを推進しています。

業務内容 :
 ●シンボル制作
  ネーミング / シンボルマーク / ロゴマーク / キャラクター企画・制作
 ●広報(コミュニケーション)媒体制作
  ・簡易版会社案内(A4版三つ折り)制作
  ・ニュースレター(A4版)制作
 その他、フライヤー / ポスター / 小冊子 / 名刺 / のぼり旗 / エコバッグ / ユニフォーム、など

ヨコハマNOW掲載情報

 

10月 10 14

10月24日(金)に開催 ボリビアナイト(ボリビア・コマ基金支援イベント)

by staff

 

ボリビアナイト(ボリビア・コマ基金支援イベント)

ボリビアン・ナイト(ボリビア・コマ基金支援イベント)

この情報のPDFファイルをダウンロードできます

 

10月 10 14

横浜盆栽カフェ(第1回) 盆栽カフェはじめました!

by staff


石井造園株式会社
代表取締役 石井直樹

 

PROLOGUE 連載に寄せて

私たちは、豊かな水と四季折々の美しい自然の中で暮らしています。大自然に抱かれて生活しているわけではありませんが、世界的に見てうらやましい自然環境であることは間違いありません。しかし実感している人はあまりいませんし、感謝(誰に?天に!)している人は少ないです。

私は家業である造園工事業を営み、外仕事でもあるので明日の天気や風向きが気になりますし、移ろう季節を感じやすい状況にあると思います。このたび横浜盆栽カフェの連載を通じ、限られた鉢という環境の中で繰り広げられる、美しく、力強く、繊細な自然的造形美の盆栽を紹介し、四季や身近な自然環境と向合い、誇らしい地域(横浜)を感じていただきたいと思います。

 

盆栽カフェ(第1回) 盆栽カフェはじめました!

棚場の下

私が生まれ育った栄区(旧戸塚区)の実家にはガラスの温室があり、盆栽や苗木の圃場も併設していて、シクラメンや観葉植物、盆栽の栽培をしていました。黄色い長靴で闊歩する幼いわたしにはさながら巨大植物園のように感じる庭でした。陳列用の盆栽棚には、立派なエゾマツやゴヨウマツの盆栽があり、見上げる視点からはまさに大樹の体を成してそびえ立っておりました。栽培用の棚場は、アカメソロやブナ、モミジなど落葉樹の新葉が目に眩しくキラキラと輝いております。

 

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盆栽カフェ(第1回) 盆栽カフェはじめました

(写真提供:石井直樹)

写真のマツが置いてある高い棚が陳列用の棚で、一段低い高さの棚が栽培用の棚です。

盆栽を置く棚の下にはまた別の世界が広がっており、鉢をどけるとアリジゴクやダンゴムシなどの昆虫や、カナヘビやカエルなどの小動物が息をひそめて隠れていました。かくれんぼのオニにでもなった気分で、いつものところに潜むその動物たちを確認しながら見つけるのが日課のようになっていました。ゲームやインターネットもなく、何にもすることがない子どもの楽しみは、親の手伝いと生き物探しぐらいだったのだと思います。

盆栽カフェ

そもそも盆栽とカフェってどんな業態なのかと言いますと、盆栽は海外では評価されるも、日本での業者・愛好家の数が激減しており、限られた鉢の中で四季折々の自然の造形美を表現する盆栽文化は、衰退していると思います。反対にカフェは、コーヒーやお茶を楽しむ場のみならず情報の受発信、多くの学びがある場として生活の中に根付いております。そこで、盆栽の販売や盆栽教室を情報の集まるコミュニティカフェの形式で、運営したらこの楽しみが広がるのではないかと思いはじめました。そこにはプロや初心者、老若男女が集いカフェを囲みながら、盆栽を通じたコミュニティが生まれることが狙いであります。

また、弊社会長の石井昭彦氏も40年前、30代前半にして神奈川県盆栽協会の理事を務め、小品・草物盆栽の作成ではかなりの腕前です。この技術や感性をそのまま埋もれさせてしまうのはもったいないと思い、また弊社石井造園が創立50周年を目前にして草創期に営んでいた鉢物の栽培及び販売を今一度原点に立ち返る、そんな思いから販売をはじめました。

人数に制限のある零細企業には、新規事業を立ち上げることが難しく、企画立案に対してはETIC様から紹介のインターンシップ生高石宏和君の功績により、その礎を今日まで築いて参りました。

今月も仮想コミュニティアジア黄金町バザール2014の、かいだん広場前高架下スタジオSite-Dにて盆栽カフェを連日運営いたします。10月11日土曜日は中華街パーキング様の軒先をお借りして、10月12日日曜日は黄金町かいだん広場でのきさきアートフェアに、出店して盆栽の魅力をお伝えし販売をいたします。

今月の逸品

草ボケと小熊笹(クサボケとコグマザサ) W=22cm H=30cm

日本中どこの土手にも生えているクサボケとコグマザザを使い、里山の原風景を再現した寄せ植え盆栽です。春には、朱色の花をつけたクサボケがひと夏かけて黄色い大きな実を着けました。あたかもスーパームーンが昇り出でた様な風景を感じて頂ければ、それもまた見どころだと思います。この後寒さに向かいボケの葉と実は落ちますが、コグマザサが隈取を得って冬の景色になります。

 

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盆栽カフェ(第1回) 盆栽カフェはじめました

(写真提供:石井直樹)

石井造園株式会社 代表取締役 石井直樹)

 

石井造園株式会社
〒247-0006 神奈川県横浜市栄区笠間4-11-5
TEL.045-891-1501 FAX.045-891-2785
Websie http://www.ishii-zouen.co.jp/

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10月 10 14

ヨコハマ・ディスコグラフィティー 第28回 第5章 80年代 4

by staff


 
 

 

HEART&SOUL代表 原 正行

1958(昭和33)年9月7日横浜生まれ、12歳よりギターをはじめ17歳からミュージシャンとして活動。39歳の時に念願だったライブハウスを開業、現在は関内駅北口駅前に60年代から80年代の洋楽ヒット曲を演奏するライブハウス、ハート&ソウルの経営者。他にもミュージシャンとして演奏活動、作曲、プロデュース等、幅広く活動している。

 

1986年~(最終回)

1960年代初頭ベンチャーズの衝撃から日本のポピュラーミュージックは幕を開け誰もがこぞってエレキを持ちそのサウンドが革命となり、ビートルズの登場からそれに歌が乗ってグループサウンズが生まれ、それと並行するように手軽なフォークギターを手にした学生たちがオリジナルの歌を作る様になり、そしてそれらは洋楽のサウンドに影響を受けそれをコピーすることから始まりました。

70年代に入ると日本人としてのオリジナリティを模索するようになり、80年代には楽器や音楽機器の進歩に連れ楽器演奏のレベルも欧米に近づいてきました。YMOが欧米に高く評価されたり日本の音楽もかなりのレベルまで登ってきた感があります。

がむしゃらに向こうの音楽を追いかけた時代は終わりつつあり、行くところまで来た日本の音楽は1980年代後半には停滞している印象を持ちました。1985年以降90年代前後にはテレビのイカスバンド天国から火がつきイカ天、ホコ天と言った空前のバンドブームが訪れて楽器は飛ぶように売れ、全国でも音楽スタジオがぞくぞく出来て音楽界はいやが上にも盛り上がりましたが、粗製濫造の為か今思えばわずかしか残されたモノがないような気がします。時はバブル絶頂期、それも崩壊とともにいつしかブームも去りました。音楽の世界もアナログからデジタルへ移行していく時期でパソコンの普及などで表向きはものすごい勢いで全てが変化していった様に見えましたが、、本質はこの頃から何も変わっていない様な気がします。

私は1985年以降新しい音楽を追いかけるのに興味を失いました。今2014年になり今の音楽シーンを見てみると1985年頃と本質的には何も変わっていない様な気がします。これから日本のロックはどこへ行くのでしょう?

次回からは新章です。もう一度私の視点で音楽の聞き方を語るコーナーを始めたいと思います。
長い間、私のつたない文章にお付き合いくだされたヨコハマNOW読者の皆様と編集長の辰巳様に心から感謝いたします。

原 正行

 

横浜、街と風(社会人編) 14(29)

風習

この世界に入ると独特の言葉があって、まず夜でも最初の挨拶は「おはようございます!」ここから入ります。始まり時間が不規則なバンドや芸能界の一日の始まりを正当化するために生まれた独自の風習でしょう。そしてバンドマンの世界では言葉をひっくり返して使うバンドマン用語というのがありました、
例えば「シーメ食いに行ったらズイマーでさ、しかもイータカでバーソがツェーセンイーヒャクだったよ」
分かりますか?
解説すると「メシくいにいったら不味くてしかも(料金が)高くてお蕎麦が1300円だったよ」となります。
最近はテレビに出てる芸能人も「まいうー」なんて使ってますから知ってる人もいると思いますが、当時は本当にこの業界にいる人しか知らなかったし、これを知っていることがこの世界にいる人のステータスみたいなところもありました。

お金が幾らかと言うのも独特で一万五千円を「ツェーマンゲーセン」と言います。音楽の世界で数字の1は(1度)はドレミで言うところの “ド” にあたり、英語ではC(しー)ドイツ語になるとC(ツェー)になり数字の部分を全てドイツ語にしたのがバンドマンの数字の数え方でした。

1=C(ツエー)、2=D(デー)、3=E(エー)、4=F(エフ)、5=G(ゲー)、6=A(アー)、7=B(ハー)、8=(オクターブ)、9=(ナインス)
(例)258000円=デージュー・ゲーマン・オクターブセン

当時まだ寂れた感じの駅だった桜木町の駅の真ん前に「一力(イチリキ)」という24時間空いている飯屋がありました。広い店内にぐるっと回るように、そばとか天ぷらとかお惣菜とか寿司とか確かラーメンもあったかな、いろんなものが食べれる所で料金も安く、深夜2時位になると東京などへ帰る始発待のバンドマンで溢れます。長髪のグループがアチラこちらでジョノカ(彼女)がどうした、ラーギャ(ギャラ)がどうした。イーマン・オクターブ(18000円)がどうしたとバンドマン用語が飛び交っていました。

(例)
タイコ(ドラマー)、ターギ(ギタリスト)、ターウ(ボーカリスト)、ナオン(女性)、チャンバー(年配の女性)、マイウー(上手、美味い)、ターへ(下手くそ)、ザヤク(あるギョーカイの方)、バンマス(バンドマスター、リーダー)

控え室

バンドが入っている店には控え室があり、そこで休憩時間を過ごします。練習する奴、寝てる奴、うちのバンドではバンマスが禁止されていましたが、ポーカーゲームやギャンブルをやっているバンドもいました。この時先輩たちにバンドマンが使う楽譜の読み方や書き方を教わりました。たまには広くゆったりとした所もありましたが大体地下室とか屋根裏とか階段の下とかロクなとこにはなかったです

キャバレーとかでやらされた時なんかは壁にバンドマン心得10箇条なるパネルが貼ってあり、1つ、○分前にはスタンバイを済ますこと、2つ、ホステスは店の商品であるから決して手を出さないこと、インターバル(曲と曲の間)は5秒以内。などと書かれていました。あるお店ではバンド控え室の隣がホステスの託児所になっていて、子供が10人位騒いでいて専門の保育士さんが面倒見ています。ステージに行くとそのお母さんたちが客席の椅子に乗っかってゴーゴーを踊っています。中にはトップレスも。。。昭和のたくましい母達を見ました。

ある時外でタバコをすっていたらメンバーでイケメンのギタリストが休憩時間にこっそり抜け出して公衆電話をかけていたので面白半分に後ろでこっそり聞いていたら「もしもしサユリさんお願いします。」、、、「サユリさんですか? さっき目の前でギター弾いてたものですけど、、、今日終わったら○○で待っています、来てくれますか?」なんとさっき出演してた店に電話かけてホステス口説いている。こんな豪傑? もいました。

恩人

こんな日々も段々嫌気がさしてきましたが、それでも我慢できたのはバンマスのおかげでした。バンマスのカーボーちゃんは私より12歳ほど年上で本業はテレビの歌謡ベストテン番組のレギュラーを勤めていたビッグバンドのセカンドギタリスト。家族を持っていたのでそれだけでは食べていけず夜バンドを組んで稼いでいました。ギターは何しろ正確無比、リズムの歯切れが最高でオリジナルも書いていて、いつかヒットを出したいと夢を持っている人でした。自分をボーカリストとして高く評価してくださり、僕に彼のオリジナルを吹き込ませ、そのデモテープを持って売り込みに行ったりしてくれました。時にはメジャー系のオーディションの話があると「お前行ってこい」と言われ、有名コーラスグルループのオーディションにも行ったことがあります。苦手なダンスまでやらされ結果は、、、又あるときは彼の知り合いで有名歌手を抱えている音楽事務所に連れて行かれ、応接室で社長が来て挨拶するといきなり「そこでなんか歌ってくれ」 えっ、ここで、と思いましたが、もう無我夢中、無伴奏で歌いました。結果はやはりダメでしたがバンマスはいつも自分を励ましてくれました。

そんなカーボーちゃんも数年前他界され、ずっと音信不通でしたが最後のお別れとお礼を言うことが出来ました。今でも期待してくれた事に応えられず申し訳ないと思っています。

HEART&SOUL代表 原 正行)

 

HEART&SOUL DATAMAP

HEART&SOUL
〒231-0014 横浜市中区真砂町3-33 CERTE11階
営業時間
平日:OPEN 19:00 CLOSE 4:00 LIVE START 19:50~
休・祝日:OPEN 18:00 CLOSE 24:00 LIVE START 18:40~
TEL:045-664-5569
JR関内駅徒歩より1分
地下鉄関内駅より徒歩1分
Websie http://www.heartandsoul-live.com/

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10月 10 14

寂しさに 宿を立ち出て ながむれば いずこも同じ 秋の夕暮れ

by staff

♪寂しさに 宿を立ち出て ながむれば いずこも同じ 秋の夕暮れ♪


絵・千絵崇石
 

読み人:良暹法師(りょうぜん ほうし)

現代語訳・・・あまりの寂しさに居ても立ってもいられなくなり 外に出てみたが、どこもかしこも、みな同じ寂しい秋の夕暮れだった。

私・・・なんか・・・すごくこの歌が好きです。この気持ちは清清しいほどの寂寥感。

自由で孤独で。でもその寂しさの向こう側に、ふつふつと沸き出でているのはきっと愛。人恋しさ、というか 慈愛を感じるというのか。これは自立した大人の孤独感です。

もしこんな寂しさを子供の頃に感じていたら・想像を絶するほど不憫です。大人だから受け止められて、その空気の中にこの場合は作者がお坊様なので・仏様の慈愛を感じ取ることが出来ているのだと思います。全体的に白灰色。ホワイトグレーのイメージですが、日本の場合は湿気があるのでその湿気が寂しさの中に柔らか味をかもし出しているのではないかしら。きめの細かい水滴粒子のような。そんな静かに暮れ行く秋に、たった一人 無音の部屋で静寂と言う名の騒音が耳の奥で夏の盛りの蝉のように鳴いている。今私の部屋の窓から聞こえるのは鈴虫のなき声ですが、過疎の山里でまだ紅葉も始まっていない秋の夕暮れの寂しさがしみじみと感じ取れます。

百人一首にはもう一首 同じ秋の夕暮れを扱った歌があります。それもやはりお坊様で。

♪村雨の 露もまだひぬ 槇の葉に 霧たちのぼる 秋の夕暮れ♪ 寂連法師

こちらの歌のほうが秋雨がやんで 霧が立ち上る様子を歌っているので 今私が感じ取っている水彩画のような寂しさにはぴったりなのですが10月と言うよりもう少し晩秋です。紅葉も終わって秋から冬に向かう寒さも厳しい夕暮れ。という感じでしょうか。

どちらにしても「秋の夕暮れ」 と言うのが情緒的に歌になりやすいのでしょう。他にも秋の夕暮れを結句とした有名な歌が沢山残されています。私も口に出して歌ってみました。

♪ 春の夕暮れ 夏の夕暮れ 冬の夕暮れ やっぱり断然 秋の夕暮れです。

作者の良暹法師はあまり詳細文献が残って無くてその生没年などはよく知られていません。

でも歌人として人々から尊敬されていたお坊様のようです。良暹法師といえばこのエピソード!と言われるほど有名になった逸話が「袋草紙」に残されています。それはたぶん彼が無くなってからのことかもしれませんが。

百人一首の74番の作者「源俊頼朝臣」が大原に馬で遠乗りをしたときに、ふと思い立ったように馬から下りました。同行していた人々が、どうしたことかと尋ねたところ、彼曰く
「ここらあたりは昔、良暹法師が住んでいたところ、馬に乗ったまま通り過ぎるのは失礼にあたる」と。その言葉に感じ入って全員が馬を下りて通ったそうです。

私がこの歌から感じる、寂しさの中に隠し味のように込められている慈愛、やさしさ。

何の飾りも無いシンプルな歌が、こうやって百人一首の中に選ばれて、800年近くも人々に愛され続けているのはやっぱり、言葉と言葉の間に込められた作者の愛情が時空を越えて私達の心に触れるからなのだと思います。是非皆さんも良暹法師の慈愛を味わってみてください。

(早苗ネネ♪)

<LIVE INFORMATION 1>

  • 日時:10月10日(金) 開場 18:30
  • 会場:新宿シャンパーニュ
    〒160-0022 東京都新宿区新宿 1-34-11-B1(元東京厚生年金会館向かい、スギ薬局地下1階)
    TEL:03-3354-8540(昼) 03-3354-2002(夜)
    http://www.champagne-live.com
  • 第1ステージ 開演 19:00~19:45
    第2ステージ 開演 20:00~20:45
    第3ステージ 開演 21:00~21:45
  • チャージ:¥5,500(ワンドリンク付き)

 
<LIVE INFORMATION 2>

  • 「じゅん&ネネ Autumn Live in Ladonna」
  • 10月19日(日) 11:00~12:15 ランチタイム/12:15~14:00 ショータイム
  • 会場:ミュージック・レストラン「ラドンナ」
    〒150-0001 東京都渋谷区神宮前4-28-21 ハーモニー原宿 地下1階
    TEL:03-5775-6775
    http://www.la-donna.jp
  • 出演:じゅん&ネネ 司会:島敏光 演奏:JABBA BAND
  • チケット料金10,000円(税込・ランチコースのお食事料金+ライブ料金)
    ★チケットのお申込みはエントレス 電話 03-6454-0469
    またはミュージックレストラン・ラドンナ 電話 03-5775-6775(Webからのお申込み、電話予約も可能です)

 

早苗ネネさん プロフィール

木々や鳥や魚や精霊…人間以外の存在達との交流が当り前に語れるくらい、いのちのひろがりに気づくと、共に生きている喜びや、苦しみや悲しみにもナイーブになる。

心と野生がひとつながりになると……こんな風に人は年を重ねられる。ひとりひとり、ユニークにもっと自分になれる。

早苗 Nene さんは、そういう人生の先駆者です。 感性を解放しながら、40代で高校生に仲間入り卒業後、マウイのカレッジに留学中、突然半生記が受賞しました。

そんな新たなシーズンを迎えて、今エッセンスを分かち合いたい。

<天性の歌い手>というだけでなく、その存在感、溢れる活性のバイブレーションは、光のシャワーのよう。彼女と語り歌い、魂の成長を旅している現在の、自分の位置を確かめてみませんか?

早苗ネネさんHP

 

10月 10 14

<特集> ボリビア・コマ基金応援メッセージ

by staff
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ボリビア・コマ基金を始めました

来年2月15日、横浜で開催される世界コマ大戦にボリビアチームが真っ先に名乗りを上げました。

ボリビアでは昨年、シニア協力隊で現地に赴任していらっしゃいます平野さんが中心となって「ボリビア・コマ大戦」が開催されました。平野さんのお話では、ボリビアの製造業の技術レベルは日本の40年以上前の状態だそうです。
そんなボリビアの製造業で仕事をする技術者のレベルを上げるツールとして「コマ大戦」に着目したということです。

「ボリビア・コマ大戦」で優勝したのは工業高校に通う15歳の学生が作ったコマです。
ヨコハマNOWでは、この学生を日本に招き、世界コマ大戦で自分で作ったコマを自分で回して競い合って欲しいと思い、ボリビアからの渡航費を集める募金「ボリビア・コマ基金」を始めました。

ボリビア・コマ基金応援メッセージ

ヨコハマNOWでは、ボリビア・コマ基金への応援メッセージを呼びかけたところ多くのメッセージが寄せられました。

ボリビアは、47年前にチェゲバラが革命家としての生涯を閉じた国。そのボリビアからコマ大戦をやりたいと言ってこられて黙っていられなかった。コマを回す土俵には、日本とボリビアの国旗を印刷し、日本語とスペイン語で「ボリビアの諸君、日本でまっている!」と書いて送り届けた。その土俵を使い、ボリビア予選でコマチャンピオンが決まった。しかし、ボリビアの所得では一生働いても日本には来られない。もし、コマを作成した若者がコマと一緒に日本に来て、日本の技術と文化に触れたら、チェゲバラの志し半ばで逝ってしまった思いに少しは報いることが出来るのではないだろうか。そんな気がしてならないのだ。日本で始まったコマ大戦だが、ボリビアではこれから毎年コマチャンピオンを決めて、トロフィーにその名前を刻むと言っていた。日本の中小ものづくり企業であっても、革命の志は引きつげるはずだ。

全日本製造業コマ大戦協会会長/株式会社ミナロ代表取締役 緑川賢司

ヨコハマNOW記事: 製造業モノづくりの逆襲 株式会社ミナロ代表取締役 緑川賢司さん

海外企業との連携を積極的に進めることで、日本の中小製造業の活躍の場をひろめていきましょう!!「ボリビア・コマ基金」応援しています。

武松事業デザイン工房株式会社 代表取締役 武松昭男

ヨコハマNOW記事: 「環境」を通して他者を思う「こころ」を育てたい。武松事業デザイン工房株式会社 代表取締役 武松昭男さん

遠いボリビアの方々がコマを通じて日本に来て、世界コマ大戦に参戦することは民間国際交流として素晴しい出来事だと思います。私も応援しています!

くらしの器と絵 匣 重田葉子

ヨコハマNOW記事: くらしの器と絵 日本文化の魅力をヨコハマから世界に。重田葉子さんの美の世界

コマで製造業の文化が世界を駆けまわる。まわす力はモノづくりの情熱と実現力。その力こそ「ボリビア・コマ基金」。はまっこであってもなくても募金に行こう。

榎本技術士オフィス所長 榎本博康

ヨコハマNOW記事: 連載 「セカンドライフ列伝」

ボリビアのコマに会える日が楽しみです。「ボリビア・コマ基金」を応援しています。

荻津郁夫建築設計事務所 荻津郁夫

ヨコハマNOW記事: 連載 「新しい建築とのかかわり方」

私の本業はジュエリーの製造、販売ですが、日本のジュエリーの手作り職人がいなくなってしまうかもしれない危機的な状況です。そんな思いも重なり、コマ大戦、世界コマ大戦を応援していまして、ジュエリーコマまで作ってしまいました。
来年の2月に横浜の大桟橋ホールで開催される世界コマ大戦で最初のエントリーがあったのがボリビアでした。
ボリビアの学生にとって、日本に来て、日本の技術を見て、学ぶということは、彼らの人生、そして国さえも変えることになるかもしれません。「ボリビアの学生たちを日本に呼びたい!」ボリビア・コマ基金へのご協力をどうぞよろしくお願い致します。

横浜ジュエリー業界の老舗「エメラ」代表取締役 大島貴子

ヨコハマNOW記事: 宝石をキャンバスに横浜の景色を描いてみました。横浜ジュエリー業界の老舗「エメラ」の三代目社長 大島貴子さん

私も「全日本製造業コマ大戦世界大会」に、ボリビアの若き技術者の皆さん達が横浜に来られることを願い「ボリビア・コマ基金」を応援しています。来年の2月、横浜でお会いましょう!

NPO法人ど・あっぷ!代表 築山美樹

ヨコハマNOW記事: 連載 「40sウーマンのO3マインド」   連載 「ヨコハマ Do Up」

日本のモノづくりの伝統文化、誰もが手にしたことのある「コマ」で国際交流。楽しく世界を回り、大きな輪を描くのでしょう!ボリビア・コマ基金 応援します!

AA STUID 代表 建築家 青木恵美子

ヨコハマNOW記事: 連載 「新しい建築とのかかわり方」

我がヨコハマからの発信にて、全国へ、そして世界へ広がりつつある世界コマ大戦。製造業の方々を中心にコマに対する熱き思いが、世界の人々の心を一つにして、回り始めています!!そして、世界大会へ堂々と参戦名乗りをあげているボリビアの人々をみんなの力で何とか我がヨコハマへ来て頂けるように、私も心から応援させて戴きます!!

Office Y.hidai 代表   商いデザイナー 樋代佳一

コマ大戦は、元気の無い日本の製造業を盛り上げようと始まり、これを世界に広げたのが世界コマ大戦2015です。中南米最貧国と言われるボリビアの方たちにも、日本の製造業を見て感じてもらい、ボリビアの発展に少しでも力を貸しませんか! 渡航費へのご協力をよろしくお願いします!!

有限会社明和企画 代表取締役 野垣博文

ヨコハマNOW記事: 歩けば街が良く見える。NPO法人横浜カーフリーデー実行委員会事 務局長 野垣博文さん

インカ帝国の子孫ボリビアの技術者達には日本はどんな国に見えるでしょうか?「ボリビア・コマ基金」を応援しています。

Tokyo Design Technology Center 講師 関淑子

ヨコハマNOW記事: 連載 「誰でもできるプロジェクトマネジメント」

今、世界は混とんとした時代を迎えています。そんな中で求められているのは民間レベルでの交流です。今回、世界コマ大戦に南米のボリビアチームを招こうという呼びかけがありました。この募金活動を成功させることは私達の責任ではないでしょうか。

神奈川県異業種連携協議会(イグレン) 宮川 豊

コマはまわりながら世界の人々を惹きつけるているんですね。より多くの人たちを惹きつける為にも、これからも勢いよく回り続けて下さい。とっても小さな友好大使の大きな夢をささやかながら応援します。

株式会社プラネット 代表取締役 江口照夫

ヨコハマNOW記事: ヨコハマNOWオンラインショップ 「濱よせ」 商品企画

横浜で第一回目の世界コマ大戦が行われることを大変うれしく思います。また「第二、第三…もっと多くのベトナムを全世界に!」という合い言葉を残してアメリカ帝国主義とその協力者に対する世界革命の旅にでたチェ?ゲバラが志半ばにして39歳で没した地、ボリビアから若者がはるばる横浜に来日するということに深い感慨を覚えざるを得ません。ささやかながら「ボリビア・コマ基金」に協賛させていただくとともに、「第一回世界コマ大戦 in YOKOHAMA」を全力で応援したいと思っています。ご成功をお祈りいたします!

株式会社新藤(天衣無縫) 代表取締役 藤澤 徹

ヨコハマNOW記事: オーガニックコットンで仕立てる商品が私の自然体。株式会社新藤 藤澤徹さん

ボリビアからの参加に驚きと歓声です。いち早く情報をキャッチしての参加は素晴らしいです。日本で盛り上がっている世界大会の声が聞こえているのでしょうか!是非日本に来てほしいですね!コマは造れないけど応援はできます。皆の寄付の力で呼びたいですね!
10年後に、「あの時のことがきっかけで日本が好きになり、その後日本の技術を学んでこれだけのモノづくりができるようになりました。」そんな声が上がるかも知れないね!!

株式会社メジャーテックツルミ 代表取締役 横須賀健治

ヨコハマNOW記事: 連載 「横須賀詢」   連載 「横浜ブックス」

何かに夢中になり、それに共感する多くの人が国内外集まってくる。企業規模なんて関係なく。それが日本発のコマ対戦なんて素晴らしいです!!

株式会社バイオクロマト 代表取締役 木下一真

ヨコハマNOW記事: 第6回 「笑顔経営ワークショップ」取材レポート

ブラジルやチリーならば南米大陸のどの辺りか見当がつきますが、ボリビアというとサッパリ判りません。あのチェ・ゲバラが命を落とした地なのですね。そのボリビアからの世界コマ大戦参戦。来日が実現できることを願っています。

有限会社ITウェイブ  代表取締役 宮下 徹

ヨコハマNOW記事: スモールビジネスへのIT活用法の普及。(有)ITウェイブ代表の宮下徹さん

世界大会で最初に手を上げた心意気!これに応えないで、海外のどこで活躍するというのでしょう!コマ対戦万歳!中小製造企業の輪をコマを通じて広げていく「ボリビア・コマ基金」 に、私も賛同いたします!

デジタルハリウッド大学大学院教授 松本 英博

ヨコハマNOW記事: 連載 「中小経営のニッチから国際化へ」   連載 「ビジネスのフレームワーク入門」
連載 「ビジネスの創造方程式で勝ち抜こう」   連載 「ソーシャルメディアの正体」

天台宗の開祖伝教大師最澄曰く「一隅を照らす」、皆様の浄財を活かして「ボリビア・コマ基金」を応援しましょう。

食品評論家 渡邉憲一

ボリビアの方々とつながる一歩!コマ大戦からもの作りの扉が開き、絆が生まれます。私も応援しています。

株式会社栄港建設 専務取締役 岡野美紀子

ヨコハマNOW記事: 茶道の精神「和敬清寂」を企業家としても貫いて。株式会社栄港建設 岡野美紀子さん

コマ大戦はやっぱりスゴイ!「いいね!」と思いつつも一人では実現できないことを、繋がることで次々と叶えてしまう。遥か遠いボリビアの方々をみんなの協力でお迎えできるなんてコマ大戦ならでは、って感じで素敵ですね。「ボリビア・コマ基金」応援しています!

「笑う門」代表 山田浩和

ヨコハマNOW記事: 知らないことを知る楽しさと地元の世界の広さに気づいたことが原動力。保土ケ谷区の地域活性化にのめり込んだ、合資会社 笑う門 代表 山田浩和さん。
連載 「保土ケ谷宿名物会」

ボリビア・コマ基金へのご協力のお願い

「世界コマ大戦にボリビアチームを呼ぼう!」
   「ボリビア・コマ基金」へご協力をお願いいたします。
   いくらでもかいません。皆様のお気持ちを・・・・
 
●「ゆうちょ銀行」からお振込みいただく場合は
「記号」10250 「番号」88379271
 
●「ゆうちょ銀行」以外の金融機関からのお振込みの場合は
「銀行名」ゆうちょ銀行  「店名」〇二八(ゼロニハチ) 
「預金種目」普通預金   「口座番号」8837927
「口座名」全日本製造業コマ大戦協会
 

「ボリビア・コマ基金」のチラシを作成しました。皆様のお知り合いにこのチラシを渡していただきたいのです。またこのURLを転送していただきたいのです。

http://yokohama-now.jp/pdf/bolivia.pdf

平野さんが、ボリビアで撮影した様々な写真を組み合わせて「ボリビア・コマ基金」の動画を制作しました。ご覧ください。

「ボリビア・コマ基金」への想いを動画にしました。皆様のお知り合いにご紹介してください。

全日本製造業コマ大戦協会会長 緑川賢司

「ヨコハマNOW」主宰 渡邊桃伯子

(ヨコハマNOW主宰 渡邊桃伯子/編集長 辰巳隆昭)

 

10月 10 14

横浜は「新しい文化のまち」 株式会社花丸本舗 佐藤白砂さん

by staff

 横浜の味「ミルクせんべい」は佐藤白砂さんの御祖父、佐藤三治さんが戦後考案した「おせんべい」です。日本全国100軒もあった「ミルクせんべい」の町工場は現在3軒になってしまいました。町から「駄菓子屋さん」が消え、少子化といった逆境の中で、この味を次世代に伝えたいと奮闘する、株式会社花丸本舗の佐藤白砂さんのお話です。

株式会社花丸本舗 佐藤白砂さん
株式会社花丸本舗
佐藤白砂さん
 
お名前 佐藤 白砂(さとう しらさ)さん
ご出身 保土ヶ谷区桜ヶ丘
ご年齢 26歳(2014.9時点)
お住まい 保土ヶ谷区仏向町
ご家族 ご両親とお姉さん
お仕事 株式会社花丸本舗 製造管理
http://www.hanamaru-honpo.com
特技 少林寺拳法

小学校の頃は獣医さんになりたかった

 仏向町は自然豊かな町です。白砂さんが小学校1年生の時に父(登志郎さん)が独立し、桜ヶ丘から引っ越してきた頃は、藤塚のインターもなく、高台の住宅地とはいっても畑や、森の多い町でした。

 ご両親が早朝から夜遅くまで忙しく働く姿を見ながら育ちました。近所の自然の中で友達と遊ぶのが好きでした。姉の渚さんとは8歳年が離れているので、一緒に遊ぶ対象に思ってもらえなかったようです(笑)

 動物が好きで、小学校の頃は獣医さんになるのが白砂さんの夢でした。その後、何か人の役に立つ職業につきたいと思っていたそうです。

 

(クリックで拡大画像)

お母様とミルクせんべいと奥の棚には少林寺拳法の楯やトロフィーが飾られていました
お母様とミルクせんべいと奥の棚には少林寺拳法の楯やトロフィーが飾られていました

 中学校から6年間は部活で少林寺拳法部に所属していました。インターハイにも出場した経験があるそうです。(戸棚の中には沢山のトロフィーが飾られていました)大学では文学を専攻していましたが、大学を卒業して就職するにあたって「1年間家業を手伝いたい」とご両親に伝えました。

創業者は祖父です

 『ミルクせんべい』は白砂さんの祖父(佐藤三治さん)が1948年に横浜で考案したおせんべいです。名古屋のえびせんべいからヒントをもらい、水と小麦粉とコンスターチ、脱脂粉乳、砂糖などを使って200℃に熱した鉄板で焼き上げます。油や添加物はいっさい使いません。

 「戦後の子供たちに栄養を」と子供たちがおこづかいで買えるお菓子『駄菓子』として世に出回り、大人気となりました。

 お祖父さんは誰にでも作り方を教えたので、最盛期には全国100軒もの「ミルクせんべい屋さん」があったと聞いています。今は3軒しかありません。

 白砂さんが小学校1年生の時に、父の登志郎さんはお祖父さんの会社から独立し、「株式会社花丸本舗」を創りました。

 花丸本舗の「ミルクせんべい」の生地にはトマトパウダーやニンジンパウダー、カボチャパウダーが練り込まれています。お父さんが独立する時に考案しました。また余計な添加物も使わないようにしています。

 「工場の機械もその時の特注品です。同じ機械はありませんし部品もありません。何か不具合が生じると父が市販の部品を加工して修理しています。」

たねを200℃の鉄板の上に流し込むと鉄板で挟み丸く焼き上げる、それをベルトコンベアで運び作業室へ
たねを200℃の鉄板の上に流し込むと鉄板で挟み丸く焼き上げる、それをベルトコンベアで運び作業室へ

 白砂さんは、1年間、家業を手伝ってご両親の苦労を自分の体で感じました。その日の気温と湿度、天候、仕入れた材料の状態、水の温度・・・材料の調合は、お父さんの長年の勘がたよりです。機械のオーブンは200℃、室温は60℃。それでもエアコンをかけたり、窓を開けたりすれば、風で炎がゆらぎ、ミルクせんべいはうまく作れません。1日13~15万枚を焼き上げますので早朝の火入れから深夜までの仕事になることがあります。

 こうした苦労の中、お祖父さんが生みだし、ご両親が守ってきた『ミルクせんべい』の味を伝えて行きたいと思いました。

「最初『ミルクせんべいの仕事を手伝いたい』と言った時は、両親の猛反対にあいました。娘にこんな苦労はさせたくないという親心を理解しながらも、無理やり入社しました。(笑)」
「ミルクせんべいを広めるために、何か自分に出来ることがあると思ったからです。」

ミルクせんべいをご存知ですか?

 最近では町から『駄菓子屋さん』が消えて、子どもたちがお菓子を買うところが「コンビニ」になりました。コンビニのお菓子は、チョコレートやキャンディ、アイスクリーム、スナック菓子が主流で、子どもたちが駄菓子と出合う機会は少なくなりました。

 「今の子供たちは、ミルクせんべいにソースで絵を描くといった楽しみ方を知らないかもしれません。ですが一緒にジャムやソースを付けて食べると、美味しいと言って喜んでくれますね。」

 「ミルクせんべいはやさしくて懐かしい味のおせんべいです。1袋20円から100円程のお菓子で、ソースや梅ジャム、水飴を塗って食べるのが主流ですが、そのまま食べても美味しいですね。 他にも、チョコレートや餡子、バニラアイスクリーム、生クリームなどをつけて食べても美味しいので、『駄菓子』の販売ルートだけでなく、新しい販路を見つけたいと思っています。」

作業室では、ベルトコンベアで運ばれてきたせんべいを検品し、ソースを入れて袋詰めする
作業室では、ベルトコンベアで運ばれてきたせんべいを検品し、ソースを入れて袋詰めする

試行錯誤とチャレンジの毎日です

 「失敗作は数知れずあります。イカ墨を入れて黒いおせんべいを焼いてみたり、もんじゃ焼きやフルーツのフレーバーにしたけれど、200℃で焼き上げると香りが分からなくなってしまったり・・・大きさを変えて機械が不安定になってしまったりと、試行錯誤の毎日です。

 長年働いてもらっている先輩のパートさん達のアドバイスや励ましの言葉を聞きながらチャレンジの毎日です。

 横浜のお土産品として、健康食品として、アジアへの進出へと販路を求めて外に出て行き、横浜市のイベントにも参加させていただきました。」

 

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2014年横浜カーフリーデーで販売
2014年横浜カーフリーデーで販売

 「最近では、食材としての可能性も探っています。デザートやサラダの添え物として、料理の食感や味のアクセントにならないかと考えています。」

オロナミンCの「キミハツ」で佐藤さんのお仕事の様子(動画)を見ることができます。
http://kimihatsu.com/project/sato/

東京新聞 2014年8月7日(11版32)に「ミルクせんべいの夢」が掲載されました。
PDFを見る

佐藤さんにとって「横浜」とは・・

 「昭和の時代に祖父が新しい味『ミルクせんべい』を生み出してから、ミルクせんべいは横浜から全 国に広がりました。そのミルクせんべいを両親が昭和から平成へと繋いでくれました。
私は、平成から次世代に『新しい文化』として広げていきたいと思います。」

 私にとっての横浜は「新しい文化のまち」です。

 

(クリックで拡大画像)

「新しい文化のまち」 株式会社花丸本舗 佐藤白砂さん
「新しい文化のまち」
株式会社花丸本舗 佐藤白砂さん

インタビュー:寺井由紀子(NPO法人横浜カーフリーデー理事)/写真・文:高野慈子

 

9月 10 14

「ボリビア・コマ基金」が広がっています!!

by staff

 

「ヨコハマNOW」8月号の「ともの現場」に「ボリビア・コマ基金」のことを紹介したところ、募金についてのお問合せをたくさん頂戴しました。この場を借りて御礼申し上げます。

8月下旬、JICAのシニアボランティアでボリビア在住の平野さん(ボリビアでコマ大戦を開催した方)から、全日本製造業コマ大戦協会の緑川会長の下に次のようなメールが届きました。

先ほど、Webサイトでボリビア・コマ基金のページを見つけ驚いております。もし、本当にボリビアから世界大会に出場出来ることになれば、彼らにとって夢のような話です。また、Web発行元・ヨコハマNOWとコマ大戦協会様とのご関係をお聞きしたいのですが、お教え願えますでしょうか?
しかし、ボリビアから日本への渡航は非常に難しく、手続きに時間がかかりますので、もし、実現可能でしたら早めにお教え願えますでしょうか?

緑川会長は私のことを平野さんに紹介してくださいまして、平野さんとのメールのやりとりが始まりました。

地球の裏側ボリビアから日本へチャンピオンを招聘するなど思いもよらぬ話に、ボリビアのコマ大戦を企画した仲間共々驚いております。
 
ボリビアはご存知かと思いますが、中南米最貧国と言われているほど街にはインデヘナの物乞いが徘徊し、ストリートチルドレンも沢山います。コカインの元となるコカの栽培を公認しているため、米国との関係は悪く、経済状態も悪化しており、政府に対する不満も多く、幹線道路の道路封鎖は日常茶飯事です。しかし、金銀銅など鉱物、ウユニ塩湖のリチュームなど地下資源が豊富で、土地も広くアマゾンの熱帯気候から高山の気候まで多岐に渡り、昔から日本人移住者も沢山入っております。その地下資源を目当てに、中国、韓国のボリビアへの進出は近年目覚しいものがありますが、日本の企業は出遅れている様子です。
 
今回、ボリビア・コマ大戦を開催したINFOCAL職業訓練校は、機械科、電気科、電子科、調理科、自動車整備科、保育科など多岐に渡って、若い生徒達が沢山学んでおります。訓練校に通う生徒達の家庭は、皆、貧しく日本への渡航など考えも及ばなかったことが、今回のお話で、大変喜んでおります。しかし、日本への渡航となると、これから手続きなど日本では考えられない様な々な問題もおきてくるかと思いますが、何卒、宜しくお願い致します。

このメールを拝読して、ボリビアの方々にとって日本に来るということの重大さを改めて感じさせられました。ボリビアの若者を日本に招聘することは、彼らの人生まで変えてしまうかもしれない出来事なのです。

 

(クリックで拡大画像)

「ボリビア・コマ基金」が広がっています

「ボリビア・コマ基金」が広がっています

「ボリビア・コマ基金」が広がっています

「ボリビア・コマ基金」が広がっています

「ボリビア・コマ基金」が広がっています

「ボリビア・コマ基金」が広がっています

平野さんからのメールには、ボリビアで撮影した様々な写真が添付されています。それらの写真を組み合わせて、「ヨコハマNOW」の辰巳編集長が「ボリビア・コマ基金」の動画を制作してくれました。
是非ご覧ください。(感動的です)

「ボリビア・コマ基金」の募金活動を本気で始めています。私たちの力でボリビアの若者に日本を見て感じてもらいたいのです。そして日本での経験をボリビアの仲間たちに伝えてもらいたいのです。

すでに、宿泊場所の提供やボランティアで通訳をしてくださる方など、様々な支援の輪が広がっています。

ボリビアの若者たちを日本に来てもらいましょう!!
皆様のご協力をお願いいたします。

「世界コマ大戦にボリビアチームを呼ぼう!」
   「ボリビア・コマ基金」へご協力をお願いいたします。
   いくらでもかいません。皆様のお気持ちを・・・・
 
●「ゆうちょ銀行」からお振込みいただく場合は
「記号」10250 「番号」88379271
 
●「ゆうちょ銀行」以外の金融機関からのお振込みの場合は
「銀行名」ゆうちょ銀行  「店名」〇二八(ゼロニハチ) 
「預金種目」普通預金   「口座番号」8837927
「口座名」全日本製造業コマ大戦協会
 

★「ボリビア・コマ基金」のチラシを作成しました。
皆様のお知り合いにこのチラシを渡していただきたいのです。
またこのURLを転送していただきたいのです。

http://yokohama-now.jp/pdf/bolivia.pdf

★平野さんがボリビアで開催したコマ大戦についてのレポートはこちらでご覧ください。
「全日本コマ大戦南米初ボリビア大会開催」

http://www.city.joetsu.niigata.jp/…

 

9月 10 14

浜じぃの横浜漫歩(第5回) 東海道・品濃一里塚

by staff

 

昔の街道には、一里塚が付き物だ。
東海道には江戸・日本橋から京都までの間に、実に124もの一里塚があったそうだ。
一里が約4kmだから、昔の人は片道500km弱を歩いて往き来した訳になる。

戸塚宿近辺の一里塚には、江戸から数えて9番目の品濃、10番目の吉田、11番目の原宿と三つあった。
そして一里塚の形式をほぼ完全な形で残していると言われる神奈川県内で唯一のものが、東戸塚そばの品濃にある。

確かに旧東海道を挟んで道の両側に二つの塚があり、品濃側(西側)には昔大きな榎が植えられていた。

現在は、品濃側(西側)、平戸側(東側)共に、その周辺が公園として整備されている。

一里塚公園を下ると、車が疾駆する現代の幹線道路・環状2号線に突き当たる。

そこを横断して更に進むと、大規模に開発されたタワーマンションやショッピングモールなどが林立する、東戸塚駅前の繁華街となる。

昔の幹線道路の東海道跡の静かな佇まいと現代の環状2号線の喧騒が、鮮やかな対照をなしている。

そうは言っても東海道も、昔は昔できっと賑やかなものだったのではないだろうか。

時には馬のいななきもあり、時には籠を担ぐ人足の掛け声などが聞こえる・・。

現代が余りに騒音に満ち過ぎているのではないかと思う。

私は賑やかな東戸塚の街の音を背で受け、塚の木々の風にそよぐざわめきを思い出しつつ多少感傷的な思いを抱いて、夕日の中を家路へ急ぎましたのじゃ・・。

 

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一里塚案内板
一里塚案内板

石の案内
石の案内

塚の植木
塚の植木

品濃一里塚道標
品濃一里塚道標

 

9月 10 14

第13回 災害大国日本とアマチュアリズム

by staff

 

9月は防災月間。今回は、対策の目処の立たない広島の土砂災害から思う、決して他人ごとではない現状と、その一つの解決策「アマチュアリズム」についてお話してみたい。

横浜も同じ!

広島県の土砂災害被災地に知人がいる事から、このニュースには目が離せない。
知人宅は幸いにも床下浸水に留まったが、その親類や友人には被災された方々もいるそうだ。
積み上げられた土嚢の撤去の目処が立っていない事や、希望する公営住宅の抽選に外れた多くの方々の報道を毎日目にしながら、事態の大きさと深刻さに、ただただおののくばかりだ。

自然災害により突然命の危険にさらされ、家まるごと失う。これは広島に限った事ではない。神奈川県も、もちろん横浜も特別警戒区域の多い地域。以前私が住んでいた南区の井土ヶ谷や弘明寺なども、急斜面に住宅の建つエリアだった。
「うちは急斜面じゃないから良かった~」そう考えるのも一つだ。しかし、そうも言っていられないらしい。現在日本近郊の海面水温は、過去30年間大きく上昇し続けているそうで、こうなると、これまで遠い太平洋沖で発生していた台風が、近い将来は日本に比較的近い場所で発生し、しかも大型化してこの関東にも上陸して来る可能性が高まっているのだそうだ。
巨大化した台風の直下では、想像を超える上昇気流が発生し、海水面が異常に上昇する。高潮と重なれば、地震の津波と同様に、大きなパワーを持った高波が海岸を襲う。すでに東南アジアでは、台風による高波の壊滅的被害が報じられている。横浜には、海も川もある。豪雨の被害は土砂災害だけにはとどまらないかもしれない。
災害は水によるものだけではない。4つの大きなプレートの上にある日本は、国土全体をまるでメロンの網の目のように活断層が覆う。今後30年以内に7割以上の確立で発生すると言われる首都直下型地震の際には被害を拡大させる事は間違いない。
今後、ここは絶対安心と言えるところを日本で探す事は大変困難なのだ。つまり、広島県の土砂災害や、先の東日本大震災の様に、これまでの経験をはるかに超える自然災害が襲って来る事態は、この横浜でも十分に考えられ、今はたまたま被災していないだけで、明日は被災者になるかもしれないという事なのだ。

行政を支える大きなパワー

ここで話したい事は、恐怖と不安を必要以上にあおりたてる事ではない。
これから先、これらの災害時に、どう対応していけばいいのかを検討したいのだ。全てを解決できるスーパーアイデアは残念ながら存在しない。しかし一つのヒントとして、被災していない市民の力が重要な働きをするのだとつくづく思う。もちろん災害時には県や国の行政の役割は大きい。専門的な知識を持ったプロ集団も欠かせないだろう。しかしそれだけでは、必ず不十分というケースが発生する。一つの自治体だけでは対応できないケースや、「公平性の担保」が足かせとなり、行政では対応できないケースなどがそれに当たる。

今回の広島の場合では、家の土砂を土嚢につめたが、それをどこに持っていくか苦慮していたり、公平性の担保を理由に、足が悪く1階にしか住めない被災者でも、1階の公営住宅を優先的に抽選してもらう事はできない。

しかし、民間なら、市民なら。できる事もある。
もし、ボランティアに現地に行った人たちや県内の人たち、または全国の人たちが、土嚢をひと袋ずつ家に持ち帰ったらどうだろう。短期間に土嚢は減少するのではないか?
もし、個人所有の土地や空家を安く提供してくれたらどうだろう。今より多くの被災者に、希望に近い仮住まいが提供できるのではないか?

あくまで思いつきの素人のアイデアだから、いか程の現実性があるかどうかはわからない。
しかし、ここで言いたいのは、もし自分に、あるいは、自分の家族が今被災していたらと、リアルに想像し、当事者でない(被災していない)人達が、当事者意識を持って、何か出来る事を探すという市民の力が、これから大切になるのではないかという事だ。

広島から遠く離れた私たちにも出来る事はある。ありきたりだが、例えば寄付だ。私はカードのポイントを利用した。ヤフーポイントが数千円溜まっていて、これをサイトから寄付した。いくつかのボタンを数回押すだけで簡単に寄付ができた。言わばただでもらったポイントだ。自分のお財布が痛むわけではない。実にお手軽だが、誰でもすぐに出来る事であり、全国のヤフー会員がこれをしたら、莫大な金額になり、大きなパワーとなる。

アマチュアリズムの必要性

話は変わるが、先日、教育関係者向けのイベントを開いた。その際にご登壇いただいた東京大学の小玉重夫先生が、「アマチュアリズム」についてお話くださった。これまでプロ(専門家)がプロの視点で問題解決に当たるだけだった事を、これからはアマチュアがアマチュアの視点で問題解決に当たる「アマチュアリズム」が求められる時代だとお話されていた。

ヤフーポイントの寄付もまさにアマチュアリズム。ポイント寄付だってお手軽だっていいじゃない。アマチュアのやり方で、アマチュアの視点や発想で事に当たる。こういうアマチュアリズムの蓄積が、これからは大きな役割を果たしていき、行政の限界を埋める大きなパワーになるのだと強く思う。先ほど素人のアイデアと言ったが、土嚢の持ち帰りだって、行政では考えつかないアマチュアの発想だ。悪くないのかもしれない。

これから益々の増加が予想される大型自然災害。
全国の被災していない人々が、他人事とせず、被災者に対して出来る事を少しでも実行に移す事が当然の世の中になったなら、全国の人々が「もし自分に何か起こったとしてもなんとかなる」と、少し安心できる日本になるのではないだろうか。

プロフィール

ペンネーム: 津木 雫(つぎ しずく)
オヤジ・オバチャン・オトメのO3マインドを持つ、なんちゃってコラムニスト。
約20年間メーカー勤務。広報・マーケティングを経て、現在フリーランス。
典型的な仕事人間という生活を過ごし、はたと気がつけば人生の折り返し地点。「さぁどうする!」と我が道を振り返っている真最中。
学生時代に、約15カ国を貧乏旅行。
その経験から、今の若者が育つ環境には、問題を自らの力で乗り越える体験が不足していると、感じている。若者教育関連のNPOを立ち上げ、神奈川を中心に現在活動展開中。

今月の1枚:芸術の秋


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<コメント>
毎日が少しずつ秋らしくなってきました。秋と言えば芸術の秋。おうちに小さなアートスペースを設けてちょっとだけリッチな気分を味わってみてはいかがでしょう?

 

9月 10 14

キッチンスタジオ「ジュイエ」の天才をつくる料理事典(第12回) 噂のココナッツオイルって? &9月料理コースのご案内

by staff

ココナッツオイルって、知っていますか?

お盆明けの、厳しい残暑にばてていたら、がくん! と涼しくなったり。でもまだまだ、暑くなるかも!? 油断出来ない季節です。

暑い時期に、氷の入った冷たいものばかり召し上がっていた方は、この時期に胃腸の疲れが出やすく、だるさや食欲不振になりがちです。今からでも遅くないので、身体を温めるようにしてくださいね!

飲み物は常温、または温かく。入浴時には湯船に浸かる。これだけでも少しは変化が感じられると思います。

さて、突然ですが、『ココナッツオイル』はご存知ですが?

モデルのミランダ・カーさんが愛用しているとかで、美容や健康に気を使っている方々の間で火がつき、その後、一般的にもちらほら聞かれるようになっていますね。この夏、各飲料メーカーがこぞって、ココナッツウォーター製品を販売したのに、気づかれた方もいるのではないでしょうか?

こちらのココナッツオイル、さて、何がいいのか?

 


ココナッツオイル

様々な特徴があるのですが、コレステロール値を下げる、免疫力を上げる、抗酸化作用がある、保湿力がある、代謝が上がる、などなど。

ちょうど、この夏の疲れが出やすい時期に、ピッタリの油ですね!

こちらは、食べてもよし、身体や顔、髪に塗ってもよし、なんです。

身体に塗る効果としては、なんといっても保湿です。日焼け止めにはなりませんが、サンオイルがわりとして、肌にダメージを与えにくく、奇麗に日焼け出来るそう。また、日中紫外線を浴びて乾燥した肌にも潤いを与えてくれます。高い、抗菌作用もあるので、虫さされ痕にもいいそう。小さなお子様にも安心ですね。夏の日差しでダメージを受けた、髪やお肌を蘇らせましょう。

食べる方は、炒めもの、揚げ物などに使ってもいいですし、簡単なのが、コーヒーや紅茶に入れること。食品ですから、一回食べてすぐに効果が出るものではありません。毎日、少しずつ、継続していただくと徐々に変化を感じられるでしょう。飲み物に入れると手軽ですし、油はエネルギー源になりますから、おやつ代わりに頂く事で,より活動的に動けると思います。

また、おススメなのが、ココナッツシュガートースト!朝ご飯はパン、という方にぜひ試していただきたいですし、おやつにもぴったりですよ。

  • トースト用食パン
  • ココナッツオイル
  • きび砂糖(はちみつでも可)
  • 1枚
  • 適量
  • 適量

食パンを焼き、ココナッツオイルをかけ、きび砂糖をかける。

あっという間ですね!ココナッツの甘い香りがしてとっても美味しいですよ!

毎日のトーストを、バターからココナッツオイルにするだけでかなり効果が高くなります。美容やダイエット、老化が気になる大人の方にも、育ちざかりのお子様にもおススメです!

只今、ブームに付き、しょっちゅう売り切れになってしまってますので、見つけたら即、ゲット!ですね。

 


ココナッツシュガートースト

冷蔵庫に入れると白く固まります。常温ですとさらさらの液状。常温保存の方が、活用しやすいと思います。

 

9月の料理コースのご案内

私が行なう料理教室では、毎月、フランス料理がコース2つと、家庭料理のコースを開講しています。フランス料理は、基本コースと応用コースの2コース。家庭料理の方は幾つかのメニューよりお好きなものを組み合わせていただけます。

9月のコース内容

フランス料理基本コース 『リヨン風サラダ』
『魚の塩包み焼き』
『ブランマンジェ、ブドウのソース』
9月レッスンは、ぐっと秋メニュー。ワインにぴったり、具沢山なリヨン風サラダ。
白身魚を丸ごと塩焼き。簡単なのに、豪華でおいしい!デザートは、年中使える、ブランマンジェ。ソースによって季節感がでますよ。今回はブドウで。
 

リヨン風サラダ

魚の塩包み焼き

ブランマンジェ、ブドウのソース

フランス料理応用コース 『ズッキーニと生ハムのサラダ』
『ペスカトーレ』
『いちじくのスープ』
ズッキーニって生で食べれるの!?簡単おしゃれなサラダにします!魚介たっぷりのペスカトーレ、意外と簡単。パスタの基本をおさらいして、めちゃくちゃおいしいの、作っちゃいます。
旬のイチジクを使ったデザートはなんと、レバノンのデザート。お楽しみに!
家庭料理コース 今月も夏のニュー楽しめます。最後の夏を堪能しましょう。
棒棒鶏や、春巻きなどの中華。夏野菜の使ったラタトゥイユや、焼きナス、蒸しナス、などの定番料理など。お好きなメニューをチョイスして下さいね。

 受講日程や、受講方法などは、キッチンスタジオ・ジュイエのホームページより、『料理教室』のページをご参考ください。

http://www.7juillet.com/kyousitu.html

プロフィール


フード・エデュケーション・コミュニケーター
キノケイコ

 

フード・エデュケーション・コミュニケーター キノケイコ

女子栄養短期大学卒業 栄養士免許取得
エコール・キュリネール国立(現 エコール辻東京)にてフランス料理を学ぶ
同校 フランス・リヨン校、フランス1つ星レストランにて研修。
帰国後、都内フランス料理教室にて、アシスタント、講師を務める
独立し、キッチンスタジオ・ジュイエ開設。
現在、フランス料理のみならず、家庭料理、玄米、麹料理など幅広い分野を得意とする。
URL:http://www.7juillet.com

 

9月 10 14

ビジネス梁塵秘抄「遊・献・学」(第18回)

by staff

大浦総合研究所 代表/大浦勇三

ビジネス梁塵秘抄「遊・献・学」(第18回)

遊びをせんとや生れけむ、戯れせんとや生れけん
遊ぶ子供の声きけば、我が身さえこそ動がるれ

- 梁塵秘抄 -

 “すばらしい仕事があるのではない。すばらしく仕事をする方法があるのだ” と言い切ったのはウォルマートの創業者サム・ウォルトン。半世紀前に米国の地方の一店舗からスタートしたウォルマートは2014年には1万店舗、売上高は約50兆円、従業員数は約200万人にまで成長。流通業界におけるコンピュータの潜在力にいち早く目をつけて、一店舗の時代に自らコンピュータ・プログラミングの講習会に出かけたといいます。“ビッグデータ時代” が叫ばれますがウォルマートはその先駆者。早くから世界中の顧客購買データ(現在は週に約3億件)の収集&分析を実施。それが現在の販売促進・新商品開発・在庫管理などの基盤になっています。基本理念は “顧客の期待を超えなさい” “競争相手よりもうまく経費をコントロールしなさい” “逆流へ向かって泳ぎなさい” 。梁塵秘抄では “頭に遊ぶは頭虱 頂(おなじ)の窪をぞ極めて食ふ 櫛の歯より天降る麻小笥(おごけ)の蓋にて命終わる” とあります。人の頭の上で生きる虱。人間の一番柔らかいところを食べて生きていけて天国のようにもみえますが、櫛で一気に?き落とされる怖れも。幸運の中でも油断しない姿勢が必要という戒めでしょうか。サム・ウォルトンは日本人好みの不器用で泥臭いタイプ。 “器用ではなく不器用だったからこそ、努力を重ねて白磁が焼けた” と語る陶芸家の井上萬二さんと通じるものがありますね。

“遊びをせんとや生れけん” 「遊」

経験や知識を体系化して伝える 教育とは激変を乗り越える知恵の修得
グローバルスタンダードの呪縛を解く 不純も包含しながら懐深くする
日本人 楽しむことを悪とみない民族 精神的な遊びを大事にした歴史
怒りは人の可能性を消す 振り向くな 後ろには夢がない、と寺山修司

 寺山 修司は戦後を代表する劇作家の一人で “天井桟敷” を主宰しました。メディアの寵児的存在であり“言葉の錬金術師” との異名をとり、歌人・俳人・演出家としても幅広く活躍。 “マッチ擦るつかのま海に霧ふかし身捨つるほどの祖国はありや” は歌人としての代表作といわれます。日本人は昔から楽しむことを悪とみない民族。 “花見” “紅葉狩” “祭” “歌舞伎” “落語” “俳句” 何でもあり。ただ、遊びや人生には上手下手が付きもの。しかも主役と脇役が頻繁に入れ替わる世界。悪口を言われる方が主役で、言う方が脇役というのが世間。現実をイリュージョンによって覆すことをめざした寺山修司の世界はイリュージョンがそのまま現実に。先例や知識は役に立たず、主役・脇役が瞬時に交代する時代に。修得すべきは想像力と人間学、現実を平気で乗り越える野生の知。 “絶対優勢は絶対不利につながり、絶対不利は絶対優勢につながる” とは大山康晴永世名人。

“仕事をせんとや生れけん” 「献」

どの組織でも 上昇期にこそ問題の種が蒔かれている
落ちながら昇っていく 何でもないようで実際は大変
想定内リスクは設計に反映、でも想定外は必ず起こる
マキャベリ 時にはマキャベリズムを頑なに否定する

 “人間は自分の持ち物と名誉さえ奪われなければ意外と不満なく生きていける” とマキャベリ。だからこそ、マキャベリは平気でマキャベリズムを否定できたのかもしれません。分析に時間をかけても限度があり、最後は直感・生命力の勝負。運命を引き寄せる技量こそが重要だと繰り返し説いているのも頷けます。東日本大震災では、 “あり得ることは起こる、あり得ないことも起こる” “すべては変わる。その変化に柔軟に対応する” ことの大切さを痛感したばかり。何をやるにも最後は、その仕事が好きで好きでたまらないという人材の存在であり、運に恵まれようと見放されようと常に態度を変えないサムライの出現。教育の本質は “人間社会とは何か” を教えるもの。 “安定” した人生や生活はあくまでも理想の世界。それでも、他人のせいにせず、あるべき理想の世界を持つことの素晴らしさ。 “絵をなすのは手ではなく眼だ” と喝破したのはルノワールです。

“学びをせんとや生れけん” 「学」

ミュンヘン五輪、男子バレーで金メダル 松平康隆監督の洞察の勝利
世界一位の旧ソ連(ロシア)に留学 ソ連が世界一になる手法を学ぶ
日本が世界一になる手法をひたすら模索 ウルトラ時間差やクイック
スポーツ世界におけるリベラルアーツ(地力・底力)導入という独創

 ミュンヘン五輪男子バレーボールを率いたのが松平康隆監督。逆立ちをして9メートル以上歩けるようにする練習までさせました。スポーツの世界におけるリベラルアーツの先駆け。“9メートル以上でないとオリンピックに行かせない” と言われて一番苦労したのが、何とエースの大古選手だったとか。現在の速攻・移動・時間差などといった攻撃システムの原型を築いたのも松平監督。世界のライバルが強敵日本を研究し尽くす中で、 “いつでもどこでも勝負は自分の得意技できめるものだ。たとえ相手がこちらの得意技を隅から隅まで調べ尽くしたとしても、なお得意技で押しに押す。それ以外に道はない” との信念を貫きました。今でも大逆転劇の準決勝戦をビデオで見ると身震いしますね。最後は修羅場を乗り越えて金メダル。指導者とは、教える人間ではなく自力で知恵を生みだせる人間を育てること、知を注ぐのでなく引き出すこと。まさに達人の域ですね。

「遊びは仕事、仕事は遊び」
「仕事は学び、学びは仕事」
「学びは遊び、遊びは学び」

 今回とりあげた「遊・献・学」それぞれの4行文は、拙書「ビジネス梁塵秘抄(一)~(九)」(全10巻)から抽出したものです。次回以降も「遊・献・学」から各々4行文を一つずつ抽出してご紹介していきたいと思います。

「ビジネス梁塵秘抄」購入ご希望の方はこちらからどうぞ!
http://www.syplus.jp/ooura/

(第18回了)

 

大浦勇三(おおうら ゆうぞう) プロフィール

大浦勇三(おおうら ゆうぞう)  

大浦総合研究所 代表 (http://www.mmjp.or.jp/ooura/

石川県七尾市出身。
早稲田大学卒業、筑波大学大学院修了。
米国経営コンサルティング会社 アーサー・D・リトル 主席コンサルタントを経て現職。
主担当領域は、経営改革/企業再生、経営戦略/情報通信技術戦略策定、業務改革/組織改革、研究開発/商品開発マネジメント、マーケティングマネジメント、ナレッジマネジメント、イノベーションマネジメント、サプライチェーンマネジメント、人材マネジメント、コーチング/メンタリング、プロジェクト/プログラムマネジメント、ベンチャービジネス支援等のコンサルティング。

筑波大学大学院講師、城西国際大学客員教授、名城大学講師、産業能率大学講師、中小企業大学校講師などを歴任。

主な著作物:

  • 「ビジネス梁塵秘抄(一)~(九)」<全10巻>(大浦総合研究所:PDF版)
  • 「イノベーション・ノート」(PHP研究所)
  • 「ITプロジェクトマネジャーのためのコーチング入門」(ソフトリサーチセンター)
  • 「図解 日本版LLP/LLCまるわかり」(PHP研究所)
  • 「IT技術者キャリアアップのためのメンタリング技法」(ソフトリサーチセンター)
  • 「よいコンサルタントの見分け方、かかり方」(清話会)
  • 「日本のモノづくり - 52の論点」<共著>(日本メンテナンス協会)
  • 「現場主導型の組織運営とスピード戦略」(日本監督士協会)
  • 「eコミュニティがビジネスを変える」<訳>(東洋経済新報社)
  • 「ナレッジマネジメントが見る見るわかる」(サンマーク出版)
  • 「図解 ナレッジ・カンパニー」(東洋経済新報社)
  • 「ナレッジマネジメント革命」(東洋経済新報社 )
  • 「図解 グローバル・スタンダード革命」(東洋経済新報社)
  • 「業務改革成功への情報技術活用」(東洋経済新報社)
  • 「情報化戦略と投資評価・システム運用管理の実際」<編著>(企業研究会)
  • 「会社改革実務辞典」<共著>(産業調査会)
  • 「プロジェクトマネジャー(PM)の育成・スキルアップのためのメンタリングの進め方と実践法」 (ソフトリサーチセンター:CD-ROM版)   など
9月 10 14

2014年9月 三ツ池だより 「老舗の味」

by staff
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急に夏が去って行ったように感じながら書いています。こんな夏はなかったのではないかと言われている。こんなことはなかったという言葉のなかに大変なことが隠されている。それは何事も予測できるなかで生き、生活しているというということになる。それでいいのだろうか。生きている、生かされていることすら不思議なこと、感謝すべきことなのです。

9月はどんな月なのであろうか。俳句に見てみよう。

火だるまの秋刀魚を妻が食わせけり
秋元不二男
あす死ぬるいのちかもしれず秋刀魚焼く
三橋鷹女

秋刀魚の季節になったが今年は海流の関係で少し水揚げが遅れているようです。今年も口に入れた秋刀魚のうまいこと、あいかわらずはらわたに大根おろしをあわせて食べた、顔がほころんだ。

日曜の空とコスモスと晴れにけり
久保田万太郎
秋霧や河原なでしこりんとして
小林一茶
すわればまだ咲いているなでしこ
山頭火

秋の空に合わせて花が際立つときだ。暑さを通り越してやっとほっとするときでもある。

女こびて秋海棠に何思う
正岡虚子
書を愛し秋海棠を愛すかな
山口青邨
病める手の爪美くしや秋海棠
杉田久女

愛しさを感じる季節になって、自分を見つめ、時には手の爪を見やる。秋海棠というと鎌倉の浄智寺をなぜか思い出す。

虫なくや我れと湯を呑む影法師
前田普羅
葉鶏頭遅速もなくて日和かな
飯田蛇笏

自分の近くに誰かいてほしい季節である。虫の声に季節の移ろいを感じ、時のながれに自分の今を映してみることが多くあます。

やることが見えてきて、充実する、させる、取り組む時です。

さて何時何が起こるかわからないといわれるなかで、仕事づくり、人づくり、夢づくりをしながらの「はかり」事業を私はしてきました。あるときに私はありがたい言葉をかけられました。そこから新しく見えてきたことがあります。

「お宅の会社は創業50年だよね。老舗っていうんだよね!」 「はぁ!」

老舗の条件を考えてみると(1)先祖代々の業を守り継ぎ、 (2)長年の営業で顧客の信用・愛顧を得、(3)今なお繁盛している店のことです。 “永続”と”繁盛”が二大条件になります。

今老舗といわれる企業の規模からみると、売上は5億円以内の会社が7割をしめる。従業員は9人以下の小企業が50%を超え、地場で家族を中心に地道堅実にやってきた家業レベルの小商いが50%を占めています。京の老舗についてつぎのような文を見つけました。

老舗もまた最初は新店です。そこから何世代にもわたって、変動する情勢を読み、激しい競争を勝ち抜き、天災や戦乱にもめげず、 時代を乗り切ってきました。ある時には、「新しがり屋だ」「無謀だ」と叩かれても、 思い切った発想で改革を断行しなければならない。 それが”若返り”を生み、次の時代へ向けての生命力となるからだ。京の老舗は目先の利益に走らないで、稼業の商売を細く長くいつまでも続くことに最大の重点をおいてきたようだ。「商いは牛のよだれのようなもの」といわれるゆえんだろう。

牛の涎を汚いとみるか、よく噛み砕いてじっくり消化していく行動とみるか。ただ続いているからいいというのではなく、もちろん利益は必要である。そこでは不義、不当な利得を戒めているのだ。お客様に喜ばれた事業で、正々堂々と商いをし、やがて信用を得て老舗となる。それは社会の役に立つことに存在価値を置いていることなのだと。

「お宅老舗だよね?」と本当に言われたとしたら嬉しい。「老舗」を目指してきたわけではなく、日々どのようにか「役に立ちたい」の一心で生きてきた。お客様のお叱りもなかった訳ではない。失敗がなかったわけではない。これからも平坦な道ではない。創業50年を迎え、ここにきて「老舗」を意識するときが来ているのだと思う。意識できることに誇りを持ちたい。ある方が昨年次のような文を出してくれた。「はかりのはかり屋 株式会社メジャーテックツルミ」の系譜は“三代前から計量士”伝統を持つ京浜工業地帯を支えるメジャメント会社である。

さて、外に目を向けてみると心配事がやまずみである。国際平和などほど遠い。異常天候が世界中に起こっている。ところで文明の発達したところは間違いなく、衰退し、砂漠化している。短いスパンではみえないことである。外交のなかに老舗という考えを入れてみる。老舗の国がどこで、新興の国がどこかと区別してみる。双方の調和は難しいとしても、少なくとも死の連鎖は止めなければいけない。自国の発展を犠牲にしてでもこの死の連鎖に異議を唱える国が表れないといけない。日本の森を残す運動も経済発展には逆なのかもしれない。しかしこれからの時代は良質な酸素を持てる国が優位に立つ。だから70年前の戦後に、食糧の輸入に踏み切った舵を真剣に戻す政策が求められる。高度な近代化が進んでも、その発展の先にとんでもない衰退が訪れるのは歴史が示している。立ち止まる勇気が求められる秋が来ている。地域で農業を営む人たちが森も手入れしてきた。それらに目もくれず地域振興の名のもと、都会資本があちこちに入り込み、農業というコミュニティ社会に侵略していった。酸素をキーワードにして地域間交流と経済交流の発想をするべきではなのだろうか。秋の夜は長い。日の出る国、日本のあるべき姿を語る時間もぜひ取りたいものである。

 

Photos

(画像をクリックすると拡大写真が表示されます)

     
     

(文・写真:横須賀 健治)

横須賀 健治プロフィール

メジャーテックツルミ 代表取締役
はかることのプロとして50年です。
食品の放射能測定のアークメジャーを設立しました。
「計量から見える幸せ」をライフワークにしています。

 

9月 10 14

書評 「人間の真実はパスカルの“パンセ”に存在する」 佼成出版社 渡部昇一 著

by staff
 

「クレオパトラの鼻、それがもう少しひくかったら、地の全面はかわっていたろう。」この言葉がパンセに書かれているのを知ったのはこの本を読んでからであった。人間とは何かを少し考えたいと思っていた時に、渡部昇一さんのパンセの本を書店で見つけた。

パスカルが人間研究に向かったのは理由がありました。ある時「よりどころをいっぺんに失い、孤独にたえかねたのでしょう。健康のため以前から医師に気晴らしをすすめられていたこともあり、パスカルは上流階級のサロンに通うようになります。社交界というところは楽しいところでしたが、次第に失望していきます。パスカルは冷静に人間観察を続けて、こう言っています。 “教養人は、詩人とも、幾何学者とも、その他のものともよばれないが、しかも、それらのすべてであり、またすべてのものの批判者である。” これはパスカルの鋭い人間観察眼といえるでしょう。」こう考えるのです。

そしてパスカルはサロンに集う人々との交わりで繊細なる精神を学ぶのですが、敬虔なキリスト教信者であるパスカルにとって、信仰の話についても世間話のように軽薄に愉快に話す人たちは、その点においては許されざる人々だったのです。そして「キリスト者になりえぬとしたら、せめて真人間になるがよい。」とパンセのなかで皮肉を込めてそれらの人を称賛していると言います。

「人間は、生来、信じやすくて疑いぶかく、小心であって大胆である。」それは、じぶんを偽っているということでもあります。「パスカルは謙虚さについて話す時に、謙虚に話す人は少ない。懐疑論について話すときに、懐疑的に話す人は少ない、と言っています。要するに私たちは、思う、それは思わないにかかわらず、ウソや矛盾だらけで生きているのです。」渡部さんは続けて言います。「人間は、どこかへばりついて意思を貫き通すほど、固定はしていない。宙ぶらりんな存在であると思うべきです。それがわかっていれば、軽々しく人をせめることもなくなるのではないでしょうか。」

「わたしは、考えない人間を想像することはできない。そんなものは石か獣であろう」それは人間だけにある特徴は、考える力であるからです。思考することによって、人間としての理性や思想が存在しうると書かれています。そして人間には言語があるからこそ、理性を自己表現できるのだと言います。「しかし、人間が他の動物より勝っているわけではありません。思考や言語は、人間を人間たらしめている特徴にすぎないのです。」われわれは自分の限界を知ろうとも言いています。計り知れない極大な宇宙の一方には、計り知れない極小の世界があると指摘し、人間はその間に存在していること。私たちには聞こえる音に範囲があり、目で見えるのもある波長の範囲になります。「人間は茫漠たる中間にただよい、つねに不確実で浮動し、一方の端から他方の端へ押しやられる。それゆえに、われわれは確実や安定を望んではならない。人間は本質的に不安定な状態であるから、確実や安定を望むのです。しかし、そもそも堅固な足場がないのだから、確実や安定は望むべくもないのです。だから、確実や安定にこだわるな、とパスカルは教えているのです。」

「パスカルは、神は隠れていると言います。それは、すべての人の前に姿を見せるわけではないということです。もし、まったく姿を見せなければ神を信じる人はいなくなり、誰にでもわかるように姿を見せていれば、信じることがおろそかになってしまいます。」

またこうも言います。

「真の奇跡がなかったら、かくも多くの偽りの奇跡があるはずはなく、真の啓示がなかったら、かくも多くの偽りの啓示があるはずもなく、真の宗教が一つもなかったら、かくも多くの偽りの宗教があるはずもないからである。」神を知る人々は二種類だけだとも言っています。それは謙虚な心を持った人と、どんな障害にあっても真理を見る心を持った人であると。

「うちなる時間に耳を澄ます」それは主観的な内なる時間を指しています。「上流から海まで同じ速さで流れている川があるとします。朝早く、その川の上流から海へ向かって川沿いを歩き始めました。はじめのうちは元気に歩いているから、川の流れがとても緩やかに見えます。それがだんだんくたびれて、夕方になってとぼとぼ歩いている時は川の流れはなんて早いのだろうかと感じるはずです。内なる時間は、その人の状態によって変わります。ですから、内なる時間の感じ方を確かめることが近道になります。」内なる時間に耳を澄ますことで自分の今の状態がわかるというわけです。

パスカルの最後の言葉について「私は貧しさを愛する。かれ(キリスト)もそれを愛されたから。私は富を愛する。それはみじめな人々を助ける手段を供するから。」「パスカルは徹底した清貧生活を送っていました。病気の治療費のほかは慈善に回し、財産はほとんどありませんでした。時には、もっているすべてを貧しい人たちに施し、そのあとに両替屋で借金をしたこともあったようです。」渡辺さんはパスカルの繊細なる精神という考え方は私にとって爆発的刺激であったと言っています。

(文:横須賀 健治)

 

 

9月 10 14

10月23日開催! 小栗久美子 トルン(ベトナム竹琴)CD発売記念コンサート『Bamboo Family』

by staff

 

小栗久美子 トルン(ベトナム竹琴)CD発売記念コンサート
『Bamboo Family』

 今春ハノイにて、ベトナム人演奏家とともにトルンのアンサンブルを現地収録して参りました。初の試みでしたが、アレンジから演奏まで全てにご尽力頂いたドン・クァン・ウィン氏をはじめ皆様に多大なるご協力を賜り、期待以上に面白い作品を作ることができましたので、セカンドアルバムとして発売させて頂くことに致しました。

 今年の自主企画公演はその発売を記念し、CDと同タイトルのコンサート「Bamboo Family」を開催させて頂きます。ヴァン氏を日本へお招きして開催したいと考えておりましたが、来日の調整がつかずヴァン氏とステージに立つことが出来ませんが、第一線でご活躍されている素晴らしいパーカッショニストをゲストとしてお迎えし、トルンアンサンブルをはじめ、これまでにないパフォーマンスをお楽しみ頂けるプログラムでお届け致します。ご都合が宜しければ是非いらしてください。何卒宜しくお願いいたします。

2014年8月
小栗久美子

タイトル 小栗久美子 トルン(ベトナム竹琴)CD発売記念コンサート『Bamboo Family』
会  場 横浜赤レンガ倉庫一号館3Fホール
開催日 2014年10月23日(木)
開  演 19時(開場 18時30分)
入場料 3,500円(全席自由)
出  演 小栗久美子(Trung)
森川拓哉(Vl/Pf)
立岩潤三(Perc)
ゲスト 佐藤直子(Perc)
容昌(Perc)

チラシダウンロード(PDF)


 

チケット取り扱いとお問合せ

チケット取り扱い:電子チケットぴあ [Pコード:236-922]
http://t.pia.jp/  TEL:0570-02-9999

お問合せ:o.g.music(オージーミュージック)
       TEL:045-593-1859 FAX:045-593-1496 MAIL:o.g.music@trung.jp

 

9月 10 14

第22回 どあっぷ 「『Forest Nova☆』を取材」

by staff

みなさんこんにちは!
シチズンシップ教育の普及をめざすために活動している、NPO法人ど・あっぷ!です。
このコーナーでは、市民度の高い人や団体を、ど・あっぷ!が勝手に紹介します。
記事の最後には団体のFacebookページのURLやTwitterのアカウント名も載せていますので、ぜひぜひそちらもチェックしてみてくださいね!

 

「ど・あっぱーず☆見つけ隊」vol.13
「人と森との共助共生社会をめざす」「Forest Nova☆」

 今回は麻布大学の学生さんたちが中心になって活動している学生団体「Forest Nova☆」さんの取材をしてきました。団体のユニフォームであるオレンジのつなぎを着て取材に応じてくださったのは、麻布大学の学生さんであり、団体の代表である山田和彦さんです。今回は団体がどんな魅力的な活動をしているをみなさんにお伝えするだけでなく、読者の皆さんも参加できる活動の情報も発信していきますので乞うご期待!

Forest Nova☆とは?

  Forest Nova☆とは麻布大学や東京農業大学などの学生達が集まって活動している、インターカレッジの学生団体です。Forest Nova☆は「森と人間の共助共生を目指す」ということを理念に活動をしています。活動内容は実にユニーク!麻布大学のある相模市を中心に活動しているNPOと協力しながら、地元にある森の間伐作業をすることで森林の管理をしたり、植生調査を行っているのです。だからユニフォームもつなぎなんですね!Forest Nova☆はそれだけでなく、子ども達を実際に森に招いたり、また間伐材を使用したものづくりワークショップを実施することによって、森の機能について若い世代に発信する活動も行っています。

Forest Nova☆の最大の魅力は「自分達のフィールドをもっている」ことかもしれません。日本の森の3割は国有地であり、残りの7割もほとんどが私有地だそうです(参考:林野庁)。したがって、学生達が森林保全の活動をしたいと考えても、当然勝手に森の中に入って活動をすることはできません。森は資産ですから、そう簡単には「勝手に使っていいよ」だなんて言う所有者はいないのではないでしょうか。その点、Forest Nova☆は自分達のフィールドを持っているため、他の学生団体では実施できないような実践的な取り組みが行えます。実際に、実践的な活動ができることに惹かれて団体に入る人もいる、と代表の山田さんは教えてくれました。

間伐をする意味

  Forest Nova☆は現在「日本の森を変える!」をスローガンに活動しています。このスローガンの背景には日本の森林、特に人工林が抱えている問題があります。

 日本にある森林の半数近くは人工林だと言われています。人工林とは、簡単に言ってしまえば人間が手を加えた森林です。商業用に作られた森林は、利益率を上げるために木が混み合って生えがちです。ある程度木が成長すると葉が生い茂り、十分な日光が地面まで届かず、土壌が育たないため、木が根を張ることができません。そうすると、大雨が降った時に根ごと流れてしまうのです。こうした被害を防ぐためには、日光が入るように木を間伐する必要があるのです。人工林は上記のように人間の手入れが必要ですが、林業に携わる人の数は減っており、なかなか手入れが追いつかない状況です。Forest Nova☆は、そんな現状を打開するために、自身の力で森林の手入れを行っています。

ぜひぜひ参加してみてください!

 Forest Nova☆は森林を借りて活動を行っているため、地元の住民の方々との交流が活発だそうです。その結果、活動の一環として地元のお祭りにブースを出すそうです。そのお祭りの名は「小原本陣祭」です。11月に開催されるお祭りで、相模湖駅が最寄り駅となります。Forest Nova☆はものづくりのワークショップを実施する予定だそうです。身近にある森林について、楽しく学べる機会だと思いますのでぜひぜひご参加いただければと思います。

 また、Forest Nova☆は現在ともに活動をしてくれる学生さんを絶賛募集中だそうです。実際に活動ができる団体はなかなかありませんから、興味を持たれたならば即連絡をとってみることをオススメします!どこに連絡すればいいの?とお悩みの方や、もっとForest Nova☆について知りたい!と思いの方は以下に記載してある連絡先を参考にしてください!!

Facebook: https://m.facebook.com/forestnovainfo…
Twitter: @ForestNova_info


右:Forest Nova☆代表 山田和彦さん/左:インタビュアー 大越実花

編集後記

 最近雨のふり方に驚くことがあります。台風が来ているわけでもないのに大粒の雨が突然強い勢いで降っているのを見ると、なんとも言えない不安感が立ち現れるとともに、10年前とふり方が変わっているのではないかと訝しんでしまいます。8月は雨が短時間に集中的にふったための、非常に痛ましい災害が起きてしまいました。自然災害を未然に防ぐことは残念ながらできませんが、規模を小さく抑えることは可能だと私は考えます。その策の一つがForest Nova☆の行なっている活動でしょう。私はチェーンソーの使い方を知っているわけでもなければ、間伐の仕方を知っているわけでもなく、森林に関する問題に対して具体的に何ができるわけではありません。しかし、森林の問題に正面から向き合っている人々を応援することや、そもそも問題があると学び、知ることは問題を社会全体で解決するために必要なステップだと思っています。この記事が何かしらのきっかけになれば幸いです。


http://www.youtube.com/user/douptv

(写真・イラスト:NPO法人ど・あっぷ!(DO UP!) / 文:大越 実花)

 

★ど・あっぷに「参加したい」、「ワークショップをやってもらいたい」、「ミーティングを見てみたい」等等、どんなことでも結構です。ご興味がありましたら、是非ご連絡ください。

ど・あっぷへのお問い合わせ form1.fc2.com/form/?id=161559
ど・あっぷHP www.citizendoup.com/index.html
日々のど・あっぷ ブログ 「ど・あっぷVOICE」 doupblog.blog123.fc2.com/
「ど・あっぷ!」Facebookページ www.facebook.com/doup.doup.doup

 

9月 10 14

本牧ラプソディ(第3回) 本牧ベースキャンプ体験のパフォーマンス

by staff


 
 

 

サロン・アカデミー「sho & jeric」チーフベリファイア 久留原 昌一郎

PROLOGUE 連載に寄せて

初めに。
来年古希を迎えるにあたり、私の人生の起点となった横浜本牧での体験やエピソードを寄稿すると共に、21世紀を担う皆さんに本牧スピリットを伝えて横浜発展のお手伝いが出来れば幸いです。

 

本牧ラプソディ(第3回) 本牧ベースキャンプ体験のパフォーマンス

一昨日に中国支店より帰国しました、今回はシンガポールでパートナーと事業ミーティングをし夜行便で香港移動後にフェリーで支店のある中国広東省中山市(革命家孫文の出身地)行きサロン営業と幹部会議をしてきました。

今回の移動中に空港、市街地で感じたことは東アジア諸国は外資企業の参入により経済成長が著しくアジア系の旅行者の増加、市街地公共施設のインフラ整備の充実や日系レストラン、日系美容サロンの増設などを体感しました。

東アジア諸国では”日本ブランド”食、装飾、美容、アニメなどが人気で今後も発展するように感じました。

このように海外諸国との業界交流を出来るのも60年代に体験、経験した本牧ベースキャンプカルチャーが基になっていると最近特に感じています。

10代の多感な時期の体験経験はその後の人生に大きく影響するので親族の子供や孫達と美容学校生徒達そしてサロン客に”自分探し”の海外体験を進めています。

私も60年代に本牧ベースキャンプ時代を卒業して東京で美容師修行して地元横浜で美容室開設、業界メーカー講師活動後イギリスでアカデミー開設、職業訓練指導員(NVQ)をして帰国後美容学校外部教師、横浜元町と中国で美容室開設と多様な業務に携わっている現在です。

ヨコハマNOWの読者諸兄にも海外キャリアをされている方も多数おらると思いますが現在・未来に続く人生に10代の体験が大事と共感していただけるとことでしょう。

今回の中国支店出張で中国の民間レベルでは他の東アジア諸国と同様に日本の就業スキル、ファッション、食文化のクオリティの高い評価です。いつも訪中の度にお客様から”今、日本での流行は何”と聞かれますので”ネットでチェックしてください”と応えると報道規制(特にFacebook,LIINE)があるので出来ないようです。

今後も政府間の動向にとらわれず民間レベルで交流を図り更に”日本ブランド”を東アジア諸国に広めることを本牧カルチャーを基に活動しますのでヨコハマNOWの読者諸兄の皆さん宜しくご支援ください。

次回は海外で活躍している美容師達の動向を紹介します。

 

(クリックで拡大画像)

本牧ベースキャンプ(USA)カルチャー

本牧ベースキャンプ(USA)カルチャー

本牧ベースキャンプ(USA)カルチャー

本牧ベースキャンプ(USA)カルチャー

(写真:久留原 昌一郎)

サロン・アカデミー「sho & jeric」 チーフベリファイア 久留原 昌一郎

 

サロン・アカデミー「sho & jeric」
〒231-0862 神奈川県横浜市中区山手町184-21 2F
TEL.045-625-0515 FAX.045-625-0515
営業時間:AM10:00~PM8:00
定休日:毎週火曜日+1日(平日不定)
Websie http://sho-jeric.com/

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9月 10 14

秋のイベントシーズンが始まります!

by staff

 

今度は名刺になりました

6月号でお伝えした名物会のポスター、今度は名刺になりました。
中々、「粋」です。

今度は名刺になりました
今度は名刺になりました

 

秋のイベント。光陵祭に初出展します!

いよいよ秋のイベントシーズンです。
今月も(8月はお休みでしたが)、第一日曜日はごうどいちです。
9月は7日(日)開催なので、今号が発行されるころには既に終了していますね。
そして、その翌週末、13日(土)・14日(日)は地元・保土ヶ谷の名門、光陵高校の文化祭(光陵祭)があり、名物会が初出展させていただきます。
光陵高校は、毎年、イベント出店させていただいている権太坂小学校のほぼ向かいにあるのですが、名物会としてはこれまで、殆どお付き合いがありませんでした。
そこで!
権太坂と言えばやはりこの人、鉾立商店さんの<顔>で繋いでいただき、今回の出店に至りました。

とは言え、今回は高校の文化祭への出店。いつものように各店の商品を販売するのはNG。
となると、何をして良いやら。しかも2日間。ということで、色々と考えてみました。

何と言っても、光陵高校は旧東海道・権太坂にあります。
それにも関わらず、残念ながら学生たちは保土ヶ谷宿のことも権太坂のこともほとんど知りません。
ということで、前号でも少し触れさせていただきましたが、パネル展示や資料配布を中心に、保土ヶ谷宿の歴史や名所・旧跡などのPRを行います。

そして!
更には(現時点でまだ試行中ですが・・・)、各店オリジナルのプチ講座(?)やミニプレゼンテーション(?)なども企画しています。

 

おせんべいができるまで(?)

それに向け、只今、悪戦苦闘しながらアイデアを絞り出しているのが保土ヶ谷せんべいの飯島さん。
保土ヶ谷せんべいさんは「本格炭火手焼き」のお煎餅屋さんです。

なのですが・・・。
今、どんなお煎餅でも「手焼き」という言葉が使われているため、これだけでは中々、お客様に響かないのが実状です。
しかし、保土ヶ谷せんべいさんのお煎餅は、昔ながらの窯を使って「炭」で焼いた本当の職人の手焼き煎餅です。

今回の光陵祭では、各道具の写真を使って、お煎餅ができるまでの行程を飯島さん自らがプレゼンテーションに挑戦する予定です。(14日(日)の予定・詳細未定)

光陵祭は、学生以外の一般の方もかなり参加されるイベントだそうです。
皆さまも是非、いらしてください。ご来場お待ちしています。

 

(クリックで拡大画像)

窯

網

【光陵祭】
 日 時 : 9月13日(土)11:00~15:00
           14日(日)9:00~15:00
 会 場 : 神奈川県立光陵高校
       横浜市保土ケ谷区権太坂1丁目7番1号
       【参照】光陵高校ホームページ
        http://www.koryo-h.pen-kanagawa.ed.jp/

 

レポーター プロフィール

山田浩和(やまだひろかず/Yamada,Hirokazu)

合資会社 笑う門 代表社員
保土ケ谷宿名物会事務局

1971年8月生まれ。獅子座のO型。保土ケ谷生まれの保土ケ谷育ち。
2003年、合資会社「笑う門」を設立。<オンリーワンの価値創り>のお手伝い。
会社設立時に制作したミニコミ誌がきっかけとなり、保土ケ谷のまちづくりにドハマリ。
現在、歴史や地産地消など、地域資源を活かしたまちづくりに幅広く取り組んでいる。

合資会社 笑う門 http://www.warau-kado.com

各社・各店・各個人が持つ十人十色・百人百色の目に見えない財産(経験・体験・知識・技術・ノウハウ・アイデア等)を活かした販売促進企画・商店街活性・まちづくりを推進しています。

業務内容 :
 ●シンボル制作
  ネーミング / シンボルマーク / ロゴマーク / キャラクター企画・制作
 ●広報(コミュニケーション)媒体制作
  ・簡易版会社案内(A4版三つ折り)制作
  ・ニュースレター(A4版)制作
 その他、フライヤー / ポスター / 小冊子 / 名刺 / のぼり旗 / エコバッグ / ユニフォーム、など

ヨコハマNOW掲載情報

 

9月 10 14

第25回 作家金物はいかが?

by staff

マツイリミコ建築設計事務所
松井 理美子

作家金物はいかが?

建築設計のお仕事には、金物の選定もあります。コートフック、カーテンレール、パーティション枠、テーブル脚、表札など。これらを扱っているメーカーやショップはたくさんあります。一般的にはカタログやWEB上で選択し、お客様や場合により施工者と相談して決めていきます。わたしの場合、作家(アーティスト)にお願いしてオーダーメイドの金物をつくるように心がけています。サイズや塗装など、好みに合わせての一点モノなので‘味’があります。メーカー品を品番を指定するほうが、スムーズで収まりも安心ですから、施工者にとっては扱いやすいのかもしれませんが。。。今のところ、作家が制作する金物(以下、作家金物)をつかうのは商業施設の場合が多く、試着室のカーテンレールやスチール枠をつかったガラスパーティション、オフィスの打合せテーブルなどがあります。

いつもお願いしているのは、鋳物の街である埼玉県川口市で活動している金属彫刻家:杉田龍さんです。学生のころからの付き合いなので信頼関係があることに甘え、いつも無茶な相談を聞いてもらいながらつくってもらいます。普段は金属製品を制作する会社ではたらき、店舗のオブジェやショッピングセンターに展示される巨大クリスマスツリーの電飾のベースなどをつくっているそうです。開催中の横浜トリエンナーレにも協力していると聞いています。そうした仕事をする傍ら、定期的に自身の作品も制作・発表しています。個展やグループ展のお知らせが届くと、ほぼ毎回あしを運んでいます。
作品には ‘一枚の金属からいろいろなものを立ち上げていく’ という特徴があり、毎回楽しみにしています。

その ‘一枚の金属からいろいろなものを立ち上げていく’ 特技?! を活用した住宅向けの作家金物があります。おウチの入口を飾る表札です。表札でしたら、住宅の場合でも気軽にオーダーできると思います。たくさんある同じ名字であっても、表札だけはオリジナル100%かつ、アート気分も味わえます。この表札をきっかけに、作家の個展に足を運ぶ機会も生まれるかもしれません。作家金物を通してそういった機会を増やしていきたいので、これからも積極的にこれら作家金物をとりいれていこうと思います。

 

(クリックで拡大画像)

スチール製のテーブル台
スチール製のテーブル台

溶接あとが‘味’
溶接あとが‘味’

放射線マークからのスカル
放射線マークからのスカル

お花も一枚の鉄板からできてます
お花も一枚の鉄板からできてます

表札もつくれます
表札もつくれます

 

「暮らしを大切にデザインする」建築家ギャラリーへ

横濱元町AA STUDIOは「暮らしを大切にデザインする」建築家たちのギャラリーです。それぞれの建築家の模型・作品写真など自由にご覧になれます。

横濱元町代官坂の中腹にあるカフェのようなギャラリーで、週末は交替で建築家がお迎えいたします。(建築家と話そう!)ホームページのスケジュールに担当建築家が掲載されていますので、カフェに立ち寄る気分で横濱元町まで建築家とお話にいらしてください。お待ちしております。

AA STUDIO ナビゲートサービス

中立的な立場で、建築家選びをナビゲートします。ご相談は無料。
その後ナビゲートをお申し込みの場合 申込金 ¥10,000
・面談コース 面談希望建築家と面談  無料(最大3名の建築家を指名)
・提案コース 具体的なプランの提案  ¥50,000/1提案(最大3名の建築家を指名)

AA STUDIO WEB http://www.aaplan.com/aastudio/
Craftman Shop Street Motomachi http://www.motomachi-cs.com/cm/shop/shop051

AA STUDIO パンフレットがダウンロードできます。(PDF)

青木恵美子 http://www.aaplan.com
荻津 郁夫 http://www.o-as.co.jp
北川 裕記 http://www.aalab.com/kitagawa/
北島 俊嗣 http://kitajima-architecture-design.com
栗原 正明 http://msak.asia
河辺 近 http://www.ken-ken-a.co.jp
鈴木 信弘+洋子 http://suzuki-atelier.com
高橋 正彦 http://www.takahashi-arch.com
廣田 裕一  
藤本 幸充 http://www.kamakobo.com
古川 達也 http://furukawa-arch.com/
松井 理美子 http://www.matsui2ar.com
水口 裕之 http://homepage1.nifty.com/eau/
山口 賢 http://www.amarterrance.com

 

9月 10 14

ヨコハマ・ディスコグラフィティー 第27回 第5章 80年代 3

by staff


 
 

 

HEART&SOUL代表 原 正行

1958(昭和33)年9月7日横浜生まれ、12歳よりギターをはじめ17歳からミュージシャンとして活動。39歳の時に念願だったライブハウスを開業、現在は関内駅北口駅前に60年代から80年代の洋楽ヒット曲を演奏するライブハウス、ハート&ソウルの経営者。他にもミュージシャンとして演奏活動、作曲、プロデュース等、幅広く活動している。

 

1984年~1985年

70年代とは明らかにレコード購買層は変化し、それに伴いメッセージや個々の世界の表現などは形を変えていきました。

かつてロックやフォークで社会的メッセージを発し安保や学生運動で活動していた世代の子供たちが主な購買層になって行き、この時代の社会を反映した家庭内暴力や教育問題、が新しい世代のアーティストのメッセージに取り入れられ、それを又新しい世代が指示するという形になっていったように思われます。

逆に昭和30年代生まれの世代はレコード離れが進んでいき、心の拠り所となる音楽を探すのに若干苦労するようになります。

海外ではいよいよMTVが主流になりヒット曲の殆どがビデオとリンクする形で作られていきました。日本でもそれらは至るところで目にするようになりその曲を聞くと映像が浮かんで来るようになりました。発端になったのはマイケルのスリラーで、この現象にハリウッドも注目しMTVとのコラボレーションを利用するようになりゴーストバスターやフットルースなど相互効果でヒットにつなげていくのがこの頃から始まりました。

1984年

歌謡曲とニューミュージックの垣根が低くなりこの年活躍したチェッカーズ、アルフィーなどは楽曲もサウンドも歌謡曲に近くなり、逆にこの年、大ヒットを飛ばしている中森明菜、松田聖子の楽曲はニューミュージックの人たちが手がける様になり、挙句レコーディングを担当するミュージシャンを見ると同じような人たちが演奏しているので、ますます個性がなくなり垣根がなくなって行ったと言えるでしょう。この年は70年代から下積みで苦労してきた安全地帯、アルフィーがブレイクした年でした。陽水のバックバンドをやっていた安全地帯、私もたまたまエアチェックした陽水のライブ音源でバックに素晴らしさ、コーラス、特に玉置浩二の声の見事さに注目していて、売れた時やっぱり来たかという感じでした。後特筆すべきは8月に日比谷の野音で行われたアトミックカフェ・フェスティバルで、真っ向から反核をテーマに浜田省吾などが出演しましたが、ここで尾崎豊はステージ上やぐらの上から落ち足を骨折したまま最後まで歌いきった事は当時話題になりました。

1985年

84年同様大きな動きは感じさせませんでしたが、女子の台頭が少しありました。前年度あたりからCMなどでも話題をさらった戸川純は音楽でも個性を発揮、レベッカ、中村あゆみなど個性派が登場しています。グループでは爆風スランプなど、ブルーハーツの登場は新しい世代のバンドが出たなと感じさせました。

前年度の終わりにイギリスのアーティストたちによって行われたアフリカ飢餓救済のイベント、ドゥ・ゼイ・ノウ・イッツ・クリスマスを受けてこの年はアメリカのアーティストたちによるエイドイベント、USA・フォー・アフリカ(ウィアーザワールド)が行われています。

1984年のヒット作

マッカートニー&マイケル「セイセイセイ」、ケニーロギンス「フットルース」、Bスプリングスティーン「ボーンインザUSA」、チェッカーズ「涙のリクエスト」
映画「愛と追憶の日々」「お葬式」
その他「どんとぽちぃ」「エリマキトカゲ」

1985年のヒット作

USAフォーアフリカ「ウィアーザワールド」、レイパーカーJr「ゴーストバスターズ」、ワム「ケアレスウィスパー」、マドンナ「ライカバージン」、小林明子「恋に落ちて」、中村あゆみ「翼の折れたエンジェル」
映画「ビバリーフルズコップ」「パープルレイン」「グーニーズ」
その他「金妻」「夕やけニャンニャン」「阪神優勝」

 

横浜、街と風(社会人編) 13(28)

ある日突然

深夜いつものように上大岡の店を終え、ギターを抱えてABABに向かうとお店のシャッターが閉まったままウエートレスの女の子が店の前をウロウロしています。どうしたの? と聞くと店が開いていないし社長も連絡が取れないという「しかも今日はお給料日ですよ!」それを聞いて悪い予感が全身を走りました。それ以降その店が開くことはありませんでした、私のお給料もそのまま支払われることもなく社長Sは見事に夜逃げ、二度と会うことはありませんでした。その時保証のないこの世界で生きていくことの厳しさを知りました。

バンドに加入

上大岡プロビデンスの仕事もこの頃には定着していて少しはお給料も上がりお店からも大事にされていました。ある時知り合いの紹介であるバンドでボーカルを探しているという情報、弾き語りにマンネリしていたこともありましたがバンドサウンドはやはり魅力的でそこに入りたいと思うようになり、プロビデンスをやめる決意をしました。

バンドは5人編成。元フォーナインエースというGSにいたギターのカーボーちゃんと呼ばれる人がバンマスでした。(フォーナインエースはジョー山中さんがデビューしたバンドです)久しぶりのバンドサウンドで弾き語りでは歌えないディスコナンバーやロックっぽい曲ができるのが嬉しかったのですが仕事はなかなかハードで、月極契約でディスコやダンスクラブのような店から店の過酷な演奏、しかも店が休みの日にはよその店に出張で出演。休みは1日かあって2日。一応ディスコバンドということでしたが店によっては歌謡曲をやらされる時もありました。

オーディション

この当時は100人から200人くらい入る大きいキャパシティのキャバレー、ディスコ、ダンスホール、ナイトクラブ、といったお店が沢山あって(今では信じられない話ですが)そういうところではお客さんはよく踊りました。まだあまり進歩していない音響ではその広さに対応できずがバンドが必要とされたのです、景気のいいところでは2バンド入れているところもありました。大体1ヶ月か2ヶ月の契約ですが気にいられると半年、1年と延長されます。そしてそこに入るのにはオーディションがあるのです。夜営業しているので昼の1時とか2時に集合をかけられ現地に行くと3つぐらいのバンドが待機していて、経営者や店長クラスの何人かが集まると順番に3曲くらいずつ演奏させられます。

当時のバンドは大体揃いの衣装を持っていてちゃんとそれに着替えます、髪は殆ど長髪、ラッパズボンの下は10センチから15センチのヒール。編成はドラム、ベース、ギターにキーボードそれにボーカルの5人編成が一番多かったように思います、

一番多い時は東京のディスコで約8バンド位来てた時もあって、ソウルバンドやらロック系なかにはコミックバンドも!店も沢山ありましたがやりたい方も沢山いたのでしょう、オーディションは戦争でした。順番待つ間ほかのバンドを聞いているのですが闘志がふつふつと湧いてきます、うちのバンドは何回か落ちましたが3回に1回くらいは通りました、ある日あるバンドのボーカルがめちゃくちゃ黒っぽくてカッコイイ、こりゃかなわんと思っていたら後にキン肉マンやアニメソングの世界で活躍する串田アキラさんでした(ほんとにライオンだ~の人です)

ホストクラブ

ある時福富町のホストクラブに受かり入りました。今ではボーイズバーが殆どですが、あの頃のホストクラブはハコもでかくてバンドは2バンドが交代でひっきりなしに演奏し片方が歌謡コーラス、片方がディスコ系、あるお店では営業は7時位から朝6時までで12時くらいまで営業していました。大体正面にステージ、その前は板張りのダンスフロア側面は鏡でダンスがチェックできる様になっていて、その周りを囲むように豪華な客席が広がり誕生には華奢なシャンデリアや照明がきらびやかに輝いていました。早い時間は殆ど客がいないのでホストが踊りの練習をしています。なにしろBGMがないので1時間交代でバンドがひっきりなし演奏、我々はディスコバンドでしたがホストに付き合って、やれワルツだタンゴだジルバだとやらされました、当時のホストはダンズが踊れることが必須条件だったのです、そして12時を過ぎるとお店は混雑してきて有閑マダム(今で言うセレブ)やら仕事帰りのホステスなどで朝まで一杯になります。さすがに仕事がキツくホストクラブはどこも長くは続きませんでしたね。

(*注 30年以上も前の話なので薄れている記憶を頼りに書いています。筆者の思い違い等ご容赦ください。)

HEART&SOUL代表 原 正行)

 

HEART&SOUL DATAMAP

HEART&SOUL
〒231-0014 横浜市中区真砂町3-33 CERTE11階
営業時間
平日:OPEN 19:00 CLOSE 4:00 LIVE START 19:50~
休・祝日:OPEN 18:00 CLOSE 24:00 LIVE START 18:40~
TEL:045-664-5569
JR関内駅徒歩より1分
地下鉄関内駅より徒歩1分
Websie http://www.heartandsoul-live.com/

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9月 10 14

今来むと いひしばかりに 長月の 有明の月を 待ちいでつるかな

by staff

♪今来むと いひしばかりに 長月の 有明の月を 待ちいでつるかな♪


絵・千絵崇石
 

読み人:素性法師(そせい ほうし)

現代語訳・・・「すぐ行くよ!」と 貴方が言ったばかりに、9月の長い夜を寝ずにすごして、見たくもない有明の月が出るのを眺めてしまったわ・・・もう!!

この後、彼女は約束を破った恋人を振ったのかしら? と、ついこの歌の次のドラマ展開を想像してしまう私ですが、残念ながら作者は女性ではなくて男性の素性法師。

架空のうたの割には妙にリアリティがあって、きっと現代でも携帯を握り締めて明け方までしらじらと窓の外を見ながら恋人の訪れを待っている女性が沢山いそうな気がします。

私自身はどちらかと言うと待つほうは苦手で、今までそんな経験は無いけれど、「連絡するよ!」といわれてシャワーの時も受話器をバスルームに持ち込んでいた思い出が。

この女性の身になって・・・私だったらこんなちゃらんぽらんな男性は、絶対振ってやる!なんて思えるのは自分が現在誰かに恋していないからでしょうね。人を好きになると自分がとても弱くなって、その危うさが恋愛の醍醐味でもあるのですが、恋は盲目で相手の悪いところが見えないし・・見たくもない。悪女の深情け、と言う言葉もあります。この歌の作者 素性法師が歌った女性はとても知的で成熟した大人の女性のような気がします。相手の男性への恨みの気持ちと、そんな男に振り回されている自分をどこかで笑っているような ニュアンスが感じられます。

昔は通い棔で女性はただじっと男性が通ってくるのを待つだけだった。というその現実的な境遇を私自身どこまで本当に理解できているのかあまり自信がありませんが、恋多き女で有名な和泉式部や伊勢はストレートで直情的だったのではないかと、彼女達の歌を歌っていて感じます。でも、男性にもてるという事は 夜這いされるチャンスが多い訳で、自分の好みでない男性からプロポーズされたらどうやってお断りするのかしら、きっとその前に歌が贈られてきて、その時点でお断りすることは当然あったと思います。平安時代の通い棔。待つだけの女性が、どうしても気に沿わない殿方への、お断りする方法について調べたくなります。

女性として一度は受け入れて、やっぱり駄目!と思って冷たい態度で相手を寄せ付けないというやり方もありそうです。そんな場合は男性から見たら「心変わりをされた」と思うのでしょうか。もてる女性はお断りのテクニックも磨かなくてはなりませんね。

私だったら、焼き魚かなんかで 部屋中煙幕を炊いて・あっ!八丈島のクサヤがいいわ。とっても美味しいお魚ですが、においが独特で、味を知らない人には想像を絶する臭いの干物です。私は大好きですが・・・・・・彼が部屋に入ってきたら、クサヤを口に咥えて振り向いて、白目をむいて 「見たなあ!!」 すみません。つい調子に乗って。

作者の素性法師はお父さんもまたお坊様で百人一首に名を連ねている12番の僧正遍照。彼がまだ青年の頃お父さんを訪ねたときに、坊主の子は坊主になるのがよい、といわれて出家したといわれています。

(早苗ネネ♪)

<LIVE INFORMATION 1>

  • 9月23日(火・秋分の日)
  • 奈良県 三輪山 大神神社摂社の檜原神社境内にて日没にあわせて「和歌うた」の奉納をさせていただきます。
  • 歌:早苗ネネ  ピアノ:吉田はるみ
  • 入場料:無料

 
<LIVE INFORMATION 2>

  • 9月24日(水)
  • 吉野郡東吉野村 丹生川上神社にて 和歌うた奉納コンサート
  • 15時開演
  • 歌:早苗ネネ  ピアノ:吉田はるみ
  • 入場料:¥2,500
  • お問い合わせ:090-3707-6346(万葉歌/和歌うたに親しむ会事務局)

 

早苗ネネさん プロフィール

木々や鳥や魚や精霊…人間以外の存在達との交流が当り前に語れるくらい、いのちのひろがりに気づくと、共に生きている喜びや、苦しみや悲しみにもナイーブになる。

心と野生がひとつながりになると……こんな風に人は年を重ねられる。ひとりひとり、ユニークにもっと自分になれる。

早苗 Nene さんは、そういう人生の先駆者です。 感性を解放しながら、40代で高校生に仲間入り卒業後、マウイのカレッジに留学中、突然半生記が受賞しました。

そんな新たなシーズンを迎えて、今エッセンスを分かち合いたい。

<天性の歌い手>というだけでなく、その存在感、溢れる活性のバイブレーションは、光のシャワーのよう。彼女と語り歌い、魂の成長を旅している現在の、自分の位置を確かめてみませんか?

早苗ネネさんHP

 

9月 10 14

横浜に責任をとる。 石井造園株式会社 代表取締役 石井直樹さん

by staff
石井造園株式会社 代表取締役 石井直樹さん
石井造園株式会社
代表取締役 石井直樹さん
 
お名前 石井 直樹(いしい なおき)さん
ご出身 横浜市
ご年齢 40代後半(2014.9時点)
お住まい 横浜市栄区在住
ご家族 妻子あり
お仕事 石井造園株式会社 代表取締役
http://www.ishii-zouen.co.jp/
ご性格 純粋です!!

石井さんと会社の年令は同じなのですってね

 父は、平塚農業を卒業して、1966年に大船駅前で観葉植物を取り扱うお店を始めました。それが石井造園の創業になります。それは私が生まれた年でもあります。昭和40年代の高度成長の波に乗って、会社は順調に大きくなってきました。

跡継ぎだと意識したのはいつ頃ですか?

 それは・・・生まれたときからですね。まず「直樹」」という名前です。素直な樹木という名前が表していますよね。(笑)小さい時から「直ちゃんは2代目なんだから・・」と言われて育ちました。小学校の卒業文集では、「将来は造園屋の社長になって、悪い虫を退治してきれいなお庭を作りたい」という文章を書いていました。

 何の迷いもなく、父と同じ平塚農業高校を卒業して、造園の専門学校に進みました。卒業して、修行も兼ねて6年間、東京の造園会社で働きました。

修行時代はいかがでしたか?

 バブル絶頂期でしたから忙しかったですね。朝から晩まで休みなく働いてマンションやビルの植栽を作っていました。仕事は楽しかったですね。そのときの植栽が今では立派に育っているのを見ると、嬉しいですね。自慢の現場は歴代の彼女とのデートコースでもありました。(大爆笑)公共工事(公園造成など)の監督ができるようになったので、そろそろ戻るかということで、石井造園に入社しました。

石井造園に入社してからのお仕事はいかがでしたか?

 その当時、弊社には名人と言われる職人がいました。その人の仕事ぶりを見て勉強しましたね。自分が戻ってきてから、積極的に公共工事を増やすようにがんばりました。おかげさまで横浜市をはじめ、近隣の自治体の公共工事の受注額が飛躍的に増えました。

横浜青年会議所の活動も熱心にされたとか・・・

 27歳から40歳まで横浜青年会議所のメンバーでした。副理事長も2回ほどやりました。私が今あるのは異業種交流を通じて培った、人脈や考え方だと思います。地域の活性化、横浜が輝くためにはどうしたらいいのか・・真剣に議論しました。その成果の一つが、「横浜型地域貢献企業」制度です。2005年に検討委員会を作って地域スタンダードの骨子を作りました。私が社長に就任した平成17年(2005年)にISO9001を取得していたこともあって、「横浜型地域貢献企業」第一回目に応募して認定されました。

貴社は横浜を代表する「地域貢献企業」ですが・・・

 「地域のためにお役に立ちたい」「地域の中でなくてはならない存在になろう」ということは、社員には常に話しています。CSR(corporate social responsibility 企業の社会的責任)については特に力を入れています。毎年CSR報告会を開催して、CSR報告書を作成して、弊社の関わりのある皆様にお送りしています。平成26年度のCSR報告書では、「幸福を共有できる企業を目指して」というタイトルで私の考えを述べています。私の考える幸せの定義は「精神と肉体が健全であること、かつ自由で公平であること」です。これからも社員や地域の皆様の幸せを追求していきたいです。

 

(クリックで拡大画像)

石井造園株式会社 代表取締役 石井直樹さん
 

石井造園株式会社 代表取締役 石井直樹さん
 

3.11のときに貴社の社員の方々がとられた行動が話題になったそうですね

 当日、私は厚木にいて帰る途中で凄いことになっていることが分かったのですが・・。
 停電ですべて真っ暗になった中で、その日、栄区で電気がついていたのは、区役所と石井造園だと言われています。社員たちは自発的に「スズラン灯」をつけて明るくしていたのです。そして近所を声をかけて歩き回りました。「水でます。充電できます。きれいなトイレでお待ちしています」という文字を書いた看板を外に出しました。私がいなくてもこれだけのことができる社員たちがいるということは誇りですね。一週間後、近所の方々から菓子折りがたくさん届きました。

最近は「盆栽」の普及にも力を入れておられるとか・・

 父は仕事のかたわらずっと「盆栽」をやっていました。今でも素晴らしい「盆栽」をたくさん持っています。植物を愛でる気持ちは人間教育にも通じると思うのです。日本が生んだ芸術性の高い園芸の「盆栽」をもっともっと普及させていきたいですね。

「盆栽カフェ」を開店されたとか?

 2014年8月~11月3日まで開催される「ヨコハマトリエンナーレ2014」と同時期に、京急沿線の黄金町・日ノ出町地区で行われる「仮想のコミュニティ・アジア-黄金町バザール2014」に「盆栽カフェ」を出店しています。多くの方々に来店していただいて、「盆栽」の魅力を感じていただきたいですね。

盆栽カフェ: http://bonsaicafe-yokohama.net/
盆栽カフェ(Facebook): https://www.facebook.com/bonsaicafe.ishii
地域に愛される造園会社が仕掛ける、「盆栽」の魅力発信プロジェクト!
http://yokohama.etic.or.jp/fci/intern/788

神奈川新聞に「盆栽カフェ」が掲載されました

「盆栽カフェ」の風景(クリックで拡大画像)

「盆栽カフェ」の風景   「盆栽カフェ」の風景   「盆栽カフェ」の風景
「盆栽カフェ」の風景   「盆栽カフェ」の風景   「盆栽カフェ」の風景
「盆栽カフェ」の風景   「盆栽カフェ」の風景   「盆栽カフェ」の風景
「盆栽カフェ」の風景   「盆栽カフェ」の風景   「盆栽カフェ」スタッフの北川さん

石井さんにとって「横浜」とは・・

 横浜は大好きな街ですね。東京には勝てないけれど・・・。だからこそ「横浜」対する思い入れが強いのかもしれません。横浜をもっともっといい街にしていきたいですね。そのためにこれからも様々なプロジェクトを立ち上げていきますよ。

 

(クリックで拡大画像)

初心者クラスの様子(関内ホール地下リハーサル室にて)
「横浜に責任をとる」
石井造園株式会社 代表取締役 石井直樹さん

盆栽を手にして熱く語る石井さんの目がとても澄んでいたのが印象的でした。横浜をいい街にしたいという強い想いが、石井さんのエネルギッシュな活動を支えています。これから益々パワーアップしていかれる石井さんの活動に期待したいと思います。

インタビュー・文:渡邊桃伯子/写真:辰巳隆昭

 

8月 10 14

コマ大戦世界大会秘話 「ボリビア・コマ基金」

by staff

 

7月24日に久しぶりに横浜売れるモノづくり研究会セミナーを開催しました。「ヨコハマから世界へ~元気な製造業の条件とは」~全日本製造業世界コマ大戦2015 応援セミナー~ は、おかげさまで大盛況でした。

当初は申込の出足が悪くて、四苦八苦・・・。「ヨコハマ経済新聞」や横浜企業経営支援財団のメールマガジン等にも掲載していただきましたが、蓋を開けてみたらほぼ満席でした。皆様、ご協力ありがとうございました。

今回のセミナーの目的の一つは、2015年2月15日に開催される「世界コマ大戦」の告知と応援でした。(セミナーの内容については、「横浜売れるモノづくり研究会」をご覧ください。)

私がご紹介したいのは、セミナーの後の懇親会で、「おかしら」ことコマ大戦協会会長の緑川さんから伺った、「コマ大戦世界大会」秘話です。

今回の世界大戦で最初のエントリーがあったのがボリビアからだとのこと・・。

なぜ・・ボリビア???
私の拙い知識では、ボリビアは南米の国です。そんな遠い国からなぜエントリー???
その理由がちゃんとありました。

2013年11月。ボリビアで活躍されているシニア海外ボランティア、平野さんの指導先の職業訓練校で「コマ大戦」ボリビア場所を開催されました。上位に入ったコマは日本に送られて、前橋工業高校大会に参戦しましたが敢えなく初戦敗退となりました。

詳しくはこちらをご覧ください。www.city.joetsu.niigata.jp/…pdf

平野さんのレポートから・・・
今回の「コマ大戦」を通して南米最貧国の訓練校・機械科生徒の加工したコマが海を渡り、地球の裏側にある日本の工業高校機械科の生徒の加工したコマが対戦するという夢を実現することが出来、ボリビアの生徒達に、ささやかな夢をプレゼントすることが出来たのではないかと思っている。
 

(クリックで拡大画像)

セミナー大盛況
セミナー大盛況

コマ大戦の説明 by おかしら
コマ大戦の説明 by おかしら

ボリビアでのコマ大戦
ボリビアでのコマ大戦

ボリビアでのコマ大戦
ボリビアでのコマ大戦

2015年2月15日の世界大戦に向けて、ボリビアで製作された「コマ」が送られてくることになっています。

”本当はね。「コマ」だけでなく、ボリビアの人たちにも来てほしい。ボリビアの人たちに日本の製造業の技術を見てもらうことで、何かが変わるかもしれないのだから・・”と「おかしら」は私たちに話してくれました。

”でも、ボリビアの平均月給は日本円にして2000円しかない。こちらで招聘しない限り自力では絶対これないよね”

それだったら、私たちが集めてやろうじゃありませんか・・。と生来の「おっせいかいおばさん」の血が燃えたぎりました。

ボリビアから横浜へ・・一人でもいいから来てもらいたい!! 一人300,000円かかるという渡航費を皆様の善意で何とか集められないか・・。 私は「ボリビア・コマ基金」(勝手に命名しました)を始めたいと考えています。7月24日の研究会セミナーでは30,000円余りの募金が集まりました。これから募金活動を始めていきます。趣旨に賛同いただける方のご協力を是非お願いいたします。

横浜売れるモノづくり研究会の上部団体である、NPO法人神奈川中小企業活性化センターも「ボリビア・コマ基金」に全面的に協力してくれることになりました。

目標は900,000円です。(三人分の渡航費)
1000円から・・いくらでもかまいません。
皆様のお気持ちをよろしくお願いいたします。

「世界コマ大戦にボリビアチームを呼ぼう!」
   「ボリビア・コマ基金」へご協力をお願いいたします。
   いくらでもかいません。皆様のお気持ちを・・・・
 
●「ゆうちょ銀行」からお振込みいただく場合は
「記号」10250 「番号」88379271
 
●「ゆうちょ銀行」以外の金融機関からのお振込みの場合は
「銀行名」ゆうちょ銀行  「店名」〇二八(ゼロニハチ) 
「預金種目」普通預金   「口座番号」8837927
「口座名」全日本製造業コマ大戦協会
 

 

8月 10 14

浜じぃの横浜漫歩(第4回) 大桟橋と船舶信号

by staff

 

横浜の港、大さん橋近辺に来てみました。
手前の建物は、大さん橋埠頭ビル。
その左手奥には、大さん橋の国際客船ターミナルの入口がみえる。

その大さん橋埠頭ビルの向かい側には、「象の鼻」がある。
「象の鼻」とは面白いネーミングだが、どうやら防波の為に先を伸ばして曲げた波止場だったらしい。
どこかで見た記憶のある「岩倉使節団」の船の出航も、ここかららしい。
説明板も撮っておきました、はい。

その「象の鼻」の先端から、赤レンガ倉庫、クイーンズスクエア、ランドマークタワー方向を撮りました。
ベタな写真と思われるかも知れないが、でもいいものはいい!!
何も偉そうに開き直ることもなかった。すみません。

さて最後の写真は、第二港湾合同庁舎の海側から屋上の方を写している。
微かに 、アルファベットの「F」の文字が点灯しているのが見えますかな?
実際は、海に向かって三方向に、交互に点滅している。

さて、ここであなたに問題です。
この「F」は、一体何を意味しているのでしょうか?

実は、これは海上保安庁が決めている船舶信号の一つで、「自由信号」、つまり「入・出航の両方可能」の意味だ。

因みに、「X」の点灯は「入・出航の両方禁止」、「I」の点滅は「入航可能」で、「O」の点滅は「出航可能」の意味だそうだ。

他にももうちょっと種類はあるらしい。
流石、港街ですな。
それ、カモメが飛んだ~っと。

 

(クリックで拡大画像)

大桟橋埠頭ビル
大桟橋埠頭ビル

象の鼻・説明板
象の鼻・説明板

象の鼻からみなとみらい方向
象の鼻からみなとみらい方向

船舶信号
船舶信号

 

8月 10 14

第12回 パンツから学んだ“断捨離”の意味

by staff

 

引っ越しを機に “断捨離” の本や記事を読んだ。そこには “断捨離” とは捨てる事ではなく、優先順位を明確にする事とあった。
以前、見栄で買ってしまった高いパンツ。今回は身近に起こった “断捨離” とパンツの関係を、なんと幸福論にまで広げ、大げさにお話したいと思う。

さぁ引っ越し!

先月引っ越しをした。一人暮らしの私には本当にしんどい作業だった。荷作りのいくらかは業者に依頼はしたものの、予算的にも、心情的にも、全てをお願いする訳にはいかず、かなりの時間をかけて大量の荷作りと、ゴミ捨てを行った。
よくある話だが、特にこの捨てる作業が大変だ。どれも大切とか、MOTTAINAIとかで、なかなか捨てられないのだ。そこで、これまたよくある話だが、積読になっていた “断捨離” の本を改めて読み直してみた。

なになに?
「使えるか使えないかで考えるのではなく、今のあなたに必要か必要でないかで、判断しましょう」とある。
なるほど、そうか。必要か必要でないかか!よし!簡単だ。やってみよう!
これは…必要! これも…必要! こっちは…そうそう必要だわ!
………!!
おいおい、だめじゃーん!
もちろん、ゴミのようなものはすぐに判断がつく、問題は判断のつかないものを、どれだけ減らせるかなのに、荷物は一向に減らせない。
結局時間切れで引っ越し先に持ってきてしまった。

“断捨離” の本にはこうも書かれていた。断捨離は自分の価値観の優先順位を明確にすることでもある。むしろ、こちらの方が本来の意味なのだと。
荷物を十分に断捨離できなかった私としては、頭ではわかるけど、そう簡単にいかないのが人間だ!と開き直るしかない

恥ずかしい思い出のパンツが出てきた

引っ越してから何日か経つが、まだまだ段ボールに囲まれたままで、大変不自由な生活を送っている。すぐ使うはずの段ボールが、一番下に積まれていたり、どこにあるかわからなかったり…。

そんな中、懐かしいパンツが出てきた。
4~5年前、まだメーカーでガンガン仕事人間だった頃に、見栄で買ってしまった、高い高いジーンズだ。
かなりスリムなデザインで、当時は入らなくはないが、パッツンパッツンでお尻の当たりなんかムチムチで見られたものではなかった。だが、この高いジーンズを無駄にしてならないと、そのムチムチのお尻の当たりを隠すような長めのウエアーを新たに購入し、さらに出費を重ねたあげく、長い丈のせいで、せっかくのパンツの特徴あるポケットのデザインを全て隠し、ただのジーンズとかわらないはき方をしたりもしていた。全く本末転倒である。
結局このままはかなくなり、いつしかこのパンツはタンスの肥やしと化していった。

痛い話

こんなパンツを購入してしまったのには、下らない女の見栄というか、対抗意識というか、とにかく恥ずかく、痛い思い出がある。
4~5年前、当時メーカーに勤務していた私は、民放テレビ局A社で放送される通販番組で商品を販売してもらうため、テレビ局の人と番組を作っていた。A社系列の通販会社B社に商品を卸し、テレビ局が通販番組を制作するのだ。つまり、通販会社B社が私のお客さんで、テレビ局A社はその依頼により番組を制作する下請けという関係だ。
しかしテレビ局A社は、通販会社B社の親会社でもある。テレビ局A社の社員には、それを勘違いした輩が希にいる。
私のパンツのキッカケとなった女性は、そんな勘違い社員の一人だった。

その女性は、メーカーに対しても、B社に対しても上から目線で偉そうに話す。仕事で使うにはあまりにも不完全な丁寧語は、極めて感じが悪い。
「ああ、そうですか。じゃ、ここはメーカーさんが立ち会ってくれるのね。」
「ここは? どうします? 誰か持ってきてくれないと。ああ、それはこっちでやるんだ。ふん、わかりました。」

その横柄さは取引先だけでなく、スタッフにも同様だ。彼女は30代半ばだろうか。そこそこ中堅のようで、若いスタッフの多い制作現場では、お山の大将状態だ。自分が座っている席まで人を呼びつけ、どうでもいい事を指示している。
「●●さん、今どこにいるの?探してきて。今よ!」 「●●に●●を忘れてきたみたい。取ってきて」
名刺の肩書きを見る限りでは、大したポジションではない。この人は何の仕事をしている人なのか?何故こんなにいばっているのか?
撮影で使う小物を1~2分整理しはじめたかと思えば、すぐに若いスタッフにやらせて自分は席を外す。若いスタッフは私に苦笑いをしてみせる。

こりゃ、コネ社員か?どこかのお偉いさんの娘なのか?
それにしても酷い。
こういう、扱いに困る社員はどこにもいるだろうと諦めるのも一つだが、しかし、悔しいことに、彼女はとっても美人でおまけにセンスが抜群に良かった。

当時、私はそれが無性に腹が立った。
「こんな取引先とまともに話もできない者が、高い給料取って、美人でセンスも良くって・・・。」完全な嫉妬や、やっかみだ。
この時点で完全に負けだ。何の勝負かわからないが、とにかく完全に負けだ。今はそう思える。
しかし当時はそうは思わず、時彼女がとてもカッコよくはきこなしていたパンツと同じようなものを対抗意識で購入してしまうのだ。しかも見栄で彼女のものより絶対高いと思われるものをだ。
結果、高額支出をして、ただタンスの肥やしを一枚増やしただけというみじめな自分を味わう事になる。
本当にバカだ。

心の断捨離

恐らく、同じシチュエーションに今の私が遭遇しても、間違いなくこんな高いパンツの購入はしない。断言できる。なぜだろう。何が変わったのか?

実は、私の取り巻く環境は、ここ2~3年で大きく変化している。
20年以上も務めた会社をリストラされたり、親が倒れたり、その関係で引っ越しをしたり・・・。人生の中で最も環境が変化した数年だ。
その環境の変化の中で、知らず知らずの内に、私は自分の断捨離をしてきていたのかもしれない。
自分の意思と関係なく優先順位をつける事を迫られ、多くのものを捨てたり、諦めたりしながら現在に至っている。
人と比較する事をやめ、大切にするものを明快にしてきた。そうせざるを得なかったからだ。パンツを買った4~5年前とは明らかに異なる点だ。

「幸福とは人と自分を比較しなくなった時訪れる」とよく言われる。
心の断捨離ができた今、高いパンツを難なく買えたあの時より、もしかしたら心に落ち着きがあり、ある意味豊で、幸せなのかもしれない。
段ボールから出てきたこのパンツを見て、そんな事を思った。

パンツのオチ

実はこのパンツ話にはオチがある。
購入した当時ムチムチだったこのパンツ。
今はなんとスッとはけるようになった。ベルトをしないとずり落ちてしまうくらいだ。私は痩せたのだ。
心の断捨離と同時に贅肉の断捨離もできたという訳だ。

見栄を張りたい時にはけなかったパンツが、見栄を張る必要がなくなった今、はけるようになるとは、なんとも皮肉なものだ。

プロフィール

ペンネーム: 津木 雫(つぎ しずく)
オヤジ・オバチャン・オトメのO3マインドを持つ、なんちゃってコラムニスト。
約20年間メーカー勤務。広報・マーケティングを経て、現在フリーランス。
典型的な仕事人間という生活を過ごし、はたと気がつけば人生の折り返し地点。「さぁどうする!」と我が道を振り返っている真最中。
学生時代に、約15カ国を貧乏旅行。
その経験から、今の若者が育つ環境には、問題を自らの力で乗り越える体験が不足していると、感じている。若者教育関連のNPOを立ち上げ、神奈川を中心に現在活動展開中。

今月の1枚:大桟橋からの夜景


(クリックで拡大画像)

 

<コメント>
夏はやっぱり夜の海がいいですね。
これはご存知大桟橋からの夜景。ライトアップされたシーバスを入れるのがポイントです!
夜は海風もここちよく、ビール片手に夜景を眺めるのもオススメ。
(あっ、ゴミは持ち帰りましょうね)

 

8月 10 14

キッチンスタジオ「ジュイエ」の天才をつくる料理事典(第11回) 熱中症対策&8月料理コースのご案内

by staff

熱中症対策、効果的なのは?

さて、夏本番です!
年々最高気温は更新され、すでに30度くらいなら、今日はまだましね~、なんていう会話も聞かれるほどに。

そんな中心配なのは、ここ数年ですっかり定着した『熱中症』。

注意してください!と毎日の天気予報でも伝えられていますが、皆さん対策は何をなさっていますか?

 


 

一番手軽と思われる、スポーツドリンク。実はこれ、注意が必要です。

炎天下、長時間や、過激に運動する場合は500mlで1~2本はいいと思うのですが、ちょっと外出をする、もしくは家の中で過ごすといった場合のスポーツドリンクの飲み過ぎは、逆効果です。

と、言うのもスポーツドリンクには汗として失われるとされる、様々な微量栄養素(カリウム、ナトリウムなど)も入っていはいるのですが何と言っても糖分を多く含みます。 この糖分のせいで、かえって疲れやすくなったり、また長期的に常飲することで、他の健康被害につながる恐れもあります。そのことを念頭に置いて、上手に取り入れていくことが大事ですね。

では、何を飲んだら良いの?乾いた体に水分を効率よくとり入れるには、甘さと塩気が必要です。安心なスポーツドリンクをご自分で作ってみましょう。

  • はちみつ
  • レモン汁
  • 1リットル
  • 大さじ4杯
  • 小さじ3/5
  • 大さじ2

以上の材料を合わせて下さい。材料が溶けたら出来上がりです。

この際、こだわりたいのが砂糖。血糖値が急激に上がる白砂糖(上白糖、グラニュー糖など)は避け、ご紹介したはちみつや、きび砂糖、てん菜糖などの茶色い砂糖をお勧めします。これらの砂糖は、血糖値を上げるGI値というのが低く、またカロリーも白砂糖に比べると低い、という特長があります。

また、お酒を召し上がる方も、ご用心。おいしいビールのために、なるべく日中の水分は押さえて、なんてしがちですが、アルコール(コーヒー、紅茶なども同様です)は利尿作用があり、余計に体から水分を奪います。なので、水を我慢したあげくのアルコールはとっても危険なのです!

美味しいビールを楽しむ為にも、必ず、お水をこまめにとるように心掛けてください。

 

8月の料理コースのご案内

私が行なう料理教室では、毎月、フランス料理がコース2つと、家庭料理のコースを開講しています。フランス料理は、基本コースと応用コースの2コース。家庭料理の方は幾つかのメニューよりお好きなものを組み合わせていただけます。

8月のコース内容

フランス料理基本コース 『ガスパチョ』
『パエリア』
『フラン・デ・ナランハ』
8月レッスンは、スペイン料理!暑い夏にはぴったりの元気が出るスペイン料理を作りましょう!
ガスパチョは、火を使わないで作れる冷たいスープ。おなじみパエリアは魚介とお肉のミックスで。デザートにはオレンジを使ったプリンです。甘酸っぱさが夏にいいですね。

ガスパチョ

パエリア

フラン・デ・ナランハ

フランス料理応用コース 『大麦のサラダ』
『海老かつバーガー』
『スイカのゼリー』
8月は手作りバンズでハンバーガーを作りましょう。食物繊維たっぷりの大麦のサラダ。さくさく衣の海老かつバーガー。そしてさっぱりとスイカでゼリーを作ります。お楽しみの2段ゼリーです。
家庭料理コース 今月からまた夏の新メニュー。
棒棒鶏や、春巻きなどの中華。夏野菜の使ったラタトゥイユや、焼きナス、蒸しナス、などの定番料理など。お好きなメニューをチョイスして下さいね。

 受講日程や、受講方法などは、キッチンスタジオ・ジュイエのホームページより、『料理教室』のページをご参考ください。

http://www.7juillet.com/kyousitu.html

プロフィール


フード・エデュケーション・コミュニケーター
キノケイコ

 

フード・エデュケーション・コミュニケーター キノケイコ

女子栄養短期大学卒業 栄養士免許取得
エコール・キュリネール国立(現 エコール辻東京)にてフランス料理を学ぶ
同校 フランス・リヨン校、フランス1つ星レストランにて研修。
帰国後、都内フランス料理教室にて、アシスタント、講師を務める
独立し、キッチンスタジオ・ジュイエ開設。
現在、フランス料理のみならず、家庭料理、玄米、麹料理など幅広い分野を得意とする。
URL:http://www.7juillet.com

 

8月 10 14

2014年8月 三ツ池だより 「皮膚を鍛錬する!」

by staff
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 海水浴が皮膚を鍛錬する療法としてその普及に乗り出したのが1884年だったのを先日新聞で知りました。内務省の衛生局が機関誌を創刊して、効果的な海水浴の方法について特集を組んだとあります。海水浴場の歴史は130年ほどになるのですね。場所は鎌倉の由比ヶ浜であったという。今年逗子市で海岸使用に条例が出来た。三つの禁止条例である。

1.砂浜での飲酒・バーベキューの禁止
2.他人を畏怖させ海岸利用を妨げる入れ墨、タトウの露出の禁止
3.スピーカー等の拡声装置の使用の禁止

 条例をつくらざるをえなかった背景に逗子海水浴場の客数の推移がある。
 20年―42万人、21年―24万人、22年―71万人、23年―54万人、24年―73万人、25年―42万人

 昨年は一般の家族連れが近寄りにくかったことが条例制定にいたるのです。
 考えてみると、海水浴場も、一般浴場もともに浴場です。浴場の概念からして、今回の条例は当然の内容です。海水浴場が娯楽化の波に押されてきたことが問題なのです。これで入場者が伸び悩んだとしても、環境が浄化されればそれはとてもいいことです。

 海辺の光景としては「浜辺の歌」をすぐに思い出します。

1.あした浜辺を さまよえば
  昔のことぞ 忍(しの)ばるる
  風の音よ 雲のさまよ
  寄する波も 貝の色も
 
2.ゆうべ浜辺を もとおれば
  昔の人ぞ 忍ばるる
  寄する波よ 返す波よ
  月の色も 星の影(かげ)も

 作詞の林古渓の思い入れから書かれました。湘南のサナトリュームに入院している姪の見舞いに何度か訪れたとありました。湘南は由比ヶ浜のつながりにあります。浜辺の歌の詞は1913年に書かれたというから海水浴場もにぎわい始めていただろうと推測します。古渓が辻堂東海岸付近の浜辺を歩いた時の追憶を歌ったものという情報もあります。鎌倉の由比ヶ浜は辻堂の浜辺に続くところです。太平洋に向かって大きく広がる浜辺です。しかしそれゆえに時に悲劇が生まれます。先の海水浴場を紹介した初代衛生局長の長与專斎一家は毎年由比ヶ浜で海水浴を楽しんでいましたが、1894年明治27年8月悲劇が襲います。次女が波にさらわれ溺死してしまいました。悲しみにくれた專斎は、この地を二度と訪れることはなかったということです。

 八月の俳句をみてみましょう。

どっしりと尻を据えたる南瓜かな
夏目漱石
縁さきのただちに南瓜畠かな
久保田万太郎

 昔はどの家にも傾斜地があると南瓜(かぼちゃ)が植えられていたのを思い出します。

浴衣着て竹屋に竹の青さ見ゆ
飯田龍太
暮るるまで浴衣の袖を持て余す
山田弘子
星明り浴びすっきりと藍浴衣
小澤克己

 青い竹が竹屋に並んでいたころが懐かしい。竹で野外の食器棚やテーブルを組んだものです。
 盆踊りなどで夜店がはじまるのも楽しみでした。

山門の石の段にて蝉生まる
横須賀詢
撞鐘もひびくやうなり蝉の声
松尾芭蕉
瀬見啼くや我家も石になるように
小林一茶

 今年は蝉が遅いのかもしれません。大雨で地中の様子がかわっているのでしょうか。

夏草やベースボールの人遠し
正岡子規
夏草に機関車の車輪来て止る
山口誓子

 さて、いつもと違う路線バスに乗りました。満員でした。停留所に停まるたびに少しづつ車内が詰まってきました。まだ駅にいく道中の中ほどで私のななめの座席の人が止まりますの釦を押しました。駅でもないところで下車するのはどんな仕事の人かと思っていました。そのあいた席の前に立つ女性がしきりに私に席を勧める。私もそれにこたえて「どうぞ」と声を掛けさせていただいた。当然座るのかと思っていたら、私に座ることを勧める。喜んで座らせていただいたが、そうかそういう年になっていたんだと自覚させられました。

 それにしても、公共の場で譲り合うことが日本人の美徳とされてきました。行楽で楽しんでの帰りに疲れても譲り合うことができたらいいなと思いました。

 この八月、楽しく安全な夏を過ごすことを祈らずにはいられない、暑さに負けない行動を期待したいものです。

 

Photos

(画像をクリックすると拡大写真が表示されます)

     
     

(文・写真:横須賀 健治)

横須賀 健治プロフィール

メジャーテックツルミ 代表取締役
はかることのプロとして50年です。
食品の放射能測定のアークメジャーを設立しました。
「計量から見える幸せ」をライフワークにしています。

 

8月 10 14

ビジネス梁塵秘抄「遊・献・学」(第17回)

by staff

大浦総合研究所 代表/大浦勇三

ビジネス梁塵秘抄「遊・献・学」(第17回)

遊びをせんとや生れけむ、戯れせんとや生れけん
遊ぶ子供の声きけば、我が身さえこそ動がるれ

- 梁塵秘抄 -

 イノベーションを推進していく上で技術/スキルに対する棚卸しと、それを踏まえた技術戦略の策定は欠かすことができません。個人・組織に対して、仕事の進め方/考え方を能力として把握する必要が出てきたからです。ただ、技術を調べあげる従来の “スキルズ・インベントリー” とは似て非なるもので、経営・ビジネス展開のための “技術戦略マップ” 作成を目的とします。例えば、現状の資源配分は経営からみて適切か? 事業から見て技術/スキルの強いところ・弱いところの評価は十分か? 伸ばしたい事業領域で必要となる技術/スキルは明確か? などが論点になります。あくまで技術/スキルの体系化・棚卸しと戦略策定が目的であり、その進め方は5つのステップからなります。①技術/スキルの抽出とその体系化 ②技術/スキルの評価(成熟度・重要度・技術水準)③技術/スキルの資源投入量 ④現状分析及び将来に対するシミュレーション ⑤技術/スキルのポートフォリオ構築。梁塵秘抄では “狂言綺語のあやまちは、仏を讃めるを種として あらき言葉もいかなるも第一義とかにぞ帰るなる” とあります。仏教は狂言や綺語を嫌い言葉の飾りや虚構を許さないもの。  “服はデザインとイノベーションに帰属する。一つが始まり終わると、その上で次が始まる” とファッションデザイナーの三宅一生さん。一つのものがあらゆるもの、あらゆるものが一つのものということですよね。

“遊びをせんとや生れけん” 「遊」

詩を詠む、物語を書くというのは 心に傷がないとできないという
いつも夜空を見上げながら 月と星から多くを感じとって筆にする
よく生き抜いたと納得して死ぬ覚悟 経験の重さは自分の魂の重さ
王道はない 疲れを恐れず石ころだらけの小道を登る、とマルクス

 思想家・経済学者としてのマルクスの代表作は “資本論” 。大英博物館に長期間通って書きあげた大作です。以前に閲覧するチャンスを得たマルクスの自筆原稿は大英博物館の宝物の一つ。定職を持たない貧困の中、下宿の朝食のパンをポケットにくすねて、それを昼食用に当てながら終日博物館で執筆に没頭したとの伝説も。石ころだらけの小道を登りながら猛勉強したマルクスの集中力と執念。最近、仏経済学者のピケティは “21世紀の資本論” といわれる考えを発表して世界の注目を集めています。 “貧富の差の拡大は投資収益率が経済成長率を上回ることから生じる” と指摘。資本市場価格の上昇が続くようなら結果的に労働者より資本家のほうに富の蓄積が進むとの説。他方、人工知能による “ディープ・ラーニング” が進み、人工知能を使いこなせる人間かどうかで別の新たな格差が生じる兆しも。格差をとりまく環境は一段と複雑さを増しています。

“仕事をせんとや生れけん” 「献」

企業の継続 一本の松明を空高く掲げ続けること
リーダーシップ フォロワーが主役の場をつくる
質の高いチームワークにはカリスマでなく奉仕者
チームづくりはアート、リスク管理はサイエンス

 リーダーシップとはリーダーの言動をフォロワーがどう意味づけして自らの行動に反映させるかであり、フォロワーあってのリーダー。ビッグデータの時代、スマホ・タブレット・クラウドを駆使した予測や洞察は経験と勘を補完する強力な武器になりつつあります。プロの将棋棋士が将棋ソフトと競うだけでなく、人間の読みと洞察を補完する助っ人として活用するという発想はビジネスにもそのまま当てはまりそうです。米国陸軍におけるリーダーシップの基本は “Be・Know・Do” による自己マスタリー。Beとはリーダーとしてどうあるべきか?無私の奉仕・個人的勇気など。Knowとはリーダーとして何を知るべきか? 対人的・概念的・戦略的・技術的スキルなど。DoとはBe及びKnowを踏まえてとるべき行動は何か? 影響力・実践・改革など。言語・文化・発想などの “多様性の中でのリーダーシップ” を重視するということでしょうか。

“学びをせんとや生れけん” 「学」

トラックもなければ ストップウォッチ、競技のルールすらない
二一世紀は原野を独りで走る世界 孤独に耐え自らを信じて走る
独自の方法を探す、終わりはない 休養と娯楽に適当な金を使う
教養としてのシェークスピアでなく、生活の中のシェークスピア

 シェークスピアは英国を代表する劇作家・詩人であり、その卓越した人間観察眼と心理描写は現代でも第一級の教科書といわれます。前に訪れた出生地のストラトフォード・アポン・エイヴォンは、中世の街並みがそのまま保存され、いきなり “ハムレット” “マクベス” “オセロ” “リア王” “ロミオとジュリエット” の世界へ。日本では、黒澤明監督が戦国の世に置き換えた “蜘蛛巣城(マクベス)” “乱(リア王)” の映画化で話題を集めました。蜘蛛巣城でマクベス夫人にあたる奥方を演じた山田五十鈴が強く印象に残っています。 “いま必要なものの用に応じてこそ格好がよいというもの。役に立つことがまず肝要” とのシェークスピアの言は生活の中のシェークスピアの面目躍如。新鮮な目で世の中を見よ、付加するよりも削りとる精神で立ち向かえということでしょうか。脳を外に向けてオープンに、教養も大事だが生活はもっと大事だよということですかね。

「遊びは仕事、仕事は遊び」
「仕事は学び、学びは仕事」
「学びは遊び、遊びは学び」

 今回とりあげた「遊・献・学」それぞれの4行文は、拙書「ビジネス梁塵秘抄(一)~(九)」(全10巻)から抽出したものです。次回以降も「遊・献・学」から各々4行文を一つずつ抽出してご紹介していきたいと思います。

「ビジネス梁塵秘抄」購入ご希望の方はこちらからどうぞ!
http://www.syplus.jp/ooura/

(第17回了)

 

大浦勇三(おおうら ゆうぞう) プロフィール

大浦勇三(おおうら ゆうぞう)  

大浦総合研究所 代表 (http://www.mmjp.or.jp/ooura/

石川県七尾市出身。
早稲田大学卒業、筑波大学大学院修了。
米国経営コンサルティング会社 アーサー・D・リトル 主席コンサルタントを経て現職。
主担当領域は、経営改革/企業再生、経営戦略/情報通信技術戦略策定、業務改革/組織改革、研究開発/商品開発マネジメント、マーケティングマネジメント、ナレッジマネジメント、イノベーションマネジメント、サプライチェーンマネジメント、人材マネジメント、コーチング/メンタリング、プロジェクト/プログラムマネジメント、ベンチャービジネス支援等のコンサルティング。

筑波大学大学院講師、城西国際大学客員教授、名城大学講師、産業能率大学講師、中小企業大学校講師などを歴任。

主な著作物:

  • 「ビジネス梁塵秘抄(一)~(九)」<全10巻>(大浦総合研究所:PDF版)
  • 「イノベーション・ノート」(PHP研究所)
  • 「ITプロジェクトマネジャーのためのコーチング入門」(ソフトリサーチセンター)
  • 「図解 日本版LLP/LLCまるわかり」(PHP研究所)
  • 「IT技術者キャリアアップのためのメンタリング技法」(ソフトリサーチセンター)
  • 「よいコンサルタントの見分け方、かかり方」(清話会)
  • 「日本のモノづくり - 52の論点」<共著>(日本メンテナンス協会)
  • 「現場主導型の組織運営とスピード戦略」(日本監督士協会)
  • 「eコミュニティがビジネスを変える」<訳>(東洋経済新報社)
  • 「ナレッジマネジメントが見る見るわかる」(サンマーク出版)
  • 「図解 ナレッジ・カンパニー」(東洋経済新報社)
  • 「ナレッジマネジメント革命」(東洋経済新報社 )
  • 「図解 グローバル・スタンダード革命」(東洋経済新報社)
  • 「業務改革成功への情報技術活用」(東洋経済新報社)
  • 「情報化戦略と投資評価・システム運用管理の実際」<編著>(企業研究会)
  • 「会社改革実務辞典」<共著>(産業調査会)
  • 「プロジェクトマネジャー(PM)の育成・スキルアップのためのメンタリングの進め方と実践法」 (ソフトリサーチセンター:CD-ROM版)   など
8月 10 14

第15回 横浜売れるモノづくり研究会 セミナーを開催しました

by staff

 

第15回 横浜売れるモノづくり研究会 セミナーを開催しました

「横浜から世界へ ~元気な製造業の条件とは~
—全日本製造業世界コマ大戦2015 応援セミナー —」

今回のセミナーでは、製造業の方々のみらなず、工業会や異業種交流会の方々など幅広い層の参加者がありました。おかげさまで、定員60名の会場がほぼ満席になるほどでした。ご参加いただいた皆様ありがとうございました。

猪狩代表の挨拶のあと、前横浜市工業会連合会専務理事で、現在は横浜北工業会の専務理事をされている長島敏晴氏に「元気な製造業の条件」というテーマでご講演いただきました。長島氏は、中小製造業が抱える問題点と行政の支援の必要性、そして今こそ中小企業間の連携が重要なのだということをお話しされました。

続いて、株式会社関東精密代表取締役の杉田勇氏からは、「コマ大戦」への参戦は、当初は社内で白い目で見られていたが、営業効果があることがわかって、今では、積極的に「コマ大戦」に関わるスタッフがでてきている状況を報告いただきました。

最後に、全日本製造業コマ大戦協会会長の緑川賢司氏から、「コマ大戦が日本の製造業をどのように変えていこうとしているのか」「なぜ横浜で世界大戦を横浜開催するのか」について「おかしら」としての想いを語っていただきました。

セミナー後は、横浜の恵みを味わえるお店「横濱うたげや 大ど根性ホルモン」に参加者一同で移動して、横浜野菜やホルモンの串焼きを堪能しました。

懇親会の席で「おかしら」から、「世界コマ大戦」への最初のエントリーがボリビアだったことが話され、それが「ボリビア・コマ基金」の設立となりました。
(「ボリビア・コマ基金」についても「ともの現場」をご覧ください)

セミナーの様子は下記でもご覧になれます。

横浜売れるモノづくり研究会
http://www.monoken.net/seminar/…

 

「笑顔経営」セミナーのお知らせ

株式会社バイオクロマトの木下一真社長と一緒に会社経営を学ぶ「笑顔経営」セミナーが5月から始まっています。

月1回(全4回コース)開催のセミナーで会社経営の「正しいノウハウ」を学び、会社の業績アップを共に目指しましょう!

いよいよ8月は最終回を迎えます。

開催概要

セミナー内容 4回目 8月7日(木)
会社や組織の売り上げは何に依存しているのか? 後編
~これが解れば売上アップ!間違いなし~
日  時 2014年8月7日(水) 19:00~
会  場 かながわ県民活動サポートセンター
〒221-0835 神奈川県横浜市神奈川区鶴屋町2-24-2
電話045-312-1121(代表)
横浜駅西口 徒歩5分
アクセス
申  込 お申し込みはこちらから
http://www.monoken.net/egao-keiei/

 

「売れるモノづくり」についてのご相談を承ります

いいモノを作ってもなかなか売れない・・・
製造業の方々からそんな悩みをよく耳にします。
どんなに良い製品でも、市場に受け入れられなければ「モノ」で終わってしまいます。

「横浜売れるモノづくり研究会」は、神奈川県在住の企業支援の専門家やITの専門家など多種多彩なメンバーで構成されています。

「横浜売れるモノづくり研究会」では、「製品の売り方をどうしたらいいか」
という企業のご相談を随時受け付けています。

毎月一回第二木曜日には、ご相談される企業と専門家が面談を行っています。

売れるモノづくりについてのご相談はこちらにご入力下さい。
https://www.supportyou.jp/monoken/form/2/

<問合先>
横浜売れるモノづくり研究会 事務局
(株式会社ともクリエーションズ内)
〒231-0004
横浜市中区元浜町3-21-2 ヘリオス関内ビル4階
TEL 045-226-3475 FAX 045-226-3476

メディア掲載情報

 

8月 10 14

書評 「京セラフィロソフィ」 サンマーク出版 稲盛和夫 著

by staff
 

経営塾「盛和塾」の講義録が世に出てきた。書店で見つけた時に驚いた。稲盛さんの考え方、生き方の原点が丁寧に語られているのである。

“自ら燃える” の項で次のように語られます。

「物には可燃性、不燃性、自燃性のものがあるように、人間のタイプにも火を近づけると燃え上がる可燃性の人、火を近づけても燃えない不燃性の人、自分でカッカと燃え上がる自然性の人がいます。
何かを成し遂げようとする人は、自ら燃える情熱をもたなければなりません。高校野球では、心から野球の好きな若者たちが、甲子園という大きな目標を目指し、一丸となって生き生きと練習に励んでいます。その姿には、未来への可能性とエネルギッシュな躍動が感じられます。彼らは自ら燃える自然性の集団なのです。
自ら燃えるためには、自分のしていることを好きになると同時に、明確な目標を持つことが必要です。」

”自らを追い込む“

「困難な状況に遭遇しても、決してそこから逃げてはいけません。追い込まれ、もがき苦しんでいる中で、何としてもという切迫感があると、普段見過ごしていた現象にもハッと気づき、解決の糸口が見つけられるものです。

火事場の馬鹿力という言葉があるように、切羽詰まった状況の中で、真摯な態度でものごとにぶつかっていくことによって、人は普段では考えられないような力を発揮することが出来ます。

人間はえてして易きに流れていきがちですが、常にこれ以上後にひけないという精神状態に自らを追い込んでいくことによって、自分でも驚くような成果を生み出すことが出来るのです。」

“土俵の真ん中で相撲をとる”

「土俵の真ん中で相撲をとるとは、常に土俵の真ん中を土俵際だと思って、一歩も引けないという気持ちで仕事にあたるということです。

納期というものを例にとると、お客様の納期に合わせて製品を完成させると考えるのではなく、納期の何日も前に完成日を設定し、これを土俵際と考えて、渾身の力ふり絞ってその納期を守ろうとすることです。そうすれば、万一予期しないトラブルが発生しても、まだ土俵際までには余裕があるため、十分な対応が可能となり、お客様に迷惑をおかけすることはありません。

このように私たちは、常に安全弁をおきながら、確実に仕事を進めていく必要があります。」

なぜ心を高めることが人生の目的、意義なのかの問いかけに、仏教聖典という書物の中のお釈迦様の次の表現を紹介されています。

この世界は心に導かれ 心に引きずられ 心の支配を受けている
迷いの心によって 悩みに満ちた世間が現れる
 
すべてのものは みな心を先とし 心を主とし 心から 成っている
汚れた心でものを言い また身で行うと
苦しみがその人に従うのは
ちょうど牽く牛に車が従うようなものである
 
しかし もし善い心でものを言い または身で行うと
楽しみがその人に従うのはちょうど影が形に添うようなものである
 
悪い行いをする人は その悪の報いを受けて苦しみ
善い行いをする人は その善の報いを受けて楽しむ
 
この心が濁ると
その道は平らかでなくなり
そのために倒れなければならない
また 心が清らかであるならば
その道は平らになり 安らかになる
 
身と心との清らかさを楽しむものは
悪魔の綱を破って仏の大地を歩むものである
心の静かな人は安らかさを得て
ますます努めて夜も昼も心を収めるであろう

“現場主義に徹する”

「ものづくりの原点は製造現場にあります。営業の原点はお客様との接点にあります。
何か問題が発生したとき、まずなによりもその現場に立ち戻ることが必要です。現場を離れて机上でいくら理論や理屈をこね回してみても、決して問題解決にはなりません。
よく現場は宝の山であると言われますが、現場には問題を解くためのカギとなる生の情報が隠されています。絶えず現場に足を運ぶことによって、問題解決の糸口はもとより、生産性や品質の向上、新規受注などにつながる思わぬヒントを見つけ出すことが出来るのです。これは、製造や営業に限らず、すべての部門に当てはまることです。」

稲盛さんは次のように言います。

「製品の語りかける声に耳を傾ける。製品への深い思い入れがあって初めて声は聞こえてくる。製品の語る声に耳を傾け、手の切れるような製品をつくる。」

やらなければいけないことばかしであり、やることで先が見えてくることはまちがいないと確信できた。

この本が一般向けに世に出されたことに感謝と喜びを感じる。ありがとうございました。

(文:横須賀 健治)

 

 

8月 10 14

本牧ラプソディ(第2回) 本牧ベースキャンプ(USA)カルチャー

by staff


 
 

 

サロン・アカデミー「sho & jeric」チーフベリファイア 久留原 昌一郎

PROLOGUE 連載に寄せて

初めに。
来年古希を迎えるにあたり、私の人生の起点となった横浜本牧での体験やエピソードを寄稿すると共に、21世紀を担う皆さんに本牧スピリットを伝えて横浜発展のお手伝いが出来れば幸いです。

 

本牧ラプソディ(第2回) 本牧ベースキャンプ(USA)カルチャー

前回のベースキャンプメモリーに引き続きベースキャンプ(USA)カルチャーを紹介します。

わたしがUSAカルチャーに出合ったのは、小港にあった軍属専用ショッピングモール、通称PXで直輸入の食料品、衣類と共にタバコ、お菓子や裏手にあったカフェーやボーリング(手動式)、ジュークボックスでまるで夢の世界でした。

当時アルバイトをしていたスナックのお客さまの軍人に連れって貰い、いろいろと奢ってもらいました。(PXでは現金でなく軍票が通貨) 特に印象に残っているのは山手警察署前の理容店内にあったビリヤード場、PXカフェー内にあったジュークボックスで簡単に色んな歌手、ジャンルのレコードが聴けるのが驚きでした。

またFEN(米軍放送)でウエスタン、ハワイアン、アメリカンポップ(二ールセダカ、デルシャノン、ポールアンカそして偉大なエルビスプレスリー)などが愉しめました。それと同時期にインターナナショナルスクール(サンモール、セントジョセフ、ヨコハマハイスクールなど)主催でダンスパーテイに参加してジルバ(ハマジル)、チャールストン、モンキーダンス、ツイストなどを覚えて踊りまくりの青春でした。

ちなみにソシアルダンスを覚えたのは友人の姉サンが働いていた山手のナイトクラブ “クリフサイド” 。フルバンドのフロアーで教わりました。此れも感動の思い出です。

本牧・元町ファッションについて私の私見を述べますね。
当時60年代はドルが¥360-で、アメリカが世界のリーダーでした。ファッションでもアイビーリーグを基にしたキャンバスファッションが本牧、山手にあるインターナショナルスクールが発信していて、後のアイビールック(ミユキ族のフォーム)・VANやハマトラファッション(ミハマシューズ、フクゾーブティック、キタムラバック)が生まれ現在のヨコハマ、元町、山手ファッションの原点となっています。

 

(クリックで拡大画像)

本牧ベースキャンプ(USA)カルチャー

本牧ベースキャンプ(USA)カルチャー

本牧ベースキャンプ(USA)カルチャー

本牧ベースキャンプ(USA)カルチャー

(画像:大谷不動産より)

そして映画やドラマの撮影が行われる元町・山手・本牧ですが、当時は山下公園・埠頭などで、日活、東映などの撮影現場でしたので数多くの芸能人が来訪していました。山下町ナイトアンドデイ、中華街、大桟橋スカンディア、本牧リキシャルーム、ゴールデンカップス、イタリアンガーデン、リンデイ、山手クリフサイドと異国情緒いっぱいのナイトクラブやレストランがありました。

こんな環境ですので地元出身のミュージシャンが多くデビューしていますが、個人的には次の方々を紹介します。

  • 渡邊トモ子(大鳥中学校同期:初めてジャズ喫茶でステージライブ)
  • デイブ平尾(横浜緑ヶ丘高等学校、ゴールデンカップス:リーダー)
  • 安岡力也(シャープフォークス:ボーカル)
  • アンルイス(シンガーソングライター:横浜ハイスクール出身)
  • 柳ジョージ(シンガーソングライター:横浜南太田出身)
  • 横山ケン(クレージイケンバンド:リーダー:横浜本牧出身)

以上のように本牧を拠点とした60年代のアメリカングラフテイを基にした横浜パッションが活動していました。そして、私が美容の道に進むキッカケとなりました。

ちなみに最初に勤務した美容サロンは当時NO1芸能プロダクション “ナベプロ” の専属美容サロンです。
ザ・ピーナツ、中尾美恵、梓ミチヨ、伊藤ゆかりサンなどのシャンプーをさせてもらったのが愉しい想い出です。

サロン・アカデミー「sho & jeric」 チーフベリファイア 久留原 昌一郎

 

サロン・アカデミー「sho & jeric」
〒231-0862 神奈川県横浜市中区山手町184-21 2F
TEL.045-625-0515 FAX.045-625-0515
営業時間:AM10:00~PM8:00
定休日:毎週火曜日+1日(平日不定)
Websie http://sho-jeric.com/

バックナンバー

 

8月 10 14

新しい挑戦! だから名物会は元気がイイ!!

by staff

 

秋も凄いコトになっています

秋もがんばります!
秋もがんばります!

春のイベントシーズンが一段落し、毎月開催のごうどいちも8月はお休みです。
そんなワケで、名物会にとっても今が一瞬、ホッとできる季節です。

なのですが、気が付けば既に秋のスケジュールが満載です。

  • 9月7日(日)
    ごうどいち
  • 9月13日(土)・14日(日)
    光陵祭(神奈川県立光陵高校(保土ヶ谷区権太坂1丁目)文化祭)
  • 10月5日(日)
    ごうどいち
  • 10月12日(日)・13日(月・祝)
    保土ヶ谷宿場祭り
  • 10月18日(土)
    ほどがや区民まつり
  • 11月2日(日)
    ごうどいち
  • 11月15日(土)
    ごんたまつり(横浜市立権太坂小学校(保土ヶ谷区権太坂2丁目)PTA主催)
  • 11月29日(土)
    ほどがや地区センター共催イベント 他

なかなかです・・・・。

 

色々な人との出会いの場

粋な店主たち
粋な店主たち

今年も光陵祭や保土ヶ谷宿場祭り、そしてほどがや地区センターなど、初出店させていただく機会も多く、現在、名物会で作戦を練っています。

特に、直近の光陵祭では、販売ナシの出店とのことで、保土ヶ谷宿の歴史や昔話など、普段とは一味も二味も違う出店になりそうです。中でも、「目玉狙い」で浮上したアイデアがあります。

各店の名物商品の「商品ができるまで」を披露します。

商品を食べて「おいしい」ということはあっても、それができるまでのストーリーなんて意外と知りません。それをパネル等でプレゼンテーションする予定です。

また、ほどがや地区センターとの共催イベントでは、名物会の各店主が講師になり、お菓子や料理の作り方をレクチャーする予定です。

こういう新しい企画に対して、各店主が楽しみながら前向きに取り組んでいます。
これが名物会の素晴らしいところであり、原動力なのでしょう。
(事務局の私が言うのもナンですが)今の世の中に必要なパワーを持っている人たちと言える気がします。

8月は一休み。そして9月から、またがんばります!

 

レポーター プロフィール

山田浩和(やまだひろかず/Yamada,Hirokazu)

合資会社 笑う門 代表社員
保土ケ谷宿名物会事務局

1971年8月生まれ。獅子座のO型。保土ケ谷生まれの保土ケ谷育ち。
2003年、合資会社「笑う門」を設立。<オンリーワンの価値創り>のお手伝い。
会社設立時に制作したミニコミ誌がきっかけとなり、保土ケ谷のまちづくりにドハマリ。
現在、歴史や地産地消など、地域資源を活かしたまちづくりに幅広く取り組んでいる。

合資会社 笑う門 http://www.warau-kado.com

各社・各店・各個人が持つ十人十色・百人百色の目に見えない財産(経験・体験・知識・技術・ノウハウ・アイデア等)を活かした販売促進企画・商店街活性・まちづくりを推進しています。

業務内容 :
 ●シンボル制作
  ネーミング / シンボルマーク / ロゴマーク / キャラクター企画・制作
 ●広報(コミュニケーション)媒体制作
  ・簡易版会社案内(A4版三つ折り)制作
  ・ニュースレター(A4版)制作
 その他、フライヤー / ポスター / 小冊子 / 名刺 / のぼり旗 / エコバッグ / ユニフォーム、など

ヨコハマNOW掲載情報

 

8月 10 14

第24回 施主施工のススメ

by staff

一級建築士事務所 水口建築デザイン室
水口 裕之

施主施工のススメ

住宅を主に設計していますが、施主が自ら建物の工程の一部に参加することを割とオススメしています。土地を買って、そこに目一杯の大きさの家を建ててとなるとほとんどの場合で予算が相当厳しくなってくるのですが、少しでも減額するために例えば壁に珪藻土を塗ったり、床にワックスを塗ったりするのは素人でも何とかできるのでやってもらうことがよくあります。

減額の効果そのものは、壁にビニールクロスを職人さんに貼ってもらう予算と同程度で珪藻土の材料費が賄える程度で(人件費はタダで)実はそれほど大きくなくて、建て主さんの自分の専門の仕事でどんどん稼いで頂いてそのお金でプロの職人にやってもらった方が時間もかからないし仕上がりも圧倒的にきれいなんですが、それだけではない建て主さんにとっていろんな意味での効果が大きいように思います。

ほんの少しでも自分の家を自分で仕上げたという実感(自己満足)や自分の家族や友人へのちょっとした自慢、作業して頂いた職人さん達への尊敬や感謝の念、これから長く住み続ける家に残す思い出、、、それらの思いに加え、その後長く続く家のメンテナンスについても簡単なものなら自分でやってみようという気構えも持ち易くなると思います。

大体の場合において設計者の私達や、現場監督も休日にその施主施工のお手伝いに駆り出されることとがあって、私も漆喰塗や珪藻土塗にペンキにワックス、壁和紙張りとそのおかげもあって色々と経験してきました。左官のコテ使いには結構はまってしまって、たまに無性にやりたくなってしまうほど。腕に覚えがあり、あまりにも広すぎる面積の左官を自分でやろうとして仕事に支障をきたしてしまいそうになる施主さんもいますが、現場監督の工程の管理も大変なのでそこそこの面積にしておいた方が良いようですが。。

 

(クリックで拡大画像)

新しい建築とのかかわり方 第24回 施主施工のススメ

新しい建築とのかかわり方 第24回 施主施工のススメ

新しい建築とのかかわり方 第24回 施主施工のススメ

仕上がりについては例えば珪藻土などの左官については、素人が塗った方が味わい深いというようなこともあります。プロの左官屋さんにラフに塗ってくれと言っても意外と難しいようで、材料を無駄にせず均一に塗ることを体に叩き込まれているせいなのか仕上がってみるときれい過ぎるということが多いです。素人が材料の無駄使いや、コテの向きや塗り厚さとか全く気にせずに塗った壁は塗った人の個性に溢れていてとても迫力があったりして、それは逆にプロには出せない味となります。

設計者や現場監督にとってはあまりにしょっちゅうだと慣れない肉体労働がきつかったりしますが、少し職人の世界に近づけたり、施主さんも苦労しつつ最後は喜んでいるようだし、どんなに仕上がりがひどくてもそれがクレームとなることもないので(施主自ら施工したので当然)、結構良いことだらけなのです。

最近は建材メーカーなども施主施工のサポートに手厚いところもあるので、これから家を建てる方は少し自分でもやってみようという気になってみても平気ですよ。オススメします。

 

「暮らしを大切にデザインする」建築家ギャラリーへ

横濱元町AA STUDIOは「暮らしを大切にデザインする」建築家たちのギャラリーです。それぞれの建築家の模型・作品写真など自由にご覧になれます。

横濱元町代官坂の中腹にあるカフェのようなギャラリーで、週末は交替で建築家がお迎えいたします。(建築家と話そう!)ホームページのスケジュールに担当建築家が掲載されていますので、カフェに立ち寄る気分で横濱元町まで建築家とお話にいらしてください。お待ちしております。

AA STUDIO ナビゲートサービス

中立的な立場で、建築家選びをナビゲートします。ご相談は無料。
その後ナビゲートをお申し込みの場合 申込金 ¥10,000
・面談コース 面談希望建築家と面談  無料(最大3名の建築家を指名)
・提案コース 具体的なプランの提案  ¥50,000/1提案(最大3名の建築家を指名)

AA STUDIO WEB http://www.aaplan.com/aastudio/
Craftman Shop Street Motomachi http://www.motomachi-cs.com/cm/shop/shop051

AA STUDIO パンフレットがダウンロードできます。(PDF)

青木恵美子 http://www.aaplan.com
荻津 郁夫 http://www.o-as.co.jp
北川 裕記 http://www.aalab.com/kitagawa/
北島 俊嗣 http://kitajima-architecture-design.com
栗原 正明 http://msak.asia
河辺 近 http://www.ken-ken-a.co.jp
鈴木 信弘+洋子 http://suzuki-atelier.com
高橋 正彦 http://www.takahashi-arch.com
廣田 裕一  
藤本 幸充 http://www.kamakobo.com
古川 達也 http://furukawa-arch.com/
松井 理美子 http://www.matsui2ar.com
水口 裕之 http://homepage1.nifty.com/eau/
山口 賢 http://www.amarterrance.com

 

8月 10 14

ヨコハマ・ディスコグラフィティー 第26回 第5章 80年代 2

by staff


 
 

 

HEART&SOUL代表 原 正行

1958(昭和33)年9月7日横浜生まれ、12歳よりギターをはじめ17歳からミュージシャンとして活動。39歳の時に念願だったライブハウスを開業、現在は関内駅北口駅前に60年代から80年代の洋楽ヒット曲を演奏するライブハウス、ハート&ソウルの経営者。他にもミュージシャンとして演奏活動、作曲、プロデュース等、幅広く活動している。

 

1982年~1983年

この頃になると私自身流行している音楽シーンへの興味が急速に薄れてきた頃で、60年代GSの頃から激動のポップミュージックの変遷を見てきた身には停滞感を感じ、新しい音楽に針を落とそうという欲求が起きなくなってきました。持論としては、洋楽に限らず邦楽も1985年にその進化を終えたと勝手に思っています。なので私のこのシリーズも1990年で締めくくらせていただこうと思っています。偏見に満ちた音楽史の描写ではありますがお付き合いください。

1982年

80年代を席巻するかに見えたテクノポップやパンク、ニューウエーブも後が続かず音楽シーンの中に自然に溶け込んでいった感じでした。この年一番輝いていたなと感じていたのはRCサクセションで、ストーズにR&Bのテイストを濃くしたようなサウンドは定着していて、ライブのパワー、曲の面白さは他を圧倒、時代に乗っているなと感じさせました。忌野清志郎さんがYMOの坂本龍一と「いけないルージュマジック」をヒットさせたのもこの年でした。山下達郎は名盤「FOR YOU」を発表その円熟したバンドサウンドと音楽完成度は音楽関係者たちをも唸らせました。

又、井上陽水の「ライオンとペリカン」は成熟した大人のポップミュージックを創造したと言えるでしょう。歌謡曲と一線を画しながら夜の世界にも大きく受け入れられた新しい世界でした。これが安全地帯、来生たかおなどに繋がって行きます。

ヘヴィな世界ではバウワウ、ラウドネス、大手を拒否し自レーベルから新しい風を起こしていたチャーのピンククラウドなど、新しいところではBOOWY、レベッカ、筋肉少女帯、が登場しています。特記すべきはDJ小林克也さんが参加した「スネークマンショー」。元々ラジオ番組のショートコントが受けて発展したものが作品になりYMOとコラボしたり口コミで徐々に売れていきました。この頃ミュージシャン仲間とコナサンミンバンワと言うとニヤリと笑い合うシーンがありました。この年には小林克也とナンバーワンバンドで作品を連発、玄人筋にバカウケでした。

1983年

割とまったりとした一年でした。新しいところでは「ストリートスライダーズ」など、特筆すべきは尾崎豊のデビューで、当時のティーンズの叫びを代弁したような尾崎の音楽は新しい風だったと言えるでしょう。YMOが解散した年でもありテクノの早くも終焉を感じさせる出来事でした。

この年は武道館ライブがひとつのブームで矢沢、サザン、ハウンドドッグ、甲斐バンドなど武道館を満杯にできれば超メジャーと言われた。洋楽ですがマイケルの「スリラー」はこの年、衝撃でした。

1982年のヒット作

サバイバー「アイオブザタイガー」、あみん「待つわ」、薬師丸ひろ子「セーラー服と機関銃」
映画「E・T」「蒲田行進曲」その他「Dr.スランプ」
世相「テレホンカード使用開始」「500円玉発行」

1983年のヒット作

アイリーンキャラ「フラッシュダンス」カルチャークラブ「君は完璧さ」カジャグーグー「君はトゥーシャイ」わらべ「めだかの兄妹」
映画「戦場のメリークリスマス」「南極物語」
その他「おしん」「積木くずし」「いいとも」「にゃんにゃんする」
世相「パソコンとワープロの普及」「東京ディズニーランド開園」

 

横浜、街と風(社会人編) 12(27)

ABAB

2軒目に働いた関内からタクシーでワンメーターのこの店は、アブアブ(ABAB)と言い、当時長者町1丁目にあった人気のサパークラブ “三文オペラ” のスタッフ(セミホスト)だった人たちが独立したお店で、人気者の彼ら目指して連日満員、一種異様なバリバリの水商売の人々とそのお客が集う世界でした。経営者のS氏は小柄でずんぐりむっくり、なにしろ口から生まれたような人で、ハッタリ臭い調子の良い言葉で、彼が口を開くと周りは大爆笑。深夜の時間帯なのでお酒も相当進んでいて盛り上がりは半端ではない。こちらの仕事はと言えば世はムード歌謡前世時代。酔客の伴奏を1時間以上、ひどい時は2時間位やらされるのは当たり前でした。

赤本

プロビデンスに置いてあった歌の本の中に歌謡曲の楽譜が500曲位載った赤い表紙の通称 “赤本(アカホン)” と呼ばれる歌本がありました。客が歌いたいと言うほとんどの曲が網羅されていて、ほとんどの曲がハ長調(C)かト長調(G)に移調されて書かれていたので、ほぼシャープやフラットの記号がありません。コードもほとんどCとかAAマイナーに略されていて簡単で、これならば正式な音楽教育を受けていなくてもドレミファがなんとなく弾ければ客の伴奏をすることができたのです。客の伴奏には欠かせませんでした。これを出版した人は本当に凄いと思います。私もこの本でドレミを読む練習をし、客の声に合わせてカポタスト(6本の元を一気に押え高さを変えるアイテム、カラオケのキーチェンジャーの様な物)を動かして伴奏をしました。当時夜のお店で演奏していた人はみんなこの本を使っていたと思います、重宝しました。

戦中戦後の歌はイントロや間奏がメロディと同じくらい長い曲が多くこれを弾かないと歌えないという人もいたので、「憧れのハワイ航路」や「青い山脈」などはこの本で練習しましたっけ。。。

同業者

ABABに来て衝撃だったのは、当時クラブ全盛時代の中心地関内福富周辺で活躍中だった弾き語りやバンドの人間が遊びに来ては、私のギターを使い歌っていくことで、そのあまりのスゴさに圧倒されてしまいました。何が凄いと言うと、まず皆さん圧倒的に歌が上手い事! そしてみんな個性的でした。ムード歌謡風の人が多かったですが、流しの延長よろしく、ド演歌を歌う人、ジャズ風の難しいコードを弾きながらスタンダードを歌う人、布施明やトムジョーンズばりに声量があり、歌唱力で圧倒する人。あるフィリピンの弾き語りは、アビーロードのB面メドレーをギター一本で見事に演奏していました。よく来ていたヤッちんという人は喋りが上手くて、歌は流行中の歌をスケベな歌詞に替えて歌ったり英語の曲に適当な日本語つけたり、やっちんが歌うと客は大爆笑でした。これらの先輩たちの演奏を聴くにつけ、駆け出しの自分との差を見せつけられ落ち込んでいました。そんな自分を見てオーナーのS氏はお前には芸がないからと、ヤッちんからエロソングの歌詞を書いてもらい私に渡しながら、これを歌ってステージを盛り上げてみろと言いました。

オーナーの命令なのでトライしましたが、自分にそういうキャラがないのと、ああいったモノは少しでも照れがあると客は白けてしまいます。やはり自分には無理と悟り諦めました。

恐るべき先輩

ABABのオーナーS氏は顔の広い人だったので、暇な時は店を抜け出してよくお客さんの店に営業に飲みに行っていました。勉強させてやるからお前もついて来いと言われ、たまについて行きましたが、そこで色んな弾き語りやバンドを見ました。一番強烈だったのは、とあるクラブだったと思いますが、これから来る奴は横浜で一番の売れっ子でスゴイぞとS氏に言われ、どんな人が来るんだろう、こういう高級クラブだったらスーツ姿でホストみたいな人かなと思っていたら、現れたのはテンガロンハットにジーンズ、ヒゲを蓄えた浅黒いハンサムな30歳くらいの人で、置いてあったマーティンのアコギを弾きだすや英語でカントリーナンバーを歌いだしました。声量があってメチャメチャ上手い! 唖然としてると、又おしゃべりが強烈で面白い。客は馴染みの客ばかりだったようですが、お客様に向かってお前呼ばわり、そしてこの人もスケベな歌詞でエロソング、しかしまともな歌も本格的なので、客で会社の重役風の人たちも楽しんでいる様子。挙句はテレビコマーシャルの歌を何十曲もつなげてメドレーにして歌い、ハイさようなら! 時間にしてわずか15分か20分くらい嵐のように去って行きました。

後から聞きましたがこの当時関内の人気の弾き語りは一晩2軒や3軒の店を掛け持ちするのは当たり前だと聞いていましたが、この人はこの時なんと一晩に7軒の店を掛け持ちしていました。この人は寺内タケシさんのところで書きましたが、兼田アキラさんといい現在も関内弁天通にご自分の店を持ち毎晩演奏なさっています。ラジオ番組も持ってらっしゃって幅広い音楽活動をしています。私は個人的にとても可愛がっていただき、ラジオ番組やディナーショーなどに度々ゲストで出演させていただきました。先ほどの店を出て帰ろうとしたところ、掛け持ちから戻ってきたアキラさんに遭遇、なんと真っ白なコルベットスティングレーで店と店を行ったり来たりしていました。他にも外車ばかり何台か所有していたそうで弾き語りってそんなに儲かるのか、なんてかっこいいんだと憧れていました。

(*注 30年以上も前の話なので薄れている記憶を頼りに書いています。筆者の思い違い等ご容赦ください。)

HEART&SOUL代表 原 正行)

 

HEART&SOUL DATAMAP

HEART&SOUL
〒231-0014 横浜市中区真砂町3-33 CERTE11階
営業時間
平日:OPEN 19:00 CLOSE 4:00 LIVE START 19:50~
休・祝日:OPEN 18:00 CLOSE 24:00 LIVE START 18:40~
TEL:045-664-5569
JR関内駅徒歩より1分
地下鉄関内駅より徒歩1分
Websie http://www.heartandsoul-live.com/

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8月 10 14

風そよぐ ならの小川の夕暮れは みそぎぞ夏の しるしなりける

by staff

♪風そよぐ ならの小川の夕暮れは みそぎぞ夏の しるしなりける♪


絵・千絵崇石
 

読み人:従二位家隆(じゅにい いえたか)

現代語訳・・・涼しい秋の気配の風がそよいでいる ならの小川の夕暮れに、夏越の払えの祭りが行われている、そうか、まだ夏なのだなあ・・

この唄は現代でも続いている 6月最後の日に行われる「夏越の払」の事を歌った歌です。

6月の三十日に人々の罪や穢れを祓う神事で、私は今年奈良県の桜井にある大神神社まで出向いてこの御神事を受けてきました。いろんな神社で行われているのできっと皆様もこの御神事を受けられた方がいるのではないでしょうか? 大神神社でもたくさんの方が今年の上半期に知らぬ間に身についてしまった罪・穢れ・を祓い清めに訪れていました。

十代のころ、父が毎年この夏越の払えを茅ヶ崎にある寒川神社に受けに行っていました。人型の紙に自分の名前を書き、息を吹きかけて自分の身代わりとして罪・穢れを川に流していただく。父が私達、家族の人型の紙を持って寒川神社でのお払いに出かけてゆく時の後姿を覚えています。私にとって親子2代で引き継がれている御神事です。

ならの小川と言うのは一瞬、奈良県に流れている小川のことかと思いますが、このならの小川は京都の上賀茂神社に流れている清流のことです。

上賀茂神社にはこの唄が刻まれた石碑があります。

読み人の藤原家隆が生きていたころは、人々は小川で体を清めていたのかもしれません。現代は茅で作った輪をくぐりながら古歌「水無月の 夏越の払へ する人は ちとせの命 延ぶといふなり」を唱えます。この茅の輪くぐりがいつから行われているのか、これも、だいぶ前からだとは思います。

藤原家隆の、この歌の意味としては なんとなく秋の気配を感じさせるけど、まだ夏なんだな、と訳されています。旧暦では、水無月の夏越の払えが行われていた時期はちょうど今の8月10日頃にあたります。8月10日といえばヨコハマNOWのアップデイトの日。そう! 今日なのです。平安時代は、今日あたりからなんとなく秋の気配が感じられるような涼しい風が時折吹いてくるのでしょうね。そしてお盆が過ぎるとあっという間に秋の気配が朝晩に漂ってきます。今の水無月生まれの私ははやり夏のほうが性に合っているようで、空が高い夏の終わりは大好きな季節。私はいつもそのころにロマンティックでちょっぴりメランコリーな、人恋しさに襲われます。それがなんともいえずに味わい深くて・・・。

今回は読み人の従二位家隆(藤原家隆)の話とは全く違うお話になってしまいましたが千年以上も前にうたわれた 夏越の払え の和歌が、今の現代でも十分に体感できることを知っていただきたくてあえて旧暦の水無月のうたをテーマにさせていただきました。

最後に、10年ほど前でしたが上賀茂神社にお歌を奉納させていただいた記憶があります。其のとき、拝殿のところに狛犬がいて、その狛犬と目が合ったとたん胸がきゅんとして私は恋に落ちました。上賀茂神社にはその後一度も訪れる機会がありませんが、あの狛犬との出会いは忘れられません。なんともいえず可愛いの! もう一度会いたいな。

(早苗ネネ♪)

<LIVE INFORMATION 3>
会場 天使のコンチェルト 銀座
日時 8月30日 開場:18時30分  開演:19時
チャージ ¥5500 +サービス料10%
http://tenshi-no-concerto.com/

お問い合わせ、お申し込みは
和歌うた実行委員会 080-2345-0615もしくは 天使のコンチェルトまで03-3575-1313

 

早苗ネネさん プロフィール

木々や鳥や魚や精霊…人間以外の存在達との交流が当り前に語れるくらい、いのちのひろがりに気づくと、共に生きている喜びや、苦しみや悲しみにもナイーブになる。

心と野生がひとつながりになると……こんな風に人は年を重ねられる。ひとりひとり、ユニークにもっと自分になれる。

早苗 Nene さんは、そういう人生の先駆者です。 感性を解放しながら、40代で高校生に仲間入り卒業後、マウイのカレッジに留学中、突然半生記が受賞しました。

そんな新たなシーズンを迎えて、今エッセンスを分かち合いたい。

<天性の歌い手>というだけでなく、その存在感、溢れる活性のバイブレーションは、光のシャワーのよう。彼女と語り歌い、魂の成長を旅している現在の、自分の位置を確かめてみませんか?

早苗ネネさんHP

 

8月 10 14

歩けば街が良く見える。NPO法人横浜カーフリーデー実行委員会事 務局長 野垣博文さん

by staff

 世界2,000余都市で同日に行われるイベントがあるのをご存知ですか? 毎年9月22日※に行われる『カーフリーデー』です。日本では10以上の都市が参加し、横浜市は今年11年目を迎えます。今年は祝日に合せ、9月23日に日本大通り会場と横浜公園会場で行なわれます。新技術を駆使したスタンプラリーや子供コマ大戦、有名人のサプライズ参加などの仕掛け人、新事務局長 野垣博文氏に2014年の横浜カーフリーデーについてインタビューしました。

(※日本では祝日に合せ23日に開くことがあります)

NPO法人横浜カーフリーデー実行委員会事 務局長 野垣博文さん
NPO法人横浜カーフリーデー実行委員会事
務局長 野垣博文さん
 
お名前 野垣 博文(のがき ひろふみ)さん
お住まい 横浜市泉区
ご年齢 55歳
ご家族 妻 息子 娘
お仕事 有限会社 明和企画 (ソフトウェア開発、システム導入、システム開発のサポート)取締役
http://www.me-kikaku.com/
介護用品・生活便利用品の通信販売「涼風工房」
rakuten/suzukazekoubou/
趣味 囲碁

2014年横浜カーフリーデーはここが違う!

 横浜カーフリーデーは、約2万人が来場するイベントですが、まだまだ市民に周知されておりません。イベント自体が地球環境問題や都市交通問題の改善を謳っていて比較的地味なものですから、ご来場者の中にも「何のイベントですか?」と、イベントの趣旨を知らない方がいらっしゃいます。

 イベント会場に来られなくても、「この日1日マイカーには乗らないで、公共交通機関や自転車、徒歩でまちに出る」と宣言し、それを各自が実行することに意義があるのですが、そこを伝え、広げていくのがなかなか難しいのです。

 

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10周年横浜カーフリーデーの様子
10周年横浜カーフリーデーの様子

 どうお伝えするか? 結局、ご来場いただいて『横浜カーフリーデー』を体験していただくのが一番だということで、一人でも多くの方に来ていただけるように、参加型の催しを企画しました。3つの新しい企画をご紹介いたします。

企画その1:子どもコマ大戦

 製造業を営む中小の町工場が、製造過程から出る端材を使って直径2cmのコマを作り、それぞれの技術を競い合う「コマ大戦」が、横浜で始まり世界へと広がっています。

 昭和の時代(子供の頃)は、大工さんから木切れをもらって工作したり、古いセーターを解いた毛糸や余り布で何かを作って遊んだものです。生活の中にリユース(再利用)やリサイクルの工夫が活きていました。昭和の子供が大人になって、現代の子供に伝えたいのがその精神です。

 『子どもコマ大戦』では、リユースやリサイクルの精神を遊びながら楽しく学んで欲しいと思います。

 基本のコマキットは買っていただきますが、子どもたちはコマにカラフルなデコレーションをしてオリジナルのコマを作ります。大戦では負ける悔しさを体験するのも良いでしょう。勝ち負けを越えて応援し、相手にエールを贈る姿は実に可愛らしいものです。

 

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子どもコマ大戦の様子

子どもコマ大戦の様子
子どもコマ大戦の様子
7月19日(土)開催『トマトまつり2014の会場にて』

企画その2:iPhone※を使ったスタンプラリー

 横浜カーフリーデーでは各ブースを回りスタンプを集めながら、カーフリーデーのことを知ってもらう『スタンプラリー』を行っています。 今年は、専用用紙にスタンプを押すといった従来型のスタンプラリーの他に、iPhone※の専用アプリケーションを使ったスタンプラリーを行います。

 サンコウ電子が開発したBeacon(ビーコン)※と呼ばれる製品(写真)が会場内の展示物に仕掛けてあります。Beaconに近づくと自動でスタンプがゲットできます。

 

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サンコウ電子が開発したBeacon
サンコウ電子が開発したBeacon

サンコウ電子: http://www.sankode.com/
この技術は既に、愛知県『知多市歴史民俗博物館』で実用化されています。

アプリケーションの実用例
アプリケーションの実用例

※iPhone,iBeaconは、米国および他国のApple Inc.の登録商標です。
※iPhone商標は、アイホン株式会社のライセンスの基づき使用されています。

知多市歴史民俗博物館HP:http://www.city.chita.lg.jp/docs/…

企画その3:チーム右京が特別参加

 サプライズ参加です。「自転車の展示、試乗会、ウエアの販売、等 当日出来る事は、全てやりたいです」とメールが届きました。楽しみです。

新事務局長に就任して。。。とつぶやいています(苦笑)

 本業は、ソフトウェアの開発やシステムの導入のお手伝いをする(有)明和企画の代表を務めています。行政機関やいろいろな市民活動団体には、日中の業務時間中に出掛けなければならなく、仕事との両立が大変だと思いました。

 「NPO法人」というのも始めて知りました。とにかく、報告書や申請書、依頼書など作成が多くて戸惑っています。小さな声でつぶやきますが「お役所の書類は、書くのが難しい」です。

 行政機関はアポの取り方にも注意が必要です。順を追って行かないといけない、中間を飛ばして声を掛けると、飛ばされた方(部署)に情報が届かないようですね。

 中小企業の代表が集まる会では、意気投合したTOP同士が即決し、トップダウンで担当者に伝えられ、短時間でビジネスが成立することは珍しい話ではないのです。行政機関関連の「窓口から順番に・・・」に慣れるのが大変かもしれません。

 まぁ、こんなところが私の「つい、言っちゃたぁ~(twitter)」です(笑)

事務局長を引き受けて良かったと思えるところ

 1つのイベントを組み立て、作り上げる楽しさ(?)を味わっています(笑) 行政との関わりが今までなかったので、何かをお願いするやり方がわかりました。

 「横浜カーフリーデー」を軸に新しい繋がりが生まれています。人と人との出会いと繋がりは、それぞれの思惑があり、時には面倒に思うこともありますが、それにも増す面白さがそこにあります。

協賛お願いします!

 国際都市横浜が世界同日のイベントに継続して参加することに意義があると思っています。しかしながら、市民だけでは限界があります。寄附や協賛金は不確実な収入源です。継続するには、確実なスポンサーを見つける必要があります。スポンサーへの口利き協力、もちろんスポンサーとして行政を味方につけ巻込んでいきたいと思っています。

2013年神奈川新聞9月23日朝刊記事より
2013年神奈川新聞9月23日朝刊記事より

市民が繋がるイベントに!

 県や市は、住民へのアピールが下手だと思います。いろいろな企画や支援活動をされていますが、PRが徹底されていません。 このイベントを上手に使って、市民へアピールしたり、市民の要望を聞く場として使ってもらえたら嬉しいと思います。

 また、小さな団体の発表の場としても使って欲しいと思っています。1つの団体のイベントでは、たいして人が集まりませんが、一緒にイベントをすれば、多くの人を集めることができます。

 「横浜カーフリーデー」は正しく、地球環境について、行政、企業、市民活動団体、市民が繋がるイベントだと思います。

野垣氏にとっての横浜は?

 関内駅からオフィスのある元浜町まで歩くようにしています。歩けば、こんなまち中にも季節の便りを発見します。 お洒落な店舗が並ぶ「馬車道」、八重桜の美しい「さくら通り」、通りの名にも歴史や風情があります。夜のみなとみらいの夜景もキレイですが、私は身近な通勤路で発見する「季節」に仕事の疲れが癒されています。

 私にとっての横浜は「歩けばまちが良く見える」、これはカーフリーデーのスローガンでもあります。(笑)

 

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NPO法人横浜カーフリーデー実行委員会事 務局長 野垣博文さん
NPO法人横浜カーフリーデー実行委員会事
務局長 野垣博文さん

写真提供:野垣博文/文:高野慈子

 

8月 10 14

横浜は私の人生の表紙。日本シニアチア協会/ビースタイル横浜チームリーダーの秋成由美子さん

by staff

 チアダンスの魅力をたっぷりと語っていただきます。日本シニアチア協会/ビースタイル横浜チームリーダーの秋成由美子さんです。元気の秘訣は「ポンポンを振って、リズムに乗って、笑顔でいる」こと。取材に行った私も仲間に入りたくなりました。

日本シニアチア協会/ビースタイル横浜チームリーダーの秋成由美子さん
日本シニアチア協会/
ビースタイル横浜チームリーダー
秋成由美子さん
 
お名前 秋成 由美子(あきなり ゆみこ)さん
お住まい 横浜市中区在住
ご家族 ご主人、長男、次男、由美子さんのご両親の6人家族
お仕事 自営業/レストラン『シャルドネ』(初音町)
http://sp.raqmo.com/chardonnay/
活動 1. 日本シニアチア協会 ビースタイル横浜チームリーダー
2. 伊勢佐木消防団 第1分団員
3. 地域のボランティア活動(子育て支援)

チアダンスとの出会いは、たまたま見た新聞の記事でした

 私は、以前スクールメイツの一員として踊っていたことがあり、体を動かすことが大好きでした。結婚し家庭に入って、家事や育児・介護などに追われる毎日、時には気が滅入ることもあり、たまたま見た新聞にこのチームの記事が載っていたのです。ヨガやストレッチ体操などの広告も見ましたが、「チア」という文字に「これだわ!」って思いました。

 日常では絶対にはけないミニスカート。 一人なら無理でも皆でなら着られるでしょう。ボンボンを持ってリズムに合わせて体を動かすとおもいっきり笑顔になれるでしょう。この日常と非日常のギャップが実に面白いと思いました。

私たち今が青春です!

 チアと言えば「チアリーディング」を思い浮かべるでしょう。 息の揃ったアクロバテックな演技をする学生や若い女性をイメージしてしまいます。

 ところが、私たち「シニア チアダンス チーム」は50代~70代がメインです。実際は50才になるのを待てず(笑)、40代半ばから入会されておりますが・・・現在、会員数は約35名です。教室を前半と後半の2回に分けています。前半は経験者のクラスです。後半は初心者のクラスです。

 

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初心者クラスの様子(関内ホール地下リハーサル室にて)
初心者クラスの様子
(関内ホール地下リハーサル室にて)

 私たちは、アクロバテックな演技ではなく、リズミカルな演技とフォーメーション演技で躍動感と美しさを表現する「チアダンス」を目指しています。

 「チアリーディング」が若い人たちだけになってしまうと、その人口は増えないと思います。幅広い年齢層に支えられ、人気が上がっていくのだと思います。私たち「シニアチアダンスチーム」がチアリーディングの振興に一役かっているのではないかと思うと嬉しくなります。

 何かに熱中することは若くいられることです。『 私たちは今が青春です! 』

横浜は「シニアチアダンス」のメッカです

 横浜では、関内ホール地下のリハーサル室を使って、月に2回レッスンを行っています。渡邉映衣子先生(日本シニアチア協会 代表理事)の指導を受けて、45歳から77歳までが元気にはつらつとレッスンに励んでいます。

 もちろん、ダンスが初めてという方も大歓迎です。 音楽に合わせて踊るのが初めてだと
 いう人の方が多いです。 「おなか周りが気になって」とか「姿勢を良くしたい」とか「いつまでも健康でいたい」とか、きっかけは様々、年齢も様々、生き方も様々な人たちが集まって、1つのチームに仕上がっていくのが素晴らしいことだと思います。

JSCA ビースタイル横浜の皆さん
JSCA ビースタイル横浜の皆さん

 実は、横浜はシニアチアダンスのメッカなんです(笑)。成果を発表する場にも恵まれています。近年では、2010年10月は中区老人福祉大会に出演、2011年7月には第5回中区ダンスフェスティバルに出演(関内ホール)しました。 横浜市の「ダンスダンスダンス」にも出演しましたまた、地域の老人施設などからも声が掛かり、チームの元気と笑顔を贈っています。

 シニアチアダンスの人口が増えてきたので、これを組織化しようと2007年2月に「日本シニアチア協会」JAPAN SENIOR CHEER ASSOCIATIONが結成されました。私たちはその協会のクラブチーム「ビースタイル横浜」のメンバーです。

日本シニアチア協会のHP: http://www.jsca-net.com/
シニアチアダンスチーム/ビースタイル横浜のHP:http://www.jsca-net.com/yokohama/…

「えっ?!」が「ほほう」に変わる瞬間がたまりません

 「チアチームの皆さんで~す」って紹介されると、来られている方々はピチピチのチアガールを想像されると思います。そこで登場する私たちを見て「え、えぇっ!」としたお顔をされます。それが、演技が始まると「ほほう」に変わる、その瞬間がたまりません(笑)。

 チアはチーム力です。 和がとっても大事です。大会が近付くと月2回の練習では覚えきれないことがあります。 手の振りを付けると、足が止まってしまいます。そんな時も仲間同士が教え合い、励まし合って頑張ります。ですから本番での達成感は格別です。また日頃から食事会などで会員の親睦と交流にも努めています。

私たちのチアの演技を見に来てください

 練習の時には「笑顔、笑顔」と声を掛け合います。「手の振りで顔が隠れてはもったいない」「体の軸を真直ぐにしましょう」「ステップは軽くして」「楽をすると見た目はいまいちよ」と渡邊映衣子先生の声が飛び交います。

 練習の合間には「お水」休憩を何度も取るようにしています。脱水状態にならないようにとの短い休憩時間ですが、短い時間でもおしゃべりが始まり笑い声が響きます。

 競技に励む厳しいチアガールの練習風景とは違ったシニアの練習風景です。こんなシニアのチームにも全国大会があります。10月の大会に向けて、今、その練習をしているところです。競うというよりは発表会、色々なチームの動きを見て学ぶことが沢山あります。

 是非、私たちのチアの演技を見に来てください。/p>

日時:2014年10月26日17:30(開演)
場所:横浜関内ホール(大ホール)
チケット代:1,500円(自由席)

SENIOR CHEER FESTA 2014
SENIOR CHEER FESTA 2014

秋成由美子さんにとっての「横浜」は?

 私にとっての「横浜」は、生まれ育った「人生の表紙」です。

 「横浜」が表紙となり、日々ページを増やしています。自営業「シャルドネ」のページ、ビースタイル横浜のページ、女性消防団員のページ、地域のボランティア活動(子育て支援)のページ。素敵なページを綴りたいものです。

 

 
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日本シニアチア協会/ビースタイル横浜チームリーダーの秋成由美子さん
日本シニアチア協会/
ビースタイル横浜チームリーダー
秋成由美子さん

写真提供:秋成由美子/文:高野慈子

 

8月 9 14

コマ大戦世界大会 ボリビア・コマ基金にご協力お願いします!

by staff

 

コマ大戦世界大会 ボリビア・コマ基金

ご協力のほど何卒よろしくお願いいたします。

「世界コマ大戦にボリビアチームを呼ぼう!」
   「ボリビア・コマ基金」へご協力をお願いいたします。
   いくらでもかいません。皆様のお気持ちを・・・・
 
●「ゆうちょ銀行」からお振込みいただく場合は
「記号」10250 「番号」88379271
 
●「ゆうちょ銀行」以外の金融機関からのお振込みの場合は
「銀行名」ゆうちょ銀行  「店名」〇二八(ゼロニハチ) 
「預金種目」普通預金   「口座番号」8837927
「口座名」全日本製造業コマ大戦協会
 

 

7月 10 14

丸の内と女性起業家

by staff

 

最近、東京駅前の新丸ビルで打ち合わせを行うことが多くなりました。2012年(平成24年)10月の東京駅丸の内駅舎保存復原完成時には、大勢の観光客で賑わっていた東京駅ですが、いまだに写真撮影する人を見かけます。

私も東京駅ではいつもドームの天井を見上げてしまいます。ドームの天井には、干支のレリーフが8つ埋め込まれています。

新丸ビルの隣に、日本工業倶楽部会館があります。建物は2003年(平成15年)に建替えられていますが、会館の南側部分が1920年(大正9年)同時のままに保存・再現されています。正面屋上には小倉右一郎作の二つの人像が置かれ、男性はハンマー、女性は糸巻きを手にしています。当時の二大工業である石炭と紡績を表しているそうです。

日本工業倶楽部
http://www.kogyoclub.or.jp/

日本工業倶楽部と言えば、1980年代後半から10年間ほど「クリエイターズ」の勉強会で年に数回訪れていました。

「クリエイターズ」は、1984年(昭和59年)に社団法人日本経営士会の女性部会として誕生した、女性のための勉強会です。経営学・会計学からメークアップまで幅広いテーマの講師が登場しました。この勉強会で多くの女性経営者にお会いし様々な叱咤激励を受けて、私は恥ずかしながら何とか25年以上経営に携わってくることができました。

昨年から横浜で「女性起業家メンター事業」にメンターとして携わるようになりました。自分が先輩となってコメントする立場になると、改めて25年前、駆け出しだった私にビジネスの作法を教えて下さった先輩たちの厳しく心のこもったアドバイスを思い出します。

先輩方がパイオニアとして切り開いてきた女性の社会進出に対する熱い想いを、今度は私が若い方々に伝えていく番なのだと考えています。

女性起業家・経営者向けメンター事業
http://www.idec.or.jp/kigyo/woman…

 

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新丸ビルから見た東京駅舎
新丸ビルから見た東京駅舎

東京駅のドームの天井
東京駅のドームの天井

ドームを見上げる人々
ドームを見上げる人々

日本工業倶楽部会館
日本工業倶楽部会館

日本工業倶楽部会館正面
日本工業倶楽部会館正面

日本工業倶楽部会館の像
日本工業倶楽部会館の像

 

7月 10 14

浜じぃの横浜漫歩(第3回) 上大岡と奈良美智

by staff

 

ここは、上大岡の駅ビル、京急百貨店も入っているウィングだ。ご存知の通り、上大岡は港南台と共に港南区の二大拠点の一つだな。

ところで港南区というところは横浜市の区の中で唯一、区の中心部を江戸時代の武蔵の国と相模の国の国境が走る珍しい区なのだよ。

つまり南北に走る国境の東側は武蔵野の国で、西側は相模の国だった。

それというのもこの国境は分水嶺となっており、東側の大岡川、笹下川、日野川などは、東京湾に注ぐが、一方で芹谷川、馬洗川、平戸永谷川などは、相模湾に注ぐ訳だ。

昔は水利の管理が即、地域の結びつきや抗争の種となり、同時にまた権力を持って取り仕切る必要も有る為、行政の出番となって分水嶺がまた国を分ける大きな要因となった訳だ。

昔ほど農業の水利を考慮せずともよくなり、また交通機関の発達で多少の高低差は問題なくなった現代で、港南区のような面白い経緯を持った区もできたということなのだろう。

それはそうと、私見ではちゃんとしたデパートと映画館のある街は、立派な繁華街で一等の商業地であるというのが勝手な定義だ。

実はここ、上大岡もそれに当てはまる所なのだが、なかなかの賑わいだな。

ところで、このビルの2階に世界的なポップアート作家、奈良美智の大きな作品がある。

ちょっと目のつり上がった感じの女の子の作品が印象的な作家だな。ここのは、男の子も女の子も他より、優しい感じがするがのう。まだ彼のことをよく知らなかった頃、美智(よしとも)を美智(みち)と思い、しばらく女性作家と思っておったわい。

 

(クリックで拡大画像)

上大岡の駅ビル「ウイング」外観
上大岡の駅ビル「ウイング」外観

女の子、奈良美智作品
女の子、奈良美智作品

男の子、奈良美智作品
男の子、奈良美智作品

二人、奈良美智作品
二人、奈良美智作品

 

7月 10 14

第11回 心おきなく“自慢話”ができる便利な魔法の一言

by staff

 

自慢話が鼻につく人と、つい聞き入ってしまう人といる。その差はなんだろうか? 今月は、心おきなく“自慢話”ができる便利な魔法の一言と、自慢上手と合わせて磨きたい聞き上手についてお話をさせていただきたいと思う。

弱った体に自慢攻撃

私がその便利な言葉に気づく事ができたのは、自慢話が大変鼻につく同期のお蔭だ。
彼は真面目で向上心があって、努力家。性格も悪くなく、信頼できる仲間だった。まだ若かった当時、遅くまで仕事をして、よく二人でラーメンを食べて帰った。がーっ、しかし、このラーメンの後味の悪いこと。ラーメンが不味いのではない。話が不味いのだ。単刀直入に言えば、「ザ・鼻につく自慢話」のオンパレード。残業の後の弱った体に、ギシギシとダメージが追加されてしまうのだ。
自慢というのは不思議なもので、これから自慢を話すぞと堂々と言うと、不快ではないのに、いつの間にか始まった自慢話には不快さを感じる。
彼の場合は最悪で、大抵会社の運営や会議の進行などの問題定義から始まり、自分ならこうするという話に移行していく。ここまではいい。建設的な話だ。しかしだんだん、自分がいかに努力をしているか、功績を残しているかという話へと展開し、オチもなく終わるのである。様々な工夫や努力は素直に素晴らしいと思い、真似もしたいと思うのに、なぜが不快になる。話し終えた彼のドヤ顔にもイラっとくる。
「またこいつの自慢話を聞かされてしまった。」と毎回思い、「もう二度と仕事帰りに二人でめしは食わないぞ!」と固く誓うのに、これまた毎回、空腹によりその誓いを忘れ、最悪のラーメンを食することになるのだ。

彼の自慢話が始まった際に、その場で突っ込めば良いように思われるかもしれないが、それがそう簡単ではない。彼には笑いのセンスが皆無なのだ。「それ自慢かよ」と突っ込んでも、「違うよ」と真顔で返され、そのまま話を続けられてしまう。こういうタイプの人間は無敵だ。遠回しであろうが、直接的であろうが、突っ込みが一切通じない。私は完全敗北のまま電車に揺られ家路に着く。
悶々とした気持ちをかかえたままお風呂に入り、耐え切れず、お風呂の中でブツブツとエコのかかった一人ツッコミを繰り返す。俯瞰して眺めたら、なかなか恐ろしい光景だが、私にとっては大切なストレス発散方法であり、そのお陰で便利な魔法の言葉が生まれるキッカケにもなった。

便利な魔法の言葉はコレだ!

お風呂場で繰り返したツッコミは、
「毎回毎回自慢ばっかかよ。あんたの自慢話なんて聞きたくないわけ。それを聞いてやってんだから、少しは感謝しなさいよ!」
「どうしても自慢したいなら、初めに “ちょっと自慢聞いてくれ” ってお願いでもしなさいよ。それならしかたなく聞いてあげるわ!」

そうなのだ。人の自慢話なんて、「お願いされるなら聞いてあげもいいわよ」程度のものなのだ。だがそれはつまり、初めにお願いさえしておけば、相手に不快感を与えずに思う存分自慢話ができるという事にもなる。

という事で、便利な魔法の言葉は、自慢の前の「ちょっと自慢聞いてくれる?」である。

あなどるなかれ、会話の立ち位置

単純なようだが、この前置きは、立場を明確にする役割を果たす。自慢をする側は、「お願い」をしている立場。聞く側は「お願い」をされた立場だ。お願いをされた側は、「しょうがねーなー、聞いてやるか」となり、願いを聞いてくれた(いい)人というスタンスを取る事ができる。そのため、聞く側も悪い気にはならない。話す側(お願いした側)は自然と「ありがとう」となる。こういう立ち位置が、自慢話には重要なのだ。

「ちょっと自慢聞いてくれる?」たったこれだけの事なのに、付けると付けないとでは大違いだ。時には大切な人間関係や信用にも大きな影響を及ぼす事さえあるから決してあなどれない。事実、彼の良い処を誰よりもよく知る同期の私でさえ、彼の仕事に対する評価は、実力よりも低くなったし、前置きなしの彼の自慢話が不快である為に、彼とのコミュニケーションは必要最小限に抑えようとした。同じような話を、ほかの同僚からも聞く事を考えると、彼にとっては大きな損失だ。

盛り上がる会話を楽しもう

先ほど自慢には、「ありがとう」という話し手の立ち位置が必要と記したが、自慢話に限らず会話にはこの意識はポイントだ。自慢話は無論、会話は一人では成立しない。聞いてくれる相手がいて初めて成り立つのだ。だから「聞いてくれてありがとう」でいいのだ。
昔、ある友人と数人で話しをしている際、「はっ」と気づかされた事がある。私が気持ちよく話をしている時の事だ。映画についてみどころや自分の感想などを話していたと思う。我ながら面白く話ができたと大満足だったところに、ある友達が、「あんたの話も面白いけど、●●ちゃんも聞き上手よね」とサラッと言った(今思えば、その子の観察眼も大したものだ)。
確かにそうなのだ。私が気持ちよく話せたのは、聞き上手の子がいたためだった。そのため、話題がはずみ、場が盛り上がったのだ。
聞く側が下手だと、反応や相づちが悪く会話が途切れたり、話の途中で腰を折られたりする。会話は盛り上がらず、誰かが極端に疲れたり、気を遣ったり、皆が楽しめないものだ。時間を使ったり、時にはお金を使って集まっているのに、何のための会話かわからない。
一方、盛り上がった会話は楽しい。誰かの話に、誰かの会話が乗っかり、そこからまた話題が広がり盛り上がる。まさに極上のコミュニケーションだ。

自慢上手、聞き上手。どれも会話の盛り上げ上手と言える。盛り上げ上手達の共演があってこそ、皆が楽しめる極上のコミュニケーションが生まれるわけだ。
こういうの、たまらない。

プロフィール

ペンネーム: 津木 雫(つぎ しずく)
オヤジ・オバチャン・オトメのO3マインドを持つ、なんちゃってコラムニスト。
約20年間メーカー勤務。広報・マーケティングを経て、現在フリーランス。
典型的な仕事人間という生活を過ごし、はたと気がつけば人生の折り返し地点。「さぁどうする!」と我が道を振り返っている真最中。
学生時代に、約15カ国を貧乏旅行。
その経験から、今の若者が育つ環境には、問題を自らの力で乗り越える体験が不足していると、感じている。若者教育関連のNPOを立ち上げ、神奈川を中心に現在活動展開中。

今月の1枚:八景島


(クリックで拡大画像)

 

<コメント>
これからの時期は夕涼みがいいですね。おすすめはやっぱり八景島。ジェットコースターを見上げるこのポイントが美しい。天気が良ければ、もう少し右手に富士山も。入場料は無料。

 

7月 10 14

キッチンスタジオ「ジュイエ」の天才をつくる料理事典(第10回) 夏バテ防止にはカレー!&7月料理コースのご案内

by staff

なんだかだるい・・・夏バテかも?そんなときはカレーで元気!

気温が上がってくると、なにかと体調を崩しやすいもの。特に、暑いから、と冷たい食べ物、飲み物をとりすぎたり、逆にスタミナをつけよう!とこってりしたものを食べ過ぎたり。どちらにしても内蔵を冷やしたり、負担をかけたりして、体のだるさ、につながることになります。

こんな時は、元気が出るカレー! はいかがでしょうか?

夏でなくても、カレーを好きな方は多いと思いますが、実はカレーは夏にこそ最適です。カレーと言えばインド。これでも分かる通り、暑い国には欠かせないカレー。秘密はカレーに使われているスパイスにあります。

スパイスは、そもそも漢方薬ですから体の調子を整えるのに最適です。毎日カレーを食べるインドでは、お母さんが家族の体調に合わせて使うスパイスを選ぶのだとか。

 

カレー
カレー

香辛料
香辛料

代表的なスパイスは、コリアンダー、クミン、チリパウダー、ターメリックなど。他にも10~20種のスパイスを調合することも。市販されているカレー粉は、これら複数のブレンドスパイスです。それぞれに薬効がありますが、おおむね共通して発汗を促す、抗酸化作用、新陳代謝を高める、食欲を増進させる、胃の動きを活発にする、疲労回復などが期待できます。また、強い抗菌作用もあり、食べ物を腐敗から守ります。

まさに夏にぴったりの食べ物と言えますね。暑い夏こそ、カレーを食べて元気にすごしましょう!

ただ、少し注意も必要です。

スパイスは漢方薬といえ、中には刺激の強い、辛いものもあります。日常刺激の強いものを食べ慣れない人が大量にとると、肌荒れや胃痛を起こすこともありますので、毎日は食べすぎですよー。

また、ご家庭で作るカレーは、カレールーを使うことが普通だと思います。こちらのルーは味も整っていて便利ですが、大量に脂を含みます。それによって胃もたれを起こすこともありますので、出来ればカレー粉で作ることをお勧めします。または、通常の半分のルーを使い、あとの風味はカレー粉で、などの工夫もいいですね。

 

7月の料理コースのご案内

私が行なう料理教室では、毎月、フランス料理がコース2つと、家庭料理のコースを開講しています。フランス料理は、基本コースと応用コースの2コース。家庭料理の方は幾つかのメニューよりお好きなものを組み合わせていただけます。

7月のコース内容

フランス料理基本コース 『ビシソワーズ』
『欧風ビーフカレー』
『ハーブゼリー』
じゃがいの冷たいスープ、ビシソワーズ。夏にぴったりのメニューです。最後の隠し味でレストランの味わいに!夏と言えば、やっぱりカレー。いろいろな種類がありますが、上品な欧風ビーフカレーを作りましょう。もちろん、ルーは不使用。スパイスで作ります。
ハーブゼリーは、お口直しにも最適。夏のフルーツと合わせた、さわやかなデザートです。

ビシソワーズ

欧風ビーフカレー

ハーブゼリー

フランス料理応用コース 『ライタ』
『サグカレー、チャパティ』
『チャイシフォンケーキ』
7月はインド料理に挑戦!ヨーグルトを使った、さわやかサラダのライタ。
ほうれん草を使った、緑のカレー。チャパティをそえて。インド料理屋さんの人気カレーが意外に簡単に出来ますよ。
さらに、スパイスとミルクの味の、チャイシフォンケーキを作ります。
家庭料理コース 今月も様々な夏メニューを御用意しています。
麻婆豆腐は一番人気! ぜひ、マスターして下さい。生姜焼き、ポテトサラダなど、男性に喜ばれるメニューも沢山ありますよ~。

 受講日程や、受講方法などは、キッチンスタジオ・ジュイエのホームページより、『料理教室』のページをご参考ください。

http://www.7juillet.com/kyousitu.html

プロフィール


フード・エデュケーション・コミュニケーター
キノケイコ

 

フード・エデュケーション・コミュニケーター キノケイコ

女子栄養短期大学卒業 栄養士免許取得
エコール・キュリネール国立(現 エコール辻東京)にてフランス料理を学ぶ
同校 フランス・リヨン校、フランス1つ星レストランにて研修。
帰国後、都内フランス料理教室にて、アシスタント、講師を務める
独立し、キッチンスタジオ・ジュイエ開設。
現在、フランス料理のみならず、家庭料理、玄米、麹料理など幅広い分野を得意とする。
URL:http://www.7juillet.com

 

7月 10 14

2014年7月 三ツ池だより 「歌の力! 市制90年の川崎」

by staff
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 最初に小学生が入場し式典の始まるのを待っていた。パイプオルガンが鳴り、式が始まると川崎市立坂戸小学校合唱隊が「かわさきのねいろ」を歌い始めた。「見上げれば空 見渡せば街 優しさあふれる・・・・」その歌声に涙がこぼれた。「人々の奏でる幸せの音色 星が瞬く静かな音色・・・・」涙がこぼれてとまらない。そして「人々が奏でるしあわせの音色・・・・」

 ミューザ川崎シンフォニーホールで川崎市政90周年の記念式典が行われた。私は団体の長として招待された。約1200名が出席していた。お世話になっている方々の顔もちらほら見られた。福田紀彦市長は式辞で、これまで関東大震や世界第2次大戦の川崎の被災や公害などを克服してきた川崎市の歴史に触れ、「川崎の強みは “チャレンジ・スピリット” である」と強く発言された。課題に挑戦し、困難をチャンスに変え、危機を成長に転換して日本をリードする、その精神こそが “川崎らしさだ” と述べられた。経済の大きな変化やグローバルな環境対応。そこに身近なふるさとづくり。持続的な成長に向けた「力強い産業都市づくり」と「安心なふるさとづくり」の調和こそが社会問題を解決するブレークスルーとなる。市制100年記念に向けた今後については、「市民が誇りと愛着をもつ “最幸のまち かわさき” の実現に向け、皆さんとともに未来を切り開いていきたい」と、さらなる市政発展への決意を語られた。

 七月はどんな月になるのだろうか? 俳句にみてみよう。

七夕や涼しき上に湯につかる
小林一茶
七夕や笹の葉かげの隠れ星
村上鬼城
七夕や皆妓となる舞の友
久保田万太郎

 七夕が近くなるとなんとなくそわそわした。短冊にあの願い事を書いていいのかと思ったり、笹の羽振りの良いのをどこへ行けばいいのかと思案した。

細腰の法師すずろに踊かな
与謝野蕪村
女房もなくて身を古る音頭取
原石鼎

 七夕が過ぎると祭りの時期に入る。

門先にうつむきあふや百合の花
正岡子規
うつむくは思案に似たり百合の花
正岡子規
百合活けて百合の歌詠む湯治哉
正岡子規

 どこにもありそうであるのが百合である。本当にどこにもあったが最近がよぼどでないと見つけられなくなくなっている。7月は旅の始まりでもあろうか。

この旅はてもない旅つくつくぼうし
種田山頭火
風紋に日傘まぎれず砂丘ゆく
狩羽狩行
寺町の塀に吸われず日傘行く
神蔵器

 七月はさまざまなことが起こる時なのかもしれない。

夜へ継ぐ工場の炎や半夏雨
角川源義
高原の夜の静けさ月見草
稲畑汀子
月見草はなればなれに夜明けたり
渡邊水巴

 最初に戻ってみる。「かわさきのねいろ」に感動したのだが、これは詩が身近に感じられ、曲も親しみを感じられる。横浜市歌にしても、川崎市歌にしても歌いにくくもある。時代にあう歌も必要だと思っている。80周年記念に作られた「かわさきのねいろ」はとてもさわやかである。聞く機会がもっとあっていいのだと思った。

作詞 浅川由香里  作曲 出雲謙一  補作編曲 中山博之

 外に出る機会が多いこの七月は、なんとしても歌を言葉を口に出してみよう。自然との会話!人との会話!さぁもう一度元気をだして歩き出そうではないか。

 

Photos

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(文・写真:横須賀 健治)

横須賀 健治プロフィール

メジャーテックツルミ 代表取締役
はかることのプロとして50年です。
食品の放射能測定のアークメジャーを設立しました。
「計量から見える幸せ」をライフワークにしています。

 

7月 10 14

ビジネス梁塵秘抄「遊・献・学」(第16回)

by staff

大浦総合研究所 代表/大浦勇三

ビジネス梁塵秘抄「遊・献・学」(第16回)

遊びをせんとや生れけむ、戯れせんとや生れけん
遊ぶ子供の声きけば、我が身さえこそ動がるれ

- 梁塵秘抄 -

 “駄目なことの一切を時代のせいにはするな” “自分の感受性くらい自分で守れ ばかものよ” と詩にしたのは2006年に亡くなった詩人・茨木のり子さん。 “永訣(えいけつ)”  とは日々の中にあるとの覚悟を秘め、ある意味で大胆・不敵に生き抜いた人といえるかもしれません。 “倚りかからず”  という詩では、できあいの思想・できあいの宗教・できあいの学問・いかなる権威にも倚りかかりたくないとの思いが貫かれています。人間観察にもすぐれ、何よりも “人を見て喋ることを変えることをしない人間” を信頼したといいます。明日を夢見ることを大切にした盟友の詩人・谷川俊太郎さんと重なるものがあります。ビジネスの世界でも “歳月をかけて鍛え磨き抜いてきた底光りする人材” がその真価を発揮する時代が到来しました。米国グーグルでは “知能指数(IQ)ではなく状況に対応できる全体的な認識(学習)能力” “体育会系ではなく課題直面時の創発的なリーダーシップ” “失敗経験がないのではなく失敗から学ぶ知的な謙虚さ” が求められています。梁塵秘抄では “嵯峨野の興宴は鵜舟筏師流れ紅葉、山蔭響かす筝のこと、浄土の遊びに異ならず” とあります。嵯峨野は観光名所、鵜飼舟や筏流しを見物しながら酒を飲み珍味を堪能するのは浄土の遊びの如くこの世の楽しみ・極楽。ただ “初心消えかかるのを暮らしのせいにするな” との戒めが天国から聞こえてきそうですね。

“遊びをせんとや生れけん” 「遊」

サービス経済の本質は何か 一時間のサービスは中味が二〇分、雑談が四〇分
顧客を知る、仲良くなる 生き方や好みに理解を深める、五感を磨いて総動員
おもてなし・気働きの脳は老化が少なく遅い 規模ではなく複雑さにこそ妙味
平気で異端を歩む 時代を動かすのは主義でなく個性、とオスカー・ワイルド

 オスカー・ワイルドはアイルランド出身の詩人・作家・劇作家です。耽美的・退廃的・懐疑的だった19世紀末のリーダー的存在だったとのこと。 “生きるとはこの世でいちばん稀なことで、たいていの人はただ存在しているだけ” だと語り、時代を動かすのは主義ではなく個性だと喝破しました。日本でも森鴎外・夏目漱石・芥川龍之介・谷崎潤一郎らに大きな影響を与えたといわれます。どんな時代であれ、定義して境界をつくるのは世界を限定してしまうこと。モノづくりが日本のお家芸であることに変わりませんが、企画やサービスを含めた総合芸術の技が必要になったことの自覚も必要になりそうです。規模・量だけであれば新興国がすぐ目の前まで迫ってきていますが “おもてなし” は複雑性を内包する人間科学。遊び心を加味すれば勝機は十分。ただ、この世で人間が一番複雑であるからこそ、時には社会や人生をシンプルに観ていく知恵も大切ですよね。

“仕事をせんとや生れけん” 「献」

世界標準は世界市場の八〇% 欧米は技術の専門家でなく標準化の専門家
システムとは、構成要素とその関係性 更に関係性をスムースに動かす力
アメリカ文化は自己主張、日本文化は環境適応 今後は宮本武蔵の二刀流
日本固有のものを日本人だけで抱え込まない 答えを探すより問い続ける

 宮本武蔵は剣を通じて思想・水墨画などにも奥義を極め “自己効力感” を梃子に自己実現をはかった代表選手の一人といえそうです。 “平常の身体のこなし方を戦いの時の身のこなし方とし、戦いの時の身のこなし方を平常と同じ身のこなし方とする” はビジネス社会でもそのまま通用しそうです。グローバルビジネスでは、世界標準を握ることが市場制覇に直結するため、どの国や企業も必勝の覚悟で挑んでいます。問題はその中核を誰が担うのか。軸となるべき標準化の専門家とは、専門分野の知見に加えて、あらゆる分野に関するコモンセンスを持ち、正解のみを追求するのではなく常に問い続ける人材といえるかもしれません。 “大事なことは、音楽が何かを変えられるかではなく、我々が音楽から何を学ぶかということ” と語るのは世界的な指揮者でピアニストのダニエル・バレンボイム。問い続けるということは学び続けることと表裏一体ということですかね。

“学びをせんとや生れけん” 「学」

誰でもどこかで泣いて、今の場所まで来たはず
独りで泣いた経験のない人間は頼りにならない
人を育てる核心は 涙を秘めた自信を育むこと
内なる勝利なくば外の敵に倒れる、と岡倉天心

 岡倉天心は茨城県五浦の六角堂(観瀾亭)で、太平洋の波の音を聞きながら世界を見据えた思索に没頭したといいます。太平洋に突き出した岩上に建つ朱塗りの建物です。日本の美術界では一種の聖地といわれてきました。しかし、3.11の東日本大震災で津波により消失。ただ、世界各地からの寄付にも支えられ再建を果たすことができました。 “西洋の特徴はいかに理性的に自慢するかであり、日本の特徴は内省にこそある” と分析し “不完全に対する真摯な瞑想” の重要性を説きました。悔し涙を流すということは学ぶべきテーマが与えられたということ、涙の数だけ学ぶ経験を重ねていけるということでしょうか。それを地道に進めるには、自分に克たなければ外との闘いに勝てるはずがないという信念。 “絵の具を百回以上重ねることで、色数が少なくともニュアンスや味が出る。一回塗るだけでは平面的でダメだ” と指摘したのは画家の平山郁夫さんです。

「遊びは仕事、仕事は遊び」
「仕事は学び、学びは仕事」
「学びは遊び、遊びは学び」

 今回とりあげた「遊・献・学」それぞれの4行文は、拙書「ビジネス梁塵秘抄(一)~(九)」(全10巻)から抽出したものです。次回以降も「遊・献・学」から各々4行文を一つずつ抽出してご紹介していきたいと思います。

「ビジネス梁塵秘抄」購入ご希望の方はこちらからどうぞ!
http://www.syplus.jp/ooura/

(第16回了)

 

大浦勇三(おおうら ゆうぞう) プロフィール

大浦勇三(おおうら ゆうぞう)  

大浦総合研究所 代表 (http://www.mmjp.or.jp/ooura/

石川県七尾市出身。
早稲田大学卒業、筑波大学大学院修了。
米国経営コンサルティング会社 アーサー・D・リトル 主席コンサルタントを経て現職。
主担当領域は、経営改革/企業再生、経営戦略/情報通信技術戦略策定、業務改革/組織改革、研究開発/商品開発マネジメント、マーケティングマネジメント、ナレッジマネジメント、イノベーションマネジメント、サプライチェーンマネジメント、人材マネジメント、コーチング/メンタリング、プロジェクト/プログラムマネジメント、ベンチャービジネス支援等のコンサルティング。

筑波大学大学院講師、城西国際大学客員教授、名城大学講師、産業能率大学講師、中小企業大学校講師などを歴任。

主な著作物:

  • 「ビジネス梁塵秘抄(一)~(九)」<全10巻>(大浦総合研究所:PDF版)
  • 「イノベーション・ノート」(PHP研究所)
  • 「ITプロジェクトマネジャーのためのコーチング入門」(ソフトリサーチセンター)
  • 「図解 日本版LLP/LLCまるわかり」(PHP研究所)
  • 「IT技術者キャリアアップのためのメンタリング技法」(ソフトリサーチセンター)
  • 「よいコンサルタントの見分け方、かかり方」(清話会)
  • 「日本のモノづくり - 52の論点」<共著>(日本メンテナンス協会)
  • 「現場主導型の組織運営とスピード戦略」(日本監督士協会)
  • 「eコミュニティがビジネスを変える」<訳>(東洋経済新報社)
  • 「ナレッジマネジメントが見る見るわかる」(サンマーク出版)
  • 「図解 ナレッジ・カンパニー」(東洋経済新報社)
  • 「ナレッジマネジメント革命」(東洋経済新報社 )
  • 「図解 グローバル・スタンダード革命」(東洋経済新報社)
  • 「業務改革成功への情報技術活用」(東洋経済新報社)
  • 「情報化戦略と投資評価・システム運用管理の実際」<編著>(企業研究会)
  • 「会社改革実務辞典」<共著>(産業調査会)
  • 「プロジェクトマネジャー(PM)の育成・スキルアップのためのメンタリングの進め方と実践法」 (ソフトリサーチセンター:CD-ROM版)   など
7月 10 14

中小経営のニッチから国際化へ(第10回 最終回)

by staff

デジタルハリウッド大学大学院/NVD株式会社 松本英博

1.国際化と海外進出は同じ?

 初回から前回まで中小経営と国際化について解説してきました。似たような言葉に海外進出という言葉があります。今回、これまでのまとめを、この2つの言葉の違いから始めたいと思います。

海外進出と国際化

 あくまでも海外進出は手段であり、国際化は目的です。したがって、国際化を読者の会社で進める場合、海外進出する必要はありません。たとえ日本国内であっても国際化はできます。ただ、目的である国際化に伴って、海外とのコンタクトやコミュニケーションに海外進出をすることが事業を推進する助けになればよいのです。前回に示したように、海外進出には担当者に相当の負担をかけ、リスクもとのなうことが多いことから注目されますが、海外進出以外にも落とし穴となるのが、国際化の得失を会社全体で共有していないことです。

国際化は国外から?

 黒船来航ではないですが、国際化の波は国外からくると錯覚することで、国際化の得失を考えることに思い込みが入り込む場合があります、実は、いつもの取引先やお客さまから国際化を余儀なくされる場合もあるのです。

 例えば、国内の仕入で製造するメーカーを考えてみましょう。確かに仕入部品の扱いは仕入先かもしれませんが、新興国の輸入品であるなど、海外の仕様や品質管理で行われることが少なくないでしょう。コストを下げるために安価な輸入品を使わざるを得ないとなれば、納入品の原産国や仕様、品質、歩留まりなどの情報を把握し、場合によっても補充すべき手段が必要でしょう。

 問題は、これまで国際化を意識しないで、この納品情報に頼っていると、サプライチェーンが災害や地勢的な要件(紛争やテロ、戦争など)で分断されたら、大きな被害にあうかもしれません。そうならないためにも仕入先を世界視野で現状の情報を即時に分析、判断できる能力が必要となります。

 更に顧客に対しても、国内の納入先とは限らなくなってきています。今や配送システムは、宛先が確定しておれば、ほぼ全世界に配送できます。逆に考えると、顧客が国内か国外かといったことではなく、需要の大きさだけで、どこに配送すればよいのかといった、国際的なマーケティング戦略に代わってくるのです。たとえば、日本国内の鉄道車両のメーカーは、需要が頭打ちになる国内市場に比べて需要が見込めるところとして、今やドバイの新都心の交通があります。

 また、輸入に限らず、輸出に関しても、法的に輸出できない国やモノ、サービスがあることも国際情勢によって変化するため情報を常に把握する必要が出てきています。

欧米化が国際化?

 さて、仕入先や顧客が国際化しているので、自社も欧米化する必要があるかといった質問を受けることがあります。答えは、一般的にイエスですが、そうでない場合もあります。国際化がそのまま欧米化であるとは限らないからです。欧米も新興国と取引を行っているわけで、その背景には欧米企業の利潤追求があります。欧米の方式自体が、自国に優位になる方法であることから、そのまま、日本の商慣習や法制、税制に合致することはないでしょう。そこで、国際ルールや基準、標準の論議が出てくるわけです。これらの国際的な基準が国際化で追従すべきことになります。

 日本の産業界は、これまで国際標準に対して、欧米の主張を追認することで、自国の商品やサービスを輸出してきました。しかし、今や市場が国際化すれば、市場は欧米に限らず、全世界的に通用する標準で考えることに変わってきています。そこで問題となるのは、誰がイニシアティブをとって標準の内容を自社あるいは自国に優位にするかといった規格競争が起こる時代となりました。

 標準には、2つの大義があります。1つは、標準を設けることで、利用者や顧客が混乱なく流通し、商品やサービスを享受できることです。もう1つは、標準を設けることで、売り手である企業は、市場のシェアを確保でき、売上を安定させることができるというものです。このように標準を設けることにイニシアティブをとることは企業にとっては事業展開の大きな条件になるのです。

 欧米は、産業革命以後、特許や意匠といった知的財産権が標準のイニシアティブを握ることを知っており、事業展開で必ず国際標準化戦略をしっかり作成し実践してきます。新規事業であればあるほど、前例がないため、知財に必要なイニシアティブは、標準化の方向付けを行う上で大きな力を持つことを経験上知っています。例えば、EV(電気自動車)の充電を行うプラグ形状や仕様も、安全性や利用条件、技術的な実現性を基本に、それらの分野に強い企業が標準を手掛けていこうとします。日本の国内企業も、これらの標準化でイニシアティブをとることが、市場での優位性を保つ上でも避けて通れないことになってきているのです。

2.中小経営での国際化の意義

 さて、もう読者はお気付きでしょう。インターネットや技術の向上で流通や情報交換の手軽さが浸透してきた現代では、各国内の事件が「世界規模」で非常に速く拡散する時代になっているということです。資本の規模によらず、一気に国際舞台に立たされることは必定となっているといっても過言ではないでしょう。

 国際化の時代では、正確に状況を把握し判断できる力の競争になることも意味しています。自社は国内企業でニッチ産業だからと、国際化の波に乗れないでいれば、既成の取引先や仕入先が相手にしてくれないといったことも意味しています。

 中小経営は、前回も申し上げたように、大手よりも身軽に動けるところを上手く利用しなければなりません。社内も、国際的な視点で情報を共有し、教育し、戦略を練ることも望まれる状況です。

 最初から国際標準を念頭に、ビジネス・プロトコルも身につけて、はるかに国内市場よりも大きい市場を相手にしていくことが、次世代の中小経営であると思います。

最終回によせて

十回にわたり、ニッチから国際化へ中小経営だからこそ挑戦できるポイントについて語ってきました。国際市場はまだまだ拡大しており、課題が山積する中で、せめてでも、このコラムが解決の一端となれば幸いです。 連載にお付き合い頂いた読者各位に感謝いたします。

※さて、別のビジネス・コラムの「創造方程式」による発想のトレーニングがしたいというなら、参考に拙著「ヒット商品を生み出すネタ出し練習帳」をどうぞ。

松本英博 プロフィール

 

松本 英博(まつもと ひでひろ)

デジタルハリウッド大学大学院 専任教授/NVD株式会社 代表取締役

 京都府出身。18年にわたりNECに勤務。同社のパーソナルメディア開発本部で、MPEG1でのマルチメディア技術の開発と国際標準化と日本工業規格 (JIS)化を行い、MIT(マサチューセッツ工科大学)メディアラボで画像圧縮技術を習得のため留学。帰国後、ネットワークス開発研究所ではWAPや i-モードなどの無線インターネットアクセス技術の応用製品の開発と国際標準化を技術マネジャーとして指揮。

 NEC退社後、ベンチャー投資会社ネオテニーにおいて大企業の新規事業開発支援、社内ベンチャーの事業化支援を行い、2002年9月にネオテニーから分離独立し、NVD株式会社(旧ネオテニーベンチャー開発)を設立、代表取締役に就任。大手企業の新規事業開発・社内ベンチャー育成などのコンサルティング 実績を持つ。

 IEEE(米国電子工学学会)会員、MIT日本人会会員。神奈川県商工労働部新産業ベンチャー事業認定委員、デジタルハリウッド大学大学院 専任教授、現在に至る。

 

7月 10 14

第15回 横浜売れるモノづくり研究会 セミナーのご案内、「笑顔経営」セミナーのお知らせ

by staff

 

第15回 横浜売れるモノづくり研究会 セミナーのご案内

「横浜から世界へ ~元気な製造業の条件とは~
—全日本製造業世界コマ大戦2015 応援セミナー —」

製造業が直径2cmのコマを設計・製造、そして対決する「コマ大戦」。多くのメディアに取り上げられ、昨年横浜で開催されたテクニカルショウヨコハマでの全国大会はNHKの特集番組にもなりました。

横浜売れるモノづくり研究会は、「コマ大戦」が始まった頃から応援しています。全国大会では東北地区準優勝の白石工業高校の生徒さんたちに会場に来ていただくための募金活動を行いました。

現在、「コマ大戦」は日本のみならず海を越えて、世界に広がっています。2015年2月15日、横浜の大桟橋ホールでついに「世界コマ大戦」が開催されることになりました。

全日本製造業世界コマ大戦2015: http://www.worldkoma.jp/

なぜ製造業の方々は「コマ大戦」に真剣に取り組むのでしょうか。それも製造業の若きリーダーたちが・・・。そこに「製造業を元気にする秘訣」があるのではないでしょうか。

7月24日に開催するセミナーでは、前横浜市工業会連合会専務理事で、現在は横浜北工業会の専務理事をされている長島敏晴氏に「元気な製造業の条件」というテーマでご講演いただきます。長島氏は世界コマ大戦2015実行委員会の委員としてもご活躍です。

また、コマ大戦に出場して自社がどのように変わったのかについて、株式会社関東精密代表取締役の杉田勇氏にお話しいただきます。

そして、全日本製造業コマ大戦協会会長の緑川賢司氏から、「コマ大戦が日本の製造業をどのように変えていこうとしているのか」「なぜ横浜で世界大戦を横浜開催するのか」について語っていただきます。

今回のセミナーは、「コマ大戦」を通して「日本の製造業の行方」を語り合う場にしていきたいと考えています。

セミナー後は、横浜の恵みを味わえるお店「横濱うたげや 大ど根性ホルモン」に会場を移して交流懇親会を開催いたします。

多くの方々に参加していただいて、講師・参加者との交流を深めていただきたいと思いますので、皆様奮ってご参加ください!!

横浜売れるモノづくり研究会: http://www.monoken.net/
参加される方は申込フォームに入力してください:
https://www.supportyou.jp/monoken/form/3/

日  時 平成26年7月24日(木) 15時15分~17時45分
会  場 かながわ県民活動サポートセンター 403号室
横浜市神奈川区鶴屋町2-24-2
Tel.045-312-1121(代表)
http://www.pref.kanagawa.jp/…
会  費 1,000円
内  容 ●基調講演
  「元気な製造業の条件とは」
    一般社団法人 横浜北工業会 専務理事 長島 敏晴 氏
    (世界コマ大戦2015実行委員会委員)
    http://www6.ocn.ne.jp…
●事例報告
  「コマ大戦に参加して」
    株式会社関東精密 代表取締役 杉田 勇 氏
    (世界コマ大戦2015実行委員会委員)
    http://www.kanto-seimitsu.jp/
●今後の展望
  「コマ大戦の目指すもの」
    株式会社ミナロ 代表取締役 緑川 賢司 氏
    (全日本製造業コマ大戦協会 会長)
    http://www.minaro.com/
交流懇親会 【日 時】平成26年7月24日(木)18時00分~20時00分
【会 場】「横濱うたげや 大ど根性ホルモン」
     横浜市西区北幸2-13-4横浜平成ビル地下1階
     Tel.045-320-3077
     (横浜駅西口徒歩8分程度)
【会 費】3,000円程度

 

「笑顔経営」セミナーのお知らせ

株式会社バイオクロマトの木下一真社長と一緒に会社経営を学ぶ「笑顔経営」セミナーが5月から始まっています。

月1回(全4回コース)開催のセミナーで会社経営の「正しいノウハウ」を学び、会社の業績アップを共に目指しましょう!

開催概要

セミナー内容 3回目 7月10日(木)
会社や組織の売り上げは何に依存しているのか? 前編
~これが解れば売上アップ!間違いなし~
4回目 8月7日(木)
会社や組織の売り上げは何に依存しているのか? 後編
~これが解れば売上アップ!間違いなし~
日  時 2014年7月10日(水) 19:00~
会  場 かながわ県民活動サポートセンター
〒221-0835 神奈川県横浜市神奈川区鶴屋町2-24-2
電話045-312-1121(代表)
横浜駅西口 徒歩5分
アクセス
申  込 お申し込みはこちらから
http://www.monoken.net/egao-keiei/

 

「売れるモノづくり」についてのご相談を承ります

いいモノを作ってもなかなか売れない・・・
製造業の方々からそんな悩みをよく耳にします。
どんなに良い製品でも、市場に受け入れられなければ「モノ」で終わってしまいます。

「横浜売れるモノづくり研究会」は、神奈川県在住の企業支援の専門家やITの専門家など多種多彩なメンバーで構成されています。

「横浜売れるモノづくり研究会」では、「製品の売り方をどうしたらいいか」
という企業のご相談を随時受け付けています。

毎月一回第二木曜日には、ご相談される企業と専門家が面談を行っています。

売れるモノづくりについてのご相談はこちらにご入力下さい。
https://www.supportyou.jp/monoken/form/2/

<問合先>
横浜売れるモノづくり研究会 事務局
(株式会社ともクリエーションズ内)
〒231-0004
横浜市中区元浜町3-21-2 ヘリオス関内ビル4階
TEL 045-226-3475 FAX 045-226-3476

メディア掲載情報

 

7月 10 14

書評 「看取り士 幸せな旅立ちを約束します」 コスモ21 柴田久美子 著

by staff
 

「看取り士」とは文字通り、旅立つ人を看取る人のことです。柴田さんは10数年前から看取りの仕事をしています。3年ほど前に「看取り士」と名乗り始めたそうです。看取り士は何をするのかということに次のように答えられています。

「看取り士は何をするのかと言いますと、住み慣れた自宅やご本人の希望する場所で自然な最期を迎えたい人に、24時間寄り添い、旅立ちを支援します。旅立の方が悔いなく、しあわせに人生を全うするため、ターミナル(回復の見込みがない段階)から納棺の前までのすべてを相談に乗り、ご家族の方とともに見送ります。つまり、ご本人が思い通りに旅立っていけるように調整していくのが看取り士の仕事です。」

いよいよ看取る場面になると、四つのポイントがあるそうです。
「一つに、旅立つ人と肌の触れ合いをすること
二つに、傾聴、反復、沈黙を繰り返すこと
三つに、大丈夫と声をかけること
四つに、旅立つ人と呼吸を共有すること」

どのように幸せに旅立つためのプロデューサーかというと
「看取り士は、看取りの現場で、旅立つ人そのものになって、旅立つ人の思いや愛やパワーを受け止め、残った人に受け渡すのです。看取りの場面では、奇跡的なことが起こります。しかし、それは奇跡でなく、すべてが予定されたことのように感じます。」

お金で買えない最期の贅沢の項で最初に述べられます。
「アンケートをしてみると、在宅で死にたいと望む人が8割でしたが、実際に自宅で死ぬことが出きるのは2割程度です。テレビや新聞、雑誌、書籍などでも、自分の家で死ぬことがしあわせな死であるかのように在宅死を声高に強調しているようです。しかし、私は自宅で死ぬこと自体がしあわせな死だとはおもいません。自宅での死だとしてもそれが孤独だとしたらしあわせでしょうか。しあわせな死に場所ではないと思います。しあわせな死は、死に対して夢があり、手を握り抱きしめられて見送る人がいて、それを自分が決めることで実現できるのです。看取り士という名称も作りました。これははじめてのものだと思います。看取り士とはそのしあわせな死を実現する職業であり、その人の事です。」

しあわせな死とは何だろうか。
1.夢があること
2.支える人がいること
3.自分が決める自由があること

これらとともに、心のバランスがとれて初めて、しあわせな最期が迎えられる看取りの場面での奇跡の連続の事がある。
「相手の方が寝たきりで亡くなられる2日くらい前のことでしたが、初対面でこんなに近くていいですか? とご家族が気を使うくらい顔を近づけて挨拶させてもらったのです。その時点で、相手方の精神性が高く、すでに自他がなくすべてを受け入れていることがわかります。そういう状態になれるのは、いわゆるお迎えが来ている段階だからなのです。お迎えがきている状態のところに行くと、その方の力を借りて、まるで奇跡が起きたと思われるほどです。最期になって奇跡がおきたような変化というのは、たとえ家族関係がうまくいってない家庭でも見られることです。」「息子さんはそれまで母親を恨んでいたため、当初は家にかえることをいやだといわれまいたが、息子さんはなにもしなくてもいいです。お母さんを家にだけ行かせてください。私たちがそばにいますからと言って、お願いしました。ところが一週間くらい経ったら、いつの間にか、息子さんはお母さんの隣で寝ていたのです。ついにはオムツも変えるまでになりました。最期は “生んでくれてありがとう” と言ってきちんと看取りをされたのです。」

いろいろ書かれているのでぜひ手にとって読んでいただきたい。
平穏に死ぬための準備をしようの最終章で柴田さんは言います。
「人は自然に死ぬのであって、決して病院が死なせてくれるわけではありません。死に方には、その人の生き方、人生観そのものが現れます。誰でもが看取り学を身につけることで、生きること、死ぬことへの心構えが出来ます。私は現在、『看取り学』という講義をさせていただいています。私の立場は、家族の目線であることです。医師でなく、看護師でなく、ふつうの家族の目線というのが私の立場で、暮らしのなかから提案していきます。つまり『看取り学』とは、平穏に、しあわせに死ぬための準備をすることです。」

2014年8月24日渋谷区民ホールで初めての「看取りの会全国大会」が行われる。誰でもが参加できるとのこと。これからを考えた時に実に必要なことだと感じている。看取りの会のHPに詳細がある。まだまだ看取りについて理解は浅いが本を読む機会があったことは幸いであり、8月24日はボランテァでお手伝いに入る予定だ。

一般社団法人なごみの里: http://nagominosato.org/

(文:横須賀 健治)

 

 

7月 10 14

第21回 どあっぷ 「『エコ・リーグ関東事業部』を取材」

by staff

みなさんこんにちは!
シチズンシップ教育の普及をめざすために活動している、NPO法人ど・あっぷ!です。
このコーナーでは、市民度の高い人や団体を、ど・あっぷ!が勝手に紹介します。
記事の最後には団体のFacebookページのURLやTwitterのアカウント名も載せていますので、ぜひぜひそちらもチェックしてみてくださいね!

 

「ど・あっぱーず☆見つけ隊」vol.12
「つながれ、ワカモノ。未来をつくれ!」「エコ・リーグ」

 今年の8月15日で発足から20年になる歴史ある団体「エコ・リーグ」の関東事業部に今回はお邪魔しました!1階に名画座があるレトロで雰囲気のあるビルのなかにエコ・リーグの事務所はあります。取材をさせていただいたのは、エコ・リーグの関東事業部事業部長の角川さん、関東事業部広報担当の串田さん、そして今年の9月に行われる「全国ギャザリング2014」の実行委員長である福森さんです。御三方とも大学にかよいながら、イベントの広報を統括されていたり、実行委員長を担うなど責任ある仕事をまかされているスーパーな学生さんです。エコ・リーグの活動だけでなく、魅力的な彼・彼女にも迫っていきますのでお楽しみください。また、皆さんが気になっているであろう「全国ギャザリング2014」とは一体全体何なのかは後ほど詳しく書いていきますのでご安心を!それでは「エコ・リーグ」の魅力を思う存分味わってください!

エコ・リーグとは?

 1994年に発足し、2012年にNPO法人化したエコ・リーグのキャッチコピーは「つながれ、ワカモノ。未来をつくれ!」です。このことから分かるように、エコ・リーグはワカモノたちの環境活動を応援することによって持続可能な社会の実現を目指しています。エコ・リーグの活動は主に ①ネットワークの活性化 ②人材育成 ③社会への発信の3つの柱をもとに活動を行っています。環境問題に関心があり、解決に向け取り組みをしているワカモノたちがより活動がしやすくなるよう、アドバイザーを招いてリーダーシップ研修を行ったり、環境団体への就職支援を行っていたりします。そのなかでも特にユニークな活動が「エコ大学ランキング」というプロジェクトです。これは、大学による環境に関する取り組みを独自で作成した調査書をもとに、環境への配慮度が高い大学をランキング形式で評価し、その結果を公開しています。大学にとって取り組みが評価され、良い結果が公表されることは、今後環境への配慮に関する取り組みを継続して行うインセンティブになるのではないでしょうか。また、客観的な数値として大学の取り組みが評価されることによって、大学が抱えている課題がみえやすくなります。このユニークな活動が全国的に広まり、大学だけでなく、他の施設でも環境へ配慮した取り組みが増えると良いですね!
結果を見たい方はこちらのサイトをご覧ください。

http://ccc.eco-2000.net/

参加したきっかけ

 「環境問題が気になる」と思いつつも、何か団体に所属して活動をするのはハードルが高いな…と思っている人は多いのではないでしょうか。そこで、今回インタビューに参加してくださった3人が、なぜエコ・リーグに参加しようと思ったのか伺ってみました。これを読んでみると、エコ・リーグに今すぐ参加したくなるかも…。

 まずは、関東事業部事業部長の角川さんに理由を伺いました。角川さんは、 元々大学の学園祭実行委員に参加していました。しかし、自身のキャンパスが閉鎖的と感じ、内部の人間だけで完結してしまわずに、より多くの人や多様な価値観に触れることができる団体に入りたいと思うようになったそうです。出身の富山から大学進学時に東京に来たことも影響しており、「せっかく東京に来たのだから富山ではできないことをやりたいと思った」と仰っていました。

 次に、広報担当の串田さんに伺いました。エコ・リーグは「ギャザリング」という合宿型イベントを開催しています。ギャザリングには全国から環境問題に取り組んでいるワカモノが集まり、自身の思いや、活動に関して情報交換することができます。串田さんは大学1年生のときに、自身の参加している環境団体にギャザリングの案内が来たことが参加したきっかけだそうです。串田さんは自身の大学の活動だけでは物足りなく感じていたため、いろいろな大学から参加者が集まるようなイベントに参加したいという思いがあったのも参加を後押ししたようです。ギャザリングに参加してみると、参加者がきらきらと輝いてみえて、「自分もこのような人たちになりたい!」という思いが募り、エコ・リーグへの参加を決断したそうです。

 最後に、福森さんの参加するきっかけをご紹介します。福森さんも大学の環境系のサークルに所属しており、その団体の先輩からエコ・リーグの存在を教えてもらったそうです。エコ・リーグが行っているイベントが楽しくて、何度も参加していたそうです。福森さんも串田さんと同じようにギャザリングに参加し、刺激を受けたことで、それまでは参加する側だったのが、企画する側にまわるようになりました。

 お話を聞いていると3人とも、多くの人びとの多様な価値観に触れることによってポジティブな刺激を受けたのがよく伝わってきました。やはり、一人で環境問題について考えることも重要ですが、せっかく様々な人たちと交流し、協力しあえる環境があるのですから、まずは気軽にイベントに参加してみるのが良いですね。

「みつける つながる 学びあう エコリーグカレッジ」

 串田さんや福森さんにインパクトを与えたギャザリングは今年も開催することが決定しています! 今回は、9月12日から15日にかけて、自身の取り組みたい環境のテーマは何か?を考えたり、問題を解決するための新たなアプロート方法はないか、を共通の関心をもつワカモノたちと学ぶことができます。今年は20周年ということもあり、OBGも呼んで20周年パーティーも行うようです。この節目の年に、皆さんも参加してみてはいかがでしょうか?
詳しい情報は以下のサイトを参考にしてください!

https://www.facebook.com/events/…

後記

 取材を通じて私のなかで何よりも一番印象に残ったのが、福森さんの「イベントが楽しくて何度も参加しました」という言葉でした。う?ん、イベント企画者冥利に尽きる言葉ですね!そんな風に言ってもらえるようなイベントを私も企画できるようになりたいなぁと思った土曜日の午後なのでした。

HP: http://el.eco-2000.net/
Facebook: https://www.facebook.com/ecoleague
関東事業部 Facebook: https://ja-jp.facebook.com/ecoleague.kanto
Twitter: @ecoleague_youth
関東事業部 Twitter: @ecoleague_kanto


http://www.youtube.com/user/douptv

(写真・イラスト:NPO法人ど・あっぷ!(DO UP!) / 文:大越 実花)

 

★ど・あっぷに「参加したい」、「ワークショップをやってもらいたい」、「ミーティングを見てみたい」等等、どんなことでも結構です。ご興味がありましたら、是非ご連絡ください。

ど・あっぷへのお問い合わせ form1.fc2.com/form/?id=161559
ど・あっぷHP www.citizendoup.com/index.html
日々のど・あっぷ ブログ 「ど・あっぷVOICE」 doupblog.blog123.fc2.com/
「ど・あっぷ!」Facebookページ www.facebook.com/doup.doup.doup

 

7月 10 14

本牧ラプソディ(第1回) 本牧ベースキャンプメモリー

by staff


 
 

 

サロン・アカデミー「sho & jeric」チーフベリファイア 久留原 昌一郎

PROLOGUE 連載に寄せて

初めに。
来年古希を迎えるにあたり、私の人生の起点となった横浜本牧での体験やエピソードを寄稿すると共に、21世紀を担う皆さんに本牧スピリットを伝えて横浜発展のお手伝いが出来れば幸いです。

 

本牧ラプソディ(第1回) 本牧ベースキャンプメモリー

昭和34年年末の早朝に広島より夜行列車で横浜に着きました。駅構内は出勤時の人々で溢れかえっていました。なんとその混雑に多くの米兵がいるのを見て私は思わず “ここは日本なの?” と父親に聞きました。父は “横浜には米軍のベースキャンプがあるのからね” と教えてくれました。バスに揺られ転居先の小港団地に着き部屋に入ってベランダに出たら目の前は映画の世界のアメリカでした。

大鳥中学校が転校先で初登校の通学路もベースキャンプのフェンスに沿って歩いて登校しましたがここでも驚きです、学校のグランド前は砂浜と海で海苔栽培の網がある漁師町でフェンスの隣はベースキャンプ(アメリカ)と日米混合の環境でした。

移転前の広島では原爆被災地での復興生活でしたがそんなに敗戦国の惨めな思いはありませんでしたが横浜に転居して改めて戦争に負けるとこんな環境で過ごさなければいけないのかととても悔しい想いをしました。

 

(クリックで拡大画像)

昭和30年代の本牧ベースキャンプ(空撮)/大谷不動産より
昭和30年代の本牧ベースキャンプ(空撮)
大谷不動産より

しかし半年もするとこんな環境になれて米兵からチョコレートやガムをもらったり、ベースキャンプの中にあるアメリカンスクールとの交流やキャンプ内のグランドで米兵の子供達と野球をしたり、将校専用の射撃場でコルトガバメントを撃たせてもらったりといろんな体験をすることで外人コンプレックスは “ベースキャンプ良いところ” と恩恵を愉しむことでなくなりました。

横浜緑ヶ丘高校に通学するようになるとキャンプのハイスクールのダンスパーテイに行ったり、YCACのプールに夜忍び込んだり、キャンプのショッピングセンターPX内のカフェに行ったり、山手に居留していた米軍将校の飼い犬のドッグシッターのアルバイトや新山下のバンドホテル内バーでのスロットマシンとコカコーラの初体験などで更にベースキャンプの恩恵を謳歌しました。

このときの体験で “外人怖くない、とてもよい人” 意識が私のその後の人生に大きく影響しています。

サロン・アカデミー「sho & jeric」 チーフベリファイア 久留原 昌一郎

 

サロン・アカデミー「sho & jeric」
〒231-0862 神奈川県横浜市中区山手町184-21 2F
TEL.045-625-0515 FAX.045-625-0515
営業時間:AM10:00~PM8:00
定休日:毎週火曜日+1日(平日不定)
Websie http://sho-jeric.com/

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7月 10 14

第23回 公共建築の建替え問題 ~新国立競技場と横浜市役所~

by staff

株式会社アマテラス都市建築設計
山口賢

公共建築の建替え問題 ~新国立競技場と横浜市役所~

 
東京オリンピックの誘致に絡めて神宮の杜にある国立競技場が建替えになります。この立替のプロセスに不透明な部分が多くあり大きな問題となっています。

日本スポーツ振興センター公式サイト:
http://www.jpnsport.com/

まずはじめに設計案の公募について

建替え提案を広く世界中から公募しますと新聞広告見開き一面を使った宣伝広告を展開して大きな話題を呼んだのですが、その応募資格が以下の通り。

 

(クリックで拡大画像)

新聞に掲載された一面広告
新聞に掲載された一面広告

応募者の代表者若しくは構成員が次のいずれかの実績を有する者であること。 1)高松宮殿下記念世界文化賞(建築部門) 2)プリツカー賞 3)RIBA(王立英国建築家協会)ゴールドメダル 4)AIA(アメリカ建築家協会)ゴールドメダル 5)UIA(国際建築家連合)ゴールドメダル 6)収容定員 1.5 万人以上のスタジアム(ラグビー、サッカー又は陸上競技等)の基本設計又は実施設計の実績を有する者

これらの受賞歴のある日本人建築家は槇文彦、磯崎新、谷口吉生、伊東豊雄、安藤忠雄、妹島和世+西沢立衛(SANAA)。安藤忠雄は審査側なので5組のみ。これでは広く公募するというのは全くの嘘で市民に対するポーズで、公募ではなく指名コンペとほぼかわりありません。

次に審査結果と提案の不適切さについて

結果実際に選ばれたのはザハ・ハディドというイラク出身のイギリス人の建築家の案で未来的なフォルムの先鋭的な提案です。新しい時代のオリンピックにふさわしい提案のようにも思えます。審査員の安藤忠雄氏も強いインパクトを持って日本の先進性をアピールできる作品であると評しています。しかしこの建築家は場所のコンテクスト(文脈、歴史、文化的な要素、景観などを指す)を無視することからデザインを発展させ独自性のある作品を作り出すことで定評のある建築家です。

ザハ・ハディドの案
ザハ・ハディドの案

この敷地は1912年、明治天皇崩御の翌年、時の東京市長阪谷芳郎等の請願を受け、天皇奉祀の神社、明治神宮建設の端緒が開かれます。現在明治神宮があるところを内苑と称する。そして明治神宮外苑(以下外苑という)が提案され、内苑に対して外苑は公園、特にその後各界からの要請に応じて、市民に広く開放されたスポーツを中心とした公園として整備されてきました。重要なことは、当初より内苑、外苑、そして表参道、裏参道 が一体として計画され東京では数少ない都市景観を重視して整備されてきており、東京で初めて風致地区が設定されたエリアであります。このようにコンテクストが極めて重要な場所であるにも関わらずコンテクストを無視することから設計をスタートさせるザハ・ハディドの案を選ぶという審査結果となっています。景観を守るために設定されている風致地区の条件もコンペ前に大きく変えられ、建てられる建物の高さは15mまで抑えられていましたが75mまで緩和されています。総工費も当初1300億の予定でしたが選定された案での積算では3000億近くまで膨れるとの予想。またその運営費も年間40億円かかる(現在5億)との試算も出ています。

壊される外苑の杜と絵画館、銀杏並木の景観
壊される外苑の杜と絵画館、銀杏並木の景観

現在の絵画館、銀杏並木
現在の絵画館、銀杏並木

公共建築を市民のものにするデザインレビューという仕組み

設計者選定の過程や景観問題、コスト問題など市民の皆さんは了解しているのでしょうか?建設に係る資金も運営にかかるコストも全て税金で賄われます。公共建築は市民の重要な財産です。この財産形成の過程を市民が全く知らないというのはとても不自然なことです。欧米では公共建築や一定規模以上の民間施設を建設する際にはデザインレビューが行われます。それは市民に対してデザインの内容コンセプト、コストやその調達方法、建物の使い方や都市景観との調和など広範囲に渡る意見交換が行われ市民との合意形成を行う仕組みです。実際にコープ・ヒンメルブラウという建築家がウィーン市内に計画した建物の計画を巡って5年もの時間を費やし市民との合意形成に至った事例もあります。設計者が利用者である市民に対して真摯に計画説明し理解を得る作業を行うことで市民もその計画に参画し一緒に考える時間ができます。当然その過程で計画の見直しが行われたり設計者も市民も多大な労力をかけることになります。でもこの過程を経ることで公共建築を市民のものにすることができるのです。

横浜市役所市庁舎の移転について

現在関内駅前に位置する横浜市役所(1959年村野藤吾設計)が数年前に60億円の費用をかけて耐震改修も完了させておきながら北仲地区への移転を計画しています。この移転計画の過程もとても不明瞭です。

今年の移転計画の発表前に2007年中田市長の時に168億円でこの計画地を既に購入、財政難で厳し状況にもかかわらず水面下で移転計画を進めています。

新市庁舎のイメージ
新市庁舎のイメージ

現在関内地区に現市庁舎には入りきれない職員の為に20箇所のビルを賃貸して年間20億の出費があるのでこれを集約、効率化を図るという説明を現市長はしています、その為に600億円の建設費を投じて新庁舎を建設するという計画です。引っ越しその他諸経費を計算すると約1000億円のプロジェクト予算が必要になるとの試算もあります。横浜市民の皆さんはこのお金のかけ方に同意なさっているのでしょうか? このような高層オフィスビルのような市民に閉じた市庁舎でいいのでしょうか?使い勝手はどうなんでしょう?横浜市のシンボルともなるであろう建物のデザインがこのような箱物でよいのでしょうか?

これからの横浜の未来をどのようにデザインしていくのかという重要な視点がかけていると思いませんか?

  1. まず、市の施策の要不要とそれに関わる職員人員の整理
  2. 必要最小限の面積の算出
  3. 横浜開港の歴史をふまえた官庁街のあり方、中心部の未来構想(関内の未来)
  4. 移転するのかしないのか
  5. 移転するのならば最適な場所はどこか?
  6. それは横浜の未来を創る全体の構想に合致するのか、ビジョンの呈示
  7. 市民と横浜の未来像を共有できるデザインレビューなどの開催
  8. 同意形成を経て土地の購入や計画案の立案という作業

以上は私の私見ですがこのようなプロセスを経て計画を進めていくべきではないでしょうか?現在私が所属する日本建築家協会神奈川地域会では横浜市に対してデザインレビューの必要性などを訴え活動しています。市民の皆様もぜひこの問題を共有していただき、これからの公共建築のあり方作られ方に興味を持っていただきたいと思います。公共建築は市民の共有の財産であり市民が誇れるものでなければならないと思います。

 

「暮らしを大切にデザインする」建築家ギャラリーへ

横濱元町AA STUDIOは「暮らしを大切にデザインする」建築家たちのギャラリーです。それぞれの建築家の模型・作品写真など自由にご覧になれます。

横濱元町代官坂の中腹にあるカフェのようなギャラリーで、週末は交替で建築家がお迎えいたします。(建築家と話そう!)ホームページのスケジュールに担当建築家が掲載されていますので、カフェに立ち寄る気分で横濱元町まで建築家とお話にいらしてください。お待ちしております。

AA STUDIO ナビゲートサービス

中立的な立場で、建築家選びをナビゲートします。ご相談は無料。
その後ナビゲートをお申し込みの場合 申込金 ¥10,000
・面談コース 面談希望建築家と面談  無料(最大3名の建築家を指名)
・提案コース 具体的なプランの提案  ¥50,000/1提案(最大3名の建築家を指名)

AA STUDIO WEB http://www.aaplan.com/aastudio/
Craftman Shop Street Motomachi http://www.motomachi-cs.com/cm/shop/shop051

AA STUDIO パンフレットがダウンロードできます。(PDF)

青木恵美子 http://www.aaplan.com
荻津 郁夫 http://www.o-as.co.jp
北川 裕記 http://www.aalab.com/kitagawa/
北島 俊嗣 http://kitajima-architecture-design.com
栗原 正明 http://msak.asia
河辺 近 http://www.ken-ken-a.co.jp
鈴木 信弘+洋子 http://suzuki-atelier.com
高橋 正彦 http://www.takahashi-arch.com
廣田 裕一  
藤本 幸充 http://www.kamakobo.com
古川 達也 http://furukawa-arch.com/
松井 理美子 http://www.matsui2ar.com
水口 裕之 http://homepage1.nifty.com/eau/
山口 賢 http://www.amarterrance.com

 

7月 10 14

ヨコハマ・ディスコグラフィティー 第25回 第5章 80年代 1

by staff


 
 

 

HEART&SOUL代表 原 正行

1958(昭和33)年9月7日横浜生まれ、12歳よりギターをはじめ17歳からミュージシャンとして活動。39歳の時に念願だったライブハウスを開業、現在は関内駅北口駅前に60年代から80年代の洋楽ヒット曲を演奏するライブハウス、ハート&ソウルの経営者。他にもミュージシャンとして演奏活動、作曲、プロデュース等、幅広く活動している。

 

1980年~1981年

幕開け

 1980年の幕開けはこの年の1月に来日したポール・マッカートニーの大麻不法所持から始まりました! ウイングスを率いソロ活動も絶頂期を迎えていたポールのビートルズ1966年来日以来の日本公演。チケットもソールドアウトでファンは心から楽しみにしていました、が結局9日間の拘留の後強制送還させられコンサートは全て中止、幻の日本公演となってしましました。

 その80年の暮れ今度はジョンレノンの突然の訃報。一つの時代が確実に終わったと感じたのが1980年代の始まりでした。

ステレオからウオークマンへ

 1979年7月ソニーがウオークマンを発表。自宅でしか聞くことのできなかったマイ・ライブラリーが外に持ち出せる様になりました。もちろんラジカセなどはありましたがスピーカーの都合上ガタイが大きく持ち運びには不便でした。基本ヘッドホンで聞くためスピーカーは不要。手のひらサイズが受けてウオークマンは需要を拡大。みんな家のステレオでカセットにバシバシダビングをしていきました。やがて街にレンタルレコード屋なるものが現れ、当初こそ著作権問題ですったもんだありましたが、これもやがて市民権を得ていき安価でアルバムを手に入れカセットに入れて通勤やウオーキングで楽しむのが一般的になり、音楽をたしなむ時間が増えていったといえるでしょう。

ラジオスターの悲劇

 1981年MTVがスタート。MTVはアメリカとロンドンの本拠地を置くアメリカの若者向けにはじめられたケーブルテレビジョン。24時間ポピュラーミュージックのビデオクリップを流し続けるという音楽専門チャンネルでした。1981年8月1日午前12時1分に最初にかけられたのがバグルスの「ラジオスターの悲劇」。これ以降、ヒットにはビデオクリップが欠かせないものに変わっていくわけです。日本でも小林克也がDJの “ベストヒットUSA” が人気番組になり、みんなこれを見て最新のヒットを知りました。又、神奈川ではTVK神奈川テレビがミュージックトマトなどを放送し、ビデオクリップが身近になっていきその映像イメージが曲の印象に影響を与え、80年代は音楽だけでは商品として成り立ちにくい時代に入って行きました。

ピコピコ

 YMOから広がった音楽は一般的にテクノミュージックと呼ばれ、82、83年頃には歌謡曲の世界でもピコピコ言い出していきます。沢田研二の「TOKIO」、ジューシーフルーツの「ジェニーはご機嫌ななめ」等。無機質なサウンドが街にあふれていくようになっていきました。私自身はテクノ、ニューウエーブの台頭についていけず新しい音楽への興味が急速に薄らいでゆきました。私たちの世代はこのように感じていた人は少なくなかったと思います。

ロングバケーション

 そんな時代の中でも70年代からの系譜で新しいサウンドを作っている人たちもいました。

 まず、フォークグループとして認識されていたRCサクセションがロックスタイルに転向。80年に「雨上がりの夜空」をヒットさせています。ニューウエーブやパンクの括りに入れられる事が多かった彼らですが、しっかりロックンロールバンドとして足がちについた演奏を聴かせてくれました。又、同年地道に音楽活動を続けていた山下達郎が「ライドオンタイム」でブレイク! その才能を開花させています。81年に入ると大御所ハッピーエンドの大滝詠一さんが名作アルバム「ロングバケーション」を発表。彼らが80年代に向けてのもうひとつの道筋を示唆してくれました。

 

横浜、街と風(社会人編) 11(26)

ラーメン

 この頃凝っていたのがラーメンで、あそこが美味いと聞くとすぐに食べに行きました。子供の頃、近所のラーメン屋の味がベースにある自分は普通の中華料理の支那そばが基本です。鶏がらスープに赤いフチのあるチャーシューが一枚、ナルトにシナチクが入っていました。又、よく食べたのがサンマーメンでもやしなどをアンで炒めたものが盛ってありました。横浜が発祥だそうで横浜以外の人とその話題になると「なにそれ? さんまが入ってるの?」などと言われました。今はかなり有名になったのでそんなことはありませんが当時はほんとにこんな感じでした。

 一番好きだったのは元町の石川町側の入口に横に夜になると出ていた屋台のラーメン屋さん。どぎつい化粧をした少し太めのお母さんと旦那が二人でやってました、純粋な支那そばでその澄んだスープの上手いこと。。。チャーシュウが自家製らしく絶品でした。出来上がるとおばちゃん真っ赤なマニキュアの親指をスープにいれておまちどうさま! これだけは勘弁してと思いましたが、食べると美味いので許してしまいます。あとは平沼橋の下で銭湯の横にあった平沼ラーメン。昔かき氷屋だったと思われるボロボロの木造の建物のこわれかけた引き戸を開けるとおじいいちゃんが一人「いらっしゃい!」。シナチクを切っている、カウンター席だけで、6~7席程度でお品書きはラーメンのみ1杯300円、2杯600円、、、と延々書いてある。作っているのは厨房で客席からは見えない。おもむろにおじさん奥に取りに行くとお盆にラーメンが乗っている。お盆ごと取ろうとすると「お客さんウチ始めてだね。丼だけとってくんな」。器をとってカウンターに乗せると斜めに傾いているので汁がこぼれて流れていく。鶏がら醤油ラーメンでグルタミン酸が聞いている感じ。ともかく美味い! 食後も後を引く感じで不思議にまた食べたくなる。食べ終わるといつも首の後ろが熱くなる。一緒に食べた人もみんなそういうのであそこは人骨をだしにしてるんじゃないか、などと悪口を言っていましたが、1ヶ月と開けず又食べに行ってしまうのでした。

 30年前の横浜ラーメン通なら知っている二つの名店。いつの頃からなくなりました。元町屋台の味は私見ですが大桟橋入口の交番脇にあるザ・ラーメン屋のチャーシューメンに継承されていると思われます。お試し下さい。

長髪

 高校時代は校則で長髪禁止だったので卒業後は伸ばし放題伸ばして1年もすると憧れの立派な長髪に。しかし元々毛が細く猫っ毛だったのでボリュームが出ずセットにえらく苦労しました。色々やりましたが、ウエートレスのお姉さんからからホットカーラーを借りて寝しなの洗い髪にセット。朝起きると何とも言えないふっくらヘアーに。。。今思うととってもおぞましいオカマさんみたいなヘアースタイルでした。やがて美容院に行く様になり、パーマをかけるようになりましたが。毛が細いのでかかりすぎてしまいいつももしゃもしゃな感じでした。(当時は美容院に行く男は少なかったのでかなり勇気が要りました) 服はジーンズのラッパズボン(パンタロン?ブルボトム?)にロンドンブーツ、上はウエスタンシャツのような感じを好んで着ていました。ロンドンブーツはヘビ皮と白を持っていてヒールが後ろ15センチから18センチ位で、前も7~8センチは高くなっていてまるで高下駄を履いているようでした。スラックスの時もやはりパンタロンでヒールはズボンの裾で隠れていますが、普通の革靴でもやはり10センチ以上は高いヒールでした。今でこそどこにも売っていませんが、当時は普通に売っていたのです。これを履くと視界が変わり優越感に浸れます。しかし脱ぐと一気に背が低くなり、刃傷松の廊下の武士のような状態になり歩きにくいことこの上ない。喫茶店で背の低い椅子に座ると裾が上がりヒール丸見えでカッコ悪いなと思ってました。

新しい仕事

 プロビデンスでの仕事も1年以上が過ぎた頃、お客さんから近々開店する自分の店で演奏しないかと言われました。プロビデンスが12時位で終わるだろうからその後朝までやらないかというのです、願ってもない話で喜んで引き受けギターを抱え行ってみると南太田の駅近くの国道沿いにその店はありました。入口を開けると20人も入ると一杯になりそうな狭い店でステージを囲んでベンチシートが並んでいました。楽器をセットするとやがて客が入ってきます。バッチリ化粧したドレス姿のお姉さんや中年の男性、タキシードに身を包んだホスト風のイケメンなど、ここはサラリーマン主体のプロビデンスとは違い、関内方面のクラブやスナックの人たちがお店を締めたあとに遊びに来る店でした。薄汚れたジーンズ姿の自分とお店が全くの違和感で居心地の悪さを感じていました。これが2軒目のお店でした。

HEART&SOUL代表 原 正行)

 

第4回 横濱音楽波止場 in 象の鼻

今年もやります! 横濱音楽波止場 in 象の鼻。
チケットのお問い合わせはは、HEART&SOULまで。 詳細はこちら


6月30日読売新聞朝刊に記事が掲載されました
PDFを見る
 

 

HEART&SOUL DATAMAP

HEART&SOUL
〒231-0014 横浜市中区真砂町3-33 CERTE11階
営業時間
平日:OPEN 19:00 CLOSE 4:00 LIVE START 19:50~
休・祝日:OPEN 18:00 CLOSE 24:00 LIVE START 18:40~
TEL:045-664-5569
JR関内駅徒歩より1分
地下鉄関内駅より徒歩1分
Websie http://www.heartandsoul-live.com/

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7月 10 14

心にも あらで憂き世に ながらえば 恋しかるべき 夜半のつきかな

by staff

♪心にも あらで憂き世に ながらえば 恋しかるべき 夜半のつきかな♪


絵・千絵崇石
 

 読み人:三条院(さん じょういん)

 現代語訳・・・この先、自分の想いとは裏腹に 長生きをしてしまったら、きっと今夜の月が 懐かしく思いだされるのだろう

 前回、非劇の天皇の筆頭と思われる「崇徳院」の歌を紹介しましたが、今回は島に流されたわけではありませんが、やはり不遇の天皇、第67代天皇 三条院の歌を紹介します。

彼は目が見えなくなるという病気を抱えていました。

 天皇になったのは36歳の時。そして5年で在位を退いています。その在位中に2回も内裏が火事に遭遇しています。弱り目に祟り目とは正にこの事でしょう。

 この歌は彼が退位を決意した時に詠んだとされています。

 ある意味で辞世の句なのかもしれません。退位して2年後の42歳に崩御されています。

 もう一つの非劇として、彼の娘で伊勢神宮の斎宮を務めて帰ってきた当子内親王が恋に落ちてそれを知った三条院が烈火のごとく怒り、二人の仲を引き裂いてしまいます。彼女のまわりには護衛を付けて、愛する人と二度と会うことが出来ないようにしてしまいます。
ヨコハマナウ2011年の5月号に恋人の左京大夫道雅の歌と共に、二人の悲しい物語を載せています。ぜひ合わせて読んで下さい。)

 ♪今はただ 思いたえなむ とばかりを 人づてならで いふよしもがな♪ 道雅
 当子内親王は悲しみのあまり17歳で自ら髪を切って出家してしまいます。そして絶望の中で5年後、23才の花の人生を閉じます。

 三条院の場合はちょうど時の大臣 藤原道長 が権力を握っていて、全てが道長の都合によって政治が動かされていた事が大きな悲劇の原因であったと思えます。

 三条院の眼病は不老長寿の薬として仙丹(水銀)を飲んだ後から早まったと言われていますが失明を理由に道長から退位を迫られました。又火事に合った事も退位の理由にされて天皇としての徳がないからだ、と道長からいびられたそうです。

 「いじめ」という言葉がぴったりの執拗さだったようで、三条天皇はとうとうあきらめて自分の息子を次期皇太子にすることを条件に退位を受け入れました。

 でも残念ながら三条院の崩御後、息子の親王はあからさまな道長の横暴さに負けて自分の方から皇太子になることを辞退したそうです。

 この藤原道長、三条院の前の66代の一条天皇が崩御された時に天皇のお妃様となっていた自分の娘の彰子と一緒に、一条天皇の遺品を整理していて「道長一族たちの専横によって国が乱れている」という意味合いに取れる手紙を発見して、激怒。

 天皇の遺品である手紙を勝手に焼き捨ててしまったという記録が残されています。

 自分の思うように国を動かしていく権力者たち。
 三条院に退位を強いた藤原道長と、戦争が出来る国にしようと強いている昨今の権力者が私の中でオーバーラップしています。

(早苗ネネ♪)

 

早苗ネネさん プロフィール

木々や鳥や魚や精霊…人間以外の存在達との交流が当り前に語れるくらい、いのちのひろがりに気づくと、共に生きている喜びや、苦しみや悲しみにもナイーブになる。

心と野生がひとつながりになると……こんな風に人は年を重ねられる。ひとりひとり、ユニークにもっと自分になれる。

早苗 Nene さんは、そういう人生の先駆者です。 感性を解放しながら、40代で高校生に仲間入り卒業後、マウイのカレッジに留学中、突然半生記が受賞しました。

そんな新たなシーズンを迎えて、今エッセンスを分かち合いたい。

<天性の歌い手>というだけでなく、その存在感、溢れる活性のバイブレーションは、光のシャワーのよう。彼女と語り歌い、魂の成長を旅している現在の、自分の位置を確かめてみませんか?

早苗ネネさんHP

 

7月 10 14

働くママさんたちのために何かしたい、BEEVAllEY 代表 蜂谷詠子さん

by staff
BEEVAllEY 代表 蜂谷詠子さん
BEEVAllEY 代表
蜂谷詠子さん
 
お名前 蜂谷 詠子(はちや えいこ)さん
ご出身 横浜市金沢区出身
お住まい 横浜市保土ヶ谷区在住
ご家族 夫/娘(3歳)
お仕事 BEEVAllEY 代表
http://www.bee-valley.com/
趣味 ゴルフ、ソフトボール
港北区のママさんソフトボールチームに所属している

横浜生まれの横浜育ちですか

 はい、横浜を離れたことがありません。小中高は鎌倉市の女子大付属校に通っていました。ソフトボール部に所属して、選手として頑張っていました。高校時代に数学が好きになって、私立大学の工学部情報通信工学科に入学しました。大学時代はあまり勉強熱心ではありませんでしたね。今思うととっても残念ですが・・・。

 卒業後は情報システム会社に入社して、システムエンジニアとしてシステム開発に従事していました。私自身はWeb制作などがやりたかったのですが、その仕事には就くことができませんでした。そこで、退職しWebデザイナー養成の専門学校に通うことにしました。その後、2006年5月から2012年12月まで横浜のシステム開発会社に勤務しました。そして社内結婚、2011年6月に娘を出産して、一年間の産休・育休後復職しました。前職の会社は待遇もよかったですし、育児をしながら働ける環境も用意してくださっていたので、今でも本当に感謝しています。

退職をして個人事業を始めるきっかけは何ですか

 保育園に通い始めて、ママ友の実態を見たり聞いたりするにつれ、働くママや女性のために何かしたいという気持ちが強くなりました。

 特に、仕事と育児との両立に四苦八苦している女性起業家のために、自分ができることがないかと考え始めました。企業にシステムを構築するという仕事は私の代わりがいるが、女性起業家のために集客を手伝ってあげられるのは私しかない、という結論に達しました。

 集客につながるWebサイト(ホームページ)制作をやっていこうと決めて、2012年12月に思い切って退職しました。退職をすることを家族に話したときはびっくりされましたが、一度決めたら後には引かない私の性格を知っているだけに応援するよと背中を押してくれました。

事業を開始して一年ということですが・・・

 2013年5月に「子供のため 地域のため 女性のため」にWebサービスを提供しようと個人事業を開始しました。屋号も決めて、さあこれからだと気合を入れたのですが、半年近くは仕事がありませんでした。

 その間、IDEC(横浜企業経営支援財団)の女性起業家支援プログラムに参加しました。積極的に異業種交流会にも参加し、多くの女性起業家と知り合いになりました。ネットワークが広がっていくと、Webサイト制作の仕事もボチボチ入ってくるようになりました。

 今の仕事は、企業で働いていたときには考えられないほど、お客様との距離が近いですし、その分評価もすぐ返ってきて、大変ですが非常にやりがいがあり充実しています。

 女性起業家が沢山集まればいろいろなことができるのではないかと、現在、女性起業家のためのWebプラットフォーム構築を進めています。このWebサイトで、仲間づくりやビジネスマッチングなどを行いたいと考えています。この事業は創業補助金に採択され、9月以降にリリース予定です。まず女性起業家100人から始めたいですね。

「ボラ婚」という活動もされているとか・・

 2013年秋から4か月ほどの期間、横浜市経済局の「女性の視点×オープンデータで、アイデアの種を育てよう!」というプログラムに参加しました。そこで知り合った仲間たちと、ボランティア活動しながら婚活する「ボラ婚」というビジネスプランを考えました。「ボラ婚」は、昨年の横浜ウーマンビジネスフェスタでグッドアイデア賞を受賞しました。

 これまでに3月と5月に「ボラ婚」の交流会を実施しています。まだ「結婚」という成果はでていませんが・・(笑)これからに期待ですね。

 

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2013.12 横浜ウーマンビジネスフェスタでの発表
2013.12 横浜ウーマンビジネスフェスタでの発表

2014.02 オープンデータディin大桟橋での発表
2014.02 オープンデータディin大桟橋での発表

2014.05 はまっこストリーム出演
2014.05 はまっこストリーム出演

2014,05 ボラ婚2回目
2014,05 ボラ婚2回目

ボラ婚:http://www.v-konkatsu.com/

 今年は「横浜ウーマンビジネスフェスタ2014」の運営委員もやることになり、ますます女性起業家との縁が深まりそうです。

横浜ウーマンビジネスフェスタ2014:
https://www.facebook.com/pages/横浜ウーマンビジネスフェスタ2014

蜂谷さんにとっての横浜は・・・

 横浜で生まれ育った人は、大人になっても横浜に住みたいと思うのではないかと思います。夫も私もずっと横浜に住み続けたいと考えています。居心地がいい街だからでしょうか。娘にも横浜に住んでもらいたいと願っています。

 

 
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BEEVAllEY 代表 蜂谷詠子さん
BEEVAllEY 代表 蜂谷詠子さん

蜂谷さんは、横浜を「世代を越えて住みたい街」と表現してくれました。
「働くママさんたちのために何かやってあげたい」そう話されるときの蜂谷さんの目は輝いていました。蜂谷さん自身、3歳の娘さんがいる働くママさんです。女性が助け合って仕事を続けていこうとしていく心意気を頼もしく思いました。
蜂谷さんにはこれから「ヨコハマNOW」で、横浜の女性起業家を紹介していくコラムを執筆していただきます。そちらも展開が楽しみです。

インタビュー・文:渡邊桃伯子(ヨコハマNOW代表)

 

6月 10 14

GOGO商店街

by staff

 

4月から6月まで横浜市の各地区の商店街では、消費税増税対策イベントとして『GOGO商店街』が開催されています。

『GOGO商店街』とは、今年が「横浜開港155周年」にあたることにちなんで、「55」⇒「GOGO」に置き換えて、イベント名につけたそうです。

横浜市経済局:
  http://www.city.yokohama.lg.jp/…

横浜市内の商店街には、「GOGO商店街」というのぼりが立てられています。

6月1日は、山元町二丁目商栄会の「朝市」でした。

山元町二丁目商栄会:
  http://e-yama2-mall.com/

いつもよりも盛況で、会場となっている歩道は人が溢れていました。先着100名への無料プレゼント三崎の「マグロのカマ」はあっという間になくなりました。

今回の「朝市」には近隣の小学生が「子供店長」として参加していました。「何年生?楽しい?」と尋ねると「4年生。とっても楽しい」と元気な答えが返ってきました。

「ありがとうございます」という「子供店長」の声が聞こえると、なんだかうきうきしてきますね。子供たちの関係者も来てくれるでしょうし、「楽しい朝市」づくりに若い力は重要なアイテムになるかもしれません。

山元町二丁目商栄会の鬼島さんによると、「子供店長の評判が良かったので二回目も企画したいとの声が多いです。」とのことでした。

いつもは高齢者が目立つ「朝市」ですが、今日は子供たちの声が飛び交い、世代を超えた交流も見られた、微笑ましい雰囲気になっていました。

「商店街の地盤沈下」が言われて久しいですが、「朝市」はやる気になればどこの商店街でも始められます。対面販売のメリットや、お客様を呼び込む仕掛けさえ作れれば、どの商店街でも復活の可能性はありそうに思います。

 

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のぼり
のぼり

朝市開始直後
朝市開始直後

まぐろはあと少し
まぐろはあと少し

子供店長
子供店長

子供店長
子供店長

店前での販売
店前での販売

 

6月 10 14

第10回 「死ぬ前に語られる後悔」から思う事

by staff

 

ナースが聞いた「死ぬ前に語られる後悔」トップ5

先日面白い記事がFacebookなどにアップされていた。ご覧になった方も多いかもしれない。
「ナースが聞いた“死ぬ前に語られる後悔”トップ5」というものだ。

http://youpouch.com/2012/02/06/53534/

オーストラリアでの記事なので、関係ないかなと思ったが、見てみるとその内容は興味深かった。

  1. 「自分自身に忠実に生きれば良かった」
  2. 「あんなに一生懸命働かなくても良かった」
  3. 「もっと自分の気持ちを表す勇気を持てば良かった」
  4. 「友人関係を続けていれば良かった」
  5. 「自分をもっと幸せにしてあげればよかった」

あの自然豊かで大らかに生きているように思えるオーストラリアの人でも、私たち日本人が共感できる後悔を抱えていたのかと驚いた。

もし、やりたい事をやろうとしていたら・・・

上記は、自分に正直でなかったことへの後悔、言い換えれば、自分がやりたいと思う事があったのに、やってこなかった、しかも死ぬ間際まで結局ずーっとやってこなかった事への後悔とも言えると思う。
もし、自分のやりたい事を実現しようとトライだけでもしていたら、それがたとえ道半ばだったとしても、上記のような後悔は抱かないだろうと思えるからだ。

大げさな例えになってしまうが、道半ばで倒れた幕末の志士達。自らの信念に従い、やりたい事の実現にむけて動いた典型ともいえる。死ぬ間際に自らの人生を振り返って、愉快と称したり、1点の曇りもないと言い放ってみせる若者達がいたことは有名だ。
勝手な想像ではあるが、「自分に忠実に生きていれば」とか、「一生懸命働かなくても・・」とか、「自分をもっと幸せにしていれば」などの後悔は、彼らは決してしなかったと思う。

後悔とは

しかし私たちは幕末の志士ではない。彼らのように自分のやりたい事ばかりできるか! とも思う。
誰かに迷惑をかけてはいけないし、お金や時間も十分にはない。家族のため、会社のため、自分を律してやらなくてはならない事はわんさかあるし、立場だってある。周りを見回せば、自分の行動を制約する要素だらけだ。そう簡単に、自分のやりたい事をできる環境ではないと主張したくなる。

しかし、それもこれも所詮言い訳だ、という事に気づく。

なぜなら “後悔” とは、やろうと思えばできたのに、自分でやらなかった事に対して抱く感情だ。逆立ちしてもできない事には、人は “後悔” しない。
つまり、どんなに言い訳を並べても、後悔しているという事は、結局、やれたのに自分がやらなかったという事を、自分自身が認めているという事になる。
元気に生きている間は、できない理由を並べ、できない事を必死に論理的に正当化しても、結局死ぬ間際には、それは言い訳だったと自ら認めるという事だ。
そこが面白くもあり、そして哀しく切なくもある。

実は誰にでもできる事

どうせ、死ぬ前にやりたい事をやっておけば良かったと後悔するのなら、やりたい事の実現に向けて、少なくとも努力はしてみようと私は思った。
そして、少しハードルを下げて、死ぬまでにやり遂げられるかは重要ではないという事にしてみようと思う。道半ばで息絶えてもそれはしかたない。大切なのは、自分に正直に向き合って、やりたい事を、今、できる範囲で“やろうとしているか”という事なのだ。
つまり、どんな環境にあっても、せめて、自分のつま先だけは、いつでも自分のやりたい事に向いているよう努力することが大切なのだと思うのだ。
向かい風が強い時は、そこに留まり、風が弱まったら一歩ずつ歩みを進めれば良い。
難しい事ではない。
このくらいの事は、誰にでもできる事だ。

自分に向き合うことの先にあるもの

これを機会に、 “自分は何をしたいのか” 、という事を考えてみた。
忙しい生活の中、意外と自分にきちんと向き合う機会を持つ事は、日常ではあまりしないのではないだろうか。
是非一度、自分と向き合って考えてみてほしい。
時間をかける必要はない。通勤電車の中、ランチタイム中、トイレ中、細切れの時間を上手く使う事で十分だ。むしろその方が凝縮できて良いかもしれない。
余談だが、夜寝る前はお薦めしない。ある番組で、寝る前に寝床で将来の事を考えると、ポジティブ思考の人は、気持ちが高揚して寝られなくなり、ネガティブ思考の人は、将来への不安が先行して、これまた寝られなくなると紹介していた。
ちょっと面白い。

話をもとに戻そう。
「自分は死ぬまでに何をしたいのか」「これをしないときっと後悔するという事は何か」突拍子もない事ではなく、やろうと思えば、がんばれば、いつかはできるというものを考えてみる。
「●●を食べたい」「どこどこへ行きたい」という事でもいい。いやいやそういう事ではなくて、「●●に貢献したい」「●●をよくしたい」というものでも良いだろう。人それぞれの価値観で、自分自身の心の声を聞いてもらいたい。
そして、それを実現するためにはどうするかを考えて、一歩でも二歩でも進む努力をする。すると、その先には、まさに自分を大切にした、今よりも豊かな人生が待っているように思える。

自分のやりたい事に向き合う事のすすめ

前回、一人暮らしの父が倒れ、私の生活が一変した事を書かせてもらった。近い将来、父の住む近隣に住まいを移す事も計画しており、私の住まう環境も、経済的な環境も、はっきり言って、現在はかなり不安定な状況だ。
しかしこんな状態でも、自分のやりたい事へつま先を向けられるよう、環境を自分なりに整えようと奮闘している。実は引っ越しも、私のやりたい事へ前進するための環境整備の一環だ。(具体的なドタバタ奮闘記は、また機会があればいつかお伝えしたい)。
“自分のやりたい事に近づくために、現状問題の打開策は・・・” と考えると、不思議と悲観的にもならず、冷静に、前向きに対策を検討できるようだ。これはお薦めできる。

自分を大切にする事、自分のやりたい事に真剣に向き合い続ける事、それが死ぬ間際に前述したような後悔を生まない、より豊かな人生をおくるキーワードだと、今はそう確信している。それが正解かどうかは、死ぬ直前までわからないが、死ぬ間際、私はどんな後悔を抱くのか、今から少し楽しみですらある。

今回Facebookにアップされた記事は、 “後悔” という、極めて後ろ向きな言葉がテーマであったが、私に超前向きな気づきをくれた。大感謝だ。

プロフィール

ペンネーム: 津木 雫(つぎ しずく)
オヤジ・オバチャン・オトメのO3マインドを持つ、なんちゃってコラムニスト。
約20年間メーカー勤務。広報・マーケティングを経て、現在フリーランス。
典型的な仕事人間という生活を過ごし、はたと気がつけば人生の折り返し地点。「さぁどうする!」と我が道を振り返っている真最中。
学生時代に、約15カ国を貧乏旅行。
その経験から、今の若者が育つ環境には、問題を自らの力で乗り越える体験が不足していると、感じている。若者教育関連のNPOを立ち上げ、神奈川を中心に現在活動展開中。

 

6月 10 14

浜じぃの横浜漫歩(第2回) 野毛山の電波塔

by staff

 

野毛山を歩いていると、写真にあるような塔と看板がありましたぞ。
どうやらまだテレビもなく、新聞と共にラジオが主要なメディアになろうとしている頃に、NHKが建てたらしいの。
さすがのわしも団塊の世代で「戦争を知らない子供達」だから、勿論生で玉音放送を聞いたりはしておらん。
が、それでも小学校に上がる前頃は、ラジオを聴くのが楽しみだったのう。
夕方には、連続ドラマ「笛吹童子」「紅孔雀」「オテナの塔」などの番組があったぞ。
これらの番組を聴くために、放送が始まる迄に遊びを止め家に帰ったものじゃ。
またこれらのラジオドラマは、のちに東映で映画になって映画館でも楽しんだので、印象が強いのかも知れんの。
夜は花菱アチャコと浪花千栄子が夫婦役で主演した公開放送のホームドラマ「お父さんはお人好し」かのう。
ラジオはラジオの良さがあって、懐かしいの。
この頃の雰囲気は、まさに「西岸良平」の漫画「三丁目の夕日」によく出ているぞ。
彼の漫画は団塊世代に、ドンピシャで嵌るの。

さて、別の写真のこの高い鉄塔は、同じく野毛山の中腹にある、昔のラジオ関東 、今の日本放送の野毛山放送局じゃ。

現在は、中区長者町に本社は移っているが、昔は本社にもなっていたそうな。

展望台から眺めると、鉄塔の東の方の先にランドマークタワーが見えるの。

ここには、FM横浜の本社がある。

同じラジオであっても、その中でのトレンドの消長を表している様で実に面白いのう。

 

(クリックで拡大画像)

ラジオ塔
ラジオ塔

看板
看板

ランドマークタワーと鉄塔
ランドマークタワーと鉄塔

 

6月 10 14

キッチンスタジオ「ジュイエ」の天才をつくる料理事典(第9回) 梅仕事と6月料理コースのご案内

by staff

梅仕事

 6月になり、青梅や果実酒のセットが売られるようになってきました。梅仕事の季節です。梅仕事、というのは梅干し、梅酒など、梅を使った保存食を作るという意味。ちょっと風流な言葉だと思いませんか?

 6月上旬、まずはドリンクを作りましょう。青い梅が適しているからです。

 

青梅
青梅

 梅のドリンクというと、梅酒が筆頭ですが、お酒は飲まないから・・・という方もいるはず。そんな方へまたは、お子様にも安心のおすすめは、梅サワーです。

梅酒の作りかた

梅サワー
梅サワー

 

 用意するもの*

  • 大きな瓶(果実酒用に売っています)
  • 青梅  1kg
  • ホワイトリカー(穀物酢) 1kg
  • 氷砂糖 600~800g
  1. 青梅は洗い、竹串などでなり口を取っておく。熟した梅はドリンクには向かない。
  2. 広口瓶をあらい、内側の水気を完全に拭く。
  3. 瓶に水気をとった梅、氷砂糖を入れ、ホワイトリカーを注ぐ。梅サワーの場合は穀物酢を注ぐ。氷砂糖を使うと、濁りがなくきれいに出来ます。
  4. 蓋をして、冷暗所に置く。1日1回、瓶を逆さにすると中身がよくまざる。(激しく振らない)
  5. 3週間ほどすれば飲み始められます。

と、至って簡単。
 梅酒の場合は、ホワイトリカーの替わりに、焼酎、白ワイン、ブランデーなどでも作れます。日本酒で、という方もいるようです。私は白ワインで作るのがおすすめです。

 梅サワーも水で割って飲んでくださいね。
これはとっても酸っぱいんですが、気温がぐんぐん上がって来ると、身体が欲する、さわやかドリンクです。クエン酸で疲れた身体もしゃきっ!夏に備えて、仕込んでおきましょうね。

 

6月の料理コースのご案内

 私が行なう料理教室では、毎月、フランス料理がコース2つと、家庭料理のコースを開講しています。フランス料理は、基本コースと応用コースの2コース。家庭料理の方は幾つかのメニューよりお好きなものを組み合わせていただけます。

6月のコース内容

フランス料理基本コース 『卵のココット』
『自家製ニョッキ、ミートソース』
『シュー・バリエ』
卵を使った前菜は、極上のキノコソースでいただきます。このソースは他の料理にも応用可能ですので、お楽しみに。定番のミートソースも、手作りで。しっかりお肉のおいしさを味わえます。スパゲッティにはもちろんですが、ニョッキを手作りしてみましょう。
難しい!というイメージのシューですが、コツをおさえれば大丈夫。今回は、形でバリエーションを作ります。

卵のココット

自家製ニョッキ、ミートソース

シュー・バリエ

フランス料理応用コース 『いわしとじゃがいものテリーヌ』
『ローストポーク』
『NYカップケーキ』
いわしとじゃがいも。一見、不思議と思われるかも?実はとっても相性がいいんです。テリーヌは作り置き出来き、本格的なので必須アイテム。
ローストポークはとっても簡単な主菜です。オーブンで手軽に作れ、豪華なのでパーティーに最適。
NYタイプのカップケーキ、ご存知ですか?カラフルなバタークリームたっぷりのケーキ。楽しくつくりましょう!
家庭料理コース 今月も様々な夏メニューを御用意しています。
麻婆豆腐は1番人気!ぜひ、マスターして下さい。生姜焼き、ポテトサラダなど、男性に喜ばれるメニューも沢山ありますよ~。

 受講日程や、受講方法などは、キッチンスタジオ・ジュイエのホームページより、『料理教室』のページをご参考ください。

http://www.7juillet.com/kyousitu.html

プロフィール


フード・エデュケーション・コミュニケーター
キノケイコ

 

フード・エデュケーション・コミュニケーター キノケイコ

女子栄養短期大学卒業 栄養士免許取得
エコール・キュリネール国立(現 エコール辻東京)にてフランス料理を学ぶ
同校 フランス・リヨン校、フランス1つ星レストランにて研修。
帰国後、都内フランス料理教室にて、アシスタント、講師を務める
独立し、キッチンスタジオ・ジュイエ開設。
現在、フランス料理のみならず、家庭料理、玄米、麹料理など幅広い分野を得意とする。
URL:http://www.7juillet.com

 

6月 10 14

2014年6月 三ツ池だより 「梅雨もまた楽しい」

by staff
Navigation: HOME»コラム»横須賀詢

 大きな楠の木が、大人がふたりで手をまわしても届かないほどの大木を20mほど動かそうとしている。もう三か月ほどになるのであろうか?それも手動で動かしている。横浜市鶴見区馬場にある建功寺は「誰もやったことのないことをしています。」と枡野住職は話をされました。1mほどあがって枕木で組んだ下にかなりの台数のジャッキがかまされています。ほんとに少しづつ、すこしづつ。「時に雨が降ってくれるとありがたいのです。」三方からのワイヤーで支えらての大木なので、本当に慎重に作業は進められている。

 そんな時の坐禅の法話に盤珪禅師が出てきた。いろんな修行をするが答えが出ない。迷って迷ったあげくに「不生」にたどり着かれる。あると思うから、ないことで不安になる。最初からないと思えばない。最初からないと思えるかがポイント。だから悩んだ人が相談にいくと、「その不安をここに出してみなさい」といわれる。盤珪が山居生活に入った夏はことのほか旱(ひでり)が続いたので、土地の百姓は雨乞いを盛んにした。 しかし、雨は一向に降らなかったので、百姓達は禅師に雨乞いをお願いした。 そこで、盤珪は「うす引き歌」を作り百姓に与え、これを氏宮で歌い、踊るように言った。 村童、老若男女が氏宮で集まって踊ったところ、雨が思うままに降り村人はおおいに喜んだと伝えられる。 「うす引き歌」につぎのような歌詞がでてくるそうだ。

不生不滅の本心ならば  地水火風は仮の宿
生まれ来りしいにしえ問えば  何も思わぬこの心
来る如くに心を持てば  直にこの身が生如来
よきもあしきも思いしことは  おのがこの身のある故ぞ

 さて6月はどんな月になるのであろうか。俳句に見てみよう。

衣更へて魚のこころで町に出る
能村登四郎

 忘れられていく和服での衣更であろう。なにかとても動きやすくなって、気も軽くなって町を行く姿が美しくもある。

今年またうやむやに梅雨はじまりぬ
鷹羽狩行

 今年の梅雨入りは駆け足のようであり、早い夏並みの暑さのなかで待ち遠しいようにも思うし、またどんなに蒸し暑くなるのかと心配もする。

観音堂浮かべて雨の青田かな
皆川盤水

 青田には雨が似合う。今年も豊作を確信する。
このあたりまえであった風景が懐かしいと思える現代とはどんな時代なのか。

十薬の蕊高くわが荒野なり
飯島晴子

 昔はどこのいえにもドクダミがあった。すりむいてもやけどをしても。
おできが出来た時はドクダミの葉を取ってきて火にあぶってあてがったものだ。翌日には膿がでた。

蜻蛉生るこんな小さな水辺にも
稲畑汀子

 どこの水辺もきれいだった。清流の水辺の草に蜻蛉が生れ風に揺れていた。

さよならは蕗味噌握り飯のあと
横須賀詢

 俳句を見ていると懐かしさがこみ上げてくる。
その「なつかしさを探しにいくことが楽しみな今」を幸せというのだろうか。

 「三日月が寝ていた」
月がうす絹をかぶっている
お買い物の帰り道
  夕食食べて洗い物をしていて
  洗剤がなくなって買いにでた
帰りの夜道三日月がぼんやりしていて
うす絹をかぶって寝ているようだった
  涼しい風が呼んでいて
  今日の私をなぜていく

 考えようによっては便利な時代である。なんでも手の届くところにあるような気がする。それは不便な時代にから、今のように便利さをもとめてきたのであるから当然と言える。これからを目指す人たちが飢えの時代を知らないだけに今を評価するのでなく、私たちの年代と違う不安と不満を抱えている。心の豊かさや格差の問題が問われてきている。行動するときの指針をどこに持つのだろうか。

 空を見上げてみよう、月を眺めてみよう。それはかわらぬ自然の営みを感じることであり、自然との共生をする生き方を目指すことである。酸素を作り出す森を大事にすることだし、自給率を高める自力で生きていける領域の農地の確保をし続ける社会の仕組みの必要である。江戸初期の「うす引き歌」の続きを一部みてみよう。

悪をきらうを善じゃと思う きらう心が悪じゃもの
善をしたこと善じゃとうじゃる うじゃる心が悪じゃわい
善きも悪しきも一つにまるめ 紙につつんで捨てておけ
うその世界をまことのように ばかしばかさる化け物じゃ
いつか五欲を身にならわして それに習うて日を暮らす
人におしえはもと無いものじゃ 是非を争う我が身なり
仏道修行をつとめし後は 何もかわりは得ぬものを
迷い悟りはもと無いものじゃ 親も教えぬならいもの
さとる心は我じゃと思え 念と念とが相撲とる
さとろさとろとこの頃せねば 朝のねざめも気が軽い
無為の心はもとより不生 有為が無き故迷い無し

 さあ! くせものの6月を楽しんでみよう! 自然がワクワクするほどに活動している!
 さあ! 自分の足で歩きまわってみよう。6月がどんなにか楽しいものになるか!

 

Photos

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(文・写真:横須賀 健治)

横須賀 健治プロフィール

メジャーテックツルミ 代表取締役
はかることのプロとして50年です。
食品の放射能測定のアークメジャーを設立しました。
「計量から見える幸せ」をライフワークにしています。

 

6月 10 14

ビジネス梁塵秘抄「遊・献・学」(第15回)

by staff

大浦総合研究所 代表/大浦勇三

ビジネス梁塵秘抄「遊・献・学」(第15回)

遊びをせんとや生れけむ、戯れせんとや生れけん
遊ぶ子供の声きけば、我が身さえこそ動がるれ

- 梁塵秘抄 -

 “イノベーション” とは新しい価値を創りだすための投資活動であり、それ以外の企業活動はすべてコストだといわれます。ここではイノベーションを “いろいろなアイデアを出す” “そのアイデアをコンセプト化する” “コンセプトを商品化し市場に提供する” の3段階で考えてみたいと思います。 “アイデア創出” とはビジネス拡大につながる商品/サービスのアイデアをどう生み出すか。 “コンセプト化” とは可視化スキルを活用して差別化につながるコンセプトをどう構築するか。 “ビジネスモデル化” とは継続的に顧客満足度を高めていく仕組みをどう創りだすか。壁になるのは、新しい発想が欠落している個人の能力? アイデアを商品コンセプトに高められないプロジェクトの力量? コンセプトを市場化する手立てが描けない組織の総合力? のいずれか。突破の糸口は “組織変更や人事異動を通じて人材の流動性を高める” “異種の技術やスキルを持つ人材との交流を活発化する” “技術と人材をセットにしたマネジメントを徹底する” に絞られそうです。梁塵秘抄では “をかしく舞ふものは巫(こうなぎ)小楢(こなら)葉車の筒(どう)とかや、平等院なる水車、囃せば舞い出づる蟷螂(いぼうじり)蝸牛” とあります。平等院のある宇治川の名物は水車で、クルクルよく回ることから回るものの代名詞。これぞ魅力・好奇心の原点。仏教もまた好奇心・仮説の集大成ですよね。

“遊びをせんとや生れけん” 「遊」

出来ないことはやらない、朗報にはお陰さま 片方の目で泣き、もう片方で笑う
臓器は単独で機能しているのでなく 周囲の空間・他臓器を含めた場を形成する
平時はボトムアップで、非常時はトップダウン 文章は形容詞から腐りはじめる
合理性という目的のために他の全てを萎縮させてはならない、とハイゼンベルク

 ハイゼンベルクは世界的なドイツの理論物理学者で、不確定性原理を通じて量子力学に多大な貢献をし、31歳でノーベル物理学賞を受賞しました。不確定性原理は “あちらを立てればこちらが立たず” とざっくり説明されますが、合理性という目的だけに固執すると他を萎縮させかねないとは至言ですね。平等・公平のかけ声が逆に非合理な判断を招くことも多々ありそうです。何より好きなこと・得意なことを最優先。人間社会に絶対はなく、平常時と非常時でやるべきことが正反対であることもままあります。合理性や効率性は大切な指標ですが、それだけにこだわると全体が縮小均衡へ。ノーベル生理学・医学賞を受賞した利根川進博士は “サイエンスに向いている人” として①楽観的である ②プライオリティ(優先順位)付けがはっきりできる ③良いテイスト(選択眼)を持っている、の三つをあげています。どの世界でも通用しそうな条件ですよね。

“仕事をせんとや生れけん” 「献」

世界大恐慌の時代、米国でも首切り一辺倒だったわけではない
米国IBMは雇用を死守し 研修・訓練で飛躍の機会を待った
それを見抜き、IBMの成長を確信したピーター・ドラッカー
日本の松下幸之助も 事業は人なりと、首を切らず教育に注力

 世界大恐慌は膨大な失業者を生みました。これを乗り越えた新しい世界の技術/スキルは今までのものとは様変わり。その基盤となる教育は世界・人生を大きく左右します。経済格差拡大の最大の問題は何よりも教育格差拡大に直結すること。教育こそが恐怖に近いリスクもとれ、それが鍛えられた組織を生み、次の成長の原動力になるからです。そこに求められる変革と継続は対立するものではなく統合すべきもの。  “組織は継続を旨とする。だからこそ、いずれの組織も変革を受け入れ、変革していくためには格段の努力を必要とする。ただ、継続を旨とする組織にとって変革は受け入れ難いものとみられがちだ” とピーター・ドラッカー。 “継続と変革の両方が欠かせないが、あえて一つ選ぶとすれば継続” とも言っています。ただ、あらゆるものが崩壊過程に向かうエントロピーの法則からすると、継続を保証する唯一のものが変革であることも真実ですよね。

“学びをせんとや生れけん” 「学」

演奏は舞台に登場する前から身体の中で始まる、と音楽評論家吉田秀和
楽器による演奏はその延長線 身体の中の旋律が楽器を通じて音になる
多様な人材の登用に積極的な企業 常に心の中で音楽が流れる組織風土
自由度が大胆な発想を生む より以上に考えて、より以上の存在になる

 音楽評論で他の追随を許さなかった吉田秀和さんは、クラシック音楽の実体験と豊富な知識をもとに、音楽の魅力を語る伝道師として大きな役割を果たしました。更には音楽だけでなく、文学・美術など幅広い分野にわたる評論活動も続け、日本を代表する “知の巨人” の一人といえる存在でした。朝日新聞夕刊に毎月掲載された “音楽展望” は音楽ファンに限らず珠玉のページと評価されたようです。 “本物の知はジャンルを超える” ことを自然な形で見せてくれたということですね。 “ほんとうに顔が笑っていれば、身体全体が笑っているはずだ。身体全体に音楽が奏でられていなければ、楽器の音は音楽にはならない” と断言しました。その炯眼と洞察の裏には15年に及ぶ雌伏の期間もあったといいます。回り道することなく頂上へ至るのは誰にとっても難しいこと。ただ、回り道が無条件に良いとは限らず、良いものは無条件に良いというのが本質ですかね。

「遊びは仕事、仕事は遊び」
「仕事は学び、学びは仕事」
「学びは遊び、遊びは学び」

 今回とりあげた「遊・献・学」それぞれの4行文は、拙書「ビジネス梁塵秘抄(一)~(八)」(全10巻)から抽出したものです。次回以降も「遊・献・学」から各々4行文を一つずつ抽出してご紹介していきたいと思います。

「ビジネス梁塵秘抄」購入ご希望の方はこちらからどうぞ!
http://www.syplus.jp/ooura/

(第15回了)

 

大浦勇三(おおうら ゆうぞう) プロフィール

大浦勇三(おおうら ゆうぞう)  

大浦総合研究所 代表 (http://www.mmjp.or.jp/ooura/

石川県七尾市出身。
早稲田大学卒業、筑波大学大学院修了。
米国経営コンサルティング会社 アーサー・D・リトル 主席コンサルタントを経て現職。
主担当領域は、経営改革/企業再生、経営戦略/情報通信技術戦略策定、業務改革/組織改革、研究開発/商品開発マネジメント、マーケティングマネジメント、ナレッジマネジメント、イノベーションマネジメント、サプライチェーンマネジメント、人材マネジメント、コーチング/メンタリング、プロジェクト/プログラムマネジメント、ベンチャービジネス支援等のコンサルティング。

筑波大学大学院講師、城西国際大学客員教授、名城大学講師、産業能率大学講師、中小企業大学校講師などを歴任。

主な著作物:

  • 「ビジネス梁塵秘抄(一)~(八)」<全10巻>(大浦総合研究所:PDF版)
  • 「イノベーション・ノート」(PHP研究所)
  • 「ITプロジェクトマネジャーのためのコーチング入門」(ソフトリサーチセンター)
  • 「図解 日本版LLP/LLCまるわかり」(PHP研究所)
  • 「IT技術者キャリアアップのためのメンタリング技法」(ソフトリサーチセンター)
  • 「よいコンサルタントの見分け方、かかり方」(清話会)
  • 「日本のモノづくり - 52の論点」<共著>(日本メンテナンス協会)
  • 「現場主導型の組織運営とスピード戦略」(日本監督士協会)
  • 「eコミュニティがビジネスを変える」<訳>(東洋経済新報社)
  • 「ナレッジマネジメントが見る見るわかる」(サンマーク出版)
  • 「図解 ナレッジ・カンパニー」(東洋経済新報社)
  • 「ナレッジマネジメント革命」(東洋経済新報社 )
  • 「図解 グローバル・スタンダード革命」(東洋経済新報社)
  • 「業務改革成功への情報技術活用」(東洋経済新報社)
  • 「情報化戦略と投資評価・システム運用管理の実際」<編著>(企業研究会)
  • 「会社改革実務辞典」<共著>(産業調査会)
  • 「プロジェクトマネジャー(PM)の育成・スキルアップのためのメンタリングの進め方と実践法」 (ソフトリサーチセンター:CD-ROM版)   など
6月 10 14

セカンドライフ列伝 第15回 范蠡(はんれい)

by staff

榎本技術士オフィス/榎本博康

第15回 范蠡(はんれい)

軍事参謀から大実業家へ、生き続けることに賭けた生涯

 時は中国の春秋時代の末期、と言ってもピンと来ない。私は高校の世界史で「春秋戦国時代は群雄割拠で、孔子が活躍した時代で、BC221年に秦の始皇帝が統一した。」と数分で習ったような気がする。余りにも昔なので、現代との結びつきは薄いようにも思える。だいたい春秋と戦国という別の時代区分と分かったのは、ずっと後のことだ。異説はあるが、春秋はBC770から、戦国はBC453からBC221までで、始皇帝に繋がる。もちろん、これは後の歴史家による区分であり、その時代の人々は知らないことだ。

 では春秋と戦国で何が違うか、春秋はその前の周の精神的な威光が続いていて、周の天命の下の群雄割拠であり、実力者は覇者を目指したのに対し、戦国では何でもありであった。春秋時代の思想家、孔子の言葉は短く、戦国時代の孟子の言葉は長いことも、そのような時代背景があってのことだろう。

 このような時代として「学習」すると、戦乱に明け暮れた暗黒の日々のように思えるが、一方多くの思想家を輩出し、戦争に伴う戦術や軍事技術の飛躍的な発展をもたらしたと共に、それを支える活発な経済活動が起こった時代でもあった。国家間の戦争に勝つためには戦闘能力が第一なのではない。国家の経済力と外交力、そして戦術であり、それらの総体としての戦略である。そのような中で、庶民も国家間の紛争を利用しつつ、したたかに生きる術(すべ)を会得していった。中国は統一国家であるときが、安定していて良いと思いがちであるが、各国が覇を競うエネルギーに溢れた時期もまた、この国の姿であった。

 さて今回の主役は范蠡(はんれい、BC526~BC454)である。実は生没年不詳であるが、年齢を確定させないと物語が編めないので、文献1)に従うこととした。その他もこれに負うところが大である。

 范蠡は越王勾践(こうせん)の軍事参謀として、ライバル呉王夫差(ふさ)を破って滅ぼし、勾践を覇王とした直後に越を離れ、斉へ移住して財をなし、さらに陶に移って財をなし、最後は朱公との名声を得て、73歳で没した。波乱の世を巧みに生き抜いた英哲であった。

 例によって私の勝手な思い込みや曲解、良く言えば創作が多々あることを承知でお読み下さい。

序章:名門の嫡男

 范氏は殷時代からの名門であったが、彼が生まれた場所は楚であり、4歳の時に越に入植したという。祖父、父共に政治には関与せずに、ひたすらこの江南の沼沢地帯を開墾し、奴僕を含めて200人を超す所帯をなして、范家屯と呼ばれていた。越都会稽(かいけい)の郊外であるが、後に范蠡が越を離れる頃には千人規模に拡大していた。この名門に生まれた若者は、家の教育方針によって、中国全土を隈なく見聞していた。

 范蠡は越の政治顧問をしていた計然(けいぜん)の濮上(ぼくじょう)塾の正式な弟子ではなかったが、気が向いた時には訪問し、学んでいた。計然は聖哲孔子と同時代の経済学者注1)・数学者であった。彼の教えは明快である。「高い時に売り、安い時に買え。つまり商品と貨幣の循環を淀みなく行うこと、そのためには気象の変動周期など、科学的なデータを活用することである。そして民衆も含めて人を動かすには、金がおおきなモチベーションとなる。この要点を現実問題に冷静に適用すれば、必ず成果が得られる。」
(注1:中国での青銅貨による本格的な貨幣経済の普及は春秋時代の末期と言われている。朝貢貿易の時代から、国境を越えた民間レベルでの経済活動が活発化するには、不可欠なことであった。いち早く貨幣の本質を理解した計然の先見性は卓越している。彼は中国南部が米の産地であることから、その備蓄を図り、さらに貨幣の活用により商品との流通を円滑にして、国力の充実を図った。越はその後進性ゆえに、外国の学者達を何のしがらみもなく、活用できた。そして計然の指導で、経済を国家経営の基盤としたことで、初めて覇者への道を歩むことができた。)

 その頃、時代は動きを加速していた。隣国の呉王闔閭(こうりょ)が、楚から亡命した敏腕政治家である伍子胥(ごししょ)と、孫子の兵法で知られる軍事戦略家である孫武を得て、大国楚に侵攻するなど、覇者への道を歩み始めていた。強力な軍隊を擁する呉は、発展途上の越を自分の属国とみなしていたが、楚へ侵攻している留守に越王允常(いんじょう)が攻め込み、両国の間は一挙に険悪になる。そして越王允常がBC496年に没して、23歳の太子勾践(こうせん)が王位に就くと、内政の整わぬうちにと、呉が越を本格的に侵攻するとの情報がもたらされた。勾践は計然を政治顧問とし、計然の推挙で塾の俊英、文種(ぶんしょう)を内政のアドバイザーとして採用して備えを固めようとした。

 その頃、范蠡は30歳になっていた。彼は范家屯の頭首では収まり切らない自己との葛藤を覚え始めていたときでもあった。

第一の人生:隠れた軍略家

 范家屯に迎えの車が来た。使者は文種である。

 越王勾践は計然に軍事も託そうとしたが、年齢的なこともあり、専門分野も異なるため、彼は范蠡を推挙したのである。勾践は鶴書(かくしょ、天子からの招集状)を作ろうとしたが、范蠡はそれで召喚できるような男ではないとの計然の意見を容れて、文種を行かせることにした。

 旧知の仲である文種は、いきなり范蠡に呉軍の侵攻にどのように対抗すべきかを問いかけた。呉の軍事の天才、孫武(孫子の兵法の著者)が越侵攻には参戦しないとの情報があるとも。すると范蠡の口から、画期的なアイデアがすらすらと展開されたのである。その作戦は枯葦(かれあし)の計と呼ばれ、戦場の地名から檇李(すいり)の戦と呼ばれた。

 BC496年9月、呉軍は浙江の北岸に現れて布陣した。装備も軍事技術も当時最強の軍隊である。一方それを迎え撃つ越軍は南岸に陣取ったが、実は大多数が数を揃えるために採用したアルバイトである。思い切った高給なので、すぐさま募集定員に達したが、国庫は空っぽになった。バイト軍は葦に隠れてけっして姿を見せるなと命令されている。素人と見破られないためだ。ただ幟を掲げて打ち振り、意味ありげに狼煙を揚げる。そして肝心の戦闘部隊は、辺境の少数民族等を中心とした屈強の斬り込み隊であるが、200人編成が5隊しかなかった。もちろん越王の周囲には正規軍がいるが、それはすぐには使えない。

 数日後の朝、激しく爆竹注2)が鳴らされ、その煙が晴れかかる中を、越軍から10人の決死隊が蛮刀を手に進み出て、横1列に並んだ。その異様な雰囲気に、なにごとぞと呉軍は固唾を飲む。するといきなり両手で刀を高くかざすと、そのまま自分の首を刎ねた。30分後にもう10人、さらにもう10人とこれに倣った。呉軍の背中に底知れぬ恐怖感が走った。
(注2:当時は未だ火薬が発明されていなかったので、青竹を火にくべて破裂させる、文字通りの爆竹であった。)

 実は彼らは死刑囚であり、越の為に自刎(じふん)すれば、自らの名誉が約束され、残された家族は手篤く保護されると問いかけたところ、全員がこれに応じ、しかも見事にその役目を果たしたのであった。

 そこへ、浙江に上げ潮が起こる時刻となり、小舟に分乗し、体中に入れ墨を入れた決死隊が勢いよく呉軍の真正面の浜に乗り上げ、偃月刀(えんげつとう)を振りかざして斬り込んできた。呉軍は思わず浮足立って後退する。30分ほど戦うと、第二隊を投入し、次々と新鋭部隊に切り替えていった。呉軍は河岸から北に30キロも後退し、檇李(すいり)の砦に至った。そこに越軍の勾践率いる本隊も到着し、激しい白兵戦が始まると、呉軍は砦を捨てて呉都のある東に敗走した。そして最強の第五隊が投入され、呉王闔閭だけをひたすら追い続けたところ、東に7里の呉領内で闔閭は流れ矢に当たって倒れた。呉都から急遽太子夫差を呼び寄せ、新王に任命すると共に、必ずや勾践を倒せとの遺言を残す。夫差は3年内の報復を誓う。

第一の人生:范蠡出仕する

 国庫は空っぽになってしまったが、結構国内の経済は活発化した。あの高額のバイト代で、庶民の金遣いが良くなっていた。その様子を見ながら、越王勾践は范蠡をどうしても採用したいと思った。文種によれば、枯葦の計はすべて范蠡の作戦と読みの通りに展開されたという。よし、狩りに行こう、日を選べと命令した。

 范蠡は常に旅をして諸国を見聞していた。確実に范蠡が在宅している日を特定し、勾践は王都を出発した。そして到着の直前に、使者は范家に越王訪問の帛書を届けた。かつて無い事態に范家屯は大騒ぎである。客殿に案内された若い王は、上座から有無を言わさず、一気に范蠡を説得しようとした。越の家臣になることは、人生の回り道のようであり、范蠡は決しかねていたこともあり、王をもてなす宴席の準備ができるまでの時間を稼ぐ必要もあり、しきりと菲才ゆえの辞退を繰り返していたが、家人からのOKサインを認めるとこう答えた。それでは建白書を執筆しますので、10日の猶予を下さいと。勾践はここで妥協し、案内されて席を替えた。

 さて、約束の日に范蠡は建白書の提出に来たが、それは優れて具体的で広範なものであった。勾践は彼を予め用意した王宮内の立派な執務室に案内し、優秀な秘書官もつけた。もう逃げ場無し。范蠡は腹を括って、勾践の覇王への野望がかなうように献身することとした。

 若く経験不足の勾践は重臣達の意見に良く耳を傾け、まずは国家経済の活性化と、軍備の近代化に着手した。越都の雇用は拡大し、地方からいくらでも労働力注3)が流入してきた。あの高額なバイト代の噂が、人々を惹きつけたのだろう。
(注3:当時は中国といえども南部の人口は少なかった。)

 一方父の無念の臨終に接した呉王夫差は復讐心に燃え、臥薪(まきを寝床と)してその悔しさを日々新たにしているとの噂が聞こえてきた。

第一の人生:会稽(かいけい)の恥辱

 中国の古代史は豪傑ではなく、往々にして美女が作る。范家屯に西施という中国史屈指の美女が住まっていた。別に愛妾にしようというのではない。范蠡が、幼女の頃に素質を見出して貰いうけた樵の子に、優秀な養育係をつけて秘密兵器として育成していたのだ。それを事もあろうか勾践が見初めて、妃に求めたのだった。越王を迎えた宴席で、西施の踊りを見せてしまったのが失敗だった。BC494年、勾践25歳、西施17歳、豪華な輿入れの行列を送りながら、范蠡は複雑だった。西施はもっと違う場面で役立てるつもりだった。

 すると勾践は後宮から出てこなくなってしまった。それが3ヶ月後に突然会議を招集した。勾践は、呉がいつ復讐のために攻め込んでくるか心配でたまらず、それなら先手を打とうと考えたのだ。もちろん范蠡、文種らは呉侵攻には国力が伴わないので、大反対であった。しかし謙虚だった勾践が極めて戦闘的に変化し、何でも反対する重臣達に不愉感を隠さなかった。自分は王であり、側近は従えば良いとの態度である。西施への強さの誇示でもあった。とうとう会議の結論を得ずに、無謀な賭けに出た。自分だけで3万の軍を率いて呉に向かって出陣してしまった。

 すると越軍の勢いに呉軍は総崩れで退却する。やはり俺は強い。どんどんと追いかけて、どんどんと追いかけて、呉国の奥深くで、あれれ、逆に囲まれてしまった。気が付けば海と山に挟まれた狭道であり、一方的な殺戮の標的になった。やっとのことで会稽山(かいけいざん)の麓まで逃げ落ちたが、残った兵は5千に足りなかった。

 そこに范蠡らが、わずかしか残ってなかった兵をかき集めてやっと追いついてきた。勾践の気分はどん底で、討死するとばかり言う。そこを必死になだめて、生きて降伏の道を勧める。ことの発端は呉王闔閭の遺言であり、中途半端な条件では絶対に呉王夫差の恨みを晴らす思いには対抗できない。越の宝器をあらいざらい献上し、勾践は自ら呉王の臣下となり、夫人を妾として差し出すことだ。范蠡はこの条件を勾践に承諾させた。そこで文種が和議の交渉に赴いたが拒否された。呉王は傾いたが、伍子胥が強く反対した。延命させれば、必ずや将来に禍根を残すことを予見してのことである。臨終の場で、夫差の器の足りなさを心配する闔閭に必ず補佐すると約束したのが伍子胥であった。

 呉の弱みは、この夫差にあった。彼の代になると、楚から亡命してきた伯嚭(はくひ)を太宰にする。何かと諌める父王の側近だった伍子胥や孫武を遠ざけて、自分の意に諾々と従うイエスマンを登用したのだ。しかもこの伯嚭はわいろ好きの好色漢だった。范蠡は美女と財宝 注4)により伯嚭に会い、この和議の条件を内諾させた。
(注4:このような賄賂は范蠡の個人負担である。臣が蓄財をするのは、このような時に使うためであり、文種にはできないことだった。)

第一の人生:呉の捕虜として

 越王勾践は呉で牢につながれ、絶望の日々を送ったが、范蠡は魚屋に変装して王宮に潜入し、魚の腹に手紙を入れて牢に投げ込んだ。勾践は救出に范蠡が努力していることを知り、勇気づけられた。范蠡は伯嚭への美女、賄賂攻撃を緩めなかった。それにしても范家屯にはいかほどの美女達が養成されていたものか。洗濯女までが動員されて、汗が滲みこんだ衣服のままで我慢していた。

 そのような時に呉王夫差が腎臓結石になり、苦しんだ。医者が、誰かその尿を舐めて、その味を教えてくれたら治療法が分かると言ったが、誰もそんな勇気はない。そこで罪人を使おうということになり、勾践が味見をして、呉王は見事に治療された。ここですかさず伯嚭への美女・賄賂を強化し、呉王に勾践の釈放を認めさせた。交換条件は范蠡を代わりの人質とすること、西施を後宮に入れさせることであった。もちろん、范蠡の人質は自ら提案してのことである。西施を差し出すことは既に降伏時の条件であった。これこそが、本来意図した西施の用い方に適うものだった。

 范蠡と交代で、3年間の捕虜生活から越に戻った勾践は粗衣粗食に甘んじ、田畑で鍬を振り、賢者の話を良く聞き、貧者を助けた。西施も機を織り、勾践を助けた。獣の肝を乾燥させて、食事のたびにそれを舐めて悔しさを新たにした。嘗胆(しょうたん、肝を舐める)の故事である。ここにライバル同士で「臥薪嘗胆」という1つの成句を完成させた。因縁の深さを感じる。

 そこに呉から使者が来た。とうとう西施を迎えに来たのだ。こうして呉の城郭内で范蠡は軟禁、西施は後宮ということになった。范蠡は金をばらまいて西施とのホットラインを作りあげ、また自らの釈放を早める買収工作を強化した。また敵の中にいるので、いろいろな情報がすぐ耳に入ってくるのが、范蠡の狙いでもあった。「敵を知り~」は呉の孫武のテキストにあり、范蠡はそれを実践した。

 越の宝庫は既に空っぽ、范家屯の蓄財も空しく、文種や高官たちもカラッケツだった。そこで紹興酒を増産して、他国からの財物をどんどんと入れた。でも高く売れる陳年と言える紹興酒は最低の最低でも5年ものなので、そこをどうしたのだろうか。

 呉王夫差はすぐに西施に夢中になった。既に一児の母であった西施は、もう大輪の花である。夫差は西施のために、豪華な御殿を建設した。行幸するときは、道を整備させ、花々を咲き散らし、休憩所には瀟洒なあずまやを設けさせた。西施が喜ぶことは、何のためらいもなく実行した。そして西施という夢から覚めると斉、楚、晋などに遠征をしては勝利した。それもますます西施を喜ばせた。夫差の慢心が極に達していた。

 范蠡は2年で帰国できたが、夫差は西施を手放すことが無かった。いかにホットラインがあるとは言え、西施は敵の陣中にたった独りで20年近くも耐えることになる。その間、容姿の衰えを見せず、夫差の心をつかみ続けるのは並大抵のことではない。西施の役割は呉王を堕落・慢心させること、それによって呉の国力を衰えさせること、近隣諸国の恨みを深くすることである。利発な彼女は、強烈な意志でそれを貫徹した。

 比較には無理があろうが、かの千夜一夜物語注5)のシェへラザードの闘いはわずか1001夜のことであった。彼女は大臣の御姫様であり、実家では面白い話の種を全国から収集し、編集・執筆陣がそれを選択・加筆して、毎日その夜の原稿を届けるというバックアップ体制の下に、ついに王の人間性を目覚めさせたのだ。それに比べて、西施のホットラインはいかにも細い。范蠡への強い信頼が唯一の支えであった。
(注5:「千夜一夜物語」は「アラビアンナイト」とも呼ばれるため、アラビア(現在のイラク)の話と思われがちだが、ペルシャ(イラン)の王室での話であるそうだ。)

寄り道:子貢との連携 4)

 将棋のようにややこしいので、上手に説明ができるか心配だが、その外交手腕には感心するので、是非おつきあいを願いたい。併せて図1の地図をご参照願う。

 斉の田常(でんじょう)は勢いを伸ばして、斉の乗っ取りをたくらんでいたが、手始めに隣の弱小国である、魯を攻め取って勢力を伸ばそうとした。孔子は13年の諸国遊説中(実際は流浪中)であったが、故郷の魯が無くなることはぜひとも避け、先祖の墳墓を守りたい。そこで外交に優れた子貢を用いた。子貢は32歳も孔子より若いものの成功した商人であり、弁舌に加えて外交に必須の財力があった。子貢は范蠡より6歳年下であるが、全国を旅した范蠡と面識があり、互いに認め合った仲であった。

 子貢は田常に会って言った。弱小な魯を破っても名声は得られず、斉王は領土が広がって喜び、王宮のライバル達は戦利品の財宝を食い散らしてあなたには何も残らない。強国呉と戦ってこそ、勝てばあなたの手柄、万一負けてもそれは斉王の責任で弱体化が進んであなたは有利になる。そこで私は呉に行って、魯の救援を依頼します。すると呉は斉に戦争を仕掛けるでしょう。そこであなたの実力をもって呉を叩くのです。

 次に子貢は呉王夫差に進言すると、野心に燃えた夫差は、魯の救援という大義を得て喜んだ。しかし留守中の越の動向が心配である。そこで子貢は越の勾践を従軍させる提案をする。そして子貢は越に行き、范蠡や文種と会う。すぐに文種が呉に行って、越王の従軍と、3千の援軍を提案する。子貢を信じきっている呉王夫差は子貢に相談すると、越王の従軍は辞退して、援軍だけを受け入れましょうと提案する。伯嚭への賄賂が効いているので、これが通ってしまう。

 西施に励まされて呉王夫差は北伐に向かう。斉と闘い、これを撃破する。これで魯への圧力が斉から呉に代わる。覇王への野望を抱く夫差はさらに進み晋と会戦するが、これは余りうまく行かなかった。

 BC482年に呉王夫差は黄池で会盟(覇者が諸侯を集めて盟約を結ぶ会議)を開き、諸侯の盟主となる。3万の兵をきらびやかに配し、力を背景とした会談であったが、晋の抵抗も激しかった。しかしこの留守に、ついに越が呉に攻め込んだ。これで魯に対する呉の圧力も一気に低下する。簡単に書いたが、子貢はこれに10年を費やした。

第一の人生:勾践を覇王に

 さてこの10年は范蠡の10年でもあった。経済的な国力の増強と共に、軍事力も格段に向上させた。おそらくもっとも重要なことは、諸国のようにバイトの軍隊ではなく、農兵化したことだ。そして平時も一定の給料を支払ったのである。これで大将が死ぬと雲散霧消するようなもろい軍隊では無くなった。

 そして伍子胥の自決である。伍子胥には呉の滅亡が現実的なことと思えてならなかった。そこで斉に出張する時に息子を伴い、それを斉に託して帰国した。これを西施は見逃さなかった。伯嚭を使って謀反の心ありと指摘させ、呉王から自決を求めさせた。黄池の会盟の2年前である。軍師孫武注6)はその前年に退役していたので、次は伍子胥を排除する順番だった。越王勾践は侵攻のチャンスと考えたが、范蠡は止どめた。まだ早いと。

 そして2年、絶妙のタイミングである、黄池の会盟の最中に攻め込んだ。留守番部隊は実にもろかった。
(注6:孫武が残した多くの言葉の中に「呉越同舟」がある。「仲の悪いもの同士が小舟に同乗し、ここを嵐が襲うと、彼らは因襲を越えて一致団結し、その困難を乗り切ろうとするだろう。ただ強いだけではだめで、その強さのベクトルを一致させるような状況に追い込むことが、作戦の要諦である。」このように解説しながら、孫武はこの両国が争うことを残念に思っていたのかもしれない。)

 呉は和議を申し入れ、勾践はそれを受け入れた。呉は連戦で軍隊が疲弊しており、首都陥落で士気も萎えていた。一方越には一気に呉を壊滅させるほどの力量が無かったのである。この3年後に孔子が73歳で死に、子貢は心から悲しんで6年もの喪に服す。子貢の外交による魯の防衛は、間に合った。

 越は国力と軍隊の充実を図りながら、BC473年に呉を攻撃した。さらにBC475年には城壁を囲んで兵糧攻めにしたのである。周囲の国々はそれまで散々に荒らされたので、どこも呉を助ける所はなかった。包囲は2年に及んで、ついに降伏の使いが来て、呉王夫差の命乞いをした。越王勾践は会稽で命だけは助けられたことを思い、これを許そうとしたが、范蠡は断固拒否した。使者の報告を聞いた呉王夫差は、亡き伍子胥に詫び、自殺した。BC473年である。ついに会稽の恥は雪がれた。西施は無事救出されたが、終始無表情であった。

 文種の活躍で戦後の領土問題を含む諸国との外交問題の処理、つまり呉が奪った領土の返還をして覇者の貫禄を示し、さらに3年後に斉に戦勝してついに勾践は覇王としての、伯の称号を得た。功労者と言えなくもない伯嚭は、呉の民衆の思いに配慮して処刑された。

第二の人生:越との決別

 斉に勝利すると、勾践は得意の絶頂であった。そこに范蠡は恐れを感じた。会稽の恥辱以来の22年間は一体何だったのだろうかとも。それに彼は帰ってきた西施を守りきれなかった。勾践の新しい正室や後宮の女たちの猛烈な嫉妬の対象となり、刺客が差し向けられる事態であった。さらに勾践には西施を守る気などさらさらなかった、彼女なしには呉の滅亡は達成できなかったというのに。そこで范蠡は彼女を范家屯に匿ったが、今度は呉の残党から狙われるようになった。そこで西の楚に逃がそうとした。夜陰に乗じて軽舟で五湖を渡るのである。そこを呉の残党が西施と知って襲って来た。西施は自ら広大な五湖の、湖底に沈んだのである。20年近い夫差の荒淫に耐え、40歳でも美貌と知性に溢れ、そしてどんなことにも折れなかった心に、深い傷を負ったままに。

 范蠡が勾践に辞職を願い出ると、勾践は君と国を分かち合おうと答えた。イエスか死か、という二者択一の問いかけである。その場を何とか繕った范蠡は、すぐさま越からの脱出を図った。重い財産は全て放棄し、范家屯はもぬけの空になった。かねて会稽の辱を雪いだ功労で、范蠡には会稽の土地が与えられていた。そこに備えておいた船で船団を組んで海路、北の斉に向かった。BC468年、58歳であった。天寿を全うするまで、生き抜く覚悟であった。それこそが人生の勝利の証となるだろう。

第二の人生:斉の鴟夷子皮

 范蠡は全く気付いていなかったが、この呉の滅亡で中国に平和が訪れて、後の歴史家に春秋時代の終わりとされた。戦国が始まるまでの約20年の平穏な時代が、彼の第二の人生と重なるのである。

 山東半島をぐるっと回って、薄姑(はくこ)という村に定住した。斉の国都臨湽(りんし)に近い海岸である。そして昔の名前を隠して、鴟夷子皮(しいしひ)と名乗った。この名前は呉の伍子胥への深い思いである。自決を強要された伍子胥の死体は,罪人として皮袋(鴟夷)に入れられて川に流された。西施に、彼が息子を斉に置いてきたことを指摘させたのは、もちろん范蠡である。伍子胥は異常な所もあるが、真摯に国を思った有能な人物だったことを、最も理解していたのは范蠡だった。

 さて范蠡は農耕に精を出し、一族の自活の目途が立つと、製塩を始めた。しかも品質の良い精製塩として、内陸で軍備増強を図っている秦などに売り込んだ。塩は血気さかんな軍人に不可欠と考えられていたからだ。そして米蔵を建てて、米の備蓄と販売を始めた。中国各地の豊作、不作の情報を得て、安く買って高く売ることをしたのである。黄河を使えば、舟による広範な流通が可能であった。彼の村は鴟夷屯と名前を代えていたが、商人の館群になっていた。生糸などの商品も扱い始めた。

 さて彼が越を脱した翌年、范蠡は越に残っている文種に手紙を書いた。これが有名な「狡兎死して走狗烹らる(こうとししてそうくにらる)である。「すばしこい兎が居なくなったら、それを追う猟犬は不要なので煮て食べられてしまいます。私は以前より、勾践は苦難を共にすることはできても、安楽を共にできる人では無いと考えていました。そこに長く居てはいけません。どうして早く立ち退かないのですか。」

 文種はまじめな人で、この手紙をもらって、出仕しなくなってしまった。行動がのろいのが文系の弱みである。やがて謀反の心ありとされ、自殺用の剣を賜ることとなった。特に古代ではどこの国でも、雇われ政治家や職人は王の財物にすぎず、他国でもっと良い仕事をしないように、用が済んだら殺してしまうものである。

 移住の3年後に、斉王平公からの使者が訪問した。あの范蠡であることが割れていて、宰相への登用を嘱望され、断ることができなかった。鴟夷屯は3人の息子たちに任せ、彼は40km離れた首都臨湽に妻と移った。

 この頃、越は呉を破ったため、斉の隣国であり、しかもすぐ近くの琅邪(ろうや)に遷都をした。山東半島を挟んで、斉の国都臨湽が北の付け根であれば、琅邪は南の付け根、100km程度の直線距離である。斉の軍事力は越の三分の一程度しかない。

 范蠡の施策は、ひとつは製塩を国家事業とすることで、国を富ませること、もう一つは越との国境に長城を築くことであった。この長城は長さ200kmを3年で作り上げ、さらに西に140kmを追加した。近隣諸国でもその真似をし、あの万里の長城の原型となった。范蠡の作ったものは斉の長城と呼ばれる。

 さて范蠡は斉で6年めを迎え、64歳になった。長城建設のメドもついたので、これは潮時と考えた。高い位に長くいると、自然とリスクが高くなる。致仕を願い出ると、老齢ということもあって簡単に許された。そこで仕事の権限を全て譲り、膨大な財産を友人や近隣の者たちに分けてしまった。そして持てる貴重品だけを身に着けて、わずかな近親者だけで斉を後にした。ほとんどの鴟夷屯の人々はここに残った。

第二の人生:陶朱公

 黄河を160kmほど上流に行った、陶に居を定めた。ここは山岳地帯の麓であり、火山に由来する鉱脈があった。范蠡が着目したのはHgS(硫化水銀)、つまり朱である。中国人好みの色であり、また防腐効果が高いので木造建築の保護になるほか、血液を連想させる所から生命の再生の願いを込めて死体に用いられた。印鑑の朱肉にも使う。この陶は斉の一地方なので、鴟夷子皮の名前の信用力は絶大で、事業化のスピードが速かった。

 硫化水銀の鉱脈は、硫黄臭を頼れば比較的に簡単に発見できる。山師を使って探鉱し、陶都の西45kmに工場建設を定めた。鉱夫を採用し、山中の辰砂(朱の原石)を大規模に掘りだした。これを一種のトロッコのようなもので山から降ろし、河岸の工場で精製した。辰砂は石と一体に混ざり合っているので、原石を粉砕して水を使った比重選別をしたものと想像する。

 この過程で、同時に硫黄原石も出てくるので、これを利用した火薬の製造も始めたとの説1)もある。山の洞窟には太古からの蝙蝠のフンが堆積して硝石が得られる。後は木炭を焼き、それらの調合比を研究すれば火薬が完成する。范蠡が自身発明したとも、そのような化学者を採用したとも思える。これは一級の軍事機密であり、ノウハウは秘匿された。

 さて、陶の地は当時の中国の中心であり、交易のかなめであって、またも范蠡は長者になってしまった。特に中国では金持ちは人々の尊敬を集める。誰が言いだすともなく、陶朱公と称えられるようになった。この命名はそのものズバリで分かりやすい。

 彼の人生で残念に思うことがあるとすれば、3人の息子の教育がおろそかになったことだろう。仕事づけの人生において、戦略兵器である西施の教育には万全の配慮をしたが、肝心の息子たちの教育はそっちのけであった。ここでは紙幅の関係で触れないが、范蠡の息子とは思えない愚息達であった。范蠡は自分が天才であって自ら育った故に、子供は自ずと育つと思っていたのだろうか。

終章:商売の神 3)

 中国人にとって、商売の神はふたりであるという。ひとりは関羽であり、横浜中華街にも関帝廟(図3)があって、多くの参拝者を集めている。軍人を商売の神様にしてしまう、庶民の感覚は何とも面白い。

 そしてもうひとりが陶朱公である。彼は范蠡と名乗った時代に、師の経済学者計然から7項目の基本を叩き込まれて、それを戦争と政治に応用して成功した。その後の越を離れての第二の人生でもその教えを実践した。その陶朱公としての商訓が世界中の華僑の間に連綿と伝わっているという。3種類あるそうだが、その最も主と思われるものを紹介する。なお注釈文も付いているが、ここでは本文だけとし、訳は文献3)を引用しつつ、適宜意訳した。

理財致富十二則 陶朱公

  1. 能識人(よく人を知る) 客や取引相手を瞬時に見定めることができる
  2. 能接納(よく接し納む) 相手の要求を快く受け入れることができる
  3. 能安業(よく業を安んず)ひとつの仕事をゆるぎなくやり通すことができる
  4. 能整頓(よく整頓す)  経営全般に管理を行き届かせることができる
  5. 能敏捷(よく敏捷にす) やる時は素早く行動することができる
  6. 能討賬(よくとうちょうす) 債権や売掛金を上手に回収できる
  7. 能用人(よく人を用う) 人の才能や性格を評価して上手に使いこなせる
  8. 能辯論(よく弁論す)  筋道を立てて、道理に叶った話ができる
  9. 能瓣貨(よく品をわきまえる) 商品・サービスに精通している
  10. 能知機(よく機を知る) タイミングを正確に計ることができる
  11. 能倡率(よく唱え率る) 率先垂範してリーダーシップをとれる
  12. 能遠數(よく遠くまで数える)目先に惑わされず、広く遠くまで計算できる

 范蠡は三度住まいを替えてその度に財を成した。これが2500年の歴史を通じて商売をする中国の人々にはたまらない魅力である。だが商人のみならず、サラリーマンでも、さらに自分らしく生きたいと願う人にも、彼の処世は十分な参考になるだろう。

おまけ:西施外伝

 越に帰った西施は猛烈ないじめに遭った。ではどうして呉の20年を無事に過ごせたのだろうか。女の嫉妬に国境は無いはずだ。さらに貴賤の差も無い。断言する。

 孫武が呉王闔閭に軍師として採用される時に、女でも強力な軍隊にできるかと問われ、闔閭の寵姫(ちょうき)を含む後宮の180人の女官を与えられ、それを立派に訓練してみせたとの故事がある。呉の後宮にも西施のライバルが多数居たわけだ。

 結論から行こう。現実的に西施を保護したのは、太宰の伯嚭である。そして西施の幼馴染の田和(でんわ)であると、私は考える。

 会稽の戦後処理で范蠡が伯嚭に面会したときに、全ての筋書きは用意された。最も難しいのは勾践の釈放の理由と時期だが、それは天に任せよう。その釈放と交換の捕虜は范蠡自身とすること、西施の後宮入りは、最初から協定に入れて置き、その実施は勾践と交換とするが、范蠡が捕虜に入っていろいろな整備ができた後とすることであった。西施を勾践と同時期に後宮に入れてしまうと、勾践の生き延びる気持ちが萎えてしまう。西施が待っているという支えが重要なのだ。

 そして西施が後宮入りする時に、身の回りの世話をする腹心の侍女達を付けた。そして宦官をひとり。田和は西施と同じ紹興の出身で、幼い時から、いわゆる筒井筒の仲であり、成長するにつれて西施は彼にとってのあこがれ、絶対的な存在に昇華していった。しかし戦略兵器となった西施は、遠くから時々見かけるだけしかできなかった。そこで会稽の講和条件を聞いた田和は、自ら希望して宦官となった。そして後宮の中では田和、外では伯嚭という基本的な体制ができたのである。

 西施にそそのかされた呉王夫差による贅沢な浪費と軍隊の消耗は、伍子胥には何とも早く終わりにしなければならないことだった。伍子胥は何回も西施暗殺を画策した。しかし後宮の女官や宦官達は、伯嚭がことごとく味方につけていた。伯嚭は范蠡からの賄賂を、かなり活動費に使っていたのだ。范蠡が連れてくる美女達はよく訓練されていて、そのまま後宮に入れたものも多かった。そのような女官達で、いつの間にか西施の長城が築かれていた。伍子胥に通じた女官は、田和の通報により、早々と除去された。

 それでも、ある時に毒が持ち込まれた。何となく不審を感じた女官が池に一滴を垂らすと、すぐに魚が浮いた。そこに夫差が通りかかり、何事かと問いただす。田和が答えて言う。西施様が池の畔にお立ちになりましたところ、その魚が裳裾の中を見上げて、おもわず息を忘れて窒息したものでございます。(これに近い逸話がある。)夫差が、そうか、儂も時々死にそうになるぞ、わはっは、とその場は済んだ。すぐに後宮の数人が居なくなったが。

 いずれにしろ、伯嚭の配慮と金品で、西施を頂点とする後宮の秩序が保たれた。伯嚭の後宮経営の力量はあなどれない。ではなぜ伯嚭はそのような行動をしたのか。これが最も強力な呉王夫差との信頼のパイプであり、また伍子胥と対抗できる方法であった。もちろん、西施も伯嚭の応援者であり、情報共有者である。単純に計算しても、孫武は高齢で実務から遠ざかるから、問題は伍子胥だけと分かる。これは何かしっぽを掴んで排除すればいい。呉が繁栄を続ければ、自分は安泰。越がこれに代わっても、自分は功労者だから身分は保証されるだろう。まあ、どっちみち将来の心配は無い。

 しかし、呉が陥落した後、伯嚭は処刑された。范蠡にしてみれば、呉の旧国民を納得させるためには、亡国の奸臣として処刑する必要があった。伯嚭は騙されたと思った。いや、だれも騙していない。自分で勝手にそう思っただけだ。処刑の場に王族は立ち会わないものだが、遠くに西施の姿を認めた。その目に涙が光ったような気がした。伯嚭はそれだけで、十分に癒されたと思い、従容として死を受けいれた。

 さて、范蠡は越を脱出することを内心では決めていたが、時期を見ていた。一方西施への攻撃は切迫した状況になっていた。後宮の問題は范家屯に避難させれば済むが、呉の残党が問題で、伯嚭の処刑だけでは収まらない。范家屯は要塞ではないから、防衛には向いていないし、勾践の軍隊を使うわけにもいかない。命がけで范家屯に乱入してくるから始末が悪い。

 そこで西施だけの脱出を先に敢行した。屈強な家臣達を警護につけ、田和を加えた。夜陰に紛れて水路から静かに漕ぎ出し、やがて五湖に至った。そこまで来れば、湖面は広大で小舟を認めることは困難なはずだった。しかし新月の暗黒ゆえに、西施は夜光虫のようにほのかに光ってしまう。そこへ呉の残党の舟が数隻あらわれ、その先頭が船腹に体当たりをしてきた。ぐらっと大きく揺れたために西施が田和に抱きつき、そして耳元で囁く。田和は西施を堅く抱いて、一緒に湖水に沈んだ。

以上

主な参考文献

  1. 村石利夫:范蠡-春秋時代の覇王伝、KKベストセラーズ(1996.3)
  2. 立石優:范蠡 越王勾践の名参謀、PHP文庫(2000.8)
  3. 松本一男:華僑商法の秘伝 「陶朱公」商訓が成功を約束する、三笠書房(1987,10)
  4. 陳舜臣:中国傑物伝、中央公論社(1991.10)

榎本博康(えのもとひろやす) プロフィール

榎本博康(えのもとひろやす)  

榎本技術士オフィス所長、日本技術士会会員、NPO法人ITプロ技術者機構副会長

日立の電力事業本部系企業に設計、研究として30年少々勤務し、2002年から技術士事務所を横浜に開設して今日に至る。技術系では事故解析や技術評価等に従事する一方で、長年の東京都中小企業振興公社での業務経験を活かした企業支援を実施。著作は「あの会社はどうして伸びた、今から始めるIT経営」(経済産業調査会)等がある。趣味の一つはマラソンであり、その知見を活かした「走り読み文学探訪」という小説類をランニングの視点から描いたエッセイ集を上梓。所属学協会多数。

 

6月 10 14

中小経営のニッチから国際化へ(第9回)

by staff

デジタルハリウッド大学大学院/NVD株式会社 松本英博

1.海外視察やトレードショウ

 前回フィージビリティー・スタディー(事業性検証)を事前にやっておくことをお勧めしました。その検証で効果的なのは、海外の顧客候補やパートナー候補に直接会って、提案し感触を得ることです。

 しかし、現実的には、個別に顧客候補やパートナー候補に会うにも、手立てがなく、また、現地での情報を広範に手に入れることもできない場合が多いものです。

 今回は、海外視察やトレードショウ(展示会)を上手く活用することで、顧客候補やパートナー候補に会う機会を設けることを考えていきましょう。さらに、コストと時間を削減することも考えることも重要です。

 海外視察でもトレードショウでも、海外現地の情報が自社の事業展開に大いに関連するところです。また、同様の体験をした多くの人に話を聞くと、成功と失敗のポイントがあるようです。

2.トレードショウのポイント

 トレードショウも自社が能動的に行う、いいかえれば、自社製品やサービスを展示したり、プレゼンテーションしたり、商談したり、といった場合と、受動的で、展示会や他社製品を見ることに主体を置いた場合では、目的も現地での行動も大きく異なります。

展示会を受動的にみる

 この場合は、現地の業界情報の収集や他社製品の位置づけなどを自社の商材を伏せて行えます。また、競合企業などのブースなどの様子から、顧客の視点で冷静に自社との差別化すべきポイントが浮かび上がってきます。また、現地でのビジネスの習慣や日常生活を垣間見ることで、ビジネスの機会や差異を体験できます。

 さらに、自社が海外進出した場合の現地のパートナー企業に目星をつけることも行えるかもしれません。

展示会で能動的に動く

 この場合は、自社自体、製品などをアピールする機会です。十分な準備を行って、展示会を通じての情報取集を行いましょう。顧客やパートナー候補の情報収集が目的であれば、展示物も重要ですが、商談を軸に日程や資料をあらかじめ見込んでおく必要もあります。さらに、上記の受動的な立場として、他社ブースもできれば精力的に一日かけて見ておく必要もあるでしょう。

 さらに忘れがちなのは、展示会以後のコンタクトに対するフォローです。現地と異なり一旦帰国すると、テンションが落ちて、相手へのお礼とその後のフォローが遅れがちになります。重要な顧客やパートナー候補に対しては、現地との接触を保ち続けることが重要ですから、フォローは必ず行う必要があります。

 また、社内で展示会後の報告会(反省会?)を催し、情報を共有することは言うまでもなく行うことやフォロー、次への行動計画も明確にしておきましょう。

3.海外視察のポイント

 展示会やトレードショウとは、異なり、会社の海外展開の戦略を持ったうえで、海外を視察する場合には前述よりも更に効率的に情報収集を行いたいものです。海外視察については、展示会などを通じて顧客やパートナー候補、現地の金融機関や当局の現状把握を行うことが主目的になると思います。そこで、ポイントとして経営資源、「ヒト」・「カネ」・「モノ」の視点で確認しておきましょう。

ヒトの2つの確認ポイント

 ここでの確認ポイントは、①人的な特性、②人的なコストの2点です。

 ①人的な特性:

現地の国柄、宗教、慣習や文化が対象です。現地人は親日的か、宗教的戒律、主食、食事の回数や制限、言語や経済水準については、現地視察前にはある程度把握を行うことで、現地視察のときに、特異な就業ルールや慣習に出くわしたときに理解できるでしょう。

 ②人的なコスト:

人件費と違い、地域ごとの最低賃金、学歴などの差異による賃金格差、祝日や深夜など時間外手当の割り増し分、社会保障や年金の会社負担分に加え、同業他社が会社内で実施している社員向けの貸付や財形などについても把握しておくことです。こうすることで、事業計画は策定しやすくなります。高度技術、熟練技術者が必要となる職種については、対象従業員を雇用するための費用についても確認しておきましょう。

カネの2つの確認ポイント

 ここでの確認ポイントは、③資金調達方法、④徴収(課税)があります。

 ③資金調達方法:

海外進出時の現地銀行からの調達、法人銀行と提携している現地銀行の確認、親会社からの資本投入に関する規制を確認しましょう。さらに、リース・サービス会社の確認や支払サイトを管理するために、進出商社の有無など確認することになります。これらの情報でようやく、具体的な経営計画を描くことができます。

 ④徴収(課税):

進出先の行政によって判断が、会社形態によって異なる場合や、外資に対してインセンティブを与える場合もあるので、予備知識を持った上で、現地での聞き取り調査を行う方が最新情報を知る上で重要です。課税ルールが突然変わる場合や判例を採用する場合もあるため、最新の事例を情報収集することで、進出後の監査対応も考慮することができるかと思います。さらに、特に新興国で頻繁におこるが税金トラブル対策は、監査する側の性格を熟知し、強い有識者をがっちり連携するも必要になるかもしれません。

モノの3つの確認ポイント

 ここでの確認ポイントは、⑤調達コスト⑥調達品質、および⑤調達のリードタイムがあります。製造業、サービス業問わず、日本国内と同様の購買発注計画が機能することは稀であると考えておいた方がよいでしょう。

 ⑤調達コスト⑥調達品質、および⑦調達のリードタイム:

現地調達ができるのであれば問題はないです。しかし、不可の原材料や設備がある場合には、日本や他国から取り寄せとなります。現地調達が可能でも⑥品質を事前に確認しておき、使用の可否を判断する必要があります。

さらに、調達までの⑦リードタイムを明確にして、安定した事業活動が行えるか否かを明確にしなければなりません。機械設備を現地で調達する際は、スペアパーツやエンジニアリングサービス有無などを必ず確認し、故障対応などのアフターサービスについても把握しておきます。

総合的な確認ポイント

 総合的な確認として、経営資源にそれぞれ係る⑧制度については確認しましょう
「人」については、健康・労災にかかることや年金、業務に対する年齢制限、国内業務に対するルールです。「モノ」について、まず、輸出入規制や環境面の制約です。さらに、保管・設置ルールや許可申請の必要の有無さらに発行担当局と準拠する法律を抑えるといった法務的な調査が必要となります。「カネ」について、特に外資に対する規制やインセンティブを、現地の進出斡旋業者や銀行、JETROの現地事務所に問い合わせすることで、概要を把握しておきましょう。

 ⑧制度に関しては、多種多様、枝葉末節となるため、現地調査では、制度を熟知しているであろう、有識者に面談をして、効率的に整理していく必要があるでしょう。

 何れにしても、重要なポイントは、常に好奇心をめぐらせ、前提条件をとり払って考える姿勢が重要です。

※さて、別のビジネス・コラムの「創造方程式」による発想のトレーニングがしたいというなら、参考に拙著「ヒット商品を生み出すネタ出し練習帳」をどうぞ。

次回(最終回)の予告

これまでの議論を振り返り、中小経営での国際化の意義についてまとめます。

松本英博 プロフィール

 

松本 英博(まつもと ひでひろ)

デジタルハリウッド大学大学院 専任教授/NVD株式会社 代表取締役

 京都府出身。18年にわたりNECに勤務。同社のパーソナルメディア開発本部で、MPEG1でのマルチメディア技術の開発と国際標準化と日本工業規格 (JIS)化を行い、MIT(マサチューセッツ工科大学)メディアラボで画像圧縮技術を習得のため留学。帰国後、ネットワークス開発研究所ではWAPや i-モードなどの無線インターネットアクセス技術の応用製品の開発と国際標準化を技術マネジャーとして指揮。

 NEC退社後、ベンチャー投資会社ネオテニーにおいて大企業の新規事業開発支援、社内ベンチャーの事業化支援を行い、2002年9月にネオテニーから分離独立し、NVD株式会社(旧ネオテニーベンチャー開発)を設立、代表取締役に就任。大手企業の新規事業開発・社内ベンチャー育成などのコンサルティング 実績を持つ。

 IEEE(米国電子工学学会)会員、MIT日本人会会員。神奈川県商工労働部新産業ベンチャー事業認定委員、デジタルハリウッド大学大学院 専任教授、現在に至る。

 

6月 10 14

書評 「星々の舟」 文春文庫 村山由佳 著

by staff
 

「きれいな女は嘘つきだ、とハンドルを握るなり思った。」なんのことはない「到着地の天候は晴れ・・と、あんなに自信たっぷりにアナウスしていたくせに、空港の駐車場から車を出したとたん、しっかり雪が降り始めた。」私はしかしこのフレーズがずっと気になっていた。

「美希は、服のままベッドに倒れ込んだ。サイドテーブルの時計を見やる。夜はまだ始まったばかりだ。別に何かを失ったわけじゃない、と自分に言い聞かせる。そもそも初めから持っていないものを失えるわけがない。彼との時間を奪われたような気分になること自体、間違っている。彼の方が引きずっているものが多くて、時々ああして板挟みになってしまうのなら、譲れるほうが譲ってやればいいだけのこと。いわば、荷物の多い人に席を譲るようなものだ。ただ、一つだけ自分でももてあますものがあるとすれば、そうーこんなふうに突然ふってわいた一人きりの時間だった。」

「この家で、家族全員と血でつながっているのは私だけ。」「いつの頃からだったろう、その誇らしさが重荷へと変わってしまったのは。重荷―いや、負い目といった方がいいかもしれない。これまでの自分の特権意識をいやらしいと思えば思うほど、兄や姉への負い目は否応なく増した。自分でほどけることのできない重しを、天秤の片側にだけのせられたような気分だった。何とかしてそこをぬけだしたかった。抜け出して、居心地のいいバランスを手に入れたかった。」

美希はあの日を境にかわってしまったのだった。

「気象は激しくとも優しかった兄が、父を殴りとばし、母を土間につき転がして出ていっただけでもひどいショックだったが、それ以上に美希を愕然とさせたのは、数日後に知らされた姉の出生の事実だった。」母は志津子、長兄は貢、次兄は暁、姉は沙恵である。

「待ち合わせ場所に兄が現れると、志津子はまろぶように坂道を駆け下りていき、とまりきれずに腕をつかまえてもらうなり、すがりついて言った。 “今までどうしていたのぉ、あんた” あとからことさらにゆっくり坂を下りて行きながら、美希は、母の声がいつになく華やいで甲高く裏返っているのを、なぜだか身をよじりたくなるほど恥ずかしいとおもった。」「久しぶりに会う暁はいくらか痩せ、寡黙になり、たまに笑う時でさえ眉間には何か陰りのようなものがあって、そのせいか前よりずっと男っぽく見えた。胸板はあつく、二の腕は太く、そういうものを見るにつけ、美希はどうしても兄と姉の間にあったことを想像せずにはいられなかった。」その姉に悲しいことでもあったの? と聞かれた。

「満月に一日かけるくらいだから、月の出は早かった。分厚いセーターを着こんだ美希と沙恵はわざわざ物干し台へ出て空を見上げていた。きれいね、と美希は言った。今日のお月さま、ほんとうにきれい。無意識に何度もそうつぶやいていたら、沙恵がふっと言ったのだ。悲しいことでもあったの、と。美希は、驚いて姉をふり返った。腫れたまぶたはちゃんと冷やしてきたはずなのに、どうしてそんなことを言うのだろう。」

「 “月とか星とか、花やなんかがやたらときれいに見えるのって、なにかすごく悲しいことがある時だから。私の場合はね” “お姉ちゃんは、何回くらい、そういうきれいなものを見た?” 美希は、怖いくらいに美しい月を見上げた。輪郭があまりにもくっきりと浮き上がり、盛り上がり、今にも頭の上に銀色のしずくがしたたり落ちてきそうだった。」美希も姉の沙恵も誰と分かち合うことのできない、消せない痛みをもって、それさえも、確かに自分だけのものならー愛してやろうじゃないかという。

兄弟姉妹それぞれが消せない痛みにあっていくが、貢の子も例外でない。

「祖父の小さく窪んだ目が覗き込んでくる。 “思い切って話してみないか” そうだ。ちゃんと、言おう。そう決めて口をひらいたつもりだったのに、もれてきたのはへんな泣きだった。」「自分という人間のくだらなさにおしつぶされそうだった。何か、紙のようなぺらぺらなものになった気がした。痛みと恐怖にあっさり屈して友人を裏切ってしまった自分に比べ、可奈子はそんな体になってまでかばってくれているというのに、それをありがたいとか嬉しいとか思うより先に、ねたましいのだ。」祖父はつぎのように聡美に話しかける。

「聡美、もしもお前がほんとうにその友だちを失いたくないと、たとえ許してもらえなくても謝りたいのだと、そう思っているのなら、ぐずぐず迷っている暇はないじゃないのか。謝るべき相手が、そこにいてくれるお前は恵まれている。おれなんか、見てみろ。謝りたいと思う相手はもう、みんなあの世だ。どんなに手をついて、這いつくばって謝りたいことがあろうが、もう永久に間に合わん。死んだばあさんや、前の女房だけじゃない、あの時おれが・・・・」「西の空が、少しだけ明るくなりはじめている。大きく満ち引きする風の呼吸に合わせて、色づきかけた木々の葉から滴がしたたり落ちる。体の中に溜まった澱と入れ替えるように深く息を吸い込み、小声で、 “・・・おじいちゃん” ささやくと、祖父はこちらを見ずに、うん?と返事した。」

その祖父もまた痛みのなかにいたのだ。

「日本を守るために戦争で死んでった人たちを拝みにいくのに、なんで周りからあんなうるさくいわれなくちゃいけないんスか。なんで俺らの国のことに他の国が口出してくるんスか」孫は言った。いやそんな単純なことではないと祖父は思っている。「自分たちの世代は、戦争を体験などしていないと思う。自分たちは、戦争をいきたのだ。今日一日を命からがら生き延びてきた者にとって、あしたも、その明日また続いていくのが戦争だったのだ。人間が人間であろうとすることさえ許されず、お国の為、天皇陛下の御為という言葉のもとに、赤い紙切れ一枚で家族も恋人も引き裂かれた、それが戦争だったのだ。あの恐怖。あの痛み。あの絶望。-一度として餓えた経験すらない連中を相手にどう語ろうと、何が伝わるとも思えない。」祖父重行にはどうしても忘れることが出来ないことがある。「日本とっては敗戦の日であり、屈辱の日でしかなかった昭和二十年八月十五日を、 “解放の日” と呼んで祝う人々がいることを。毎年夏が過ぎ、この季節がめぐってきて、庭の木々が日一日と枯れ色に近づいていくのを見るたび、あの女のつぶやきが蘇ってくる。そう、まるで水底からうかびあがるあぶくのように。」

そして収斂に向かう。「それでいいのか。」といい、「幸福とは呼べぬ幸せも、あるのかもしれない。」祖父重行はまた来るわなと墓に声を掛けるのだった。

(文:横須賀 健治)

 

 

6月 10 14

書評 「ハカル考動学」 ディスカヴァー・トゥエンティワン 三谷宏治 著

by staff
 

ビジネスの今と未来を「測る」・「量る」・「計る」という副題に魅せられてしまった。実際は少し計量業界での感覚とは違いがあるのだが、「はかる」が「未来」につながることに新鮮さを感じた。はじめで書かれている。「世の中の森羅万象すべては、ハカることと一体だ。物理学的に言えば、ハカれないものは無いのと厳密に同じ。ハカれるからこそ存在となり、意味が与えられる」

今ハカる力が弱まっていると指摘している。「皆が当たり前のことをやれなくなってきている。自分で考え、既存の情報をハカり直し、そこから新しい意味を見い出すことが出来なくなってきている。だったら、その力をちゃんとつけよう。ハカる力を持つだけで、人生や組織の命運はおおきく変わるだろう。」

「 “ハカる” は人や組織を大きく変える。メートル法を初めとした “ハカるための基準” は、それを自国に有利に定めようとする大国間の戦場だし、民間の標準化会議なども、大手企業が俊英を十数人規模で無償提供する利益創造の場である。企業ごとの活動でも、イノベーションの影には、必ず “新しいハカり方” が潜んでいる。」

何をしようとしているのか。ここではハカることの力を、ボトムアップ・トップダウン・ヒトをハカる・作ってハカる・新しいハカり方を創るの順で紹介される。

「難題を前に、座って悩んでいても何も解決しはしない。必要なのは、考え、動き、また考える姿勢と技だ。それを “考動学” と呼ぼう。まずは“ハカる”ことを中心とした考動学を、職場や家庭で活用いただきたい。」と書かれる。今、なぜ“ハカる”力が必要かということで「ハカる基本は枠組みつくり。そして枠組みとは軸(何をはかるか)を決め、メモリ(どんな固まりでまとめるか)を刻み、データを集め、さらにそれらのデータを組み合わせること。それが対象をハカるということだ。」

三つのハカるにチャレンジせよと言う。
① モノではなくヒトをハカる
② 頭で考えるのでなく作ってハカる
③ 旧来の仕組みでなく新しいハカり方を創る

「ハカる」の基本を学ぶ章が最初にある。
ただ闇雲にハカっても、ムダ。から入ってくる。
「ハカるときのキーワードは、軸と目盛と組み合わせからなる枠組みだ。それを駆使して、論理思考や発想力を高めよう。」
「度量衡という言葉がある。度は長さ、量は容積、衡は重さ。おのおのをハカる道具が、物差、升、秤である。秦の始皇帝は、中国統一において多くのことを一つに定めた。なかでも文字と度量衡の統一は、その絶大なる権力を支える大きな力になった。軸と目盛を定める。それを等しく皆に使わせる。それだけで、モノは動き、カネが流れるようになって、産業が盛んになる。始皇帝はそのことを理解していたのだ。」「ハカるとは、ただ対象を数字にすることではない。共通の枠組み(軸・目盛り・組み合わせ)を作り上げ、広げてこそ意味があるのだ。」

ここで枠組みの例として、メタボリック症候群の判断になるBMIを紹介している。軸は腹囲であり、目盛りはその数値である。これに血圧・血糖値・中性脂肪などをくみあわせて判断材料とする。ハカるとはただ対象を数字にすることではない。共通の枠組み(軸・目盛り・組み合わせ)のもとでこそ意味があると力説される。
三現主義で「ハカる」を習慣化すること。三現とは「事実は何・現場と話をしてきた・それであなたとしてはどう思うの?」これを何度も何度も繰り返して習慣化することだ。

「実際に作るからこそハカれること」の項も面白い。「ここまで見てきたハカるは、2種類に大別された。一つは事前、一つは事後。まずは、カン頼りにならないよう、新商品のアイデアやコンセプトをユーザーに提示して、その意見でハカって評価する。そして作って売り始めた後に、改善・改良のためにハカる。それが満足度調査やクレーム分析だ。」

「座って悩むな。詰まったら動け。」
「詰まりそうなそうなことは、最初から作ってハカってみよう。」
読めば読むほど奥が深い。一度手にとっていい本である。
そして最後の締めが面白い。「曖昧な返事を許さない」「察しの悪い振りをする」なんだかわかるような気がした。すぐに理解したと、理解しようとする話の分かる上司をつい演じてしまっている自分に気づかされもした。

(文:横須賀 健治)

 

 

6月 10 14

福島県川内村復興の現状報告会開催のお知らせ、「笑顔経営」セミナーのお知らせ、「朝市で商店街ににぎわいが戻るのか」セミナーのご案内

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福島県川内村復興の現状報告会開催のお知らせ

未曽有の災害である東日本大震災からいち早い復興をとげている福島県川内村の現状を、講師に前福島県川内村復興対策課課長 井出寿一 様を迎え、震災当日から現在に至るまでの取り組みなどを語っていただきます。

3.11の東日本大震災後の福島県川内村の状況は、多くの新聞やTV等のメディアによって報道されておりますが、復興の陣頭指揮を執っていらっしゃいました井出様から直接お話をお聞きすることで、福島県川内村の「今」を感じていただければ幸いです。

当日は福島県の特産品(野菜など)を環境&フードテスターで測定する実演デモも行うことになっております。災害を風化することなく、被災地を励ましていきたいと考えておりますので、多くの方のご来場をお待ち申し上げます。
(NPO法人神奈川中小企業活性化センターは後援しています)

日  時 2014年6月11日(水)
測定体験会  12:00~14:00  15:30~17:30
現状報告会  14:00~15:30
  講師:前福島県川内村復興対策課課長 井出寿一 氏
会  場 川崎市産業振興会館 1階ホール
川崎市幸区堀川町66番地20
Tel.044-548-4111
http://www.kawasaki-net.ne.jp/
特  典 「応援ふくふくパック」(福島県の特産品詰合せ)を1パック1,000円で販売いたします。
お問合せ先 福島県放射能風評被害対策協議会 関東地区担当
(株)メジャーテックツルミ/(株)アークメジャー
川崎市川崎区大島2-7-10 (担当連絡先 北村 TEL:044-211-2008

 

「笑顔経営」セミナーのお知らせ

株式会社バイオクロマトの木下一真社長と一緒に会社経営を学ぶ「笑顔経営」セミナーが5月から始まっています。

月1回(全4回コース)開催のセミナーで会社経営の「正しいノウハウ」を学び、会社の業績アップを共に目指しましょう!

開催概要

セミナー内容 2回目 6月11日
どの様にしたら、自分の責任感や部下やスタッフの責任感が向上できるか?
~あるちょっとしたきっかけで変わる責任感~
3回目 7月10日
会社や組織の売り上げは何に依存しているのか? 前編
~これが解れば売上アップ!間違いなし~
4回目 8月7日
会社や組織の売り上げは何に依存しているのか? 後編
~これが解れば売上アップ!間違いなし~
日  時 2014年5月14日(水) 19:00~
会  場 かながわ県民活動サポートセンター
〒221-0835 神奈川県横浜市神奈川区鶴屋町2-24-2
電話045-312-1121(代表)
横浜駅西口 徒歩5分
アクセス
申  込 お申し込みはこちらから
http://www.monoken.net/egao-keiei/

 

「朝市で商店街ににぎわいが戻るのか」セミナーのご案内

神奈川県内では40を超える「朝市」が開催されています。三崎や葉山のように全国的に有名になっている「朝市」もあります。地域や商店街の活性化の切り札として「朝市」が注目されているのです。

「かながわ朝市ネットワーク」では、「朝市で商店街ににぎわいが戻るのか」というテーマでセミナーを開催いたします。

まず、神奈川県の「ミスター朝市」こと大場保男氏に「朝市で商店街のにぎわいを取り戻そう」というタイトルで講演をしていただきます。

次に、神奈川県で屈指のにぎわいを誇る「モトスミ・ブレーメン通り」の伊藤理事長に事例報告をしていただきます。

また、「朝市」を実施している、相模原西門商店街の浦上理事長、金一グループの坪倉会長からは、朝市への取り組みについてお話いただきます。

総括として、神奈川県産業労働局産業・観光部 商業流通課商業まちづくりグループの鈴木博明氏にご登場していただきます。

参加くださった皆様には「かながわ朝市ネットワーク」が作成した「朝市実践マニュアル」を資料としてお渡しいたします。

セミナー終了後には参加者同士の交流を深めるための懇親会を予定しております。

今回のセミナーは「朝市」に関心のある皆様には興味深い内容になると思います。

ご参加の方は下記の申込フォームに入力してください。
https://www.supportyou.jp/kanagawa-asaichi/form/2/

日  時 2014年6月26日(木) 15時~18時
会  場 かながわ県民活動サポートセンター 601号室
http://www.pref.kanagawa.jp/
横浜市神奈川区鶴屋町2-24-2
電話045-312-1121(代表)
会  費 3,000円(配布資料付)
内  容 <講演> 15時~16時
「朝市で商店街のぎわいを取り戻そう」
かながわ朝市ネットワーク
大場保男 氏
<事例発表> 16時~17時
「にぎわいある商店街からの報告」
モトスミ・ブレーメン通り商店街振興組合
理事長 伊藤 博 氏
「朝市の取り組みについて」
西門商店街協同組合
理事長 浦上裕史 氏
 
かながわ朝市ネットワーク
坪倉良和 氏
<総括>
神奈川県産業労働局産業・観光部
商業流通課商業まちづくりグループ
鈴木博明 氏
<懇親会> 17時~18時

このセミナーのチラシ(PDFファイル)をダウンロードできます(PDF 142K)

 

「売れるモノづくり」についてのご相談を承ります

いいモノを作ってもなかなか売れない・・・
製造業の方々からそんな悩みをよく耳にします。
どんなに良い製品でも、市場に受け入れられなければ「モノ」で終わってしまいます。

「横浜売れるモノづくり研究会」は、神奈川県在住の企業支援の専門家やITの専門家など多種多彩なメンバーで構成されています。

「横浜売れるモノづくり研究会」では、「製品の売り方をどうしたらいいか」
という企業のご相談を随時受け付けています。

毎月一回第二木曜日には、ご相談される企業と専門家が面談を行っています。

売れるモノづくりについてのご相談はこちらにご入力下さい。
https://www.supportyou.jp/monoken/form/2/

<問合先>
横浜売れるモノづくり研究会 事務局
(株式会社ともクリエーションズ内)
〒231-0004
横浜市中区元浜町3-21-2 ヘリオス関内ビル4階
TEL 045-226-3475 FAX 045-226-3476

メディア掲載情報

 

6月 10 14

ボランティアで人を婚すぶ ボランティアx交流=【ボラ婚】のご紹介

by staff

 

【ボランティアx交流=ボラ婚】

私たち【ボラ婚】は、横浜で【ボランティア活動を通じて人を婚(む)すぶ】という活動を行っています。

『生まれ育ち、住まい親しんだ横浜の地で、家族・隣人が互いに支えながら地域と共に生きる』を理念とし、『自然な出会いの増加』 と 『社会貢献活動の増加』 をミッションとして、『ボランティア活動を通じで人を婚すぶ』 活動に取り組んでいます。

横浜でこの活動を行うことにより、

  • 生涯未婚率の低下
  • ボランティア人口の増加

という社会的課題の解決を目指しています。

 

 

【ボラ婚】のきっかけ

身近に未婚の友達が数人いたことがきっかけでした。
とても優しい友達。けれど、控えめな性格であるため、自分を上手に異性にアピールできなかったり、なかなか良い出会いがありませんでした。

  • そんな人でもアピール・出会えるような場はないか?
  • いい人と出会えなくても満足度を高めることはできないか?

と考えたのがボラ婚のはじまりです。

そのような背景の中、2013年みなとみらいにて開催された 『横浜ウーマンビジネスフェスタ』 というイベント内の 『オープンデータ活用プログラム「女性の視点×オープンデータで、アイデアの種を育てよう!」』 というプログラムの中で、このアイデアが形となりました。

  • 横浜市は全国に比べて未婚率が高く、出生率が低い

という課題に対し、【ボランティアx交流】をいうイベントを開催すれば、

  • ボランティアを通じて、仲良くなれる
  • ボランティアをやるような人柄の人が集まる
  • ボランティアを一緒に行うことで、相手の素の一面も垣間見える
  • 結婚につながる出会いになるかもしれない
  • ボランティアを行うことで、学びや喜びを体験できる
  • ボランティアの人口が増加する

というメリットがある。とプレゼンを行いました。
結果、【ボラ婚】はアイデア賞を獲得し、同時に観客の方から「是非、実現してほしい」というお言葉もたくさんいただいたため、このアイデアを実現することにしました。

 

【ボラ婚】開催

2014年5月24日(土)に、みなとみらいにてボラ婚を開催いたしました。
『美しい港町横濱をつくる会』さまが主催されている、みなとみらい地区の一斉清掃に【ボラ婚】として参加させていただきました。

当日は晴天に恵まれ、出会いにふさわしい良い天気となりました。

32人の独身の男女が、青空の下、手には軍手をはめ、ゴミ袋・トングを持ちながらみなとみらい地区を談笑しながらゴミを拾いをする…という姿は、遠目には出会いの場には見えません。

しかし、

  • 大きなゴミを協力しながら回収する
  • 気遣いを大切にしながらゴミを分別する

など、行っていることはゴミ拾いボランティアですが、これは紛れもなく 『新しい形の出会いの場』 なのです。


ゴミ拾いボランティア後は、近くのイタリアンレストランを貸切り、懇親会を開催しました。ゴミ拾い活動を通し、すでに打ち解けている参加者は懇親会が始まる前から意気投合。ビンゴゲームや連絡先交換などで大いに盛り上がりました。

 

【ボラ婚】今後の予定

大盛況に終わったボラ婚。
次回は2014年10月を予定しています。
今後も、年に数回のペースでボランティアをしながら交流ができる場を提供していきたいと思っています。
ボランティア内容はゴミ拾いだけにとどまらず、様々なボランティア活動に取り組んでいく予定です。

※解決したいボランティア内容を募集しております。

 

【ボラ婚】~ボランティアで人を婚すぶ~

ホームページ: http://www.v-konkatsu.com/
運営団体: ボラ婚実行委員会

ボラ婚では、協賛・協力企業様を募集しています

ボラ婚実行委員会では、以下について企業様のご協力を必要としています。

  1. イベントの景品(スポーツゴミ拾い・懇親会の景品。物品・割引券・チケットなど)
  2. 参加者(ボラ婚にご参加頂ける独身者)
  3. サポート者
  4. 懇親会場所(ボランティア後の懇親会会場)

横浜をもっと良い街にするために、横浜に住まう人を増やすために、是非ご協力ください。私どもの活動の趣旨をご理解くださり、少しでもご興味・ご関心をお持ちになって くださった方は上記連絡先までご連絡をお願いいたします。

 

6月 10 14

春のイベントシーズン! 多くの出会いを楽しんでいます

by staff

 

春のイベント、がんばってます!

 
前回、こちらで報告させていただいた花まつりを皮切りに、春のイベントシーズンもがんばっています。今月は5月17日(土)『ほどがや花フェスタ2014』、5月24日(土)『保土ヶ谷区民DAY(横浜FC)』と、2週連続でイベントに出店させていただきました。両日とも夏みたいな日差しと気温でしたが、大勢の方にご来場いただき大変盛り上がりました。特に『保土ヶ谷区民DAY』に関しては、桑名屋さんの黒船カレー南蛮に長蛇の列。同じく栗山さん・保土ヶ谷せんべいさんもありがたいことに大忙しな出店となりました。

 

(クリックで拡大画像)

ほどがや花フェスタスタート
ほどがや花フェスタスタート

 

色々な人との出会いの場

 
今回、立て続けに出させていただいた『ほどがや花フェスタ』と『ほどがや区民DAY』、どちらも保土ヶ谷区民を対象にしているイベントなのですが、面白いことに客層が全く違います。極々、稀にどちらのイベントにも参加しているという方もいらっしゃいますが、多分、1%もいないと思います。

ほどがや花フェスタは、区役所の地域振興課が事務局になり、区民で実行委員会を作り企画・運営しています。出店は主に区内で活動する各団体や商店街加盟店が中心になります。主な広報媒体は横浜市広報保土ヶ谷区版やタウンニュースです。

 

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保土ヶ谷区民DAYで長蛇の列
保土ヶ谷区民DAYで長蛇の列

なので、来場者は広報区版やタウンニュースを読んでいたり、地域に興味関心がある方が多いです。一方、ほどがや区民DAYは、横浜FCが「ホームタウンプロジェクト」という活動の一環として行なっているイベントです。地域に根差したチームとして、年に一度、区内在住・在勤・在学者を無料で試合に招待する、というもので、もちろん、横浜FCのサポーターやサッカーファンが大多数なのですが、実は横浜FCと保土ヶ谷区が協働で企画・運営しているので、こちらの情報も横浜市広報保土ヶ谷区版に掲載されます。

つまり、同じ媒体で情報を発信しているにも関わらず、反応する人は全然違う、ということですね。(広報区版やタウンニュースが動機付けになっている人がどれほどいるのかにもよりますが)

ありがたいことに、毎年毎年、これらのイベントに出店させていただいているお蔭で、名物会が周知されつつある一方で、毎年毎年、出店しているにも関わらず新しい出会いもたくさんあります。地道な活動の繰り返しですが、イベント出店は「顔の見える関係づくり」をする上で、本当に大切なことなのだと改めて感じる次第です。

尚、本号が発行の頃には既に終了してしまっていますが、今週末(5月30日現在)の6月1日(日)には『ごうどいち』にも出店させていただきます!

ごうどいちの次回の開催は7月6日(日)10:00~12:00ですので、こちらも引き続きよろしくお願いいたします。

 

「本物のじじい」大好評!

 
前号で紹介させていただいた『オレたち、宿場を愛する本物のじじい』のポスター、早速、各店やイベント会場に張り出しています。お蔭さまで、まずまずのご好評をいただいており、各店主も大喜びです! 引き続き、色々な場面で露出して行ければと思います。その内(調子に乗って)チラシやハガキになる日も近い・・・、かもしれません。

 

(クリックで拡大画像)

「本物のじじい」輝いています
「本物のじじい」輝いています

 

レポーター プロフィール

山田浩和(やまだひろかず/Yamada,Hirokazu)

合資会社 笑う門 代表社員
保土ケ谷宿名物会事務局

1971年8月生まれ。獅子座のO型。保土ケ谷生まれの保土ケ谷育ち。
2003年、合資会社「笑う門」を設立。<オンリーワンの価値創り>のお手伝い。
会社設立時に制作したミニコミ誌がきっかけとなり、保土ケ谷のまちづくりにドハマリ。
現在、歴史や地産地消など、地域資源を活かしたまちづくりに幅広く取り組んでいる。

合資会社 笑う門 http://www.warau-kado.com

各社・各店・各個人が持つ十人十色・百人百色の目に見えない財産(経験・体験・知識・技術・ノウハウ・アイデア等)を活かした販売促進企画・商店街活性・まちづくりを推進しています。

業務内容 :
 ●シンボル制作
  ネーミング / シンボルマーク / ロゴマーク / キャラクター企画・制作
 ●広報(コミュニケーション)媒体制作
  ・簡易版会社案内(A4版三つ折り)制作
  ・ニュースレター(A4版)制作
 その他、フライヤー / ポスター / 小冊子 / 名刺 / のぼり旗 / エコバッグ / ユニフォーム、など

ヨコハマNOW掲載情報

 

6月 10 14

第22回 建築はどんな場合もオーダーメイドです

by staff

(株)北島建築設計事務所
北島俊嗣

建築はどんな場合もオーダーメイドです

世の中で販売されている品物は、工場で造られた大量生産品が多いですね。工場で同じものを生産することにより、無駄を無くし、人件費を縮小しながらも品質を確保してコストを下げることで、皆がその恩恵を受けることが出来ます。

一方お住まいやビルなどの建築界では、各々の敷地の位置や形、建物の用途や規模、ご予算や建主様のご要望がひとつひとつ全てにおいて異なるので、部品は工場で造れても、現地で作り上げる一品生産物でしか現代でも出来ません。

お客様の中には今でも、建物も大量生産品の一部で、ほとんど形が決まっていて、それを「購入」すれば安価に住まい等の建物を手に入れることが出来ると思われている方が居られるかもしれません。しかし、残念ながらそのお考えですと、損をされますのでご注意いただきたいと思います。

建築は「買うもの」ではなく「創るもの」なのです。

そして「販売されている建物」であっても、「創られたもの」と同様の金額の値札が掲げられたものも見受けられます。さらに建物は、何度も買い替えられるような金額の代物でもありませんし、すぐ誰でも簡単に取り替えられる品物でもありません。建築はどんな場合もオーダーメイドなのです。

ですから、お客様の敷地や予算の範囲で、どうぞご要望を叶えてください。売られている建物にお客様の生活やお仕事を合わせるのでなく、お客様の生活やお仕事に合わせた建築を創って下さい。その実現にご協力出来るのは、建築家だけです。


<箱根の別荘>
内部から連続するウッドデッキと庇を出来る限り自然に向かって延ばし、箱根の移り変わる自然を充分に満喫出来るバルコニーに設えた

 

「暮らしを大切にデザインする」建築家ギャラリーへ

横濱元町AA STUDIOは「暮らしを大切にデザインする」建築家たちのギャラリーです。それぞれの建築家の模型・作品写真など自由にご覧になれます。

横濱元町代官坂の中腹にあるカフェのようなギャラリーで、週末は交替で建築家がお迎えいたします。(建築家と話そう!)ホームページのスケジュールに担当建築家が掲載されていますので、カフェに立ち寄る気分で横濱元町まで建築家とお話にいらしてください。お待ちしております。

AA STUDIO ナビゲートサービス

中立的な立場で、建築家選びをナビゲートします。ご相談は無料。
その後ナビゲートをお申し込みの場合 申込金 ¥10,000
・面談コース 面談希望建築家と面談  無料(最大3名の建築家を指名)
・提案コース 具体的なプランの提案  ¥50,000/1提案(最大3名の建築家を指名)

AA STUDIO WEB http://www.aaplan.com/aastudio/
Craftman Shop Street Motomachi http://www.motomachi-cs.com/cm/shop/shop051

AA STUDIO パンフレットがダウンロードできます。(PDF)

青木恵美子 http://www.aaplan.com
荻津 郁夫 http://www.o-as.co.jp
北川 裕記 http://www.aalab.com/kitagawa/
北島 俊嗣 http://kitajima-architecture-design.com
栗原 正明 http://msak.asia
河辺 近 http://www.ken-ken-a.co.jp
鈴木 信弘+洋子 http://suzuki-atelier.com
高橋 正彦 http://www.takahashi-arch.com
廣田 裕一  
藤本 幸充 http://www.kamakobo.com
古川 達也 http://furukawa-arch.com/
松井 理美子 http://www.matsui2ar.com
水口 裕之 http://homepage1.nifty.com/eau/
山口 賢 http://www.amarterrance.com

 

6月 10 14

ヨコハマ・ディスコグラフィティー 第24回 第4章 フォークからニューミュージックへ 10

by staff


 
 

 

HEART&SOUL代表 原 正行

1958(昭和33)年9月7日横浜生まれ、12歳よりギターをはじめ17歳からミュージシャンとして活動。39歳の時に念願だったライブハウスを開業、現在は関内駅北口駅前に60年代から80年代の洋楽ヒット曲を演奏するライブハウス、ハート&ソウルの経営者。他にもミュージシャンとして演奏活動、作曲、プロデュース等、幅広く活動している。

 

第4章 フォークからニューミュージックへ 10

1979年~1980年  80年代への序章

 70年代に様々なジャンルで素行錯誤が繰り返されロック、フォーク、ジャズ、ラテンなどがクロスオーバーし、演奏テクニックも行きつくところまで行き着いた感がある70年代終わりから80年代にかけて。その反動で生まれてきたのがパンク、ニューウェーブの波、そしてテクノロジーの進歩の果てに生まれたのがテクノポップでした。

 又、一般的なポップの音楽市場もバブルへの序章の時代として歌詞やサウンドはどんどんソフティケイトされてAORなどが確立されていきます。

パンク、ニューウェーブ

 ロックがどんどん商業化されていきメジャー発売元の意向で自由な表現の枠をはめられてロックの精神(反体制)を失いつつあった79年頃。それまでの小難しいテクニックを否定、単純明快なコードとリズムを小編成によるバンドで突き刺すようなハードなサウンドで演奏し反体制の歌詞を叫ぶように歌ったのがやがてパンク、ニューウエーブなどと呼ばれるようになります。海外ではロンドンからセックスピストルズ台頭から始まりニューヨークパンクまで飛び火、日本でもそれに影響されたバンドなどが自主レーベルから作品を発表、ミニコミ誌などで若者にアピールし小さいライブハウスなどですこしづつ波を広げていきました。やがてその波はメジャー系レーベルも見逃すわけにはいかず東京ロッカーズやアナーキー、じゃがたら、などがデビュー。関西や九州までその影響を及ぼし、博多からはモッズなどが登場し “めんたいロック” などと呼ばれていました。

テクノポップ

 78年のYMOがデビューし79年に2ndアルバムが140万枚を売る大ヒットを記録するとテクノポップが一気にブレーク!もともと60年代からこつこつ進歩を遂げてきたシンセサイザーミュージックがこの後の音楽世界を変えて行きます。

 “シンセサイザー” はコンピューターから生まれた音を進化させこの世に存在するあらゆる音を再現する事が出来、創造できる限りの音を自由に生み出せる夢の楽器として知られるようになり、やがてムーグシンセサイザーなど楽器として発展しました。

 60年代後半はビートルズなども “ヒアカムザサン” などで実験的に使用、70年代はプログレッシブロック(ELP,イエス、キングクリムゾン)など知的なミュージシャンたちの手によって名作が生み出されています(日本でも富田勲が世界的に注目されました)。最初は一度に1音しか出せないことやその機材の膨大な量や購入予算、それを操る事の難解さが障害となりましたが時代と共に少しづつ発展を遂げます。

 その後YMOの世界的ヒットやディーボがストーンズの “サティスファックション” をテクノ風にアレンジヒットさせると80年からテクノポップ旋風が吹き荒れることになり、シンセサイザーも身近な楽器として進化していきました

AOR

 時はバブルに向かう頃、景気の上昇に乗り商業ベースの音楽の世界でも肉弾相打つテクニックの応酬だったロックの世界から余裕のある音がもてはやされる時代になります。

 TOTOがバックを勤めたボズ・スキャッグスの名盤 “シルクディグリーズ” が1976年発表されてから耳心地の良いロックが次々登場。80年代を迎える頃にはAORなどと言われて一つのジャンルとなっていきます。

 AOR=アダルト・オリエンテッド・ロック。クロスオーバーの時期を経たテクニックをベースにしていることが基本。うるさ過ぎないキーボード主体のサウンドでギターも突き刺すようなファズ(歪んだ音)ではなくソフト・ディストーションを使用しリズムも乗りやすく軽い16ビートが基本。日本の広告代理店が “大人向けのロックサウンド” という意味で名づけられたそうで欧米では “アダルトコンテンポラリー” と言われ “AC” とも言われます。ボビーコールドウェルの “風のシルエット” も歴史に残る名盤で、ほかにもクリストファークロスや76年以降のシカゴ、トトなどがその代表とされます。

1979年のヒット作品

 「アイムセクシー・ロッドスチュアート」 「マイシャローナ・ナック」 「ブレックファストインアメリカ・スーパートランプ」 「ヤングマン・西城秀樹」 「魅せられて・ジュディオング」 「関白宣言・さだまさし」 「ひとり咲き・チャゲ&飛鳥」 「大都会・クリスタルキング」 「贈る言葉・海援隊」 「さよなら・オフコース」

 

横浜、街と風(社会人編) 10(25)

オべーション

 2ヶ月もするとなじみの客も付きだし「原ちゃん」、「ハラボー」などと呼ぶ人も現れ店や仕事にもなれて来ました。前任のマンタローも店をやめメジャーを目指すため東京へ行き、やがてプロビデンスのステージは自分ひとりに任せられる事に。又この頃吉野家もやめ、この仕事一本で行こうと決心します。

 この頃あまりにひどいギターを使っていたので店に頼み前借りをしてギターを買うことにしました。

 この当時はアコースティックギターはマイクスタンドについたマイクをサウンドホールにあてて音を拾っていましたが6本の弦をバランスよく拾うのは至難の業でいつも低音がボーンといったり高音がキーンといったりさんざんでした。アコースティックギター専用のボディに貼り付けるタイプのバッカスベリーなどのマイクもありましたが音が薄っぺらい感じになります。そこで買ったのは当時注目を浴び始めていた “オべーション” 。右手側のブリッジの所にマイクが内臓されてありアコースティックの質感を損なわずエレキのようにバランスよく音を拾ってくれます。ポールマッカートニーがUSツアーで使用して有名になり、デイブメイソンの日本公演の時使っていてこれが欲しいとずっと思っていましたが、この時念願がかないエレクトリックアコースティックタイプのオべーショングレンキャンベルモデルを買いました。

 生でもエレキでも使え弾きやすく、音程もしっかりしていて、練習にのめりこみました。この頃がギターの腕が一番上達した時期で、楽器はいい物を使えば上達は早いと理解しました。

突然

 店の店長やスタッフとも仲良くなり、しょっちゅう仕事が終わると飲みに行きました。野毛の妖しげなスナックやディスコ、店長さんには福富町の焼肉屋でよくご馳走になりました。そのまま東口のスカイビルにあったサウナに泊まりそのまま仕事に行ったり家に帰らないのはよくありました。

 ある正月の朝、2日ぶりに自宅に帰ると誰もいません。しばらくすると電話がなり、とると父が出ました。

 「お母さんが危篤だからいますぐ病院に来い」と、、まさか、、とるものもとりあえず病院に行ってみると母の顔にはすでに白い布がかぶせてありました。なんという親不孝物、母の死に目に会えなかったのです。

 この当時母はリハビリの効果もあり、かなり回復していてしゃべる事や半身は不自由でしたが壁使いに歩けるくらいになっていました。一人でストーブのある部屋でテレビを見ていた母は隣の部屋の電話を取ろうと歩いていったようでその電話の前で倒れていたそうです。父が帰って発見し、すぐに病院へ連れて行きましたが手遅れだったようです。

 母が元気だった頃のふっくらとした顔とは比べ物にならない位にやせた母の顔。死に目に会えなかった自分の愚かさと母にために自分は一体何をしたんだろうと、そんなことばかり考えいつまでも涙がとまりませんでした。

別れ

 母は大正15年(昭和元年)生まれ昭和53年に亡くなっていますから53歳でした、裕福な家で生まれ何不自由なく育ち、戦時中は大変だったようですがピアノに和歌を愛し、優雅に過ごした後、嫁いでからは一転、商売人の嫁として昼夜なく働かせられ苦労の半生だったと思います、短かったですが店をたたんでから家族4人で過ごした3年間は母にとって最高の時間だったのではないかと思っています。その後46歳の時脳溢血で倒れてから闘病生活が始まりました。

 葬儀の時母の妹が言っていましたが「姉さんは幸せだったと思う、私は良い家に嫁いだけどもし寝たきりになったとしても(私の夫は)ここまで面倒みてくれるとはとても思えない、姉さんは本当に幸せだったと思う」と。。。子供の目から見てもそういう意味では母は幸せだったと思います。ヘルパーさんの怠慢から床擦れが出来、それ以降他人を信じられず入院中からずっと病院と家を行き来し、下の世話をし、退院してからは食事からリハビリまで面倒を見ながら子供達を育てた父。ここで彼はこの仕事から解放されました。そんな2人を見て神様はそろそろこちらへおいでと母の手を引いたのでしょう。約7年間の壮絶な闘病生活でした。

HEART&SOUL代表 原 正行)

 

HEART&SOUL
〒231-0014 横浜市中区真砂町3-33 CERTE11階
営業時間
平日:OPEN 19:00 CLOSE 4:00 LIVE START 19:50~
休・祝日:OPEN 18:00 CLOSE 24:00 LIVE START 18:40~
TEL:045-664-5569
JR関内駅徒歩より1分
地下鉄関内駅より徒歩1分
Websie http://www.heartandsoul-live.com/

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6月 10 14

瀬をはやみ 岩にせかるる 滝川の 割れても末に あはむとぞ思ふ

by staff

♪瀬をはやみ 岩にせかるる 滝川の 割れても末に あはむとぞ思ふ♪


絵・千絵崇石
 

 読み人:崇徳院(すとくいん)

 現代語訳・・・激しい思いが 岩にせき止められ 今は 別れている二人だが 滝川の水が再び出会って ひとつの流れになる様に あなたとの恋を貫くつもりです。 by 千絵崇石

 この歌は崇徳院が20代の頃に作りました。きっと純粋な恋の歌だったのだと思います。その後の彼の人生があまりにも悲惨だったために、色んな意味に捉えられて・・・私も崇徳院が20代の頃に詠んだ歌だと知らなければ、「保元の乱」で島流しにされた無念の土地でいつか必ず都に戻って以前の自分の地位を取り戻して見せるぞ! と詠んだ歌に違いないと思っていたでしょう。

 百人一首の中で島に流された天皇3名のうち崇徳院は関係の複雑さでは筆頭だと思います。彼は鳥羽天皇とお妃さまの待賢門院璋子との間に生まれた子供ですが、それは表向きの事、母親の璋子さまは、鳥羽天皇のおじい様 白河法皇の養女でした。7才の時に養女となってとても可愛がられ、その後彼女が成長してからは恋人となって白河法皇の寵愛を一身に受けた女性でした。

 彼女が孫の鳥羽天皇のお妃になった後も、法皇は彼女と時々会って、逢瀬を楽しみます。
そして生まれたのが崇徳天皇。
彼が白河法皇の子供だと言う事は、口には出さなくても誰もが知っている事実でした。

 さて崇徳天皇、本人はどんな少年時代を過ごしたのでしょう。白河法皇の力が絶大でその法王の庇護のもと、母の璋子から愛されて、その上、彼自身は素直に父としての鳥羽天皇を慕っていた様です。そんな青年時代の恋の歌が百人一首に残されたのですが。

 白河法皇が無くなって、鳥羽天皇に新しいお妃様が現れて その女性(美福門院)が鳥羽天皇の寵愛を一身に受けるようになってから物事は次第に暗雲を孕んでゆきます。

 崇徳天皇は美福門院と鳥羽上皇の息子を養子にして、彼を近江天皇にして自分は退きます。その時に譲位の宣名が皇太子ではなくて皇太弟となっていて 自分が院政を引く事が出来ない事を知ります。きっと図られた様な想いを味わったに違いありません。

 その後近江天皇が17歳で崩御した時に、彼を呪詛したという疑いがかけられて鳥羽法皇と美福門院の憎しみを買います。そして次の天皇は自分の息子になると期待していましたが、残念、美福門院の養子になっていた自分の弟が後白河天皇となりました。

 その後鳥羽法皇が崩御して、駆けつけた崇徳上皇は、法皇の死に顔も見せてもらえず門前から追い払われます。そして又謀反の疑いをかけられて、まるで罠にはまってしまったようにあれよあれよと「保元の乱」がおこり、負けて島流しへ。

 崇徳院とネットで引くと「怨念」と「落語」という二つの言葉にヒットします。
暗い歴史とは全く正反対の落語の方はまさに楽しく可笑しい恋物語。
崇徳院も天国でこの落語を聞いて不条理な過去を忘れて ぜひ!笑い転げてほしいです。

(早苗ネネ♪)

 

早苗ネネさん コンサート情報

公演名 京都 高台寺音楽祭
日時 6月14日 午後6時半開場 午後7時開演
出演 早苗ネネ(歌) WALTER SCHMID(ギター) 濱本遊水(映像)
入場料 ¥2,800円
高台寺 http://www.kodaiji.com/index.html

 

早苗ネネさん プロフィール

木々や鳥や魚や精霊…人間以外の存在達との交流が当り前に語れるくらい、いのちのひろがりに気づくと、共に生きている喜びや、苦しみや悲しみにもナイーブになる。

心と野生がひとつながりになると……こんな風に人は年を重ねられる。ひとりひとり、ユニークにもっと自分になれる。

早苗 Nene さんは、そういう人生の先駆者です。 感性を解放しながら、40代で高校生に仲間入り卒業後、マウイのカレッジに留学中、突然半生記が受賞しました。

そんな新たなシーズンを迎えて、今エッセンスを分かち合いたい。

<天性の歌い手>というだけでなく、その存在感、溢れる活性のバイブレーションは、光のシャワーのよう。彼女と語り歌い、魂の成長を旅している現在の、自分の位置を確かめてみませんか?

早苗ネネさんHP

 

6月 10 14

アメリカの音楽『ROCK’N ROLL』に夢中になり、そのすべてを吸収したいと思った。 ロックミュージシャン川戸昌和さん

by staff

 『ヨコハマ・ハイスクール・ホットウェーブフェスティバル』を覚えていますか? 1981年から1998年にかけて、日本のロック発祥の地といわれる横浜で、出演も運営も全て高校生によって行われたバンドコンテストです。横浜・神奈川に限らず、全国から高校生バンドが集まり「音楽の甲子園」と呼ばれたこのコンテストから、多くのミュージシャン、音楽関係者が生まれました。今月はロックミュージシャン川戸昌和さんのお話です。

ミュージシャン 川戸昌和さん
ミュージシャン
川戸昌和さん
 
お名前 川戸 昌和(かわと まさかず)さん
ご出身 横浜市戸塚区
ご年齢 1965年2月生まれ
お仕事 ミュージシャン
ファッションブランド『SPACY DUCKY』プロデューサー
ご趣味 横浜の街で時間を過ごす事
(リラックスできるから)

音楽を始めたきっかけはビートルズの「イエスタディ」

 中学生の頃、母親のカセットテープでビートルズの「イエスタディ」を聴いて驚いた。この新鮮な驚きが音楽活動を始めるきっかけとなった。ビートルズが生まれた「リバプール」が港町だということを知り、港町「横浜」に住む自分と何か近いものを感じた。 そして彼らが「ワーキングヒーロー」だということ、労働者のバックボーンを持つことに共感が持てた。

 コンサートに行くとか、レコードや音楽情報誌を買うとか、楽器店に出入りするとか、自分から何かをしなければ、音楽情報を得るのが難しい時代だった。ビートルズの音楽や文化について、自分なりに調べていくうちに、彼らが底抜けに明るい1950年代のアメリカのロックンロールに憧れていたことを知り、その音楽や文化に関心が移っていった。

 港町『横浜』は、開港当時から外部のものを貪欲に取り入れていく歴史がある場所だと思う。横浜人はそのDNAを受け継いでいると思うし、自分にもそのDNAが受け継がれていると思っている。アメリカの音楽『ROCK’N ROLL』に夢中になり、そのすべてを吸収したいと思った。

母と二人で行ったポール・アンカのコンサート

 1950年代、本牧のベースで働いていた母は“ゴールディンエイジ”のアメリカ音楽のファンだった。一緒にポール・アンカのコンサートに行ったこともある。当時は、こういったジャンルの音楽を聴いたり、演奏したりすると『不良』というレッテルを貼られたりもしたが、その点、フレキシブルな感覚を持つ親で幸いしたと言える。母親が良き理解者であり、最強の味方であった。

 放課後、仲間と集まっては『練習』に明け暮れていたので、『不良』になる暇なんかなかった。当時、クラスでギターが弾けるだけで人気者になれた。ギターを弾いていると人が集まってきた。中学の時に初めて作った曲は、英語のフレーズを入れた “But, I need you”。オリジナル曲を作る者など周りにいなかった。その頃から、目立つのが好きだった。

 曲を作り、曲に合わせて詩を書くスタイルが主流だが、「あるべき論」を歌に入れるのは好きではない。 「こうだったら素敵だ」と自分の考えを自然体で書いている。

ヨコハマ・ハイスクール・ホットウェーブ フェスティバルで出会った仲間たち

 毎年、横浜スタジアム (※注1) で高校生が運営をし、高校生のバンドが演奏をし、高校生が熱くなった、音楽の甲子園とも呼ばれたヨコハマ・ハイスクール・ホットウェーブ フェスティバル(通称:ホットウェーブ)※注2 が開かれた。あの時出会った人が、今でも音楽仲間(ミュージシャンやプロデューサー、スタッフ)として活躍している。幸せなのは今でも一緒に仕事をする機会があること。 時を経て、当時出場するために夢中で『練習』をした。フェスティバルは『競い合い』というよりは同じ夢を持つ『仲間』の集まりに変わっていた。

 ホットウェーブは、不況のあおりを受けて、スポンサーや協賛金が集まらなくなり、1998年に18年の歴史に幕を下ろしたが、できることなら協力者を募って再開したいと思う。多感な思春期に、お互い協力し合って1つになる大切さを学べた場所だった。

  • 注1) 桐原書店発行の高等学校英語検定教科書にコンテストの模様が写真入りで題材としてとりあげられている
  • 注2) 第1~2回大会は横浜市教育会館、第3~5回大会 予選は横浜市教育会館、決選大会は神奈川県民ホール、第6回以降 決選大会は横浜スタジアムで行われた。

 

主な出身者 ・・・ウイキペディアから抜粋

  • Dramatic 50’s
  • COME ON BABY
  • A-JARI
  • いんぐりもんぐり
  • HOTCAKE (夢工場)
  • Hungry Angry Band
  • SIAM SHADE(1989年優勝「POWER」はSIAM SHADEの前身)
  • 堂島孝平
  • THE PEPPERMINT JAM
  • 工藤慎太郎

ぶれないのがカッコいい?!

 21歳の時にロックンロールバンド『Dramatic 50’s』でテイチクレコードよりメジャーデビューしてから今もこのスタイルは変わっていない。ヘアーから靴のつま先までがロック、楽器(ギター)もロック・。・。・。歩く姿も、車もロック、ちっともぶれていないからカッコいい! まさしく、アメリカングラフィティのような世界観で青春時代を過ごし、1989年に憧れのアメリカに渡った。

 興味ある事をとことん追求していく気質だから、カリフォルニアでは人種差別や貧富の差、文化や習慣の違いに戸惑い、夢と現実の差を実感することになる。本来の明るさで機会を見つけては現地のミュージシャンとセッションを続け、経験を重ね、新曲を携えて帰国。帰国後は再び横浜で音楽活動を行い今に至っている。

 また、帰国後、アメリカで知り合った仲間のもと、独自のスタイルを演出するファッションブランド『SPACY DUCKY』を開いている。

戸塚出身のミュージシャンが「地域振興につながる音楽祭をやろう!」と立ち上がった!

 第1回戸塚音楽祭「Rockin‘TOTSUKA 75」7月12日(土)18:30~ 戸塚公会堂

 戸塚で生まれて育った。戸塚区民として戸塚を今まで以上に盛り上げていきたいという想いで「音楽祭」を企画。折しも、戸塚区政75の年という節目の年だから、題して「Rockin’ TOTSUKA 75」。

 「横浜銀蝿」のVo&Gでもあり、現在では「翔&BLACKBIRD」でも活躍する翔さん、自分のバンド「Masakazu Kawato & SPACY DUCKY」の仲間達、そして女子高校生のギターリストちっちと一緒に思い出の場所でもある戸塚公会堂のステージに立つ。ちっちが16歳だから、翔さんと自分は父親世代ということになる(苦笑) この歳の差を逆手にとって世代を越えて楽しめる。。。そんなステージにしようと思っている。

「Rockin‘TOTSUKA 75」公式サイト: http://www.rockin-yokohama155.com/

 『ROCK’N ROLL』というと「分からない」と言われることもあるが、往年のロック歌手が来日しTVに出ると「あの曲なら知っている」と思うのではないか? コマーシャルにも使われ耳に馴染んでいる曲もある。ただそれが『ROCK’N ROLL』だと知られていないだけの話である。

 時代はIT化され、音楽が身近になった分、人はコンサート会場に足を運ばなくなった。スピーカーやイヤホーンから伝わる音と、会場の空気を振動して伝わってくる生音の迫力は違う。是非、7月12日は生演奏の迫力を体感し『ROCK’N ROLL』のファンになって欲しいと思う。

あなたにとっての横浜は?

 生まれ育った街が好き。第1回戸塚音楽祭では戸塚八坂神社の「例大祭」とコラボする。 ※注2
毎年7月14日に八坂神社例大祭で行われる「お札まき」は、約300年も続いている。そのお祭りの前々夜祭として7月12日を開催日にした。

 今後も戸塚出身のミュージシャンとセッションしたり、戸塚を盛り立てるイベントに参加したいと思う。

 自分にとって横浜は「母の腕で眠っているくらい落ち着ける場所、そして、いつも自分の心を高揚(エキサイト)させてくれる場所」だと思う。

注2) お札まき: http://www.city.yokohama.lg.jp/totsuka/…
八坂神社: http://www.kanagawa-jinja.or.jp/…

<Special Thanks>

 

6月 10 14

中学生の時にカメラマンになることを決意した。 シネマトグラファー・フォトグラファー服部徹夫さん

by staff

 昭和の高度成長期、道路が整備され、商店街や町のスーパーマーケットが繁盛して、町に活気があった。人々にほんの少し余裕が生まれ、趣味を楽しむようになった。映画、歌謡曲、新聞、雑誌、そしてテレビが流行を発信していた。カメラブームの到来。テレビの一眼レフカメラのCMがカッコよかった。自分のカメラが欲しいと思った。。。

シネマトグラファー・フォトグラファー 服部徹夫さん
シネマトグラファー・フォトグラファー
服部徹夫さん
 
お名前 服部 徹夫(はっとり てつお)さん
ご出身 横浜市磯子区
ご年齢 1960年代生まれ
お仕事 シネマトグラファー・フォトグラファー
CMの撮影を主に、映画、PV、講師など
事務所:(有)服部徹夫事務所
Webサイト hattomoviephoto.jimdo.com/
Facebook www.facebook.com/tetsuo.hattori.927

磯子区岡村生まれ 中学生の時にカメラマンになることを決意した。

 私は、図工や音楽が好きでピアノを習っていました。時代はちょうど高度成長期に入ったころで、TVからは一眼レフのCMが流れ、そのカッコよさが手伝ってか、カメラが大ブームになりました。 カメラが趣味の伯父が、白黒の(8x10)写真を見せてくれたのが写真の道へ進むきっかけになりました。 自分のカメラが欲しくて、小遣いを貯めて、中学の時に野毛の「大貫カメラ」で「ミノルタXE」を買いました。

 当時は、フィルム代も現像代も高かったので、写真を撮るというよりも、カメラを持っていることが楽しかったです。

 映画が好きで、自転車で30分程の所にあった名画座(黄金町日劇)に、3本立ての映画をよく観に行きました。

 映像と写真の世界に飛び込みたくて、写真技術を学べる学校に進学したいと思いました。 当時から評判が良く、多くの有名な写真家がここの卒業生だと知り、私は東京綜合写真専門学校(横浜日吉)を選びました。

東京綜合写真専門学校: http://www.tcp.ac.jp/

修行時代から独立へ

 東京綜合写真専門学校では、技術的なことと表現の仕方を学びました。 「ユニークな表現力を育てるのには、一般的な常識から自己を開放しなければならない」ということで、被写体に極端に接近して標準レンズで写真を撮ったり、いろいろと戸惑うことが多かったけれど、それはまた楽しい経験になりました。

 美術の学校のようにデッサンを習ったり、民俗芸能や古典芸能を学んだり・・・自分の感性を磨く勉強が続きました。本科は3年間で終了なのですが、私は研究科に進みました。講師の中にフリーランスで仕事をしている方がいて、カッコいいと思いました。いずれ自分もフリーランスカメラマンになりたいと思いました。また、写真から動画へと興味が広がっていきました

 助手時代は35ミリ映画用カメラは30kg以上もあり、それを担いで現場で働いていました。助手時代から今もそうですが、何でも吸収しようと一生懸命でした。 仕事は、丁寧にすることを心掛けています。

バブル・リーマンショックそしてデジタル化、脱TV・・・

 私がアシスタントをしていた頃はちょうどバブル期だったので、上場企業のCMが世界を引っ張って行っている感がありました。季節を先取りし、購買意欲を高めるために、南半球にまでロケに行き、希望する季節の映像を手に入れようとしました。時間とお金を費やすので、CMには季節感があり、映像は美しく、いつまでも人の記憶に残る作品が生まれました。そして、CMから歌や流行語が生まれました。

 私が独立した頃は、バブルの崩壊、リーマンショック、株安・・・企業は、コマーシャルにお金と時間をかけなくなりました。若者の脱TV現象、趣味の多様化もあり、ITのサイトでワンポイントに個人向け販促をするのが主流になりつつあります。

 社会全体が安い・早い・ 映像の良し悪しよりも、コストパフォーマンス、数字の良さが求められる時代へと変化しました。それによりお金や時間をかけたロケは好まれなくなります。デジタル技術により画像を修正することも可能になり、曇りの日に撮ったものが、まるで晴れた日の出来事のように加工できるようになりました。話題性のあるCMが少なくなりました。

 カメラの性能は、新機種が発表されるごとに良くなり、1億総カメラマンの時代になりました。 デジタルカメラの機能も最初は複数の操作が必要でしたが、それが2~3の操作で良くなり、やがてはONとOFFの2つのボタンさえあれば電子頭脳がコントロールし、それなりなものが写せるように成りつつあります。

写真への想い

 シャッターチャンスの一瞬はまるで奇跡のようです。被写体の動き、光と影、使ったレンズやフィルム、自分の呼吸、全てのチャンスが1つになった時に満足するものが生まれます。丁寧に仕事をするには時間も必要です。仕上げの際に最新の技術で多少手を加えたりもしますが、その技術が全てではないのです。技術に頼りすぎるとうすっぺらなものに仕上がってしまう気がします。


写真集「Landscape」

CM撮影の話

 劇映画「ワンダフルライフ」(是枝裕和監督)の撮影助手を最後にフリーランスカメラマン(撮影監督/DP)として独立するのですが、最初の仕事がミノルタカメラのCMだったことが嬉しかったです。

 CMの仕事は、広告代理店とCM制作会社がプランニングをクライアントに出し、商品のイメージに合ったキャスティングが行われます。 スタッフが決まると、撮影は、海外ロケ、国内ロケ、スタジオ撮影等、1日~長い時は1カ月位の期間で行われます。数多く撮影したCMの中でも「ローソンの高島店長シリーズ」と「プレステーション」の仕事は、現場優先で、自分の個性を活かすことができ、好きなCMになりました。

 映画では、タイトルバックに監督はもちろんのこと助監督やアシスタント等の名前が出ます。CMは誰が撮影したのか分かりません。しかし、業界紙には名前が出るので、CMを見て気に入ってくれた所から、私に仕事の依頼が来るようになりました。

 ムービーカメラマンになるのにも、3rdアシスタントカメラマン、2ndアシスタントカメラマン、1stアシスタントカメラマンと10年近く掛かります。

 アメリカでは、助手(アシスタント)が職種になるほど、賃金も待遇も保障されています。ですから、50代の人が「助手」として仕事に誇りを持って働いています。

 日本では助手の仕事は多くあります。助手が人手不足なのです。逆ピラミッド現象なのです。独立したカメラマンは多くて、働く場所が限られますから、10年もかけてカメラマンになったとたん仕事が入らないこともある厳しい世界です。

 私は鋤田正義氏に師事できたことが実に幸運でした。鋤田正義氏はデビィッド・ボウイや数々のミュージシャンの写真で有名です。

鋤田正義氏のHP: http://www.sukita.jp/

それでも創造することは楽しい

 私は、映像カメラマンとして、仕事優先の人生から、少し周りを見る時間が生まれて、その時間を大切にしたいと思うようになりました。若い頃、仕事や遊びで世界中の色々な人にお世話になり、自分がそうだったように、いずれバックパッカーが泊まるようなシェアハウスをやって、恩返しをしたいと考えています。

 また、映像や写真を勉強したいと思っている若者に、自分の持っているものを伝えたいと思い、「動画表現」を東京綜合写真専門学校で講師として教えることになりました。プロを目指すことは容易な道ではないと思いますが、それでも創造することは実に楽しいことでもありますから・・・・。

 これからも「クオリティ重視」「予算なし」でも頑張ります(笑)。


チベット、青海省にて

あなたにとっての横浜とは?

 下町のにおい、昭和のにおいがする「野毛」が好きで、いつもカメラを持って徘徊しています(笑)。 野毛の小さな居酒屋や食堂など店の写真、おやじさんやおかみさんの写真を撮ったりもします。 「野毛」の写真集、写真展覧会のようなことが実現できたら面白いと思いますね。

 また、岡村出身者や在住の、それぞれの業界で活躍している人達を写真や映像で繋げたいですね。

 私にとっての横浜はレンズ越しに見て面白い街です。

 

服部徹夫氏の作品

TV/CM


(三菱冷蔵庫)

(日清食品(どん兵衛))

(ECC外語学院)
サントリー(ペプシコーラ) キリン(ラガービール) 明星食品(チャルメラ)
マクドナルド ハウス食品 大塚製薬(ソイジョイ)
ローソン ライオン 資生堂
ミノルタ オリンパス パイオニア
新日本石油 トヨタ自動車 ダイハツ
ホンダ 三菱自動車 NTT東日本
NTTドコモ 朝日新聞 読売新聞
東京電力 JR東日本 アフラック
VISAカード ソニープレイステーション オリエンタルランド、等

劇映画

蒼い夏(2003年) 監督:松浦徹   主演:大沢あかね
青空のゆくえ(2004年) 監督:長澤雅彦   出演:多部未華子 他

TVドラマ

NTVドラマオープニング 「ボーダー」   中森明菜 他
TBSドラマオープニング 「to Heart 恋して死にたい」   堂本剛、深田恭子
「チープラブ」   反町隆史、鶴田真由

PVの仕事

クレイジーケンバンド(Barrio chino 他)等
坂本真綾(マメシバ)等

クレイジーケンバンド(レコード)のロケ地(三殿台遺跡)

作品集

ポラロイドギャラリー写真展(1998年)ランドスケープ
太陽と月のはざま写真集 (2001年)
オリンパスギャラリー写真展(2005年)ランドスケープ

(文:高野慈子 カメラ:服部徹夫)

 

6月 5 14

ブラジル・ポルトガル語のレッスンがiPhoneで出来る! 無料アプリ「papagaio(パパガイオ)」

by staff

 

いよいよ開幕!現地の言葉で一層盛り上がる! 「papagaio(パパガイオ)」にサッカー応援フレーズが続々登場

株式会社アニモ(所在地:横浜市中区 代表取締役:服部一郎)は、AppStoreにて好評提供中のiPhoneアプリ 『ブラジル・ポルトガル語発音レッスン 「papagaio(パパガイオ)」 』 を5月23日にバージョンアップ致します。 W杯開幕が目前に迫り、連日サッカー日本代表や開催地ブラジルの情報が伝えられる今、  “ブラジル・ポルトガル語” をちょっぴり覚えてみませんか? iPhoneアプリ 「papagaio」 では、5月から6月にかけて 「頑張れ!」 「ナイスパス」 「行け!日本」 などのサッカー応援に役立つフレーズ、「乾杯」 「おいしい」 「(ブラジル料理名)」 などのスポーツバー・ブラジル料理店で役立つフレーズを追加していきます。お手本の発音と自分の発音とを目で見て耳で聴いて比較でき、簡単にネイティブな発音を身に着けることができます。今回のバージョンアップでは、元気に発音できると画面上でシュートが決まるというサッカーにちなんだ演出を追加しました。ぜひどんどんシュートを決めて、「使えるフレーズ」 「伝わる発音」を覚えてください。ちょっとしたブラジル・ポルトガル語をクールに披露できれば、あなたへの注目度も急上昇、仲間とのサッカー観戦も一層盛り上がるはず!

ブラジル・ポルトガル語のレッスンがiPhoneで出来る! 無料アプリ「papagaio(パパガイオ)」

この情報のPDFファイルをダウンロードできます(PDF 600K)

ブラジル・ポルトガル語のレッスンがiPhoneで出来る! 無料アプリ「papagaio(パパガイオ)」

この情報のPDFファイルをダウンロードできます(PDF 1200K)

株式会社アニモHP: http://www.animo.co.jp/

 

5月 26 14

国際色豊かなジャンルのダンスチームが交流するダンスの祭典。中区ダンスフェスティバル2014

by staff

 

国際色豊かなジャンルのダンスチームが交流するダンスの祭典。中区ダンスフェスティバル2014

 

このイベントの詳細はこちらからご覧ください(PDF 300K)

 

5月 21 14

がんばろう ふくしま! 測って安心! 食べて応援! 福島県川内村復興の現状報告会

by staff

 

福島県川内村復興の現状報告会開催のお知らせ

皆様 平素は横浜流行通信ヨコハマNOWをご覧いただきまして厚く御礼 申し上げます。
このたびは、「福島県川内村復興の現状報告会」開催のお知らせをさせていただきます。
この報告会は、ヨコハマNOWで「コラム»横須賀詢」と「横浜スタイル»横浜ブックス」を連載していただいています横須賀健治さんが所属している福島県放射能風評被害対策推進協議会の主催によるものです。
内容は、未曽有の災害である東日本大震災からいち早い復興をとげている福島県川内村の現状を、講師に前福島県川内村復興対策課課長 井出寿一 様を迎え、震災当日から現在に至るまでの取り組みなどを語っていただきます。
3.11の東日本大震災後の福島県川内村の状況は、多くの新聞やTV等のメディアよって報道されておりますが、復興の陣頭指揮を執っていらっしゃいました井出様から直接お話をお聞きすることで、福島県川内村の「今」を感じていただければ幸いです。
当日は福島県の特産品(野菜など)を環境&フードテスターで測定する実演デモも行うことになっております。
災害を風化することなく、被災地を励ましていきたいと考えておりますので、平日の開催ではありますが、多くの方のご来場をお待ち申し上げます。
何卒よろしくお願いいたします。

開催概要

と き 6月11日(水)
プログラム 測定体験会 一部:12:00~14:00 二部:15:30~17:30
現状報告会 14:00~15:30
講師:前福島県川内村復興対策課課長 井出寿一 氏
会 場 川崎市産業振興会館 1階ホール
〒212-0013 神奈川県川崎市幸区堀川町66番地20
Tel.044-548-4111
アクセス アクセスMAP
特 典 当日は、「応援ふくふくパック」(福島県の特産品詰合せ)を1パック1,000円で販売いたします。
※応援ふくふくパックは事前に詰合せする ものすべてを環境&フードテスターで測定し不検出を確認します。また、当日ご購入いただく際に環境&フードテスターで測定して不検出を確認する事が出来る体験会も実施します。
主 催 福島県放射能風評被害対策推進協議会(一般社団申請中)
後 援 一般社団法人 和歌山環境エコ・アクション・ポイント協会
NPO法人 神奈川中小企業活性化センター
東日本応援隊(中小企業家同友会有志の会)
株式会社日陶科学 株式会社メジャーテックツルミ
ヨコハマNOW
お問合せ 福島県放射能風評被害対策協議会 関東地区担当
(株)メジャーテックツルミ/(株)アークメジャー
川崎市川崎区大島2-7-10 (担当連絡先 北村 TEL:044-211-2008)
チラシ 詳細は、チラシ(PDF/580k)をご覧ください

 

5月 10 14

我が家の朝ごはん

by staff

 

「和食」がユネスコ無形文化遺産に登録されて、日本の食文化が世界的にも高く評価されています。

ところが、日本人が朝食に「ごはん」を食べる割合が「パン」より少ないというのが実態です。

朝食に関する調査
朝食は「ごはん派」より「パン派」が多い

我が家では、父と同居を始めた10年前から朝食は「和食」になりました。

味噌汁はちょっと気合が入っています。まず、だしは、昆布と煮干し、そしてかつお節です。具は野菜ときのこ・豆腐など2~3種類いれます。味噌はその日の具によって合わせ味噌にします。

納豆には必ず生卵を入れ、ネギやゴマ、いりこなどを合わせます。味付けの基本は「しょうゆ」です。

これにご飯、この3点セットが我が家の毎日の「朝ごはん」です。(最近は、白米に玄米を混ぜることが多くなりました)

「しょうゆ」「味噌」や「納豆」「かつお節」は、和食の特長である「発酵食品」です。

「発酵食品」は、微生物の働きを利用して作られた食品のことです。近年、老化防止やがん予防など様々な効果が注目されています。

江戸時代には「医者に金を払うよりも、味噌屋に払え」ということわざがあったほど、私たちにとって「発酵食品」は昔から健康食だったのです。

日本文化いろは事典 味噌

日本人の知恵が生み出した、味噌汁と納豆でこれからも元気に頑張ります。

 

(クリックで拡大画像)

我が家のだし
我が家のだし

我が家の味噌
我が家の味噌

我が家の納豆
我が家の納豆

納豆の具
納豆の具

我が家の朝食
我が家の朝食

 

5月 10 14

浜じぃの横浜漫歩(第1回) 横浜公園と日本大通り

by staff

 

浜じぃ
浜じぃ
 

今度新しくコラム「浜じぃの横浜漫歩」を担当することになりました「浜じぃ」ですじゃ。

1948年(昭和23年)生まれの現在、65歳。団塊世代の中心。18才まで新潟市で生まれ育ち、大学に入る為東京に来たのじゃが、とうに首都圏での生活の方が長くなり、終の棲家は横浜だと考えておるわけですじゃ。会社務めもほとんどの期間東京へ通ったけれども、住まいは21年前に横浜に越してきて現在に至るじゃ。

65歳というのは、いわゆる前期高齢者の一番下の年齢に当り、75歳以上の後期高齢者も含めて考えると、まさに「高齢者の中ではまだ若手」なんじゃ。

もともと「浜じぃ」も、「横浜のGOTOH(本名:後藤)」の略「浜G」からきておる。ただ、高齢者であることには違いはないし、何か書き出すとどうしても薀蓄を傾けたくなる悪い癖がありましてな、「じぃ」の方がそれらしいと思って自称している訳ですじゃ。

ともかく後から遅れてきた横浜居住者として、できるだけ新鮮な目で今と昔の横浜らしさをお伝えできればと考えておりますので、宜しくお願いしますじゃ。

 

横浜を漫歩するに、まずは横浜公園と日本大通りから始めるとしようかのう。

公園は1876年(明治9年)に造られた日本で最初の洋式公園じゃそうだ。横浜が日本で最初となる物事は沢山あるのじゃが、これはその一つじゃ。確かに噴水や花壇の様が、日本庭園とは違う美しさを、見せておるのう。園内には横浜DeNAベイスターズの本拠地「横浜スタジアム」もある、というかほとんど、それが占めているようなものじゃ。昔、大魔神・佐々木などを擁して優勝した時には、興奮したファンがこの噴水池に飛び込んだらしいぞ。

噴水から港の方に目をやれば、日本大通りの銀杏並木がみえる。この景色は、横浜で最も美しいものの一つじゃとわしは思っとるがのう。

この通りは、慶応2年の市街地の多くが焼けた豚屋火事という大火が契機となって、造られたそうじゃよ。海岸より横浜公園まで120フィート(約36m)の街路を、通したそうじゃ。勿論、度々の火事に懲りて延焼を防ぐ意味なのだろうが、一方が海となっているせいもあり結果、空が広くてとても気持ちがいいのう。

公園には季節毎に様々な花が植えられ、それがまた大変美しいのう。一通り桜が咲いて、春の花々が競うように一斉に咲きだすのじゃが、ここ横浜公園では、色とりどりのチューリップがまるで絨毯を敷き詰めたように咲いておる。

そして秋には、公園の木々が紅葉して、これはまたこれで風情があって実に綺麗じゃのう。

季節の移り変わりが五感を通じて感じられる喜びを感謝せねばならんと思う、今日この頃じゃよ。

 

(クリックで拡大画像)

横浜公園の噴水
横浜公園の噴水

日本大通り
日本大通り

横浜公園のチューリップ
横浜公園のチューリップ

横浜公園のチューリップ
横浜公園のチューリップ

 

5月 10 14

第9回 親の介護について、はじめて考えた

by staff

 

父が倒れた

 先日父が倒れ、救急車で運ばれた。
 父は今年で85歳になる。とはいえ、長年一人暮らしをしており、足腰も丈夫で、一人でどこにでも出かけて行くいたって元気な老人だった。
 その父が、風呂場で丸一日意識を失って倒れていた。
毎日1食、お弁当を配達してくれるお弁当やさんが、食べられていない前日のお弁当を不審に思い、かねてより伝えてあった私の連絡先に連絡をくれた。仕事先だった私は警察へ連絡し、鍵を専門業者に開けてもらい中を確認してくれるよう頼んだ。
 結局、病院に救急搬送され、その日のうちに手術となった。病名は、慢性硬膜下血腫。幸いにも命には別状なく、事なきを得た。
 老人に多い病気だそうで、頭の硬膜と脳の間に、長期に渡りゆっくり血液が溜まり、脳みそを内側に圧迫していく病気だ。原因はわかっていないのだそうだ。
 手術は、おでこに2カ所穴を開け、溜まった血液を抜くというもの。父は高齢なため、回復にも時間はかかるだろうし、最悪は再発もあると説明された。が、手術自体は1時間程度で終わり、局所麻酔だったため、ぼんやりはしていたものの、手術後に父と会話もできた。
 看護師さんに、入院に必要な備品などの説明を受け、病院を出たのは、夜の9時を回っていた。

 翌朝、1時間ちょっとのところに住む父の家に行き、看護師さんからもらった入院の手引きをみながら、備品を揃えた。保険証、メガネ、入れ歯ケース・・・。保険証もどこにあるかわからない。メガネもいくつもあって、どれを持って行っていいかわからない。悪戦苦闘しながら、なんとか一式揃え病院へ向かった。

先生、どうしたらいいんでしょう?

 ひたいにフランケンシュタインのようなみごとな(?)縫いキズを二つつけ、ろれつの回らない父と、たわいもない話しをしたり、先生から詳細な説明を受けたり、看護師さんに備品を渡したり、事務手続きをしたりと、バタバタと時間が過ぎた。お昼を食べそこねていたので、病院内の喫茶店で軽食をとった。
 一息ついて、しみじみ思った。
 人一倍元気だったとはいえ、父はもう85歳。いつ、どうなっても少しもおかしくない年齢なのだ。人はいつかは必ず死ぬ。この事に関しては「絶対」なのだ。なのに、その絶対に対し、見てみぬ振りをしてきた。これまでにも、父の口から「いつ死んでもおかしくないんだぞ」という話が出る事はあった。しかしその度に、嫌な顔をして、耳をふさいできた。

 病院の先生から、「今までは元気でもご高齢ですから、これをいい機会だととらえて、これから先、もしこれまでのように動けなくなった時の事や、今後の生活について是非考えてみてください。」と言われた。
 そうなのだ。100%避けては通れないところに来たのだ。
 しかし、いくら先生に考えてみてくださいと言われても、私にも私の事情ってものがある。私も一人暮らしだし、働かなければ私が死んでしまう。もちろん先生にはそれを訴えた。
 「先生、どうしたらいいんでしょう」
 脳神経外科の先生に生活相談をした事になる。しかし、まだ比較的若い良い先生で、親身になって相談に乗ってくれた。あーだ、こうだ20分くらい話してくれたころ、「では、病院内のソーシャルワーカーに相談してみてはどうでしょう。私よりもずっと専門的に対策を検討してもらえると思いますよ。私から連絡を入れておきますから、すぐ予約を入れてください」
 「先生! 早く言ってよー。」と言いそうにはなったが、専門外の相談に親身になって時間を割いてくれた事がとても嬉しかったし有り難かった。何度も礼を言ってソーシャルワーカーに予約を入れた。

準備を開始

 先生が言うように、これは良い機会かもしれない。
 ソーシャルワーカーに相談した結果、介護保険申請をただちに行う事を薦められた。申請からサービスが受けられるまでに1ヶ月はかかるからだ。
 早速、その足で父の住む街の保険福祉センターの高齢者相談課なるところへ行き、手続きをしてきた。

 現代の医療技術はすばらしく、父も5日で退院ができた。というより、長期の入院は筋力低下やボケにつながるなど、老人には決して良くないため、できるだけ早く退院するべきだと言われたのだ。しかし、退院=完治ではない。退院後は不自由な状態で日常生活を強いられると言う事なのだ。私にはその意識がかけていた。
 わずか5日の入院で、父は驚くほどヨボヨボになっていた。支えなくては歩けず、意識もおかしく、夜と昼を間違えて、電話をかけたりしていた。退院後1週間たっても、症状はあまり変わらず、術後の経過をみるために通院するのが一苦労だった。

頑固じいさんのこだわり

 術後は、できるだけ父の家に寄ったり、父のところから職場に通ったりする日が続いた。
 父は昔の人で、たいそうな堅物。昔からの習慣を一切変えようとしないタイプの人間だ。
 そのため、翌日の朝食のパンを、200メートル先の百貨店にほぼ毎日買いに行くのだ。目の前のコンビニではなくだ。はじめは私が買いにいっていた。しかし私がいない日は自分で買いに出る。危ないからやめろと言ってもきかない。根負けし、杖を持つよう条件を出した。かっこう悪いと過去にさんざん拒んできた杖だ。しかし、今回はそれを飲んだ。というより、杖がないと歩けないのだ。こんなヨボヨボの状態で、パンを買いに出かけるのだ。
 はじめは全く理解ができなかった。「ころんだらどうするの!」。つい口調がきつくなる。しかし、申し訳なさそうに「でもあっちの店の方がおいしいんだよ」と細い声でつぶやく父。
 あまりの細い声に、色々な気持ちがこみ上げ、涙が出そうになった。
 昔はこんなにか細い声で話すような人ではなかった。申し訳なさそうになんてしなかった。
 怒鳴りちらし、わがままし放題の人だったはずだ。もう二度と、彼の口からは昔の様な憎まれ口や、怒鳴り声を聞くことはないのかもしれない。父の怒鳴る声は何よりも嫌いだったはずなのに、それをもう二度と聞けないのかと思うと、それはそれで、決して嬉しいものではないから不思議だ。
 そしてまたこの人は、自分が倒れそうでも、たとえ死と隣り合わせになったとしても、毎日の習慣を変えず、いつもの通り過すのであろう。パンにこだわりながら。

 愚かに思えたり、衰えを実感したりする一方で、この妙なこだわりに、尊敬や強さや凄さ、そして生活の豊かさすら感じさせられた。昔の人の規則正しさは、良くも悪くも凄い。
 思えば、戦争を生き抜き、日本を復興させ、たんたんと仕事をして、子供を育て上げた人だ。これまで、母を泣かせ続けた頑固なわがままオヤジとレッテルを貼り続けてきたが、この年になってはじめて、それが子供としての偏った見方だったのかもしれないと思うようになった。

 結局、この人のやりたい事を、自分のできる範囲で支えていくか・・・
 そう、思うようになった。

父との距離が一気に縮まる3週間

 今回の事で、一気に父との距離が縮まった。病院に行ったり、パン屋に行ったりする際、父を支えるため、自然と腕を組んだり、手をつないだりして歩いた。今ではそれも普通になったが、今回の事が起こるまでは、父に触れる事自体、何十年もした事がなかった。
 また、父も自由にならない体で、必死で私を気遣ってくれている。
 せめて、夜ご飯だけでも私においしいものを食べさせようと、近くのイタリアンへ行こうと言ったり、私が泊まる朝は、ゆっくりゆっくり驚異的な時間を掛けながらサラダを作って、例のパンを添えて振る舞おうとする。
 お互いが一歩も二歩も歩み寄って、物理的にも、精神的にも距離が劇的に縮まった。
 どうしてもっと、お互いが若く、体力も行動力もある時に、こういう事ができなかったのかと、苦笑いである。

自分のための介護

 お陰様で、父の状態は、ほんの少しずつではあるが、回復はしてきている。杖も上手に使えるようになっている。しかしこれから先、最後の時を迎えるまで、どのような状態になるのかは誰にもわからない。
 だが、私が当初抱いていた、妙な恐怖心や、焦りのようなものは無くなってきた。少し覚悟のようなものができたのかもしれない。

 職場の上司が、私にこう言ってくれた事を、今しみじみ思う。
 「私も、ずっと憎んでいた父だったけど、最後の数年間、父親の介護をして、本当によかったと思っているのよ。人はこうやって亡くなっていくのだという事を、父が身をもって最後に教えてくれたんだと、今ではそう思っているし、介護をした期間で、私は心の整理もできました。きっとお父様の介護は、自分の為だったのだなぁって思える時が来ると思うわ。」

 自分の為か・・・。
 ナルホドそうなのかもしれない。
 無理せず、穏やかに、チャレンジしてみっか。

プロフィール

ペンネーム: 津木 雫(つぎ しずく)
オヤジ・オバチャン・オトメのO3マインドを持つ、なんちゃってコラムニスト。
約20年間メーカー勤務。広報・マーケティングを経て、現在フリーランス。
典型的な仕事人間という生活を過ごし、はたと気がつけば人生の折り返し地点。「さぁどうする!」と我が道を振り返っている真最中。
学生時代に、約15カ国を貧乏旅行。
その経験から、今の若者が育つ環境には、問題を自らの力で乗り越える体験が不足していると、感じている。若者教育関連のNPOを立ち上げ、神奈川を中心に現在活動展開中。

 

5月 10 14

キッチンスタジオ「ジュイエ」の天才をつくる料理事典(第8回) レンズ豆って?と5月料理コースのご案内

by staff

レンズ豆、ご存知ですか?

 その名の通り、レンズのような形をしたお豆です。(元々はこの豆に、レンズが似ていたから、レンズにレンズという名がついたとか・・・) とはいっても大きさはごくごく小さめ。小豆の半分にも満たないお豆です。フランス語では『ランティーユ』といい、『コンタクトレンズ』と同じ単語です。

 原産国は西アジア。フランスやインド、中近東のお料理にも良く使われます。色はオレンジ、緑、グレーなど様々で最近ではスーパーや輸入食材屋さんで入手しやすくなっています。

 中でも味、品質ともに最高なのは、フランスpuy(ピュイ)産のグリーンレンズ豆(深緑)。こちらは、レンズ豆で唯一AOC*を名乗れるもの。他のレンズ豆よりひとまわり小さく、固めで味も濃く、煮崩れも少なく、サラダや煮込み料理に最適です。お値段も最高ですが・・・

 

レンズ豆
レンズ豆

* AOC・・・フランス農業製品、ワインチーズバターなどに対して与えられる認証であり、製造過程及び最終的な品質評価において、特定の条件を満たしたものにのみ付与される品質保証である。日本語に訳すと「原産地統制呼称」「原産地呼称統制」などとなる。
(Wikipediaより)

レンズ豆煮込み
レンズ豆煮込み

 

 このお豆の最大の特長は、戻す必要がない事。大豆や小豆等、乾燥のお豆は一晩水につけるのが基本ですがこのお豆は小さいため、いきなり茹で始めてオッケー。10〜15分ほどで火が通ります。

 サラダやポタージュ、豚肉と煮込むなどの料理が多いですが、具沢山スープにひとつまみ加えるなどして、使ってみて下さい。お豆の豊富な栄養が取れますし、もちろんおいしくなります。インド風に、カレーに入れるのもいいですね。

 お豆はミネラル、食物繊維が豊富なので沢山食べたいところですが、実際はなかなか調理がおっくうなもの。まずは、レンズ豆から使ってみませんか?

 

5月の料理コースのご案内

 私が行なう料理教室では、毎月、フランス料理がコース2つと、家庭料理のコースを開講しています。フランス料理は、基本コースと応用コースの2コース。家庭料理の方は幾つかのメニューよりお好きなものを組み合わせていただけます。

5月のコース内容

フランス料理基本コース 『レンズ豆のサラダ』
『ニジマスのムニエル、ソースブールノワゼット』
『チーズタルト』
フランスではとってもポピュラーなレンズ豆のサラダ。日本ではそれほど知られていませんが、手軽に調理も出来、とっても美味しいお豆です!夏にむけて店頭でも見かけるニジマス。あまり召し上がらないという方も多いですね。香りのいいバターソースと好相性!丸ごとお魚の食べ方もお教えしますね。デザートは、こってりチーズクリームとさくさくタルトのコントラストが美味しいですよ。

レンズ豆のサラダ

ニジマスのムニエル、ソースブールノワゼット

チーズタルト

フランス料理応用コース 『リージ・エ・ビージ』
『しらすのフェデリーニ』
『フルーツショートケーキ』
不思議な名前は、イタリア料理。旬のグリーンピースで作るスープです。釜揚げしらすをたっぷり使った冷製パスタ。デザートはふわふわスポンジを作ってみましょう。生クリームの塗り方、絞り方も重点的に。旬のフルーツをたっぷり使って作ります。
家庭料理コース 今月も様々な春メニューを御用意しています。
まめご飯やタケノコご飯など、春の食材の炊き込みご飯、鶏肉と根菜を煮込んだ定番料理、筑前になどが人気です。

 受講日程や、受講方法などは、キッチンスタジオ・ジュイエのホームページより、『料理教室』のページをご参考ください。

http://www.7juillet.com/kyousitu.html

プロフィール


フード・エデュケーション・コミュニケーター
キノケイコ

 

フード・エデュケーション・コミュニケーター キノケイコ

女子栄養短期大学卒業 栄養士免許取得
エコール・キュリネール国立(現 エコール辻東京)にてフランス料理を学ぶ
同校 フランス・リヨン校、フランス1つ星レストランにて研修。
帰国後、都内フランス料理教室にて、アシスタント、講師を務める
独立し、キッチンスタジオ・ジュイエ開設。
現在、フランス料理のみならず、家庭料理、玄米、麹料理など幅広い分野を得意とする。
URL:http://www.7juillet.com

 

5月 10 14

2014年5月 三ツ池だより 「緑のなかで!」

by staff
Navigation: HOME»コラム»横須賀詢

 おうす風珈琲を知っていますか。お茶の碗にコーヒーが出てきます。お茶が茶筅(ちゃせん)でよく撹拌されて泡立ちしているように、珈琲が出てきます。一見軽い感じのあじでしたが、碗の口あたりもよかった。あるいて疲れたあとのおうす風コーヒーはなぜか時間を忘れさせてくれました。初めてでした。不思議な御縁の日でした。色紙を包んだ新聞紙にそれはあります。吉兆を告げる音鳴り響く釜のことで、湯を沸かす時に吉兆を占うという記事がありました。私はこの記事を今年の一月五日の新聞で読んでいたのです。出先でこの記事の載った新聞紙が色紙の包み紙になったのです。釜で沸かしたお湯が頭にあって、北鎌倉で立ち寄ったお店におうす風珈琲があったことでした。甘味処紫穂の里です。おうすとは薄茶ことで、薄に丁寧語で「お」をつけることのようです。お抹茶にはお薄とおこい茶の二通りの飲み方があるということです。

 五月という月が大型連休のあるということで、旅というイメージとつながります。そのせいか、仕事のうえではなにか落ち着かないところがあります。また五月の節句ということで、出世の鯉である、広島カープが注目されます。今年は本物の力の発揮のようで、首位が続くのではないでしょうか。消費税が8%に上がって、心配されましたが、今回はいつもとパターンが違うような気がします。景気が政府のてこ入れがあるとはいえ、堅調に推移するように思います。いろんなことが言われますが、「出さなければいけない負担はお互いさまなので、負担していこう」という日本人の伝統があるように思います。あの人が言ってるのならば従ってみようというところです。しかしながら危ない橋を日本は渡っています。

 先日中小企業家同友会川崎支部主催のビジネスリゾート24の中で藤沢久美さんの出版記念講演がありました。「金融資産から知恵資産」の時代になってきて、これから日本は独自性が出せる。自助努力している姿こそが大事なのだと話された知恵資本とは何か!①知識資本 ②関係資本 ③信頼資本 ④評判資本 ⑤文化資本 知恵が十分に資本になりえる時代に入ってきている。社会貢献しながらビジネスをしていく。人を大切にしていくのだ。この社会の姿は輸出していけると力説されていました。

 五月はまさに眠ってはいられない月なのですね。新しい年度がはじまって具体的に動き始めた月です。したがって、旅に浮かれてばかりはいられないのですね。いや、旅は旅、緑に接し、珍しいものに触れてみる、このことがこれからに生きてくるのですね!

 五月の句を見てみよう。

山吹や笠に挿すべき枝の形
松尾芭蕉
わが旅の信なけれども聖五月
富安風生
老木に紅さす楓若葉かな
原 石鼎
日が照れば登坂道鯉幟
水原秋櫻子

 旅をしていても驚くのは鯉幟がほとんどみあたらないことです。

虹を吐てひらかんとする牡丹かな
与謝野蕪村
朴の花暫くありて風渡る
高野素十

 なるほどと共感するほどに身をそこに置いておく機会がなくなっている。旅先で私は次のように句を詠みました。

「人間この未知なるもの」と竹の秋
横須賀詢
りきみなし混沌のなかの春の宿
横須賀詢

 旅のなかの出会いに感動があった。これがなかなか句に詠みきれないのですが!

 山里の傾斜した用水路に勢いよく水が流れているのである。新しい水車がつけられている。藁葺きの古民家にいるおばあちゃんたちのお顔がいいのである。穏やかなのです。お茶をだしてくれ、沢庵を出してくれる。そこは笛吹市芦川町です。石和温泉から河口湖へ抜ける峠の山里です。統合前は芦川村と呼ばれていました。ここは桜が咲き、山吹が咲き、苧環が咲き、山がさまざまに色を染めているのでした。目線を上げるとあちこちに山桜が色をそめているのでした。農業で自立している姿がそこにありました。

 日々の生活は私たちにとって生産という名のもとにあります。生きていくためだと言われています。しかしながら自然と共生していく生活を見捨てていくことが文化なのであろうか。競争に勝たねばいけない。売られた喧嘩は勝たねばいけない。それらは何を意味していくのでしょうか。黒船を迎えて日本は西洋文化のおかげで近代化してきました。もの凄い対応力であったように思います。この活力は日本の歴史のどこに育まれてきていたのでしょうか。世界から恐れられてきた日本は、西洋文化のおかげで育てられながら、そこを超えようとしたのだ。他文化に対して感謝するだけで生き残れないのだろうか。近江商人の三方よしの考え方ですすめていくとしたら、日本は世界を相手に何をすることになるのだろうか。基本から考えてみることが求められている。

 旅の終わりに5月がやってきた。さあ新しく査定した計画の実行が迫られている。物語にし、実行していく時をまず楽しみたい。演じる役をいただけたことに感謝していくのだ。こんにちは五月!ありがとう五月!そして日本は緑を大事にする国であり続けるのだ!

 

Photos

(画像をクリックすると拡大写真が表示されます)

     
     

(文・写真:横須賀 健治)

横須賀 健治プロフィール

メジャーテックツルミ 代表取締役
はかることのプロとして50年です。
食品の放射能測定のアークメジャーを設立しました。
「計量から見える幸せ」をライフワークにしています。

 

5月 10 14

ビジネス梁塵秘抄「遊・献・学」(第14回)

by staff

大浦総合研究所 代表/大浦勇三

ビジネス梁塵秘抄「遊・献・学」(第14回)

遊びをせんとや生れけむ、戯れせんとや生れけん
遊ぶ子供の声きけば、我が身さえこそ動がるれ

- 梁塵秘抄 -

 ミレニアム(千年紀)の2000年、OECD(経済協力開発機構:本部パリ)は “21世紀の人材像” に関するレポートを発表、偶然読む機会に恵まれました。そこで指摘されている能力を独断で要約しますと次の3つになります。第一は  “未体験の状況での課題を的確に[発見・設定・解決・展開]する能力” 。第二は “異なる文化的背景を持つメンバーとチームを組み、コミュニケーションをはかりながら成果を出す能力”  。第三は “何を学ぶ必要があるかを特定して持続的・効率的に学習できる能力” です。大リーグでプレーするイチローが国内だけでなく海外でも高く評価されるのは、これらを見事なまでに体現していることにあるような気がします。梁塵秘抄では “甲斐の国より罷り出でて、信濃の御坂をくれぐれと、はるばると、鳥の子にしもあらねども、産毛も変らで帰れとや“ とあります。古里から都に出てきて今や元には戻れぬすれっからし。それでもあきらめず生き抜くのが人生。今であれば “抽象力(コンセプト化・モデル化)” の強化が起死回生策になるかもしれません。 “抽象化するとは、数理的・論理的な形に整理するということである。更に突き詰めると、矛盾を取り出してそれを排除するということである” と日本初のノーベル賞受賞者・湯川秀樹博士。文楽の竹本住大夫師匠がいう “台本にない文章と文章の間の字のない空間” に通じるかもしれませんね。

“遊びをせんとや生れけん” 「遊」

大事なのはどの道が正しいかではない どの道であれ、頂上に立つという信念
変化を凌いできた上での世界的行き詰まり 誰もに哲学の習慣化が求められる
現在と未来・形式知と暗黙知・利益と共通善 矛盾の解決が人類共通のテーマ
周囲が喜ぶことを大事にする 優れたものを認めないことこそ野蛮、とゲーテ

 ゲーテは日本でも深く親しまれている文豪の一人ですが、その才能は多彩で、詩人・劇作家・小説家・自然科学者・政治家・法律家など多方面で活躍しました。少年時代まで過ごしたフランクフルト(ドイツ)の “ゲーテハウス”  は知的価値創造の本源とは何かを感じさせてくれます。これからはあらゆる状況に対応できる  “リベラルアーツ&ユビキタス”  の時代。ジャンルを問わず、優れたものを素直に受け入れる気持ちこそが大切だということでしょうか。今後の環境変化は避ける・凌ぐというレベルを超える大規模なもの。“現在と未来”“形式知と暗黙知”“利益と共通善”。人類がめざすコンセンサスは未だ不明確であり、答がないところに挑む  “野生の思考”  を突破口にするしかなさそうです。変化が繰り返し生み出すアンビバレンツ(二律背反)の対応には、すぐには役立たないことにも好奇心を失わずやり続ける  “ライブ感”  が不可欠になりそうですね。

“仕事をせんとや生れけん” 「献」

いつの時代でも 顧客が熱烈に歓迎するような人間、時代の流れに負けない力
自らが自力で機会を生みだし、機会を通じて自らを変える 思い切り泣き笑う
話すことが上手な人は、聞く能力をもっている ひらめきに、妥協は要らない
ウィーンオペラ座は、同じオペラを毎年公演 深みを極める上では賢明な判断

 ウィーンはドイツから北イタリアまでを支配したハプスブルク帝国の首都でした。その威信をかけた歌劇場がウィーンオペラ座。同じオペラを毎年公演するのは深みを極める上では実に優れた知恵というほかありません。オペラ座で実感する質実さと偉大さ。磨き込むことの凄さと創造価値。2002年から数年間、日本を代表する指揮者・小沢征爾さんが音楽監督として活躍されたことも頷けます。グローバル化の中で、汎用品はますます安価に提供されるようになっていますが、一方で、鍛えられた技に支えられる高級品は、一段と高い評価を得るようにもなっています。付加価値が日々深化していく領域での勝負こそが日本の主戦場。同じオペラを毎年公演することで、修練を重ねた深みの度合を絶えず検証するプロセスはビジネスでも大いに学べるはず。あくまで原則を重視した上での実践。周囲の汎用価値に安易に妥協する道だけは避けたいものです。

“学びをせんとや生れけん” 「学」

道具には一種の思いが貫かれている 踏みならされた道だけが道ではない
人生では、あらゆることが偶然の産物 一方で、すべてが必然ともいえる
価格競争のように見えるが、あくまでも価値競争 税制も民族固有の問題
人間が賢いのは経験自体ではなく経験に対する能力、とバーナードショー

 バーナードショーは19-20世紀にかけて英国で活躍した劇作家・劇評家・音楽評論家です。代表作“ピグマリオン”はミュージカル化され “マイ・フェア・レディ”  としてブロードウェーや映画で大ヒットしました。大器晩成型で才能が認められたのは40代。94歳で亡くなるまでに数多くの戯曲を残し、1925年にはノーベル文学賞を受賞しています。常に前向きで進取の精神に富み、新しい考え方に対しては一貫して賛成に回ったといわれます。これからは、思いを込めて分身となる技・道具に磨きをかけながら道なき道を歩む時代。何が起きても不思議ではない時代ですが、本命は愚直に自らがめざす価値を極め続ける人材。単に経験を重ねるということではなく、経験への対応力であり経験からどれだけ深く学ぶか。それは  “現場・現実・現物に徹した哲学”  に戦略的に挑むことなのかもしれません。それには、思う存分失敗が許される環境が欠かせないですよね。

「遊びは仕事、仕事は遊び」
「仕事は学び、学びは仕事」
「学びは遊び、遊びは学び」

 今回とりあげた「遊・献・学」それぞれの4行文は、拙書「ビジネス梁塵秘抄(一)~(八)」(全10巻)から抽出したものです。次回以降も「遊・献・学」から各々4行文を一つずつ抽出してご紹介していきたいと思います。

「ビジネス梁塵秘抄」購入ご希望の方はこちらからどうぞ!
http://www.syplus.jp/ooura/

(第14回了)

 

大浦勇三(おおうら ゆうぞう) プロフィール

大浦勇三(おおうら ゆうぞう)  

大浦総合研究所 代表 (http://www.mmjp.or.jp/ooura/

石川県七尾市出身。
早稲田大学卒業、筑波大学大学院修了。
米国経営コンサルティング会社 アーサー・D・リトル 主席コンサルタントを経て現職。
主担当領域は、経営改革/企業再生、経営戦略/情報通信技術戦略策定、業務改革/組織改革、研究開発/商品開発マネジメント、マーケティングマネジメント、ナレッジマネジメント、イノベーションマネジメント、サプライチェーンマネジメント、人材マネジメント、コーチング/メンタリング、プロジェクト/プログラムマネジメント、ベンチャービジネス支援等のコンサルティング。

筑波大学大学院講師、城西国際大学客員教授、名城大学講師、産業能率大学講師、中小企業大学校講師などを歴任。

主な著作物:

  • 「ビジネス梁塵秘抄(一)~(八)」<全10巻>(大浦総合研究所:PDF版)
  • 「イノベーション・ノート」(PHP研究所)
  • 「ITプロジェクトマネジャーのためのコーチング入門」(ソフトリサーチセンター)
  • 「図解 日本版LLP/LLCまるわかり」(PHP研究所)
  • 「IT技術者キャリアアップのためのメンタリング技法」(ソフトリサーチセンター)
  • 「よいコンサルタントの見分け方、かかり方」(清話会)
  • 「日本のモノづくり - 52の論点」<共著>(日本メンテナンス協会)
  • 「現場主導型の組織運営とスピード戦略」(日本監督士協会)
  • 「eコミュニティがビジネスを変える」<訳>(東洋経済新報社)
  • 「ナレッジマネジメントが見る見るわかる」(サンマーク出版)
  • 「図解 ナレッジ・カンパニー」(東洋経済新報社)
  • 「ナレッジマネジメント革命」(東洋経済新報社 )
  • 「図解 グローバル・スタンダード革命」(東洋経済新報社)
  • 「業務改革成功への情報技術活用」(東洋経済新報社)
  • 「情報化戦略と投資評価・システム運用管理の実際」<編著>(企業研究会)
  • 「会社改革実務辞典」<共著>(産業調査会)
  • 「プロジェクトマネジャー(PM)の育成・スキルアップのためのメンタリングの進め方と実践法」 (ソフトリサーチセンター:CD-ROM版)   など
5月 10 14

中小経営のニッチから国際化へ(第8回)

by staff

デジタルハリウッド大学大学院/NVD株式会社 松本英博

1.海外展開に入る前に

 ニッチ事業であっても海外展開に入る前に十分なフィージビリティー・スタディー(事業性検証)を行っておく必要があります。

 海外展開では従来の欧米だけでなく、アジアの新興国を相手に考えている企業もあることでしょう。特に中国は、人口や成長、さらに話題性などでクローズアップされます。

 しかし、表1にあるように、意外に中国は、タイやインドネシアなどを下回っています。その背景には、中国進出を最初に行った第一出陣企業が熾烈な競争で利益をすでに出す余裕がないことを示しています。

表 1 中小企業のアジアにおける製造業現地法人の財務状況(2009年度)

  売上高経常利益率(%) 日本側出資者向け支払額(百万円)
アジア全体 2.1 1.0
中国(香港を含む) 1.6 0.0
タイ 2.7 12.5
インドネシア 3.6 10.0
マレーシア 2.5 3.0
ベトナム 0.6 0.0

(注)2012年版中小企業白書から一部抜粋。売上高経常利益率は中央値。

 さらに、中国の関係者や訪問先の市政府、開発区の描くバラ色の収益予想に心奪われて、肝心な客観的な事業性の検証を怠っている例が少なくないといいます。

2.進出には冷静な判断を

 前回のこのコラム では、事業計画書は、最悪計画(worst case)、最尤計画(favor plan)、最善計画(best case)の3つの予想シナリオを用意して検討するようにお願いしました。これこそが、進出での判断に最も必要な情報です。

 まずは、これらの事業計画書によるフィージビリティー・スタディーを自社内の事業検証に使うことはもちろん、現地当局に提出し現地法人設立の認可をもらう必要があります。

 中国では、フィージビリティー・スタディーを簡素化することが多くなり、最近はそれを良いことに財務試算や事業計画に対する戦略の検討を怠ってしまう例が少なくないと、大手金融系経営コンサルタントがぼやいていたことがあります。

 さらに、経済成長率が10%を超えていたのは過去の出来事であって、2011年以降、周知のように鈍化傾向にあります。もっとも、恐れるのは、現地法人を設立した後10年近くたっても創業赤字を解消できず、清算も当局の認可が下りないといった最悪の状態です。

 『もうからなくても勉強のつもりです』とか、『こんなはずはなかった』といった事態だけは避けたいものです。そのためにも、何度も強調しますが、事業計画書によるフィージビリティー・スタディーを形式的なものではなく自社の将来性のためと思って取り組むことです。何れしても、貴重な経営資源を無駄にせず、『絵に描いた餅』になることは避けましょう。

※これまでの「創造方程式」による発想のトレーニングがしたいというなら、参考に拙著「ヒット商品を生み出すネタ出し練習帳」をどうぞ。

次回の予告

海外展開の第一歩である海外視察について考えていきます。

松本英博 プロフィール

 

松本 英博(まつもと ひでひろ)

デジタルハリウッド大学大学院 専任教授/NVD株式会社 代表取締役

 京都府出身。18年にわたりNECに勤務。同社のパーソナルメディア開発本部で、MPEG1でのマルチメディア技術の開発と国際標準化と日本工業規格 (JIS)化を行い、MIT(マサチューセッツ工科大学)メディアラボで画像圧縮技術を習得のため留学。帰国後、ネットワークス開発研究所ではWAPや i-モードなどの無線インターネットアクセス技術の応用製品の開発と国際標準化を技術マネジャーとして指揮。

 NEC退社後、ベンチャー投資会社ネオテニーにおいて大企業の新規事業開発支援、社内ベンチャーの事業化支援を行い、2002年9月にネオテニーから分離独立し、NVD株式会社(旧ネオテニーベンチャー開発)を設立、代表取締役に就任。大手企業の新規事業開発・社内ベンチャー育成などのコンサルティング 実績を持つ。

 IEEE(米国電子工学学会)会員、MIT日本人会会員。神奈川県商工労働部新産業ベンチャー事業認定委員、デジタルハリウッド大学大学院 専任教授、現在に至る。

 

5月 10 14

「笑顔経営」セミナーが始まります

by staff

 

スタートダッシュセミナーは盛況でした

2014年4月24日、「これからの中小モノづくり企業がやらなければならないこと」というテーマで、セミナーを開催いたしました。

かながわ経済新聞の千葉龍太代表に「神奈川県の元気な中小モノづくり企業」についてお話しいただきました。

株式会社バイオクロマトの木下一真社長には「~どのようにして下請け体質から抜け出したのか~」、第26回「中小企業優秀新技術・新製品賞」優秀賞を受賞した濃縮装置「コンビニ・エバポシリーズ」の事例を紹介していただきました。

会場は座る席がなくなるほどの盛況ぶりでした。

 

「笑顔経営」セミナーが始まります

株式会社バイオクロマトの木下一真社長と一緒に会社経営を学ぶ「笑顔経営」セミナーが5月14日から始まります。

月1回(全4回コース)開催のセミナーで会社経営の「正しいノウハウ」を学び、会社の業績アップを共に目指しましょう!

開催概要

日  時 2014年5月14日(水) 19:00~
会  場 かながわ県民活動サポートセンター
〒221-0835 神奈川県横浜市神奈川区鶴屋町2-24-2
電話045-312-1121(代表)
横浜駅西口 徒歩5分
アクセス
受講料 20,000円(全4回分)
セミナー内容 1回目 5月14日
どの様にしたら、人を上手く動かしたり、関係を円滑にできるのか?
~たった一つの技術を身に付けるだけで劇的に変わる~
2回目 6月11日
どの様にしたら、自分の責任感や部下やスタッフの責任感が向上できるか?
~あるちょっとしたきっかけで変わる責任感~
3回目 7月10日
会社や組織の売り上げは何に依存しているのか? 前編
~これが解れば売上アップ!間違いなし~
4回目 8月7日
会社や組織の売り上げは何に依存しているのか? 後編
~これが解れば売上アップ!間違いなし~
申  込 お申し込みはこちらから
http://www.monoken.net/egao-keiei/

 

「売れるモノづくり」についてのご相談を承ります

いいモノを作ってもなかなか売れない・・・
製造業の方々からそんな悩みをよく耳にします。
どんなに良い製品でも、市場に受け入れられなければ「モノ」で終わってしまいます。

「横浜売れるモノづくり研究会」は、神奈川県在住の企業支援の専門家やITの専門家など多種多彩なメンバーで構成されています。

「横浜売れるモノづくり研究会」では、「製品の売り方をどうしたらいいか」
という企業のご相談を随時受け付けています。

毎月一回第二木曜日には、ご相談される企業と専門家が面談を行っています。

売れるモノづくりについてのご相談はこちらにご入力下さい。
https://www.supportyou.jp/monoken/form/2/

<問合先>
横浜売れるモノづくり研究会 事務局
(株式会社ともクリエーションズ内)
〒231-0004
横浜市中区元浜町3-21-2 ヘリオス関内ビル4階
TEL 045-226-3475 FAX 045-226-3476

メディア掲載情報

 

5月 10 14

書評 「西郷南洲の遺訓に学ぶ」 致知出版社 森信三講録

by staff
 

今何をするべきか。どこに向かうべきか。そんなことを考えている時に手に取ってみた。西郷南洲は明治政府の進める方向のなかに民衆をおきざりにした政策や身分制度の在り方に義憤を感じていたからたもとを分かった。上野に銅像が建っているのに、いつのまにか歴史から見放されているような扱いになっていることが気にかかっていた。あとがきに寺田一清氏は述べている。「西郷南洲翁こそは、かの内村鑑三の指摘の通り、代表的日本人の一人であり、正に“敬天愛人”“克己無我”の大人物であり、日本の偉人のなかでも、とりわけ人情味あつく雅量識見共にわが憧憬の人物像にほかならない。」「また本書、先師森信三先生の講義録であればなおさら。」

真実のみが人心を動かし人心に残る

真実の人は詐謀をもちいないのだという。同時に真実の人というのは永遠を見る人であるという。「本当の真実はこれを知という方面からいえば、常に自分の一生が自己の眼前に縮図されて、ほとんど一点に帰せんばかりに見えねばならぬ。すなわち常に自分の死が見えていなければならないのであります。」

徳あるものを上に据え、才能のあるものを下につける

すべて物事をやるときには、どうしても仕遂げなければならないという決心がなければならない。はじめからできる出来ない、この程度しか出来ないだろうなどということを言っていては出来ようはずがありませんという。「わが国の人事、とくに教育界の人事、つまり教育行政というものを見ても、徳あるものを人の上に据えて、才能あるものをその下につけるという根本原則は、十分におこなわれていないように思われるのであります。むしろ腕利きといわれる人を人の上に据えるという傾向の方がより多いのではないでしょうか。」

劣等児救済の真の救済は憐れむことにある

ともすると陥りやすい欠点は、授業後劣等児を数人残らせて、盛んに教材をおしえようとする。もともと基礎ができていないのだから、一時間や一時間半それを二か月や三か月やったところで救えないのが劣等児の劣等児たる所以ですという。しからば対策の第一は憐れることだという。そこでこの憐れと思う情が積極的に動くと「なるほどお前は学科はできないが、しかしそれでいいのだよ。算術一つ満足に出来なくとも、わしは決してお前を見捨てはしないぞ、お前には外に見捨てようにも見捨てられない良いところがあるんだから・・というこの根本の態度を確立して臨むことでありましょう。」

教育においては劣等児というものが教育に深さを与えるものだといい、劣等児に対する真実の苦心によって、劣等児そのものの魂の芽生えを見るに至って初めてそこに教育の真の味わいが出るものであるという。

天は人も我も同一に愛し給ふ

道は天地自然のものであって、人はこれを自覚し、その意味を実現するというのが人間の使命であるから、道の根底たる天を敬うということが人間生活の根本眼目になるという。その意味を実現する、そのことに向かって西郷さんは行動してきたのである。「天というものは差別をしないものであります。人我の別なく平等に照らし愛するものである。その平等無我の根源たる天を敬するならば、その天の実証は、現実においては我自身も又人我の別をなくせずば相済まない。」ここに西郷さんの根本信念の「敬天愛人の原理」が明かされている。

人を相手にせず、天を相手にせよ

人というものは、我と相対するもので五分五分のものであります。向こうが強ければこちらが引き摺られ操られる、これが相対的関係というもの。そこから脱して天を相手にする、すなわち絶対を相手にして絶対に帰し、絶対に自己をささげる。「天を相手にすることによって、始めて人は己を尽くして人を咎めず、つねに自己の誠の足らざるを尋ねるという処にもいたるのである。天を相手にすれば、己を尽くすということは自然にできるのであります。人を相手にしていると、認めてくれるときは調子よくつとめますが、認めてくれぬ人が上にくると歯車の廻りが遅くなるのであります。ところが天をあいてにするに至れば、相対的な人間を咎めるということから脱却することができるのであります。」

己を愛するとは自己に甘いということ

理というものは苦労せず逆境に立たなくても認識だけはできるものであるという。いわゆる学者先生がそれであるとも。しかし理の体認ということになると、必ずやそこには何らかの意味で自得の工夫をこらすか、だから逆境に置かれ、苦労をするかの、その何れかによらなければいけないという。「かくして自己を愛するということは、要するに自己に甘いということであり、自己に甘いということは畢竟理(ひっきょうり)の体認ができていないということである。そうして理の体認ができないということは、その人の環境が恵まれて過ぎているということであります。」

悟りの一特徴は驚かぬということ

人間道を行おうとすると、どうしても難しい出来事に出会うことは避けがたいものである。しかもこの道を行おうとする以上は、どんな艱難に出会おうとも、事の成敗、さらにはわが身の生死も第二として道に従っていくことだという。「そもそも人間は驚かぬというのが悟りの一特徴であります。意外ということのないということが悟っているということの証拠であります。驚かぬためには、まず第一に理を知らなければならなぬ。理は通ずるものでありますから、一理は万里であって、如何なることが出てこようとも理としてはすでに用意されているはずであります。」人間真実に対する感動は、年と共にいよいよ深まり行くことが願わしいことと言われます。これに反しわが身にふりかかる不幸については、年と共に次第に驚かなくなるということが望ましいのだといいます。

 

日本人として今こそ遺訓を心読する時ではないかとの思いに賛同します。森信三さんは昭和14年7月の講義を次のように結んでいます。「単なる書籍にあらず、単なる武器にあらず、現実の処置こそ真の学問、真の文武の眼目とすべきであります。」西郷南洲翁が代表的日本人に選ばれていたこと、それは現代にも通用するものだとあらためて遺訓を読む中で感じたことだった。

(文:横須賀 健治)

 

 

5月 10 14

書評 「瑠璃でもなく,玻璃でもなく」 集英社文庫 唯川 恵 著

by staff
 

「来ないほうがよかったかな・・・。そんなことを考えていると、向かいに座る男・・・確か、名前は石川友章といった・・・が声を掛けてきた。」
題名に面白みを感じた。私にとって何が興味あるかといえば、今の若い世代の考え方が知りたかった。「恋愛は不安とのたたかいであり、結婚は不満との戦いである。」この表紙の裏の一文が、なにを表現していくのだろうかとの思いも膨らんだ。
「 “退屈そうだね。” そんなことはないけど。美月は慌ててワイングラスを口にした。 “いいんだよ、無理しなくても。” ということは、もしかして、あなたも退屈してる? “当たり。” 彼は屈託のない笑顔を浮かべた。 “僕は人数合わせに誘われただけだから。” もちろんその言葉を信用するつもりはない。その気はないのに無理に誘われて仕方なく、というのはカッコづけのための典型的ないいわけだ。」

主人公の一人は美月だ。 「恋愛とセックスを切り離して考えられる人もいるけれど、自分はそのタイプではないと、今の美月はよくわかる。学生の頃、恋愛関係ではない相手とベッドに入ったことがある。別に自暴自虐になったというわけではなく、なんとなく、なんとなく雰囲気にのせられてしまったからだ。けれどベッドに入った “ああ、この人とはダメだ” とわかった。落ち着かないというか、ぎくしゃくするというか、つい醒めた目で自分や相手を見てしまう。なんだか一生懸命セックスすることにシラケてしまう。もっと言えば、滑稽にさえ感じて、その人とは一度きりで終わってしまった。」 「展示会の最終日、設計課長が “うちあげましょう” と言い出した。総勢五人が集まる予定だったのだが、どういうわけか後の三人は、仕事が入ったり、風邪を引いたり、急に親戚に不幸があったりして、結局、当日は美月と朔也だけになってしまった。けれども、待ち合わせの場所でそれを聞いた時、美月は嬉しかった。そして朔也も呟いた。 “何か、すごくラッキーだな” その夜初めてゆっくり朔也と話すことになったのだが、そうなって驚いた。波長が合う、ということを聞くけれど、本当にそういうことがあるのだと思った。いつまでも話は尽きず、終電の時間が近づいても離れがたく感じた。だから “また今度、飲もうか” と朔也から言われたときは一も二もなく頷いていた。 “いやいけないな、所帯持ちの僕なんかが誘っちゃ” “そんなことないです” と答えたときは、まだ自信があったはずだ。こんなことにはならないという自信だ。それはどこか、優越感にも似ていた。独身の自分の方が、結婚している朔也より、優位にたっている。」

もう一人の主人公は「昨夜から、朔也と冷戦状態が続いている。朝食は、いつものようにトーストと目玉焼きとサラダを用意したが、朔也はコーヒーに口をつけただけで、キッチンに立つ英利子には声も掛けず出勤していった。結婚前にもよくケンカはよくした。こじれて、別れようかと考えたこともある。今思えば、原因なんて大したことではないのだが、あの頃の英利子にとって、そのひとつひとつが自分の人生に関わる重大な出来事のように思えた。」 「今日藤島玲子のイベントが行われた。観客には先生の料理教室に通っている生徒たちの顔も多数見えた。その中に、よく代官山のカフェでお喋りしていた主婦たちもいて “あら森津さん、すっかり秘書ぶりが板についちゃって” と、またもや皮肉を込めてからかわれたりした。無難な笑顔で応えておいたが、今は、自分がそちら側にいたなんて不思議な気がしてしまう。結婚して専業主婦になり、憧れの料理教室に通うのがゆめだったはずなのに、こうなってみると、自分は働くことが結構好きだったんだと、いまさらながら驚いてしまう。」 英利子。

「恋愛は不安との戦いであり、結婚は不満との戦いである」
これが「恋愛は希望であり、結婚はやすらぎである」というふうに感じられる展開になる。
「 “汐留に面白いレストランを発見。ランチも結構いけるんだけど、都合どう? もちろんディナーでもOK” 友章からメールが届いた。結婚してから、デートに誘われたのは初めてだ。やっぱりドキドキしてしまう。こんな感覚を味わうのは久しぶりだ。何て返事を書こうか迷っている。かってのボーイフレンドと、ランチを一緒にするぐらいいいじゃない、と思わないわけでもない。何も浮気するわけじゃない。ほんの少し独身気分を味わって、懐かしい話を楽しむだけだ。そう思いながらも、気持ちは別の自分も映し出している。今は外で友章とランチするよりも、璃音と一緒に公園に行ったり、絵本を読んだりする時間を優先すべきじゃないの? 残業続きの朔也のために、栄養のバランスのとれた食事を用意したり、心地よく部屋を整えておくことを大切にするべきじゃないの? べき、と言っても、義務的な気持ちじゃない。自分自身がそうしたいのだ。そうする自分でいたいのだ。」

そして英利子は「五年たった今でこそ、ようやく落ち着いた気持ちでいられるが、朔也に “大切な人がいるんだ” と言われた時は、頭の中が真っ白になった。驚きよりも、怒りよりも、ただただ打ちひしがれた。」 「美月に負けるのが悔しかった。私を犠牲にしてふたりが幸せになるのは許せなかった。離婚した後の生活が不安だった。親や友達、世間に対する引け目があった。でも、今こうしてちゃんと暮らしている。確かにひとりではあるけれど、決してひとりぽっちではない。友人や、仕事仲間がささえてくれている。何より、仕事が楽しい。だから。会場の前で、英利子は足を止めた。だから、胸を張って朔也と会うことができる。」

大切なことは「人は守られるだけで生きてゆくことはできない。まもられたければ、自分もまた相手を守らなければならない。」ことであり、「離婚は辛い出来事だったが、だからといって結婚に失望しているわけではない。もう結婚に過剰な期待を持つようなこともない。焦る必要はない。私はもう、私の中で流れる、わたしなりの時間をちゃんともっているのだから。」一人の人間としてどのように生きていくことが、自分らしさなのかを気付かせてくれる。読み終わって、改めて題名をしみじみ眺めたのだった。

(文:横須賀 健治)

 

 

5月 10 14

第20回 どあっぷ 「『United Youth』を取材 1人の力×恊働=∞」

by staff

みなさんこんにちは!
シチズンシップ教育の普及をめざすために活動している、NPO法人ど・あっぷ!です。
このコーナーでは、市民度の高い人や団体を、ど・あっぷ!が勝手に紹介します。
記事の最後には団体のFacebookページのURLやTwitterのアカウント名も載せていますので、ぜひぜひチェックしてみてくださいね!

 

「ど・あっぱーず☆見つけ隊」vol.11
「恊働するためのプラットホームを作ろう!」「United Youth」

 新年度が始まって早一か月が経ちますが皆さんはいかがお過ごしでしょうか?新しい環境にも慣れ始め一息つく余裕の出る5月になると、私の大学では自身の四月の振る舞いを振り返り「四月病だった…」という言葉がちらほらと聞こえ始めます。「四月病」って皆さんの中にも体験したことのある方も多いのではないでしょうか?正式な病気の名称ではありませんが、一般的に、年度のはじめにやる気が満ちあふれ「今年度こそ○○をしよう!」と意気込んでいる状態のことを指すようです。前向きでとってもいい状態であるともいえますが、気をつけなければいけないのが「やる気を保ち続けるのは大変」だということ。4月に頑張った分だけ身体には疲れがたまっていますし、ゴールデンウィークという小休憩を挟むと、休暇から復帰したときになんとなくやる気が出ない…4月は頑張れてたのに…なんて気分が落ち込み、最初に立てた目標からもどんどん気持ちが離れていきます。そんなときは一人で悩まず思い切ってまわりに助けてみるのも手ですよね。案外頑張っている人の力になりたいと思っている人はいるものです。今回紹介する団体はまさに、頑張っている若者を応援したい!と考えている団体です。目標に向かって頑張っている人、頑張りたいと思いつつも思うようにいっていない人、そして頑張っている人を応援したいと思ってる人、そんな方々にこそご紹介したい。前置きが長くなってしまいました(笑)ではでは早速今回の団体「United Youth」さんを紹介していきましょー!

たとえ1人の力は小さくとも

 4月のすっきりと晴れた日に、United Youthの立ち上げ人であり、現代表の福島宏希さんにお会いしてきました。United Youthが目指していること、それは「社会の問題を解決するために、若者が恊働できるプラットホームをつくること」です。具体的には、「ユース議会」を運営することで様々な分野・地域で活躍している若者が集まり、社会で起きている問題に関して議論し、意見を発信する場を創造したり、社会問題の調査研究をすることで議論に必要な共通の土台の構築をするなどしています。United Youthの活動には主に2つのキーワードが存在します。それは「若者」と「恊働」です。

キーワード①:「若者」

 若い人の中には、社会で起きている問題を解決するために活動している人が多数存在しますが、政府の審議会に若者が参加している例は以前はほとんどありませんでした。United Youthはこれを問題視し、政治の場において発言する機会がなかなか与えられていない 若者たちにスポットライトを当て、彼らに発言の場を用意します。その試みの一つが「ユース議会」なのです。2013年2月に開催された議会には10代から30代までの、のべ90名もの人が参加し、若者と雇用の問題など各テーマごとにディスカッションを行いました。出した結論はマニュフェストとしてまとめられ、他団体と協力し、フリーペーパーという形式で発行されています。こうした形で若者視点の意見が広まることで、政治に変革がうまれることを期待せずにいられません!

キーワード②:「恊働」

 もう一つの、そしてUnited Youthの活動の核となるキーワードが「恊働」です。この言葉にはUnited Youthの設立理由と深い関係があります。United Youthを立ち上げる以前から福島さんは環境問題に関心があり、環境問題を解決するための活動に力を入れていらっしゃいました。その活動の中で出会ったモンゴル出身の方との対話の中で、 環境問題の根底には経済そして環境に関する教育の不足という問題があるため、環境問題は「環境」という一方向からのアプローチでは解決することが難しいと感じられたそうです。そこから、様々な分野で活躍する人が集まり、話し合いをすることが可能となる場をつくる必要があると考えた福島さんはUnited Youthを立ち上げたのです。

 現代の社会で起きている問題は原因も利害関係も複雑になっており、「一つの問いに対し一つの答え」という単純な図式はもはや成立しなくなってしまったと言えるでしょう。複数の分野から知恵を持ち寄って、協力して解を求めることによってのみ、解決の糸口がつかめるのではないでしょうか。

Don’t Live in the Present BUT “Beyond”

 United Youthは2015年も「ユース議会」を運営するそうです。若者の代表として意見を述べたい方、社会で起きている問題に興味のある方、ぜひぜひ参加してみてください。2015年に開催されるイベントの詳細に関しましては、夏頃からUnited Youthのホームページをご確認ください。

HP:http://www.unitedyouthjapan.net/

後記

 記事の冒頭でやる気を持続させることの難しさについて少し触れましたが、この記事を読んでいる皆さんはどのようなモチベーションの維持のさせ方をしているのでしょうか。ただの個人的な興味ではあるのですが、一方で、モチベーションの問題は活動を行っている団体にとって重要なポイントであることも確かです。どんなに設立当初、もしくは団体への参加当初はやる気があっても、困難な現実を痛感したり、努力してもなかなか結果として表れづらいことからも、徐々に熱が冷めていくことは往々にしてあると思います。熱の塊である人がいる場合はその人がぐいぐい引っ張ってくれますが、その人がいなくなった瞬間からその団体は冷めていく一方になってしまいます。いかにして熱を冷まさないように活動を続けているか、それが活動を長く続けられるかどうかにも関わってくるのではないでしょうか。なにかおもしろいモチベーションの維持方法があるよ!知ってるよ!って方がいればぜひ教えていただきたいですね。各団体のモチベーションの維持の仕方論とか特集してみても面白そうと思ったり思わなかったり。

United Youth
HP:http://www.unitedyouthjapan.net/
Facebook:https://www.facebook.com/pages/United-Youth/
Twitter:https://twitter.com/unitedyouth_jp


http://www.youtube.com/user/douptv

(写真・イラスト:NPO法人ど・あっぷ!(DO UP!) / 文:大越 実花)

 

★ど・あっぷに「参加したい」、「ワークショップをやってもらいたい」、「ミーティングを見てみたい」等等、どんなことでも結構です。ご興味がありましたら、是非ご連絡ください。

ど・あっぷへのお問い合わせ form1.fc2.com/form/?id=161559
ど・あっぷHP www.citizendoup.com/index.html
日々のど・あっぷ ブログ 「ど・あっぷVOICE」 doupblog.blog123.fc2.com/
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5月 10 14

クラウドファンディング★被災地から「社会貢献を実践する人材育成・寄付文化創造」を!

by staff

 

特定非営利活動法人DoTankみやぎ
理事長 遠藤 学

被災地から「社会貢献を実践する人材育成・寄付文化創造」を!

みなさん、はじめまして!宮城県石巻市で、3.11大震災以前から、石巻で街づくり活動、地域的問題解決に向けて活動しております、NPO法人DoTankみやぎ理事長 遠藤学と申します。僕も被災者の一人であり、NPOメンバーのほとんども被災しましたが、これまで、避難所生活を経験しながら、他の避難所の救援活動に始まり、現在は石巻の再生・復興活動をしています。

日本初のクラウドファンディングサービスのREADYFOR?に
企画が採用されました

被災地の高校生を対象に「寄付体験学習」を!
自分が支援する側となり、社会貢献を実践する人材育成を目指します!

今回のプロジェクトでは、

  1. 社会貢献活動をしている団体に対し調査、取材を行う
  2. 調査した10団体を紹介する冊子を発行
  3. 冊子をもとに寄付体験ワークショップを行い実際に団体へ寄付をする

すべての活動は、被災地の高校生が中心となり行うことで、被災地から「チェンジメーカー育成・寄付文化創造」を目指します!

今回は、冊子発行にかかる75万円と、ワークショップにかかる75万円の合計150万円を皆様にご協力頂きたいです!
将来を担う若者たちのためお力をお借りできないでしょうか。

3.11東日本大震災から3年が過ぎ、震災時の中学生が高校生に。高校生が大学生や社会人に成長しています。

たくさんの支援を受けた子どもたちは、「支援」とは何か、社会貢献とは何か、ボランティアとは、NPOとは何か、いろいろと心に受け止め、考えました。

被災地だからこそ、できる教育がある。被災地だからこそ、やるべき教育がある。

当時は、ほぼ一方的に「支援を受ける側」だった「被災地」も、今度は、「支援をする側」に、一日でも早く立ち上がれるように、高校生を対象に、社会貢献とは何かを学習してもらうことは、未来を育てることになるのでは中と思いました。

 

(クリックで拡大画像)

被災地から「社会貢献を実践する人材育成・寄付文化創造」を

被災地から「社会貢献を実践する人材育成・寄付文化創造」を

被災地から「社会貢献を実践する人材育成・寄付文化創造」を

被災地から「社会貢献を実践する人材育成・寄付文化創造」を

3.11東日本大震災は、確かに、多くの尊い命、財産を奪いました。しかしながら、様々な人とのつながりや、可能性を生み出しました。また、悲劇を乗り越えた子ども達の大きな成長も日々感じています。そして、今では、被災を体験した若者たちから、世の中のために、何かをしたい、何かをしなければならない、という「志」を感じています。

その「志」を、被災地から大きく育てるために、このプロジェクトを企画しました。

このような社会貢献を学ぶ授業は、被災地では、まだ確立していません。これを石巻の各高校や、今後、他の被災地、また全国的に波及など、様々な社会貢献の輪を広げていきたいと思います。それが、本当の意味でのキャリア教育、人生の選択を学ぶことにもつながります。

※ ご寄付いただいた方には、

  • ホームページのご協賛者ご芳名欄にお名前を掲載
  • 当団体で発行している雑誌『石巻人』を郵送
  • シルクの食感「匠・生ゆばパン」
  • 石巻の「海の幸」名店セット(石巻のおすすめ海産物セット)
  • 石巻を中心とした3.11大震災ドキュメンタリー映画『Pray For Japan ~心を一つに~』(スチュウ・リービー監督。文科省推薦映画)上映会招待券
    ※ただし、石巻までの交通費・宿泊費は自己負担になります。

などをご用意させていただいています。

ご支援のほど何卒よろしくお願いいたします。

このプロジェクトの詳細はこちらからご覧ください

 

5月 10 14

じじいたちのポスター完成! 春のイベントもがんばります

by staff

 

今年も開催!花まつり

前号で紹介させていただいた通り、境木地蔵尊恒例の花まつりに今年も出店させていただきました。今年は桜の開花が早かった分、当日は既に見ごろのピークは越えていましたが、見事な花吹雪がイベントを彩りました。今年もたくさんの方がお参りにお越しになり、名物会ブースにも立ち寄っていただきました。たくさんの入学式帰りの新入生たちが、両親に手を引かれてくる光景が微笑ましいです。

 

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花まつり
花まつり

 

ホントにカッコイイ! 宿場を愛する本物のじじい

ついに完成しました!
「オレたち、宿場を愛する本物のじじい」
のキャッチコピーを引っ提げ、どどーん!と名物会の店主が登場です。

カッコイイです。
みなさん、笑顔が素敵です。
法被が粋です。

前号でも少し触れさせていただきましたが、当初、自分たちの顔がポスターに掲載されることに戸惑いを隠せなかった店主たちですが、写真撮影の終盤あたりから期待値がグングンと上がって来ていました。実は前述の花まつりの時に、最後の校正をしたのですが、それまで待ちきれずに、とうとうブースに原稿を貼り出してしまいました。(笑) それを見たお客さんからも大好評。ますます気分が高まる店主たちでした。

今後、各店・各イベントでバンバン貼り出していきます。
ご期待ください!

 

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ポスター
ポスター

 

春のイベント、今年もがんばってます!

そんなワケで、今年も春のイベントシーズンがスタートしました。今年は前述の「じじい」(笑)のポスターと共に、各イベントに元気に出店させていただきます。

以下、5月10日~6月10日に予定しているイベントです。

ほどがや花フェスタ2014

星川中央公園・多目的広場で開催される毎年恒例のイベントです。

日 時:5月17日(土) 10:00~15:00
会 場:星川中央公園・多目的広場

保土ヶ谷区民DAY

地元Jリーグチーム(J2)横浜FCが保土ケ谷区役所と協働し、年1回開催しているイベントで、保土ヶ谷区在住・在勤・在学者は無料で観戦招待などの特典があります。

日 時:5月24日(土)
会 場:ニッパツ三ツ沢球技場(神奈川区三ツ沢西町3-1)
※開始時間等、詳細は横浜FCもしくは保土ヶ谷区役所にお問い合わせください。

ごうどいち

保土ヶ谷産の夏野菜や宿場名物などの物販を行います。

日 時:6月1日(日) 10:00~12:00
会 場:北川製粉・中庭 保土ヶ谷区帷子町2-82

 

皆さまのご来場をお待ちしています。

 

レポーター プロフィール

山田浩和(やまだひろかず/Yamada,Hirokazu)

合資会社 笑う門 代表社員
保土ケ谷宿名物会事務局

1971年8月生まれ。獅子座のO型。保土ケ谷生まれの保土ケ谷育ち。
2003年、合資会社「笑う門」を設立。<オンリーワンの価値創り>のお手伝い。
会社設立時に制作したミニコミ誌がきっかけとなり、保土ケ谷のまちづくりにドハマリ。
現在、歴史や地産地消など、地域資源を活かしたまちづくりに幅広く取り組んでいる。

合資会社 笑う門 http://www.warau-kado.com

各社・各店・各個人が持つ十人十色・百人百色の目に見えない財産(経験・体験・知識・技術・ノウハウ・アイデア等)を活かした販売促進企画・商店街活性・まちづくりを推進しています。

業務内容 :
 ●シンボル制作
  ネーミング / シンボルマーク / ロゴマーク / キャラクター企画・制作
 ●広報(コミュニケーション)媒体制作
  ・簡易版会社案内(A4版三つ折り)制作
  ・ニュースレター(A4版)制作
 その他、フライヤー / ポスター / 小冊子 / 名刺 / のぼり旗 / エコバッグ / ユニフォーム、など

ヨコハマNOW掲載情報

 

5月 10 14

第21回 風の吹き抜ける家

by staff

佐賀・高橋設計室
高橋正彦

風の吹き抜ける家

私たちの事務所に設計を依頼してくる方たちの中で
比較的多い要望のひとつが風通しのいい家にしたい、と言う事。
今回はその事について考えてみたいと思います。

現在は空調設備が発達して、一年中快適な室内環境が得られます。
しかし、常に温湿度が調節された室内にいることにより、
人間は少しずつ体温調節能力が衰えていく恐れもあると言われています。
やはり自然の風を取り入れるというのは大切なことだと思います。

都心部や住宅密集地ではなかなか難しいのかもしれませんが、
風が室内を吹き抜けることにより、ダニやカビの繁殖を抑えたり、
ホルムアルデヒドなどの室内汚染物質を外部に逃がす事が出来ます。
勿論、そのような現実的な事以上に、子供の頃夏の日の午後、
風の吹き抜ける部屋での昼寝の気持ちよさを忘れることが出来ません。

皆さんが自然の風が吹き抜ける家がいいと希望されているのは、
そのような、自然の風の気持ちよさを体感として記憶しているからだと思います。

では、どのようにしたら、風の抜ける家が出来るのか?

もちろんただ闇雲に大きな窓をつくれば風が入ってくるものではありません。
風の出口と入口を考える。平面的に開口が取れないときは断面で考えてみる。
窓の種類を検討してみる等、いろんな方法を試みて風の抜け道を考える事が必要です。

そこには、その地域特有の卓越風や隣地に建っている建物の位置等のプライバシー対策も必要です。
このようないろいろな要素を検討する事により、心地よい風が吹く家が出来るのだと思います。

部屋ごとに窓の位置を考えず、建物全体または隣地の建物の位置なども考慮して
いろんな角度から窓の位置を考えると、条件のあまり良くない敷地でも
風の吹き抜ける家は出来ると思いますよ。

 

「暮らしを大切にデザインする」建築家ギャラリーへ

横濱元町AA STUDIOは「暮らしを大切にデザインする」建築家たちのギャラリーです。それぞれの建築家の模型・作品写真など自由にご覧になれます。

横濱元町代官坂の中腹にあるカフェのようなギャラリーで、週末は交替で建築家がお迎えいたします。(建築家と話そう!)ホームページのスケジュールに担当建築家が掲載されていますので、カフェに立ち寄る気分で横濱元町まで建築家とお話にいらしてください。お待ちしております。

AA STUDIO ナビゲートサービス

中立的な立場で、建築家選びをナビゲートします。ご相談は無料。
その後ナビゲートをお申し込みの場合 申込金 ¥10,000
・面談コース 面談希望建築家と面談  無料(最大3名の建築家を指名)
・提案コース 具体的なプランの提案  ¥50,000/1提案(最大3名の建築家を指名)

AA STUDIO WEB http://www.aaplan.com/aastudio/
Craftman Shop Street Motomachi http://www.motomachi-cs.com/cm/shop/shop051

AA STUDIO パンフレットがダウンロードできます。(PDF)

青木恵美子 http://www.aaplan.com
荻津 郁夫 http://www.o-as.co.jp
北川 裕記 http://www.aalab.com/kitagawa/
北島 俊嗣 http://kitajima-architecture-design.com
栗原 正明 http://msak.asia
河辺 近 http://www.ken-ken-a.co.jp
鈴木 信弘+洋子 http://suzuki-atelier.com
高橋 正彦 http://www.takahashi-arch.com
廣田 裕一  
藤本 幸充 http://www.kamakobo.com
古川 達也 http://furukawa-arch.com/
松井 理美子 http://www.matsui2ar.com
水口 裕之 http://homepage1.nifty.com/eau/
山口 賢 http://www.amarterrance.com

 

5月 10 14

ヨコハマ・ディスコグラフィティー 第23回 第4章 フォークからニューミュージックへ 9

by staff


 
 

 

HEART&SOUL代表 原 正行

1958(昭和33)年9月7日横浜生まれ、12歳よりギターをはじめ17歳からミュージシャンとして活動。39歳の時に念願だったライブハウスを開業、現在は関内駅北口駅前に60年代から80年代の洋楽ヒット曲を演奏するライブハウス、ハート&ソウルの経営者。他にもミュージシャンとして演奏活動、作曲、プロデュース等、幅広く活動している。

 

第4章 フォークからニューミュージックへ 9 -1977年~1978年 80年代への序章-

事件

 ’77年頃、テレビを媒体にロックと歌謡界が密接な関係になって行きダウンタウンブギウギバンドやアリスが歌謡曲的なメジャーヒットを飛ばしていくと、ロックやフォークのジャンル分けって何なの? と言う世界になっていきます。テレビドラマや映画の主題歌にロックが使われ、それがヒットに繋がっていき青少年が見る夕方の時間からお茶の間にロックスターが普通に登場。しかし当局はそんなアンダーグランドな世界から陽の当たる場所に出てきた彼らの影の部分に目をつけ、マリファナ疑惑が勃発、芸能界やロック界から数多くの逮捕者が出て世間の話題になりました。見せしめの部分もあったのでしょう。

イーストウエスト

 ヤマハ東京支局主催によるアマチュアコンテスト1976年から1985頃まで開催され、関東周辺のみのエリアでしたが後の音楽界を背負って立つ才能が数多く輩出しました。

 ’76年フュージョングループのカシオペア、’77年サザンオールスターズ、’78年シャネルズ、’79年子供バンド〈氏木つよし)その後も爆風スランプ、久保田利伸、Syo-yaなどがこれをきっかけにデビューしていきます。

サザンオールスターズ

 ボーカルの桑田さんは神奈川県茅ヶ崎出身、ピアノ原坊はご存知横浜関内老舗の天ぷら屋 “天吉” がご実家、横浜とは深い絆です。サザンオールスターズはイーストウエストコンテストでグランプリこそ取りませんでしたが桑田さんがベストボーカル賞を受賞、翌年’78年夏に「勝手にシンドバッドでデビューします。イーストウエストで歌った曲は「女呼んでブギ」。“女呼んでもんで抱いていい気持ち~” と歌うあれです。へえー! と思われるかも知れませんが最初はコミカル路線でした。テレビに出て売っていく手法で「勝手に~」が徐々にヒット、夜のヒットスタジオでもジョギングパンツでの出演が話題になりました。当初はキワモノ的に見られるふしもあった彼らですが2ndアルバムから「いとしのエリー」が大ヒット。その音楽性の高さを誰もが認める事になります。

横浜から

 横浜からも動きがありました。まずは’77年角川映画 “人間の証明” で主題歌を大ヒットさせたジョー山中、俳優としても出演していました。ジョー山中は横浜出身で元ボクサー、GS時代フォーナインエースと言うグループでボーカリストとしてのキャリアをスタートさせた人。その後フラワートラベリングバンドで’70年代の日本のロックを牽引しました。テーマ曲をヒットさせ、さあこれからブレイクと言う時に当局の疑惑事件。これで失速した感は否めません。ジョー山中さんは’11年8月7日死去されました。ジョー山中さんは何度か相生町アダムの頃エディ藩さんとご来店していただきました。ハイトーンボイスで歌ってくれた “朝日の当たる家” が忘れられません。キーはなんとCマイナー。普通声が高いといわれるプロの人でもAマイナー、一音半の高いキーで軽々と歌ってくれました。彼の功績は日本のロック史に永遠に刻まれていくでしょう。

 そして柳ジョージ。横浜市南区南太田出身で蒔田中学。前にも書いていますがGS時代パワーハウスでデビューしゴールデンカップスを経て(当時はベーシスト)自身のバンド “柳ジョージとレイニーウッド” を結成! そのしゃがれた渋い喉を前面に出し黒いストラトキャスターで泣きのギターを聞かせる。こんなに男心を奮わせるかっこいい人がかつていたでしょうか? ’77年の萩原健一主演のテレビドラマ “祭ばやしが聞こえる” の主題歌を歌い話題になり、’78年2月1stアルバムをリリース、同年7月に出した2ndアルバムからやはり萩原健一のテレビドラマ “死人狩り” の主題歌に使われた「雨に泣いてる」が全国的に大ヒット。

 苦節10年が報われました。この時夜のヒットスタジオにゲスト出演。そのかっこよさに他の出演者達もあっけに取られている感じで、その日は日本中がどぎもを抜かれた夜だったのではないでしょうか。ジョージさんは数々の名作を残し2011年10月10日死去、ジョージさんも亡くなる前エディ藩さんが二度程馬車道のハート&ソウルへ連れてきてくださり演奏してくださいました。柳ジョージさんは横浜出身の人間にとって当時の横浜の匂いを一番感じさせてくれる人であり憧れであり誇りです。心よりご冥福をお祈りしたいと思います。

77年のヒット作品

 「ダンシングクイーン(アバ)」 「勝手にしやがれ(沢田研二)」 「あんたのバラード(ツイスト)」 「渚のシンドバッド(ピンクレディー)」 アルバム「ホテルカリフォルニア(イーグルス)」 「噂(フリートウッドマック)」

 映画「ロッキー」 「スターウオーズ」 「人間の証明」 「宇宙戦艦ヤマト」

78年のヒット作品

 「恋のナイトフィーバー」 「素顔のままで(ビリージョエル)」 「微笑がえし(キャンディーズ)」 「Mr.サマータイム(サーカス)」 「君の瞳は10000ボルト(堀内孝雄)」「プレイバックPart.2(山口百恵)」

 映画「未知との遭遇」 「サタディナイトフィーバー」

 

横浜、街と風(社会人編) 9(24)

金縛り

 この頃母が退院しました。といっても殆ど寝たきりで壁をつたいやっと歩ける程度。父は近所に構えた不動産の店といったり来たりしながら必死の看護をしていました。お金も大変だったようでその頃住んでいた家は一軒屋とはいえ思い出したくもないほどの古いあばら家で私も3畳ほどの部屋に寝ていました。

 この頃頻繁に金縛りにあったのです。一番最初は18の時、上大岡から岡沢町に引っ越して上大岡の家に最後の掃除にひとりで行った時のこと。ある暑い初夏の午後。疲れて1階の畳の上でうたた寝をしていた所、2階から誰かが降りてくる気配がしました。声を出そうとすると声が出ません。逃げようと思い体を動かそうとすると全く体が動きません。なんとも言えない妖気が漂い足音が近づいてきます。なんとも言えない恐怖心で殺されると感じました。足音が部屋の前で止まり、その瞬間体が動きました。全身脂汗びっしょりでした。夢かと思いましたがあまりにもリアルでまだ興奮状態のまま、まだ繋がったままになっていた電話で片っ端から友達に今金縛りにあったぞと電話していました。その後頻繁に金縛りにあい岡沢町の家では自分の腹の上に老婆が乗っていたりしました。自分は霊感があるのか、憑かれているのかと思った時期もありましたが、今ではそんな事は笑い話です。長い間に対処法を見つける事ができるようになりました。いずれこの件についてはじっくり書いてみたいと思います。

リクエスト

 受けない日々が続き落ち込む毎日、しかし、やがて顔なじみの客から「さっきの曲いい曲だね、だれの歌?」なんて声をかけてくれる人も出てきました。又、リクエストされた曲を覚えてきて喜ばれ仲良くなった客もいたり、すこしづつですが慣れていきました。当時はやっていたのは確か「勝手にしやがれ」とか「気絶するほど悩ましい」 「あんたのバラード」あたりでしたか。片っ端から覚え歌っていくと徐々にリクエストも増えていきました。マンタロウが軽く優しいフォーク系だったので、自分は力こぶ系で流行の歌をいの一番に歌うことで受けを狙おうと思ったのです。とにかく歌うことが楽しかった。歌う場所があることが嬉しかった。そして実家はありましたがお金はありませんので稼がなければいけません。必死で毎晩汗びっしょりになって歌っていました。

リズムボックス

 ギターはたった六本の弦、これでコード(和音)を弾きリズムを出し、更にイントロや間奏でメロディを弾き、又、更に歌を歌わなければいけません。間奏で単音でメロディを弾くといきなりサウンドが薄くなってしまい、リズムも止まったようになってしまいます。そこでよく使ったのがプロビデンスのステージに置いてあったリズムボックス(ドラムマシーン)。四角い木の箱にカラフルな色のボタンが付いていて、ボタンを押すとエイトビート、ボサノバ、ルンバ、マンボなどのリズムが始まり、つまみで速さを調節、足でフットスイッチをおしてスタートストップをさせることが出来ます。なんて便利なんだと最初は感激しました。マンタロウは生演奏感がなくなるとあまり使いませんでしたが自分はこれをフルに利用しました。リズムの練習にもなりますし曲のレパートリーも広がりロックっぽい曲もできるようになったのです。

ウタバン

 この当時弾き語りの仕事にウタバンがありました。お客様の歌の伴奏です。この当時まだカラオケは普及しておらず、焼き鳥やスナックのカウンターに8トラックの安っぽいカラオケマシーンを見かける程度でした。音が悪く曲数も少ない、ましてこの頃は伴奏にあわせて歌える人があまりいません。でも酔って気持ちが大きくなると歌いたくなるのは今も昔も一緒。お店にとっても歌いに来る客は大切で弾き語りにとってウタバンは重要な仕事でした。

 しかし、この時飲みに来ているのは自分よりみんな年上ですから私が子供の頃ヒットした歌謡曲やムード歌謡がほとんどでした。又、昭和20年代に育った人は小さい頃からドラムのビートなどになじみがないのでかなりの人が小節というものを意識して歌えません。メロディを伸ばしたいだけ伸ばして歌いますから伴奏からずれてしまいます。
(美空ひばりなどアドリブでよくメロディを伸ばして歌いますが和音からはずれる事はないしちゃんと元のリズムに戻します。素人がまねをすると元に戻せず伴奏とずれたまま最後まで歌ってしまいます)
ほとんどがそんな人ですから伴奏する方は大変です。リズムボックスを止めたり始めたり挙句はリズムボックスを使うのもあきらめてしまった人もいます。合わせるのに本当に必死でした。

HEART&SOUL代表 原 正行)

 

HEART&SOUL
〒231-0014 横浜市中区真砂町3-33 CERTE11階
営業時間
平日:OPEN 19:00 CLOSE 4:00 LIVE START 19:50~
休・祝日:OPEN 18:00 CLOSE 24:00 LIVE START 18:40~
TEL:045-664-5569
JR関内駅徒歩より1分
地下鉄関内駅より徒歩1分
Websie http://www.heartandsoul-live.com/

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5月 10 14

長からむ 心も知らず 黒髪の 乱れて今朝は ものをこそ思へ

by staff

♪長からむ 心も知らず 黒髪の 乱れて今朝は ものをこそ思へ♪


絵・千絵崇石
 

 読み人:待賢門院堀川(たいけんもんいんのほりかわ)

 現代語訳・・・あなたに はじめて 心を許しました 昨夜の幸せは いつまで続くのでしょうか 思いに乱れた もつれ髪を 明日の櫛は 解きほぐす事が出来るのでしょうか。愛を得た 喜びの日から 女心に 不安がつきまとうのです。by 千絵崇石

 待賢門院堀川のこの歌は百人一首の中でも特に艶めいて官能的、と言われています。この歌を私は「花のいろは」の中に組み入れて歌っていますが、自分のメロディとこの歌がとてもマッチしていて曲の中ではクライマックスに近い部分を担っています。自分でも大好きなメロディーパートです。

 作者の待賢門院の堀川とは待賢門院璋子に仕えたお局様です。

 作者の事を知りたくてネットでいろいろ調べてみましたが、彼女が仕えていた待賢門院璋子があまりにもスキャンダラスな存在なので、つい興味もそちらに向かってしまいました。

 待賢門院璋子は白河上皇の養女となりその後、白河天皇のお孫さんの鳥羽天皇の皇后さまとして中宮に入ります。ところが白河上皇が養女としてそばにおいた時にどうやら彼女を恋人にしてしまったようで・・・・

 鳥羽天皇の皇后様として息子(後の崇徳天皇)を産みましたが、その子供は鳥羽天皇の息子ではなくてお祖父さんの白河上皇の子供だったと。鳥羽天皇はそんな息子の事を叔父子と言って嫌いました。鳥羽天皇の気持ちはよく分かりますが半端ないほどの憎しみでした。それでも未だ白河上皇が生きている間は上皇の威力で封じ込められていましたが、彼が亡くなって、その後はやはり鳥羽天皇の叔父子(崇徳天皇)嫌いがおおっぴらになされて物事はどんどんスキャンダラスな深みにはまってゆきます。(詳細は次号で・・・)

 最後の極めつけは鳥羽天皇が亡くなる前に、自分の死に顔を崇徳天皇には見せないようにと部下に命令して・・・。崇徳天皇は鳥羽天皇の崩御を聞いて駆けつけますが、亡骸と対面する事も出来ず門前払い。

 崇徳天皇は最後まで自分の存在が憎まれて厭われている現実を見せつけられるわけです。

 結局 白河上皇が自分の手を付けた女性を孫の嫁にすると言う人間としてやってはいけない道を踏んでしまった為の非劇がその後に続く保元の乱を生み出してゆくのですが。そのスキャンダラスな出来事の中心に居るのがそんな悲劇の天皇を産んだ待賢門院璋子でした。

 彼女はその後もこの一連のスキャンダルの渦に巻き込まれて夫である鳥羽天皇が寵愛した美副門院の息子を呪詛したと疑いをかけられて最後には出家します。

 そしてこの歌の作者の堀川も彼女に準じて・・ながからむ・・・と歌った自分の髪もバッサリと切って出家してしまいます。

 幼帝を立てて自分が後ろで政治を行う「院政」をうち立てた白河上皇。
 天国で自分の行った事の顛末を見せられてきっと恥じているのではないかしら。
 次回はこの非劇の主人公 崇徳院の歌を紹介します。

(早苗ネネ♪)

 

早苗ネネさん コンサート情報

公演名 京都 高台寺音楽祭
日時 6月14日 午後6時半開場 午後7時開演
出演 早苗ネネ(歌) WALTER SCHMID(ギター) 濱本遊水(映像)
入場料 ¥2,800円
高台寺 http://www.kodaiji.com/index.html

 

早苗ネネさん プロフィール

木々や鳥や魚や精霊…人間以外の存在達との交流が当り前に語れるくらい、いのちのひろがりに気づくと、共に生きている喜びや、苦しみや悲しみにもナイーブになる。

心と野生がひとつながりになると……こんな風に人は年を重ねられる。ひとりひとり、ユニークにもっと自分になれる。

早苗 Nene さんは、そういう人生の先駆者です。 感性を解放しながら、40代で高校生に仲間入り卒業後、マウイのカレッジに留学中、突然半生記が受賞しました。

そんな新たなシーズンを迎えて、今エッセンスを分かち合いたい。

<天性の歌い手>というだけでなく、その存在感、溢れる活性のバイブレーションは、光のシャワーのよう。彼女と語り歌い、魂の成長を旅している現在の、自分の位置を確かめてみませんか?

早苗ネネさんHP

 

4月 10 14

横浜からインターナショナル落語を!

by staff

 

「横浜落語を愛する会」の江口さんのお招きで、横浜にぎわい座で開催されたイベントに行ってきました。英語や中国語での落語を初めて見ました。凄いです!!感動です!!

桂福丸さん(英語名 アデランス・ハピネス・サークルとおっしゃっていました)は、「動物園」を日本語と英語で演じました。英語バージョンでされた落語の説明は秀逸でした。「No costume, No background, Only image・・・」という言葉を聞いたとき、落語の文化性の高さを改めて認識しました。

「落語は観客に自らのイメージで感じ取ってもらう芸なんだ」これまでは当たり前だと思っていたことを、福丸さんの説明で得心がいきました。

扇子を使って、ラーメンとそばとうどんの食べ方の違いを英語で表現してくれるなど子供たちにも楽しめる構成になっていました。

 

(クリックで拡大画像)

桂福丸さん
桂福丸さん

そばを食べている様子
そばを食べている様子

日本人が話す英語なのでとてもわかりやすいですし、ゆっくり話しているので私のように英語に不慣れなモノにも理解しやすかったです。

私はこの「英語落語」を横浜の小中学生に是非聞いてもらいたいです。英語に親しみが持てると思うし、教育効果抜群だと思うのですが・・どこかでやれないかしら。教育関係の皆様・・・一度見てください。

「ヨコハマNOW」編集長の辰巳氏が撮影した映像がYouTubeにアップされています。「論より証拠」・・お時間のあるときに是非ご覧ください。

余談ですが・・
桂福丸さん(写真右)は灘中・灘高・京大法学部出身の移植の落語家さんです。イケメンで若く見えますが、阪神大震災での被災など苦労人らしいです。産経新聞に記事が掲載されています。

京大出身の落語家・桂福丸さん 笑顔絶やさない妹に救われたあの日…「つらいときこそ明るく」と誓う

桂福丸 落語 「動物園」

桂福丸 落語 「動物園」

桂福丸 英語落語 「動物園」

桂福丸 英語落語 「動物園」

 

4月 10 14

キッチンスタジオ「ジュイエ」の天才をつくる料理事典(第7回) さくらスイーツと4月料理コースのご案内

by staff

さくらの季節のスイーツ

ジュイエの玄関も春の装いに
ジュイエの玄関も春の装いに

 

 今年の開花宣言は少し遅めだったでしょうか...しかし横浜のさくらも一気に満開になりましたね。本当に短い間しか咲かないさくらは日本を象徴するお花ですね。じっと寒い冬を耐え、一気に咲き誇り、潔く散ってゆく。その姿が日本人の心とマッチするようです。こんなにもはかない花を心待ちにし、その短い期間にこぞってお花見をするのはやはり、日本人ならではの文化ですね。

 もちろん、私もお花見は欠かさず。都合さえつけば何度でもやりたくなります。大勢ででもよし、少人数でもよし。手作りのお弁当を持って、さくらの元に急ぎます。

 実際、さくらの季節とは本当に短いもので、休みの予定と考え合わせるとお花見のチャンスは1.2回しかないのが現状。しかし、近年はやりの、さくらスイーツでなら、長くお花見が楽しめそうです。

 古来、日本のさくらスイーツは何と言っても『桜餅』。これには関西風と関東風があり、『道明寺』と呼ばれる関西風は、餅米を粗挽きにした道明寺粉で作ります。これに対し、関東風は『長命寺』。こちらは小麦粉の生地を薄く焼いた生地です。関西、関東と一口に言ってもその分布は複雑で、どっちの桜餅が思い出深いか、は皆さん一人一人に聞いてみないとわからないのかもしれません。ちなみに、横浜ではどちらが一般的なのでしょうか。

 さくら、という食材は他にもおまんじゅうに仕立てられたり、和菓子のイメージが強い物ですが、年々さくらの洋菓子が増えて来ました。さくらのプリン、ゼリー、ムース、マドレーヌ、マカロン、ロールケーキなどなど。デパ地下など覗いてみると、それは鮮やかなさくらスイーツに出会えます!淡いピンクの色合いも華やかなお菓子にぴったりですが、桜葉の塩漬けや花の塩漬けをあしらうことで、あまじょっぱくなり、お味にも変化あり人気があるのも納得です。

ジュイエのさくらスイーツ

 私の教室、ジュイエでもさくらスイーツにはとっても思い入れがあります。さくらが大好きな私が15年近く前に考案した『さくらのシフォンケーキ』は、当時はかなり珍しかったのではないでしょうか? (今は、シフォンもよく売られています。) さくらをスイーツで表現したい、と思ったときにふわっと、はかないシフォンケーキがぴったりとイメージにはまり、材料や配合を研究して作りました。このシフォンケーキは、雑誌やテレビでも紹介され、多い年には100台近く焼いたこともあります。なので、今でも私のお花見シーズンはさくらのシフォンケーキを焼く季節でもあります。北海道のお客様に教えられたのは、さくらシーズンは5月までつづくということ。日本列島の四季の移り変わりには時間差があることを知りました。

 ここ数年、シフォンをしのぐ勢いで人気があるのがさくらのマカロン。こちらもかわいらしいフォルムと、あまじょっぱいお味でご好評頂いています。ジュイエのお花見スイーツは、5月まで販売中です。

 あっという間に過ぎてゆくさくらの季節、スイーツを食べながらもう少しだけ楽しんでみてはいかがでしょうか?

 

さくらのシフォンケーキ
さくらのシフォンケーキ

さくらのマカロン
さくらのマカロン

 

4月の料理コースのご案内

 私が行なう料理教室では、毎月、フランス料理がコース2つと、家庭料理のコースを開講しています。フランス料理は、基本コースと応用コースの2コース。家庭料理の方は幾つかのメニューよりお好きなものを組み合わせていただけます。

4月のコース内容

フランス料理基本コース 『ミネストローネ、ジェノバペスト添え』
『ローストビーフ』
『マドレーヌ』
イタリアの代表的な野菜たっぷりスープ。さわやかな香りのジェノバペストも応用の効くソースです。憧れのローストビーフ、実は簡単に!? 和牛を使ったごちそうレシピ。デザートにはフランスの焼き菓子、マドレーヌ。バターの風味が豊かでお家で作れたら幸せなお菓子です。

ミネストローネ、ジェノバペスト添え

ローストビーフ

マドレーヌ

フランス料理応用コース 『タケノコと生麩の田楽』
『鯛しゃぶしゃぶ、鯛茶漬け』
『桜餅』
2014年度最初の月は、世界遺産にも認定された和食です。春の食材をふんだんに使って、美味しくて鮮やかな和食に挑戦!
家庭料理コース 今月も様々な冬メニューを御用意しています。
まめご飯やタケノコご飯など、春の食材の炊き込みご飯、鶏肉と根菜を煮込んだ定番料理、筑前になどが人気です。

 受講日程や、受講方法などは、キッチンスタジオ・ジュイエのホームページより、『料理教室』のページをご参考ください。

http://www.7juillet.com/kyousitu.html

プロフィール


フード・エデュケーション・コミュニケーター
キノケイコ

 

フード・エデュケーション・コミュニケーター キノケイコ

女子栄養短期大学卒業 栄養士免許取得
エコール・キュリネール国立(現 エコール辻東京)にてフランス料理を学ぶ
同校 フランス・リヨン校、フランス1つ星レストランにて研修。
帰国後、都内フランス料理教室にて、アシスタント、講師を務める
独立し、キッチンスタジオ・ジュイエ開設。
現在、フランス料理のみならず、家庭料理、玄米、麹料理など幅広い分野を得意とする。
URL:http://www.7juillet.com

 

4月 10 14

ビジネス梁塵秘抄「遊・献・学」(第13回)

by staff

大浦総合研究所 代表/大浦勇三

ビジネス梁塵秘抄「遊・献・学」(第13回)

遊びをせんとや生れけむ、戯れせんとや生れけん
遊ぶ子供の声きけば、我が身さえこそ動がるれ

- 梁塵秘抄 -

 “一灯を掲げて暗夜を行く。暗夜を憂うることなかれ、ただ一灯を恃(たの)め:言志四録” は江戸時代の儒学者・佐藤一斎の言葉です。この人物がいなければ日本の夜明けはなかったとの評価もあるほど。数年前、上野の国立博物館で佐藤一斎の7歳の書 “福寿” と74歳の書 “霊亀” を見る機会がありました。7歳での恐るべき老成と74歳における驚くほどの覇気に圧倒されたことを覚えています。幕末に活躍した佐久間象山・山田方谷・渡辺崋山・横井小楠などの師匠にあたります。勝海舟・吉田松陰・坂本龍馬にも大きな影響を与え、西郷隆盛に至っては終生の愛読書だったとのこと。人間を育てる、人間が育つことの素晴らしさや大切さを痛感しますね。梁塵秘抄では “幼き子どもはいとけなし、三つの車を乞ふなれば、長者は我が子の愛(かな)しさに、白牛の車ぞ興(あた)ふなる” とあります。子への愛しさ・うれしさから、三つの車(羊と鹿と牛の三車)より、もっともっと大きく立派な白い牛の曳く車を与えたとか。親の子への愛情はどの時代も変わりませんが、親がこの世からいなくならないと、そのありがたみがわからないという哀しさ。 “子供を育てる” “人を育てる” というのは時や場所を超えた一大事業。 “褒めること” “ハードルを設けること” “成功後の姿を示すこと” の重要性を説いたのは文豪・夏目漱石です。

“遊びをせんとや生れけん” 「遊」

面白い、やりたいと思ったらすぐやる チリ爆発事故の最大の教訓
何より絶対評価 計画の一日遅れは実行の百日遅れ、とは後藤新平
人気はフランスパン、普及はイギリス風 文化風土と多様性を遊ぶ
人生と生活にこれという正解はない いわんや、遊びにおいてをや

 生きていく上での絶対の正解はなく、好奇心を駆り立てられるものへの躊躇だけが御法度(ごはっと)。計画を立てて速やかに実行に移すだけ。失敗を気にしていては革新も創造も生れそうにありません。野球で打率3割といえば強打者の勲章ですが、それでも10回の打席のうち7回は打ち損じる計算。日本プロ野球の歴史でも、3割・30本・30盗塁を達成したのは過去8人を数えるだけとのこと。 “3” という数字は人間世界にとって一つの “魔数” なのかもしれません。後藤新平は計画の壮大さから “大風呂敷” と言われましたが、都市計画家として関東大震災後に帝都復興院総裁として東京の復興計画を立案したことでも有名です。しかし、計画立案だけでなく、その中に具体的な手立てを織り込み、遅れに対する厳格な基準を持っていたことは今日でも参考になりそうです。グローバル化の世界とは文化風土を背負いながら多様性に遊ぶこと。ただ、そのための抽斗(ひきだし)を増やす熱意だけは欠かせそうにありません。

“仕事をせんとや生れけん” 「献」

ピカソのキュビズムは 他を圧倒するだけの、デッサン力があってのもの
ビジネス 直観が土壇場では成否を分ける、その背後には鍛え抜いた論理
論理の量が直観の質の深化を生む プロジェクトでは失敗が後を絶たない
論理レベルを乗り越え感性・直観を重視 プロジェクトは祭りと得心する

 ピカソのキュビズムの背景には精密なデッサンが隠されています。バルセロナのピカソ美術館で見た15歳のデッサンは今でも脳裏に焼き付いています。アフリカ美術への傾倒や藤田嗣治が描く乳白色への探求など、必要とみた技術/スキルは手当たり次第に吸収する貪欲さ。これからのビジネスは “デジタル” と “アナログ” の総合芸術。論理と直観という視点から考えても、ビジネスが芸術から学ぶことは今後も山ほどありそうです。天敵がいるからこそ鳥も飛ぶしカエルも跳ねるというのが世の生き様。同じ場所に留まることこそ最大のリスク。そこに “遊び” という隠し味を忍び込ませる妙味。サッカーでは、新興勢力へのヤジはノーヒストリー(歴史なし)、古豪へのヤジはノーフューチャー(未来なし)。 “持続的競争優位” を構造的に築こうとすると墓穴を掘る、と米国クリステンセン教授。 “歴史も未来も” 両方を抱きしめながら、道なき道を歩むしかなさそうです。

“学びをせんとや生れけん” 「学」

激動期では 手堅いやり方はよさそうに見えてかえって危険、過去を引きずる
厳しいから逃げる口実を必死に探す 人間は動物、ペットでなくあくまで野生
日本には古きよき価値観 グローバル社会で十分通用、徳俵で花を満開にする
道場での立会なら志ん生に勝てるが野仕合となったら斬られる、と三遊亭円生

 日本では、慎重であることが美徳の一つとして大事にされ、それが一番安全という認識でした。リスクはマネジメントするというより凌ぐという感覚。しかし、激動期ではかえって危険に遭遇する機会を増やしてしまうという皮肉。ぎりぎりの徳俵で大勝負することも覚悟しなければならない時代になりました。かわいいペットを重宝して、野生であることの大切さを忘れて久しい感があります。 “圧倒的な量をめざす。量がすごいから巨匠だといわれたい” とは世界的彫刻家・流政之さん。ひたすらつくることで石の新たな力・彫刻の魅力を発見するためにも “つくり続けることに意味がある” との信念。芸術や研究開発でも “どれくらいやらないと世界で通用しないのか” という感覚の吸収が大切だという確信。正統派の三遊亭円生は落語界の王道を行った横綱ですが、真逆で八方破れの横綱・古今亭志ん生には一目も二目も置く度量の大きさと深さ。学ぶ価値がありそうですね。

「遊びは仕事、仕事は遊び」
「仕事は学び、学びは仕事」
「学びは遊び、遊びは学び」

 今回とりあげた「遊・献・学」それぞれの4行文は、拙書「ビジネス梁塵秘抄(一)~(八)」(全10巻)から抽出したものです。次回以降も「遊・献・学」から各々4行文を一つずつ抽出してご紹介していきたいと思います。

「ビジネス梁塵秘抄」購入ご希望の方はこちらからどうぞ!
http://www.syplus.jp/ooura/

(第13回了)

 

大浦勇三(おおうら ゆうぞう) プロフィール

大浦勇三(おおうら ゆうぞう)  

大浦総合研究所 代表 (http://www.mmjp.or.jp/ooura/

石川県七尾市出身。
早稲田大学卒業、筑波大学大学院修了。
米国経営コンサルティング会社 アーサー・D・リトル 主席コンサルタントを経て現職。
主担当領域は、経営改革/企業再生、経営戦略/情報通信技術戦略策定、業務改革/組織改革、研究開発/商品開発マネジメント、マーケティングマネジメント、ナレッジマネジメント、イノベーションマネジメント、サプライチェーンマネジメント、人材マネジメント、コーチング/メンタリング、プロジェクト/プログラムマネジメント、ベンチャービジネス支援等のコンサルティング。

筑波大学大学院講師、城西国際大学客員教授、名城大学講師、産業能率大学講師、中小企業大学校講師などを歴任。

主な著作物:

  • 「ビジネス梁塵秘抄(一)~(八)」<全10巻>(大浦総合研究所:PDF版)
  • 「イノベーション・ノート」(PHP研究所)
  • 「ITプロジェクトマネジャーのためのコーチング入門」(ソフトリサーチセンター)
  • 「図解 日本版LLP/LLCまるわかり」(PHP研究所)
  • 「IT技術者キャリアアップのためのメンタリング技法」(ソフトリサーチセンター)
  • 「よいコンサルタントの見分け方、かかり方」(清話会)
  • 「日本のモノづくり - 52の論点」<共著>(日本メンテナンス協会)
  • 「現場主導型の組織運営とスピード戦略」(日本監督士協会)
  • 「eコミュニティがビジネスを変える」<訳>(東洋経済新報社)
  • 「ナレッジマネジメントが見る見るわかる」(サンマーク出版)
  • 「図解 ナレッジ・カンパニー」(東洋経済新報社)
  • 「ナレッジマネジメント革命」(東洋経済新報社 )
  • 「図解 グローバル・スタンダード革命」(東洋経済新報社)
  • 「業務改革成功への情報技術活用」(東洋経済新報社)
  • 「情報化戦略と投資評価・システム運用管理の実際」<編著>(企業研究会)
  • 「会社改革実務辞典」<共著>(産業調査会)
  • 「プロジェクトマネジャー(PM)の育成・スキルアップのためのメンタリングの進め方と実践法」 (ソフトリサーチセンター:CD-ROM版)   など
4月 10 14

中小経営のニッチから国際化へ(第7回)

by staff

デジタルハリウッド大学大学院/NVD株式会社 松本英博

1.新規事業のブート

 新規事業の立ち上げ(ブートアップ)については多くの企業で悩まれていると思います。ブートアップの課題の多くは、情報収集と分析の不足にあります。

 新規事業を行う場合、少なくとも ①顧客、②商品、③競合と代替、④規制 などを具体的に前もって調べておく必要があります。さらに、前回 解説した自社の製品・サービスのコア・コンピュタンスも評価しておかねばなりません。

 綿密な市場調査で自社のコア・コンピュタンスは強く、採算が取れるというなら、迷わず事業化に進むのでしょうが、そのような理想的な場合は少ないことでしょう。一方で、コア・コンピュタンスも不十分、市場性も見えないという中で、新規事業をブートアップすることも無謀なことです。そこで、考えるべきことは、評価が低い内容が自社にとって可制御(コントローラブル)であるかが1つの目安になり、ブートするかどうかの判断要素にもなります。

顧客のニーズが弱い

 自社が、顧客のニーズを上げることができるか。これは、大手でも非常に稀にしか起こり得ない事項です。ですから、ニーズを上げる、喚起するには、多くの顧客に対して、自社だけでは無勢である現状を冷静に判断する必要があります。多くの成功事例で市場創造の事例があるようですが、それ自体稀であることを知っておく必要があります。もっともニーズが弱いといった調査結果を見ただけで、あきらめよと言っているわけではありません。ニーズが弱い要因を探る必要があるのです。

 ソニーのウォークマンは市場創造をしたといわれます。音楽を携帯し、いつでも、どこでも聞けることを創造したといわれ、生活スタイルを変えたとさえいわれます。しかし、ウォークマンを新規事業の商品として投入すると考えた時、果たして当時の市場調査では、圧倒的なニーズがあったでしょうか。

 当時のデータを持ち合わせていないので、正確でないかもしれませんが、ウォークマンは当初、一部のマニアに興味をもたれ、そこから次第に広がったと思われます。つまり、市場調査のようなマクロ的な数字だけでは読みられないものを見落としていた可能性があると言いたいのです。それは当時、潜在的なニーズだったでしょう。

 しかし、一部のマニアを良く観測するとそこに既に将来のニーズを垣間見ることが出来たはずです。ウォークマンを買った一部のマニアは、レコードコレクターや短波リスナー、オープンリールのテープレコーダに非常に興味をもった人たちで、いずれも、演奏家ではなく、良きリスナーであり、コレクターであり、音楽ファンであったはずです。彼らの共通性は、自宅で音楽を楽しむ人たちであり、自分で音楽を集め楽しむ人でした。つまり、ここで考えることは、発想の転換です。自宅でなく、ラジオのように、自分の好きな音楽を通勤通学で聞けたらといった、それまで常識とされた音楽を楽しむ場所や時間、個人の好みを追求すれば、「携帯型テープレコーダ」の発想に到達するには時間はかからないでしょう。持ち歩ける音楽の友へのニーズが、当時の顧客も気付いていない潜在ニーズであったのです。(これを見抜いた井深大氏には敬服します。)

 ニーズが弱いのはなぜか、そこには潜在ニーズはないのかといった問いが重要となります。それが見極められれば、後は市場投入の仕方であってマーケティング戦略の領域になります。

コア・コンピュタンスが弱い

 ニーズは旺盛でこれに応えれば、ニーズを満たし、売れると見られる場合があります。しかし、ニーズに応える自社のコア・コンピュタンスが弱く、訴求力がないとあきらめる場合もあるでしょう。

 顧客のニーズは動的で気まぐれです。これに一喜一憂するのではなく、ニーズのどこまでを自社が対応できるかを考える発想の転換が必要です。例えば、携帯電話です。今でも覚えている方がいるかもしれませんが、携帯電話は、車載が主流であってポケットに入るなど夢のまた夢と思われた時代もありました。当時の電電公社(現在のNTT)の最先端技術を投入しても、ハンディ(つまり肩掛けレベル)の移動機でした。しかし、このような大きさであっても、手に入れたい顧客はいました。社用車でハンディの移動機を利用して、市場の動きを見たり、顧客との折衝に時間勝負の金融関係の営業職の方たちです。もっと言えば、例え、大きくても固定電話を持って歩くわけにはいかず、ビジネスを進める上でも競合に勝つにも必要なアイテムが、大きな携帯電話であったのです。

 Nice to have(あればよいもの)ではなく、Need to have(なければこまるもの)である顧客を見出すことで、たとえ、ニッチであってもニーズがあり、必ず売れることになります。また、市場も国内だけでなく、海外までも目を拡げることも重要です。

2.3つの目線での事業計画

 事業計画書や目論見書、企画書をみてきた筆者の経験で言わせていただくと、多くの事業計画が一本調子であるときが多いのです。一本調子とは、予想シナリオが1つしか提示されず、前提条件が手前味噌といったものです。

 『○○はこれくらいのニーズがあるので、市場調査の結果××の市場規模、それを○○はシェア△%を獲得し、事業の基盤を作ります。』
といった表現で、言葉や規模は違っていますが、市場規模の何パーセントかを手に入れるといったものである。売り上げる根拠はどうなのでしょうか。おそらくは、新規の事業や企画を認めてもらいたいとの期待で、前提条件を甘くはしていないでしょうか。ブートアップしてから失敗することを避けるなら、予想シナリオにもっと現実性を持たさなければなりません。苦労するのは実行してからでは遅いのです。

 このようなことを避けるために次の3つの視点を筆者は提案します:

  1. ニーズが売上源泉であるため、ニーズが極端に①小さい場合、②想定通り、③予想以上の場合の3つの数字を設定してその前提条件を確認する
  2. シーズは時間関数であることが多いため、開発や提供時期、発売が、①大幅に遅れた場合、②計画通り、③計画よりも前倒しの場合の3つの数字を設定して、その可能性を確認する
  3. 強力な競合や代替手段が①予想よりも早く出てきた場合、②計画通り、③自社が先行する場合の3つの数字を設定して、その確率を確認する

といった視点で、①は、最悪計画(worst case)、最尤計画(favor plan)、最善計画(best case)の3つの予想シナリオを用意して検討してみてください。

※これまでの「創造方程式」による発想のトレーニングがしたいというなら、参考に拙著「ヒット商品を生み出すネタ出し練習帳」をどうぞ。

次回の予告

中堅企業の海外展開について考えていきます。

松本英博 プロフィール

 

松本 英博(まつもと ひでひろ)

デジタルハリウッド大学大学院 専任教授/NVD株式会社 代表取締役

 京都府出身。18年にわたりNECに勤務。同社のパーソナルメディア開発本部で、MPEG1でのマルチメディア技術の開発と国際標準化と日本工業規格 (JIS)化を行い、MIT(マサチューセッツ工科大学)メディアラボで画像圧縮技術を習得のため留学。帰国後、ネットワークス開発研究所ではWAPや i-モードなどの無線インターネットアクセス技術の応用製品の開発と国際標準化を技術マネジャーとして指揮。

 NEC退社後、ベンチャー投資会社ネオテニーにおいて大企業の新規事業開発支援、社内ベンチャーの事業化支援を行い、2002年9月にネオテニーから分離独立し、NVD株式会社(旧ネオテニーベンチャー開発)を設立、代表取締役に就任。大手企業の新規事業開発・社内ベンチャー育成などのコンサルティング 実績を持つ。

 IEEE(米国電子工学学会)会員、MIT日本人会会員。神奈川県商工労働部新産業ベンチャー事業認定委員、デジタルハリウッド大学大学院 専任教授、現在に至る。

 

4月 10 14

2014年4月 三ツ池だより 「昨日今日明日」

by staff
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 明日という日は明るい日と書く。一日は朝が来て夜になって終わる。考えてみるとおもしろいことに、夜が明けると朝になり、夕方の次に夜が来る。どう考えても夜が一日を橋渡ししている。しかたなく夜働くということから、夜を活動と決めて、それに見合う社会というのも不思議な世界である。夜もビジネスチャンスという時代はどんなものなのだろうか。

 振り返ってみると「不幸であったと思うことが幸いへ向かう分岐点であった」ことに気づかされることがある。失敗だと思っていたことが、いい経験になってあとで生かさせたということがある。昨日という日がさまざまにそのとらえ方で変わっていく。だから「過去は変えられると」表現が出来る。すくなくとも、昨日までこうしてきたから今日からはこうしていこうということはしばしばあることだ。

 新年の俳句に

去年今年貫く棒の如きもの
高浜虚子

 昨日と今日はつながりであるのに大晦日と新年はえらい気分の違いである。そして棒の軽重や色は問わないのである。ただただ断絶でもしているように無条件でめでたいのである。

菜の花や月は東に日は西に
与謝野蕪村

 春の句である。月と太陽が全く反対にあるのでなく、相互に関連している。陽がながくなり、陽が落ちるのが遅くなると、その分月が昇ってくるのが見える。「これこんなに陽がながくなったのだ」それはあかたも菜の花が光って、月も日も照らし出しているようだ。

 この原稿を書いているころには、日の出が早くなって、朝7時になると日は随分の高さまでに上がるって来ていた。

 4月1日に夢のいくつかを「夢がかなった」と情報発信してくださる方がいらっしゃる。「へぇー!よかったね!すごいね!」感嘆する。4月1日がエイプリルフールとわかっていてもだ。この方の夢が本当に熱望し、そうできたらいいね!と常日頃から感じさせてくれているのだ。そしてやっぱり4月1日の事だったりしている。でもこの方の凄さは、書かれたり、4月1日に実現したという発信されたことが、数年内に実現していくことだ。いま現実に海外でセミナーをしているのもそんな事実の実証だと感じている。

 「4月1日です。生きている喜びと感謝を伝えたくて、日常から感じることを本にしました。今日もあえてよかったね!」「明日に向けての一歩の方向が見えてきたよ!歩き出す勇気と向かう方向が整理できたよ!」「一人では何もできないけど、周りの人々が仲間だとおもえたら、情報発信出来、協力の力で思わぬことができるんですね!」「愛とは絆なんですね!命の伝承なのですね!生きるということも伝承なのですね!」「不幸は気づきなのですね!」「なにもないのではない。ないものはない。あるものを気づくこと!あると気づいたときに夢は広がる!」4月1日をどんなふうに過ごしてみたのでしょうか?

 春の句をもう一度見てみたい。

春の海ひねもすのたりのたりかな
与謝野蕪村

 のどかな春の海にふれたくなる。一日中のたりのたりと波打っているばかりだが、このとまったような時間の中に蕪村はなにをかんがえていたのだろうか。

大根挽き大根で道を教えけり
小林一茶

 大根はここでは「だいこ」と読む。大根を引き抜いている農家の人に道をたずねたのである。標識もない時代の旅なのであろう。

あらたふと青葉若葉の日の光
松尾芭蕉

 青葉若葉からこぼれる日の光の輝きに感謝と喜びを感じている。もしかしたら日光に立ち寄った時のものだろうか。芭蕉もまた旅の人であった。

うらやまし浮世の北の山桜
松尾芭蕉
鳥なくや独りたたすみ花の奥
正岡子規

 花は一人で見るのがいいと思う。花と自分との対比の中に何を感じるのかって?私の中のどこに花はあるのだろうか。

外にも出よ触るるばかりに春の月
中村汀女
朝顔につるべとられてもらい水
加賀千代

 「あれ!こんなところに春の月が!と気が付く。朝顔がこんなところにと嬉しくなって、一寸そのままにしてあげようと、わざわざ隣の家に水をもらいに行く。」

 忘れていないだろうか。時間に追われていること。自分の心と少し話をしてみることを!そうだ自分の時間なのだと。その中の少しの時間を自分のものとする。

ひこばえや君は静かに目醒めけり
横須賀詢

 いつのことだったろうか。入院している所に見舞いに来た孫と病院の外の草むらに行った。土筆があり、若草が萌えるようだった。その草むらを歩こうとしたら立ち止まってしまった。「草を踏んでもいいの!お靴を脱がないで歩いていいの!」とでも言うように!その子が今年小学校に入る。4月という月はスタートの時でもある。

 育ちあえる社内風土・お客様に寄り添ったサービス この会社で働けてよかった・社会に役立つ仕事をしているんだと実感できている。さまざまに夢が描かれて四月は始まったのだ。

 

Photos

(画像をクリックすると拡大写真が表示されます)

     
     

(文・写真:横須賀 健治)

横須賀 健治プロフィール

メジャーテックツルミ 代表取締役
はかることのプロとして50年です。
食品の放射能測定のアークメジャーを設立しました。
「計量から見える幸せ」をライフワークにしています。

 

4月 10 14

これからの中小モノづくり企業がやらなければならないこと

by staff

 

2014年度スタートダッシュセミナーを開催します

2014年度が始まります。
景気が上向きになってきたとは言え、消費税増税など中小製造業にはまだまだ厳しい経済情勢は続いています。

横浜売れるモノづくり研究会では、2014年度のスタートにあたって「これからの中小モノづくり企業がやらなければならないこと」というテーマでセミナーを開催いたします。

まず、神奈川県内の中小製造業の現場に精通しているかながわ経済新聞の千葉龍太代表に「~神奈川県の工業団地を歩いて~ 取材を通じて感じた・・元気な中小モノづくり企業とは」というタイトルでお話ししていただきます。

次に、自社開発の新製品で海外展開を図っている株式会社バイオクロマトの木下一真社長に「~どのようにして下請け体質から抜け出したのか~ 下請け体質脱却の鍵を握るノウハウと実例を紹介」というタイトルでお話ししていただきます。

また、千葉代表と木下社長が5月から開始される「笑顔になるための経営」ワークショップについてもご紹介いたします。

新年度にスタートダッシュをかけるために、明るく元気になるセミナーに是非ご参加ください。

お申し込みはこちらから・・・
https://www.supportyou.jp/monoken/form/3/

開催概要

日  時 平成26年4月24日(木) 18時30分~20時00分
(交流懇親会 20時00分~21時00分)
会  場 かながわ県民活動サポートセンター 405号室
〒221-0835 神奈川県横浜市神奈川区鶴屋町2-24-2
電話045-312-1121(代表)
横浜駅西口 徒歩5分
アクセス
参加費 1,000円(懇親会代は別途になります)
報  告 「~神奈川県の工業団地を歩いて~
取材を通じて感じた・・元気な中小モノづくり企業とは」
かながわ経済新聞 代表 千葉龍太 氏
事例発表 「~どのようにして下請け体質から抜け出したのか~
下請け体質脱却の鍵を握るノウハウと実例を紹介」
株式会社バイオクロマト 社長 木下一真 氏
http://www.bicr.co.jp/
申  込 下記の申込フォームに入力してください
https://www.supportyou.jp/monoken/form/3/

 

「売れるモノづくり」についてのご相談を承ります

いいモノを作ってもなかなか売れない・・・
製造業の方々からそんな悩みをよく耳にします。
どんなに良い製品でも、市場に受け入れられなければ「モノ」で終わってしまいます。

「横浜売れるモノづくり研究会」は、神奈川県在住の企業支援の専門家やITの専門家など多種多彩なメンバーで構成されています。

「横浜売れるモノづくり研究会」では、「製品の売り方をどうしたらいいか」
という企業のご相談を随時受け付けています。

毎月一回第二木曜日には、ご相談される企業と専門家が面談を行っています。

売れるモノづくりについてのご相談はこちらにご入力下さい。
https://www.supportyou.jp/monoken/form/2/

<問合先>
横浜売れるモノづくり研究会 事務局
(株式会社ともクリエーションズ内)
〒231-0004
横浜市中区元浜町3-21-2 ヘリオス関内ビル4階
TEL 045-226-3475 FAX 045-226-3476

メディア掲載情報

 

4月 10 14

書評 「そして、それから」 現代思想新社 村上香住子 著

by staff
 

「明けない夜はない。老漁師がみた3・11とは・」この帯が目に飛び込んできた。いままさに読まれるべき、また後世に残すものなのだ。

報道を残し、記録しいつも記憶の中にあることは必要だ。ここでは現地に入りリアルに状況をつかんだ著者の不意に生まれたストーリーであった。「自衛隊のヘリコプターで津波の通日後に南三陸に入った心理士の女性と知り合い、7月には再度現地に入った。そうして物資を運んで南三陸に行くようになると、それぞれの被災者たちの顔が忘れられなくなる。」そうしてつぎのようにあとがきが続く。「初めて入った被災地大槌のまだぬれた泥の中で、薔薇の花が咲いていたことや、ドラえもんの弁当箱が散らかった泥の海の向こうに立てられた何本もの赤い旗は、そこに遺体があることを知らせていた。そうした直後の混乱と倦怠を見た者として、それを言葉にせずにはいられなかったのだ。」

主人公の矢須男は漁師の家に生まれながら、近海の仕事にはまるで関心がなかったが、父の死が切っ掛けになり、女子供だけになった故郷の家を守ることが生まれついての家長のつとめだと、思うようになってきた。

「ワカメ採りはな、まんずおなごの髪束さすぐように、優しゅうすくいあげろ」通夜にきた親戚の二三男じいさんからおしえられたのだった。

その日「大津波がきます。大津波が来ます。」という防災センターの声に、矢須男はやっと船を出した。「津波がくる危険がある時は、即刻船を出して沖合に避難する。そうやって船の破損を防ぐという漁師の教えは、その辺りの集落では、昔から語り継がれてきたことだった。ところがそれを知ってはいても誰かが先頭を切るまで、動こうとしない。沖合に向かっていけばともかく船は安全だと知ってはいても、津波が今まさに襲いかかろうとしている時に、その方向めがけて突進するのは途方もなく勇気のいることだった。」

「おががっ」「この二月から彼は高齢の母親を私立志津川病院に入れている。そのことが急にきになったのだ。」沖でエンジンを止めて寒さをしのいでいた。目前の海面では、あいかわらず造船所が燃え盛っていた。みなとには無論高い防波堤もあるが、もう海洋にさらされた一帯に病院があったので、どう考えても、あの大津波には耐えたとは思えないのだった。

結局矢須男たちは、津波から三日目の朝全員そろって村に戻ることにした。「村の浜辺も接近してみるとすっかりがれきに埋もれて、まるで戦場と化していた。ごつんごつんと漂流物にぶつかりながらやっと矢須男は、板を降ろしてブリッジにするとそこからひらりと砂浜に飛び降りた。」
「先刻は全滅したワカメの筏をみて落胆した彼も、陸の被害はそれどころでなく、これからどうやって暮らしていったらいいのかさえもわからない状況だと知り呆然としている。これほどまでの過酷な現実だとしたら、そんな土地に、これから先一体どんな未来があるというのだろうか。」

矢須男の避難所に気仙沼のジョーキチがふらりとやってきて話をする。「港の方を振り返ってみると、もうその時下は濁流にのまれた後でした。すこしでも遅れていたら、今こうしていられなかったしょうね。」「山道の方にはまだ一面にがれきが散らばって、ごみ箱をひっくり返したみたいでしたよ。地面は泥土で滑りやすくなっていて、何度も足を滑らせて泥まみれになりながら近くの木にしがみつき、みんなもう無我夢中でした。」「少しいくと目前の大木の枝に白い袋のようなものが引っかかって、ぶらぶら揺れているのが見えました。よくみると、それは枯れ木のように痩せ細った老人だったのです。ほんの少し前までその人は自分たちと同じように呼吸をしていたのかとおもうと・・・」「だけどそんなのは、ほんの序の口でしたよ。あの日あれから、そうした遺体を、何体、何十体みたかわかりませんからね。国道のガードレールにぐるっと巻き付いた女性の遺体もあれば、二体が絡み合って何か柔らかい植物のように丸くなっているのもありました。」

矢須男は船を沖に出したおかげで、船も命も今ここにある。しかし今沖に出て漁が出来るわけでない。保障や仮設住宅などは被災の大きい人からなされる。避難所の生活はいろんな問題を抱え込む。少し知り合った男は「荒地で枝を切られ葉を剥ぎ取られ、とことん痛めつけられた葡萄はほど、糖分の多い葡萄が実るのだという。だから人間もとことん痛めつけられると、荒々しいくらいに人を愛したくなる欲望が湧いてくるのだ。」といい、避難所の世話人をしていた男が、外見はいかにも活発そうで、入所当時から避難所のルールを作ったりして、みんなの先にたって活動していたのに、避難所をでて仮設住宅に移るのが決まっていた前日にトイレのドアで首つり自殺した。最愛の家族を失った土地を離れにくいし、これからどうやって生きていくかも、ある意味酷だったのかもしれないと著者はつぶやく。

「娘のところから戻ってきた矢須男は、やっと沖に出る決心をしていた。」
著者は 「まだすっかり終わっていないけれど、いつかはきっと夜が明ける日が来るはずです。」 とあとがきに書き留めている。どんな災難があったとしても、最後まで希望を失ってはいけない。風化させてはいけないのだ。

(文:横須賀 健治)

 

 

4月 10 14

書評 「おもてなし力の磨き方」(人を動かすリーダーの) 日本実業出版社 蓬台浩明 著

by staff
 

 著者は株式会社都田建設代表取締役社長蓬台浩明さんで、2012年度経済産業省 「日本が誇るおもてなし経営企業」 に選ばれている。住まいづくりを軸としたライフスタイルの美、心の美、社風力による独自のマネージメントが高く評価されています。

{利他のこころ}
「おもてなしはサービスとは違い、担当する現場の方の温かい心と強い意志が必要になります。おもてなしというのは、個人の心と意思に依存しますので、マニュアルがありませんし、会社で規定をつくることもできません。すべて現場で考え、現場で対応することが重要になります。そのため、心のあり方が大切になるのです。」「人間力に大きく起因するのがおもてなし方ですので、リーダーこそが、人間力を鍛え、それをつたえていくことが最もたいせつなのです。」

「歴史をひもといてみれば、江戸時代中期に石田梅岩という思想家が“商いにおける利潤追求は罪悪ではない。ただし商いは正直にすべきで、けっして卑怯な振る舞いがあってはならない”と倫理観の大切さをおしえています。」と日本人の誇りであるおもてなしに項で触れている。「農村部においては、江戸時代末期に二宮尊徳が村民に勤勉と倹約の重要性を教えることによって、多くの荒廃した村々を復興させています。尊徳は人々の心を立て直すことにより、貧困にあえいでいた村を富める村に変えていったのです。」そして「おもてなしとは、人に対するおもいやりをカタチにすることだと思います。」と続きます。

{谷の心}
    「山は目立つが谷は目立たない
    山の山頂は険しく人をよせつけないかもしれない
    でも谷には人が集まり  沢ができ
    緑が生い茂り  町ができる  谷は自分を主張せず
    谷のまわりそもそもの魅力を活かす
    素直さ  謙虚さ  ありのまま」
だから「谷」の心を「欠く」と「欲」という字になるのですと話される。
「リーダーとして、一度谷の心になってみてください。まわりが、これまで以上によく見えるようになるとおもいます。」

{謙虚さ}
著者は “はっと” させる。それは「目上の方や各ジャンルの先輩方や尊敬する方たちから学ぶことは当然ですが、部下や子供たちからも学ぶことが出来る謙虚さ、素直さがとても重要です。」 「リーダーだからこそ、学び続け、どんな人からもどんな事態からも学ぶ力が重要なのです。これは、ある意味、能力を超えた努力だと思います。バカ正直に学び続ける力こそが、人格を磨くことになるのだと思います。」 「社会人が学ぶというのは真剣勝負です。さらにリーダーのあなたは、ふつうの社会人の学びのさらに上を行かねばならないのです。その上を行く学びをするからこそ、リーダーとしての自信がでてくるのではないでしょうか?」
だから「経営者は教育者」だといい、「おもてなし経営のためには気づく力を養い、それを経営に生かすことが必要不可欠」なのですと!
項目だけでも参考になる。「失敗からも楽しんで学ぶ」「自分自身の失敗はいきた教材」「完璧にできなくても気にしない」

{悩んでもクヨクヨしない}
どれも、どこも参考になるし、だれでもができることが書かれている。「最悪の出来事は最高の出来事」と言ってしまうのである。
「自分に乗り越えられそうにない大きな問題が来たときの対処方法はその悩みはすでに誰かも経験していると考えることです。自分以外のだれかも、まったく同じ悩みを経験し、そして普通に何事もなかったかのようにすごしているのです。世の中、人の数だけ悩みがあります。ですから、どこかに解決方法はあるでしょうし、誰かがその答えを持っているのです。」だから「人生最悪の出来事こそが10年後の自分をつくれるようになると思えるようになると、もっといろいろチャレンジして、自己嫌悪になるような失敗をしたい、というように失敗をおそれない心境になっていくのです。」と語られる。
とりだしたいことは山ほどあるが、それは本を手に取ったあとのお楽しみということにしておきたい。
究極のリーダーのあるべき姿について引用しておく。だれでもが素晴らしいリーダーにいますぐなれると思って生きていきたい。
    「強い念い!」
    「謙虚さと素直さ!」
    「持続する力!」
    「柔軟性!」
    「厳しさ!」
千年残る企業を目指し、このスタッフとその根幹を今この瞬間大切に作っている姿勢にすごさを感じている。

(文:横須賀 健治)

 

 

4月 10 14

名物会アイドル化計画!

by staff

 

春のイベントシーズン、間もなくスタート!

まだまだ寒暖の差はありますが、桜も咲き、すっかり暖かくなりました。冬の間、ごうどいちなど一部を除き、イベント出店が少ない時間が続きました。
間もなく、春のイベントシーズンが始まります!

まずは境木地蔵尊で毎年恒例の花まつり。お釈迦様の誕生日、4月8日(火)の開催なので、こちらが発行するころには終わってしまいますが、今年も満開の桜の下、楽しく出店させていただきます。

その他、ほどがや花フェスタ(5月17日(土))や毎月恒例のごうどいちなど、こちらの記事でもイベント情報を逐一お伝えしていきます。気持ちの良い季節になりましたので、ぜひ、お気軽におでかけください!

 

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去年の花まつりの様子
去年の花まつりの様子

 

本物を愛するホンモノのじじい

保土ヶ谷宿名物会は、東海道保土ヶ谷宿をテーマに長年、商品づくり・お店づくりに尽力してきた本物にこだわる商人・職人の集まりです。各自、とにかく「本物」ということに対して強いこだわりを持っています。今さらナンですが、この5名が一堂に集まるって、やっぱりすごい事です。先日、改めてそんなことを感じる機会がありました。

唐突かもしれませんが、只今、保土ヶ谷宿名物会のポスターを制作しています。しかも、掲載するのは各店の商品や店内ではなく、名物会会員の5名の店主です。

事の発端は、こちらにも今年の1月号に書かせいていただいた「名物って何だ?」の議論。この時に出た「本物でなければいけない」という意見から「本物のじじい」という名物会のテーマが浮上したことは、その時に書かせていただいた通りです。 実はこの時、「そのコピーで全員が写ったポスターを作ってみては?」という、(半ば悪ふざけ(?)な)意見が出ており、今回、実現してしまった、という流れです。

 

5人はアイドル!

で、せっかくの機会なので、撮影はプロのカメラマンにお願いすることになりました。撮影当日は本当に気持ちの良い晴天。はじめこそ、慣れない撮影に「戸惑いの色」が隠せない5人でしたが、カメラマンの誘導も上手なのでしょう。次第に表情も明るく柔らかくなり、「ノリノリ」は言い過ぎかもしれませんが、撮影を楽しんでいる感じが伝わり、ちょっぴり「キュート」(笑)。 史上初(?)平均年齢60代後半のアイドルグループ誕生の瞬間でした。

そんなことを書いてしまいましたが、なんと言っても保土ヶ谷を代表する5人の商人・職人。撮影風景を眺めながら、前述の通り、改めて、この5名が一堂に集まるって、すごい事だよな、と思ってしまいました。尚、ポスターはゴールデンウィークの前後から各店やイベント会場で掲示予定です。お楽しみに!

 

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5人はアイドル
5人はアイドル

 

レポーター プロフィール

山田浩和(やまだひろかず/Yamada,Hirokazu)

合資会社 笑う門 代表社員
保土ケ谷宿名物会事務局

1971年8月生まれ。獅子座のO型。保土ケ谷生まれの保土ケ谷育ち。
2003年、合資会社「笑う門」を設立。<オンリーワンの価値創り>のお手伝い。
会社設立時に制作したミニコミ誌がきっかけとなり、保土ケ谷のまちづくりにドハマリ。
現在、歴史や地産地消など、地域資源を活かしたまちづくりに幅広く取り組んでいる。

合資会社 笑う門 http://www.warau-kado.com

各社・各店・各個人が持つ十人十色・百人百色の目に見えない財産(経験・体験・知識・技術・ノウハウ・アイデア等)を活かした販売促進企画・商店街活性・まちづくりを推進しています。

業務内容 :
 ●シンボル制作
  ネーミング / シンボルマーク / ロゴマーク / キャラクター企画・制作
 ●広報(コミュニケーション)媒体制作
  ・簡易版会社案内(A4版三つ折り)制作
  ・ニュースレター(A4版)制作
 その他、フライヤー / ポスター / 小冊子 / 名刺 / のぼり旗 / エコバッグ / ユニフォーム、など

ヨコハマNOW掲載情報

 

4月 10 14

ヨコハマ・ディスコグラフィティー 第22回 第4章 フォークからニューミュージックへ 8

by staff


 
 

 

HEART&SOUL代表 原 正行

1958(昭和33)年9月7日横浜生まれ、12歳よりギターをはじめ17歳からミュージシャンとして活動。39歳の時に念願だったライブハウスを開業、現在は関内駅北口駅前に60年代から80年代の洋楽ヒット曲を演奏するライブハウス、ハート&ソウルの経営者。他にもミュージシャンとして演奏活動、作曲、プロデュース等、幅広く活動している。

 

第4章 フォークからニューミュージックへ 8 -1976年~1977年-

クロスオーバー

 海の向こうではクルセダーズやスタッフがそろそろ登場し始め、来たるべき80年代フュージョンブームの足がかりになっていきます。日本でもレコード会社所属のスタジオミュージシャンとは一線を画すロック上がりの若い腕利きのミュージシャン達が育ってきていて、これ以降のシンガーソングライターやアーティスト達のアルバムのクレジットを賑わしていきます。

 坂本龍一、佐藤博、深町純(Key)、細野晴臣、小原礼(B)。村上ポンタ秀一、林立夫(D)、花形はやはりギターでアメリカデビューから帰ってきた竹田和夫(G)、四人囃子を抜けた森園勝利(G)、ジャズから渡辺香津美、大村憲司(G)等、そしてこの年ソロデビューした高中正義(G)、Char(G)等々そうそうたるメンバーが活躍、クロスオーバー(ざっくりですが異なったジャンルの音楽の融合)なんて言葉が流行ったのもこの頃です。

 シンガーでも矢野顕子、桑名正博、山下達郎らがソロデビューしました。

 当時横浜のライブハウス “グッピー” などでよく目撃したのが高橋ゲタ夫(B)、ジョン山崎(Key)あまりの上手さにぶっ飛んでいました。

アイドルロック

 メジャー音楽業界もこの辺から変化を見せ始め夕方に放映していた “銀座NOW” などTV媒体をフルに活用しロック系アーティストから “アイドル” を育てる路線を開発していきました。「気絶するほど悩ましい」が大ヒットしたChar、「ティーンズブルーズ」の原田真二、「赤頭巾ちゃんご用心」がヒットしたロックバンドLAZYなどがブレイク! 硬派なロックファンからはやや冷ややかな視線(嫉妬?)で見られつつ女子中高生を中心に人気を集めていきました。

 歌謡界のピンクレディーやキャンディーズは中高生はもとより子供から大人まで大人気。又そのサウンドは腕利きの若いアレンジャーやミュージシャンが手がけてい、て歌謡界のレベルもここまで来たかと思わせるに充分でした。キャンディーズのバックは日本のアースウインドファイヤーと呼ばれた後のスペクトラム。コテコテのロックファンにも隠れキャンディーズファンは数多く存在しました。

沖縄サウンド

 この頃、ロックファンの注目を集めたのがアメリカから返還されてまだたいして日のたっていなかった沖縄から来たアーティスト達でした。アルバムが発売され、本土で盛んに演奏するようになると自然に私たちの耳に届くようになりました。酔っぱらい米兵の耳に鍛えられたミュージシャン達テクニックと迫力は驚きのサウンドで、ディープパープルのコピーから始まった “紫” 、特異な風貌とパフォーマンスがすごいインパクトだったコンディショングリーン、沖縄旋律をロックのビートに乗せた喜納昌吉&チャンプルーズ、「ハイサイおじさん」がありました、。

 最初は異文化を感じ、受け入れるまで少し時間がかかったような気がしますが、沖縄音楽の魅力は浸透していき今では根強いファンを獲得しています。喜納昌吉さんの「花」は永遠に残る名曲だと思います。

 

横浜、街と風(社会人編) 8(23)

弾き語り

 19歳になる少し前、吉野家の仕事にも慣れてきた頃に運命の一日が訪れました。

 高校時代の友人S君に誘われS君の知り合いが店長をやっている上大岡のプロビデンスという店に飲みに行きました。そこは上大岡駅前の鎌倉街道を隔てた、はす前にある上大岡会館というパチンコ屋の二階で、昼はレストランで夜はお酒も出すこじゃれた店でした。未成年が、今更時効だとは思いますが、この日は確か奮発してサントリーオールドをボトルで注文。この当時はその形状から “ダルマ” と呼ばれかなりの高級ウイスキーでしたが、ガキだと思われたくなかったのでかなり背伸びをしていました。やがて正面のステージにさらさらの長髪でこぎれいな大学生風の男の人がアコースティックギターを抱えて歌い始めました。オフコースの様な透きとおる高音とギターテクニックに感心していると、彼の弾いているそのギターはなんと憧れの名器マーティンD-28ではありませんか!

 ステージが終わりくつろいでいる彼に 「マーティンですよね、良い音しますね」 と話しかけると 「ちょっと弾いてみる?」 と言って触らせてくれました。自分は2万くらいの安いギターしか弾いたことがなかったので、当時でも30万円位したでしょう、ギターを感激していじくらせてもらっていると、横でその様子を見ていた店長さんが 「お前中々弾けるな、ちょっとステージで歌ってみないか?」 と一言。酔った勢いもありマーティンを貸してもらってステージへ、。35年も前なので定かではありませんが、確かデイブ・メイスンのギブミーアリーズンと陽水を歌ったと思います。お客さんもそこそこいてまあまあ受けたようでした。いい気持ちになって席に戻ると店長がやって来て言うことには、今いる弾き語りが事情があってやめるので良かったらその後釜にやらないか、ということでした。ギャラは月8万。夢のような話で即引き受けました。後から思えばこの日が私の人生を変えた運命の一日でした。

準備期間

 やると引き受けたもののギターはボロボロで安物のギターしか持っていないし、1曲通して弾き語りでちゃんと弾ける曲は30曲位。その殆どが中学生の頃のフォークソングばかりで、飲み屋さんのBGMにはしっくりいきません。大好きなビートルズはコーラスがないと殆どの曲はさまにならないし、バンドで歌っていたロックはギター一本ではとても歌えません。当時の歌謡曲はまったく興味がなかったので分からないし。。。。そうして考えるとお店でやれそうなのは10曲もない感じでした。

 そこでそのお店プロビデンスにギターを貸してくれた彼の演奏を研究しに通い、お客さんに受けの良い曲のチェックやステージでのおしゃべりなどを勉強しました。当時お客に受けていたのは流行の歌謡曲やフォークソング。プロビデンスは会社帰りの若いサラリーマンが多くてグレープ(さだまさし)やアリス、小椋桂など軟弱系フォーク寄りが人気だったので私にとっては苦手な分野でした。

 朝から吉野家で夕方まで働き、夜はひたすら流行の歌謡曲を覚えギターを練習、歌詞とギターのコードを書いたノートが40曲くらいになった頃初日が近づいて来ました。

弾き語り初仕事

 それまでプロビデンスのレギュラーで弾き語りをしていたのはマーティンを弾かせてくれた人で “マンタロウ” というあだ名で呼ばれていました。透き通るような高音は店に来るOL達に人気があり、自分より2つ年上で高校まで北海道に在住、ヤマハのポプコンの北海道大会で賞をもらい神奈川の大学入学を機に上京、シンガーソングライターでメジャーデビューを目指し夜は弾き語りのアルバイトをしながら生活していましたが、東京に行くために店をやめるということでした。まだ見習い同然の自分は仕事に慣れるまで2ヶ月程 “マンタロウ” と交代で30分位のステージを替わりばんこに演奏する事になったのです。

 そうこうしているうちに初日がやってきました。遊びに来て歌わせてもらっているのとは訳が違いギャラをもらうのです。たった一人慣れないアコースティックギター1本の弾き語りでしゃべりもやって30分くらいのステージを3回やらなければいけません。もうやぶれかぶれ。当たって砕けろ。開店からまだ少しなので客は3組程度でしたが夢中で歌いました。

 受けない。。。聞いてくれない。。。拍手もない。。。1ステージ終わったら汗びっしょりですっかり落ち込んでしまいました。その後 “マンタロウ” がステージに上がると彼は慣れたもので余裕で歌い、歌の合間のしゃべりで少しずつ雰囲気を盛り上げて背中を向けていた客も徐々にステージの方を向き出しました。10時頃にはお店も混雑して来てドサクサの中でなんとか初日が終了。 “マンタロウ” は歌も上手く、ギターのテクニックも駆け出しの自分とは雲泥の差。その差をまざまざと見せつけられ、はたしてこんな仕事が自分に務まるのか不安になってしまいました。

HEART&SOUL代表 原 正行)

 

HEART&SOUL
〒231-0014 横浜市中区真砂町3-33 CERTE11階
営業時間
平日:OPEN 19:00 CLOSE 4:00 LIVE START 19:50~
休・祝日:OPEN 18:00 CLOSE 24:00 LIVE START 18:40~
TEL:045-664-5569
JR関内駅徒歩より1分
地下鉄関内駅より徒歩1分
Websie http://www.heartandsoul-live.com/

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4月 10 14

ひさかたの 光のどけき春の日に しず心なく 花の散るらむ

by staff

♪ひさかたの 光のどけき春の日に しず心なく 花の散るらむ♪


絵・千絵崇石
 

 読み人:紀 友則(きの とものり)

 現代語訳・・・時が止まっているような、麗らかな春の光の中で、ひたすら舞い散る桜よ・・君は何故にそんなに散り急いでいるのか。

 とても静かな春の日に狂気とも思えるような桜の乱舞のVISIONが目に浮かびます。

 昨年の秋あたりから、この紀友則さんの歌が私の心の中で響いていました。ふっとした時に、お掃除しているときや、散歩がてらの買い物にゆく道すがら、この歌が心によぎるのです。そろそろメロディを付ける時が来ているのだな・・と思っていました、いつも新しいメロディができるときは心の中で言葉が先に響き始めます。でもこの歌は国語の教科書にも載っているような百人一首を代表するような一首なので、プレッシャーがあって・・・。 今年になってメロディが湧いてきて・・・最近やっと曲になりました。

 30代の頃、住んでいた家の近くに由緒正しい古いお寺があり、桜の大木が境内を囲む様に立っていました。ある雨上がりの春の日散歩に出ると、ちょうど桜が満開だったのにも関わらず、まだちょっと肌寒くて境内には誰もいません。

 静かな春の日差しの中で 雨に濡れた重みで桜がひらひらと散っていました。大きな桜の木の真下に立って舞い落ちてくる桜を眺めていたのを思い出します。桜はくるくると回りながら落ちて着ます。非日常としか形容できない不思議な時空間の中でシャワーを浴びるように頭上から降り注ぐ桜の散りざまを見つめていました。美しくて儚いひと時でした。くるくると回りながら散る桜。地球の自転と同じ右回りだったと思います。

 オーストラリアやニュージーランドなど南半球で咲く桜はやはり反対回りに回りながら散るのでしょうか。

 さて紀友則さんは、先月号の紀貫之さんとはいどこ同士。貫之さんよりもだいぶ年上で、古今和歌集では選者の筆頭に名前を書かれていましたが、残念です。完成する前に亡くなってしまいました。出世が遅くてご自分を花の咲かない木だと嘆いていたというのは有名な話です。ある秋の歌会で「初雁」をテーマに皆が歌を披露していました。友則さんもご自分の番になり詠み始めました。

 ♪春霞 かすみて往にし 雁がねは 今ぞ鳴くなる 秋霧の上に♪
現代語訳・・はるがすみに霞んで飛び去った雁が今また鳴くのが聞こえる・秋霧の上で。

 友則さんがはじめの句「はるがすみ~!」と歌い始めると、聞いていた人たちは季節が間違っていることでどっと笑いました。でもその後の句で 「あきぎりのうえに~!」で終わった時にその歌の展開の絶妙さに感嘆して皆 言葉もなかったということです。この歌会を境に、彼の出世の道は開けましたと さ。めでたし めでたし。

(早苗ネネ♪)

 

早苗ネネさん LIVE情報

日時:4月11日(金) 18:30~
場所:シャンパーニュ(東京都新宿区新宿 1-34-11-B1)
HP:http://www.champagne-live.com/

 

早苗ネネさん プロフィール

木々や鳥や魚や精霊…人間以外の存在達との交流が当り前に語れるくらい、いのちのひろがりに気づくと、共に生きている喜びや、苦しみや悲しみにもナイーブになる。

心と野生がひとつながりになると……こんな風に人は年を重ねられる。ひとりひとり、ユニークにもっと自分になれる。

早苗 Nene さんは、そういう人生の先駆者です。 感性を解放しながら、40代で高校生に仲間入り卒業後、マウイのカレッジに留学中、突然半生記が受賞しました。

そんな新たなシーズンを迎えて、今エッセンスを分かち合いたい。

<天性の歌い手>というだけでなく、その存在感、溢れる活性のバイブレーションは、光のシャワーのよう。彼女と語り歌い、魂の成長を旅している現在の、自分の位置を確かめてみませんか?

早苗ネネさんHP

 

4月 10 14

保土ヶ谷区と岩手県山田町を繋ぐパイプ役になりたい
株式会社ケーアイ代表取締役 石崎久仁王さん

by staff

 生まれ育った故郷、岩手県山田町の「三陸やまだ漁協」から届いたサケの受精卵を孵化させ、保土ヶ谷区内の幼稚園、小学校、中学校、高校、養護学校の生徒さんが稚魚に育てて、帷子川に放流しています。 保土ヶ谷区と山田町を繋ぐパイプ役になりたいと活動されている株式会社ケーアイの石崎久仁王さんのご登場です。

株式会社ケーアイ代表取締役 石崎久仁王さん
株式会社ケーアイ代表取締役
石崎久仁王さん
 
お名前 石崎 久仁王(いしざき くにお)さん
ご出身 岩手県山田町
ご年齢 昭和21年生まれ 67歳
お仕事 株式会社ケーアイ代表取締役
保土ヶ谷区上菅田町
活動 『三陸やまだ漁協』を応援する会
ふる里山田 同郷の会 副会長
『まつ山寄席』協賛会
上菅田チビッコ『すず風ロードまつり』実行委員会

岩手県山田町とは

 生まれ故郷の岩手県山田町は、宮古市と釜石市のちょうど真ん中にあります。三陸海岸(陸中海岸国立公園)の船越半島と重茂半島に囲まれた山田湾は内海で波も穏やか、カキの養殖イカダが浮かび、ホタテやウニ、アワビ、サケ、わかめなどの海産物の宝庫です。そして、海水浴や水遊びにも適したところです。また、山と美しい自然にも恵まれ、山ではマツタケやシイタケが採れます。

 私は学生時代、そこでイカ釣りやアイナメ釣りを楽しみ、自然の中でのびのびと過ごしました。卒業後、就職のため戸塚に出てきました。そして、独立のチャンスをいただき、上菅田に移りました。この横浜には49年住んでおります。

岩手県山田町のホームページ
山田町を応援するよ!facebook

復興支援に何かできないかと思いました

 東日本大震災で、山田町を津波が襲い、町は大きな被害を受けました。この惨状を上菅田でテレビのニュースで知った時は、しばらくは言葉も出ないほどの衝撃でした。

 山田町出身の私は、保土ヶ谷区と山田町を繋げるパイプ役になろうと思いました。同郷のみなさん及び上菅田町内の有志のみなさんと『三陸やまだ漁協を応援する会』を立ち上げ、保土ヶ谷区のあちこちの商店街のイベントに山田町の名物『カキ小屋』を出店したり、特産品のブースを出したりして、「山田町」をPRしました。

 三陸やまだ漁協の組合長生駒氏とも話したことですが、山田町の知名度を考えると、PRは必要だと思いました。横浜市から派遣された役所の方々も、宿泊施設の充実している宮古市や釜石市に入ってしまいます、山田町の復興支援のお願いをどうしたら良いのかが会の課題となりました。

帷子川(かたびらがわ)にサケを!

 帷子川の清掃活動を地元のボランティアや会などが行い、帷子川がキレイになってきました。保土ヶ谷法人会では、社会貢献運動として、帷子川の清掃活動を行っています。川から壊れた自転車が何台も出てきたのには驚きました。また、法人会では、毎年、横浜の水源地『ヤビツ峠』の森の下草刈り、及び清掃活動を行っております。山がキレイであれば、川がキレイになり、川がキレイになれば、海がキレイになるのです。この清掃活動のおかげで川の水質が随分と良くなりました。川沿いを良く散歩するのですが、臭くなくなりましたね(笑)


帷子川の公園親水護岸:ここでサケの稚魚を放流する

 復興イベントの『カキ小屋』や物産展も良いのですが、復興とは普段の販売ルートの復興でもあって、イベントの特需ばかりでは、継続的な販売ルートの復興に繋がらないと思うのです。イベント向けに出荷して、販売したい正規のルートに影響が出てはいけないことだと思いました。そこのところは、支援する側と支援される側とが情報を出し合っていく必要を感じました。人の記憶も時間と共に薄れて行きます。山田町のこと、震災のことをいつまでも忘れないで欲しいと思った時、『サケ』で故郷と繋げようと思いました。

隅田川のサケの放流に学ぶ

 隅田川ではサケの放流を30年も続けて行っています。山田町が受精卵を供給し、「隅田川鮭の会」が主催で「放流」を行っています。東京海洋大学のキャンパス内にある放流池から、地元の小学生などがサケの稚魚を放流します。

第30回隅田川鮭の放流についてはこちら

 このイベントには企業やいろいろな会などの寄付もあり、山田町の『岩手県山田境田虎舞保存会』の虎舞が呼ばれています。2頭のトラが、海上での安全祈願と大海に出る稚魚が無事に戻るようにと踊ります。帷子川の『サケの放流』でみなさんに、この虎舞を見せたいと思っていますが、踊り手や世話役など十数人を招くには、活動費が足りておりません。とても残念です。

 隅田川のサケの放流では、東京海洋大学の協力もあって、サケの生態や放流に適した日の水温や気温の情報が配信されています。

 帷子川のサケの放流は、飼育した子供たちが春休みに入る前の3月9日に行いました。いろいろな情報は『隅田川鮭の会』から得ております。今年2回目ですが、これからもずっと続けて行きたいと思っています。

 子供たちは、サケを川に放流することによって、川や海に関心を持ってくれます。そして、サケの卵を贈ってくれた『山田町』のことにも関心を持ってくれます。子供たちがいつの日か山田町を訪れてくれたら嬉しいですよ、それはもう(笑顔)


サケの稚魚/放流前日の様子:写真提供 寺井由紀子氏

サケの放流関連情報

石崎さんにとって横浜とは

 『ダンゴウオ』~海の底から見た震災と再生 鍵井靖章 (新潮社)の写真集の中に遡上してくるサケの写真があります。

 また、最近の牡蠣イカダの写真には驚きました。津波によって海底のヘドロが流されて、海の生態系が変わり、養殖している牡蠣にムール貝が付着するようになりました。そんな海の中の写真を撮られている鍵井さんの写真展、パネル展を考えています。

 私にとっての横浜はいろいろな方々との輪が広がる場所です。

新潮社「ダンゴウオ」はこちら

インタビュー:寺井由紀子氏(横浜カーフリデー実行委員会理事) 文・写真:高野慈子

 

3月 10 14

朝市に魅せられて

by staff

 

 
2014年2月11日。
この日は、昨秋から準備を進めてきた「かながわ朝市サミット」が開催されるはずの日でした。座間市立東原小学校校庭の会場には150を超える出店者と、座間市のゆるキャラ「ざまりん」も登場してイベントを盛り上げることになっていました。

ところが、2月8日の大雪でイベントの開催はできなくなりました。断腸の思いで「中止」を決定し、出店者の方々に連絡しました。2月11日、私は東原小学校の正門の前に立ち、来て下さった方々に「中止」を伝えていました。

今回の2回にわたる大雪は、首都圏各地に多大なる被害をもたらしました。農家の方はもちろんのこと、観光地や飲食関係でも想像以上の被害がでているようです。大雪により被害を受けられた皆様に心からお見舞い申し上げます。

今回の「かながわ朝市サミット」のために、「朝市ネットワーク」の仲間たちが中心となって「かながわ朝市ガイドブック」を作りました。

「かながわ朝市ガイドブック」は、神奈川県内の朝市を紹介している冊子で、これを見れば、どこでいつどのような朝市が行われているかがわかります。

私が「コマ大戦」で出店している「商大バザール」(横浜商科大学)も掲載されています。「商大バザール」については、2013年12月の「ヨコハマNOW」で紹介させていただきました。
http://yokohama-now.jp/home/?p=10691

 

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座間中止の現場
座間中止の現場

神奈川朝市ガイドブック表紙
神奈川朝市ガイドブック表紙

商大バザール
商大バザール

 
私が仕事で「朝市」に関わるようになって一年ほどになります。その前から、週末は朝早くから厚木や茅ケ崎の朝市に出かけていました。

「朝市」の魅力は、何と言っても新鮮な野菜や魚が手に入ることです。そして、お店の方や生産者の方と直接にお話ができることも魅力です。現代社会で失われつつある「対面販売」が「朝市」にはあるのです。

先日、湘南藤沢地方卸売市場で毎週土曜日に開催されている「湘南朝市」に行ってきました。卸売りのお店が並んでいる中に、人だかりができていました。お魚の袋詰め販売をやっていたのです。様々な種類のお魚や貝がビニール袋に詰め放題で400円でした。価格が安いだけでなく、どれだけ詰められるかを楽しめました。

市場の外では、生産者の方々が野菜を販売していました。「これおじさんが作ったの」「そうだよ。みんな美味しいよ。」「今朝とってきたのだから間違いないよ。」そんな会話が交わされるのも「朝市」ならではです。

皆様も是非お近くの「朝市」に出かけてみてください。いい出会いがあると思いますよ。

※「かながわ朝市ガイドブック」をご要望の方には実費(200円)+送料でお送りいたします。
「ヨコハマNOW」のお問合せ欄にご連絡ください。
http://yokohama-now.jp/home/?page_id=5

 

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湘南朝市

湘南朝市

湘南朝市

湘南朝市
湘南朝市

 

3月 10 14

キッチンスタジオ「ジュイエ」の天才をつくる料理事典(第6回) ハマグリと3月料理コースのご案内

by staff

3月3日はひな祭り

 ひな祭りと言えば、ちらし寿司とハマグリのお吸い物を召し上がる方も多いのでは?ハマグリは、2枚貝の中でも、対になっているもの以外は合わないので、仲の良い夫婦を表し、一生一人の人と添い遂げるようにという願いが込められた縁起物なのです。また、旬もこの時期のために、ひな祭りに食べる風習が生まれたようです。

 日本では古来から沢山とれたようで、貝塚に残された殻はほぼハマグリだそうです。しかし、近年収穫高は極端に減り、今では国産のハマグリはスーパーでも少なく、また高価な値がつけられています。代わりに中国、韓国、台湾産などが多く出回りお値段的にも手に入りやすくなっています。

 ハマグリは、高タンパク低カロリーの食材で、また鉄分やカルシウムも多く含むので特に貧血や骨粗しょう症などが多い女性に嬉しい食材です。逆にβ-カロテン、ビタミンCなどが不足しがちなので、緑黄色野菜と一緒に取るのがおすすめです。ハマグリのお吸い物に、菜の花を入れられる方も多いと思いますが、ハマグリのエキスを存分に楽しむ、『ハマグリと菜の花のパスタ』をご紹介します。

 


 


 

ハマグリと菜の花のパスタ (2人分)

スパゲッティー(細めの麺)
オリーブ油
にんにく
唐辛子
はまぐり
白ワイン
菜の花
160~200g
大さじ2
1/2片
1/2本
小10個
50cc
1/3束
  1. 大きめの鍋にたっぷりのお湯をわかし、塩を入れる。海水程度の味にする。
    スパゲッティーを入れ,表示の時間より1分短めにゆでる。
  2. フライパンにオリーブ油、薄切りのにんにく、種をとった唐辛子を入れ、火をつける。弱火で2~3分かけて香りをだす。
  3. 香りが出れば、砂抜きをして殻を洗ったハマグリを入れる。白ワインも加え、蓋をして、貝の口が開くまで熱する。
  4. スパゲッティが茹で上がる、2分前に3センチ長さに切った菜の花を加える。
  5. 茹で上がったスパゲッティを3のフライパンに入れ、煮汁とオリーブ油を加え,よく混ぜる。塩、胡椒で味を調える。

 

3月の料理コースのご案内

 私が行なう料理教室では、毎月、フランス料理がコース2つと、家庭料理のコースを開講しています。フランス料理は、基本コースと応用コースの2コース。家庭料理の方は幾つかのメニューよりお好きなものを組み合わせていただけます。

3月のコース内容

フランス料理基本コース 『貝のスープ』
『スパゲッティカルボナーラ』
『カスタードプリン』
春の到来です。貝を使って、春色のスープを作ります。シンプルなスープほど、調理の仕方で差が出ます。お家で作ると難しいそうなスパゲッティカルボナーラ。上手にできるコツをお教えします。お家パスタの定番に!みんな大好き、カスタードプリン。是非、マスターして下さい。大きくつくるプリンは、皆の歓声が聞けますよ!

貝のスープ

スパゲッティカルボナーラ

カスタードプリン

フランス料理応用コース 『かぶとホタテのサラダ』
『子羊のロースト』
『ウィークエンド』
この時期甘いかぶを丸ごと使っておしゃれな前菜に仕立てます。新しいかぶの魅力を発見して下さい。なじみのない子羊のロースト。実は子羊は体にもいいんです。お家でも挑戦してみましょう。ウィークエンドは、レモンがさわやかに香る焼き菓子。日持ちもする優れものです。
家庭料理コース 今月も様々な冬メニューを御用意しています。
人気の品は、中華まん、茶碗蒸し、ちらし寿司などです。

 受講日程や、受講方法などは、キッチンスタジオ・ジュイエのホームページより、『料理教室』のページをご参考ください。

http://www.7juillet.com/kyousitu.html

プロフィール


フード・エデュケーション・コミュニケーター
キノケイコ

 

フード・エデュケーション・コミュニケーター キノケイコ

女子栄養短期大学卒業 栄養士免許取得
エコール・キュリネール国立(現 エコール辻東京)にてフランス料理を学ぶ
同校 フランス・リヨン校、フランス1つ星レストランにて研修。
帰国後、都内フランス料理教室にて、アシスタント、講師を務める
独立し、キッチンスタジオ・ジュイエ開設。
現在、フランス料理のみならず、家庭料理、玄米、麹料理など幅広い分野を得意とする。
URL:http://www.7juillet.com

 

3月 10 14

2014年3月 三ツ池だより 「ほこりのもてた三月でありたい!」

by staff
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 二月の終わりの夕方の交差点で立ち止まっていると、コートの襟を少しつまみたくなった。陽が落ちてからすぐに薄く暗闇が襲い、急速に暗くなって、寒さを感じた。信号を渡って私はKALDIに入って、モカブレンドをペーパーフィルターように挽いてもらった。

 三月ってなぜに慌ただしいのかと考えてみた。国の会計年度が4月に始まり3月をもって終わるときめたのは明治19年1886年だった。それまでは藩ごとの取り決めで行われていた。明治政府が近代化に踏み込み暫時さまざまなことが西洋を見習って導入された。ちなみに入学式も西洋の教育が導入され、高等教育では9月が主流だったという。外人が教師で着任するのに9月がよかったということだ。小学校が4月入学と決められたのは明治33年1900年のこと。「桜が咲き、植物が芽吹く春は新しいことを始めることが、日本人の感覚とあって、3月が卒業式、4月入学式が日本独自の儀式として定着した。」114年前のことであった。

ちなみに世界の入学式は次の通りだ。

1月 シンガポール 1月末から2月初め オーストリア・ニュージーランド
3月 韓国 4月 日本 5月 タイ 6月 フィリピン
9月 アメリカ・イギリス・ベルギー・ロシア・中国

 4月の入学式が当たり前と思っていたが、全体的には4月ではないのだった。当然のこと3月が卒業式ではないことになる。

 卒業式というと「蛍の光」を思い出すのが私の年代である。小学唱歌は明治14年1881年制定されている。蛍の光はスコットランド民謡で、「オールド・ラング・サイン」という讃美歌として日本に入ってきていた。唱歌として歌詞を付けたものであったようだ。蛍雪の明かりをたよりに夜分勉強をするという考え方に自然になじんでいた。

 ところで、今年の年度末はなにかと慌ただしい。消費税の駆け込みなのかもしれない。

 期末の納品、新年度に向けての仕込みの事業などに追われている。例年になく、会議の質も求められている。

 「使う人が喜んで使ってもらえる状態を作っているか?」という課題である。

 使う人の目的があるはずである。仕様書に出てくる内容はもちろんクリアーにすることである。そこに至る段階で、例えば仕様書にどこまで盛り込まれているかを考える時がある。仕様書通りやりましたで済むわけではない。仕様書を書く人、仕事を請け負う方双方の思いがうまく一致することが望まれてくる。もちろんそこにコスト意識が必要なことは当然である。一方そこにおける価値とはなんだろうか。

 国家予算が空前の大きさになっている。国民の喜びに結びついているのだろうか。国家を預かる者は本気で議論しているのだろうか。大きくなった要因をなにがどれだけで、将来どうなるということを見通しての予算なのだろうか?

 春の句を見てみよう。

山路来て何やらゆかしすみれ草
松尾芭蕉
春泥に押しあひながら来る娘
高野素十
たんぽぽや日はいつまでも大空に
中村汀女
若あゆの二手になりてのぼりけり
正岡子規

 この子規の句の中に夢を感じている姿が見られる。正岡子規がこのなかで自分が若鮎だと思っているわけではないのだと思う。仲間がいや日本が当時動いているそのことに、これからの日本に託された夢を希望として表現していると思う。

 今日本は高齢化の時代に入っている。高齢者が自立できる仕組み、それは昔の隣組であるはずである。町内会館がもっと見直されていい。長い間町内会館は行政の補完の役割を果たしてきた。時には町内の顔役の人に頼ってきた。それだけでいいのか。町内会館、地区センター、などが連携する動きはないのだろうか。自立とは何かの役立ちに身をおくこと。その交流の接点がそれらの場になること。

 中小企業であればなにかの会に入ることもあるが、産業振興会館の広場に相談コーナーや交流の場があるといったこと。目的があって訪問する場所がわかる人もいるが、行ってみると自然に自分の求めているコーナーにいけて、話を聞いてもらえた。そんな場があったらいい。

 喜びのなかで仕事をしていたい。仕事をしていることで生きてきた自分の歩みに誇りが持てた。そんなことも考えながら新しい年度にむけての3月でありたいと願っている。

 

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(文・写真:横須賀 健治)

横須賀 健治プロフィール

メジャーテックツルミ 代表取締役
はかることのプロとして50年です。
食品の放射能測定のアークメジャーを設立しました。
「計量から見える幸せ」をライフワークにしています。

 

3月 10 14

ビジネス梁塵秘抄「遊・献・学」(第12回)

by staff

大浦総合研究所 代表/大浦勇三

ビジネス梁塵秘抄「遊・献・学」(第12回)

遊びをせんとや生れけむ、戯れせんとや生れけん
遊ぶ子供の声きけば、我が身さえこそ動がるれ

- 梁塵秘抄 -

 破竹の勢いのナポレオン軍60万によるロシア遠征は、ロシア軍によるモスクワ焦土作戦や冬の到来などもあり、飢餓・疾病・厳寒に直面して退却を余儀なくされました。崖っぷちの劣勢を凌いだロシアのクトゥーゾフ将軍は “戦いにおいて最も重要なことは最後の勝負に勝つことだ” と言い放ったとか。そういえば、伝説の西鉄ライオンズを率いた三原脩監督も、6回裏まで劣勢の試合での周囲の罵声に対して “野球は6回まででなく9回までの得点で争うゲーム” と選手を鼓舞して最後まで勝負をあきらめず、7回以降に逆転することがしばしばあったといいます。 “オマハの賢人” と崇められる米国の著名投資家ウォーレン・バフェットは長期投資を基本スタイルとし、 “私が一番投資したい先は<永遠>”  と短期決戦ではなく長期・超長期での最終章の決着を大切にしているとのこと。梁塵秘抄では “萬劫年経る亀山の、下は泉の深ければ、苔生す岩屋に松生ひて、梢に鶴こそ遊ぶなれ” とあります。長寿のシンボルである枯れぬ泉・苔むす岩・青々たる松。人間は遊び・仕事・学びに時を費やす生き物。であれば面白おかしく少しずつシンプルにしていけということでしょうか。ただ、安定はあくまでも幻想。生きる環境は刻々と変わります。その変化こそ脅威ではなく機会。99%を捨てて1%に集中する “最後の勝負の舞台” をどこに置くかは、誰にとっても大仕事といえそうです。

“遊びをせんとや生れけん” 「遊」

これだ、と思い込んだ一筋の道 じっくり知を蓄積し、うまくいけば富も築ける
困難は次から次へとやってくる 重くとらえない、できるだけ簡素に受け止める
めざす位置から知の肩車に乗り今を振り返る 除去すべき悪さや障害がはっきり
感覚を言葉と論理でサポート 三石-しんぼう石・観察石・長寿石、と徳川家康

 徳川家康のリーダーシップは、絶望の中での包容力にあるといわれます。困難も、めざす位置から肩車に乗って冷静に観察すれば違う景色が見えてきます。久能山の菩提寺に家康が自省のために置いたのが三つの石。徹底した観察と寛容、感得と熟考の重要性を教えてくれます。 “不自由を常と思えば不足なし。勝つことばかり知りて負くること知らざれば、害その身にいたる” ということでしょうか。日本画を代表する画家の一人で、日本の四季と生活する人間の姿を描くことに突出した川合玉堂も “画風、一日にしてならず” と日々苦悶し続けたといわれます。真のプロフェッショナルとは、技を超えて宇宙観・人間観・仕事観などの見識を辛抱強く磨き続ける人間ということですかね。天下を手中にして恐れることが何もなかったはずの太閤秀吉も “長谷川等伯の絵にはほっと一息つける空間がある” と漏らしたといいます。

“仕事をせんとや生れけん” 「献」

ヘンリー・フォード 顧客に何が欲しいか聞いたら、もっと速い馬がいいと答える
DVD ビデオデッキが前提であれば、もっと速く巻き戻しできればベターとなる
その延長線上に、自動車・DVDは存在しない 絶対という視点を極力相対化する
顧客には未来を想像する助けを求めない・期待しない 果報は練って待つしかない

 社会・市場が激変し、顧客は自分が何を欲しいのかさえ的確に語れなくなっています。顧客に頼っていけないことは昔も今も同じようで、自らの手と足と頭でウォンツを掘り起こしていくしかなさそうです。自動車の育ての親といわれるヘンリー・フォードは、T型フォードを世界で累計1,500万台以上も生産し、社会と産業・交通に革命をもたらしました。安価な製品を大量生産しつつ、労働者の高賃金を維持する “フォーディズム” の創造者でもあります。他の企業の倍近い賃金を奮発、周囲の疑問に “回り回って社員が顧客として参加してくる” と語ったといいます。消費者優先主義が平和・繁栄の鍵だという動かぬ信念。 “お金を出させるのでなく出したくなる” 戦略。発想やアイデアをメモにして抽斗(ひきだし)に入れる習慣は知識ベースの源泉。ただ、一番のお値打ちは、その心掛けと行動が自然と脳の抽斗に収まるという点にあるのかもしれませんね。

“学びをせんとや生れけん” 「学」

世界一になるためには世界一になる方法を自分で考える 模範解答はない
勝負 自分でしか出せない知恵、自分の答えを持つ 脳から絞り出す覚悟
独自性を持たない世界一はない 望むは栄光へ到達するための無限の努力
イランの天然真珠産業 御木本幸吉の人工真珠で壊滅し、石油へ舵をきる

 模範解答を探すだけでは問題解決につながらず、かえって致命傷になりかねない時代になりました。イランはもともと天然真珠大国、最初から石油で食べていたわけではありません。御木本幸吉は明治維新の渦中で読み書きソロバンを身につけて飛躍の土台を固めました。海産物が有力な貿易商品になることを見抜き、アワビ・伊勢海老などと併せて天然真珠を扱います。世界の装飾品市場は高額な天然真珠に殺到してアコヤ貝は乱獲から絶滅の危機に直面。事態打開のため “アコヤ貝の養殖” に着手、更に発想を180度転換して “真珠の養殖” を最終ゴールと定めて成功しました。イノベーションを生み出すには時代や環境がイノベーティブであることが大前提。 “日本人だけ・男や女だけ・会社の人間だけ” で固まる世界では得られない世界を学ぶ機会と挑戦。 “肖像画を描く時は完璧に似せてはいけない。似せると命を損なう” といわれるところがミソですかね。

「遊びは仕事、仕事は遊び」
「仕事は学び、学びは仕事」
「学びは遊び、遊びは学び」

 今回とりあげた「遊・献・学」それぞれの4行文は、拙書「ビジネス梁塵秘抄(一)~(八)」(全10巻)から抽出したものです。次回以降も「遊・献・学」から各々4行文を一つずつ抽出してご紹介していきたいと思います。

「ビジネス梁塵秘抄」購入ご希望の方はこちらからどうぞ!
http://www.syplus.jp/ooura/

(第12回了)

 

大浦勇三(おおうら ゆうぞう) プロフィール

大浦勇三(おおうら ゆうぞう)  

大浦総合研究所 代表 (http://www.mmjp.or.jp/ooura/

石川県七尾市出身。
早稲田大学卒業、筑波大学大学院修了。
米国経営コンサルティング会社 アーサー・D・リトル 主席コンサルタントを経て現職。
主担当領域は、経営改革/企業再生、経営戦略/情報通信技術戦略策定、業務改革/組織改革、研究開発/商品開発マネジメント、マーケティングマネジメント、ナレッジマネジメント、イノベーションマネジメント、サプライチェーンマネジメント、人材マネジメント、コーチング/メンタリング、プロジェクト/プログラムマネジメント、ベンチャービジネス支援等のコンサルティング。

筑波大学大学院講師、城西国際大学客員教授、名城大学講師、産業能率大学講師、中小企業大学校講師などを歴任。

主な著作物:

  • 「ビジネス梁塵秘抄(一)~(八)」<全10巻>(大浦総合研究所:PDF版)
  • 「イノベーション・ノート」(PHP研究所)
  • 「ITプロジェクトマネジャーのためのコーチング入門」(ソフトリサーチセンター)
  • 「図解 日本版LLP/LLCまるわかり」(PHP研究所)
  • 「IT技術者キャリアアップのためのメンタリング技法」(ソフトリサーチセンター)
  • 「よいコンサルタントの見分け方、かかり方」(清話会)
  • 「日本のモノづくり - 52の論点」<共著>(日本メンテナンス協会)
  • 「現場主導型の組織運営とスピード戦略」(日本監督士協会)
  • 「eコミュニティがビジネスを変える」<訳>(東洋経済新報社)
  • 「ナレッジマネジメントが見る見るわかる」(サンマーク出版)
  • 「図解 ナレッジ・カンパニー」(東洋経済新報社)
  • 「ナレッジマネジメント革命」(東洋経済新報社 )
  • 「図解 グローバル・スタンダード革命」(東洋経済新報社)
  • 「業務改革成功への情報技術活用」(東洋経済新報社)
  • 「情報化戦略と投資評価・システム運用管理の実際」<編著>(企業研究会)
  • 「会社改革実務辞典」<共著>(産業調査会)
  • 「プロジェクトマネジャー(PM)の育成・スキルアップのためのメンタリングの進め方と実践法」 (ソフトリサーチセンター:CD-ROM版)   など
3月 10 14

中小経営のニッチから国際化へ(第6回)

by staff

デジタルハリウッド大学大学院/NVD株式会社 松本英博

1.自社製品やサービスの探索、育成、成長

 前回 のコマ大戦は、製造業の分野での協業や共創のきっかけにはなるものの、それ自身、自社の新しい商品やサービスになることは稀であろうと思います。

表 1 コア・コンピュタンス (『図解入門ビジネス 事業計画書の読み方と書き方がよ~くわかる本(第2版)』より)

 何れにしても方法論として自社の新製品、新サービスを探索することは、ニッチ市場であれば必須であると言えます。

 そのヒントとして、4つのコア・コンピュタンスの類型を見てみましょう。以下の表は確かに基本的で自社の商品やサービスの探索には当たり前すぎるとお思いでしょう。しかし、これらの4つの類型は、1つの商品やサービスの中で埋もれている場合もあるのです。

 例えば、電気事業はどうでしょうか。エジソンが電球を実用化する以前に、発電機や送電線、モーターや発熱器などがあり、これらを統合して初めて電気エネルギーとして使え、電気を供給するというサービスになるわけです。彼は、電球を商品化するよりも、電気事業を目指していました。言い換えれば、電気エネルギーを消費することで付加価値をえることを提唱したのです。電気を供給するというサービスはあくまでも、電気を生み、運び、消費させるサイクルを提供するものですが、彼の新規事業は、このサイクルを早く、大きく、広範囲に拡げるモノであれば、どんなものでも開発に着手し、更に言えば、他社の製造を譲ってまでも、このサイクルを拡張することが重要だったのです。ゼネラル・エレクトリック(GE)は、こうして電球や家電の会社ではなく、電気事業を営むためのシステムそのものを売ることを目指したのです。その技術は、航空機や船舶の発電機やジェットエンジンの開発までも広がったのです。

 ニッチと思われる商品やサービスが、将来は、成長し展開するというのは、ある意味で夢物語です。しかし、夢物語があったからこそ、それに向かって技術やサービスの品質を上げていくことに乗り遅れては事業にはなりません。

 「下町ロケット」で有名なH2Aロケットが先月28日に無事打ち上げを成功させました。この打ち上げには大手企業も参画していましたが、多くはニッチなニーズをくみ取り支えてきた中堅企業です。まさに、日本の誇る国産ロケットH2Aは実は「下町」製なのです。生産現場を支えてきたのは、多くは夢であり、それを実現するために挑戦し、コア技術を体得した中小企業です。他国が、事故原因を調べずに発射させることに対して、徹底して見直しをしなければもう一度発射させないという姿勢が日本の技術水準の高さを保持してからだといわれています。

 そこで、4つの類型にあるように、既存の自社製品やサービスはなぜ買ってもらっているのか、といった自己分析が重要になります。エジソンは電球の実用化に心血を注いだのは、光源として安定することが、当時のランプやロウソクの火よりも劣っていたからです。しかし、性能が安定すれば、ランプやロウソクを使ってはいけない場所や安全が確保できないニッチな場所にも売れ、さらにそのような特殊な環境でも使えると分かれば普及すると考えたからです。

 次に、安定光源としての電球が開発できても、その機能を保障するには、材料や部品の品質、コスト、供給が必要となります。これらの保障には、ニッチであっても一定の需要がないと、品質、コスト、供給を満足させることができないというジレンマがあります。つまり、ニッチであるからこそ、必ず自社の商品やサービスを使ってもらうことこそが、自社のコア・コンピュタンスを育成する原動力になります。最近は、H2Aロケットなどのように国策でこのニッチ需要を押し続けることで、最初の事業サイクルを回そうとしています。しかし、このサイクルが回っている間に育成する技術やサービスのコアを固めなければ、独立事業として成長することは不可能です。

2.新規事業のブート

 既存事業を動かしながら、新規事業を立ち上げる(ブートする)ことは並大抵ではありません。それは経営資源、つまりヒト(人員、工数)、モノ(設備、ソフト)、カネ(予算)、情報(顧客のニーズ情報や業界情報)が少ないばかりか目処が立たないのが現実です。

 しかし、ニッチ市場であっても「情報」でニーズの大きさが確認できるなら、ヒト、モノ、カネを調達する決心が必要です。つまり、リスクを取らねばならないのです。次回に詳細には述べますが、資金調達をおこなうためにも事業計画をしっかり立てれば、投資、融資あるいは助成金の獲得の目処が立ちます。

※さて、別のビジネス・コラムの「創造方程式」による発想のトレーニングがしたいというなら、参考に拙著「ヒット商品を生み出すネタ出し練習帳」をどうぞ。

次回の予告

新規事業のブートをついて考えていきます。

松本英博 プロフィール

 

松本 英博(まつもと ひでひろ)

デジタルハリウッド大学大学院 専任教授/NVD株式会社 代表取締役
一般財団法人 BCi戦略研究所 理事

 京都府出身。18年にわたりNECに勤務。同社のパーソナルメディア開発本部で、MPEG1でのマルチメディア技術の開発と国際標準化と日本工業規格 (JIS)化を行い、MIT(マサチューセッツ工科大学)メディアラボで画像圧縮技術を習得のため留学。帰国後、ネットワークス開発研究所ではWAPや i-モードなどの無線インターネットアクセス技術の応用製品の開発と国際標準化を技術マネジャーとして指揮。

 NEC退社後、ベンチャー投資会社ネオテニーにおいて大企業の新規事業開発支援、社内ベンチャーの事業化支援を行い、2002年9月にネオテニーから分離独立し、NVD株式会社(旧ネオテニーベンチャー開発)を設立、代表取締役に就任。大手企業の新規事業開発・社内ベンチャー育成などのコンサルティング 実績を持つ。

 IEEE(米国電子工学学会)会員、MIT日本人会会員。神奈川県商工労働部新産業ベンチャー事業認定委員、デジタルハリウッド大学大学院 専任教授、現在に至る。

 

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